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2007年4月の10件の記事

2007/04/29

ゲーテの『詩と信実』におけるレンツの言われよう

 岩波文庫のビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』(2006年)の巻末の、訳者・岩淵達治の解説のなかに、ゲーテが『詩と真実』でレンツに言及していると書いてあったので、みちくさしてみることにしました。第三部のなかで、ゲーテは3回レンツに言及しているようです。参照したテクストは『ゲーテ全集〈10〉自伝ー詩と真実第3部・第4部』(河原忠彦他訳、潮出版社、1980)です。

 最初は第11章で、邦訳の50〜51ページ、ゲーテがシュトラースブルクに滞在中に、仲間たちとともにシェイクスピアに熱中したことが書かれているくだりです。レンツもその仲間のひとりだったようです。ゲーテがシュトラースブルクに向かったのは1770年、21歳のときで、滞在期間は1年弱でした。シュトラースブルク滞在の終わり頃に初めてレンツに会った、とゲーテは書いています。ちなみにゲーテが生まれたのは1749年、レンツが生まれたのは1751年ですから、レンツが2歳年下という関係です。レンツの外見については「小柄ではあるが容姿美しく、ひどく可愛い小さい頭、その顔の品のいい格好に優雅な多少おっとりした容貌がひどくぴったりだった」と悪しからず書かれていますが、ひととなりに関しては「彼の気質にたいしてはただ英語のwhimsical(風変わりの)という言葉が適切だと思う」と書いています。「レンツ以上にシェイクスピアの天才の奔放と奇矯を感得して、模倣できるも者はおそらくいなかった」のであり、彼のシェイクスピアの翻訳は、「……原作者を非常に自由に扱い、翻訳の態度としてけっして簡潔でも忠実でもなかったが、この先人の武具、ないし道化服さえも、巧みに着こなして、その身ぶりをユーモアたっぷりに再現してみせることができた」そうです。

