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2007年6月の15件の記事

2007/06/29

蔵王の刈田岳山頂にある刈田嶺神社について

刈田嶺神社 ぽん太とにゃん子は蔵王のお釜を見にいったのですが、あいにくガスっていて見えませんでした。せっかくなので、レストハウスから徒歩五分の刈田岳山頂を制覇してきました。
 刈田岳の山頂には神社がありますが、刈田嶺神社(かったみねじんじゃ)という名前だそうですが、公式ホームページはないみたいで、ぐぐってみてもよく御由緒がわかりません。
 こちらのJTBのページは、観光案内のページですが、天之水分神(あまのみくまりのかみ)と国之水分神(くにのみくまりのかみ)を御祭神とし、明治5年に水分神社(みくまりじんじゃ)という名になり、明治8年に刈田嶺神社と称するようになったとされています。
 天之水分神(あまのみくまりのかみ)は「あめのみくまりのかみ」とも呼ばれるようです。伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)からは多くの子供が生まれましたが、そのなかの大綿津見神(おおわたつみのかみ)、速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)の三人の神様は、海(わたつみ)の神とされています。速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)の兄妹が結婚して、水に縁がある8人の神様が生まれました。天之水分神(あめのみくまりのかみ)と国之水分神(くにのみくまりのかみ)はその中の二人です。「水分」という言葉から分かるように、山の分水嶺を意味し、田の灌漑を司る神様でもあります。まさに分水嶺である蔵王にふさわしい神様です。「天之」と「国之」が、それぞれ天与の水(雨)と地与の水(川)を意味するという説もありますが、定かではありません。

 こちらの蔵王町観光協会のページには、蔵王の東麓の遠刈田(とおがった)にある刈田嶺神社が紹介されています。それによると、蔵王の山頂にある刈田嶺神社が冬の間移される里宮がここだそうです。安永風土記には「蔵王権現御旅宮」と書かれており、御祭神は同じく天之水分神と国之水分神で、明治5年に水分神社(みくまりじんじゃ)と改められ、明治8年に刈田嶺神社と称するようになったと書かれています。なおネットの情報では、ここ遠刈田の刈田嶺神社にはラブリーな狛犬がいるようです。ぽん太は以前の記事で軽井沢の熊野神社の狛犬をご報告したことがあります(妙義神社、湯の平温泉松泉閣、熊野皇大神社(2006/05/02))が、それに勝るとも劣らないユニークな形をしているようで、行ってみればよかったです。

 さて、蔵王町にはさらに別の刈田嶺神社があるようです。こちらのページに紹介されています。ここは、刈田岳山頂の刈田嶺神社とは関係なさそうです。またの名を白鳥大明神ともいうそうで、日本武尊(やまとたけるのみこと)が御祭神だそうです。日本武尊と白鳥の関係ついては、以前の記事日本武尊と白鳥御陵(2005/08/28))で書きました。

 ところで蔵王というと、ぽん太は蔵王権現を思い浮かべます。不動明王が片足をあげたような姿をしております。写真は、たとえばこちらの奈良国立博物館のページをご覧下さい。蔵王権現のおおもとは、奈良の吉野にある金峯山寺(きんぷせんじ)です。こちらが金峯山寺の公式ホームページです。役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山で修行をしたときに感得したのが蔵王権現だそうです。蔵王という山の名前は、蔵王権現を祀る神社が山麓にあったことからついたとのことです。
 しかし、上でリンクしたホームページによれば、刈田岳山頂の刈田嶺神社の御祭神に、蔵王権現が入っていませんでした。ホームページによっては蔵王権現を御祭神に入れているものもありますが、個人のホームページなので、エビデンスははっきりしません。蔵王権現は神仏習合のもとで生まれた神様で、それは金峯山寺というお寺が本源であることからもわかります。そもそも神様の姿は見えないものであり、神様の像というのは本来はありえないものです。明治時代に神仏分離が行われた結果、刈田嶺神社の御祭神から、神仏習合の神である蔵王権現が外されたという可能性もあるかもしれません。
 ぽん太が刈田岳山頂の刈田嶺神社にお参りしたとき、当然なかに蔵王権現の像があると思っていたのですが、のぞいてみたら普通の神社のように鏡がおいてあるだけだったので、ちょっと意外に思ったことを付け加えておきます。

【参考文献】
(1)川口謙二編『日本の神様読み解き事典』柏書房、1999年。
(2)三浦佑之訳注『口語訳古事記 完全版』文藝春秋、2002年。

 

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2007/06/27

【登山】南蔵王ハイキングは快適、快適

 全身湿疹で因幡の白ウサギと化していたぽん太ですが、だいぶ良くなってきたので、南蔵王のハイキングをしてきました。

M0706191【山名】杉ケ峰(1745m)、刈田岳(1758m)
【山域】蔵王
【日程】2007年6月13日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】晴れ
【コース】刈田峠登山口(11:16)…杉ケ峰…芝草平…杉ケ峰…刈田峠登山口(13:55)=(車)=蔵王レストハウスから刈田岳往復
【マイカー登山情報】刈田峠登山口に、十数台駐車可能。しかし、時期がよかったせいか、平日でもけっこういっぱいでした。
【見た花】ヒナザクラ、スミレの一種、コメバツガザクラ、ツマトリソウ、コヨウラクツツジ、タカネザクラ、トウゴクミツバツツジ、ミヤマリンドウ、ミツバオウレン、コミヤマカタバミ、ハクサンイチゲ、イワカガミ、ショウジョウバカマ、ミネズオウ
【地図】Yohoo!地図はこちら

