【蕎麦】山形県の月山近くの「大越そば」はうまい(★★★★★)
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水沢温泉館は、道の駅にしかわ月山名水館の隣りにある日帰り温泉施設です。ぽん太一行は、月山の夏スキーの帰りに汗を流しに立ち寄りました。
木をふんだんに使った新しい建物は、広々として気持ちがいいです。浴槽も広々としていますが、露天風呂がないのが残念。
泉質はナトリウムー塩化物泉で泉温46.7度とのことですが、残念ながらカルキ臭が強く、温泉力は感じませんでした。
隣りの名水館では地ビールが飲めます。風呂上がりの一杯は最高ですが、運転のぽん太はガマンガマン。
入浴料金が300円と格安ですが、カルキ臭が大きな減点となり、「温泉」としてのぽん太の評価は「普通」の2点です(2007年5月入浴)。
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ぽん太とにゃん子は、クマくん夫妻、ウシさん夫妻と一緒に、5月中旬、夏スキーで有名な山形県の月山スキー場に行ってきました。雪深い月山にあるこのスキー場は、ほかのスキー場がクローズする4月上旬になってようやくオープンし、7〜8月頃までスキーを楽しむことができます。
東京はもう晩春ですが、東北道を北上するにつれて季節が後戻りし、山形道に入ると美しい新緑が目に入ります。
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ゴールデンウィークのトルコ旅行の報告の3回目です。
さて、トルコといえば、オジサンの楽しみは何といってもベリーダンスです。おねーちゃんがお腹もあらわな衣装でセクシーな踊りを踊るやつですね。でわ、みなさんお待ちかね、ベリーダンスの写真をどうぞ!
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ビューヒナーのみちくさの続きです。
『ヴォイツェク』に、次のような医者のセリフがあります。
「ヴォイツェク、お前は典型的な局部的精神錯乱(アベラチオ・メンタリス・パルチアリス)だ、第二種症状が、じつに見事にあらわれている。ヴォイツェク、手当は割増しだ。第二種、固定観念が認められるが、全般的には理性は正常な状態、まだいつものように勤務しとるな、大尉の髭剃りは?」((1)88 ページ)。
ここでは、局部的精神錯乱(アベラチオ・メンタリス・パルチアリス)、第二種症状、固定観念といった精神医学用語が用いられています。
このうち固定観念という言葉は、現在でも日常用語としてよく使われますね。ただ精神医学用としては、現在は使われておりませんが。日常用語に関しては、goo辞書(三省堂「大辞林 第二版」)によると、「心の中にこり固まっていて、他人の意見や周りの状況によって変化せず、行動を規定するような観念。固着観念」と書かれています。また『新版 精神医学事典』(2)によれば、「あたかも押しつけられたかのように繰り返し意識の中に生じる観念」云々と書かれています。固定観念は必ずしも病的なものではなく、芸術家や研究者にもみられ、創造的行為の源にもなりえます。もともとはフランス精神医学で正常な人格の一部に観念が寄生するという限局性の精神障害を意味していたそうです。先に引用した医者のセリフの前に、ヴォイツェクの次のようなセリフがあります。
「キノコなんであります、ドクトル。これが怪しいのであります。キノコがどんな形をして土の中から出て来るかご覧になったことがおありですか? あれが読み取れたらなあ」((1)87ページ)。
この言葉を聞いて、医者はヴォイツェクに固定観念があると考えたようです。
次は「局部的精神錯乱(アベラチオ・メンタリス・パルチアリス)」という用語についてです。アベラチオ・メンタリス・パルチアリスというのはラテン語だと思いますが、このような用語を使った精神医学の概念は、無知なるぽん太は知りません。現代英語でaberrationは精神錯乱、精神異常を意味するようですが、aberrationを使った精神医学用語もないと思います。『新版 精神医学事典』の索引を見ても、aberrationは染色体の「異常」という意味で出てくるだけです。フランス語でもaberrationを使った精神医学用語は知りません。
「局部的精神錯乱」のドイツ語の原語が何なのか、調べる気力はぽん太にはありませんが、部分性精神病(délire partiel)というフランス精神医学の概念なら知っています。影山によると、18世紀にはすでに精神病を部分性と全体性に分類することが行われていたそうです((3)4ページ)。現在の概念でいう幻覚妄想状態のように精神の機能の全体が侵されるのを全体性精神病と呼び、現在のパラノイアやうつ病のように、特定の事柄に関して異常や妄想が認められるが、それ以外に関しては正常であるものを部分性精神病と呼びました。
