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2006年9月の13件の記事

2006/09/30

【雑学】細井和喜蔵『女工哀史』と富岡製糸場

 紡績業の女工といえば、大竹しのぶが主演した映画『あゝ野麦峠』(1979、東宝)で描かれていたように「悲惨」というイメージがありますが、ぽん太とにゃん子が以前に富岡製糸場を訪れたとき、ここで働いていたのは旧藩士や華族の子女たちのエリートであり、設備や環境も整っていたと知って驚いたのでした。当時の女工の生活を知るための資料としては、『富岡日記』(和田英著、中央公論新社、1978年)(山形浩生がテキスト化したものあり)がありますが、読んでみるといろいろと大変だったようですが、悲惨という感じはしません。『あゝ野麦峠』の哀れな女工たちと、富岡製糸工場の近代工場は、あまりに違いすぎて、ぽん太の頭の中ではどうしてもつながらないのです。

 そこでこんかい、本屋でたまたま目についた『女工哀史』(細井和喜蔵著、岩波文庫、1954年)を買い求めて読んでみました。「女工哀史」という言葉は広く知られていますが、実際に本を読んだ人は少ないのでは? ぽん太もその一人でした。
 この本は、1923年(大正12)7月に書き始められ、1925年(大正14)7月に出版されたそうです。ちなみに関東大震災は1923年(大正12年)9月ですから、当時東京にいた著者は、書き始めてすぐに関東大震災に遭ったようです。
 『女工哀史』の著者が細井和喜蔵だということも、ぽん太は初めて知りました。このひと自身も、長いあいだ紡績工場の職工をしていたそうで、のちに社会運動に関わるようになり、自分のまわりで長年見聞きしてきた女工の生活を書物にまとめようと考えたそうです。

 繊維業は日本の近代化をすすめる上で最も重要な産業のひとつでした。富国強兵を行うためには外貨を獲得しなければなりませんが、その主要な手段が繊維製品の輸出であり、日本は国をあげて繊維業の育成を行ったのです。その結果、1937年(昭和12)頃には、木綿・麻・絹・毛を合わせた繊維製品は日本の総輸出額の45%を超え、綿布の輸出は世界の綿布総輸出額の40%を占め、イギリスを抜いて世界一になったそうです(津名道代「日本史のなかの女性 20」)。
 で、当時の女工たちがいかに悲惨だったかということになるのですが、いちいち書き写すのは面倒なので、上記のリンクを参照するなり、各自ググルなりしてくらはい。ただ注意すべきは、この本に描かれた世界を現代の平均的な生活と比べて、「ああ悲惨だ、ああかわいそう」と言っていても仕方がないのであって、当時の一般的な社会のなかで彼女たちの生活はどうだったのか、あるいは現代の日本社会のなかで虐げられているひとたち(たとえば外国人留学生)と比べてどうかなどを考えてみる必要があるということですが、ぽん太にはそれをするための知識がありません。また、著者の見方がどれだけ正確で公平だったかという問題もあることは、言うまでもありません。
 で、当初の疑問であった、女工哀史の悲惨な女工と富岡製糸場のエリート女工とのギャップの問題に戻りましょう。最初に考えられるのは、時代の違いです。富岡製糸場の操業が開始されたのは明治になって間もない1872年(明治5)でした。この工場は、機械を使った大規模な近代製糸工場を日本にも導入しようという目的で造られた、官営模範工場でした。当時においては、最先端の技術を備えた工場だったわけです。一方で『女工哀史』が書かれた大正末期には、繊維工場はどこにでもある普通の工場となっており、技術としても目新しいものではなく、仕事の内容も子供にもできる単純労働となっていたわけです。してみると女工の待遇に差があるのは当然に思えてきます。
 さて、ギャップの第二の理由としては、工程の違いが考えられます。細井和喜蔵は「自序」のなかで、「紡績女工および織布女工に次いで多数を占め、制度の桎梏を受けながら重要な生産を営んでいるものは製糸女工であるが、『女工哀史』という表題のものに少しもそのことを書かなかったのは遺憾だ」(8ページ)と書いています。つまり、われわれ素人は、紡績も製糸も一緒くたに混同してしまいますが、『女工哀史』は紡績、織布に携わっていた女工を描いたものであり、製糸工場はまた別ということになります。しかしながら細井も書いているように、労働環境は大同小異だったようにぽん太には思えます。
 ということで結論としては、『女工哀史』と富岡製糸場の女工の生活にギャップがあるのは「時代の差」だった、ということになりそうです。

