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2006年5月の7件の記事

2006/05/30

ベッテルハイムが『フロイトのウィーン』でフロイトの家に言及してる

 ウィーンのフロイトの家を訪ねて来たぽん太は、書棚にあったベッテルハイムの『フロイトのウィーン』(森泉弘次訳、みすず書房、1992年)を手に取ってみました。
 ブルーノ・ベッテルハイム(Bruno Bettelheim)は、1903年にウィーンで生まれたユダヤ人で、精神分析を学んだのち、自閉症の治療と研究を行いました。ユダヤ人であることからナチス時代には強制収容所に入れられ、解放後アメリカに亡命しました。1990年、87歳で自ら命を絶ちました。
 詳しい経歴に関しては、手元の本や事典を見てみたのですが、はっきりしません。
 自分の魂に向き合うことであったフロイトの精神分析が、アメリカに伝わる過程で歪められ、客観的な科学理論のようになってしまったことを批判した『フロイトと人間の魂』(藤瀬恭子訳、法政大学出版局、1989年)は、ぽん太はとても面白く読めました。
 また自閉症論として『自閉症・うつろな砦 (1)』がありますが、自閉症は冷淡な母親のせいで後天的に生じるものだという考えに基づいており、現在では否定されております。このような考え方は多くの弊害をもたらしたので、自閉症関係者のあいだでは、ベッテルハイムはとんでもない悪人ということになっています。

 さて、『フロイトのウィーン』の第1章「フロイトのウィーン」は、精神分析が誕生した当時のウィーンの状況が描き出されていて、とても興味深い文章です。そのなかでベッテルハイムは、フロイトの家に言及しています。ぽん太は以前のブログで、フロイトが住んでいた家をたどってみましたが、本章でベッテルハイムが取り上げているのは、1885年4月から1891年8月まで住んでいた家です。
 1881年12月、ウィーンのリング劇場が焼失し、大勢の命が奪われるという大惨事が起きました。おぞましい記憶をぬぐい去るため、皇帝は焼失した劇場の跡地にズューンハウス(贖罪の家)という名の居住・商業兼用ビルディングを建てることにしました。当時のウィーンで第一と言われていた建築家F.v.シュミットが設計し、環状道路沿いという好立地にあるため、高い家賃が見込めるので、収入の一部を火災で孤児になった子供たちへの補助に使おうという目論見でした。しかし人々は、このつらい思い出を伴うアパートになかなか住もうとしませんでした。
 実はフロイトが初めて開業し、結婚生活を送ったアパートは、まさにこのアパートなのです。フロイトは、このようないわく付きの建物に神経症の患者が来たがらないのではないか、などとは考えもしなかったし、むしろこのような不気味な場所が自分の仕事と生活の場としてふさわしいと思っていたようだ、とベッテルハイムは書いています。

 さて、第2章の題名は「ベルクガッセ19番地」で、まさにここはぽん太が今回の旅行で訪れたフロイトの家です。「ベルクガッセはウィーン第9区のさして特徴のない部分の、面白くもなんともない平凡な通り」であり、アパートの建物に関しても同じことがいえます。なぜこのようなところにフロイトが住んだのか納得できないベッテルハイムは、いくつかの理由を考えます。第一にベルクガッセは、貧しかったフロイト一家が住んでいたウィーンの第二区と、大学病院や市役所周辺の最高級の上層中産階級の住宅街とを結ぶ通りです。その中間にあるベルクガッセ19番地は、まさに当時のフロイトの社会的立場を反映しており、フロイトが落ち着ける場所だったのかもしれません。第二にこの家は、「平凡な外面性の陰にはるかに重要な、秘められた意味が隠されているかもしれない」という、精神分析の基本的な考え方が暗示されているのかもしれません。
 ちょっと深読みし過ぎにも思えますが、承っておきましょう。
 さらにベッテルハイムは、フロイトの診察室と書斎を埋め尽くす骨董品に思いを馳せて行きますが、そちらは今回は省略しましょう。

