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2006/01/24

無量寿経を読んでみたが……

 飛行機のなかではお経を読むことに決めているぽん太ですが、こんかいのギリシア旅行では「無量寿経」を読んでみました。無量寿経は、観無量寿経、阿弥陀経とともに浄土三部経と呼ばれ、浄土教の根本経典です。ぽん太が読んだのは『浄土三部経(上)』(中村元等訳注、岩波文庫、1963年)に収録されているもので、サンスクリット語からの直接訳に、漢訳とその読み下し文が付いています。
 日本で信仰されている浄土教には、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗などがあります。基本的には、念仏によって阿弥陀仏の極楽浄土に生まれ変わり成仏するという教義です。その際、自分の努力や修行によるのではなく、衆生を救いたいという阿弥陀仏の力に一切をゆだねるという「他力本願」という考え方が重要になります。浄土真宗では、南無阿弥陀仏という念仏を唱えるだけでで救われると考えます。また浄土真宗の「悪人正機」という考え方は、「善人すら極楽浄土に行けるのだから、悪人が極楽浄土に行けるのは当然である」というもので、すばらしい救いの言葉である一方、ひとつ間違えると危険な思想であることは、ぽん太は以前のブログで書きました(『歎異抄』が知られるようになったのは明治後期「悪人正機」の悪人とは我々のことである『歎異抄』における善悪を超えた境地)。
 ということで、浄土経の根本経典である無量寿経にはどのようなことが書いてあるのだろうかとワクワクしながら読んだのですが……。
 無量寿経のあらすじは、以下の通りです。

 多くの弟子に囲まれたお釈迦様は、次のような教えを説きはじめます。
 とっても昔に、ダルマーカラ(法蔵菩薩)という修行僧がいました。この僧は、すべての人々を救いたいと考え、48(あるいは47)の誓願をたてました。それらは要するに、「すべての人々が信心を起こし、私の国に生まれ変わって救われるのでなかったらば、私は決して最高の正しい覚り(正覚=しょうがく)を覚ることがないように」というものでした。
 で、どうなったかというと、実はその誓願は既にかなっているのであり、ダルマーカラは無量寿仏(阿弥陀仏)という名前で西方の極楽浄土という国にいらっしゃるのです。ということは、すべての人が極楽浄土に生まれ変わって救われることは、もうすでに決まったことになります。
 お釈迦様は極楽浄土がいかに美しくすばらしい世界であるかを語ります。しかし一方で現実世界では、人々は欲にとらわれ醜い争いを続けています。信心を起こして極楽浄土に生まれ変わることを願うよう説きます。
 弟子一同、お釈迦様のありがたい教えを聞いてそれぞれに覚りを得、大喜びしたところで終了。

 なんと。「他力本願」だの「念仏」だの「悪人正機」だのといったことは、ちっとも書かれてないではないか。してみるとこれらの考え方は、法然や親鸞が無量寿経の本質を取り出して創った考え方なのでしょう。
 たとえば「念仏」の根拠は、第18願と呼ばれる誓願のようです。こちらの西本願寺のページによると、第18願は、「阿弥陀仏が『われを信じ、わが名をとなえるものを必ず仏にするぞ』と誓われた願い」であるとされています。この「わが名をとなえる」という部分は、康僧鎧(こうそうがい)の漢訳では「乃至十念」で、これを十回念仏を唱えると解釈しているわけです。しかしサンスクリット語からの直訳では、第18願は次のようになっています。
 「世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、他の諸々の世界にいる生ける者どもが、<この上ない正しい覚り>を得たいという心をおこし、わたくしの名を聞いて、きよく澄んだ心(信ずる心)を以てわたくしを念(おも)いつづけていたとしよう……」(38ページ)。
 ここで「念(おも)う」というのは、「心に思い浮かべる」ということであって、「名前をとなえる」という意味ではありません。では、これは誤読なのでしょうか?ぽん太にはわかりませんが、積極的な読み替えと考えたい気がします。

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