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2006年3月の6件の記事

2006/03/28

河竹黙阿弥と狂気との接点

 以前のブログに書いたように、ぽん太は歌舞伎の「水天宮利生深川」を見て、主人公の気がふれる場面が芝居の一番の見所になっているのに驚いたのでした。そして当時(江戸末期から明治初期)の一般のひとたちが、精神障害をどのように見ていたのだろうという疑問を持ったのでした。ところが医者から見た精神医学の歴史書はいろいろあっても、一般民衆が精神障害をどう捉えていたかについての情報はあまりないのでした。

 河竹黙阿弥が「水天宮利生深川」を書いたのは1885年(明治18年)ですが、精神医学史的にはこのころ相馬事件と呼ばれるスキャンダラスな出来事がありました。それについては、例えば岡田靖雄の『日本精神科医療史』(医学書院、2002年、134〜138ページ)に書かれています。
 旧相馬藩の最後の藩主である相馬誠胤(そうまともたね)が精神病になり、座敷牢に入れらました。それに対して旧藩士の錦織剛清(にしきごりたけきよ)は、旧家老志賀直道(作家の志賀直哉の祖父)と精神科医が結託して相馬家を乗っ取ろうとする陰謀であると主張して、1884年(明治17年)に裁判を起こしました。結局1895(明治28年)に錦織が敗訴し、逆に誣告罪が課せられました。詳しくは省きますが、錦織が精神病院から相馬誠胤を盗み出す事件あり、毒殺疑惑あり、政治家の後藤新平までも巻き込んで、事実は小説より奇なりを地でいく大騒動に発展しました。詳しく知りたい方は岡田の本をご覧下さい。
 この事件をきっかけに、精神障害者の不法監禁を取り締まるための法律である精神病者監護法が1900年に制定されました。しかしこの法律は不法監禁を禁止するものではなく、制度化して合法化するものであったため、それ以後も劣悪な状態での私宅監禁が行われ続けました。この状況を告発したのが呉秀三と樫田五郎の共著『精神病者私宅監置の実況及び其統計的観察』(1918年)で、それを受けて政府は1919年に精神病院法を制定して、精神病院を増やすことで私宅監置を減らそうとしましたが、実効があがらなかったことは以前のブログで書きました。
 この「お家騒動」は世間をおおいに騒がせ、錦織剛清自らが書いた『神も仏もなき闇の世の中』(1892年)は版を重ね、関連する書物は40冊近くあったといい、果ては錦絵にまで描かれたそうです。この事件がいつ頃世間で騒がれるようになったのかはぽん太にはわかりませんが、黙阿弥が「水天宮利生深川」を書いた1885年(明治18年)は錦織が裁判は起こしてまだ1年目ですから、黙阿弥はこの事件をまだ知らなかったのではないでしょうか。正確には当時の新聞記事でも調べてみないとわかりません。

 では、黙阿弥と狂気との接点は他にはないのでしょうか。ぽん太は『黙阿弥の明治維新』(渡辺保著、新潮社、1997年)を読んでみました。この本全体を楽しむには、ぽん太に歌舞伎の知識がなさ過ぎますが、黙阿弥と狂気との接点が2点あったので書いておきます。
 第一点は、四代目市川小団次(1812〜1866)の死去に関する件。小団次は醜男で背が低いわりに顔が大きかったそうですが、過剰ともいえる演技や珍奇な工夫によって絶大な人気を集めました。黙阿弥は小団次と組んで次々と世話物(庶民の生活を描いた当時の現代劇)の名作を発表し、劇作家として開花しました。小団次は1866年(慶応2年)に他界したのですが、それについて黙阿弥は1878年(明治11年)に記した『著作大概』という略年譜のなかで次のように書いています。
 芝居が終わったあと、興行責任者、役者、作家などが呼び出され、「近年世話狂言人情をうがちすぎ風俗にもかゝはる故以来は万事濃くなく色気などもうすく成丈人情につうぜざるやうに致すやうに」と言い渡されました。つまり最近の世話物の芝居は観客を興奮させすぎてけしからんから、色気を減らして観客が興奮しないようにしろ、というわけです。自分の得意分野を封じられたも同然の小団次はその翌日に病に臥せり、やがて死んでしまいます。黙阿弥は「全くこの病根は右の言ひ渡しなり」と書き、小団次の死の原因が言い渡しの精神的ショックにあったとしています(14〜15ページ)。
 黙阿弥の養子となった河竹繁俊の『河竹黙阿弥』は、「少し病気してゐた所へ、さういふ打撃を蒙つたので憂鬱症のやうになって亡つたものと察せられる」と書いており、ここには「憂鬱症」という言葉が出てきますが、これが事実に基づいたものなのか、繁俊の推測の域を出ないのかは不明です。また同書には饗庭篁村(あえばこうそん)が、黙阿弥から直接「小団次自ら云ふ如く、実に、此のお達しは小団次を精神的に先づ殺したるものなり」と聞いたと書かれています。 
 これらの小団次の死に関する証言には食い違いも多いようで、死の真相は薮の中ですが、ただ黙阿弥が「人は精神的なショックによって病気になって死ぬこともあるのだ」と考えていたことは、ぽん太には確かなように思えます。これは「水天宮利生深川」における精神的ショックによる主人公の発狂という心因論に関係しているように思われます。

