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2007年1月の11件の記事

2007/01/30

【南イタリア旅行】モンレアーレ、パレルモ

P1020174 ぽん太とにゃん子の南イタリアの旅も、もうすぐ終わりです。モンレアーレを観光し、パレルモで一泊したら、ミラノを経由して日本の巣穴に帰らなければなりません。お名残惜しゅう存じます。
 モンレアーレはパレルモを見晴らす山の上に造られた街です。シチリアでこれまで観光してきたところは、ギリシアの遺跡が多かったのですが、ここモンレアーレやパレルモは、ビザンチンやイスラムの影響も受けた多文化混交の街です。
 モンレアーレの一番の見所は1174年に造られたドゥオーモ(大聖堂)で、なんでもビザンチン様式とかいうものだそうで、キリストのモザイク画が有名です。内部は金色に輝いて神々しいです。
P1030183 ゲーテは1787年4月10日に、モンレアーレに行きました(『イタリア紀行 中 (2)』(相良守峯訳、岩波文庫、92〜93ページ)。しかし、ギリシア、ローマ、ルネッサンスにだけ興味を持っていたゲーテが、ドゥオーモに関してひと言も触れていないのは、有名な話しです。
 さて、ぽん太とにゃん子は、パレルモで南イタリア最後の夜を迎えました。パレルモ市内は、バスの車窓からの観光だけだったのが残念です。
 パレルモには、パレルモ・マッシモ劇場という有名なオペラハウスがありますが、今年の6〜7月に日本公演があります。この劇場は、映画「ゴッドファーザーPARTIII」(1990、アメリカ)のクライマックスの銃撃の場面でも有名です。
 また、フランスの作曲家イベール(1890〜1962)が1922年に作曲した『寄港地』という交響組曲があり、地中海の航海における異国の印象を取り入れた作品ですが、その第1曲が「ローマーパレルモ」と題されています。シチリア舞曲を取り入れることでパレルモを表現していますが、いわゆる一般のシチリアーノと呼ばれる舞曲よりも速いテンポとなっています。シチリアーノは6/8拍子の哀愁を帯びたゆったりとした舞曲で、付点リズムが特徴です。バッハ作と伝えられていますが違うという説が有力なシチリアーノ(こちらのページでダウンロード可能)や、フォーレのシチリアーノ(こちらのページで聴けます)は有名です。
 作曲家イベールは、皇紀2600年奉祝曲のフランス代表として、『祝典序曲』を作曲しました。この曲は1940年に歌舞伎座で初演されましたが、そのときの指揮者は、『赤とんぼ』などの作曲で有名な山田耕筰です。
P1030179 あれあれ、ちょっとみちくさがすぎました。さて、ぽん太とにゃん子は南イタリアの旅を終え、パレルモ空港からミラノを経由して、日本に帰国しました。快晴のミラノでは飛行機の窓からアルプスの山々がパノラマのように見えました。とても美しかったです。