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2006/05/29

【ラカン『精神分析の倫理』】カタルシスとモリエール

 前回からだいぶあいだが空きましたが、ラカンの『精神分析の倫理 下』の117ページ13行目から読んでいきましょう。

 これまでのところで、ラカンは、精神分析とギリシア悲劇が、「カタルシス」という言葉によって結びつけられていることを指摘しました。続いて、「カタルシス」という言葉が歴史的にどのように使われて来たかを、ざっと素描します。
 117ページ最後の段落の部分を原文と照らし合わせながら読んでみると、ラカン述べているのは次のような内容です。

 カタルシス(catharsis)という言葉は通常は瀉出(purgation)と訳されているけれど、この瀉出(purgation)という言葉にはモリエール風の古い医学的な響きがある。そのモリエール風の古い医学的な響きとは、モリエール自身の言葉を借りれば、有害な体液の除去(l'élimination des humeurs peccantes)である。

  l'élimination des humeurs peccantesという言い方を、モリエールがどこで使っているかを、原文にまであたって調べる気にはなりません。
 モリエール(Molière, 1622~1673)は、言わずと知れたフランスの古典喜劇の完成者です。彼の作品は痛烈な風刺で有名ですが、とりわけ医者は恰好の攻撃対象でした。モリエールの作品は、臨川書店から出ている『モリエール全集〈1〉』全10巻で簡単に読むことができます。医者にまつわる作品は、『トンデモ医者』、『恋こそ名医』、『いやいやながら医者にされ』、『プルソーニャク氏』、『病は気から』などがあり、また『ドン・ジュアン』にも医者を皮肉る一節があります。
 これらの作品のいくつかでは、一般人が医者になりすまし、でたらめなラテン語や訳の分からない理屈で患者をけむに巻き、めちゃくちゃな治療をします。また他の作品ではホンモノの医者が、立ち振る舞いは偉そうですが、学問とは名ばかりのあやし気な理論に基づき、患者の無知と弱みに付け込んで、患者が治ると治るまいと金を巻き上げるペテン師として描かれます。
 こういった医者攻撃の裏側には、実はモリエール自身が病気を患っていて、しかも治療を受けてもいっこうに良くならなかったという事実があるそうです(パトリック・ダンドレー「モリエールと医学」、『モリエール全集5』に所収)。
 上記の作品のなかに出てくる主な治療は、瀉血(血を抜くこと)、下剤や吐き薬の投与です。
 モリエールの活躍した17世紀は、ハーヴィーの血液循環説が1628年に出版されるなど近代医学も芽生つつあったものの、まだローマ時代のガレノスの医学が力を持っていました。その基本となるのは四体液説で、いかなる生体も血液・粘液・胆汁・黒胆汁の四種類から成り立っており、そのバランスが崩れることで病気が発生するので、瀉血や下剤によって体液のバランスを回復させることで病気が治る、というものでした。
 ちなみに、現代ではうつ病を意味するメランコリーが、黒胆汁のことであることはよく知られています。
 ぽん太はガレノスの医学や、中世からルネッサンスにかけての医学史の知識は乏しいのですが、機会があったら勉強してみたい分野です。

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2006/05/24

「八百屋お七」の吉三郎の墓が島田にあったが……

P8130203 今年になってにわか歌舞伎ファンとなったぽん太です。先日、新橋演舞場で五月大歌舞伎の夜の部を見ました。八百屋お七に題材を取った「松竹梅湯島掛額」、亀治郎の演じるかわいらしいお七と、うってかわって鬼気迫る「火の見櫓」の人形振り、よかったです。
 八百屋の娘というと働き者の元気娘を想像しますが、実は八百屋といっても大店で、裕福な商家の箱入り娘といったところです。
 八百屋お七の物語は現実の事件に基づいています。お七は、火事で避難した先のお寺の小姓と恋に落ちます。その後お七は小姓を恋いこがれ、火事になれば再会できるだろうと思い詰め、とうとう放火をしてしまいます。あわれなお七は捕らえられ、鈴ケ森で火あぶりになったのです。
 小姓の名前は吉三郎、庄之助、左兵衛など諸説あり、お七と小姓が出会った寺も、吉祥寺、円乗寺、正仙寺などの説があるそうですが、今回みちくさはやめておきましょう。
 この事件の3年後に、井原西鶴が『好色五人女』でとりあげ、その後さまざまな浄瑠璃、歌舞伎の題材となりました。
 