 次にレンツに言及しているのは第14章、邦訳の152〜155ページです。ゲーテが1774年に『若きウェルテルの悩み』を出版して大成功をおさめた直後の時期です。ここでゲーテは、レンツの「性格について話してみたい」といいますが、「曲折の多い彼の生涯をたどり、彼の特性を描写し伝達することなど、とても不可能」であるから、性格ではなく「性格から生まれた結果を話してみよう」といいます。ちなみに『詩と真実』のこの部分が執筆されたのは1813年だそうです。レンツは1776年に精神病の発作に襲われ、1792年にはロシアで死去しています。1813年の時点で、ゲーテはレンツの情報をどこまで知っていたのでしょうか。邦訳154ページの訳注には、「ゲーテが1813年にこの項を書いたとき、レンツに関する文献学的な資料はほとんどなかった」と書いてあります。
 ゲーテは、道徳的要求は高いのに実際の行動がそれに見合わないために深い葛藤に苦しむというウェルテル的な風潮のなかに、レンツもいたと考えています。さらにレンツは「権謀術策を好むという性癖」を持っていて、しかも何らかの目的を達成するために権謀術策を用いるのではなく、陰謀をもくろむこと自体を楽しんでいたそうです。
 恋人を残して祖国に戻らなければならなくなった友人のために、留守中に恋人を守ってあげようとしたレンツは、自分がこの女性に恋をしているふりをし、場合によっては恋をしようと決心しました。彼はこの女性を理想化し、その理想に固執し、考えを行動に移したのですが、実のところ彼自分が彼女の遊びと楽しみの具になっていることを、けっして認めようとしなかったそうです。この女性との複雑で入り組んだ関係を、レンツはゲーテにことこまかに伝えていたそうです。
 また軍隊の知識を持っていたレンツは、次第に自分は軍事通だと思い込み、フランスの陸軍大臣宛に大規模な回想録を送りつけようとしました。その文章は、フランス軍の欠陥に関してはよく観察しているものの、改善策は滑稽で実現不可能なものばかりだったそうです。そこで友人たちが発送を止めさせたのですが、そのことをレンツは恨みがましく思ったそうです。
 また、ゲーテが1773年に『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を出版するとすぐに、レンツはゲーテ宛てに『私たちの結婚について』という論稿を送ってきました。その内容は、題名の通り、「ゲーテとできるだけ密接な関係を持ちたい」というものでした。ゲーテはそれに応じて、レンツにさまざまな情報を知らせたり、出版の便宜を図ったりしました。しかし、「こともあろうにその彼が私を空想上の憎悪の主たる対象にしたてあげ、奇怪なきまぐれな迫害の目標に選んでいたとは、夢にも思わなかったのである」とゲーテは書いています。この迫害が実際どういうものだったのかは書かれていませんが、次のような訳注が付いています。
 「レンツはゲーテがシュトラースブルクを去ったあとでゼーゼンハイムにおもむき、フリーデリーケに恋文をさしだした。彼は、ゲーテの作品の出版社であるライプツィヒのヴァイガントから戯曲を出版し、ゲーテの妹コルネーリアのいるエメンディンゲンと、彼の母親のいるフランクフルトを訪れた。1776年春、ヴァイマルにやってきて、シュタイン夫人を訪問した」(邦訳155ページの訳注)。
 簡略な記述ですが、岩波文庫の『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』の注や解説から補ってみます。ゲーテはシュトラースブルクに滞在中フリーデリーケという女性と恋に落ちます。有名な『野ばら』が作られたのはこの頃です。結局ゲーテは彼女を振ったのですが、ゲーテがシュトラースブルクを立ち去ったあと、レンツが傷心のフリーデリーケを訪ねて恋文を渡したのです。
 またゲーテの妹コルネーリアは、エメンディンゲンのシュロッサー家に嫁いでおりましたが、1776年11月にヴァイマールを追放されたレンツは、一時シュロッサー家に身を寄せました。彼女は1777年に産褥熱で亡くなりましたが、それを聞いたレンツは悲しみにくれてシュロッサー家を訪問したそうです。
 ビュヒナーの『レンツ』で、レンツはオーベルリーン夫人に、「オーベルリーンの奥様、あの女性がどうしているか、僕に話してくださいませんか? 彼女の運命は、僕の心に鉄の重荷のようにのしかかっているのです」(邦訳34ページ)と問いかけ、これを聞いたオーベルリーン夫人は、その女性がフリーデリーケのことだと直ちに察したのだそうです。このフリーデリーケが、シュトラースブルク滞在中にゲーテが振ったフリデリーケであるという説と、ゲーテの妹のコルネーリアだという説があるそうです。というのもゲーテの妹の正式の名は、コルネーリア・フリーデリーケ・シュロッサーだったからです。ちょっと複雑ですね。さらに『レンツ』には、偶然にもフリーデリーケという名前の子供が死んだことを聞いたレンツが、妄想的な意味付けをしてしまい、混乱して自室に引きこもって食事をとらなくなったことが書かれています(邦訳37ページ)。
 また、ゲーテはヴァイマール時代にシュタイン夫人と浅からぬ関係になりました。このシュタイン婦人はゲーテにとって大変重要な人物で、ゲーテが疾風怒濤から古典主義に移るきっかけになったともいわれています。レンツはヴァイマールにもやってきて、シュタイン夫人の邸宅に滞在したそうで、このことがゲーテをいたく傷つけたそうです。

 さて、ゲーテが『詩と真実』で最後にレンツに触れているのは第15章です。彼は批評家ヴィーラントを批判した戯曲『神々・英雄たち・ヴィーラント』を即興で書き、仲間内で朗読して大喝采をえました。この戯曲を読んだレンツは出版を勧め、ゲーテもそれに従ったのですが、後にゲーテが知ったことには、これはレンツがゲーテの評判を落とし、傷つけようとしてやったことだったのだそうです。

 以上、ゲーテが『詩と真実』のなかでレンツについて書いた部分をピックアップしてみました。これはあくまでもゲーテの言い分なので、客観的な事実かどうだったのかはわかりません。ゲーテによれば、精神病の発作以前のレンツは才能はあるものの、普通のひととは異なる奔放さや奇矯さを併せ持っていたようで、確かに統合失調症を思わせるところがあります。一時期ゲーテとレンツは、かなり親密だったような気がします。が、次第にゲーテはレンツを疎ましく思うようになってきて、妄想的な敵意をもってつきまとわれていると感じるようになったようです。統合失調症患者の病気による奇異でまとまらない行動に対して、本当は病的なものであって深い意味はないのに、一般のひとが勝手に深読みしすぎて、隠された意図を想定してしまうことがあります。ゲーテのレンツ理解もそうであったのかどうかは、これだけからはわかりません。