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2007/01/28

【南イタリア旅行】アグリジェントのギリシア神殿は柔らかく暖かい

P1020153 アグリジェントはシチリアの西部に位置する街で、神殿の谷と呼ばれる斜面に、古代ギリシアの遺跡が点在しています。有名な観光地なので、情報や写真が必要な方は、各自ググってくだされ
 さて、ギリシアのパルテノン神殿などは大理石で造られていて、崇高ではありますが、どこか威圧的で近寄りがたく、冷たい印象があります。P1020164しこかしアグリジェントの神殿は、砂岩だか凝灰岩だかでできているので、色も風合いも柔らかく暖かです。シチリアの緑に満ちあふれた温暖な気候風土と、とてもマッチしていました。今年は日本と同じくシチリアも暖冬だそうで、早くもアーモンドの花が咲いていました。
 さて、ゲーテの『イタリア紀行 中 (2)』(相良守峯訳、岩波文庫、123〜135ページ)を読むと、ゲーテは1787年の4月23日から4月28日までアグリジェントに滞在したようです。この時代、アグリジェントはジルジェンティと呼ばれていたようです。
P1020154 パレルモから南下して4月23日にアグリジェントに到着したゲーテは、神殿の谷を見下ろす街のなかに宿をとりました。翌朝、ゲーテは「今朝の日の出に見たような美しい春の眺めは、生まれて以来未だ曾て出会ったことがない」と書いて、この地に最高級の賛辞を贈っています。その日は市街を観光し、25日に神殿の谷に降りて行きましたが、文章の端々からゲーテの感動と興奮が伝わってきます。これに先立つ3月23日、ゲーテはナポリ近郊のパエストゥムを訪れ、ギリシアの遺跡を見ているのですが(前掲書、56〜59ページ)、こちらには戸惑いを感じたようで、「この鈍い円錐形をした窮屈に押し合っている柱は、われわれには煩わしくむしろ恐ろしくさえ思われるのである」(60ページ)という第一印象を書き残しています。残念ながらぽん太はパエストゥムには行かなかったので、はたして両者の建築にゲーテが感じたような違いがあるのかどうかまでは、わかりません。

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2007/01/26

【南イタリア旅行】タオルミーナのギリシア劇場と『グランブルー』ロケ地

 タオルミーナはシチリア島の北東部の海岸沿いの街ですが、高台にあるのですばらしい景色を楽しむことができます。
P1010135 タオルミーナには、シチリアで2番目の大きさのギリシア劇場があります。1番目は?もちろんシラクーサのギリシア劇場です。客席からの風景が圧巻で、立ち並ぶ円柱の間から、青いイオニア海と真っ白なエトナ山を眺めることができます。そうそう、ぽん太の駄文で説明するよりも、『イタリア紀行』におけるゲーテの表現を引用しておきましょう。ゲーテは1787年の5月6日にタオルミーナの円形劇場を訪れたようです。「見渡せばエトナ山脈の山背は全部限界におさまり、左方にはカタニア、否シラクサまでも伸びている海岸線が見え、この広大渺茫たる一幅の絵の尽きるところに、煙を吐くエトナの巨姿が見えるが、温和な大気がこの山を実際よりも遠くかつ和らげて見せるので、その姿は決して恐ろしくはない」(『イタリア紀行 中 (2)』相良守峯訳、岩波文庫、154ページ)。P1010140う〜ん、さすがに文豪ゲーテ、見事な表現ですねえ。「広大渺茫」……。読めません。ってゆ〜か、パソコンでこの字を表示するのに5分かかりました。「渺茫」の読み方と意味を知りたい方はこちらをどうぞ。この劇場では、現在でもたまにコンサートなどが行われるそうです。
 いまではタオルミーナは高級リゾート地として有名であり、ハイソなお土産屋が立ち並ぶウンベルト通りは、大勢の観光客でごったがえしていました。

P1010145 で、タオルミーナといえばもうひとつ、ダイビングファンにはおなじみの映画『グラン・ブルー』(1988、フランス)のロケ地として有名です。テラスレストランとプールのシーンが撮影されたホテル、カポタオルミーナが見えました。タオルミーナのロケ地巡りをしたい方は、こちらのサイト(タオルミーナ発シチリア情報グランブルー)に詳しく書かれています。