 しかしそうだとすると、別の疑問も湧いてきます。官営であった富岡製糸場は1893年(明治26)に三井家に払い下げられ、以後何回か会社を変えながら、民営の工場として1987年(昭和62)まで操業が続けられました。大正から昭和初期にかけての女工たちの待遇はどうだったのでしょうか。次第に『女工哀史』のようになっていったのでしょうか。それとも元官営工場としてある程度の水準が保たれたのでしょうか? 富岡市の富岡製糸場・世界遺産推進ホームページにはまったく書かれていません。世界遺産の認定を受けようとするのなら、負の歴史(あったとしたら)に関してもはっきりと公表すべきだと思います。

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2006/09/29

【温泉】八幡平の秘湯、藤七温泉彩雲荘は夕食時のパフォーマンスで大笑い(★★★★)

P9190002 岩手山からぼろぼろの状態で下山してきたぽん太とにゃん子は、冷えきった体を温めるべく、藤七温泉彩雲荘に宿を借りました。
P9190004 藤七温泉は、八幡平を巡るアスピーテラインの見返峠の近く、標高1400メートルの高所にある一軒宿の秘湯です。もちろん電気は自家発電、電話は衛星電話です。
P9190001 建物は素朴な山の宿風で、廊下もうねうねと歪んでいますが、冬は数メートルの雪に覆われるという条件のもとでは仕方ありません。部屋もこざっぱりしていて気持ちいいです。
P9180010 お湯は白濁した強酸性のお湯で、もちろん源泉掛け流し、泉温が高いので加水はしているそうです。そしてなんといっても、素朴で開放感あふれる混浴露天風呂が最高です。ぽん太が泊まった日は雨でしたが、天気がよければ景色もすばらしいことでしょう。男女別の風呂も木のぬくもりが心地よいです。
P9180009 食堂でいただく夕食も、地元の山菜やキノコ、豆腐など、素朴で美味しかったです。そして日帰り入浴の人は絶対に見れないのが、夕食のときのパフォーマンスです。従業員の方が、地元の方言を駆使して、宿の紹介や周囲の観光案内など、おもしろおかしく語ってくれます。みな大爆笑でした。
 素朴な宿と料理、豪放闊達なお湯と露天風呂、くつろげるすばらしい宿です(2006年9月宿泊)。

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2006/09/28

【登山】暴風雨の岩手山で修行する

 はじめにことわっておきますが、今回は風雨がひどくてとても写真が撮れる状態ではなかったので、写真はありません。

【山名】岩手山(2038m)
【山域】東北
【日程】2006年9月18日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】雨〜暴風雨
【コース】馬返し登山口(6:49)…岩手山頂(11:09)…馬返し登山口(14:31)
【マイカー登山情報】馬返しに広い駐車場があり、清潔なトイレもある。

 九州に大きな被害をもたらした台風13号は日本海をゆっくりと北上中。しかし盛岡市内は小雨の状況だったので、当初の予定通り岩手山を目指すことにしました。
 雨具をがっちりと着込んで、小雨のなか馬返し登山口を出発。しばらくは樹林帯の道が続きます。振り返るとふもとの町は見えるのですが、山頂方面は完全に雲に覆われています。登るにつれて火山砂礫の低木帯になりますが、それにつれて風雨も強まり、寒さに手がかじかみます。やがて到着した岩手山八合目避難小屋は、収容人数約100名で、「避難小屋」と呼ぶにはあまりに立派な「避難小屋」です。途中、雨で登山者が少ないからと下山中の管理人とすれ違い、小屋には誰もいませんでしたが、薪ストーブに残る余熱で暖をとりました。
 そこから火山砂礫の急坂を登ってお鉢の稜線に出ると、すごい風です。飛ばされるほどではありませんが、よろけてまっすぐ歩けません。そのうち風に寄りかかるようにすると、うまく歩けることがわかってきました。ちなみにぽん太が体験した一番の強風は鳥海山の稜線で、このときは一歩も踏み出せないほどでした。岩陰で風をよけ、一瞬風が弱まるすきを狙って、次の岩陰に移動するという感じでした。こんかいの風はそれほどではありませんでしたが、大粒の雨が混ざっているので、顔を打ち付ける雨粒が痛くてたまらず、目を開けていられません。岩手山はもともと信仰の山で、登山道の横にも石仏が並んでいます。これは滝に打たれてる修行だと観念して歩きました。ようやく辿り着いた山頂も早々に退散。せっかくなのでお鉢まわりをして、360度から滝に打たれて下山しました。台風に南からの風が流れ込んでいたので気温はそれほど低くありませんでしたが、それでもすっかり冷えきった体を再び岩手山八合目避難小屋でゆっくりと暖め、登山口に降りました。

関連リンク
・岩手山ライブカメラ
  http://www-cg.cis.iwate-u.ac.jp/live_camera.html
・岩手山登山情報
  http://www.highway.pref.iwate.jp/mount/tozan/course/index.html