ここでパラノイアとうつ病を一緒に扱うのはおかしいと思われるかもしれませんが、ピネルの時代までは、両者は悟性の働きが保たれているという理由で、部分精神病の名のもとに一緒くたにされていました。そしてこの「部分性精神病」は「メランコリー」と近い概念とされていました。ですから、メランコリーがうつ病を意味する現代の疾病分類からすると考えられかもしれませんが、「快活なメランコリー」や「陽気なメランコリー」といった概念が存在していました。この混同を解消したのがエスキロールで、彼は1816年の論文でメランコリーをふたつに分け、悲哀的で抑うつ的熱情が顕著なものをリペマニーとし、興奮し陽気で誇大的熱情を伴うものをモノマニーと分類しました。ちなみにエスキロールのモノマニー論が完成されたのは1838年の著書《Des maladies mentales》においてです。
この頃ドイツでも部分性精神病という概念が使われていたのかどうか、ぽん太の手元の資料ではわかりませんが、ビューヒナーが学んだのはフランス領の大学でもありますし、深入りせずにこれでよしとしておきましょう。
ヴォイツェクの精神症状を見てみると、冒頭の医者のセリフの引用に書かれているように、キノコに関する「固定観念」(妄想)はあるものの、兵隊として勤務し、大尉の髭剃りもやっているわけで、「全般的には理性は正常な状態」ですから、「部分性精神病」と見なすことができるわけです。
さて、最後に「第二種症状」です。これも、もともとのドイツ語がわかりません。ひょっとしたら「第二次症状」や「続発症状」である可能性もあります。
体液説の時代には、感情障害が原発性で、知性障害が「続発性」とされていたそうですが、これはちと時代が古すぎますね。19世紀のフランスでは、機能心理学に基づいて、感受性、知性、意志ののそれぞれの障害に基づいて、精神医学が組み立てられていたそうです((3)4ページ)。じじつ、ピネルの『精神病に関する医学=哲学論』を(ざっと)読んでも、「第二種症状」とか、固定観念が二次的に生じるという考え方は出てきません(4)。またエスキロールのモノマニー論にもそうした考え方はなさそうです(3)。
するとドイツ精神医学をあたってみることになりますが、残念ながらぽん太の手元には、19世紀前半のドイツ精神医学の疾病概念に関する資料がありません。唯一、クレペリンの『精神医学』の「偏執症(パラノイア)」の章の冒頭にある、「パラノイア概念の歴史」というところで、グリージンガーの説が簡単に触れられています。グリージンガーは、いろいろの段階を経て経過する唯一の精神病を想定していたのですが(いわゆる単一精神病論)、それによれば、あらゆる精神病はメランコリーに始まり、それが治癒しないばあい、続いて躁性興奮の時期、偏執症の時期、錯乱の時期と経過し、最終的に痴呆の時期にいたるとされました。したがってこの当時は、精神障害が治癒しないで悪化した状態を、「二次的」偏執症と言ったのだそうです((5)325ページ)。
当たり……の感じがします。グリージンガーの『精神病の病理と治療』は1845年に書かれたもので、ビューヒナーが亡くなった1937年より後ですが、二次的偏執症という概念がビュヒナーの時代のドイツに広まっていた可能性はあります。グリージンガーの教科書は邦訳が見当たらないのですが、抄訳はあるようなので、そのうちみちくさしてみます。
【参考文献】
(1)ビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』岩淵達治訳、岩波文庫、2006年。
(2)加藤正明編『新版 精神医学事典』弘文堂、1993年。
(3)影山任佐『フランス慢性妄想病論の成立と展開』中央洋書出版部、1987年。
(4)ピネル『精神病に関する医学=哲学論』影山任佐訳、中央洋書出版部、1990年。
(5)クレペリン『精神分裂病』西丸四方他訳、みすず書房、1985年。
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ゴールデンウィークにトルコを旅行してきたぽん太です。
さてトルコがイスラム教国だということはぽん太も知っていたのですが、イスラム教というとイラクやイランなど、近頃はちょっと物騒なイメージがあります。さらにぽん太の頭のなかには、オスマン帝国が「コーランか剣か」という合い言葉のもとに他国を侵略した歴史が印象に残っており、現代のトルコも敬虔なイスラム教国かと思っておりました。
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ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』を読んで興味を持ち、周辺をみちくさしているぽん太です。
以前の記事で、『レンツ』が精神障害者を主人公にしていることを書きましたが、『ヴォイツェク』の主人公も精神障害者です。そこでこんかいは、ビューヒナーと精神医学の関係をみちくさしてみましょう。