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2007/01/24

【南イタリア旅行】シラクーサはアルキメデスの故郷

P1010117 シラクーサは、シチリアの南東に位置する街です(シチリアの地図はこちら)。シラクサあるいはシラクーザとも表記されるそうです。この街も、ギリシア人によって紀元前8世紀に作られ、その後ギリシアの最も繁栄した都市国家のひとつに成長したそうです。ぽん太とにゃん子は、シチリアで最大のギリシア劇場、天国の石切り場とディオニソスの耳、ローマ円形劇場などを観光しました。
P1010125 シラクーサで最も有名な人物は、アルキメデスでしょう。アルキメデスといえば、お風呂に入って水があふれるのを見てアルキメデスの原理を発見し「わかったぞ」と叫びながら街を裸で走ったとか、「支点があれば、地球を動かしてみせる」とてこの原理を言い表したとか、戦争で鏡で日光を集めてローマ軍の船を焼いたとか、地面に図形を書くことに没頭していて敵の兵士に殺されてしまったとか、さまざまな逸話をぽん太も聞かされていました。しかし、ギリシア人アルキメデスは、てっきり現在のギリシアに住んでいたと思い込んでいたので、シチリアの人と聞いてびっくりしました。以前にギリシア旅行をしたときの記事「(リチャード・クロッグ『ギリシャの歴史』と桜井万里子編『ギリシア史』を読む」(2006/01/12)で書いたように、地中海世界ではさまざまな勢力が興亡を繰り返してきたのであり、「古代ギリシア」の広がりと、現代のギリシアの領土が一致しないことはわかっていたはずなのに、思い込みとは恐ろしいものです。
P1010129 ちなみにゲーテはシラクーサを訪れなかったようです。ジルジェンディ(アグリジェント)にいたゲーテは、穀物が豊かに実っている様子が見たくなって、シラクーサを通らずに内陸を斜めに横切って、カターニアに向かうルートを選択しました。「私たちはこの勧告に従ってシラクサ行きを中止することにした。それというのも、この立派な町も今はその光輝ある名前以外には何も残っていないということを知っているからである。とにかくあの町には、カタニアからでも簡単に行けるのだ」(ゲーテ『イタリア紀行 中 (2)』相良守峯訳、岩波文庫、134ページ)とゲーテは書いてあります。ゲーテの時代には、まだぽん太が見た遺跡は発掘されていなかったのでしょうか?結局ゲーテは、カターニア滞在中にもシラクーサを訪れなかったようです。

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2007/01/22

【南イタリア旅行】ゲーテ『イタリア紀行』とシチリア

 日時は前後しますが、日本に戻ってから、ゲーテに『イタリア紀行』という本があったのを思い出し、書棚から引っ張り出して読んでみました(『イタリア紀行 上 (1)』(相良守峯訳、岩波文庫)。上・中・下の3巻きになっていますが、中巻にシチリア旅行がおさめられています。
 ゲーテ(1749-1832)がイタリアに旅立ったのは1786年、ゲーテ37歳の時でした。日本では翌年の1787年に松平定信の寛政の改革が始まったのですね。その頃ゲーテはワイマールで政治家として煩雑な事務に明け暮れ、さらに既婚者のシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との恋の悩みもあり、創作活動も停滞していました。ゲーテのイタリア旅行は、そうした環境からの逃避行でした。この旅行をきっかけにゲーテは政治的な公職から退いて芸術家として生きる決意を固め、『ファウスト』を生み出す古典主義時代が始まったのです。
 ちなみにゲーテは躁うつ病だったと言われていますが、詳しいことはぽん太は知りませんし、みちくさする気にはなりません。ぽん太は、通院している患者さんがどういう病気で、どのような治療ができるかを考えるのは好きですが、過去の偉人の病気を限られた資料から推測するゲームにはあまり興味がありません。
 さてここからは、こちらのニッポンレンタカーのホームページのシチリア島の地図を見ながらお読みください。ゲーテのシチリアの行程は以下の通りです。ナポリから船でパレルモにわたり、そこから南西に下ってセリヌンテあたりを通ってアグリジェントに行き、そこから内陸を通ってカターニアにで、北上してメッシーナから船に乗り、ナポリに戻りました。
 ゲーテのシチリアに対する名文句として、「シチリアなしのイタリアというものは、われわれの心中に何らの表象をも作らない。シチリアにこそすべてに対する鍵があるのだ」というものがあります。どこに書かれているのか探してみたら、中巻の98ページにありました。1787年4月2日にゲーテはパレルモに上陸しましたが、この言葉を書いたのは、まだパレルモに留まってた4月13日です。ゲーテに詳しくもなく、『イタリア紀行』を熟読する根性もないぽん太が、この言葉の意味を推測するのはまことに恐れ多いことです。しかしぽん太のシチリアの印象を含めて推測すると、ゲーテはイタリアで西洋文明のルーツのローマ文明に出会うことができたのですが、シチリアでさらに遡ってギリシア文明に出会えたことに感動していたのではないかと思うのです。同書の95ページでゲーテは、「われわれの青年時代を、形態のないパレスティナや、形態の混乱しているローマに限定したということは、なんと悲しむべきことであろう!シチリアと新ギリシアとが、今やふたたび私に新しい生命を期待させる」と書いています。ぽん太が以前の記事「(リチャード・クロッグ『ギリシャの歴史』と桜井万里子編『ギリシア史』を読む」(2006/01/12)で書いたように、西洋で自分たちの文明のルーツとしての古代ギリシアに対する崇拝熱が高まったのは、18世紀後半から19世紀前半といわれており、ゲーテがイタリア旅行をしたのはまさにこの時期です。ゲーテが、現代のギリシアのあたりまで足をのばしたとしたらら、どのような印象をいだいたでしょうか。しかし、ギリシアの独立戦争が始まったのは1821年で、ゲーテがイタリア旅行をした頃は、ギリシアはまだオスマントルコの支配下でしたから、簡単に旅行はできなかったのかもしれません。