 で、ぽん太は以前に「吉三郎の墓」を見たことがあるのを思い出しました。2005年8月、南アルプスの縦走の帰りに、ぽん太とにゃん子は島田宿に立ち寄りました。島田宿と言っても聞いたことがないかもしれませんが、いわゆる「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」で有名な、大井川の東側にある東海道の宿場です。「島田宿大井川川越遺跡」(しまだじゅくおおいがわかわごしいせき)という名前で国指定の史跡となっております(島田市のホームページ地図)。このような重要な宿場なので、奈良井や妻籠のような風情のある観光地を想像しましたが、実際はあまり古い街並も残っていなくて、ちょっと寂れていました。
 島田の宿からちょっと歩いたところに関川庵というお寺があり、そこにひっそりと吉三郎の墓があります。吉三郎はお七が処刑されたあと、お七を弔いながら旅を続けていましたが、ここ島田で亡くなったのだそうです。
 ところが、「吉三郎、墓」でぐぐってみると、吉三郎の墓は島田以外にもあちこちあるようです。
 秋田県羽後町三輪神社http://www.bakebake.com/kaido/akita/02ugo.html
 東京都目黒区大円寺http://www.city.meguro.tokyo.jp/info/rekishi_chimei/category/rekishi/toubu/04.htm
 岡山県御津郡御津町http://www.jaja.co.jp/ts/iroiro/mitu/mitu1.htm
 岩手県水沢市法泉寺http://www.morioka-times.com/news/0412/08/04120806.htm

 ちなみに島田は、島田髷(しまだまげ)や、結婚式で花嫁さんが結う文金高島田
の発祥の地なようです。近くには世界一の木造歩道橋としてギネスブックにも認定された蓬莱橋もあります。

 お七の墓はどこ?という疑問もありますが、みちくさはやめておきます。

 ところでお七という名前の由来ですが、イヤホンガイドによると、お七の両親にはなかなか子供ができず、法華経の聖地七面山明神に願掛けをしたところ授かったので、七面さんの七をとってお七と名付けたとも、南無妙法蓮華経の七文字から取ったとも言われているそうです。身延山久遠寺から七面山に通じる参道の途中にある赤沢宿を訪ねたことは、以前に報告いたしました。
 ちなみに登山で遭難した人の遺体をオロクといいますが、南無阿弥陀仏の六文字から来たという説があります。

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2006/05/22

【ウィーン】フロイトの家(フロイト博物館)に行ったぞ

P5060077 ウィーンでの自由行動の時間を使って、フロイトの家に行ってきました。
 フロイトは言わずと知れた精神分析の創始者です。現在の精神科医療において、治療技法としての精神分析の役割は大きくありませんが、フロイトの心理学が精神医学に大きな影響を与えたことは事実ですし、精神分析が精神医学の範囲を超えて、二十世紀の思想や芸術に及ぼした影響は計り知れないものがあります。
 フロイトの家の場所はベルクガッセ19番地(Berggasse 19)です。ウィーン市内の北部、環状道路のちょっと外側で、中心部から歩いて行けるところです。地図だとこのあたりですが、ちょっと見にくいかも。
 現在はフロイト博物館(Sigmund Freud Museum)となっており、公式ホームページもあります。そのなかのこちらのページでは、平面図や、各部屋の写真を見ることができます。
 フロイト博物館というからには、遺品で当時の部屋が再現されているのかと思いましたが、写真が展示されているだけだったのが残念です。それもそのはず、フロイトがナチスに追われてロンドンに亡命したとき、家具や備品はすべて持ち出したのでした。