南蔵王 蔵王エコーラインを上って行き、お釜に行く蔵王ハイラインとの分岐のところに車を停め、南の方に緩やかな稜線を辿ります。
ヒナザクラ 花の盛りにはちと早かったようですが、ヒナザクラが一面に咲いていました。
ミネズオウ こちらはミネズオウです。屏風岳あたりまでは行きたかったのですが、今宵の宿に間に合わないと行けないので、芝草平でお弁当を食べて引き返しました。
 天気もよく、とても気持ちのいいハイキングでした。

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2007/06/25

国連障害者の権利条約の謎

 ちと以前になりますが、5月24日の朝日新聞朝刊の「私の視点」というコラムに、小笠毅というひとの投稿が載っていました。それによれば、3月30日に国連で「障害者の権利条約」に82カ国・機関が署名しましたが、日本は国内法との調整がついていないとの理由で署名をしなかったのだそうです。
 精神科医として障害者の医療・福祉に日頃から携わっているぽん太ですが、国連で障害者の権利条約を議論していたことも、日本がそれに署名をしなかったことも、まったく知りませんでした。まことに無知とは恐ろしいものです。
 で、「国連障害者の権利条約」あるいは「国連障害者権利条約」でググってみて、多少の状況はわかってきました。こちらのDINFのなかのページにさまざまな情報がまとめられています。
 ちなみにこちらに署名国のリストがあります。国名をながめてみると、なぜこのなかに日本がないのか疑問に思います。
 この条約を日本語に翻訳する作業すら行われていないそうです。こちらのページから日本語への仮訳を見ることができます。

 いったいこの「国連障害者の権利条約」は何が新しいのか、なぜ日本は署名をしないのか、なぜそのことをマスコミはちっとも取り上げないのか、など、分からないことだらけです。しかし、いまみちくさする元気はないので、「分からない」ということだけを確認しておき、今後の動きを追って行きたいと思います。

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2007/06/22

【温泉】五色温泉宗川旅館はヴィスコンティ風の没落感がいい(★★★★)

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五色温泉宗川旅館 ぽん太とにゃん子は、山形県は米沢市、吾妻山麓の北側にある五色温泉宗川旅館(そうかわりょかん)に行ってきました。公式ホームページはこちらです。場所ですが、Yahoo!地図はこちらです。ちなみに、この地図のなかにある「とうげ駅」と「姥湯温泉」に関しては、以前の記事「JR峠駅はヤバイですーー付録:中野不動尊」(2005/11/05)で書いたことがあります。さらにこの地図に「笠松鉱泉」というのがありますが、ここは秘湯中の秘湯で、ぽん太とにゃん子はずっと昔に泊まったことがあります。マニアックな秘湯好きにはお勧めです。
五色温泉宗川旅館 さて、五色温泉宗川旅館ですが、ここは独特の雰囲気があります。建物がロッジ風で、とても大きいです。公式ホームページを見ると全25室と書いてありますが、もっともっと大きいように思えます。そして、全体の雰囲気がなんとなく日本離れしています。ヨーロッパの風景を思わせます。
五色温泉宗川旅館 それもそのはず、宗川温泉公式ホームページの五色の歴史というページを見てみると、ここは明治44年(1911)に日本初の民間スキー場としてオープンし、大正13年(1924)に皇族のためのスキークラブとして「六華倶楽部」の建物が造られたそうです(公式ホームページで「明治13年」と書いてありますが、「大正13年」が正しいと思います)。この建物は、昭和25年の冬季国体で使用されて以後、あまり活用されず、現在は仙台市の個人住宅として移築されたそうです。またスキー場も、平成10年(1998)に閉鎖されたそうです。 こうした歴史を知ると、この宿の現在の状況が理解できます。広大な敷地を持つロッジ風の建物、ヨーロッパ風の景観。これらを一生懸命維持しようとしているようですが、かといってどのように活用したらいいのか、方向が見えていないように思えます。ぽん太は、ルキノ・ヴィスコンティの映画に描かれている、どのように生きればいいのかわからないでいる没落貴族を思い浮かべました。
五色温泉宗川旅館 さて、こちらは岩石風呂です。岩石風呂というか、洞窟風呂というか、トーチカのような気がします。
五色温泉宗川旅館 もうひとつの内風呂は、タイル張りのシンプルな浴槽です。夕方6時に男女入れ替わりとなります。
五色温泉宗川旅館 玄関を出て少し登ったところにある露天風呂は、展望が見事です。  お湯はうすにごりで、ちょっとしょっぱい感じがし、肌触りは柔らかく、とても暖まります。
五色温泉宗川旅館 食事は、岩魚の塩焼きや地元の食材など、さらに米沢牛のすき焼きもあり、ボリューム満点です。
 ただ、なんというか、サービスが悪いというと言い過ぎですが、素朴というか、放っておかれる感じがあり、それがぽん太には「没落感」として感じられます。この独特のアンバランスさを温泉マニアのぽん太は評価し、4点です(2007年6月宿泊)。