『ヴォイツェク』は1836年に執筆された戯曲ですが、翌年ビューヒナーがチフスで亡くなったため、未完に終わりました。そのため各部分の順序や書かれた時期がはっきりせず、編者や演出家によってさなざまな解釈を許す結果となっております。あらすじは、たとえばこちらのページにある、ベルク作曲の歌劇「ヴォツェック」のあらすじをご覧下さい。ヴォイツェクは幻覚や妄想がある精神障害者で、内縁の妻マリーを殺してしまいます。
邦訳の解説によると、『ヴォイツェク』にはモデルとなった事件があるそうで、ヨーハン・クリスティアーン・ヴォイツェクという鬘師(かつらし)が嫉妬からヴォーストという未亡人を刺殺したのですが、被告に精神異常の可能性が疑われたため精神鑑定が行われました。その結果、責任能力ありと認定されて、1842年8月27日にライプツィヒの市会議事堂前広場で公開斬首刑となったそうです。ヨーハン・クラールス教授による精神鑑定書をビューヒナーは読んでいたそうですが、彼自身は1837年に死去しておりますから、犯人の死刑執行は見届けなかったことになります(2009年3月6日付記:ヴォイツェクが処刑されたのは1824年8月27日の誤りで、従ってビューヒナーはヴォイツェクの処刑を見届けたことになります。「くんすけ」さんのコメントに基づき、お詫びして訂正させていただきます)。
また『ヴォイツェク』には、次のような医者のセリフがあります。
「医者 ヴォイツェク、お前は典型的な局部的精神錯乱(アベラチオ・メンタリス・パルチアリス)だ、第二種症状が、じつに見事にあらわれている。ヴォイツェク、手当は割増しだ。第二種、固定観念が認められるが、全般的には理性は正常な状態、まだいつものように勤務しとるな、大尉の髭剃りは?」(前掲書、88ページ)。
ここにつかわれている固定観念という言葉は、現代の精神医学ではあまり使われない用語ですが、日常用語としてはよく聞きます。しかし、局部的精神錯乱(アベラチオ・メンタリス・パルチアリス)とか第二種症状といった用語は、不勉強のぽん太は知りません。翻訳の問題もあると思うので、本来ならドイツ語の原文にあたるべきでしょうが、ちとめんどくさいです。
実はビューヒナーは精神医学の知識を持っていました。というか、ぽん太よりよっぽど優秀な医者だったようです。彼は1831年、18歳のとき、当時フランス領だったストラスブール大学の医学部に入学しています。その後規定に従って1833年からドイツのヘッセン大公領のギーセン大学に在籍し、1835年に再びストラスブール大学に戻りました。1836年には『ニゴイの神経系に関する覚書』という論文でチューリヒ大学の哲学博士号を取得し、動物解剖学の講義を行っています。
ビューヒナーが医学を学び、『ヴォイツェク』を執筆した、19世紀前半の精神医学はどのような状況だったのでしょうか。今回はおおまかな流れをつかんでみましょう。
当時の精神医学史上の重要なメルクマールは、1793年に行われた、ピネル(1745〜1826)による精神障害者の鎖からの解放です。それまで精神障害者は、暴れたり何をするかわからないので、鎖で壁につながれていました。ピネルはフランスのビセートルという精神病院で、この鎖を取り外したのです。この功績によって彼は、近代精神医学の創始者とうたわれることになりました。もっとも鎖は取り外したものの、拘束衣を使ったり、サスマタで取り押さえたりはしていたようですが、薬もなかった時代だから仕方ないですかね。ピネルが1801年に著した『精神病に関する医学=哲学論』は、道徳療法を世に広めました。道徳療法というと、たまに「患者を人道的に扱うこと」と勘違いしているひとがいるのですが、そうではなくて、規律正しい秩序だった生活をさせ、対話や介入によって働きかけることによって、患者が自分の衝動性を自制できるようにしていくことです。
このような精神医療の改革は、フランスだけではなくヨーロッパ各地で同時に押し進められ、1840年代までに各地に改革的な精神病院が作られました。
ところが19世紀後半になると、精神病患者の爆発的増大という新たな事態が出現し、精神病院は再び治療の場から監禁・収容の場に逆戻りしていくのですが、そのあたりは今回のみちくさの範囲外です。
こうした流れとは別に、19世紀前半のドイツでは、「ロマン主義精神医学」と呼ばれる極端な思弁的・心理的精神医学があだ花を咲かせました。ハインロート(1773〜1843)やイーデラー(1795〜1860)が代表的な人物でした。ハインロートは1823年に『精神衛生の教科書』を出版しまたのですが、その内容は例えば、ひとは熱情に捕われると生活の秩序を失ってしまう、それを防ぐのは自由であり、神だけがわれわに自由を与えてくれる、などというシロモノだったそうです。「ロマン主義精神医学」は当時から批判されていましたが、ベルリン大学の精神医学の教授をしていたイーデラーが1960年に死去することによって、またたくまに消滅しました。