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2006/09/27

【居酒屋】盛岡の南部どぶろく家で東北を食す(★★★★)

P9170007.jpg ぽん太とにゃん子は、山と温泉と酒を求めて、東北に遠征してきました。
 新幹線で盛岡に着き、ビジネスホテルに宿泊。腹鼓を打ちながら夜の街へと繰り出します。ひなびた温泉旅館も風情がありますが、地方都市のビジネスホテルに泊まって街の居酒屋で飲むのも、その土地の雰囲気が味わえてぽん太は大好きです。
 こんかい訪れたのは「南部どぶろく家」です。土蔵風の外観、木の看板が素敵です。暖簾をくぐると、民芸調の店の真ん中に、作務衣をきた貫禄あるおじさんがどっかと座って、店を仕切っています。
P9170003.jpg おすすめは、店の名前にもなっている「どぶろく」です。注文すると店主自身が、床下に埋め込んだカメから片口に汲んでくれます。純米酒でとても舌触りが柔らかく、度数もワインぐらいとのことで飲みやすいお酒です。
 そして料理は、三陸の宮古港直送の新鮮な魚介類と、盛岡の郷土料理。ミリキ的なメニューが並びますが、全部は食べきれないのが残念です。印象に残っているのは、ホクホクのジャガイモの上の自家製味噌が香ばしい「じゃがいもの味噌焼き」、まったく臭みがなくて柔らかい「生」馬刺。三陸漁師風という「かつをタタキ」は、味噌で錬ってあり、なめろうのような感じでした。
 しかし何といってもこの店の楽しみは、店主との会話です。お酒や料理の説明から地元の話題まで、なにやら民家に招かれて飲んでいる気分になってきます。
 おかげで今回の東北旅行は、最高のスタートを切ることができました。おススメです。

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2006/09/16

【温泉】平湯の湯は素朴で静かな穴場です(★★★★)

P8310082 笠ケ岳から脱水と疲れでヘロヘロの状態で下山してきたぽん太とにゃん子は、いつものように温泉で汗を流すことにしました。前回の荒神の湯もよかったですが、こんかいは雑誌で見た平湯の湯にしてみました。
 安房トンネルの出口にほど近い平湯温泉内にあるので、大混雑の温泉センターを予想していましたが、とても静かでひなびた雰囲気でした。
P8310086 入り口の看板は平湯民俗館となっており、合掌造りの家が移築されていたりして、とても温泉とは思えない雰囲気です。男湯は一部に屋根がかかった露天風呂となっており、なかなか風情があります。お湯は緑褐色のうす濁りで、鉄の味がします。成分が濃そうな感じです。お湯の成分表示がないのが残念です。洗い場の蛇口などはありません。夏休み中というのに誰もおらず、貸切でゆったり入れました。
 近くにあるひらゆの森のほうは観光客で賑わっているようでした。しずかなお湯をお望みのかたは、平湯の湯をお勧めします。

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2006/09/15

【登山】笠ケ岳はとにかく長いにゃ〜

P8310068 ぽん太とにゃん子は、これまで何回か新穂高ロープウェイを使って、西穂高岳、あるいはその途中まで登ったことがありました。そのたびごとに、背後に壁のようにそびえる笠ケ岳に登ってみたいと思ったのですが、こんかいやっと実現しました。

【山名】笠ケ岳(2897.5m)
【山域】北アルプス
【日程】2006年8月30日〜31日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】(8/30)曇りのち雨、(8/31)快晴
【コース】(8/30)新穂高温泉(4:54)…(笠新道)…笠ケ岳(14:05)…笠ケ岳山荘(泊)
(8/31)笠ケ岳山荘(6:55)…笠ケ岳…抜戸岳…(笠新道)…新穂高温泉(13:51)
【マイカー登山情報】登山地図に出ていた無料駐車場がどうしても見つからず、仕方なしに新穂高ロープウェイの駐車場に車を停めました。6時間1000円なり。一泊二日で3000円もかかってしまった。駐車場の入り口に「登山の方はご注意ください」と書いてあったが、肝心の無料駐車場がどこにあるかは書いてありませんでした。家に戻ってからググってみると、深山荘の表示に従って蒲田川に降りたところにあるそうです。皆さん、ご注意ください。
【見た花】ツルニンジン、ニッコウキスゲ、シモツケソウ、サラシナショウマ、タカネヒゴタイ、ミヤマオトコヨモギ、ミヤマリンドウ、エゾシオガマ、アキノキリンソウ、ミヤマヤハズハハコ、クモマニガナ、ネバリノギラン、ウサギギク、ハクサンフウロ、ミヤマトリカブト、トウヤクリンドウなど