 さて、フロイトの家からの「みちくさ」で、ぽん太はフロイトが住んでた家を調べてみることにしました。
 まずフロイトの生家ですが、オーストリア帝国のモラヴィアのフライベルクという町の、セリエール街117番地だそうです。現在はオーストリアではなくチェコのプシーボルとなっています。フロイトが生まれたのは1856年5月6日で、そうそう、今年が生誕150年ということで、ウィーンではモーツァルトの生誕250年の陰に隠れながらも、いろいろなイベントが行われているそうです。
 さて、フロイト一家は1859年にライプツィッヒ移り、翌1860年にウィーンのレオポルド町のプフェフェル通りの家に移りました。ここはいわゆるユダヤ人街だったようで、当時のオーストリアでは、ユダヤ人の生活はまだいろいろと制限されていたのでした。
 そのあと家族が増えて8人となったため、1875年にヨゼフ皇帝街のアパートに移りました。居間、食堂、三つの寝室、小室からなっており、その小室をジクムント・フロイトが使っていたことから、彼が家族のなかでどれほど尊重されていたかがわかります。この家からはフロイトはウィーン大学医学部に通い、医師の資格を取ったのです。
 1885年4月15日、フロイトは市役所のすぐ近くにある、ラートハウス通り7番地のアパートに移り、自分の診療所を開業しました。フロイト28歳のときです。入り口の部屋と2つの大きな部屋があり、そのうちひとつはカーテンで区切られ半分が寝室になっていました。また小部屋もあったようです。ここに住んでいた時期にフロイトはパリにシャルコーを訪ね(1885〜1886)、結婚し(1886)、カタルシス法を始めました(1890)。
 1891年8月、フロイトは、ぽん太がこんかい訪ねたベルクガッセ19番地の家に転居しました。最初に借りたのは2階の東側半分で、先にあげたフロイト博物館の公式ページの平面図の左半分にあたります(この平面図は北が下になっています)。
 アーネスト・ジョーンズによれば、フロイトは1892年にさらに1階の3部屋を借り、待合室と診察室、書斎として使いました。そして1907年には2階の西側半分の部屋が空いたのでそこを借りることにし、1階の方は引き払いました。
 しかしフロイト博物館公式ホームページの年譜によると、フロイトが1階を借りたのは1897年で、2階の西側半分を借りたのは1908年となっています。フロイト博物館は、当然ジョーンズの伝記を知ったうえでこのように書いているのでしょうから、おそらくはジョーンズの方が間違っているのでしょう。
 フロイトの診察室が、エジプト、ギリシア、ローマなどの遺物で飾られ、あたかも考古学博物館のようだったことはよく知られています。このアパートでフロイトは精神分析を行い、さまざまな重要な著作を記しました。
 フロイトがこのアパートを去ったのは、1938年6月4日です。ナチスがオーストリアに侵攻したため、ユダヤ人であったフロイトはウィーンを去らざるをえなくなったのです。ロンドンに着いたフロイト一家は、まずセント・ジョンズ・ウッド地区のエルズウォージー街39番地の家に入ります。9月3日からウォリントン広場のエスプラネイド・ホテル(現在のホテル・コロネイズだそうですが、ちょっとぐぐっても、ロンドンに行ったことがないぽん太にはどこだかわかりません)に一時身を寄せ、9月16日にメアズフィールド・ガーデンズ20番地の家に移りました。フロイトは1939年9月23日に83歳で死去するまで、この家で暮らしました。この家は現在フロイト博物館となっており、ウィーンの博物館と違って多くの遺品が展示されているようで、ロンドンに行く機会があったら行ってみたいと思います。