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2007/01/20

【南イタリア旅行】ジャルディーニ・ナクソスで初日の出を拝む

P1010104 ぽん太とにゃん子は、シチリアのジャルディーニ・ナクソスで2007年の元旦を迎えました。海辺に建つホテルの窓から、美しい初日の出を拝むことができました。みなさん、あけましておめでとう。今年も良い年でありますように!
 昨日は、イタリア本土の長靴の先端の街ヴィラサンジョバンニから、フェリーでシチリアのメッシーナに渡りました。シチリア島の地図は、こちらのニッポンレンタカーのページがさすがにわかりやすいで、ご参照下さい。ジャルディーニ・ナクソスは出ていませんが、タオルミーナの南隣の街です。
P1010107 そして反対の内陸側には、雪に覆われたエトナ山が見えました。標高3350メートル、ヨーロッパ有数の火山で、現在でも噴煙があがっています。
 ジャルディーニ・ナクソスは、紀元前734年、ギリシア人が初めてシチリアに上陸して植民地を作ったところだそうです。シチリアは地中海の中央の交通の要所に位置し、かつ温暖で肥沃なため穀物が豊富に採れたので、ギリシア人をはじめ多くの民族が入れ替わり立ち替わり、シチリアを支配してきたのだそうです。実際シチリアで観光したところのほとんどがギリシアの遺跡で、シチリアといえば『ゴッドファーザー』やヴィスコンティの『山猫』の世界だと思っていたぽん太は、正直びっくりしました。

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2007/01/18

【南イタリア旅行】世界遺産のアルベロベッロは脇道がお勧め

Pc310086 アルベロベッロは、イタリアを長靴に例えると、ちょうどかかとのあたり、ヒールの付け根に位置します。「トゥルッリ」と呼ばれる、石を円錐形に積み上げた独特の形をした家で有名で、世界遺産に指定されています。かわいらしい建物が密集した様は、お伽の国に迷い込んだかのようです。ガイドさんの話しでは、このような不思議な家が作られた理由として、地元にいくらでもある石を使うことが安上がりだったこと、その昔、家に対して税金がかけられていたので、役人が来ると家を崩し、立ち去った後にまた建てたこと、真夏に猛暑となつ気候に石の厚い壁が合っていたことなどがあるそうです。
Pc310092 アルベロベッロには陽子さんという日本人女性が、地元に嫁いでお土産屋さんをやっています。テレビのポカポカ地球家族にも出たそうです。アルベロベッロの生活は楽しそうに見えますが、村意識が強く、けっこう近所付き合いが大変とのことでした。地元では根菜類が手に入らないそうなので、お土産に日本の根菜類を持って行くといいようです。お店の屋上にあがらせていただきましたが、とんがり屋根が上から見えてとてもおもしろいです。煙突のてっぺんの雨除けはしゃれたデザインで、風向きによって回転します。
 メインの通りの両側は、すべて観光客向けの店になっています。ぽん太は、江戸時代の宿場町の茅葺き屋根の家が、すべて観光客相手のお土産屋や民宿になってしまった、福島県の大内宿を思い出しました。試しにちょっと横道に入ってみたら、普通に地元の人が住んでいるトゥルッリが並んだ、静かな通りがありました。みなさんも、アルベロベッロを訪れたら、ちょっと横道に入ってみることをお勧めします。観光化されていない、静かなたたずまいを味わうことができます。