 8月29日の診察を終えてから車で出発。道の駅・奥飛騨温泉郷上宝に車を停め、車中泊しました。
 翌8月30日、朝の4時に起きて登山口に向かいます。無料駐車場が見つからず、有料駐車場に車を停めたことは既に書きました。
 ヘッドランプがいらなくなる5時前に出発です。まずは1時間の単調な林道歩きで、そこから笠新道の急登にかかります。天気予報ではだんだん天気が良くなるとのことでしたが、登るにつれてガスがかかって雨も降り出し、途中から雨具を着込みました。でも、暑い、暑い。ちょっと姿を見せた槍ヶ岳も、あっという間に雲間に消えて、単調な登りを約4時間。稜線を越えてひょっこり杓子平に出ると、笠ケ岳が目の前に立ちはだかります。しかしそこからがまだまだ長い。
P8300041 途中でライチョウに会いました。足のあたりに冬の白い羽が出始めて、冬支度が始まっていました。
 休み休みとはいえ、延々と8時間の登りです。こんな長い登りはぽん太は初めてで、山小屋についたときはヘロヘロでした。あとから登ってくるひとたちも皆疲れきった表情で、夕食の時間を過ぎて到着するひとたちもいました。天気は悪かったですが、とりあえず山頂までピストンしておきました。笠ケ岳山荘は、夏休みも終わりの平日のせいかあまり混んでいませんでした。きれいで心地よい山小屋です。笠ケ岳山荘のホームページは、なんだか凝りすぎていて、ぽん太のマックでは表示できません。緊急避難の役目もある山小屋ですから、多少デザインが悪くても、誰でも見られるようなホームページを希望します。
P8310047 翌朝は快晴。槍ヶ岳の少し南、大喰岳と中岳のあいだあたりから朝日が昇ってきました。すばらしい光景でした。帰りはクリヤ谷方面に降りようかとも思ったのですが、昨日見えなかった槍ヶ岳を近くから見たくなり、往路を戻ることにしました。
P8310050 帰る前に、もう一度山頂に登りました。笠ケ岳の山頂の写真です。その向こうに乗鞍岳、そしてはるかかなたに木曽御嶽山が見えます。
P8310061笠ケ岳から抜戸岳へ向かう稜線です。彼方に槍ヶ岳が見えます。
 帰りに抜戸岳によりました。下山路から100メートル程度ですが、人も少なく、笠ケ岳の見晴らしもすばらしいので、ぜひ立ち寄ることをお勧めします。
 この日はとても気温が上がり、季節外れの暑さのなか、笠新道の急坂を下りました。1.5リッターの水を飲み干してしまいました。林道に出たところの水場で水を汲もうと思っていたのですが、水が出ていませんでした。皆さんもご注意ください。林道を1時間下って、ようやく水にありつきました。やれやれ、疲れました。

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2006/09/14

【ラカン『精神分析の倫理』】カタルシスとアリストテレス

 誰も覚えていないでしょうけれども、ぽん太はラカンの『精神分析の倫理 下』を細々と読んでいたのでした。前回は6月5日でした。別に個人の趣味で読んでいるだけですから、まったく急ぐ必要はないのです。今日はちょっと時間ができたので、久々に少し読み進めてみましょう。118ページの6行目からです。

 ラカンはカタルシスについて論じているのですが、次はギリシア時代における「カタルシス」の意味です。医学的に「正常に復すること」や、儀式的な浄化といった意味があったそうですが、いまは深入りしないでおきます。
 次の段落ではドン・ランバンという16世紀の人を挙げていますが、この人が誰なのか、ぽん太にはまったく見当がつきません。
 さて、13行目からいよいよアリストテレスが取り上げられます。アリストテレスとカタルシスといえば、なんといっても『詩学』の第6章における悲劇の定義が有名です。ぽん太が持っている『詩学』(松本仁助他訳、岩波文庫、1997年)では34ページですが、「悲劇とは……あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである」と書かれています。
 とっても有名な一節ですが、じゃあその意味は何ですか?というと、実はいろいろな説があって、よくわからないようです。この岩波文庫版には、カタルシスという言葉に訳注がついています。そこには「カタルシス(katharsis)という語は、主として、医療において身体のなかから害をなすものをとり除くこと、すなわち瀉出(purgation)という意味と、宗教的な浄め(purification)、例えば浄めの儀式、という意味で用いられた。アリストテレースは『詩学』においてこの語について説明していないので、その意味についてさまざまの推測がおこなわれてきた」(139ページ)と書かれています。このあたりが、先ほどラカンが6行目から12行目にかけて言っていたことだと思われます。
 ラカンは『詩学』に関して、「ご存知と思いますが、『詩学』はその一部、だいたい半分しか現存していませんから」と書いておりますが、岩波文庫版『詩学』の解説において、『詩学』はもともと講義ノート、草案、メモだった考えられており、第二巻では喜劇について論じられていたと推測されるけれども、現存の写本ではこの部分は無くなっていると書かれています(313ページ)。
 次いでラカンは、アリストテレスの『政治学』を取り上げます。ぽん太が持っているのは『政治学』(牛田徳子訳、京都大学学術出版会、2001年)です。そこには「『浄化』でもって何を意味するかに関しては、いまは説明ぬきでこの語を使うことにし、詩学の論述のなかでふたたびそれを取りあげて、もっと精密に語ることにする」(425~426ページ)と書かれています。ここの訳注では、現存する詩学が「カタルシス」について簡単に触れているだけであることを指摘したうえで、その部分が散逸してしまったか、アリストテレスが約束を果たさなかったのかどちらかだろうと述べています。
 「カタルシス」について触れられている『政治学』の第8巻は、教育がどうあるべきかについて書かれている部分で、アリストテレスといえば抽象的・観念的な哲学的議論ばかりしているひとだと思い込んでいたぽん太は、少しびっくりしました。

