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2005年2月の7件の記事

2005/02/28

2月だけ28日なのはアウグストゥス皇帝のわがままのせい

 今日は2月28日です。みなさんは、なぜ2月だけが28日なのか疑問に思ったことはないですか。おまけに閏年があったりして、2月だけほかの月に比べてしいたげられているように思えます。そこでぽん太が調査した結果をご報告いたします。

 われわれが現在使っているのはグレゴリオ暦と呼ばれるものですが、その元になっているのは紀元前8世紀頃のローマで使われていた「ロムルス暦」です。この当時、冬は寒くて農作物も育たず、人間の活動が営まれていなかったため、月の名前がありませんでした。ですから1年はMarchから始まる10ヶ月間でした。9月のSeptemberが英語のsevenの語源で7を意味するseptemからきており、10月のOctoberは8本足のタコをoctopusというように8を意味するocotoから、11月のNovemberはnineの語源で9を意味するnovemから、Decemberは10を意味するdecemからきています。このように現在の暦で月の名前とそれが意味する数字が2つずれているのは、1年が、現在の3月であるMarchから始まっていたからです。
 紀元前8世紀頃のローマ皇帝ポンピリウスの時代に新たに「ヌマ暦」が制定され、冬の期間にも月の名前が付けられました。ところがヌマ暦は月の満ち欠けを基準に作られていたため、355日で12ヶ月が終わってしまい、Februaryのあとに閏月を入れることで調整していました。この時期に、「Marchの前で調整」という習慣ができたのですね。
 ところがこの調整を怠っていたため、暦と現実の季節のあいだにだんだんとズレが生じてきて、シーザーがローマ皇帝になったころには、暦が実際の季節よりも2ヶ月以上も進んでいたそうです。そこでシーザーは紀元前46日に「ユリウス暦」を制定しました。ユリウス暦では奇数番目の月が31日、偶数番目の月が30日という規則的ですっきりしたものでした。ユリウス暦ではJanuaryが1年のはじめとなったのですが、昔の名残でFebraruaryを通常は29日、閏年は30日とすることで1年の日数を調整しました。また、これまで7番目の月は数字の5を意味するQuintilisと呼ばれていましたが、自分の名前ユリウスをとってJulyと変更しました。
 その後皇帝になったアウグストゥスは、自分の名前も月の名前に入れたくなり、6を意味するSextilisと呼ばれていた8番目の月をAugustとしました。それだけならよかったものの、自分の月が30日しかない小の月だったのをいやがり、31日の大の月にしてしまいました。そしてバランスをとるために9番目以後の月の30日と31日を逆にしたのです。その結果2月は1日足りなくなって、普段は28日、閏年は29日となってしまったのです。これが現代に受け継がれています。
 何で7月と8月が続けて31日ある大の月なのか、そして2月だけ28日しかないのか、それはどちらもアウグストゥスのわがままのせいだったのですね。

 詳しく知りたい方は、国立天文台のホームページの「1月1日はどうやって決まったの?」「どうして2月だけ28日しかなくて、日数が変わるの?」、あるいは「かわうそ@暦」さんの「こよみのページ」のなかの「2月だけ28日になったわけ」というページをご覧下さい。ぽん太が書いたことは、これらのページに書かれていることをまとめたものです。

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2005/02/26

精神科通院医療費公費負担制度(32条)はどうなるのか

 精神保健福祉法32条の精神科通院医療費公費負担制度が今後どうなるのか、いろいろとうわさが飛び交っておりました。
 今後の障害者福祉に関しては、厚生労働省の社会保障審議会の障害者部会(議事録はこちら)で、精神・身体・知的障害という三障害に共通の法律を作り、その上にそれぞれの障害の特殊な部分を個別に規定するという、二階建ての法整備が検討されてきました。これがいわゆるグランドデザインと呼ばれるもので、平成16年10月25日の会議の資料として配布されています。
 これまで精神障害者福祉は身体・知的に比べ遅れておりましたので、三障害が共通に扱われることはうれしいような気がしますが、政府はしばしば統合するとき「遅れている方に合わせる」ことがあるので、注意が必要です。
 こうした議論のけっか2005年2月10日、通常国会に障害者自立支援法案が提出されました。ぽん太は行政や法律に詳しくないので、こういった文書を読み解くのは苦手ですし、関係者からの口コミ情報があるわけでもありません。でも、ぽん太ができるる範囲で読んでみて、わかりやすくQ&A方式で説明したいと思います。違ってるかもしれないけど許してね。