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2007/06/20

【温泉】鎌先温泉湯主一條は木造四階建てが美しい宿(★★★★)

湯主一條 古い木造建築の宿が好きなぽん太とにゃん子は、いつぞやの雑誌に載っていた美しい木造四階建ての写真に魅せられ、鎌先温泉の湯主一條に泊まってきました。宿の公式ホームページはこちらです。場所は宮城県の白石インターのほど近くで、蔵王山の南東の山麓にあります(Yahoo!地図はこちら)。

湯主一條 鎌先温泉は数軒の旅館からなる小さな温泉ですが、湯主一條の木造建築はそのなかでも圧倒的な存在感があります。正確には木造一部四階建てです。壁面がすべてガラス窓で被われているため、独特の繊細な美しさがあります。大正末期から昭和初期に造られたもので、釘をまったく使っていないそうですが、現在でもまったく歪みがありません。
湯主一條 新館に宿泊し、お食事は木造の本館で、というのが普通のパターンなのだそうですが、古い建物が好きな変人のぽん太とにゃん子は、特別に本館の宿泊をお願いしました。普段は湯治客用に使っているそうで、六畳一間のシンプルなお部屋です。
湯主一條 廊下との境は障子一枚で、もちろん音は筒抜けです。登山で山小屋の宿泊に慣れたぽん太とにゃん子には、何の問題もありません。
瓦斯自動販売機 湯治客の炊事場に「瓦斯自動販売機」がありました。ぽん太の学生時代には、下宿の共同炊事場にこのようなものがありました。
湯主一條 さて、浴室はタイル張りの新しい造りですが、歯車のようなデザインがレトロな雰囲気を漂わせます。お湯は無色透明ながらオリのような湯の花が舞い、ちょっと塩っぱいです。泉質はナトリウムー塩化物・硫酸塩泉で、泉温は31度なので加温はしていますが、加水なしの源泉掛け流しだそうです。
湯主一條 もう一カ所の風呂は新しい雰囲気です。ちょっとお湯が薄いような気がします。
露天風呂 露天風呂も付いていますが、男風呂は建物に囲まれていて開放感がないです。にゃん子の話しでは、女子の露天風呂の方が景色がよかったそうです。
お食事処 食事は旧館のお食事どころでいただきます。畳の上の椅子席が伴天連風というか、大正ロマンのムードです。
夕食 夕食はちょっと洋風が入った会席料理です。地元の山菜や気仙沼などで上がった新鮮な魚介類、汲み上げ湯葉と宮城のポーク霜降りレッドの豆乳しゃぶしゃぶなど、凝っていておいしかったです。

 さてこの宿は、木造一部四階建てのとっても美しい本館が売りです。新館の外観はありきたりの温泉旅館で風情がありません。本館はお食事処と、湯治客用の安い部屋として使われています。接客もホテルのようで、浴衣を自由に選ばせてくれたりと、サービスも十分です。しかしぽん太には、古い本館を生かしきれていないように思えます。鄙びた秘湯路線で行くのか、ホテル並みサービスのレトロ・モダンで行くのか、方針がちょっとどっち付かずの気がします。いずれにせよ、この美しい旧館を大切に使って欲しいというのがぽん太の願いです。全体として旧館の美しさが際立っており、ぽん太の評価は4点です(2007年6月宿泊)。

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2007/06/18

【蕎麦】小椋は那須高原らしい瀟酒な味(★★★★★)

那須高原の蕎麦の小椋 お昼頃、東北道を北上していたぽん太とにゃん子は、おいしいお蕎麦を食べようと、高速を那須インターで下りて那須高原の小椋(おぐら)に寄りました。Yahoo!グルメのページはこちらで、電話番号や地図、お値段などが載っております。テディベア・ミュージアムの近くです。
那須高原の蕎麦の小椋 緑に囲まれた瀟洒(しょうしゃ)な建物で、内装は和風モダンの落ち着いた雰囲気、窓の外の緑が美しいです。ぽん太とにゃん子はシンプルな「せいろそば」を注文。写真のように盛りつけも美しいです。
那須高原の蕎麦の小椋 二八そばの細麺で腰があり、豊かな香りがします。つゆは辛めでそばの味を上品に引き立てます。
 蕎麦の味、店の雰囲気ともに、満点の評価です(2007年6月)。

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2007/06/16

由比のくらさわやで桜えびを堪能(★★★★★)