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2007/01/16

三人姉妹・チェーホフ・無感情

 だいぶ前の話しですが、にわかバレエファンのぽん太とにゃん子は、2006年11月15日にオーチャードホールで行われたKバレエカンパニーの「三人姉妹」「二羽の鳩」Kバレエカンパニーの「三人姉妹」「二羽の鳩」を見てきました。キャストは「三人姉妹」のマーシャがデュランテ、ヴェルシーニン中佐が熊川哲也、「二羽の鳩」は副智美と輪島拓也でした。
 「二羽の鳩」は、鈴木晶風に言えば、浮気をした男が恋人に許されるという筋。仲むつまじい恋人の描き方、ジプシーの踊りのエキゾチズム、フランス風のしゃれた舞台でした。「三人姉妹」は一転して大人っぽい雰囲気のモダン・バレエ風の作品でした。にわかバレエファンのぽん太はバレエの批評をする資格はありませんが、登場人物の誰が誰なのか、それぞれの踊りがどんな意味があるのかがよくわからず、全体に陰鬱な印象でした。チェーホフは●十年前の学生時代に読んだきりですが、堕落した生活に対する絶望や倦怠感の一方で、人々に対する優しいまなざしがあったような記憶があります。

 で、●十年ぶりにチェーホフの『三人姉妹』を読みなおしてみました(『桜の園・三人姉妹』神西清訳、新潮文庫、1967年)。●十年前に読んだのと同じ翻訳なのが懐かしかったです。ところが原作を読んでみても、やっぱり誰が誰なのかよくわかりませんでした。たいした事件も起きず、会話がすれ違っているので、それぞれの登場人物の心の動きや人物像が、頭に浮かんでこないのです。一度、芝居を舞台で見てみる必要を感じました。どこかでそのうちやらないかな。

 で、本屋巡りをしていたら、『チェーホフ』(浦雅春著、岩波新書、2004年)がありました。帯の「没後100年の今、明かされる、『桜の園』の作家の知られざる素顔」というキャッチコピーに引かれて買ってみました。なかなかおもしろかったです。著者は「はしがき」で「だが、実は、『愛すべき作家』という相貌の陰には、入念に被いをかけられた『非情さ』が隠されていた。清澄で叙情的と見られる文体の背後には、意味の連関を失った『無意味さ』という不気味な深遠がぱっくり口を開けている」と書いています。チェーホフは、みじめな人々の生活を暖かい目で眺めて描写した「愛すべき作家」などという枠にはけっしておさまらず、人間性の欠落と言えるほどの非情さ、無意味さを備えていたといいます。最近の言い方をすれば、「心がない」とでも言えるでしょうか。人間に対する卓抜した観察眼、一方で感情や人生の目的意識の欠落。両者のアンバランスがチェーホフの文学の独特の魅力を生み出していることが理解できました。
 チェーホフの非情さに関して、著者はさまざまな例をあげていますが、一例をあげると、チェーホフは、兄ニコライの葬儀でただ一人涙を見せなかったそうです。そのことについて長兄のアレクサンドルは父親に、「誰もが嗚咽しています。ただひとりアントン(ぽん太注、チェーホフのこと)だけは泣いていない。忌々しいことです」と手紙に書いたそうです(78ページ)。著者はこうしたチェーホフのチェーホフは、いわゆる「冷たい」ひとであったというよりも、普通の人間が持つ感情や共感性が欠けていたようにぽん太には思えるのです。もちろんぽん太はチェーホフが病気だなどと言いたいのではありません。チェーホフは、自分の無感情を自覚し、それに向き合い、それを個性としてすばらしい作品を生み出したと思います。
 チェーホフは、1890年、30歳のときに、当時の極東の流刑地であったサハリンを大変な苦労をして訪れ、囚人の生活の調査を行っています。帰りは日本に寄る予定でしたが、コレラが流行しているという理由で止めたそうですが、ちょっと残念な気がします。このサハリン旅行の動機もさまざまな論議を呼んでいるようですが、いっこうに動こうとしない自分の心を揺り動かそうとした、という一面もあったようです。
 なお、写真では慎ましやかな紳士に見えるチェーホフですが、頭の中にはナンセンスや、グロテスクに近いイメージが渦巻いていたようで、それは彼の「ネタ帳」ともいえる手帖に書き留められているそうです。引用すると、「自分が幽霊だと思って気が狂った人。夜更けになると歩き回る」とか、「腕が短くて首の長い身重の奥さん、カンガルーそっくり」、「その男はとても腕のいい、得難い仕立屋だった。ところがささいなことですっかり評判を落としてしまった。ポケットのない外套を仕立てたり、着られもせぬ高い襟をつけたりした」など(136〜137ページ)、「お前は筒井康隆かい」と突っ込みを入れたくなります。