ドイツの精神医学を思弁から引き離して身体的な基盤の上に位置づけたのが、グリージンガー(1817〜1868)です。弱冠28歳にして著した教科書『精神病の病理と治療』(1845)は高い評価を得ました。彼の「精神病は脳病である」という言葉はたいへん有名です。
再びフランスに目を転ずると、ピネルは先に述べた『精神病に関する医学=哲学論』(1801)のなかで、精神病をマニー、メランコリー、痴呆、白痴に分類しています。ピネルの後を継いだのはエスキロール(1772〜1840)で、モノマニーという概念を発展させました。19世紀後半になるとモレル(1809〜1873)が悪名高い「変質論」を提唱しました。精神障害は遺伝性であり、代を重ねるごとに悪化し、最終的には絶滅するという考え方で、いまではまったく否定されていますが、当時は一般社会の中で広く信じられていました。
【参考文献】エドワード・ショーター『精神医学の歴史 隔離の時代から薬物治療の時代まで』、木村定訳、青土社、1999年
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前回、新緑の山を楽しもうとして失敗し、冬枯れの山に行ってしまったぽん太とにゃん子は、こんどこそはと春の低山に行くことにしました。めざすは高川山です。山梨県は大月市の中央道の分岐のところにある山で、高速からよく見えるので、以前から「ちょっと気になる山」でした。
と、ところが、ネットで登山の下調べをしていたら、な、なんと高川山の山頂には、山頂犬と呼ばれる犬が住み着いていているとのこと。動物好きのぽん太とにゃん子は、さっそく調査にでかけました。
【山名】高川山(975.7m)、羽根子山(896m)、大岩(753m)
【山域】中央道沿線
【日程】2007年5月9日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】晴れ。真夏のように暑い日。
【コース】シイタケ栽培所手前の登山口(11:12)…(男坂)…高川山(12:07)…羽根子山…カンバ沢ノ頭…大岩…屏風岩…登山口(15:04)
【見た花】チゴユリ、ホウチャクソウ(初)、ヤマツツジ、ヤマブキ、イカリソウ、ヒトリシズカ、ジュウニヒトエ(初)、フデリンドウかハルリンドウ(根生葉の大きさで区別されるが確認せず)、アオダモかマルバアオダモ(葉の鋸歯の有無で区別されるが確認せず)
【マイカー登山情報】シイタケ栽培所手前に3〜4台停められる駐車スペース有り。しかし、そこまでの道はかなり細い上、最後の数十メートルは未舗装の凸凹道。普通の乗用車は何とか入れるが、大型車は困難。
【地図】周辺のYahoo!地図
ゆっくり自宅を出発して中央道を西へ。途中、圏央道との八王子ジャンクションの工事が進んでいる。ついに6月23日に開通とのこと。これができると、ぽん太の家から関越に抜けるのとっても楽になります。圏央道の事業取り消しの裁判を起こしているオオタカさんだか天狗さん、ドライバーの身になって、どうか矛を収めて下さい。
あっという間に大月インターに到着。初狩駅付近からアプローチして行くが、道がとっても細い。慣れないぽん太は、ときおりカーブで切り返したりしながら、ようやくシイタケ栽培所手前の駐車スペースに到着。大型連休明けの平日ということで、車は一台も停まっていませんでした。
![]() | 登り始めは植林地帯ですが、やがて気持ちのよい新緑の林となります。 |
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![]() | まず羽根子山の山頂に行ってみた。すると山頂犬は……いた |
![]() | 次はカンバ沢ノ頭である。はたして山頂犬はいるのか……ここにもいた |
![]() | そこで今度は大岩山に行ってみた。すると……山頂犬はいなかった |
![]() ここで新たなトリビアが生まれた。山頂犬は、高川山、羽根子山、カンバ沢ノ頭にはいたが、大岩と屏風岩にはいなかった。 |
すでにお気づきかと思いますが、高川山の山頂犬が、途中までぽん太たちについてきたのです。先になり、後になり、ときには振り返り、ときにはじゃれながら付いてきた山頂犬は、単調な低山歩きをとっても楽しいものにしてくれました。ありがとう、山頂犬! 「お前は狐忠信か」とツッコミたい感じです。ちなみに狐忠信とは歌舞伎の「義経千本桜」に出てくる子ギツネで、佐藤忠信に姿を変えて、静御前の旅のお供をします。
帰りは芭蕉月待ちの湯で汗を流しました。昔入ったときは混雑していて単なる温泉センターという印象だったのですが、35.4度の源泉はpH9.66という強アルカリ性で、木組みの屋根も美しく、700円という値段を考えると、今回は悪くない印象でした。