くらさわやの生桜えび 桜えびの春漁のシーズンと聞いて、五月下旬、ぽん太とにゃん子は由比をみちくさしてきました。
 由比は静岡県の駿河湾に面する町です。Yahoo!地図はこちらです。江戸時代には東海道の宿場町として栄え、歌川広重の東海道五十三次にも描かれています。広重の絵はさった峠からの風景を映画いたもので、現代の写真はこちら、またこちらの由比町のホームページからはさった峠からのライブカメラの映像を見ることができます。
 さった峠というと、1568年(永禄11)に武田信玄が駿河に侵攻を試み、今川氏真と戦ったのがこの場所です。1561年(永禄4)の川中島の合戦の後の話しですから、NHKの大河ドラマの風林火山には出てこないでしょう。
 由比といえば、由井正雪の生まれたところとされており、生家と伝えられる正雪紺屋があります。由井正雪は、1651年に起きた慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者として知られています。当時の江戸は第3代将軍徳川家光のもと、戦国時代も終わって天下太平の世の中となり、巷にあふれた浪人が社会問題となっていました。こうした浪人の支持を受けて幕府の転覆をはかろうとしたのが慶安の変ですが、事前の密告により計画は失敗に終わりました。
 歌舞伎の「慶安太平記」は、慶安の変を題材にして二世河竹新七(のちの河竹黙阿弥)が書いたもので、1870年(明治3)に初演されました。現在は丸橋忠弥の件が演じられますが、ぽん太は平成18年8月に歌舞伎座で見ましたが、最後の立ち回りが見事でした。
 現代では、由比といえば桜えびです。3月下旬から12月下旬の春漁と、10月下旬から12月下旬の秋漁のふたつのシーズンがあり、普段は深海に棲息する桜えびが、その時期には夜間に水深30〜60メートルまで上がってきます。日本では駿河湾でしか採ることができないそうです。
 桜えび漁が行われるようになったのは実は最近のことで、1894年(明治27)にアジ漁をしていた網が浮きから外れて深くもぐってしまったところ、偶然に桜えびがとれたことが始まりだそうです。
くらさわやの桜えびかき揚げ で、ぽん太とにゃん子はその桜えびを食べに行ったのですが、以前に井筒屋さんに入ったことがあったので、今回はくらさわやさんにお邪魔してみました。場所は、由比の宿場から旧東海道を京都の方(南西方向)に進んで行き、JRゆい駅を通り越してさらに細くなった道を進んで行ったところの左手にあります。由比宿のかなりはずれにあるように思うかもしれませんが、ここは倉沢宿という別の宿場だったのだそうです。え?由比宿から近すぎるんじゃないかって? いいつっこみです。ここはさった峠の東側の登り口だったので、峠越えを前に一休みしたり、峠を越えてきたひとが疲れを癒したりする間の宿(あいのしゅく)だったのです。
くらさわやの桜えびの釜飯 またまた話しがそれてしまいました。で、くらさわやさんは新しい和風モダンの店内で、窓からは駿河湾の美しい展望を楽しめます。桜えびだけでなく、駿河湾のさまざまな魚介類もいただけるようです。とにかく桜えびを堪能したかったぽん太とにゃん子は、桜えびづくしのコース料理を二人で一人前注文したのですが、こころよく応じて下さいました。生桜えび、釜あげ、酢の物、かき揚げ、桜えびまんじゅう、桜えび釜めしがついて、4200円でした。どれもおいしかったですが、かき揚げは、薄めにパリッと揚がっていて、なかはみずみずしくホクホクで美味しかったです。生しらすも食べたかったのですが、この日はありませんでした。またの機会にチャレンジです。

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2007/06/14

【温泉】付知峡度合温泉旅館は秘湯ムード満点のランプの宿(★★★★★)

 久々に温泉に泊まるゆとりができたぽん太とにゃん子は、むかしの雑誌に出ていた度合温泉旅館に予約を入れました。秘湯ムード満点のランプの宿です。
 渡合温泉の公式ホームページはこちらで、Yahoo!地図はこちらです。
 地図を見るとわかるように、中津川から下呂温泉に行く途中にあり、宿の北側にある尾根を越えたところは王滝村で、木曽御嶽山の麓となります。これまで行ったことがないところなので、とっても楽しみです。
 この宿は一般車通行禁止の林道の奥にあるので、自家用車で直接行くことはできません。近くの道の駅「花街道付知」に車を停め、そこから送迎車で宿に向かいます。

渡合温泉旅館 ゲートを開けて林道に入って行きます。林道の途中で車を停めて滝をみたりしながら、約30分ほどで宿に到着です。
渡合温泉旅館 山小屋のようなシンプルな建物ですが、細かいところに気が行き届いていて、洗練された感じがします。
渡合温泉旅館 玄関の天井にはランプがずらりと吊るされています。夜十時で発電機が止まると、あとはランプの灯りだけになります。
渡合温泉旅館 部屋もシンプルですが、とても落ち着きます。縁側のガラス戸を開けて、ガスにけぶる山並みを見ていると、とてもいい気持ちです。もちろんテレビなどはありません。
渡合温泉旅館 浴室はこじんまりとしておりますが、窓の外の緑が見事です。お湯は無色透明であまり特徴はありません。源泉の泉温が10.5度と低いので、沸かし湯です。浴槽は木曽五木のひとつコウヤマキ製で、五右衛門風呂のように底から加熱する仕組みになっています。
渡合温泉旅館 食事は地元の山の幸がいっぱい。山菜の天ぷらがとてもおいしかったです。
渡合温泉旅館 岩魚の骨酒を注文しました。ん? 岩魚がなんか小さいようですが……。なんとご主人が自分で釣ってきた天然物だそうです。器の模様が、まるで岩魚が清流を泳いでいるように見えます。
渡合温泉旅館 翌日はうれしいことに天気予報がはずれて太陽が顔を出しました。手前のピンクはクリンソウです。
渡合温泉旅館 車で送ってもらって、林道に沿う遊歩道を歩きました。明治時代は木材の切り出しのために使われた道だそうで、古い石垣が見えます。
渡合温泉旅館 数年前におきたという崖崩れの跡が生々しく残っていました。このために林道が一般車通行止めになってしまったそうです。
渡合温泉旅館 「裏木曽」とも呼ばれるこのあたりは、杉や檜など針葉樹の天然林が見られます。植林と違って、針葉樹と落葉樹が混ざっており、見たことのない美しさでした。