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2007/04/27

【クラシックホテル】ホテルニューグランドで横浜の情緒を満喫

ホテルニューグランド ぽん太とにゃん子は、大切な日を記念して、横浜のホテルニューグランドに泊まってきました。  ぽん太とにゃん子は古い建物の旅館やホテルに泊まるのが大好きです。今回のホテルニューグランドで、「クラシックホテルの仲間たち」に所属する5つのホテルをすべて制覇したことになります。
ホテルニューグランド ホテルの歴史のページに書かれているように、このホテルができたのは昭和2年(1927年)、今年でなんと開業80周年です。大佛次郎が昭和6年から約10年間このホテルを仕事場としていたり、戦後はマッカーサー元帥が宿泊したりと、さまざまな歴史を積みかせねて現在にいたっています。
ホテルニューグランド 昔見たときはなかったのに、いつのまにかニューグランドタワーという新館ができていました。1997年に作られたそうです。ふるい建物が好きなぽん太とにゃん子は、もちろん古い本館の部屋を指定しました。本館の廊下は、シンプルですが重すぎずすっきりしたデザインです。
本館客室 客室は本館のグランド・デラックス・ツインです。シンプルですがすっきりしたモダンなインテリアです。窓の外は横浜港です。
本館入り口 本館に入って階段を2階に登ったところにあるホールです。この空間は装飾が細かく作り込まれています。
レインボーボールルーム レインボーボールルームです。本館2階にあるホールです。天井が7色に輝いているのが名前の由来でしょう。とても美しいです。
ル・ノルマンディ  ディナーは景色を優先して、ニューグランドタワー5階のレストラン、ル・ノルマンディにしました。港の夜景がなによりのごちそうで、港に出入りする船がライトアップされてとてもきれいでした。料理もおいしゅうございました。
シーガーディアン 英国風のバー・シーガーディアンです。人気のカクテル、「ヨコハマ」と「バンブー」をいただきました。
 ホテルニューグランドは、ほかのクラシックホテルに比べるとできたのがあたらしく、木造でもないし、凝った装飾も多くはありませんが、すっきりして横浜の雰囲気によくあっていました。  なんですって? タヌキでも泊まれるのですかって? もちろんこの日ぐらいは、ぽん太は紳士に化けて泊まりましたよ。人間も悪くないですね。

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2007/04/25

そういえばビューヒナーの『レンツ』はドゥルーズ、ガタリの『アンチ・オイディプス』に出てたな

 ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』(岩淵達治訳、岩波文庫、2006年)を読んで、あまりのおもしろさにみちくさを続けているぽん太です。
 ビューヒナーのレンツといえば、ドゥルーズ、ガタリの『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症』で言及されていたのを思い出して、読み返してみました。『アンチ・オイディプス』はフロイトやラカンの精神分析を批判した本です。精神分析は無意識を家族主義的なオイディプス構造に押し込めようとするものであるとし、精神分析が扱う神経症に対して、分裂病を無意識の新たなモデルとします(「精神分裂病」は現在は「統合失調症」という呼び名に変わっていますが、ここでは邦訳の訳語に従うことにします)。思えば今を去ること20年前、フロイトを批判したケシカラン本があると伝え聞いて、仲間うちで『アンチ・オイディプス』の英訳を手に入れて読書会をしたものです。1986年に河出書房新社から市倉宏祐の邦訳が出るとさっそく購入し、わからないながら何回も読み返しました。その頃はインターネットなどなかった時代だったので、ビューヒナーのレンツと言われても調べようがありませんでした。ホントに便利な時代になったものです。