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前回の記事でぽん太は、旧約聖書の『創世記』に出てくるノアの方舟が流れ着いた山が、トルコのアララト山と言われていることを書きました。ところで、ぽん太が以前の記事(『ギルガメッシュ叙事詩』を読んでみた(2005/12/25))で書いたように、『創世記』より以前に書かれた『ギルガメシュ叙事詩』のなかに、ノアの方舟のとたいへんよく似た大洪水の物語があるのです。神の指示に従って船を造って生き物を乗せ、鳩を放って洪水が引いたかどうかを調べるなど、そっくりです。そこで、『ギルガメシュ叙事詩』では、洪水のときに船が流れ着いたのがどことされているのかが気になってきて、みちくさしてみることにしました。
『創世記』のノアの方舟の物語は、紀元前10世紀頃に編集されたヤハウェ資料と、紀元前5世紀頃に編集された祭司資料からなっているとされています。『ギルガメシュ叙事詩』の洪水の物語は第XI書板に刻まれていますが、紀元前2000年頃に使われていたシュメール語の断片も見つかっているそうです。だからといって『創世記』が『ギルガメシュ叙事詩』を参照したということには、もちろんなりませんが、両者のもととなる言い伝えが古くからあったことは確かなようです。
『ギルガメシュ叙事詩』は邦訳が文庫で手に入ります(『ギルガメシュ叙事詩』矢島文夫訳、ちくま学芸文庫、1998年)。本文に、洪水のさいに船が流れ着いたのは「ニシル山」と書かれています(XI-140、邦訳125ページ)。同じページの訳注によれば、「ニシル」は「ニムシュ」とも読めるそうで、新アッシリアの資料によると、クルディスタン地方(チグリス・ユーフラテス川の中上流近辺に広がる山岳地帯)にそのような名前の山があったらしいが、正確な場所は不明なのだそうです。
邦訳193ページの解説によると、『ギルガメシュ叙事詩』のディヤコノフによるロシア語訳(1961年)の解説によると、この山は、イラン高原西方のピル・オマル・グドルン山とされているそうです。ちょっとググって見たのですが、残念ながらどこなのかわかりませんでした。
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ぽん太とにゃん子は、ゴールデンウィークを利用してトルコを旅行してきました。旅程は下記の通りです。
【第1日目】成田…(アエロフロート)…モスクワ(トランジット)…イスタンブール(泊)
【第2日目】イスタンブール…(バス)…トロイ★世界遺産(トロイ遺跡観光)…アイワルク(泊)
【第3日目】アイワルク…(バス)…ベルガマ(アクロポリス遺跡観光)…エフェソス(エフェソス遺跡観光)…パムッカレ(泊)
【第4日目】パムッカレ★世界遺産(パムッカレ石灰棚観光)…(バス)…コンヤ(メヴラーナ博物館観光)…カッパドキア(泊)
【第5日目】カッパドキア★世界遺産(観光/カイマクル地下都市、ウチヒサール、ギョレメ野外博物館、ゼルベの谷)…(バス)…アンカラ…(アンカラ・エキスプレスでイスタンブールへ)…
【第6日目】…イスタンブール★世界遺産(観光/ボスポラス海峡クルーズ、トプカプ宮殿、アヤソフィア、軍事博物館、ブルーモスク、グランドバザール、ベリーダンス)(泊)
【第7日目】イスタンブール…(アエロフロート)…モスクワ(トランジット)…
【第8日目】…成田(お疲れさまでした)
世界遺産4カ所を含むトルコのおもだった見所を効率よく見てまわるツアーで、トルコ入門にとてもよかったです。でも、バス移動が長くて、ちょっと疲れました。
ということで旅のご報告をしたいと思うのですが、トルコは超有名な観光地ですから、ぽん太が行った観光地を紹介するブログや情報は山のようにあるようです。ですから、旅程に従って一カ所ずつ報告していくかたちをとらず、いくつかのテーマごとに、トルコの印象をまとめてみたいと思います。
で、こんかいは、トルコの地理をみてみましょう。
こちらのトルコ政府観光局のページによると、トルコの面積は814,578平方キロメートル。日本の面積の2倍ちょっちとですね。ちなみに人口は2000年の調査で6,784万4千人とのことで、日本の約半分です。
まず、Googleマップでトルコの地図を眺めてみましょう。まずこの倍率でわかるように、トルコはまさに東洋と西洋のつなぎ目に位置しています。西側はブルガリア、ギリシアに接しており、東側は北からグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアに接しています。ちなみに北は黒海、南は地中海ですね。
で、みちくさですが、地図を見ていて気がついたのですが、グルジアって英語でGeorgiaって書くんですね。これではジョージアじゃないですか。日本グルジア文化協会のページによると、聖ゲオルギウス(Georgius)から来ているそうです。