 さて、ちと疲れて来たのでここらでやめにして、次回は119ページ2行目から、アリストテレスの『政治学』についいて論じている部分を読んでいきましょう。

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2006/09/08

最近目につくダッタン蕎麦とイベリコ豚ってなに?

 何年か前から、蕎麦屋などに行くと「ダッタン蕎麦」とか「ダッタン蕎麦茶」というのが目につくようになりました。また最近レストランなどに行くと、「イベリコ豚」を使ったメニューが目につきます。で、ダッタン蕎麦とかイベリコ豚というのは何でしょう。また、最近目につくようになったのはなぜでしょう。だれか仕掛人がいるのでしょうか?

 まずダッタン蕎麦から。ダッタンと聞いてぽん太が思い出すのは、「ダッダーン、ボヨヨン、ボヨヨン」というコマーシャルと、ボロディンのオペラ「イーゴリ公」のなかの「ダッタン人の踊り」という曲です。で、前者は無視して後者ですが、そういえば「ダッタン人の踊り」も、どこかのコマーシャルで使っていましたね。前奏の次のメロディーだったと思います。聞きたい方は、たとえばこちらのフラットというホームページの下のほうの青色の部分に、MIDIとMP3のファイルがあります。
 で、ダッタン人って何だ? まずgoo辞書で引いてみると、「だったん 【韃靼】  八世紀にモンゴル高原にあらわれたモンゴル系の一部族。のちモンゴル族の総称となり、明代では北方に逃れたモンゴル帝国の子孫を呼んだ。タタール」と書かれています。なるほど、もともとはモンゴルの一部族の名前が、やがてモンゴル全体をさすようになり、さらにモンゴル帝国の子孫までも意味するようになったということですな。そしてタタール(Tatar)と同じ意味だそうです。ところでタルタルステーキやタルタルソースのタルタル(tartar)というのは、「タタールの」という意味だそうです。知らなかった……。
 ボロディンの「ダッタン人の踊り」ですが、英語ではPolivtsian Dancesとなっています。Polivtsianという語はgoo辞書にも出ていないのですが、ウィキペディアの「イーゴリ公」の項目にありました。ポロヴェツ(クマン人)のことだそうで、同じウィキペディアのクマン人の項に詳しく書いてあります。よってポロヴェツはダッタン人ではないのですが、これは誤訳というよりも、わかりやすく訳したと言われているようです。

 さて、ダッタン蕎麦を調べてみると、goo辞書に出ていました。「韃靼蕎麦 【ダッタンそば】  蕎麦の品種の一。中国,モンゴル,ネパールの高地などで栽培され,稔実(ねんじつ)性がよく多収。日本では食用にされていなかったが,日本蕎麦に比べ血圧降下作用があるルチンなどを多く含み注目されている。苦みがあるため苦そばともいう」。なるほど、モンゴルで栽培されていたのですね。
 また太洋物産のホームページを見てみると、「私共太洋物産株式会社は、この韃靼蕎麦(ダッタンそば)に10数年前から着目し、独自に開発輸入をしてきました。現在、日本に輸入されるダッタンそばの大部分を、太洋物産が取り扱っています」と書いてあり、ホームページを見るかぎり、ダッタン蕎麦の仕掛人のひとつのようです。
 そのホームページによると、食品用のソバは普通種とダッタン種に大別され、そのダッタン種のひとつがダッタン蕎麦だそうです。味が苦いのが特徴で、苦蕎麦とも呼ばれます。栄養的にはルチンの含有量が普通のソバに比べて100倍も多く、そのほかの栄養分も豊富だとのことです。で、ダッタン蕎麦の名前の由来ですが、1840年頃にドイツの植物学者が「タータクリム」という学術名を付けたのですが、この名前は「タタール」から来ているため、ダッタン蕎麦という名ができたそうです。
 なるほど、だいたいわかりました。