参考文献
(1)アーネスト・ジョーンズ『フロイトの生涯』竹友安彦他訳、紀伊國屋書店、1969年(フロイトの伝記の定番だが、フロイトの弟子が書いたものなので、思い入れも見受けられる)。
(2)ピエール・ババン『フロイトー無意識の扉を開く』小此木啓吾監修、創元社、1992年(図版が多いので読みやすい入門書です)。
(3)デトレフ・ベルテルセン『フロイト家の日常生活』石光泰夫他訳、平凡社、1991年(フロイト家に使えていた家政婦さんのインタビューをもとに書かれた本で、フロイト一家の日常生活がよくわかります)。

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2006/05/20

【ブダペスト】ゲッレールト温泉に入浴してきました

P5080132 ハンガリーといえば温泉が有名だそうです。ハンガリー政府観光局のホームページによると、ハンガリーは世界有数の温泉王国で、全国135カ所の鉱泉が湧いているそうです。
 となると日本の温泉数が気になってきますが、環境省のホームページに平成16年度温泉利用状況という資料がありますが、温泉総数は3,114、源泉総数は27,644となっております。それぞれの算定方法がわからないので単純には比較はできませんが、どうやら日本の方が上回っているような気がします。残念ながら国別の統計はみつかりませんでした。
 これまで試験をほとんど一夜漬けですませてきたぽん太は、旅行の観光ガイドも前日に読むようにしていますので、出発前にブタペストに温泉があることも知らず、とうぜん水着も持ってきていません。しかし現地ガイドさんに聞いてみたところ、ブダペスト市内にあるゲッレールト温泉は水着なしでも入れる浴槽があるとのこと。そう聞いてしまうと、ぽん太の温泉ファンとしての本能が目覚めてきます。嫌がるにゃん子を引っ張って、自由行動時間に行ってくることにしました。
 とはいえ、温泉は人間が生まれたままの姿になるところです。普通の観光地なら、観光客がちょっとした間違いをしても、笑って済ましてもらえますが、温泉ではちょっとした間違いが命取りになる可能性があります。しかもぽん太とにゃん子は、男女別々の場所にいるわけで、何かあっても助けを呼ぶこともできません。裸のまま警察に連行されるのだけは避けたいところです。
 ゲッレールト温泉は、今世紀初頭に建てられたアールヌーポー様式の由緒あるホテルのなかにあります。ホテルの正面に向って右側の側面にある入り口から入ると、広々したホールがありお客さんでにぎわっています。入浴料は、ガイドブックには2,300フォリントと書いてあり、ガイドさんが以前に行ったら2,500フォリントだったと言っていましたが、実際は2,700フォリントでした。2010年のユーロ導入に向け、物価が上昇しているのでしょうか。為替レートは1フォリンとが0.54円くらいですから、日本円にして1458円といういい値段で、日本なら温泉センターのレベルです。プールなど含めてゆっくり利用しないと元がとれませんが、水着がないので仕方ありません。
 お金を払うと、パスネットのようなカードとレシートのような紙をくれます。このレシートのような紙が大切なので、なくさないようにする必要があります。地下鉄の入り口のようなゲートにカードを差し込んで、なかに入ります。更衣室の入り口がわからず迷っていたら、係りのおじさんが教えてくれました。にゃん子は女湯に入り、ぽん太は心細く思いながら男性更衣室に入ると、入り口の係員にレシートのようなものを奪われます。後で聞いた話しでは、水着がない場合ここでふんどしの前だけのような布をもらうそうなのですが、ぽん太は知るよしもありません。係員の指示に従って2階にあがると、入り口がカーテンで仕切られた一畳くらいの広さの部屋が並んでおり、なかにはベッドとロッカーがあります。中央ではおじさんがマッサージを受けていて、なにやら早くも間違えが生じたのではないかと心配です。係りのおじさんがやってきて、部屋の一つに案内してくれて、「ここで着替えろ」とハンガリー語で言ったようにぽん太には思えました。水着がないのでホテルから持って来たバスタオルを巻いた状態になり、係りのおじさんに訴えかけるような視線を向けていたら、やってきてロッカーに鍵をかけ、札を渡してくれました。ガイドブックに書いてあったので知っていたのですが、ここで更衣室の部屋番号を記憶することが大切で、おじさんがくれた札には番号は書いてありません。
 1回に降りて風呂に向かいますが、プール入り口の方にだけは行かないように注意します。素っ裸で男女混合のプールに行ってしまったら犯罪です。
 まずシャワーを浴びるのが礼儀だそうで、再びタオルを腰に巻いて浴室へと向いました。なかはけっこう広く、かまぼこ形の天井にトルコ風な装飾が施してあり、なかなか美しいです。40度と37度と書いた二つの浴槽があり、それぞれ10人くらいずつ入っていたでしょうか。観察してみると、ほとんどのひとが水着を着用しており、裸の人も二、三人いましたが、例のふんどしを着用しています。どうしようかと思案したあげく、持って来た手ぬぐいを腰に巻いて入ることにしました。しかも@ニフティ温泉のプレゼントでもらった、水色の派手々々しいやつです。以前にぽん太は、日本の温泉で海水パンツをはいて温泉に入っていた外国人を許してあげたことがあります。ですから今回ぽん太が腰手ぬぐいで温泉に入っても、ハンガリー人は許してくれるはずです。いや、それどころか、「オオ、ジャパニーズ・スタイル」「アジアン・ビューティー」と感動されること請け合いです。そこまで居直ればあとはらくちん。のんびりお風呂に入り、サウナも堪能いたしました。
 更衣室スペースに戻り、係のおじさんに自分の更衣室を指し示すと、鍵を開けてくれるので服に着替えます。出口で再び改札のようなところにカードを入れると、利用時間に応じてお金が返ってきます。ぽん太の場合は300フォリント戻ってきましたので、利用料は差し引き2,400フォリントだったことになります。
 屋内プールはとても豪華な内装で、さらに屋外プールもあります。みなさんはぜひ水着を持参し、プールを利用することをお勧めします。
 なお、にゃん子もいろいろと苦労したようですが、武士の情け、ブログで世間に公表することは避けましょう。