 ドゥルーズとガタリはこの大著のほとんど冒頭で、『レンツ』に一段落を割いています(邦訳上巻16〜17ページ)。「<それ>はいたるところで機能している」という有名な書き出しに続いて、無意識は互いに連結して働く機械であり、流れを発生させたり切断したりする機能を持つというワケのわからぬ主張がなされます。シュレーバーに軽く触れたあと、「精神分析家のソファに横たわる神経症患者よりも、ずっとよいモデルである」として「分裂病者の散歩」が取り上げられます。その例として挙げられるのが、「ビュヒナーによって再構成されたレンツの散歩」と、ベケットの作品の人物です。牧師のもとにいるレンツは、オイディプス化の圧力にさらされていて、自分を神との関係や父母との関係において、社会的に位置づけようとします。しかし山の中、雪の中を散歩しているレンツは、神もなく、父母もなく、ただ自然の中におり、さらには自然もなく、人間もなく、互いに連結し合うもろもろの生産する機械だけがあるといいます。
 ちなみに「精神分析家のソファ」というのは誤訳とまでは言いませんが不正確な訳で、精神分析のときに患者さんが横たわる「寝椅子」のことですネ。たとえばこちらのロンドンのフロイト博物館のサイトに、フロイト自身が実際に使った寝椅子の写真があります。これはけっして「ソファ」ではありません。
 次にレンツに言及されるのは、第二章、第五節です(邦訳上巻165ページ)。R・D・レインが分裂症を一種の旅と考えたのは有名ですが、ドゥルーズ、ガタリは、この旅とは、器官なき身体の上を主体が駆け巡りもろもろの生成変化や移動や置換を遂げることだといいます。そしてこの旅の一例としてレンツの散歩が挙げられています。
 続いて第二章、第九節。ここでは文学について論じられています。文学が既成の秩序のなかで無害なものとして消費されるとき、文学は限りなくオイディプス的なものであると著者たちはいいます。神経症的な葛藤や悩みは文学として受け入れられますが、分裂症的なものは否定され排除されます。「アルトーに対してブルドン、レンツに対してゲーテ、ヘルダーリンに対してシラー、こういう人物たちが常に存在して、文学を超自我化し、私たちにこう語る。用心せよ。やりすぎるな。『如才なさを欠いては』ならない。ウェルテルはいいが、レンツはだめだ!」(邦訳上巻257ページ)。ここでレンツは、同時代に活躍した文豪ゲーテと対比されています。もっともゲーテも躁うつ病だったという説があるので、100%まっとうでオイディプス的だったとは言えないかもしれませんが、確かにレンツに比べれば、ゲーテは良識的でバランスを崩すことなく、当時の社会秩序に収まっていたといえるでしょう。ちなみにゲーテは『詩と真実』のなかでレンツについて書いていますが、それはまた別の機会にみちくさいたしましょう。
 さて、『アンチ・オイディプス』で最後にレンツに言及されるのは、第四章、第二節です。「分子的無意識」と題されたこの節では、分子的なものとモル的なものという重要な対立概念が論じられます。機械論と生気論の伝統的な対立は、モル的な領域における見せかけの対立であって、分子的な領域ではそのような対立は散逸し、ただ欲望する機械だけがあるのです。さらにドゥルーズとガタリは、「性愛」の問題に論を進めます。精神分析の考え方では、性愛は家族のレベルにしか存在せず、社会的なものになるには昇華される必要があります。しかしドゥルーズとガタリは、性愛は、モル的な領域では社会に直接備給されうるものであり、また分子的な領域では欲望機械そのものであるといいます。このような考え方に基づいて、ラカンのファルス中心主義を批判し、去勢とは人間レベル・モル的レベルで性愛を「表象」するための根拠にすぎず、言わば一種の信仰なのだといいます。この節は重要かつ難解でよくわかりませんが、レンツに関しては、軽く言及されているだけです。「愛と、その力とその絶望について私たちに語るのは、ソファの上に横たわった神経症患者なのではない。それは分裂者の無言の散歩であり、山々や星々におけるレンツの歩みであり、器官なき身体の上の強度における不動の旅なのである」(邦訳下巻145ページ)。

 ということで、ドゥルーズとガタリにとってレンツは、神経症と分裂症という対立概念において、分裂症の好例として扱われているようです。ビューヒナーが描いたレンツの旅は、親と子、自分と他人、内部と外部などの通常わたしたちが従っている区別が溶けてなくなって、周囲と自分とが共鳴し一体となった状態を示しており、器官なき身体や欲望機械のアレンジメントに関係づけられます。またレンツ自身もゲーテと対比されて、社会的規範のうちに留まらない作家として扱われていました。

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2007/04/20

ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』は興味深い

 書店をウロウロしていたら、ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』(岩淵達治訳、岩波文庫、2006年)が目にとまりました。たしか『ヴォイツェク』といえば、アルバン・ベルクのオペラの原作だったはず……という程度の知識と興味で期待しないで買ってみたのですが、あまりのおもしろさにびっくり仰天いたしました。
 というのも、『ヴォイツェク』も『レンツ』も狂人が主人公であり、特に『レンツ』では、狂気に陥ったひとの内的体験が、とてもリアルに生き生きと描かれていたからです。すっかり温泉・旅行のブログと化していますが、ぽん太がいやしくも精神科医の端くれであることを皆さんお忘れなく!
 精神病の体験を描いた文学はいろいろありますが、精神科医の目から見ると「?」というものが多いなか、『レンツ』はいい線行ってます。牧師館を尋ねたレンツが夜になって、混乱して泉に飛び込む下りを引用してみましょう。

 真の闇がすべてを呑み込んだ。名状しがたい不安が彼を襲った、彼は跳び起き、部屋を走り抜け、階段を駆け下りて建物の外に出た、しかし無駄だった、一切が闇であり無であり、自分自身さえも夢なのだった。ばらばらの思いが頭のなかを掠め過ぎていった、それに次々にしがみついた。絶え間なく「主の祈り」を唱えなくてはいられないような気持ちだった。もう自分自身が見つけられなかった。自分を救おうとするおぼろげな本能に駆り立てられて、彼はそこここで石くれや石の壁にぶつかり、爪でわが身を掻きむしった。その痛みで意識が戻ってきた。彼は泉に飛び込んだが、あまり深くなかったので、そのなかでばしゃばしゃと暴れた。人々がやってきた、物音を聞きつけたのだ、大声で彼に呼びかけていた、オーベルリーンも駆けつけてきた(前掲書、12ページ)。