Q 32条はなくなるのでしょうか?
A はい、なくなります。障害者自立支援法の第47条で、「第32条を次のように改める。第32条 削除」と書かれています。

Q では、通院医療費の公費負担はなくなるのですか?
A いえ、なくなりません。障害者自立支援法で三障害共通の「自立支援医療費」に置き換えられるのです。

Q それを聞いて安心しました。でも、現在の5%よりも自己負担率が上がるのではないですか?
A 残念ながら、障害者自立支援法第58条の3によれば患者さんの自己負担率は基本的には10%に引き上げられるようです。5%が10%になってもたいしたことがないように思えるかもしれませんが、「いままでの倍」になるのですから大変です。

Q それは大変です。所得や病状によって、自己負担が少なくなる制度はないのですか?
A あるようです。障害者自立支援法第58条の3に、家計への影響や障害の状態を考慮して、「政令」によって自己負担額を減額したり、さらに厚生労働大臣が変更したりできると書かれています。しかし具体的な内容は障害者自立支援法には書かれていません。
 そこで今回の法案のもとになっている社会保障審議会障害者部会(第23回)(平成16年12月27日)の資料3 費用負担に関する考え方を見てみましょう。縦に長いページですが、真ん中から少し下あたりから、公費負担医療制度の説明が始まります。「医療費と所得に着目した自己負担」、「制度改正案の概要」、「モデル的な利用者の負担(精神通院)」といった項目が参考になります。これによると「所得」と、障害が「重度かつ継続」かどうかという、ふたつの基準から判断されるようです。
 まず生活保護世帯では、これまで通り無料です。
 住民税非課税世帯は10%の負担となりますが、収入によって支払額の月額の上限を2500円、あるいは5000円とするようです。住民税非課税となるのは、たぶん年間の所得が130万くらいだと思います。正確な数字はわからないのでごめんなさい。ただここで気になるのは住民税非課税「世帯」とある点です。障害者個人の所得ではなく、障害者を含む世帯の所得なのです。これまで32条の5%負担分に対する東京都の補助などは「障害者本人」の所得で判断していましたが、今度は「障害者を含む世帯」の所得で判断されることになります。
 住民税課税世帯のばあい、障害が「重度かつ継続」の場合は10%負担となりますが、支払額の月額の上限は世帯の年間所得に応じて1万円や1万5000円(図の数値がまちがって5000円となっているので注意)となります。ここで何が「重度かつ継続」なのかが問題となりますが、当面は「統合失調症、躁うつ病(狭義)、難治性てんかん」であり、「実証的な研究結果を踏まえ対象の明確化等を図る」と書かれています。
 住民税課税世帯で障害が「重度かつ継続」でないばあいは、原則として自立支援医療費は使えず、健康保険のみで30%の自己負担です。世帯の所得税額が30万円以下(およそ課税所得が年間200万円)のばあいは経過措置があるようですが、「段階的縮小」と書かれています。所得税額30万円以上のばあいは当初から30%です。
 (2005.4.19追記:あらたな情報をもとに、自立支援医療費を判定する記事をアップしました。)

Q 受給資格がせばめられるといううわさもありますが。
A 上で述べたように、住民税課税世帯(年間課税所得が約130万以上)のばあい、障害が「重度かつ継続」なものに限られます。具体的には、「統合失調症、躁うつ病(狭義)、難治性てんかん」などと書かれています。実際にどうなるかはわかりません。
 住民税非課税世帯ではこうした制限は書かれていませんが、これまでよりは範囲が狭められる心配はあります。

Q これまで東京都や市町村が負担してきた、住民税非課税者に対する5%分はどうなるのでしょう。
A どうなるのかぽん太にはわかりません。

Q いつから変更になるのですか?
A 障害者自立支援法案では、平成17年10月から、つまり今年の10月からとされています。

Q ぽん太先生は、この変更についてどう思いますか?
A これまでの32条の適応範囲はあまりに広すぎました。軽症のうつ病やパニック障害の患者さんにも適応されてきました。もう少し範囲を狭めてもいいと思います。それから「まったく無料」というのも問題があり、なかには無料をいいことに週に何度も来院したり不必要な多くの薬を要求する患者さんもおり、ある程度のコスト意識を持つことは大切だと思います。
 しかし障害を抱えながらがんばっている多くのひとたちがいるのは事実であり、そうしたひとたちは社会で支えていかなければなりません。今回の法案は名前からして障害者「自立」支援法案となっていますが、障害者福祉を「自立」という観点だけから一元的に見るのは間違っていると思います。福祉の切り捨てにならないように注意し、発言してく必要があります。
 また、現在の制度は手続きが煩雑すぎます。更新のたびに2枚も3枚も書類を出し、転居したり保険証が変わったりするたびに届けを出すのは、医師にも患者さんにも負担です。なんとかしてほしいものです。