 もう一点は、三代目沢村田之助(1845〜1877)の狂死です。田之助は若い頃から女形として高い評判をえ、黙阿弥は田之助のためにたくさんの台本を書きました。ところが1865年(元治2年)、芝居中に釘を踏み抜く事故があり、脱疽(だっそ)にかかってしまいました。脱疽は現代の言葉でいうと壊疽(えそ)のことで、感染や血行障害などの原因で組織が死んで黒くなっていく病気です(とたえばメルクマニュアル家庭版のページを参照して下さい)。田之助は痛みを押して芝居を続けたものの病状は悪化の一途をたどり、翌年に右足を切断しました。それでも田之助は片足で舞台を演じ続け、体が腐っていく病気に侵された片足の女形の演技は人々に衝撃を与えたそうです。1870年(明治3年)田之助は右足に続いて左足を失いましたが、それでも舞台を止めませんでした。しかしこの頃から田之助は少しずつ精神に変調を来し、「妙に涙ぐんで泣き出す」などの情動不安定が認められたようです。ただ渡辺保が挙げている、田之助が「切った足の踵がかゆい、切った足を横浜から持ち帰ってうちの庭にうめたのだが、その足が腐っていくのを思うとかゆくなる」(189ページ)と言ったという点に関しては、切断した体の一部に痛みなどの感覚を感じるのは「幻肢痛」と呼ばれる現象で、精神障害とは関係ありません。
 1872年(明治5年)田之助は両腕も失いましたが、それでも弟子の押す車に乗って舞台を務めたといいますから壮絶です。1875年には東京を去って関西で演じましたが、楽屋で大酒を飲んで騒いでいたところを注意されて大げんかになるなどの狂態を各所でさらしたそうです。1877年(明治10年)春に東京に戻りましたが、渡辺の記述によれば「精神が異常になり、乱暴をするので、ついに止むなく浅草富士横町の瓢亭の一室に監禁した」(192ページ)そうです。そして翌年7月7日に34歳の若さでこの世を去ります。
 渡辺の記述からは、壊疽とその後の精神症状の詳細はわかりません。ぽん太の印象としては、糖尿病かなにかの合併症による壊疽のような気がします。情動が不安定になったり、大酒を飲んで乱暴したりしたのは、人気絶頂であった女形が自分の体と役者としてのキャリアを失って行くことに対する心理的な反応のような気がします。死の間際の精神の異常は、むしろ身体的な原因に基づく意識障害だったような気がしますが、確信はまったくありません。
 さて、黙阿弥は当然田之助の最後を知っていたと推測されますから、この出来事も黙阿弥に深い印象を与え、ひいては「水天宮利生深川」に影響を与えたに違いないとぽん太には思われます。

 ちなみに河竹黙阿弥と「もとのもくあみ」という言葉に関係があるのではないかと思っている人がいるかもしれないので書いておきますが、「もとのもくあみ」は「元の木阿弥」で、漢字がまったく違います。語源としては、戦国時代に木阿弥という盲人がいて、ある大名が死んだために影武者になったが、やがて大名の死をが公表され、木阿弥はもとの生活に戻ったということだそうです。ソースは例えばgoo辞書のこちらのページをどうぞ。