 で、次はイベリコ豚です。
 まずgoo辞書で引いてみると、「イベリコ豚 【イベリコぶた】  ブタの一品種。スペインのイベリコ(Iberico)地方で,どんぐりなどを飼料として飼育された黒豚。肉質が良く,脂肪に独特な味があり,栄養価も高いことから珍重される」。さらにググってみると、こちらのページに、イベリコ豚の特徴について詳しく書かれています。で、そこには「長い間、スペインの豚肉は禁輸でしたが、ここ1〜2年、ようやく色々な形での輸入が本格化してきました」(2004年3月の記事)と書かれています。つまり、もともと世界的に有名な食材であったイベリコ豚が、ここ数年、輸入が許可されて国内に出回るようになったということのようです。
 さらにググってみると、豚肉・豚肉製品の対日輸出再開(スペイン)という2003年2月25日の記事がありました。それによると、スペイン産の豚肉の輸入は1999年に解禁されましたが、2001年6月にスペイン・カタルーニャ地方で豚コレラが発生したため、日本政府は輸入禁止措置をとりました。スペインの豚コレラの発生が治まり、日本が輸入再開をしたのが、2003年2月17日だそうです。この後、イベリコ豚が輸入されるようになったと考えると、ぽん太の実感とだいだい会っているようです。

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2006/09/07

【蕎麦】奥藤本店はとりもつ煮が旨い(★★★)

P8100410 湯村温泉の三枝酒店で地酒をしこたま仕入れたぽん太とにゃん子は、次は腹ごしらえをすることにし、山梨県甲府市の甲府昭和インター近くにある奥藤本店(おくとうほんてん)でみちくさしました。公式ホームページは内容なので、詳しい情報や地図はこちらのるるぶ.comのページをご覧下さい。
 車で行くと、場所がちょっと奥まっていてわかりにくいのですが、駐車場は広いです。新しくて広くて落ち着く和風建築です。ぽん太は初めての蕎麦屋ではシンプルにもりそばと決めていますが、名物と聞いて「とりもつ煮」を追加してみました。ぽん太は知りませんでしたが、山梨の人たちにとっては「蕎麦屋にとりもつ煮があるのは当たり前」なんだそうですが、その鳥もつ煮を考案し、普及させたのが、奥藤の二代目の塩見勇蔵さんだということです。甘辛くておいしく、生ぐささは全くありませんでした。しかし味が濃いので、とりもつ煮を食べてしまうと、蕎麦の味がわからなくなってしまう面もあります。で、蕎麦もなかなか美味しかったです。甲府昭和インターから近いので、ちょっと立ち寄るのにも便利です。

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2006/09/05

【酒屋】甲府市湯村温泉の三枝酒店は地酒が充実(★★★★)

 清春芸術村が納得いかなかったぽん太とにゃん子は、東京の巣穴へ帰ることにしましたが、ちと時間が早かったので、山梨県甲府市の湯村温泉の一角にある三枝酒店によってみました。るるぶに広告が出ていて、よさそうだったからです。三枝酒店はホームページがないようで、Yahoo電話帳の電話番号や住所地図を参照して下さい。
 店内の冷蔵庫には、日本各地のおいしそうなお酒が並んでおり、なかなかいい品揃えで、期待が高まります。しかしぽん太とにゃん子が目指すのは地元山梨の地酒。「何かいい地元の酒はありますか」と聞いたところ、店主と思われるおじさんが「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりにやってきて、ずらっと十数本のお酒を机の上に並べました。そうして、こだわりの酒店によくある講釈が始まります。ご家族と思われる店員さんは、「またはじまった」という雰囲気です。ひとつひとつの酒蔵に関して、お米や水の特徴、歴史などを説明してくれました。ただ「どんな味か」という説明がないのが気になったのですが、手頃な値段でおいしそうなお酒を何本か選んで買いました。
 近くに某有名元サッカー選手の家があることを教えてもらい、邪魔にならないようにちらっと見てきました。もちろん地図などの表示は差し控えます。
 家に帰って、買って来たお酒を飲んでみました。味に関する説明がなかったので、当たりかはずれか不安だったのですが、大当たりでした。とってもおいしゅうございました。また利用してみたいと思います。

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2006/09/03

作業所に年齢制限ーーで、どこに行けばいいの?