次に地図をここまで拡大してみるとわかるように、ヨーロッパ側とアジア側は陸続きにはなっておりません。ボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡によって隔てられています。ボスポラス海峡には何本かの橋が架かっていて、東洋と西洋をつないでいます。そしてイスタンブールは、このボスポラス海峡の両側にまたがっているんです。
トルコのアジア側の部分はアナトリアと呼ばれ、またヨーロッパ側の部分は、ブルガリアの南東部やギリシアの北東部を含め、トラキアと呼ばれています。現地のガイドさんの説明によると、アナトリアは「太陽が昇る国」という意味であり、またトラキアは「喉(のど)」という言葉から来ていて、その理由は地形が喉のように細いから、ということでしたが、エビデンスはありません。でも、そういえば、気管のことを英語でtracheaといいますね。
次にトルコの地形図を見てみましょう。こちらのウィキペディアの地図が見やすいです。全体に西側は低く、東側に行くにつれて山岳地帯となります。トルコの最高峰は、アルメニア、イランとの国境近くにあるアララト山で、標高5165メートルです。旧約聖書の『創世記』に出てくるノアの方舟が流れ着いたのがアララト山だと言われており、「ノアの方舟の破片」などというキワモノもどこだかにあるそうです。また、チグリス川・ユーフラテス川が、トルコ東部に源流を発しています。キリスト教といえば、聖母マリアは使徒ヨハネとともにトルコで晩年を送って逝去したという話しもありますが、あとでみちくさすることにしましょう。
気候的には、沿岸部の地中海性気候、黒海沿岸の温暖な地帯、内陸部の大陸性気候などがあるそうです。沿岸部の気温は、日本とほぼ同じか少し暖かいくらいでした。
では、写真をご紹介しましょう。
![]() | まず、ボスポラス海峡です。写真のように幅の狭い海峡で、橋が架けられています。この海峡を境に、ヨーロッパとアジアが接しているのです。 |
![]() | 地中海沿岸(ゲリボル半島)の一面の麦畑です。地中海性気候で温暖です。パンがトルコ人の主食です。写真は撮りませんでしたが、地中海沿岸には、オリーブ畑もいっぱいあります。 |
![]() | パムッカレからコンヤに向かうバスの車窓から、一面に白い花を咲かせた果樹園が見えました。アンズやスモモ、ナシ、柑橘類などを栽培しているそうです。 |
![]() | コンヤからカッパドキアに向かう道です。内陸性の気候となり、荒涼とした風景がひろがります。牧羊をしている姿をよく見かけました。 |
![]() | 同じあたり(アクサライ付近)から見たハサン山です。富士山のような美しい形で、標高は3,268メートル。頂上付近には雪をいただいています。このあたりまでくると、ところどころ高い山が目に入ってきます。 |
![]() | 特殊な地形に入りましょう。まず、世界遺産にもなっている、パムッカレの石灰棚です。石灰成分を含むお湯が地上に流れ出して、大地を被いながら結晶化したものです。鍾乳洞の地上版だと思うとわかりやすいです。 |
![]() | 探してみたらありました。山口県は秋芳洞の写真です(2004年撮影)。これと同じようなものですネ。 |
![]() | 奇岩と洞窟住居で有名なカッパドキアのなかでも、シメジのような不思議な岩が立ち並ぶゼルベの谷は有名です。ここも世界遺産ですね。やわらかい凝灰岩でできているため浸食によって削られたのですが、たまたまその上に硬い地層があったため、帽子のようになって浸食されずに残ったものです。 |
実はこのような地形は、ぽん太はよく見かけます。登山をしていると、土の上に直径数ミリの小砂利があるようなところで、小砂利の下の土が浸食されずに、小石を頭上に抱いた高さ2センチほどの搭状のものができるのです。よくあるのですが、手元に写真がないので、見かけたらアップします。 |
![]() | トゥズ湖です。ただの湖に見えるかもしれませんが、塩水の湖で、塩分濃度は死海よりも濃いそうです。湖岸近くには塩の結晶が堆積しています。昔の海のなごりだそうです。 |
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ゴールデンウィークも目前、ぽん太とにゃん子は山梨県の曲岳、黒富士に登ってきました。新緑のなかを歩きたかったのですが、ちょっと標高が高すぎて、まだ芽だし前の冬枯れ状態でした。
【山名】曲岳(まがりだけ)(1642m)、黒富士(1610m)
【山域】奥秩父
【日程】2007年4月26日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】晴天なれど風強し
【コース】観音峠(11:34)…曲岳(12:18)…黒富士(13:32)…観音峠(14:58)
【マイカー登山情報】昇仙峡ラインから観音峠までは舗装されている。観音峠に十台分程度の駐車スペースあり。冬は通行止めになるらしいので確認が必要。
観音峠から増富温泉までの道も舗装されているが、ところどころ凹凸や落石があるので、運転は慎重に。観音峠を越えて少し行ったところに「黒富士登山道入口」と書かれた駐車スペースがあり、ここから登ると八丁峠に出る。