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2006/03/26

ぽん太も動物園に入るならここがいいな〜

 北海道の旭川市にある旭山動物園に行ってきました。旭山動物園といえば、平成16年7月、8月の月間入場者数で、東京の上野動物園を抜いて全国一に輝いたことで有名です(ソースはたとえばこちらの北海道新聞の記事)。とはいえ、こちらの動物園・水族館の年間入場者数では全国8位のようですが、それでも地方の市立動物園としては大健闘です。
P1010001 で、なんでそんなに入場者数が多いかというと、動物の行動や能力をお客さんが間近で見れるようなユニークな展示法をとっているからで、旭山動物園はこの展示法を「行動展示」と呼んでいるようです。たとえば一般の動物園のペンギンは、池があり陸地があり、ペンギンが陸地でぼーっと立っていたり、池を泳いでいたりするのを眺めることになります。ところが旭山動物園では、池のなかの透明なトンネルから水中を泳ぎ回るペンギンを見ることができるのです。さらにはペンギンのお散歩タイムがあり、群れをなしてぺたぺた歩くのをすぐ近くで見れるのです。これはもう行くしかない!
 旭川駅からバスで約40分で到着です。外観は、全国一に輝いたというのが嘘のような、寂れたちっちゃな普通の地方の動物園です。正門の切符販売所はコンテナのようなプレハブ。ペンキが色あせた観覧車が見えます。
P3220017 まずぺんぎん館です。入り口から入るとまず暗いトンネルがあり、手作りっぽい光ファイバーむき出しの照明が哀愁を誘います。マジックで紙に書かれた手作りの解説は、夏休みの自由研究の雰囲気です。しかしそこをすぎると、例のペンギンの池のなかの透明なトンネルがあります。水面にぷかぷか浮かんでいるペンギンを下から眺めたり、水中を泳ぎ回るペンギンを観察したりすることができます。P1010026ペンギンが水中を泳ぐ速度と方向転換能力はものすごく、まるで空を飛び回っているかのようで、ペンギンが鳥類であることを再確認できます。次に進むと水面の高さからペンギンを観察することができ、最後に普通に上から見ることができます。かわいくて感動的でいつまで見てても飽きません。ペンギンの散歩は午前中に終わってしまったそうで、残念ながら見ることはできませんでした。
P1010050 あざらし館には有名な円柱状の水路があり、好奇心おう盛なあざらしが、時々なかを通り抜けていきます。
 ほっきょくぐま館も、プールを横から見れる窓からシロクマが泳ぐさまを見たり、地面に半球状に据えられた透明カプセルから顔をだして観察することができます。
P1010054 おらんうーたん館です。ロープやハンモックなどがたくさん取り付けてあって、オランウータンの親子がのびのびと動き回っていました。
P1010074 もうじゅう館では、ユキヒョウとアムールヒョウを真下から見ることができます。ネコ族は高いところが好きなので、観光客の上で寝そべってご機嫌です。おしっこをかけられないように注意が必要です。

P1010060 旭山動物園は、動物の数も多くはないし、珍しい動物がいるわけでもありません。しかし、生き生きと動き回る動物たちを、普通とは違った視点から、至近距離で見ることができます。これまでの動物園では、動物たちは狭い檻に閉じ込められて悪臭を放ち、見ていて気の毒に思うことが多かったです。しかし旭山動物園では、動物たちは生き生きとしていました。こうした動物とのふれあいが、心の癒し効果を持つような気がしました。
 タヌキのぽん太も、動物園に入るならここがいいと思いました。みなさんもぜひ行ってみて下さい。

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2006/03/18

『アンティゴネ』のみちくさにチャレンジ

 ぽん太は以前のブログで、ギリシアのデルフィがソポクレスの悲劇『オイディプス王』に描かれた神託が行われた場所だということを書きました。ソポクレスには他にも『コロノスのオイディプス』と『アンディゴネ』というオイディプス王伝説を扱った悲劇があり、いずれも『ギリシア悲劇 (2)』(ソポクレス著、ちくま文庫、1986年)に収録されています。フロイトが重視したのはもちろん『オイディプス王』なのですが、実は『アンティゴネ』の方が古来多くの人々によって論じられてきたようで、ラカンも『精神分析の倫理 下』(小出浩之他訳、岩波書店、2002年)で『アンティゴネ』を論じていたのを思い出しました。ラカンの言いたいことはぽん太の狸脳では理解不能なのですが、ギリシャ悲劇つながりでみちくさしてみる気になりました。但し途中で道に迷って遭難し、すごすごと退散する可能性大です。
 とりあえず今回はオイディプス王の伝説のおおまかなあらすじをご紹介しましょう。
 まず『オイディプス王』に書かれている範囲は、冒頭にあげた以前のブログに書きましたが、再掲しておきましょう。