 ね、なかなかいいでしょう?この小説が雑誌に出版されたのは、ビューヒナーの死の2年後の1839年です。同じ頃の日本だと、1841年に老中水野忠邦の天保の改革がありますが、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の刊行が始まったのが1814年、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の初演が1825年といったところです。この時代にこのような文章が書かれたとはびっくりです。

 で、ビューヒナーという人はどういう人なんだろう、ということになりますが、例えばこちらのウィキペディアの項目をご参照下さい。1813年にドイツで生まれ、1837年、わずか23歳4ヶ月でこの世を去ったそうです。その間に残した戯曲や小説はけっして多くはありませんが、どれも先駆的なものばかりで、日本でこそあまり知られていませんが、ドイツではゲーテやシラーと肩をならべる高い評価をされているそうです。1831年に18歳で、フランス領のストラスブール大学「医学部」に入学しております。ここで精神医学の知識を得たのでしょうか。また、文庫の巻末の年譜を見ると、1833年末に脳炎にかかって静養をしたと書いてあります。ひょっとしたらビューヒナー自身が、脳炎の最中に病的体験をしている可能性もあるかもしれません。

 主人公のレンツも、実在のモデルがいるそうです。文庫の訳注と解説によると、ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ(1751〜1792)は、一時はゲーテとともにシュトルム・ウント・ドラングの代表者といわれた作家だそうです。ところが1776年、狂気の発作に襲われます。「精神分裂病の発作」あるいは「精神分裂症的な狂気の発作」などと書かれていますが、レンツが医学的に本当に統合失調症だったのかどうかは、とりあえず保留しておく必要があるでしょう。牧師ヨーハン・フリードリヒ・オーベルリーンがこうした患者の治療の心得があるということで、レンツは彼のもとに送られることになります。1778年1月20日、牧師を訪ねてひとり山を越えるところから、この小説は始まります。しかしオーベルリーンのもとでも病状は安定せず、エメンディンゲンのシュロッサー家にレンツは引き取られることになります。この途中、ストラスブールに到着したところで、小説は終わっています。シュロッサー家では、訪ねて来た友人の作家クリンガーが、レンツをベッドに縛り付けて、冷たい池に10分間漬けるとよいと言ったところ、この治療法が効を奏してレンツは眠れるようになったそうです。しかしその後、病状が悪化し、シュロッサーも「いっそ死んでくれればよい」とか「精神病院に入れる」とかまで考えたそうです。病状には波があったようで、やがてロシアに渡りましたが、1792年6月4日にロシアの路上でのたれ死んだそうです。

 これまで知らなかったのかと怒られそうですが、ぽん太はしばらくビュヒナーやレンツの周辺をみちくさしてみたいと思います。

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2007/04/18

【鎌倉】日蓮ゆかりの寺々を巡る(その2)ぼたもち寺・本覚寺・龍口寺・光則寺

 さて、前回のブログでは、日蓮が鎌倉で宗教活動を開始してから、松葉ケ谷(まつばがやつ)の法難に会うまでの間の、日蓮ゆかりの寺々を紹介しました。今回はその続きです。
 1260年(文応元年)の松葉ケ谷の法難を逃れて下総に戻った日蓮ですが、転んでもただでは起きず、地方で精力的な布教を行ったのち、早くも翌1261年(弘長元年)5月に鎌倉に戻ります。しかし、待ち構えていた幕府は直ちに日蓮を捉え、伊豆の伊東に流罪とします(ぽん太は、伊東の日蓮ゆかりの寺々を訪れたことがありますが、ブログを始める前だったので記事はありません)。約2年後に流罪を許されたものの、1264年(文永元年)、安房の小松原で念仏信者の地頭・東条景信らに襲われます(小松原法難)。日蓮は左腕を折られ、眉間に刀傷を負いながらも、間一髪で難を逃れます。小松原法難ゆかりの寺は、末尾のリンクから千葉県の鏡忍寺・日蓮寺の記事をご覧下さい。