【地図】Yahoo地図
前日の雨も上がってよい天気になったので、今年初めての登山にでかけることにしました。この時期、新緑の低山歩きは最高です。
ところが中央道を走って行くと、高尾山のあたりがほどよい感じで、萌葱色の新緑に山桜のピンクがとてもきれいです。これでは曲岳、黒富士は標高が高すぎたかな、と思いましたが、初志貫徹で行くことにしました。
曲岳、黒富士の場所は、深田久弥終焉の地で有名な茅ケ岳の東側です。昇仙峡ラインから北へ続く林道を登るにつれて、季節がだんだん逆戻りし、登り口の観音峠は冬枯れの風景でした。
駐車スペースに車を停めて曲岳の登りにかかりますが、いきなりの急登で、おまけにけっこうな岩場などもあり、シーズンはじめの足慣らしにはちと過酷でした。曲岳の山頂でさっそくお弁当です。天気はよかったですが北風が強かったです。雲が多く、南アルプスがうっすらと見えました。
![]() | そこから黒富士へはまず急坂を下りますが、その後は快適な稜線歩きとなります。ブナ、ダケカンバ、シラカバ、ナツツバキなど、さまざまな落葉樹の林が美しかったです。途中、升形山へのピストンは、めんどくさいから省略。 |
![]() | 黒富士山頂から見た茅ケ岳と、手前の曲岳です。 |
![]() | 北を見ると、瑞牆山から金峰山、大弛峠、国師ケ岳と続く稜線が見渡せました。 |
帰路は車で増富温泉に抜けて、汗を流して帰ることにしました。途中の林道は両側は落葉樹の林が広がり、新緑や紅葉の時季はさぞかし美しかろうと思われました。
増富温泉の日帰り入浴施設の増富の湯は新しい立派な建物で、駐車場も広いです。鉄錆色の源泉が満たされた浴槽が3つあり、それぞれ温度が異なります。一番温度が低いのは27度で、これは冷たくて入れませんでした。そのほかに、普通の暖かい浴槽やサウナ、ジャグジー、うたせ湯などがそろっています。入浴法が掲示してあったり、整体のコーナーがあったり、健康作り教室を開いていたりと、湯治、温泉療養に重きを置いているようです。これで値段が700円というのはとってもお得です。
ただ、源泉以外の風呂は普通のお湯でカルキ臭が強いのが気になるのと、鄙びた秘湯が好きなぽん太には温泉センター風な雰囲気が減点となり、ぽん太の評価は「ややよし」の3点です。
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四国こんぴら歌舞伎大芝居を見に行ったぽん太とにゃん子が泊まったのは、こんぴら温泉郷のつるや旅館さんでした。ツアーで選択できる宿のなかから選びました。
旅館の入り口のある建物は木造風になっておりますが、ぽん太たちが泊まった部屋はお土産屋の2階で、部屋は広かったもののビジネス旅館のような感じで、隣室の音も筒抜けでした。お湯はナトリウム・カルシウム塩化物温泉ですが、循環加熱しているようで、温泉力はあまり感じられません。浴室は男女別の内風呂と足湯がありますが、浴室はあまり広くはありません。
ということで、温泉を満喫したいぽん太の好みからすると、評価は「普通」の2点となるところですが、3点としたのには理由があります。まず、料金がなんと一人一泊9,000円と格安です。それから場所が金刀比羅宮の参道の入り口という便利な場所にあります。夕食は個室のお食事処で会席料理をいただきますが、値段を考えると品数も多くておいしいです。そしてなによりも従業員の応対が親切ではきはきしているのが好感が持てます。
琴平観光の拠点として、格安の値段で天然温泉に入っておいしい夕食も楽しみたいという目的には、格好の宿だと思います。
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ビューヒナーの周辺のみちくさを続けているぽん太ですが、『ヴォイツェク』を原作とするアルバン・ベルク作曲の無調音楽のオペラ『ヴォツェック』のDVDを買って見てみました。
購入したのは『ベルク:歌劇「ヴォツェック」全3幕』で、値段が2940円でとってもお得です。ブルーノ・マデルナ指揮、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、ヴォツェック役はバリトンのトニ・ブランケンハイムです。ヨアヒム・ヘス監督によって野外ロケを行って、映画として仕上がっています。製作は1970年です。
(この段落は桜塚やっくん風に)なぜオペラは『ヴォツェック』(Wozzeck)なのに原作の戯曲は『ヴォイツェク』(Woyzeck)なのかって? それはね、戯曲の本当の題名はWoyzeckだったんだけど、ビューヒナーがとっても字がへたくそだったから、筆記体のyzがzzに見えてしまって、この戯曲はWozzeckと呼ばれていたのさ。ベルクはそれに従ってオペラを作曲したってわけ。ところがあとから戯曲の題名が正しく訂正されたから、題名が別々になったのさ。豆知識だよ〜〜!!