 テーバイの王ライオスは、自らの子供によって殺されるという神託を受けます。そこでライオスは、妻イオカステとの間にできた男児を山のなかに置き去りにするよう命じます。しかしその男児は羊飼いによって拾われてオイディプスと名付けられ、コリントス王の子供として育てられます。成長したオイディプスは、自分が本当にコリントス王の息子かどうか疑いを持ち始めます。オイディプスはそのことで神託を受けようとしますが、下された神託はその答えではなく、「父を殺し、母と交わるであろう」というものでした。コリントス王を実父と信じるオイディプスは、神託の実現を恐れて旅に出ます。ところが旅の途中で出会った老人といさかいになり、オイディプスはこの老人を殺してしまいます。実はこの老人はオイディプスの実の父親のライオス王だったのですが、オイディプスはそのことを知りません。そのころテーバイは、スフィンクスという怪物によって悩まされていました。旅人に謎をかけ、答えられないと食べてしまうのです。その謎とは、有名な「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足、な〜に?」というヤツで、オイディプスが「人間!」と正解を答えるとスフィンクスは自殺してしまいました。こうしてオイディプスは実の母であるイオカステと結婚してテーバイの王となるのですが、二人が実の母子であることはもちろん二人とも知りません。しかしそれ以来テーバイは疫病と不作に苦しめられるようになります。その原因を探る過程で、オイディプスは、神託どおり自分が父を殺し母と交わったことを知ります。真実を知ったオイディプスは、自ら目をつぶして盲目となり、テーバイから追放されるのです。

 話は『コロノスのオイディプス』に続きます。

 オイディプスと、その母であり妻であるイオカステのあいだには、ポリュネイケスとエテオクレスという二人の息子と、アンティゴネとイスメネという二人の娘がいました。長男のポリュネイケスがオイディプスの後を継いでテーバイの王となっていたのですが、弟のエテオクレスは、イオカステの兄弟のクレオンと共謀してポリュネイケスを王座から追い落としてテーバイから追放します。ポリュネイケスはアルゴス軍を引き連れてテーバイに再び攻め込もうとします。そこにオイディプスを味方につけた方が勝利するという神託が下されます。
 盲目となってテーバイを追われたオイディプスは、娘のアンティゴネに手を引かれてさまよううちに、コロノスに至ります。かつてのアポロンの神託によれば、オイディプスはこの地で命を終え、死体の葬られた地には祝福が与えられ、彼を追い出した地には呪いがもたらされるのでした。そこにイスメネ、クレオン、ポリュネイケスが次々とやってきてオイディプスを連れ戻そうとします。しかしテーバイを追い出されたことを恨みに思うオイディプスは、ポリュネイケスとエテオクレスの兄弟が二人とも互いの手によって殺されるであろう、と呪います。
 オイディプスはアテナイの王テセウスに導かれ、森の奥で神秘的な最後を迎えます。そして永遠にアテナイの守り神となるのです。

 で、最後は『アンティゴネ』です。

 オイディプスの死後、アンティゴネとイスメネの姉妹はテーバイの都に戻ります。しかしオイディプスの呪いどおり、王座を巡って闘ったポリュネイケスとエテオクレスの兄弟は刺し違えて死んでしまいます。かわって王座についたクレオンは、テーバイを攻めたポリュネイケスの死体の埋葬を禁じる布告を出します。しかしアンティゴネは布告に逆らってポリュネイケスの屍に葬礼を施します。捕らえられてクレオンの前に引き出されたアンティゴネは、自分の行為は正義に基づく正当なものだと主張します。クレオンは、息子でありアンティゴネの許嫁でもあるハイモンの抗議にも耳を貸さず、自分の布告に従ってアンティゴネを生きたまま墓に閉じ込めます。しかし予言者テイレシアスの忠告によって考えを改め、ポリュネイケスの遺体を埋葬したうえで、アンティゴネを墓穴から解放しに行きます。しかしクレオンが見たのは首を吊って死んでいるアンティゴネでした。そして息子のハイモンも、アンティゴネの後を追って自殺してしまうのでした。

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2006/03/17

明治時代の一般人の精神障害の捉え方は?

