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2006/03/28

河竹黙阿弥と狂気との接点

 以前のブログに書いたように、ぽん太は歌舞伎の「水天宮利生深川」を見て、主人公の気がふれる場面が芝居の一番の見所になっているのに驚いたのでした。そして当時(江戸末期から明治初期)の一般のひとたちが、精神障害をどのように見ていたのだろうという疑問を持ったのでした。ところが医者から見た精神医学の歴史書はいろいろあっても、一般民衆が精神障害をどう捉えていたかについての情報はあまりないのでした。

 河竹黙阿弥が「水天宮利生深川」を書いたのは1885年(明治18年)ですが、精神医学史的にはこのころ相馬事件と呼ばれるスキャンダラスな出来事がありました。それについては、例えば岡田靖雄の『日本精神科医療史』(医学書院、2002年、134〜138ページ)に書かれています。
 旧相馬藩の最後の藩主である相馬誠胤(そうまともたね)が精神病になり、座敷牢に入れらました。それに対して旧藩士の錦織剛清(にしきごりたけきよ)は、旧家老志賀直道(作家の志賀直哉の祖父)と精神科医が結託して相馬家を乗っ取ろうとする陰謀であると主張して、1884年(明治17年)に裁判を起こしました。結局1895(明治28年)に錦織が敗訴し、逆に誣告罪が課せられました。詳しくは省きますが、錦織が精神病院から相馬誠胤を盗み出す事件あり、毒殺疑惑あり、政治家の後藤新平までも巻き込んで、事実は小説より奇なりを地でいく大騒動に発展しました。詳しく知りたい方は岡田の本をご覧下さい。
 この事件をきっかけに、精神障害者の不法監禁を取り締まるための法律である精神病者監護法が1900年に制定されました。しかしこの法律は不法監禁を禁止するものではなく、制度化して合法化するものであったため、それ以後も劣悪な状態での私宅監禁が行われ続けました。この状況を告発したのが呉秀三と樫田五郎の共著『精神病者私宅監置の実況及び其統計的観察』(1918年)で、それを受けて政府は1919年に精神病院法を制定して、精神病院を増やすことで私宅監置を減らそうとしましたが、実効があがらなかったことは以前のブログで書きました。
 この「お家騒動」は世間をおおいに騒がせ、錦織剛清自らが書いた『神も仏もなき闇の世の中』(1892年)は版を重ね、関連する書物は40冊近くあったといい、果ては錦絵にまで描かれたそうです。この事件がいつ頃世間で騒がれるようになったのかはぽん太にはわかりませんが、黙阿弥が「水天宮利生深川」を書いた1885年(明治18年)は錦織が裁判は起こしてまだ1年目ですから、黙阿弥はこの事件をまだ知らなかったのではないでしょうか。正確には当時の新聞記事でも調べてみないとわかりません。

 では、黙阿弥と狂気との接点は他にはないのでしょうか。ぽん太は『黙阿弥の明治維新』(渡辺保著、新潮社、1997年)を読んでみました。この本全体を楽しむには、ぽん太に歌舞伎の知識がなさ過ぎますが、黙阿弥と狂気との接点が2点あったので書いておきます。
 第一点は、四代目市川小団次(1812〜1866)の死去に関する件。小団次は醜男で背が低いわりに顔が大きかったそうですが、過剰ともいえる演技や珍奇な工夫によって絶大な人気を集めました。黙阿弥は小団次と組んで次々と世話物(庶民の生活を描いた当時の現代劇)の名作を発表し、劇作家として開花しました。小団次は1866年(慶応2年)に他界したのですが、それについて黙阿弥は1878年(明治11年)に記した『著作大概』という略年譜のなかで次のように書いています。
 芝居が終わったあと、興行責任者、役者、作家などが呼び出され、「近年世話狂言人情をうがちすぎ風俗にもかゝはる故以来は万事濃くなく色気などもうすく成丈人情につうぜざるやうに致すやうに」と言い渡されました。つまり最近の世話物の芝居は観客を興奮させすぎてけしからんから、色気を減らして観客が興奮しないようにしろ、というわけです。自分の得意分野を封じられたも同然の小団次はその翌日に病に臥せり、やがて死んでしまいます。黙阿弥は「全くこの病根は右の言ひ渡しなり」と書き、小団次の死の原因が言い渡しの精神的ショックにあったとしています(14〜15ページ)。
 黙阿弥の養子となった河竹繁俊の『河竹黙阿弥』は、「少し病気してゐた所へ、さういふ打撃を蒙つたので憂鬱症のやうになって亡つたものと察せられる」と書いており、ここには「憂鬱症」という言葉が出てきますが、これが事実に基づいたものなのか、繁俊の推測の域を出ないのかは不明です。また同書には饗庭篁村(あえばこうそん)が、黙阿弥から直接「小団次自ら云ふ如く、実に、此のお達しは小団次を精神的に先づ殺したるものなり」と聞いたと書かれています。 
 これらの小団次の死に関する証言には食い違いも多いようで、死の真相は薮の中ですが、ただ黙阿弥が「人は精神的なショックによって病気になって死ぬこともあるのだ」と考えていたことは、ぽん太には確かなように思えます。これは「水天宮利生深川」における精神的ショックによる主人公の発狂という心因論に関係しているように思われます。