【まとめ】ゲッレールト温泉利用時の注意事項
1)水着を必ず持参のこと。水着なしでも入れますが、肩身の狭い思いをするうえ、プールが利用できません。
2)券売所でもらうレシートのような紙をなくさないこと。
3)更衣室の番号を記憶しておきましょう。あとでわからなくなります。

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2006/05/19

プラハ、ウィーン、ブダペストに行ってきたよ

 ぽん太とにゃん子は、ゴールデンウィークに、プラハ、ウィーン、ブダペストに行って参りました。海外旅行としては定番のコースですが、それぞれに独自の歴史と文化があり、とても興味深かったです。

P5040013 プラハは戦災にあわなかったため、さまざまな時代の古い建物が残っていて、まるでテーマパークのようでした。写真は聖ヴィート大聖堂の内部です。たくさんの美しいステンドグラスで飾られており、アール・ヌーヴォーを代表するデザイナーのアルフォンス・ミュシャによるものもあります。ステンドグラスを通して差し込んでくる太陽の光が、教会の内部を美しく染め上げます。
P5060074 ウィーンのベルヴェデーレ宮殿です。ハプスブルク家、クリムトやエゴン・シーレなどの世紀末芸術、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ザッハ・トルテなど、ウィーンゆかりのものをあげるときりがありませんが、ぽん太にとってウィーンは、何といっても精神分析の創始者フロイトゆかりの地です。フロイト博物館、行ってきました。のちほどご報告いたします。
P5080097 ブダペストの夜景です。手前はドナウ川に架かるくさり橋。かなたに浮かび上がるのは、王宮の丘のマチャーシュ教会(とヒルトン・ホテル)です。アジア系騎馬遊牧民のマジャール人を先祖とし、モンゴル帝国やオスマン・トルコの支配も受けたハンガリーは、どことなくほかの国とは違った雰囲気があります。ブダペストといえば温泉が有名ですが、行ってまいりました。そのうち報告します(元気があれば)。