などと冗談を言わないではいられないほど、このDVDは怖いのです。怖いといっても、スリラー映画のような怖さではなく、見ているこっちの精神が破壊され、発狂しそうな気がしてくるのです。夜中に電気を消してひとりで見ていたら、だんだんムンクの「叫び」のような気分になってきて、頭の中で爆音が鳴り響き始め、大声で叫び出しそうになりました(ちなみにムンクの「叫び」は絵のなかの人が叫んでいるんじゃなくて、ホントは叫び声を聞いているのさ。これも豆知識だよ!!)。
ビューヒナーの脚本自体は諧謔味もあるような気がするのですが、オペラの方は怖くて苦しくて行き場のない圧迫感があります。ベルクの無調音楽がさらに弱った神経を逆なでします。なんかドイツ表現主義映画を見ているようです。
何万円とかお金を払ってオペラを見に行ったら、こんなのだったらやだな。
みなさんも怖いもの見たさでご覧下さい。
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近ごろ歌舞伎にはまっているぽん太とにゃん子ですが、今年(2007年)の4月、四国こんぴら歌舞伎を見てきました。
金刀比羅宮で有名な、四国は香川県の琴平に、金丸座と呼ばれる古い芝居小屋があります。現存する歌舞伎専用の芝居小屋としては日本最古だそうで、建てられたのは江戸時代の天保6年(1835年)です。
金丸座の歴史については、琴平町のホームページのなかの「こんぴら歌舞伎のあゆみ」が詳しいです。江戸時代は芝居小屋として栄えたものの、時代の流れとともに映画館として使われ、やがて廃館となりました。その後、一時はかなり荒廃していたそうですが、昭和30年頃より復元運動が始まり、昭和45年にはその価値が認められて国の重要文化財に指定されます。そして昭和47年から4年間の歳月と多額な費用をかけて移築復元されることになり、昭和51年4月27日に完成したそうです。「金丸座」というのは通称で、ホントは「金比羅大芝居」という名前でしたから、復元された現在の建物は「旧金比羅大芝居」と呼ばれています。この歴史ある美しい芝居小屋で歌舞伎公演をしたいという思いが結集し、昭和61年6月に歌舞伎公演、「第1回四国こんぴら歌舞伎大芝居」が行われました。今年ぽん太とにゃん子が見に行ったのは、回を重ねて第23回です。
金丸座に向かう道の両側には役者の名前が書かれたのぼりが立ち並び、小屋の前はすでに大勢のひとでにぎわっており、わくわくしてくるのを感じます。入り口の扉に開けられた小さな木戸をくぐってなかに入ります。現実から離れて芝居の空間に入る雰囲気を盛り上げるため、現在も昔と同じようにしているのだそうです。「お茶子さん」と呼ばれるお嬢さんが席まで案内してくれます。こじんまりとした内部は、中央の平場の枡席を二階建ての観客席が囲んでいます。江戸時代のひとたちは小さかったのか、かなり窮屈です。枡席のお客さんが移動するときは、枡席を仕切っている木の上を、平均台のように歩かなくてはならず、お年寄りの場合はお茶子さんが手を引いたり、座っているお客さんが手を貸したりするのが面白いです。照明として、天井に提灯がまるでボーリングのピンのようにずらっと吊るされており、フットライト代わりにはろうそく(もちろん実際は電球です)が並べられています。ぽん太とにゃん子の席は、1日目は「青田」という一階の一番奥の板の間でしたが、2日目は2階の西桟敷でした。
歌舞伎の内容については、あれこれ言うほどの知識はぽん太にはありません。「葛の葉」では、昔ながらの「かけすじ」という仕掛けを使った宙乗りがあり、人力の回り舞台も使われました。また、現代なら客席の照明を落とせばいいところで、係りの人がいっせいに明り取りの障子の板戸を閉めるなど、江戸時代さながらの舞台演出が伺えて興味深かったです。役者と客席の距離も近く、みんな一緒に歌舞伎を楽しんでいる雰囲気があり、とても楽しかったです。
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