 すっかりチェーホフに関心を持ったぽん太は、さらに『チェーホフ・ユモレスカ』(松下裕訳、新潮社、2006年)を読んでみました。初期の超短編ユーモア小説集ですが、残念ながらあまりおもしろくありませんでした。当時のロシアに対する皮肉が、ぽん太にはぴんとこないようです。もしチェーホフが現代日本に生きていたら、どんな短編を書いただろうか、とぽん太は思いました。

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2007/01/14

【南イタリア旅行】世界遺産マテーラの洞窟住居サッシに感動

Pc300077 マテーラは、イタリアを長靴に例えると、ちょうどくるぶしのあたりにあります。深い谷に面した崖の上に、独特の雰囲気の石造りの街並が広がっています。そのままキュビズムの絵画のような造形です。驚くことに、これらがすべてサッシ(Sassi)と呼ばれる洞窟住居なのです。出入り口のところは石を積み上げて、普通の家のようなファサードになっていますが、奥へすすんで行くと、岩を掘ったままのかまぼこ型の天井を見ることができます。
Pc300061 マテーラはいまでこそ世界遺産に指定されていますが、以前は南イタリアの貧しさを象徴する貧民街と見なされ、住民たちもその地に住むことを恥じていました。もともとは中世に修道僧が住み着いたのから始まり、のちは一般民衆が住むようになって17世紀には繁栄期を向かえました。しかしその後徐々に衰退し、小作農の住居として利用されましたが、電気や水道、下水道もなく、家畜と人が同居する、不潔な貧民街と見なされるようになりました。イタリア政府は1952年以降、住民の移住を命じ、その後は廃墟となっていました。しかし近年になってその歴史的価値が見直されるようになり、インフラを整備した上で住民を呼び戻そうとする動きが出てきました。1993年にはユネスコの世界遺産に登録されています。

Pc300068住宅の内部です。岩をくりぬいたそのままです。奥に行くほど低くなるように部屋がつながっていています。
Pc300071この家に住んでいた家族の写真(のコピー)が置いてありました。貧しいながらも助け合って生き生きと暮らしている大家族の姿があります

 ところで、岩窟住居と聞くと、ぽん太は吉見百穴と、その近くの岩窟ホテルを思い出します。埼玉県という近場ですから、興味がある方は行ってみるといいでしょう。またトルコのカッパドキアも有名で、ぜひ行ってみたいところのひとつです。

