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2005/02/21

内田樹『死と身体ーーコミュニケーションの磁場』を読む

 著者は現代思想家レヴィナスの研究者にして合気道家であり、この本で扱われているのは身体、他者、倫理といった問題です。なんでこの本が「医学」書院の「シリーズ ケアをひらく」の一冊なのか、ぽん太には理解できません。医学書院の編集者の非常識、いえ、常識を超えたユニークさを讃えたいと思います。
 医学書院の「シリーズ ケアをひらく」から、ぽん太は以前に『べてるの家の「非」援助論』について書いたことがあります。この本もかなり「非」常識(褒めことばとして)でしたが、こんかい取り上げる内田樹(たつる)『死と身体ーーコミュニケーションの磁場』(医学書院、2004年)は、それにも増して「非」常識です(褒めことばとして)。あとがきで内田自身が「もちろん私は医療も介護も福祉も、どの領域についても門外漢である」(242ページ)と書いています。でも実際に読んでみると、難しい現代思想の本ではなく、とてもわかりやすくユニークな視点に満ちた面白い本です。

 内田は、現代の若者は「むかつく」に代表されるように語彙が少なく、また表情の変化が乏しいと言います。一方で教育テレビの討論番組に出てくるまじめな若者の会話も「気持ち悪い」と言います。「『しゃべり場』を見ていて、ぼくが気になったのは、この子どもたちに、「ためらい」「言いよどみ」「つかえ」というような言語の機能不全がほとんど見られないことです」(94ページ)と内田は言います。「むかつく」としか言えない若者も、饒舌によどみない議論を交わす若者も、どちらも「複雑」なものを「単純」にしかとらえられない点では同じなのです。では人間に複雑さを生み出すものは何なのか。それは「身体」であるというのが武道家である内田の主張です。現代人は「脳」に生きており、「身体」は「脳」の道具にすぎないと考えています。援助交際や自傷行為も、「身体」を「脳」の道具であり奴隷であると考えているからこそできるものです。「脳」は単にインプットされた情報をアウトプットするだけであり、それが証拠に「大学一年生に好きなテーマでレポートを書かせると、驚くほど型にはまって」(74ページ)います。「自分の身体に敬意を払う」(61ページ)ことが大切です。
 これを読んでぽん太が思ったのは、サラリーマンの過労によるうつ病です。彼らは、自分の「脳」が思う通りに「身体」が働くのが当たり前だと思っています。そうできるように、小さい頃から訓練してきているのです。その結果、疲れやストレスを受けて「身体」が悲鳴をあげていても、それを聞くことができない。そのような「身体からのメッセージ」を無視する訓練を受けており、そうすることが優れたことだと考えているのです。そのけっか彼らはうつ病になってしまうのですが、彼らは原因を聞かれても「特にストレスはありませんでした」と答えるのです。デカルトの時代、人間は「時計」のようなものだと考えられていました。次に人間は、「蒸気機関」のようなものだと思われました。現代では人間は「コンピューター」のようなものだと思われていますが、それは時代的に限定されたきわめて一面的な考え方です。

 次にぽん太が着目するのは、内田の「時間」に対する考え方です。武道で「先を取る」という言葉がありますが、これは相手の一歩先の動作をし、相手が自分の動作の一瞬あとをついてくるような状態です。こういったことができるのは、武道の達人は自分を「未来」の状況に置き、その「未来」に対する「過去」として「現在」を捉えているからです。時間が過去から未来に向かって一様に流れるというのは、科学的因果論に毒された「単純」な考え方です。内田によれば、フロイトの精神分析も、トラウマという「過去」の時間にとらわれた患者を転移によって「未来」の時間に導く「先を取る」行為ということになります。またラカンは、被分析者は分析家に対して「前未来形」で語ると言っています。前未来形というのはフランス語独特の自制で、未来の時点において完了している動作や状態を示すもので、「明日の午後にわたしはこの地を離れているだろう」というような文がそれにあたります。つまり被分析者は、自分が語り終えたときに「分析者に承認された自分」という未来を目指し、それに対する過去として自分を語るのです。
 ぽん太は、未来の自分の過去として現在をとらえるという考えには同意しますが、内田がそれを精神分析に結びつける仕方にはちょっと疑問を感じます。

 最後は「他者」です。「他者」というのは哲学の重要な概念ですが、簡単に言えば自分とは異なる何かです。内田によれば、ジョン・ロック、トマス・ホッブス、ジャン=ジャック・ルソーなどが唱えた近代市民社会の倫理は、「すべての市民は本質的に同質である。全員がお互いを共感しあったり理解したりできる」(173ページ)という前提に立っています。これはとてもすばらしい考え方のように思えますが、一方では、自分が全く理解できず、全く考え方も価値観も異なるひとがいるのだということ否定することになります。こうした考えのひとにとって、他者(=理解できないひと)は「劣ったひと」とみなされます。こういうひとたちが「善意」に基づいてやることは、アメリカがイラクをはじめ世界中で行っていることを見ればよくわかります。アメリカにとって世界は同質であり、したがってイラクはアメリカより劣った国なので、善意で民主主義というものを教えてあげることになるのです。いっぽう内田が専門としているレヴィナスという思想家はユダヤ人であり、アウシュヴィッツで家族や親戚のほとんどを失っています。だからレヴィナスにとって「他者」とはまったく理解し得ないもので。理解し得ない異質なものとどうやってコミュニケーションをとるかということが、レヴィナスの問題意識なのです。
 ぽん太はこれを読んで、自分の「障害者」に対する態度を少し反省しました。

 このほかにも「倫理」や「死者」といったことも取り上げられていますが、興味がある方はぜひこの本を読んでみてください。

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