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2005/02/21

内田樹『死と身体ーーコミュニケーションの磁場』を読む

 著者は現代思想家レヴィナスの研究者にして合気道家であり、この本で扱われているのは身体、他者、倫理といった問題です。なんでこの本が「医学」書院の「シリーズ ケアをひらく」の一冊なのか、ぽん太には理解できません。医学書院の編集者の非常識、いえ、常識を超えたユニークさを讃えたいと思います。
 医学書院の「シリーズ ケアをひらく」から、ぽん太は以前に『べてるの家の「非」援助論』について書いたことがあります。この本もかなり「非」常識(褒めことばとして)でしたが、こんかい取り上げる内田樹(たつる)『死と身体ーーコミュニケーションの磁場』(医学書院、2004年)は、それにも増して「非」常識です(褒めことばとして)。あとがきで内田自身が「もちろん私は医療も介護も福祉も、どの領域についても門外漢である」(242ページ)と書いています。でも実際に読んでみると、難しい現代思想の本ではなく、とてもわかりやすくユニークな視点に満ちた面白い本です。

 内田は、現代の若者は「むかつく」に代表されるように語彙が少なく、また表情の変化が乏しいと言います。一方で教育テレビの討論番組に出てくるまじめな若者の会話も「気持ち悪い」と言います。「『しゃべり場』を見ていて、ぼくが気になったのは、この子どもたちに、「ためらい」「言いよどみ」「つかえ」というような言語の機能不全がほとんど見られないことです」(94ページ)と内田は言います。「むかつく」としか言えない若者も、饒舌によどみない議論を交わす若者も、どちらも「複雑」なものを「単純」にしかとらえられない点では同じなのです。では人間に複雑さを生み出すものは何なのか。それは「身体」であるというのが武道家である内田の主張です。現代人は「脳」に生きており、「身体」は「脳」の道具にすぎないと考えています。援助交際や自傷行為も、「身体」を「脳」の道具であり奴隷であると考えているからこそできるものです。「脳」は単にインプットされた情報をアウトプットするだけであり、それが証拠に「大学一年生に好きなテーマでレポートを書かせると、驚くほど型にはまって」(74ページ)います。「自分の身体に敬意を払う」(61ページ)ことが大切です。
 これを読んでぽん太が思ったのは、サラリーマンの過労によるうつ病です。彼らは、自分の「脳」が思う通りに「身体」が働くのが当たり前だと思っています。そうできるように、小さい頃から訓練してきているのです。その結果、疲れやストレスを受けて「身体」が悲鳴をあげていても、それを聞くことができない。そのような「身体からのメッセージ」を無視する訓練を受けており、そうすることが優れたことだと考えているのです。そのけっか彼らはうつ病になってしまうのですが、彼らは原因を聞かれても「特にストレスはありませんでした」と答えるのです。デカルトの時代、人間は「時計」のようなものだと考えられていました。次に人間は、「蒸気機関」のようなものだと思われました。現代では人間は「コンピューター」のようなものだと思われていますが、それは時代的に限定されたきわめて一面的な考え方です。

 次にぽん太が着目するのは、内田の「時間」に対する考え方です。武道で「先を取る」という言葉がありますが、これは相手の一歩先の動作をし、相手が自分の動作の一瞬あとをついてくるような状態です。こういったことができるのは、武道の達人は自分を「未来」の状況に置き、その「未来」に対する「過去」として「現在」を捉えているからです。時間が過去から未来に向かって一様に流れるというのは、科学的因果論に毒された「単純」な考え方です。内田によれば、フロイトの精神分析も、トラウマという「過去」の時間にとらわれた患者を転移によって「未来」の時間に導く「先を取る」行為ということになります。またラカンは、被分析者は分析家に対して「前未来形」で語ると言っています。前未来形というのはフランス語独特の自制で、未来の時点において完了している動作や状態を示すもので、「明日の午後にわたしはこの地を離れているだろう」というような文がそれにあたります。つまり被分析者は、自分が語り終えたときに「分析者に承認された自分」という未来を目指し、それに対する過去として自分を語るのです。
 ぽん太は、未来の自分の過去として現在をとらえるという考えには同意しますが、内田がそれを精神分析に結びつける仕方にはちょっと疑問を感じます。

