« 【トルコ旅行(2)】世俗主義のイスラム教 | トップページ | 【トルコ旅行(3)】ベリーダンス、軍楽隊など »

2007/05/23

ビューヒナーが使った精神医学用語について

 ビューヒナーのみちくさの続きです。
 『ヴォイツェク』に、次のような医者のセリフがあります。

 「ヴォイツェク、お前は典型的な局部的精神錯乱(アベラチオ・メンタリス・パルチアリス)だ、第二種症状が、じつに見事にあらわれている。ヴォイツェク、手当は割増しだ。第二種、固定観念が認められるが、全般的には理性は正常な状態、まだいつものように勤務しとるな、大尉の髭剃りは?」((1)88 ページ)。

 ここでは、局部的精神錯乱(アベラチオ・メンタリス・パルチアリス)、第二種症状、固定観念といった精神医学用語が用いられています。
 このうち固定観念という言葉は、現在でも日常用語としてよく使われますね。ただ精神医学用としては、現在は使われておりませんが。日常用語に関しては、goo辞書(三省堂「大辞林 第二版」)によると、「心の中にこり固まっていて、他人の意見や周りの状況によって変化せず、行動を規定するような観念。固着観念」と書かれています。また『新版 精神医学事典』(2)によれば、「あたかも押しつけられたかのように繰り返し意識の中に生じる観念」云々と書かれています。固定観念は必ずしも病的なものではなく、芸術家や研究者にもみられ、創造的行為の源にもなりえます。もともとはフランス精神医学で正常な人格の一部に観念が寄生するという限局性の精神障害を意味していたそうです。先に引用した医者のセリフの前に、ヴォイツェクの次のようなセリフがあります。

 「キノコなんであります、ドクトル。これが怪しいのであります。キノコがどんな形をして土の中から出て来るかご覧になったことがおありですか? あれが読み取れたらなあ」((1)87ページ)。

この言葉を聞いて、医者はヴォイツェクに固定観念があると考えたようです。

 次は「局部的精神錯乱(アベラチオ・メンタリス・パルチアリス)」という用語についてです。アベラチオ・メンタリス・パルチアリスというのはラテン語だと思いますが、このような用語を使った精神医学の概念は、無知なるぽん太は知りません。現代英語でaberrationは精神錯乱、精神異常を意味するようですが、aberrationを使った精神医学用語もないと思います。『新版 精神医学事典』の索引を見ても、aberrationは染色体の「異常」という意味で出てくるだけです。フランス語でもaberrationを使った精神医学用語は知りません。
 「局部的精神錯乱」のドイツ語の原語が何なのか、調べる気力はぽん太にはありませんが、部分性精神病(délire partiel)というフランス精神医学の概念なら知っています。影山によると、18世紀にはすでに精神病を部分性と全体性に分類することが行われていたそうです((3)4ページ)。現在の概念でいう幻覚妄想状態のように精神の機能の全体が侵されるのを全体性精神病と呼び、現在のパラノイアやうつ病のように、特定の事柄に関して異常や妄想が認められるが、それ以外に関しては正常であるものを部分性精神病と呼びました。
 ここでパラノイアとうつ病を一緒に扱うのはおかしいと思われるかもしれませんが、ピネルの時代までは、両者は悟性の働きが保たれているという理由で、部分精神病の名のもとに一緒くたにされていました。そしてこの「部分性精神病」は「メランコリー」と近い概念とされていました。ですから、メランコリーがうつ病を意味する現代の疾病分類からすると考えられかもしれませんが、「快活なメランコリー」や「陽気なメランコリー」といった概念が存在していました。この混同を解消したのがエスキロールで、彼は1816年の論文でメランコリーをふたつに分け、悲哀的で抑うつ的熱情が顕著なものをリペマニーとし、興奮し陽気で誇大的熱情を伴うものをモノマニーと分類しました。ちなみにエスキロールのモノマニー論が完成されたのは1838年の著書《Des maladies mentales》においてです。
 この頃ドイツでも部分性精神病という概念が使われていたのかどうか、ぽん太の手元の資料ではわかりませんが、ビューヒナーが学んだのはフランス領の大学でもありますし、深入りせずにこれでよしとしておきましょう。
 ヴォイツェクの精神症状を見てみると、冒頭の医者のセリフの引用に書かれているように、キノコに関する「固定観念」(妄想)はあるものの、兵隊として勤務し、大尉の髭剃りもやっているわけで、「全般的には理性は正常な状態」ですから、「部分性精神病」と見なすことができるわけです。

 さて、最後に「第二種症状」です。これも、もともとのドイツ語がわかりません。ひょっとしたら「第二次症状」や「続発症状」である可能性もあります。
 体液説の時代には、感情障害が原発性で、知性障害が「続発性」とされていたそうですが、これはちと時代が古すぎますね。19世紀のフランスでは、機能心理学に基づいて、感受性、知性、意志ののそれぞれの障害に基づいて、精神医学が組み立てられていたそうです((3)4ページ)。じじつ、ピネルの『精神病に関する医学=哲学論』を(ざっと)読んでも、「第二種症状」とか、固定観念が二次的に生じるという考え方は出てきません(4)。またエスキロールのモノマニー論にもそうした考え方はなさそうです(3)。
 するとドイツ精神医学をあたってみることになりますが、残念ながらぽん太の手元には、19世紀前半のドイツ精神医学の疾病概念に関する資料がありません。唯一、クレペリンの『精神医学』の「偏執症(パラノイア)」の章の冒頭にある、「パラノイア概念の歴史」というところで、グリージンガーの説が簡単に触れられています。グリージンガーは、いろいろの段階を経て経過する唯一の精神病を想定していたのですが(いわゆる単一精神病論)、それによれば、あらゆる精神病はメランコリーに始まり、それが治癒しないばあい、続いて躁性興奮の時期、偏執症の時期、錯乱の時期と経過し、最終的に痴呆の時期にいたるとされました。したがってこの当時は、精神障害が治癒しないで悪化した状態を、「二次的」偏執症と言ったのだそうです((5)325ページ)。
 当たり……の感じがします。グリージンガーの『精神病の病理と治療』は1845年に書かれたもので、ビューヒナーが亡くなった1937年より後ですが、二次的偏執症という概念がビュヒナーの時代のドイツに広まっていた可能性はあります。グリージンガーの教科書は邦訳が見当たらないのですが、抄訳はあるようなので、そのうちみちくさしてみます。