 さて恒例の採点ですが、お湯が源泉掛け流しでないのがマイナスで4点かな〜などと思ったのですが、そんなみみっちい減点法ではなく、今回の旅がどれほど満足できたかで考えてみると、美しい自然、おいしい食事、秘湯の味わい、宿のご主人と奥さんの暖かいおもてなしなどどれも大満足で、文句なく5点満点です。部屋にテレビがなく、トイレも汲取式でかまわないという秘湯好きには、絶対におすすめです(2007年5月宿泊)。

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2007/06/12

【蕎麦】駒ヶ根市の丸富のしらびそそばはいい香り(★★★★★)

丸富のしらびそそば 中央道を名古屋方面に走っていたらお昼になったので、駒ヶ根インターで下りて丸富の蕎麦を食べることにしました。
 以前に中央アルプス登山の帰りに露天こぶしの湯に入ったときに偶然立ち寄り、とても美味しくてびっくりしたのが馴れ初めで、その後何度か訪れているお店です。
 ホームページはないようですが、「丸富 蕎麦」でググルといろいろと情報がヒットします。MapFanの地図ではこの辺です。
 建物はシンプルですが洗練されています。しらびそそばと、朝日屋という粗挽きそばがありますが、しらびそそばはいつも売り切れていて、これまで食べたことがありませんでした。今回は平日のお昼前で、天気も悪かったためか、念願のしらびそそばを戴くことができました。細打の蕎麦ですが、口いっぱいに蕎麦の香りが広がります。甘さを押さえたきりっとしたツユが、蕎麦の上品な味を引き立たせます。
 ぽん太とにゃん子は大満足でした(2007年5月)。

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2007/06/10

グリージンガーの『精神疾患の病理と治療』の抄訳を読む

 ぽん太は以前のブログ(ビューヒナーが使った精神医学用語について2007/05/23)で、ビューヒナーの戯曲『ヴォイツェク』に出てくる精神医学用語(局部的精神錯乱、第二種症状)についてみちくさしました。その結果、19世紀前半のフランスでは「部分性精神病」という概念が使われていたこと、またドイツではグリージンガーが「二次的偏執症」という概念を使っていたことを述べました。
 しかしグリージンガーに関する典拠は、クレペリンの『精神医学』のなかの「パラノイア概念の歴史」という節の記述でした。というのも、グリージンガーの『精神病の病理と治療』(1845年)は邦訳が見当たらず、語学が苦手のぽん太はドイツ語の原書をひも解く気にならないからです。ですが以前のブログで書いたように、どうやら抄訳があるようなので、購入して読んでみました。石井厚『精神医学史ノート』(医学出版社、2006年)です。ヒポクラテスからカールバウムまで16人の手になる精神医学書の抄訳をまとめたものですが、前書きでいきなり「本書の内容の多くは著者が東北大学精神科の医局にいた当時、抄読会という勉強会で発表したもののメモである。当時は興に任せて乱読していたので遺漏や誤訳も多々あろうと思われるのであらかじめ陳謝する」などと書いてあり、装丁もかなりチープで、マイナーな感じの本です。アマゾンでもマーケットプレイスでの扱いで、しかも出版社が出品者となっているあたりがシブイです。とはいえ、語学力のないぽん太には有り難い本です。で、第十四章がグリージンガーの『精神疾患の病理と治療』の1845年の初版の抄訳となっております。
 さて、グリージンガーによりますと、精神疾患は二つのグループに分けることができます。第一群は情動の障害で、治癒可能であって、憂うつ、抑うつ、狂暴症、妄狂が含まれます。第二群は観念や意欲の障害で、不治であり、狂気、痴狂が含まれます。そして第一群が先行し、第二群がそれに続きます。『ヴォイツェク』の医者のセリフで出てきた、第二種(二次的?)症状としての固定観念(妄想、つまり観念の障害)という考え方にぴったりです。
 さらに読み進んでみると、グリージンガーは第二群に属する「狂気」を、部分的狂気と全般性狂気に分けているようです。当時のフランスで部分性/全般性という概念があったことはみちくさ済みですが、同時代のドイツでも同様の概念があったようです。グリージンガーのいう部分的狂気は、自分は世界の支配者だとか、陰謀で囲まれているといった妄想を持ち、それによってあらゆる言動が左右され、奇妙な世界観を持つような状態です。フランスの部分性精神病が、現代でいえばうつ病やパラノイアといった、一部分を除いて正常な理性が保たれている状態を指すのに対し、グリージンガーの部分的狂気は、現代でいえば統合失調症の妄想型に近いやや広い概念のように思われます。全般性狂気は、理性の働きが失われ、体系的な妄想も維持できず、思考も言動も混乱してバラバラの状態を指しています。現代でいえば、統合失調症の解体型(破瓜型)の進行した状態や、あるいは他の型でも重度の思考障害や人格水準の低下を来した状態と考えられます。グリージンガーは単一精神病論をとっていますので、部分的狂気が進行すると全般性狂気に至るという考え方ですから、フランスの部分性/全般性という概念とは異なる部分があるようです。
 ビューヒナーが『ヴォイツェク』を書いたのは1836年、グリージンガーが『精神疾患の病理と治療』を書いたのは1845年ですが、このときグリージンガーは弱冠28歳、精神医学に触れたのは1940年にヴィンネンタール精神病院に勤務するようになってからです。ですからグリージンガー(1817-1868)以前にも、第二種症状とか、部分性狂気といった考え方があったことになります。
 『精神医学史ノート』には、ハインロート(1773-1843)、イデラー(1795-1860)といった、ドイツのロマン主義精神医学の抄訳もあるのですが、これらには第二種症状とか部分性狂気といった用語は見つかりません。してみると、ヴィンネンタールでグリージンガーの先生だったツェラー(1804-1877)あたりに出所がありそうですが、ツェラーの著作は本書にも収録されていないので、残念ながら本日のみちくさはここら辺で終了しなければなりません。