 最後は「他者」です。「他者」というのは哲学の重要な概念ですが、簡単に言えば自分とは異なる何かです。内田によれば、ジョン・ロック、トマス・ホッブス、ジャン=ジャック・ルソーなどが唱えた近代市民社会の倫理は、「すべての市民は本質的に同質である。全員がお互いを共感しあったり理解したりできる」(173ページ)という前提に立っています。これはとてもすばらしい考え方のように思えますが、一方では、自分が全く理解できず、全く考え方も価値観も異なるひとがいるのだということ否定することになります。こうした考えのひとにとって、他者(=理解できないひと)は「劣ったひと」とみなされます。こういうひとたちが「善意」に基づいてやることは、アメリカがイラクをはじめ世界中で行っていることを見ればよくわかります。アメリカにとって世界は同質であり、したがってイラクはアメリカより劣った国なので、善意で民主主義というものを教えてあげることになるのです。いっぽう内田が専門としているレヴィナスという思想家はユダヤ人であり、アウシュヴィッツで家族や親戚のほとんどを失っています。だからレヴィナスにとって「他者」とはまったく理解し得ないもので。理解し得ない異質なものとどうやってコミュニケーションをとるかということが、レヴィナスの問題意識なのです。
 ぽん太はこれを読んで、自分の「障害者」に対する態度を少し反省しました。

 このほかにも「倫理」や「死者」といったことも取り上げられていますが、興味がある方はぜひこの本を読んでみてください。

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2005/02/19

ニーチェと仏教

 ぽん太は前回の記事で、「では、『超人』や『永遠回帰』という『足場としての考え方』を用いることで、われわれは何を得られるのでしょうか?」という問いをたてました。しかしそれに答えることは、詳細に『ツァラトゥストラはこう言った』を読解することであり、一介の精神科医にすぎないぽん太の手に負えるものではありません。そこで以前に取り上げた『歎異抄』と比較しながら、ぽん太が気になったいくつかのポイントを述べるにとどめたいと思います。
 『ツァラトゥストラはこう言った』でも『歎異抄』でも善悪を超えた境地が書かれていますが、両者はどれほど違うことでしょう。前者に描かれている人間は、力強く自信に満ち、自己を肯定し、崇高です。誰にも理解されずとも孤高の精神を保ち、旧来の価値観にとらわれた民衆を「賤民」として軽蔑します。『歎異抄』に書かれている人間は、むしろ自分がニーチェのいう「賤民」であることを認め、自分の作為を捨て、仏の力にすべてを委ねることで成仏することを願います。超人は人間が進化してやがて誕生する存在であり、人間は超人のために自己を犠牲にし、没落していかなければなりません。『歎異抄』では、そのひと自らがやがて仏となり、人びとを救うと考えます。
 道徳に基づく善悪というものは、人間初級レベルなのだと思います。道徳に従えば、それなりのよい人生を送れるものの、いっぽう道徳はさまざまな矛盾をかかえており、さらに高いレベルを目指す者には足かせとなります。善悪を超えるということは、人間中級レベルに踏み込むことです。人間中級レベルは、けっして平和で安全な世界ではありません。道徳レベルでは達成しえないすばらしい魂のあり方に到達できる一方、筆舌を尽くしがたい悪をも起こしえるのです。ニーチェの思想もナチスドイツに利用されましたし、仏教の名のもとにオウム真理教が大量殺人を行ったことも忘れることはできません。善悪を超えたところで、ひとはその本性を問われることになるのです。
 ところでぽん太は、ニーチェの永遠回帰は仏教の輪廻転生と同じなのだと思っていました。ご存知のように仏教の輪廻は、生き物が死んだのちにまた別の生き物として生まれ変わることを意味します。ですからタヌキであるぽん太が死んだのちに、次は人間として生まれ変わったりするわけです。しかしニーチェの永遠回帰は、生まれ変わりではなく、現在のこの瞬間がそっくりそのまま何度も永遠に繰り返されることです。ぽん太がココログを書くこの瞬間は、すでに無限回繰り返されたことであり、今後も無限に繰り返されることなのです。「わたしは、永遠にくりかえして、細大洩らさず、そっくりそのままの人生に戻ってくるのだ。くりかえしいっさいの事物の永遠回帰を教えるためにーー」(氷上英廣訳、岩波文庫、下139ページ)。ニーチェは、この瞬間が永遠に繰り返されるとして、それを肯定できるような生き方を要求します。
 『ツァラトゥストラはこう言った』はこのへんで終了し、次に『善悪の彼岸』に移る予定です。さらに精神科医のぽん太としては、ニーチェの精神病は何だったのかという点にも興味が生まれてきました。梅毒だったとも言われていますが、そうでないという説もあるようです。