常栄寺(ぼたもち寺) さて、数々の苦難に会いながらも、日蓮は布教を止めようとしませんでした。1271年(文永8年)幕府によって捕らえられ、今度は佐渡流罪の判決が下ります。このとき、護送されて行く日蓮に「桟敷の尼」がぼたもちを差し上げたという伝説があり、その地に建てられた常栄寺は「ぼたもち寺」と呼ばれています。鎌倉南東部に位置し、こじんまりとした、かわいらしいお寺です。

龍口寺 しかし実は幕府は、護送の途中、江ノ島の近くの龍口(たつのくち)処刑場で日蓮の首を切って殺してしまうつもりだったのです。真夜中になって、役人たちは斬首の手はずを整えます。ところが日蓮の首があわや切られようとした瞬間、突如、輝く光の玉が空に現れて渡っていき、役人は目がくらみ、すっかり怖じけずいて、処刑どころではなくなってしまいます(龍口法難)。結局、処刑をあきらめた幕府は、日蓮を佐渡流罪とします。
 ここ龍口には、日蓮の死後、龍口寺(りゅうこうじ)が建立されました。江ノ島駅のほど近くにあり、そのような恐ろしい出来事があったことを感じさせない、広々として落ち着いた境内です。

光則寺光則寺 鎌倉の西部、大仏の南西あたりに、光則寺(こうそくじ)というお寺があります。日蓮が佐渡に流されたとき、日蓮の高弟・日朗は捉えられ、宿谷光則の邸宅の土牢に監禁されます。しかし毅然とした日朗の態度に心を打たれ、やがて日蓮に帰依し、自宅を日蓮宗の寺としました。現在は、樹齢200年のカイドウを始め、花の寺として有名だそうです。裏にまわると、日朗が閉じ込められた土牢も残っています。

本覚寺夷堂本覚寺御分骨堂 1274年(文永11)年、日蓮は佐渡流罪を許されます。鎌倉に戻った日蓮が滞在したのが、本覚寺の夷堂(えびすどう)です。また本覚寺には、身延山から分骨した日蓮の遺骨を納めた「日蓮聖人御分骨堂」があります。

過去の記事へのリンク
【仏教】千葉県の日蓮ゆかりの寺々を巡る(その1)誕生寺・清澄寺(2006/12/23)
【仏教】千葉県の日蓮ゆかりの寺々を巡る(その2)鏡忍寺・日蓮寺(2006/12/24)
【鎌倉】日蓮ゆかりの寺々を巡る(その1)妙法寺・安国論寺・長勝寺・辻説法跡(2007/04/16)

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2007/04/16

【鎌倉】日蓮ゆかりの寺々を巡る(その1)妙法寺・安国論寺・長勝寺・辻説法跡

 ぽん太とにゃん子は2007年4月、鎌倉に日蓮の足跡を訪ねました。
 まず、日蓮の年譜を復習しておきましょう。日蓮は、承久の乱の翌年の1222年(貞応元年)2月16日、安房の小湊(千葉県鴨川市天津小湊)の漁村に生まれました。そして12歳のとき、極真空手発祥の地として有名な清澄寺に入山します。ここで虚空蔵菩薩が顕現するという奇跡を体験します。1283年(暦仁元年)17歳で清澄寺を出て、鎌倉で4年間過ごしたのち、1242年(仁治3年)から京都の比叡山をはじめ各地で勉学に努めます。その結果、『法華経』こそ信実の教えであると確信するにいたります。1253年(建長5年)故郷に戻った日蓮は、清澄山の旭ケ森で太平洋に立ち上る朝日に向かって、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、布教を始めます。その年の5月、当時の「首都」である鎌倉の松葉ケ谷(まつばがやつ)に草庵を結び、繁華街で辻説法を開始し、猛然と他宗派の攻撃を行います。さらに1260年(文応元年)7月、『立正安国論』を北条時頼に献呈します。この本は、「災害や社会不安の原因は、禅宗や律宗、密教、浄土宗などの邪宗がはびこっているためで、日本を内乱や外国の侵略から守りたければ、法華経に帰依せよ」という内容でした。これに怒った念仏宗徒は、松葉ケ谷の草庵を襲って火をつけました。しかし日蓮は奇跡的に難を逃れて、下総に落ち延びたのです。これが有名な松葉ケ谷の法難です。
 で、その松葉ケ谷というのがどこかというと、鎌倉の南東部、現在の妙法寺や安国論寺、長勝寺のあるあたりだと言われています。