 ぽん太は前回のブログで歌舞伎の「水天宮利生深川」(すいてんぐうめぐみのふかがわ)をとりあげ、そこに描かれている狂気の描写についてみちくさしました。そのとき、医者から見た精神医学史はいろいろあるけれど、一般の民衆が精神障害をどのように捉えていたかという研究は少ないということを述べました。たとえば現代においても、精神科医による精神障害の捉え方と一般人による精神障害の捉え方は、まったく異なっています。精神科医による捉え方を知るには、医学の教科書や論文を見ればいいのですが、一般人による捉え方を知るには、新聞や小説や一般の書籍などを調査する必要があります。
 明治時代の一般のひとたちの精神障害の捉え方を論じた本としてぽん太が知っているのは『明治の精神異説ー神経病・神経衰弱・神がかり』ぐらいです。著者の度会好一(わたらいよしいち)は文学畑出身の方のようで、夏目漱石の『こゝろ』がこの研究のきっかけとなったと「あとがき」で書いていますが、なかなかどうして精神医学史の理解はたいしたものです。医学書にせよ文学書にせよ、ちゃんと原典にあたって論じています。ただし夏目漱石が興味のきっかけだったこともあり、神経病、神経衰弱が中心に論じられていて、「水天宮利生深川」のような心因性の急性精神病状態は論じていないのが残念です。
 もう一冊、小俣和一郎の『精神病院の起源』もなかなか興味深い本で、「精神病院」の起源という観点から描くことで、公式の精神医学史からは漏れていた史実を浮かび上がらせるの成功しております。でも、ぽん太が知りたい「一般人が精神障害をどう見ていたのか」というところは論じられておりません。
 「水天宮利生深川」で、水に飛込んだ幸兵衛が正気に返ったことについて、三五郎が「瀧を浴びても氣違ひは逆上(のぼせ)が下って治るもの故、川へ飛込みつめたいので、治ったものと見えまする」と説明したことを前回のブロクで述べましたが、『精神病院の起源』には滝治療の歴史も書かれています。日本では主に密教系の寺院で行われていた療法らしいのですが、東京の多摩地区に巣穴があるぽん太にとって興味深いのは、高尾山の滝治療に関する記述です。高尾山の登山道はいくつかありますが、そのうち琵琶滝コースは滝修行が行われた琵琶滝の横を通る沢道です。その登山口には東京高尾病院という精神病院があるのですが、実は19世紀に高尾山麓には、佐藤旅館と小宮旅館という二軒の旅館があって、精神障害者に対する滝治療が行われていたのだそうです。1926年に大正天皇が亡くなったために近くに多摩御陵が造られることになり、警察の監視がうるさくなったため、佐藤旅館が1936年に高尾保養院という精神病院を開設して患者を収容することにしたのだそうです。これが現在の東京高尾病院の前身だそうです。この病院にこのうような歴史があるとは、ぽん太はちっとも知りませんでした。
 なお精神医学史については、橋本明氏のホームページ精神医療史の世界 by Akira Hashimotoもたいへん興味深く、こちらのpdfファイルには滝治療のことがいろいろと書かれています。

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2006/03/15

「水天宮利生深川」と狂気

 ここのところ歌舞伎がマイブームのぽん太です。
 先日、歌舞伎座の三月大歌舞伎(2006年3月公演)の夜の部を見てきました。おもしろかったです。
 ぽん太は歌舞伎の超初心者なので、舞台についてあれこれ批評することはできません。しかし今回の出し物の「水天宮利生深川」(すいてんぐうめぐみのふかがわ)には、主人公の気がふれる場面が出てきますので、精神科医のぽん太も口を挟むことができそうです。
 「水天宮利生深川」は、江戸末期から明治にかけて活躍した歌舞伎作家、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が明治18年(1885年)に書いた作品です。原作は『明治文学全集 9 (9)』(河竹默阿彌著、筑摩書房、1966年)に収録されていますが絶版のようです。ぽん太は近くの図書館で借りてきました。
 今回の舞台のあらすじは以下のとおりです。

