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2007/04/25

そういえばビューヒナーの『レンツ』はドゥルーズ、ガタリの『アンチ・オイディプス』に出てたな

 ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』(岩淵達治訳、岩波文庫、2006年)を読んで、あまりのおもしろさにみちくさを続けているぽん太です。
 ビューヒナーのレンツといえば、ドゥルーズ、ガタリの『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症』で言及されていたのを思い出して、読み返してみました。『アンチ・オイディプス』はフロイトやラカンの精神分析を批判した本です。精神分析は無意識を家族主義的なオイディプス構造に押し込めようとするものであるとし、精神分析が扱う神経症に対して、分裂病を無意識の新たなモデルとします(「精神分裂病」は現在は「統合失調症」という呼び名に変わっていますが、ここでは邦訳の訳語に従うことにします)。思えば今を去ること20年前、フロイトを批判したケシカラン本があると伝え聞いて、仲間うちで『アンチ・オイディプス』の英訳を手に入れて読書会をしたものです。1986年に河出書房新社から市倉宏祐の邦訳が出るとさっそく購入し、わからないながら何回も読み返しました。その頃はインターネットなどなかった時代だったので、ビューヒナーのレンツと言われても調べようがありませんでした。ホントに便利な時代になったものです。

 ドゥルーズとガタリはこの大著のほとんど冒頭で、『レンツ』に一段落を割いています(邦訳上巻16〜17ページ)。「<それ>はいたるところで機能している」という有名な書き出しに続いて、無意識は互いに連結して働く機械であり、流れを発生させたり切断したりする機能を持つというワケのわからぬ主張がなされます。シュレーバーに軽く触れたあと、「精神分析家のソファに横たわる神経症患者よりも、ずっとよいモデルである」として「分裂病者の散歩」が取り上げられます。その例として挙げられるのが、「ビュヒナーによって再構成されたレンツの散歩」と、ベケットの作品の人物です。牧師のもとにいるレンツは、オイディプス化の圧力にさらされていて、自分を神との関係や父母との関係において、社会的に位置づけようとします。しかし山の中、雪の中を散歩しているレンツは、神もなく、父母もなく、ただ自然の中におり、さらには自然もなく、人間もなく、互いに連結し合うもろもろの生産する機械だけがあるといいます。
 ちなみに「精神分析家のソファ」というのは誤訳とまでは言いませんが不正確な訳で、精神分析のときに患者さんが横たわる「寝椅子」のことですネ。たとえばこちらのロンドンのフロイト博物館のサイトに、フロイト自身が実際に使った寝椅子の写真があります。これはけっして「ソファ」ではありません。
 次にレンツに言及されるのは、第二章、第五節です(邦訳上巻165ページ)。R・D・レインが分裂症を一種の旅と考えたのは有名ですが、ドゥルーズ、ガタリは、この旅とは、器官なき身体の上を主体が駆け巡りもろもろの生成変化や移動や置換を遂げることだといいます。そしてこの旅の一例としてレンツの散歩が挙げられています。
 続いて第二章、第九節。ここでは文学について論じられています。文学が既成の秩序のなかで無害なものとして消費されるとき、文学は限りなくオイディプス的なものであると著者たちはいいます。神経症的な葛藤や悩みは文学として受け入れられますが、分裂症的なものは否定され排除されます。「アルトーに対してブルドン、レンツに対してゲーテ、ヘルダーリンに対してシラー、こういう人物たちが常に存在して、文学を超自我化し、私たちにこう語る。用心せよ。やりすぎるな。『如才なさを欠いては』ならない。ウェルテルはいいが、レンツはだめだ!」(邦訳上巻257ページ)。ここでレンツは、同時代に活躍した文豪ゲーテと対比されています。もっともゲーテも躁うつ病だったという説があるので、100%まっとうでオイディプス的だったとは言えないかもしれませんが、確かにレンツに比べれば、ゲーテは良識的でバランスを崩すことなく、当時の社会秩序に収まっていたといえるでしょう。ちなみにゲーテは『詩と真実』のなかでレンツについて書いていますが、それはまた別の機会にみちくさいたしましょう。
 さて、『アンチ・オイディプス』で最後にレンツに言及されるのは、第四章、第二節です。「分子的無意識」と題されたこの節では、分子的なものとモル的なものという重要な対立概念が論じられます。機械論と生気論の伝統的な対立は、モル的な領域における見せかけの対立であって、分子的な領域ではそのような対立は散逸し、ただ欲望する機械だけがあるのです。さらにドゥルーズとガタリは、「性愛」の問題に論を進めます。精神分析の考え方では、性愛は家族のレベルにしか存在せず、社会的なものになるには昇華される必要があります。しかしドゥルーズとガタリは、性愛は、モル的な領域では社会に直接備給されうるものであり、また分子的な領域では欲望機械そのものであるといいます。このような考え方に基づいて、ラカンのファルス中心主義を批判し、去勢とは人間レベル・モル的レベルで性愛を「表象」するための根拠にすぎず、言わば一種の信仰なのだといいます。この節は重要かつ難解でよくわかりませんが、レンツに関しては、軽く言及されているだけです。「愛と、その力とその絶望について私たちに語るのは、ソファの上に横たわった神経症患者なのではない。それは分裂者の無言の散歩であり、山々や星々におけるレンツの歩みであり、器官なき身体の上の強度における不動の旅なのである」(邦訳下巻145ページ)。

 ということで、ドゥルーズとガタリにとってレンツは、神経症と分裂症という対立概念において、分裂症の好例として扱われているようです。ビューヒナーが描いたレンツの旅は、親と子、自分と他人、内部と外部などの通常わたしたちが従っている区別が溶けてなくなって、周囲と自分とが共鳴し一体となった状態を示しており、器官なき身体や欲望機械のアレンジメントに関係づけられます。またレンツ自身もゲーテと対比されて、社会的規範のうちに留まらない作家として扱われていました。

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