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2005/02/15

『ツァラトゥストラはこう言った』は橋であり、移りゆきである

 前回の記事でぽん太は、次のような問いをたてました。
 「では、超人とはどんなひとなのでしょうか? そして人間のあるべき姿とは何なのでしょうか? またツァラトゥストラはとはどういう人物なのでしょうか?」
 しかし、『ツァラトゥストラはこう言った』(氷上英廣訳、岩波文庫)を読み込んでいったところ、こうした問いのたて方自体が間違っていることに気づきました。まず、「超人」がどういう存在なのかは、ほとんど書かれていません。超人への架け橋となるために人間がどうあるべきか、どうであってはいけないかは書いてありますが、超人とはどういうものかは書かれていないのです。考えてみれば当たり前で、人間へと進化する猿が、人間とはどういうものかを知っているはずはありません。同じように人間が超人を知っているはずはないのです。ニーチェの解説書を読むと、よく「超人とはこういうものだ」と書かれていますが、それはウソであることがわかりました。本書に描かれているのは、超人への架け橋となるために、人間はどうあるべきかということです。
 しかも「超人」という概念は、本書の前半で出てくるものの、後半にいくに従って論じられなくなってきます。後半に出て来る「永遠回帰」は、同じ瞬間が永遠に何度も繰り返されるという考え方ですから、そうしたら人間はいつまでたっても超人に進化できないことになり、矛盾していてわけがわかりません。ぽん太は「『歎異抄』における善悪を超えた境地」で、「宗教的な考え方は、家を建てるときの足場のようなものです。足場を使って家を建てるけれども、家が建ってしまえば足場は不要になり、取り壊してしまいます」と書きました。『ツァラトゥストラはこう言った』は宗教書ではありませんが、「超人」という考え方は(そして「永遠回帰」という考え方も)、「足場としての考え方」であると思います。本書は決して論理的、体系的に書かれた本ではありません。思索を進め深化させていく過程を描いた本です。ツァラトゥストラは「人間における偉大なところ、それはかれが橋であって、自己目的ではないということだ。人間において愛さるべきところ、それは、かれが移りゆきであり、没落であるということである」(上19ページ)と言っています。『ツァラトゥストラはこう言った』という本そのものも、橋であって、移りゆきであるとぽん太は思います。
 では、「超人」や「永遠回帰」という「足場としての考え方」を用いることで、われわれは何を得られるのでしょうか?

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2005/02/14

ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読む

 『歎異抄』を読んで善悪を超えた境地に関心を抱いたぽん太は、ニーチェに『善悪の彼岸』という本があるのを思い出しました。しかしそれを読む前に、ニーチェについての予備知識を得るため、代表作である『ツァラトゥストラはこう言った』(氷上英廣訳、岩波文庫)を読んでおくことにしました。
 ニーチェといえば「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか〜、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか〜。み〜んな悩んで大きくなった!」という野坂昭如の歌で有名である(え?誰も知らない?)。
 ニーチェは1844年生まれのドイツの哲学者で、「神は死んだ」という言葉は有名ですね。しかし1900年にニーチェが死去したとき、神がここぞとばかり「ニーチェは死んだ」と言ったとか、言わないとか……。後年は梅毒におかされて精神に変調を来したこともあって、精神科にかかわりがないわけではありません。『ツァラトゥストラはこう言った』が書かれたのは1883年から1885年にかけてのようです。
 この本は「超人」と「永遠回帰」の二つの主題を持つと言われています。
 ニーチェはキリスト教的な道徳(つまり善と悪)を否定します。ではわれわれは、何によりどころを見いだせばいいのでしょうか。ニーチェによれば、人間の存在意義は、やがて地上に「超人」が現れるための架け橋となることだと言います。「人間は、動物と超人のあいだに張りわたされた一本の綱なのだ……」(上18ページ)。ダーウィンの『種の起原』が出版されたのは1859年ですから、ニーチェの思想には進化論の影響があるのかもしれません(ぽん太は無知なので事実関係は知りませんが)。つまり猿が進化して人間になったように、人間もやがて進化して超人となる。人間は欠点だらけのくだらない存在だが、超人に進化するための踏み台だと考えれば、存在意義が見いだされるだろう、という感じでしょうか。
 では、超人とはどんなひとなのでしょうか? そして人間のあるべき姿とは何なのでしょうか? またツァラトゥストラはとはどういう人物なのでしょうか? それは次の機会に!