 明治維新によって武士ではなくなった船津幸兵衛は、筆を売って暮らしていますが、生活は貧乏のどん底です。妻には先立たれ、目の見えない長女に年端のいかない次女、乳飲み子の長男(幸太郎)の3人を養わなければなりません。人々の善意を支えに生活していましたが、まじめで実直な性格のため、高利貸しや悪徳弁護士にいいようにだまされてしまいます。一家心中を決意した幸兵衛はまず幸太郎から殺そうとしますが、かわいい我が子をどうしても自らの手にかけることはできません。あまりの苦しみから気がふれてしまい、幽霊を相手に箒を長刀(なぎなた)のように振り回したり、世話になっている大家さんを薪で殴ったりしたあげく、家を飛び出して幸太郎を道連れに川に身投げしてしまいます。しかし水天宮様のご利益か二人の命は助かり、幸兵衛も正気に帰り、長女の目にも光が戻ってきたところでめでたしめでたしとなります。

 黙阿弥の原作と今回の芝居を比べてみると、身投げして助けられてからあとの部分がかなり変わっているようです。もともと三幕からなる芝居のうち、今回は第二幕だけの上演であるため、次の幕に続く部分を削ったり、芝居の終幕にふさわしい結末となるように脚色した面もあると思いますが、精神障害に対して差別的にならないように配慮したという面もあるように思えます。
 で、この芝居のユニークなところは、気が違った幸兵衛の演技にかなりの時間が割かれていて、芝居の見所のひとつにさえなっているという点です。芝居や小説のなかに気がふれたひとが出てくることはよくありますが、明治18年に作られた歌舞伎において、狂気の描写が芝居のクライマックスになっていることは、ぽん太には意外です。
 「水天宮利生深川」に関して、精神医学的な立場から気になる部分を挙げてみましょう。
 まず気がふれる原因が、激しい葛藤という心因に求められています。このまま生きて恥をさらし続けるのも堪え難いし、かといって一家心中するにはかわいい息子を殺さなければならない。このダブルバインドのなかで幸兵衛は泣き崩れ、その瞬間に気がふれてしまいます。
 気がふれた幸兵衛に最初に現れる症状は幻覚です。「舟幽霊だ」と叫ぶと箒を長刀のように振り回します。舟幽霊とは、海に現れて船を沈没させてしまう幽霊で、水難事故で死んだひとの成れの果てだそうですが、さまざまなバリエーションがあるようです。「なんでいきなり舟幽霊なんだ」という疑問がわいてきますが、この狂言が水と縁がある水天宮を題材にしているためだと考えられます。いまでは水天宮は安産・子授けのご利益で有名ですが、そもそも水天宮の発祥は源平合戦にまで遡ります。平清盛の血を引く安徳天皇は、壇ノ浦の合戦で義経ひきいる源氏に破れ、祖母の二位の尼に抱かて入水します。二位の尼から生き延びて霊を慰めるよう命ぜられた官女の按察使局(あぜちのつぼね)は、筑後川のほとりにほこらを建て、安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送るのですが、これが水天宮の起源だそうです(水天宮のホームページより)。水天宮の御祭神は、まず天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と、あとは安徳天皇と、二位の尼(安徳天皇の祖母)、建礼門院(安徳天皇の母)の四柱で、平家との深い関わりが見て取れます。
 ですからこの舟幽霊は単なる舟幽霊ではなく、平知盛(たいらのとももり)の霊なのです。つまりこの場面は「船弁慶」を下敷きにしていると考えられます。「船弁慶」は、『平家物語』や『吾妻鏡』を題材にして作られた能楽作品で、平家の滅亡後、頼朝に追われる源義経や弁慶一行が西国に逃れる途中、壇ノ浦で入水した平知盛の幽霊が、長刀をかかげて現れて船を沈めようとするが、弁慶の祈祷によって退散するという話しです。ということは幸兵衛は最初は知盛の舟幽霊の幻覚を見ますが、次の瞬間には自らが知盛になりきって、長刀を振り回していることになります。さらにおもしろいつながりがあり、「水天宮利生深川」を明治18年(1885年)に書いた河竹黙阿弥が、同じ年に「船弁慶」という歌舞伎を初演しているではないか。なにか関係がありそうですが、いまのぽん太の知識ではこれ以上はわかりません。