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2007/06/08

レンツの時代(18世紀後半)の精神医療は?

 ビューヒナーと精神医学を巡ってみちくさを続けているぽん太です。
 さて、ビューヒナーの時代(19世紀前半)の精神医学の状況は少しわかってきたので、次に気になるのがレンツ(1751〜1792)の時代(18世紀後半)です。
 というのも、ビューヒナーの『レンツ』のなかで精神障害に陥ったレンツは、まずオーベルリーン牧師のもとに預けられ、自殺未遂の騒動ののち知人のシュロッサー家へ送られることになるのですが、そのあいだ病院につれいて行くとか医者に見せるとかいうことがまったく出てこないのです。わずかに邦訳の注のなかに((1)285-286ページ)、シュロッサーも彼を持て余して「精神病院に入れる」ことまで考えたということが書かれている程度です。
 レンツは医者にかかったのか? ネットで検索していたら、佐藤研一の『劇作家J・M・Rレンツの研究』(2)という本があったので、買って読んでみました。しかしこの本はレンツの作品論であり、しかも彼の演劇を狂気との関係で捉えることをむしろ意図的に避け、当時の社会風潮や文学・思想のなかに位置づけようとするものなので、ぽん太の関心とはちと方向が違うようです。巻末にレンツの略年譜がついているのですが、シュロッサー家に引き取られたあと、靴職人や森番のもとで療養したなどと書いてありますが、医者に診てもらったとか病院に行ったという記載はありませんでした。
 エドワード・ショーターの『精神医学の歴史』((3)16-23ページ)によれば、いわゆる「精神医学」が出現したのは19世紀になってからであり、18世紀以前は(そして地域によってはそれ以後も)医学的な治療は行われていなかったそうです。精神障害になったひとはまず家族が面倒をみたのですが、動物小屋に監禁したり、鎖でつないだりしていたそうです。家族の手に負えなくなると、慈善施設や保護施設、病院などに収容されましたが、ここでも患者はムチで打たれ、鎖で繋がれて放置されるだけだったそうです。18世紀の終わりの啓蒙運動のなかで、精神障害者をただ監禁しておくのではなく、治療的な施設に収容することで病状を改善させることができる、と考えられるようになってきました。これが1793年のピネルによる精神障害者の鎖からの解放につながっていくわけです。
 しかし、完全に気がふれてしまった場合はそうかもしれませんが、病気のなりはじめ、あるいは病気がそれほど重くない場合は、家族や知人たちは、なんとか正気を取り戻させようとしたと思うのですが、そのためにどういうことが行われていたのかについては書かれていません。ぽん太が知りたいのはそこなのです。
 ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』(4)は、18世紀以前に関して詳しく書かれています。パラパラと読み返してみたのですが、この本にも、監禁するほどではない患者がどう扱われていたかについては書かれていないようです。
 ただ第二部第四章に、18世紀の医者が精神病に対してどのような治療を行ったかが書かれています。それを見てみると、コーヒーを飲ませるとか、アルカリ性の果物を食べさせるとか、運動や旅行、輸血、人工的に疥癬(ダニの一種)に感染させる、椅子に縛り付けてぐるぐる回す、冷水浴、シャワーとかで、医者にかかったからといって大した治療法もなかったようです。
 冷水浴といえば、レンツがシュロッサー家に預けられていたころ、友人のクリンガーが、レンツをベッドに縛り付けて冷たい池に10分間漬けるという荒療治を行ったところ病状が改善した、と岩波文庫の訳注((1)285ページ)に書かれています。また小説のなかでもレンツは自ら庭の泉に飛び込みます。
 「彼は泉に飛び込んだが、あまり深くなかったので、そのなかでばしゃばしゃと暴れた。人々がやってきた、物音を聞きつけたのだ、大声で彼に呼びかけていた、オーベルリーンも駆けつけてきた。レンツは正気に返って、自分の状況が完全に意識できるようになった、また気分は落ち着き、そこで善意の人々に心配をかけたことが恥ずかしくなり、たまらない気分になった、みんなには自分は冷水浴をする習慣があるのですと言って、また部屋に上がっていった」((1)12ページ)。
 「それから彼は泉の水槽に飛び込み、ばしゃばしゃ暴れたかと思うとまた飛び出して自分の部屋に上がり、また水槽に下りるということを何度か繰り返し、それからようやく静かになった」((1)42ページ)。
 ピネルの『精神病に関する医学=哲学論』(1801)のなかに「精神病における水浴や温浴、とりわけびっくり風呂の効果とはなにか」という節があります((5)210-212ページ)。「びっくり風呂」がどういうものなのか具体的に書かれていないのですが、びっくり風呂は「冷水による突然の刺激作用の他に激しい驚きというよりも全面的混乱という利点」があると書いてあったり、精神病者を「突然水に沈め数分間持続させる方法の持続的効果」について述べた著作に触れていたり、あるいはこの節の冒頭で、フランス革命の頃に「当時はとりわけ水浴が乱用され、四肢を縛った患者を突然そこへ「投げ込む」のが習慣となっていた」などと書かれています。フーコーの『狂気の歴史』のなかの「不意打ちをくらわせる水浴」というが、このびっくり風呂のような気がします。「病人は廊下をつたって一階へおり、池が設けてある、天井のついた四角な部屋までやってくる。すると、のけぞるようにして、池のなかに投げ込まれるようになっていた」((4)339ページ)と説明してありますが、訳がわるいのか何なのか、読んでもイメージが浮かびません。
 日本でも古くから水治療が行われてきました。ぽん太の生息地に近い高尾山でも、19世紀には山麓に2軒の温泉旅館があり、精神病患者の滝治療を行っていたそうです。この旅館のひとつの「佐藤旅館」が、1936年に高尾保養院という精神病院になったのですが、これが現在の東京高尾病院の前身です((6)66-67ページ).

