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2005/02/19

ニーチェと仏教

 ぽん太は前回の記事で、「では、『超人』や『永遠回帰』という『足場としての考え方』を用いることで、われわれは何を得られるのでしょうか?」という問いをたてました。しかしそれに答えることは、詳細に『ツァラトゥストラはこう言った』を読解することであり、一介の精神科医にすぎないぽん太の手に負えるものではありません。そこで以前に取り上げた『歎異抄』と比較しながら、ぽん太が気になったいくつかのポイントを述べるにとどめたいと思います。
 『ツァラトゥストラはこう言った』でも『歎異抄』でも善悪を超えた境地が書かれていますが、両者はどれほど違うことでしょう。前者に描かれている人間は、力強く自信に満ち、自己を肯定し、崇高です。誰にも理解されずとも孤高の精神を保ち、旧来の価値観にとらわれた民衆を「賤民」として軽蔑します。『歎異抄』に書かれている人間は、むしろ自分がニーチェのいう「賤民」であることを認め、自分の作為を捨て、仏の力にすべてを委ねることで成仏することを願います。超人は人間が進化してやがて誕生する存在であり、人間は超人のために自己を犠牲にし、没落していかなければなりません。『歎異抄』では、そのひと自らがやがて仏となり、人びとを救うと考えます。
 道徳に基づく善悪というものは、人間初級レベルなのだと思います。道徳に従えば、それなりのよい人生を送れるものの、いっぽう道徳はさまざまな矛盾をかかえており、さらに高いレベルを目指す者には足かせとなります。善悪を超えるということは、人間中級レベルに踏み込むことです。人間中級レベルは、けっして平和で安全な世界ではありません。道徳レベルでは達成しえないすばらしい魂のあり方に到達できる一方、筆舌を尽くしがたい悪をも起こしえるのです。ニーチェの思想もナチスドイツに利用されましたし、仏教の名のもとにオウム真理教が大量殺人を行ったことも忘れることはできません。善悪を超えたところで、ひとはその本性を問われることになるのです。
 ところでぽん太は、ニーチェの永遠回帰は仏教の輪廻転生と同じなのだと思っていました。ご存知のように仏教の輪廻は、生き物が死んだのちにまた別の生き物として生まれ変わることを意味します。ですからタヌキであるぽん太が死んだのちに、次は人間として生まれ変わったりするわけです。しかしニーチェの永遠回帰は、生まれ変わりではなく、現在のこの瞬間がそっくりそのまま何度も永遠に繰り返されることです。ぽん太がココログを書くこの瞬間は、すでに無限回繰り返されたことであり、今後も無限に繰り返されることなのです。「わたしは、永遠にくりかえして、細大洩らさず、そっくりそのままの人生に戻ってくるのだ。くりかえしいっさいの事物の永遠回帰を教えるためにーー」(氷上英廣訳、岩波文庫、下139ページ)。ニーチェは、この瞬間が永遠に繰り返されるとして、それを肯定できるような生き方を要求します。
 『ツァラトゥストラはこう言った』はこのへんで終了し、次に『善悪の彼岸』に移る予定です。さらに精神科医のぽん太としては、ニーチェの精神病は何だったのかという点にも興味が生まれてきました。梅毒だったとも言われていますが、そうでないという説もあるようです。

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コメント

 水鳥川康紀さま。コメントありがとうございます。
 アジャセ王の話はぽん太はよく知らないのですが、たしか精神分析の小此木啓吾氏が、「アジャヤセ・コンプレックス」という概念を提唱し、西洋のオイディプスコンプレックスとの異同を論じていたように記憶しております。
 ぽん太も親鸞の善悪を超えた境地への関心から、ニーチェへとつながっていきました。両者は似ているところもありますが、ニーチェは高みへと向かうけれど、親鸞は悪人の方へ降りていく違いがあるようにも思えます。
 潜在意識がつながっているという考えは、ユングの考え方ですね。ほんとうかどうかはわかりませんが、すべての人間に共通であるものがあるはずだと思います。でも一方で、けっして理解できない別のものがあることも頭に置いておかなければならないだろうと、ぽん太は思っています。

投稿: ぽん太 | 2005/04/12 22:20

最近、親鸞についてあらためていろいろ本を読んだり考えたりしているうち、絶対他力を体で実感するようになり、たいへん楽になりました。そして、宗教と戦争の問題を考えているうちに、昔読んだ、ニーチェをあらためて見直しています。そして、なんとギリシャ悲劇のオイデイプス王と浄土三部経のアジャセ王の話は似ているのでしょう。おなじインドアーリア族の神話からでているのではないでしょうか。そしてニーチェの徹底したニヒリズムは親鸞の絶対他力の思想と通底しているとおもいました。2人ともその果てに、永劫回帰や無成仏の境地に至っています。おなじように感じている人がいることを知って、不思議というか、潜在意識はつながっているというはなしをききますが。ほんとうなのでしょうか。

投稿: 水鳥川康紀 | 2005/04/04 22:03

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