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2005/02/05

東京都はちゃんと34条の移送を実施しなさい!

 平成11年6月の「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」(精神保健福祉法)の改正で、第34条に「医療保護入院のための移送」が規定されました。
 これはどういう制度かというと、要するに、医療保護入院が必要な状態でありながら、主治医や家族が説得しても入院を拒否するばあい、「行政の責任」で患者を病院に運んでくれるというものです。
 これはとてもすばらしい制度です。これまでご家族が、患者さんを入院させるためにどれほど苦労してきたか。東京都の救急医療案内「ひまわり」に連絡をしても、何かあったら警察を呼んで病院に連れて行くように言われるだけです(「ひまわり」のひどさについては、そのうち改めて書きましょう)。警察も「事件性」がないと動いてくれません。患者を家族で病院に連れて行こうにも、多くは年老いた家族たちが、入院を嫌がって暴れる患者さんを病院まで連れて行けるわけがありません。民間の警備会社に依頼して連れて行ってもらうという裏技がありますが、これは普通でも数十万円の費用がかかります。この世界で有名な某会社は、ホームページに書かれているように、基本料金が315万円以上です。費用が高額という点以外に、患者さんを精神病院に運ぶという行為が、営利目的の民間企業になじむのか、という問題があります。結局患者さんは適切な治療が受けられずに病状を悪化させることになります。あるいは医者が無診療で薬を処方し、それを家族がこっそり食事や飲み物にまぜで患者さんに飲ませるという、「違法行為」が行われることになります。
 こうした背景で、精神保健福祉法の第34条による移送制度が作られたのです。
 東京都では遅ればせながら平成13年6月1日から移送制度が開始されました。しかし、実際にはほとんど運用されておりません。厚労省の統計の「衛生行政報告例」のなかに「医療保護入院・応急入院及び移送による入院届出患者数,都道府県ー指定都市(別掲)別」というのがあります平成13年度の「移送による入院」のなかの「保護者の同意による入院届出数」と「扶養義務者の同意による入院届出数」を見てみると、東京は両方で2件です。ちなみに全国では203件です。次に平成14年度は、東京都は1件、全国では187件です。最後に平成15年度は東京都はなんとゼロ件、全国は160件です。
 つまり東京都は、法が施行されてもうすぐ6年もたとうというのに、これまで3件しか34条の移送を行っていないのです。石原都知事は東京発医療改革とか言って東京ERを整備したりしており、それはそれで立派ですが、東京都は「精神科の医療では全国的に非常に遅れをとっている」わけです。
 34条の移送制度は、申請があったばあいは直ちに職員が出向いて患者に会い、移送が必要かどうか調査をしなければなりません。そして移送が不要と判断されたばあいは、その根拠や今後の対応を、書類に残さなければなりません。東京都にいったいどれくらいの移送の申請があったのかわかりませんが、6年でわずか3件しか移送の対象者がいないはずはありません。おそらくは「保健所の窓口で申請させないように握りつぶしている」に違いありません。というのも、ぽん太の患者さんのご家族が、保健所に移送を申請しようとしたところ、「患者さんの調査に行ってから実際に移送が行われるまで時間がかかるので、家族が危害を加えられるかもしれない」とか、「遠くの不便な病院に入院になる」とか、ほとんど「脅し」のようなことを言われ、民間警備会社を使って入院させるように勧められたのです。小泉さんの反対じゃありませんが、民間ができることが、何で行政機関ができないのでしょう? あきれてものが言えません。
 「精神障害者の移送に関する事務処理基準について」(平成15年3月31日、障発第243号)には、「都道府県知事は、移送に関する相談を受け付ける体制を整備しなければならないものとする。また、移送制度及び相談の受付窓口について周知に努めるとともに、受付窓口は利用者が利用しやすい体制となるよう配慮するものとする」と書かれています。東京都はやるべきことをきちんとやって欲しいものです。みなさんも、東京都にどんどん圧力をかけましょう。

【関連するブログ内の記事】
「精神障害者の移送に関する事務処理基準について」をアップしました(2007/08/02)
東京都の精神障害者の移送(34条)サボタージュに再びもの申す!(2005/07/02)

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