 今回の旅行でぽん太が感じたのは、この地域の歴史、民族、領土、支配関係などがいかに入り組んでいるかです。頭ではわかっていたつもりですが、行ってみて実感することができました。たとえばハプスブルク家は、ウィーンにとってはマリア・テレジアなどウィーンの繁栄を可能にした誇るべき家系です。一方プラハでは、ハプスブルク家の支配下で重工業は発達しましたが、文化的支配には反発して自国の芸術が生み出されました。ブダペストでは、ハプスブルク家は抑圧的な支配者にすぎません。

 プラハ、ウィーン、ブダペストに関する観光情報はちまたに溢れているので、このブログでは、なるべくマイナーなトピックスを集めて、ときどきご報告できればと思っております。

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2006/05/02

妙義神社、湯の平温泉松泉閣、熊野皇大神社

P1010038 妙義山の中之岳神社の「日本一のだいこく様」の毒気にすっかりあてられたぽん太とにゃん子は、次に妙義神社に行きました(地図)。東照宮の彫刻師によるとされる精巧な彫刻で飾られた、黒漆塗りの社殿が美しく、本殿、総門、唐門は国の重要文化財に指定されています。
 公式ホームページがないので細かい御由緒はわからないのですが、御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、豊受大神(とようけのおおかみ)、菅原道真公のようです。
P1010056 石垣も、石と石のあいだに隙間ができないようにすりあわされており、とても高い技術で造られています。
 境内のしだれ桜も有名なようですが、残念ながらもう葉桜でした。
P1010044 神社の裏手に回るともう一カ所礼拝するところがあり、天狗のお面が収められています。なにやらアヤシイ感じがします。おそらくは山岳信仰と関係しているのでしょう。

P1010069 その夜は、湯の平温泉松泉閣に泊まりました。長野原から野反湖に向かう道の途中にある一軒宿の秘湯です。ぽん太の感想は、こちらの@nifty温泉のぽん太のクチコミをご覧下さい。公式ホームページはありませんが、こちらのページが詳しいようです。

P1010084 翌日は軽井沢にある熊野神社によりました(熊野皇大神社とも言うようです)。以前のブログで書いたように、ぽん太とにゃん子は山形県南陽市の熊野大社に行ったとき、日本三熊野がここと、和歌山の熊野三山と、この軽井沢の熊野神社だということを知ったのです。軽井沢は何度も立ち寄っているぽん太ですが、ここにそんな神社があるとはちっとも知りませんでした。
 カーナビに従って、車で旧軽井沢の商店街に突入です。きっと迂回路があるはずですが、よくわかりません。こんなところを走っていいのでしょうか? 観光客が少なくて助かりました。商店街を抜けると別荘地を行き、次第に曲がりくねった山道となります。やがて熊野神社に着きますが、周囲にはお土産屋や茶店が並んでいて、意外なほどのにぎわいです。
P1010089 狛犬です。室町時代中期の作と伝えられ、長野県内では一番古いものだそうです。犬というよりはナマズのようで、ちょっと怖いです。前回のブログで書いた、妙義山の中之岳神社の狛犬に通じるところがあります。

P1010102 社殿が本宮、新宮、那智宮と三つあるのは、本家の熊野大社に倣ったものです。特に向かって右側の新宮は黒く煤けたような色をしていて、迫力があります。
P1010108 なぜこんな辺鄙ところに立派な神社があるのか、現在の地勢を考えると不思議ですが、古くはこの碓井峠は交通の要所だったのです。ここは上州と信州の境であるだけでなく、関東地方の西の端でもあったわけです。参道に、ここが県境であることを示す表示がありました。
 『日本書紀』によると、東国を平定した日本武尊がこの地で妻を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ)と嘆いたことから、関東を「あづま」と呼ぶようになったといいます。しかし『古事記』では、日本武尊が「吾妻はや」と嘆いたのは神奈川と静岡の国境の足柄峠とされています。

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