妙法寺 妙法寺
 妙法寺は落ち着いた伸びやかな雰囲気のお寺で、苔むした階段が美しいです。樹木が多く、リスが桜の花を食べていました。

安国論寺 安国論寺
 安国論寺は、背後を山で囲われたような地形になっています。有名な妙法桜は、暖冬のためが残念ながら散っていました。境内には、日蓮が『立正安国論』を書いたと伝えられる御法窟があります。また裏山には焼き討ちにあったときに避難したと伝えられる南面窟があります。
 なぜか日蓮は、岩窟とつながりがあるようです。同じく鎌倉にある光則寺(こうそくじ)にも、日蓮の弟子の日朗上人が閉じ込められた土牢がありますし、千葉の日蓮寺も、小松原法難を逃れた日蓮が隠れて怪我の手当をしたという岩屋があります。

長勝寺
 長勝寺は、打って変わって広々とした境内で、本堂の前には日蓮大上人辻説法像があります。なんと高村光雲の作だそうで、力強く、溢れ出る意志を感じさせます。

日蓮上人辻説法跡
 最後に日蓮上人辻説法跡です。場所は現在の鎌倉駅の少し東になります。立て札によると、鎌倉時代このあたりは、武士の屋敷と商家町が混在した地域で、日蓮は毎日にように訪れては辻説法を行ったのだそうです。
 
過去の記事へのリンク
【仏教】千葉県の日蓮ゆかりの寺々を巡る(その1)誕生寺・清澄寺(2006/12/23)
【仏教】千葉県の日蓮ゆかりの寺々を巡る(その2)鏡忍寺・日蓮寺(2006/12/24)

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2007/04/12

【蕎麦】鎌倉の千花庵(ちはなあん)の十割そばは絶品(★★★★★)

千花庵 小学校の遠足以来●十年ぶりに鎌倉を訪れたぽん太は、鶴岡八幡宮の東、頼朝の墓の近くの千花庵(ちはなあん)で、お蕎麦をいただきました。千花庵なんでも趣味のそば打ちが高じて店を開いてしまったとのことで、いかにも住宅を改造した感じの建物ですが、内装は和風で落ち着きます。「大根せいろそば」というのが売りのようですが、蕎麦そのもののうまさを味わいたいぽん太とにゃん子は、「せいろそば」を選択しました。純手打ちの十割そばなので、1日限定50食だそうです。
千花庵 で、十割そばとのことでしたが田舎風ではなく、色白の細めのそばで、舌触りもなめらかで上品でした。ところがいただいてみると、そば粉の香りが口いっぱいに広がります。つゆも上品で美味しかったです。
 器なども凝っていて、いい意味で素人的・隠れ家的なところが鎌倉らしく、ぽん太の評価は満点です(2007年4月)。

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2007/04/09

【温泉】高湯温泉吾妻屋の硫黄泉はすばらしい(★★★★)

高湯温泉吾妻屋 2007年3月、福島県の高湯温泉吾妻屋さんに泊まりました。なお、近くには「新」高湯温泉の吾妻屋旅館もありますので、お間違えのないように(ここも一度行ってみたいところです)。宿の外観は変な塔が立っていて風情がありませんが、いくつもある風呂の雰囲気と、硫黄で白濁したお湯が最高です。
高湯温泉吾妻屋 お風呂は男女別と貸切の内湯、山小屋風の男女別と貸切の露天風呂、さらに男女別の広々とした露天風呂があります。それぞれに特徴があり、風情が感じられます。
高湯温泉吾妻屋 木造の内湯は黒光りしていて、歴史を感じさせます。
 貸切の内湯は、タイル張りで簡素でありながら、鄙びた雰囲気です。
高湯温泉吾妻屋 山小屋風の露天風呂は新しく、木をふんだんに使っています。
 一番奥にある露天風呂は、広々とした風景を楽しむことができます。
 お湯は、pH2.8と強酸性で、硫黄で白濁しており、湯船の底に湯の花がすくえるほど積もっています。高湯温泉吾妻屋泉質は酸性・含硫黄(硫化水素型)ーアルミニウム・カルシウム硫酸塩温泉(硫黄泉)で、泉温は42度〜51度。温度調節のため加水していますが、豊富な湯量の源泉掛け流しです。硫黄が強くて宿の水道の蛇口は真っ黒になっており、自動販売機も傷んでしまって置けないので、冷蔵庫の飲み物を自己申告で飲むシステムになっています。
高湯温泉吾妻屋 建物の外観は、変な塔があって風情がありませんが、新築ではなくて改築だそうで、内部は古いながらも落ち着いた和風建築となっています。変な塔に見えたものは、増築したエレベーターでした。ぜひとも建て替えたりせず、リニューアルならぬリオールドして、昔ながらの風情を未来に伝えて欲しいです。
 温泉は最高レベルながら建物がマイナスとなり、ぽん太の評価は4点です。