 なんか、いろいろと精神医学の歴史に関する本を読んでみたのですが、結局のところ、レンツが生きていた18世紀後半に、監禁するほどではない精神病患者がどのように扱われていたのか、よくわかりませんでした。ちょっと物足りないみちくさでした。
 おそらくはレンツのように、牧師のもとに預けられたり、冷水浴をさせられたり、靴職人のもとで軽作業をしたり、森番のもとで自然のなかでくらしたりしていたのでしょう。でも結局はレンツのように、街の中で行き倒れになってしまっていたのかもしれません。

【参考文献】
(1)ビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』岩淵達治訳、岩波文庫、2006年。
(2)佐藤研一『劇作家J.M.R.レンツの研究』未來社、2002年。
(3)エドワード・ショーター『精神医学の歴史ー隔離の時代から薬物療法の時代まで 』木村定訳、青土社、1999年。
(4)ミシェル・フーコー『狂気の歴史ー古典主義時代における』田村俶訳、新潮社、1975年。
(5)ピネル『精神病に関する医学・哲学論』影山任佐訳、中央洋書出版部、1990年
(6)小俣和一郎『精神病院の起源』太田出版、1998年。

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2007/06/06

【トルコ旅行(4)】鉄道(アンカラエキスプレスなど)

 GWのトルコ旅行の報告の続きです。
 アンカラからイスタンブールまで、アンカラエクスプレスの寝台車での移動でした。同じツアーの人たちのなかには、「眠れなかった」などと不平を訴えているひとも少なくありませんでしたが、隠れ鉄ちゃん(鉄道ファン)のぽん太は大喜びでした。

アンカラ駅 アンカラ駅の入り口です。
アンカラエキスプレス アンカラエキスプレスの車両です。美しいデザインで、きれいに手入れされています。
アンカラエキスプレス 列車を引っ張るディーゼル機関車です。
アンカラエキスプレス一等寝台アンカラエキスプレス一等寝台アンカラエキスプレス一等寝台 一等寝台のコンパートメントの内部です。寝台は上下2段になっています。けっこう広くて、洗面台もついています。
ハイダルパシャ駅@イスタンブールハイダルパシャ駅@イスタンブールハイダルパシャ駅@イスタンブールイスタンブールのハイダルパシャ駅です。ボスポラス海峡のアジア側にあります。イスラム風の美しい建物です。
ハイダルパシャ駅@イスタンブール ハイダルパシャ駅の前には、古い蒸気機関車が展示してありました。