 全国的なのか、東京都だけなのか、ぽん太の開業している地域だけなのかわかりませんが、作業所に年齢制限が設けられつつあります。
 数年前に75歳以下という年齢制限が設けられ、その後は毎年2歳ずつ年齢制限が若くなり、最終的には65歳まで引き下げられるそうです。具体的には、年齢制限を超えた人に関しては作業所に対して補助金が降りないようです。
 で、年齢制限が設けられた根拠ですが、「作業所というのは働くところである。健康なひとでも65歳で退職するのが普通である。だから65歳以上のひとが作業所に通う必要がない」というのが市の言い分だそうです。しかしこれは重要な点を見逃していて、精神障害の作業所は、たんなる就労施設ではなく、作業やレクリエーションを通して能力を高めるリハビリテーションの施設でもあり、生活全般の支援をする場でもあり、もろもろの悩みごとの相談も受ければ、友達作りの場、日常の居場所でもあるわけです。
 作業所を辞めたあと、障害者のひとたちはどこに通い、どこで上記のようなサービスを受ければいいのでしょうか?
 「介護保険を使え」というのが市の考えのようですが、精神障害者の場合、認知症や寝たきり老人とは違って、足腰が悪いわけでもないし、身の回りのことができないわけでもありません。従って介護区分の判定が軽くなってしまい、利用できるサービスが少なくなると思われます。また現時点では、高齢の精神障害者専門の介護保険施設はありません。ところが認知症と精神障害とでは、関わり方や対応の仕方が大きく異なります。認知症のひとたちのなかに、ぽつんと精神障害のひとが混ざっているのは、ご本人にとっても、介護施設にとっても、いいことではありません。
 なぜこのような無意味なことが行われたのか考えてみると、推測ですが、一般の福祉予算をなるべく減らして、(税金も投入されていますが)保険料を使い、民間企業が参入している介護保険に振り替えていこうとしたのだと思います。「民間でできることは民間で」という流れに乗っているのでしょう。ところが2005年9月1日の郵政選挙のどさくさで、十分な審議もされないままあっというまに「障害者自立支援法」が成立し、2006年4月1日から施行されました。この自立支援制度は、おそらく将来的には介護保険と一体化する見通しです。結果として作業所に65歳の年齢制限を設けた意味がぼやけてしまったようにぽん太には思えます。
 で、理屈はともあれ、実際問題として年齢制限にひっかかって作業所を辞めるひとが出て来ているわけですから、早急に次のような対応が必要と思われます。第一に、介護保険の介護度の認定にあたって、精神障害に特有な判定項目を加えること。第二に、高齢の精神障害者専門の介護施設を作ることです。
 ぽん太のクリニックでは、すでにひとり年齢制限にひっかかって作業所を辞めた方がいらっしゃいます。ご家族の協力もあり、介護保険のデイサービスに週2日だけ通うことになりました。70歳以上の高齢になって、20年近く通い続けたところを去り、まったく新しい環境に入るのは大変なストレスでした。「何でもやってくれて楽です」とおっしゃっておりますが、この患者さんは精神障害による思考障害はあるけれど、認知症の症状はほとんどありません。認知症の人たちの間に入り、逆に能力を失わないか心配です。
 現場のわれわれは、福祉難民が作り出されていくのを手をこまねいて見ているしかないのでしょうか?

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2006/09/02

清春芸術村は社会に背を向けたスノッブな空間だ

P8100225 青木鉱泉で凛とした気分になったぽん太とにゃん子は、長坂にある清春芸術村に行ってみました。そのなかにある清春白樺美術館は、上記のホームページによれば、「1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです」と書いてあります。ん? 武者小路実篤? 志賀直哉? 幻の美術館? これは行ってみなければなりません。
 で、行ってみると、かなり不便な場所にあります。で、入り口には、「ここは創作の場なので敷地内での飲食はご遠慮願います」みたいな表示がしてあります。最初に目につくのは、南アルプスを背景にたたずむ、ラ・リューシュという煉瓦造りの美しい建物です。この建物は、芸術家の創作の場として、アトリエと生活設備を備えているのだそうです。
 しかし、ぽん太は思いました。確かに風光明媚なところだけれど、中東では戦争が起きて人が死んでいる時代に、世間から隔絶されたところで芸術に没頭してていいのでしょうか? 
 で、ラ・リューシュの解説を読んでさらに驚きました。この建物は、もとはエッフェル塔で有名なギュスターブ・エッフェルが1900年のパリ万博のパビリオンとして建設したもので、それがパリのモンパルナスに移築されてアトリエに改装され、若き日のシャガール、スーチン、モジリアニなどが住んだところとして有名なのだそうです。清春芸術村のラ・リューシュはそれを模して、1981年に建てられたものだそうです。
 パリの有名な建築をまねた建物を日本に造るとは、なんという俗物根性、西洋コンプレックスでしょうか。しかも当時のモンパルナスは物価や家賃が安い寂れた郊外で、そこにお金のない芸術家たちが集まってコミュニティーをなしていたのであり、そこはまさに社会のまっただ中であり、けっして世間から隔絶された理想郷ではありませんでした。清春芸術村のラ・リューシュのアトリエの使用料は1日6000円だそうです。一ヶ月借りたら18万円で、この家賃ではシャガール、スーチン、モディリアニが借りることができません。
 なんじゃ〜、やっぱ白樺派っていうのは、学習院出のお坊ちゃんのお遊びだな〜という気がするのですが、まてよ、もう一度清春白樺美術館の公式ホームページの解説を読み直してみると、「武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです」とある。つまり清春芸術村は、白樺派の人たちによるものではなく、白樺派に関わりがあった吉井長三が勝手に造ったものではないか。とすれば責任は吉井長三にあり、白樺派の作家たちにはない。実際、白樺派の人たちはどこで「幻の美術館」について語っているのか、と疑問は尽きないのですが、このへんでみちくさは止めておきましょう。
 清春芸術村の庭の一角に、茶室 徹(てつ)があります。路上観察学会で有名な藤森照信の設計だそうですが、これではゲゲゲの鬼太郎の家です。
 ところで「幻の美術館」ではなくて、武者小路実篤の「新しき村」というのがあったような気がします。これもぽん太はよく知りませんが、ググってみると、1918年に宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を建設したものの、1938年にダム建設により水没し、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町に「新しき『新しき村』」が造られたそうです。こんな近くに「新しき村」があったとは知りませんでした。そのうち行ってみたいと思います。
 ちなみに、ぽん太がむかし北海道で行き当たりばったりの旅をしていたとき、ニセコ町の有島というところを通りかかりました。ここは白樺派の有島武郎が農場開放を行ったところで、現在は有島記念館があります。そこでぽん太は、有島武郎が精神病院で看護人をしていたことを知ったのですが、それについては時を改めてみちくさすることにいたしましょう。