【参考文献】
(1)ビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』岩淵達治訳、岩波文庫、2006年。
(2)加藤正明編『新版 精神医学事典』弘文堂、1993年。
(3)影山任佐『フランス慢性妄想病論の成立と展開』中央洋書出版部、1987年。
(4)ピネル『精神病に関する医学=哲学論』影山任佐訳、中央洋書出版部、1990年。
(5)クレペリン『精神分裂病』西丸四方他訳、みすず書房、1985年。

|

« 【トルコ旅行(2)】世俗主義のイスラム教 | トップページ | 【トルコ旅行(3)】ベリーダンス、軍楽隊など »

精神医療・福祉」カテゴリの記事

コメント

突然申し訳ございません。ご興味を持たれるであろう団体・個人のサイトにお送りしております。お誘い合わせの上、ぜひともいらしていただけま
すと幸いです。よろしくお願い致します。


オフィス然nature 第二回講演会
「性同一性障害と戸籍」

講師/大島俊之(九州国際大学法学部教授 弁護士)
針間克己(精神科医)
日時/4月6日(日)13:10開場13:30~16:30
場所/総評会館 (地下鉄千代田線「新御茶ノ水駅」B3出口目の前)
参加費/1000円
<事前申込制>メール/ftmjapan@mve.biglobe.ne.jp
FAX/03-5851-0431

大島俊之(おおしま としゆき)・・・九州国際大学法学部教授。弁護士(弁護士法人淀屋橋・山上合同、大阪弁護士会)。大阪大学法学部卒。法
学博士。大阪府立大学の専任講師、助教授、神戸学院大学の法学部教授、法科大学院教授を経て、現職。カナダ首相出版賞受賞(1999年)尾中
郁夫・家族法学術賞受賞(2003年)。GID「性同一性障害」学会理事長。主要著書に『Q&A 性同一性障害と法律』(晃洋書房、2001
年)、『性同一性障害と法』(日本評論社、2002年)。『Q&A 性同一性障害って何?』(緑風出版、共著2003年)、『解説性同一性障
害者性別取扱特例法』(日本加除出版、2004年)。

針間克己・・・東京大学医学医学科卒業。東京大学医学部大学院博士課程修了。医学博士。日本性科学学会幹事長。性同一性障害研究会理事。日本
精神神経学会「性同一性障害に関する委員会」委員。Harry Benjamin International Gender Dysphori
a Association会員。専門:セ精神医学、性心理障害。著書:『性非行少年の心理療法』(有斐閣)、『一人ひとりの性を大切にして生
きる』(少年写真新聞社)、『Q&A 性同一性障害って何?』(共著、緑風出版)、『私たちの仲間』(訳著。緑風出版)ほか多数。2008年4月
「はりまメンタルクリニック」(千代田区神田小川町3-24-1-102)開院予定。

★講演によせて・・・
・ 性同一性障害特例法が施行されてから、すでに3年が経過しました。この特例法によって、多くの当事者の皆さんが、法的に望みの性別表記を
獲得され、幸せな生活を始められています。しかし、その一方で、特例法の規定する要件をクリアーできないために、性別表記の変更を実現するこ
とができない当事者の方々がいらっしゃいます。わたしは、性同一性障害特例法に関して、次の3つのことを訴えています。
1 特例法を改正して、「現に子がいないこと」という要件を削除すべきである。
2 様々な理由から、性別適合手術を受けることができない人達がいます。そうした人達にとって、戸籍上の性別表記の変更はともかくとして、住
民票、パスポート、保険証などの性別表記の変更を認めるべきである(いわゆる「中解決」の実現)。
3 中・長期的な課題として、「現に婚姻していないこと」という要件についても再検討すべきである。<大島俊之>
・ 最高裁の発表によれば、特例法によって平成18年末までに573名の性同一性障害者が戸籍変更を許可されています。しかし、それ以上の詳細な
データは明らかにされていません。わたしは、平成19年までに121名の性同一性障害者の戸籍変更のための診断書を作成しています。その分析に
よって、特例法の現状を示していきます。<針間克己>

―――――――――――――――――――
オフィス然natureとは・・・性同一性障害の啓発活動を二十年以上行っている、自身も女から男になった作家・大学教員の虎井まさ衛が、当
事者と そうではない人々が共に学び会える教育機関の設立を目指して2007年に立ち上げた事務所です。

投稿: オフィス然nature | 2008/03/31 15:03

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/74997/15166081

この記事へのトラックバック一覧です: ビューヒナーが使った精神医学用語について:

» 水中毒 [水中毒]
水中毒って知ってます。害のない水と思ってるだけに水中毒は怖いです。水中毒の怖さを知りたい方はどうぞ! [続きを読む]

受信: 2007/06/04 00:58

« 【トルコ旅行(2)】世俗主義のイスラム教 | トップページ | 【トルコ旅行(3)】ベリーダンス、軍楽隊など »