ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』を読んでみた
ドゥルーズは、永遠回帰とは、けっして「同一なもの」が回帰するのではないという。
2005年2月19日の「ニーチェと仏教」という記事で、ニーチェの『善悪の彼岸』を読むことを思いっきり宣言したぽん太ではありましたが、あえなく挫折しました。ぽん太の「狸脳」では理解不能なようです。
そこでぽん太は、わかりやすいと有名なジル・ドゥルーズの『ニーチェ』(湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫、1998年)を読むことにしました。さながら「ニーチェ読本」というおもむきの本で、ニーチェの生涯や哲学が簡潔にまとめられ、そのあとにニーチェの著作からの抜粋が掲載されています。ニーチェの思想がドゥルーズの「力」、「多数性」、「生成」といった概念と関連づけられて述べられており、同じニーチェを読んでも、読む人が読むと理解の深さが全然違うんだな〜と思いました。
ぽん太は「ニーチェと仏教」で、ニーチェの永遠回帰とは、まったく同一のものが永遠に繰り返されることであると書きました。だって、『ツァラトゥストラはこう言った』にそう書いてあったんだもん。しかしドゥルーズ先生は本書で、「従って<永遠回帰>を、<同一なもの>の回帰とすることは、どうしても避けねばならない」(64ページ)とおっしゃっております。もちろんドゥルーズ先生も、「しかしながら多くのテクストのなかで、ニーチェは<永遠回帰>を一つのサイクルとして、つまりそのうちでは一切が回帰し、<同一なるもの>が回帰するサイクル、そして同一なものへと回帰するサイクルとして考えている」(68ページ)ということは認めております。しかしニーチェは思想を「劇に仕立てる」思想家であって、同一なものが回帰するような書き方をしている部分もあるが、ほかの部分では別の書き方をしている。ニーチェの哲学者としての寿命がさらに長かったなら、もっと多くの説明がなされたであろう、と言っております。
ドゥルーズによれば、一切が回帰するという考え方は陳腐でおぞましい仮説にすぎず、『ツァラトゥストラはこう言った』のなかでもそのように扱われている。永遠回帰は、道徳としては、「何を欲するにせよ、それが永遠に回帰することも欲するようなしかたで欲せよ」というものであり、善悪というニヒリズムの道徳を超えたレベルでの、生き方の指針を与えるものです。また永遠回帰の過程で、すべての否定的なもの、ニヒリズム、やましい心、怨恨などは追い払われ、肯定的なもの、超人へとつながるものだけが残される。けっきょく「ニーチェの独特の秘密は、<永遠回帰>とは選択的である、ということである」(66ページ)、なんだそうです。
そりゃそうだ。まったく同一のものが延々と繰り返されるのでは、おもしろくもなんともないものね・・・とぽん太は素直に納得したのである。
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