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2007/04/07

【温泉】銀山温泉の共同浴場「大湯」はちと素っ気ない(★★★)

銀山温泉共同浴場大湯 銀山温泉能登屋旅館に泊まったぽん太とにゃん子は、共同浴場の「大湯」に行ってみました。銀山温泉にはもうひとつしろがね湯という共同浴場もあるようですが、こちらは入浴料を取られるので省略しました。大湯の方は料金100円ですが、宿泊客は無料で利用していいとのことでした。
銀山温泉共同浴場大湯 場所は能登屋さんの2軒隣り。建物はコンクリートで、浴室も小さな内湯がひとつあるだけであっさりとしており、いわゆる大正ロマンの風情はまったくありません。しかしお湯はもちろん正真正銘の源泉掛け流しです。
 観光客で賑わう温泉街の雰囲気に飽きたら、ここに入って「銀山温泉もすっかり観光化されちゃったな〜」などとつぶやくといいでしょう(2007年3月入浴)。
 ところで大湯の向かって右側、どこが入り口かわからない不思議な建物が建っていたのですが、アメリカ人の若女将、藤ジニーさんで有名な旅館藤屋さんが、平成18年6月に改築したものだそうです。たしか昔はこのページにあるような普通の建物でした。建築家の隈研吾が設計したようです。隈研吾とえいば、最近では東京ミッドタウンにオープンしたサントリー美術館なども設計していますが、なんか縦格子の使い方が似ている気がします。旅館藤屋もなかなか美しい洗練された建物ですが、温泉街の華やいだ雰囲気はなく、銀山温泉の街並にマッチするかどうかは別問題で、賛否両論あるかもしれません。

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2007/04/05

【温泉】銀山温泉の能登屋旅館は「千と千尋」のお化けの気分がいいにゃ(★★★★)

銀山温泉能登屋旅館 だめもとで直前に予約の電話を入れたところ、幸運にも部屋が取れたので、2007年3月末、ぽん太とにゃん子は銀山温泉の能登屋旅館に泊まってきました。銀山温泉
 銀山温泉は、言わずと知れた山形の名湯です。木造の旅館が建ち並んだ温泉街は、大正ロマンの雰囲気が人気ですが、極彩色の絵が旅館の壁に描かれていたりして、独特の華やいだムードがあります。夜になって明かりが灯ると、まるで映画の「千と千尋の神隠し」の世界のようで、ぽん太とにゃん子は映画に登場するお化けになったつもりで、銀山温泉の夜を満喫いたしました。ホントは静かな秘湯が好きなのですが、ここでは酔っぱらいのおじさんたちや、温泉街風のにぎわいが苦になりません。
銀山温泉能登屋旅館 実はぽん太とにゃん子は以前にも銀山温泉に泊まったことがあります。そのときお世話になったのは旅館永澤平八で、季節は夏でした。ここもとてもすばらしい木造建築の宿で、周辺の散策を楽しんだりしたのですが、今度は雪があるときに、能登屋さんに泊まってみたいと思ったのでした。今年の暖冬で雪は少なかったですが、その思いが今回やっとかないました。
銀山温泉能登屋旅館 能登屋旅館は温泉街の中心に位置しますが、楼閣のような塔を備えた建物が、銀山温泉のシンボル的な存在になっており、国の登録有形文化財に指定されています。
銀山温泉能登屋旅館 建物は、温泉街に面した昔ながらの本館と、山側の別館があります。こんかいぽん太とにゃん子が泊まったのは別館だったので、残念ながら古い木造建築を味わうことができませんでした。
洞窟風呂 お風呂は、別館に男女入れ替え制の風呂があり、片方には露天風呂がついています。また本館の半地下に無料貸切制の洞窟風呂があります。別館のお風呂は木造の内装が暖かみがありますが、古めかしさは感じらず、露天風呂も風情があるとは言えません。洞窟風呂も壁がモルタルで、大正ロマンの雰囲気がないのが残念です。
銀山温泉能登屋旅館 泉質は含硫黄ーナトリウムー塩化物・硫酸塩泉で、泉温が60.6度と高いので加水はしていますが、もちろん源泉掛け流しです。透明ながら硫黄の香りがして湯の花が舞い、とても暖まるお湯です。
 料理も地元の素材を生かしてとてもおいしく、食器の華やかな彩りが雰囲気に会っていました。
 銀山温泉のシンボルとも言えるすばらしい旅館ですが、浴室が少し物足りなかったのと、たまたま泊まった部屋が新しい別館だったのとで、ぽん太の評価は4点です。本館に泊まっていたら5点だったかも。

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