 もう一点は、三代目沢村田之助(1845〜1877)の狂死です。田之助は若い頃から女形として高い評判をえ、黙阿弥は田之助のためにたくさんの台本を書きました。ところが1865年(元治2年)、芝居中に釘を踏み抜く事故があり、脱疽(だっそ)にかかってしまいました。脱疽は現代の言葉でいうと壊疽(えそ)のことで、感染や血行障害などの原因で組織が死んで黒くなっていく病気です(とたえばメルクマニュアル家庭版のページを参照して下さい)。田之助は痛みを押して芝居を続けたものの病状は悪化の一途をたどり、翌年に右足を切断しました。それでも田之助は片足で舞台を演じ続け、体が腐っていく病気に侵された片足の女形の演技は人々に衝撃を与えたそうです。1870年(明治3年)田之助は右足に続いて左足を失いましたが、それでも舞台を止めませんでした。しかしこの頃から田之助は少しずつ精神に変調を来し、「妙に涙ぐんで泣き出す」などの情動不安定が認められたようです。ただ渡辺保が挙げている、田之助が「切った足の踵がかゆい、切った足を横浜から持ち帰ってうちの庭にうめたのだが、その足が腐っていくのを思うとかゆくなる」(189ページ)と言ったという点に関しては、切断した体の一部に痛みなどの感覚を感じるのは「幻肢痛」と呼ばれる現象で、精神障害とは関係ありません。
 1872年(明治5年)田之助は両腕も失いましたが、それでも弟子の押す車に乗って舞台を務めたといいますから壮絶です。1875年には東京を去って関西で演じましたが、楽屋で大酒を飲んで騒いでいたところを注意されて大げんかになるなどの狂態を各所でさらしたそうです。1877年(明治10年)春に東京に戻りましたが、渡辺の記述によれば「精神が異常になり、乱暴をするので、ついに止むなく浅草富士横町の瓢亭の一室に監禁した」(192ページ)そうです。そして翌年7月7日に34歳の若さでこの世を去ります。
 渡辺の記述からは、壊疽とその後の精神症状の詳細はわかりません。ぽん太の印象としては、糖尿病かなにかの合併症による壊疽のような気がします。情動が不安定になったり、大酒を飲んで乱暴したりしたのは、人気絶頂であった女形が自分の体と役者としてのキャリアを失って行くことに対する心理的な反応のような気がします。死の間際の精神の異常は、むしろ身体的な原因に基づく意識障害だったような気がしますが、確信はまったくありません。
 さて、黙阿弥は当然田之助の最後を知っていたと推測されますから、この出来事も黙阿弥に深い印象を与え、ひいては「水天宮利生深川」に影響を与えたに違いないとぽん太には思われます。

 ちなみに河竹黙阿弥と「もとのもくあみ」という言葉に関係があるのではないかと思っている人がいるかもしれないので書いておきますが、「もとのもくあみ」は「元の木阿弥」で、漢字がまったく違います。語源としては、戦国時代に木阿弥という盲人がいて、ある大名が死んだために影武者になったが、やがて大名の死をが公表され、木阿弥はもとの生活に戻ったということだそうです。ソースは例えばgoo辞書のこちらのページをどうぞ。

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