路面電車@イスタンブール イスタンブールの旧市街の市電です。狭い間隔で次々と走っていました。別のところで古い路面電車のような車両も走っていましたが、写真が撮れませんでした。
スィルケジ駅@イスタンブール イスタンブール旧市街にあるターミナル、スィルケジ駅です。オリエント急行のかつての終着駅として有名ですが、現在この駅まで来る便は少ないそうです。

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2007/06/05

地球規模の医療格差

 最近、以下のような二つの新聞記事が目にとまりました。

薬の特許、誰のため タイ政府と欧米製薬大手が火花」(2007年5月30日、朝日新聞)。すでにタイ政府は、海外の製薬会社が開発して特許を持っている抗エイズ薬を、「特許破り」をして国内で生産すると発表していました。これに対抗してアメリカの大手製薬会社アボット社は、抗エイズ薬を含む7種類の薬のタイ国内での販売中止という対抗措置に出たそうです。
 これには両者に言い分があり、タイ政府にしてみれば、国内の貧困層に抗エイズ薬を行き渡らせるには、高額な輸入品では財政負担が大きすぎます。一方、製薬会社からすれば、莫大な費用をかけて開発した薬を「特許破り」で製造されていは、商売が成り立ちません。ぽん太にはどちらの言い分ももっともで、いったいどうしたらいいのか分かりません。

 もう一つは次の記事です。
 「臓器求めアジアへ ドナー「二つあるものはひとつ売る」」(2007年05月29日)。日本国内では臓器移植のためのドナーが少ないので、アジアに渡って臓器移植を受けるひとが増えているのだそうです。ところがドナーの多くは「謝礼」目当ての貧困層だそうです。フィリピンでは臓器提供者に対する「謝礼」は認められていて、臓器売買にはあたらないのだそうですが、限りなく臓器売買に近いことは確かです。
 これまた難しい問題で、こうした移植がいいとは思われませんし、かといって禁止すると、謝礼をもらえないドナーも、移植を受けられない患者さんも困ることになります。

 狸には困難すぎる問題ですが、医療格差、医療問題を国内レベルだけで考えていていはいけなということは確かで、厚労省のお役人が言うような「医療レベルを下げるか、それとももっとお金を出すか」みたいな単純化した議論は意味がないようです。ぽん太も少しずつ考え続けていきたいと思います。

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2007/06/04

白河ラーメン彩華でラーメンを見直す

白河ラーメン彩華 ぽん太たち一行は、山形からの帰り、白河ラーメンで昼食をとりました。お店はクマくん推薦の手打中華彩華です。老舗「とら食堂」のお弟子さんだそうです。
 クマくんの情報と場所が変わっており、新しい住所は、福島県西白河郡西郷村大字米字上畑137-1(Yahoo!地図)、電話番号は0248-48-0260です。
 実はぽん太とにゃん子は、ここ何回か行ったラーメン屋があまりおいしくなくて、「ラーメンってあんまりおいしくないね、やっぱり蕎麦の方がいいね」などと言っていたところだったのですが、どっこい、ラーメンをすっかり見直しました。
 ラーメンの世界は奥深いようなので、ぽん太ごときがとてもブログで味の感想を書く勇気はありませんが、あっさりしていてチャーシューも脂身がないのが、好みにあっていました(2007年5月)。

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2007/06/02

出羽屋で山菜料理の神髄を知る(★★★★★)

 ぽん太とにゃん子が、クマくん夫妻、ウシさん夫妻と訪ねた山形県は月山を巡る旅、お宿は山菜料理で有名な山菜料理出羽屋さんです。場所は山形県の月山の近く、山形自動車道の西川インターからすぐの集落のなかにあります(Yahoo!地図)。クマくん夫妻が知っていたところです。

山菜料理出羽屋 歴史ある料亭といった感じの格式ある門構えで、けっこう大きいです。広々とした中庭を囲んで部屋があります。土蔵を改築した立派な部屋にはウシさん夫妻が宿泊。ぽん太たちは庭の反対側の部屋でしたが、3〜4部屋もあって、ぽん太の自宅よりよっぽど広かったです。お風呂は残念ながら温泉ではありませんが、24時間好きなときに入れます。
山菜料理出羽屋 さて、お目当ての夕食ですが、まさに山菜づくしです。山菜が好きなぽん太とにゃん子は、山奥の一軒宿の温泉などを含め、けっこう山菜料理は味わってきたつもりだったのですが、ここは別格でした。初めていただく山菜ばかりで、どれも新鮮でおいしかったです。
山菜料理出羽屋 もちろん揚げ立ての山菜の天ぷらや、鮎の塩焼きなども欠かせません。お味噌汁やお食事の太巻きも美味でした。もったいないけど食べきれませんでした。もともとは、月山に巡礼にいくひとたちを泊めて、地元の山菜を振る舞っていたのが宿の始まりだそうです。
 夕食後は、近くに棲息しながらなかなか会う機会のない動物同士、久々の再開でおおいに話しが盛り上がり、夜遅くまで歓談しました。
山菜料理出羽屋 朝食は食堂でいただきました。これまたおいしい山の幸で満腹です。
 こんなおいしい山菜料理をお腹いっぱい食べたのは初めてです。今度はキノコの季節にも来てみたいです(2007年5月宿泊)。

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