 幸兵衛は、信仰していた水天宮に納めるために買った碇(いかり)の額とともに、孝太郎を抱いて川に身を投げます。碇とともに入水するというのは、壇ノ浦で平知盛が、浮かび上がらぬように碇を身に巻き付けて入水したという話と対応しているように思われます。また子供を抱いて死ぬというのは、二位の尼が安徳天皇を抱いて入水したことを連想させます。「水天宮利生深川」は、平家物語を下敷きにして、「子供を道連れにして死ぬことが許されるのか」ということを問うているわけですが、これは明治の近代的な意識に基づく問いであるようにぽん太には思われます。
 ついで幸兵衛は箒を槍に見立てて大名行列のまねごとをしたかと思うと、「おもしろくって堪えられねェ」とねじり鉢巻で踊りだします。本人はいたってハイテンションで爽快なようです。このあたりはかなり演技的ですが、幸兵衛の性格はいたってまじめで実直、正直に「ばか」が付くほどで演技的傾向はありません。さらには踊りながらかわいい娘たちを突き飛ばし、世話になっている大家さんの額を薪で血が出るほどたたきます。とうとうかわいい孝太郎の片足を持ってぶらさげます。すっかり善悪の判断を失っているようです。
 かけつけた三五郎を高利貸しと間違えて襲いかかりますが、三五郎の説得でふと我に返って不憫そうに我が子を見つめます。しばらくは静かにしていますが、おせんが子供を抱きかかえたの見て「子供を盗みに来たか」と再び興奮します。隣家から聞こえて来た新内の音を祭り囃子と勘違いして、祭りを見せてやろうと孝太郎を抱いて外に飛び出し、そのまま川へ向かって走って行って身をなげてしまいます。
 助け上げられた幸兵衛はすっかり正気に戻っていますが、気が狂っていた間の記憶がないという特徴があります。気がふれた理由ですが、三五郎のセリフでは「常から律儀な了簡に一途に迫って取逆せ、それで気が違ったのだらうが……」と、幸兵衛の律儀さが発狂の引き金になったとしています。また三五郎は正気に戻った理由については「瀧を浴びても気違ひは逆上が下って治るもの故、川へ飛込みつめたいので、治ったものと見えまする」と述べています。
 いにしえの精神障害というと「狐憑き」などの憑き物がありますが、この狂言では憑き物の要素がまったくないのも目を引きます。これまで述べたところから「平家憑き」のようにも見えますが、平気物語はあくまでも劇の下敷きとして使われているだけで、発狂の原因とはされていません。あくまでも心因による狂気とされている点が、近代的に思われます。
 また登場人物たちは、発狂した幸兵衛を危ないとは思っているようですが、恐怖感や恐れは抱いていないようです。狂気はけっして非日常的な畏怖すべきものではなく、日常のなかに位置づけられています。
 今回の公演で幸兵衛を演じたのは松本幸四郎でしたが、哀しさよりも滑稽さが強く、客席からも笑いがおこっていました。しかし歌舞伎好きの知人の話では、ほかの役者ではもっと哀れみが強い演技もあったとのことです。
 こういう芝居を見ると診断を付けたがる精神科医が多いのですが、創作された芝居に診断をつけても意味がありません。ぽん太が興味を持つのは、この頃の一般民衆が精神障害をどのように捉えていたかということです。医者が精神障害をどう捉えていたかという歴史は、精神医学史という分野でいろいろ研究されていますが、一般民衆が精神障害をどう捉えていたかという歴史はあまりよくわかっていないと思うのです。今後みちくさを深めたい分野です。

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2006/03/01

安宅の関と安宅住吉神社

P2150003 前回の記事では義経・弁慶と福島県の医王寺について書きましたが、義経・弁慶といえば、少し以前にぽん太は安宅の関(あたかのせき)をみちくさして参りました。
 安宅の関は、石川県の小松空港の近くにあります。公式ホームページは安宅観光協会のこちらのサイトでしょうか?近くにはリニューアルされたばかりの松井ベースボールミュージアムもありますので、ぜひあわせて訪れてみて下さい。
 安宅の関跡と聞いて、ぽん太は箱根の関所跡のようなものを想像していたのですが、石碑があるだけでした。また山の中にあると思い込んでいましたが、海岸にほど近い場所だったのも意外でした。
 安宅の関における義経・弁慶の出来事は、歌舞伎の勧進帳などでも有名ですが、あらすじを書くのはめんどくさいので、たとえばこちらのページをご覧下さい。