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2007/01/12

【南イタリア旅行】カプリ島・青の洞窟、ソレント

Pc290039 ナポリから高速船で40分ほどのところに、カプリ島があります。カプリ島の観光名所は、青の洞窟です。40〜50人乗りの観光船で近くまで行き、そこでさらに公園のボートのような小舟に乗り換えて、小さな入り口から洞窟に入ります。洞窟のなかは、奥行き70、幅25mほどの広さですが、名前の通り、海面が下からネオンで照らされているかのように、青く光ります。とても幻想的な光景です。なんでも海面下に大きな開口部があり、そこから外の光が入ってくるのだそうです。旅行前に下調べをしないぽん太はちっとも知らなかったのですが、ちょっと海が荒れていたり、満潮だったりすると、洞窟に入れないそうで、特に冬のこの季節は入れる方が珍しいそうです。とっても幸運でした。

Pc290032 青の洞窟に向かう観光船から見た断崖絶壁の上に、ホテルが見えます。この上にはアナカプリと呼ばれる町があるそうです。アナカプリと聞くとぽん太が思い出すのは、ドビュッシーの前奏曲集第1巻のなかの「アナカプリの丘」という曲です(こちらのページにRealPlayerの音源があります)。1910年、ドビュッシーが48歳のときに完成したピアノ曲で、このなかの「亜麻色の髪の乙女」という曲は有名です。また、「デルフィの舞姫」という曲について、ぽん太は以前の記事「【ギリシア旅行】デルフィは精神科医の聖地だ」(2006/01/22)で触れたことがあります。Pc300053ちなみにぽん太は、ミケランジェリ演奏の『ドビュッシー:前奏曲集第1巻』が好きです。ナポリの舞曲であるタランテラが取り入れられた、南国風の明るい小曲です。ただ、ドビュッシーがイタリアを好きだったかどうかは疑問があり、1884年にローマ大賞を受賞して1885年からイタリアのローマに留学しましたが雰囲気になじめず、1887年、早めにパリに戻ったそうです。

 帰りはカプリ島からの船でソレントに向かいました。ソレントに着いたときはすっかり日が暮れていました。飛行機雲が夕焼けに染まっていました。

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2007/01/10

【南イタリア旅行】世界遺産ポンペイの遺跡をみちくさ

Pc290011 ぽん太とにゃん子は、年末年始に南イタリアを旅行してきました。ミラノでトランジットして初日はナポリ泊。翌日はまずポンペイを訪れました。
 ポンペイはローマ時代に栄えた町で、最盛期の人口は2万人に達したと言われていますが、79年のヴェスヴィオ火山の噴火で壊滅しました。
 ぽん太が以前の記事「プリニウスの記述について/EBMによる帝王切開の語源」(2005/04/09)で書いたように、大プリニウスはこの噴火の調査を試みて現地入りしましたが、有毒ガスによって死亡しました。そしてその様子を、甥の(小)プリニウスが、書簡に記録しています。プリニウスの『 プリニウス書簡集・ローマ帝国一貴紳の生活と信条』(国原吉之助訳、講談社学術文庫、1999年)の230ページから236ページをご覧下さい。

Pc290017 遺跡が発掘されてポンペイが再発見されたのは1748年でした。その後断続的に発掘が行われてきましたが、まだ全貌は明らかではないそうです。発掘の途中、考古学者は、火山灰のなかに奇妙な空洞があるのに気がつきました。何とそれは、火山灰に埋もれてなくなった人の遺体が朽ち果て、空洞として残ったものだったのです。その穴に石膏を流し込むことによって、亡くなったポンペイ人の姿が現れたのですが、苦しむ表情や衣服の襞まではっきりと残っており、かなり生々しいです。

Pc290022 港町であったポンペイにはさまざまな国のひとたちが訪れましたが、「港」と言えば当時も今も「女」です。ポンペイにも娼館があったようで、言葉のわからぬ外国の人にも娼館の位置ががわかるように、石畳にち○ぽの形の矢印が彫り込まれています。今回の上品なツアーでは娼館は訪れませんでしたが、ぽん太が十数年前にポンペイを訪れたときは、娼館を案内してもらいました。いくつかの個室に石のダブルベッドがあり、玄関の上にはそりたったち○ぽの形の目印がついておりました。ちなみにその隣りは薬屋になっており、娼館と薬屋の関係は、今も昔も変わらぬようです。 

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