『歎異抄』における善悪を超えた境地
以前に「悪人正機」の悪人とは我々のことであるで書いたように、私たちは善を行いたいと願っていながらも、善を行うことはできないのでした。
その理由は、第一に、わたしたちはしばしば欲望に負けて悪をおかしてしまうからでしたーー「考えてごらんなさい。この世において煩悩や悪障をすっかり断ってしまうのはたいへんむずかしいので、真言や法華を行ずる清い坊さんですら、即身成仏とか六根清浄とかいいながら、やはり来世において悟りを開こうと祈るのであります」(『歎異抄』第十五条、梅原猛訳、講談社文庫、以下の引用も同書による)。
第二に、わたしたちは動物を殺して食べるなど、生きているかぎり悪を行わなければならないからでしたーー「また、海や川に網を引き、釣りをして魚をとって世を渡る人々も、野や山に獣を追い、取りを殺して命をつなぐ人々も、商いをしたり田畑を耕して生活をしている人々もみんな同じ人間であります」(第十三章)。
第三に、しょせん人間の知恵では、なにが善でなにが悪かがわからないからでしたーー「しかし親鸞上人がおっしゃられるには、『私は善悪の二つについては全く知りません・・・』」(後序)。
そこでわたしたちは、善悪という道徳的な基準を超えたよりどころを見つけなくてはならなくなります。そのような境地はひとつだけではなくいろいろあるのでしょうし、どれが優れていてどれが劣っているというものでもありません。ここで浄土真宗が提案するのが、「阿弥陀さまの悪人救済という本願を信じて、ただ念仏をすることによって、極楽往生を遂げる」という考え方です。それが科学的に正しいかどうかを論じるのはナンセンスなのであって、おそらくは正しくないのでしょうけれど、試しにそう考えたばあいにどういう心境になるかが大切なのです。宗教的な考え方は、家を建てるときの足場のようなものです。足場を使って家を建てるけれども、家が建ってしまえば足場は不要になり、取り壊してしまいます。阿弥陀さまが・・・という考え方も、それによってもたらされる境地が大切なのであって、その境地が得られれば、そういった考えにこだわる必要もないとぽん太は思うのです。
ではその境地とはどういうものか・・・ということになりますが、それを言えれば苦労はないのですが、そういった境地は言葉では言い表せないものでしょう。しかしあえて言えば、善悪といった道徳的、理性的な判断を捨て、大いなるものによって生かされていることをつねに感じつつ、自分があれこれと作為することをやめる、「自分」と「作為」とを同時に消し去るような境地でしょうか・・・。人間という存在のいたらなさを少し恥じて悲しみつつも、それを許して慈しむような心持ちのような気がします。
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