P2150007 安宅の関の近くに、安宅住吉神社があります。公式ホームページはこちらです。
 住吉神社という名前はあちこちで見かけますが、『日本の神様読み解き事典』(川口謙二編著、柏書房、1999年)によれば、全国で約2000以上あるそうです。その大もとは、もちろん大阪にある住吉大社です。御祭神は底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の三神で、住吉三神あるいは墨江(すみのえ)三神と呼ばれています。『古事記』のなかに、イザナギノミコトが亡き妻のイザナミノミコト追いかけて黄泉の国を訪れるという有名な話しがあります。詳細はこんかいは省略しますが、妻を連れ帰ることができずにひとりで地上に戻ったイザナギノミコトは、黄泉の国の汚れを清めるため海に入って禊(みそぎ)を行います。このとき生まれた神々が住吉三神で、海に関係していることから、住吉三神は航海や漁業の守護神とされています。そして安宅は海上交通の要所であるため、住吉神社が造られたのでしょう。
 なお安宅住吉神社のオリジナルご利益として「難関突破」があるようですが、これはもちろん窮地を切り抜けた義経一行から来ているものでしょう。

 ところで日本酒好きのぽん太は、住吉三神だの墨江三神だの聞くと、ついついお酒の銘柄を思い浮かべてしまいます。山形の住吉と、宮城の墨廼江(すみのえ)です。
 まず住吉を造っている樽平酒造のサイトを見てみると、銘柄の由来というページに次のように書かれています。
 「住吉・・・・・丹波杜氏の造った酒が旨くて、住み心地がよく、住吉神社にちなんで『住吉』と命名し、図案も神社の欄干・御簾・鏡を表している」。
 丹波杜氏というと兵庫県篠山市あたりを出身地とする酒造りの職能集団ですが、ググってみると篠山市には木津(こづ)小野原に2カ所の住吉神社があるようです。故郷を遥か離れて冬のあいだ酒造りに励む丹波杜氏が、たんせい込めて造った酒に、故郷にちなんだ名前を付けたということは十分ありそうです。また「住み心地がよく」というところですが、『日本の神様読み解き事典』によると、『古今集』巻17の壬生忠岑(みぶただみね)の住吉大社参詣の歌に、「住み好しと漁人(あま)は告ぐとも長居すな ひとわすれ草生ふというなり」という歌があり、当時すでに住吉を「住み心地がよい」と解釈していたことがわかります。

 さて墨廼江の方ですが、墨廼江酒造株式会社の公式ホームページはないようですが、たとえばこちらのサイトを見てみると、「墨廼江」という名は酒蔵の所在地の江戸、明治期の地名であり、近くに水の神様を祭った墨廼江神社があったそうです。ということでこちらは楽勝かと思いきや、ググってみても墨廼江酒造株式会社がある石巻には墨廼江神社がありません。そこで墨廼江神社が「近くに」あったという記述をヒントにに、墨廼江酒造株式会社の所在地を地図で表示してみると、近くに住吉町という地名があり、川岸に神社のマークがあるではないか。これはあやしい!(ちなみにそのちょっと北に、「志賀直哉生家」という魅力的な文字があるが、みちくさはやめておきましょう)。
 拡大してみると、住吉公園にある大嶋神社です。石巻観光物産情報センターのこちらのページを見てみると、この大嶋神社が昔の墨廼江神社だった可能性が高いようです。な、なに?源義経や松尾芭蕉がここを訪れた?

 『おくのほそ道』(潁原退蔵他訳注、角川文庫、1967年)を見ると、松島から平泉に向かった芭蕉は道を間違えて石巻に出たといいます(もっともこれもフィクションで、石巻は予定のコースだったという説が有力のようです)。石巻で芭蕉が訪れた歌枕「袖の渡し」がこの住吉公園なのだそうです。同行の曾良の『曾良随行日記』(前掲書に収録)には、「帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也」と書かれています。
 また袖の渡しは、義経が船賃の代わりに片袖をちぎって船頭に与えたという言い伝えもあるそうです。
 話しが義経と芭蕉に戻ったところで、きょうのみちくさは終わりにして、そろそろタヌキの巣穴に戻ることにしましょう。

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