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2006/09/01

【自立支援医療費】上限管理票の交換日記は煩雑すぎ

 2006年4月1日に自立支援医療費制度が施行されてから、5ヶ月がたちました。しかし医療の現場では、煩雑な事務処理に慣れてくるるどころか、あいかわらず混乱が続いております。
 その最たる例が上限管理票です。東京都の上限管理票がどういうものかは、こちらのpdfファイルの3ページ目をご覧下さい。自立支援医療費制度では、患者さんの所得に応じて、医療費の自己負担に月ごとの上限額が設定されました。例えば上限が2500円に設定された患者さんは、窓口で医療費の1割を支払っていき、その額を足し算していき、その月の支払額の合計が2500円になったら打ち止めとなり、それ以上は支払わなくていいのです。
 ところが医療費の自己負担は、診療所(病院)と薬局の2カ所、人によってはさらにデイケアを加えた3カ所で発生します。複数の場所で支払った医療費の合計が、上限を超えたかどうかを確認する必要があります。そこでお役人さんが考えたのが、患者さんに上限管理票という紙を持たせ、医療費の自己負担が発生するたびにその額を記入して足し算していき、上限額に達したところで打ち止めとするという方法です。
 つまり、患者さんを郵便配達にして、診療所と薬局(とデイケア)で「交換日記」をするわけです。このIT化の時代に、コンピューターで処理できない方式を考えだすというお役人さんの頭脳には、つくづく感服いたします。当然のごとく、患者さんが上限票を忘れたり、なくしたりすることもあるわけです。「忘れたりなくしたりした患者さんが悪いんだから、こっちは知りませんよ」と1割を請求し、上限管理票への記入もしないという方法もありますが、クリニックとしては、なるべく患者さんの不利にならないかたちで処理しようとしますので、さかのぼって記載したり、あとから返金したりと、事務処理が大変です。
 だいいちこの書類、でかすぎます。健康保険証が最近やっとカードサイズになってきたというのに、上限管理票は従来の保険証の倍のサイズの書類なのです。
 さらに複雑なのが、東京都の国保受給者証を受けている場合です。この場合患者さんの窓口負担はゼロですが、東京都の補助額を決定するために、上限管理票の交換日記はしなければなりません。患者さんにしてみれば、自己負担をしていないのに自己負担額が書かれるので納得できない場合が多く、まずそれを説明するのが大変でしたし、最近は患者さん自身に関係ないので書類を忘れがちになってきます。東京都の事務処理の手伝いを精神障害者にさせるのは止めてほしいと思います。
 この制度で医療費をどれだけ節約できるのか知りませんが、その事務処理のためにかかったコストに見合っているのでしょうか。お役人さんには、コストとか手間という概念がないのかもしれません。
 ということでこの方式は早く廃止してほしいのです。例えば多少整合性に欠けますが、医療機関、薬局、デイケアでそれぞれ上限額を決めるなどして、交換日記は止めることによって、事務手続きは非常に楽になりますし、患者さんもいちいちばかでかい書類を持って来る必要がなくなるはずです。

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