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2007年10月の13件の記事

2007/10/30

【宗教】神仏習合について勉強してみた

 豊川稲荷が神社ではなくお寺であることを知ってショックを受けたぽん太は、神仏習合について実はよく知らないことに気づき、義江彰夫の『神仏習合 』(岩波新書、1996年)を読んでみました。とても勉強になりました。

 詳しくは本を買って読んでいただくしかないのですが、本書の特徴は、神仏習合の各段階を、当時の政治的・社会的状況と結びつけて解説していることです。
 神仏習合の始まりは、8世紀後半頃です。諸国に鎮座する神様が仏教に帰依するという現象がおき、神様が仏様になるために修行をする寺(神宮寺)が神社のなかに作られるようになりました。こうした動きを支えたのは密教でしたが、やがて王権は空海の大乗密教を利用して諸国の神宮寺を支配するようになります。こうした変化は、律令制度における農村の貧富の増大、私営田の出現に結びついています。
 神仏習合の第2段階ですが、8世紀後半から9世紀前半にかけて、権力闘争で敗れた人たちが怨霊となって悪さをするという考えが生まれ、それを鎮めるための御霊会(ごりょうえ)が行われるようになりました。有名なのは菅原道真の怨霊ですね。律令制度の変化や権力闘争によって没落する貴族や豪族が現れ、彼らの不満や彼らに対する共感が密教と結びつき、反権力的な気分を生じさせたのです。しかしこうした怨霊も時代とともに鎮静化され、菅原道真の天神様も10世紀末には王権の守護神となりました。神仏習合のこの段階は、各地の私営田が、王権や上級貴族、大寺院への寄進によって再編成され、私的所有に基づく王朝国家が成立したことに対応しています。
 第3段階は、9世紀から10世紀頃に広まった浄土信仰です。それは10世紀末、源信の「往生要集」で頂点を迎えました。彼の厭離穢土(おんりえど)という考え方は、現世をケガレの世界、死後の極楽浄土をケガレのない世界と見なすことで、神道のケガレ忌避概念と仏教とを結びつけました。国家を維持するためにさまざまなケガレを受けなければならない貴族たち、一族の繁栄のために戦を繰り返す武士たちに、浄土信仰は心の支えを提供したのです。
 神仏習合の第4段階は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と中世日本紀です。本地垂迹説は、日本古来の神々は実はさまざまな仏様が姿を変えて現れたものだ、という考え方で、11世紀頃に生まれ14世紀初頭には全国に広がりました。さらに『日本書紀』などに書かれた古来の神話を本地垂迹説によって解釈し直すという作業が(中世日本紀)、13世紀後半から15世紀にかけて行われました。これに対応する社会状況は、殺生やケガレを意に介さない武士が台頭したことと、王権が彼らに対抗して一層の権力を身にまとおうとしたことです。

 以上が大雑把な要約ですが、細かい所でもいろいろと面白いところがありました。例えば支配と所有の罪悪感が仏教への帰依をもたらしたことに関連して、そもそも仏陀自身が王族だったというご指摘。なるほど、仏教は元々支配者の悩みに答えるものだったのか。
 また『平家物語』の安徳天皇入水の場面で、二位殿が幼い安徳天皇に対して、「まず東に向かって伊勢神宮に別れを告げ、次に西方浄土に生まれかわれるよう、西に向かって念仏を唱えなさい」と諭す部分を取り上げ、12世紀末から13世紀初頭には、天皇すら阿弥陀仏に極楽往生を願っていたことを示していると指摘しています。この場面は、歌舞伎の『義経千本桜』の「碇知盛」でも見所となっており、ぽん太も何度も涙を流しながら見ているのですが、そんな深い意味を読み取ったことはありませんでした。
 さらに、これまであまり縁のなかった密教や『往生要集』への興味もわいてきました。そして、これほど長く続いてきた神仏習合なのに、なぜ明治政府が神仏分離を行ったのかがますます疑問に思えてきました。
 みちくさしたいことがかえって増えてしまいました。

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2007/10/28

【登山】秋晴れと紅葉の魚沼駒ヶ岳

 移動性高気圧にすっぽりおおわれて、空は雲ひとつない真っ青な秋晴れ。ぽん太とにゃん子は紅葉まっさかりの魚沼駒ヶ岳に登ってきました。ぽん太は10年前の6月に登ってから2度目、にゃん子は初めての登頂でした。

魚沼駒ヶ岳【山名】魚沼駒ヶ岳(2002.7m)
【山域】新潟
【日程】2007年10月24日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】一日中雲ひとつない快晴
【コース】枝折峠(6:38)…駒ヶ岳山頂(10:55)…枝折峠(15:06)
【マイカー登山情報】枝折峠に向かう国道352号線は、以前は時間制の一方通行でしたが、現在は規制はなく、双方向とも通行できます。道路はきれいに舗装され、ガードレールもしっかり整備されていますが、カーブミラーがちょっと見にくく、すれ違いができない狭いところも多いので、注意して走って下さい。枝折峠には、40台ほど停まれる広いスペースがあります。
【参考リンク】
越後駒ヶ岳/山と高原地図web、地図でおなじみ、昭文社のページ。

魚沼駒ヶ岳 長岡のビジネスホテルを4時起床で出発。小出インターから枝折峠に向かいます。6時過ぎ、駒ヶ岳に朝日が差し始めます。美しいモルゲンローテです。
魚沼駒ヶ岳 10年前は車をわずかに4台ほどしか停めるスペースがなかった枝折峠ですが、広い駐車場ができ、トイレも完備されていました。駐車場の気温は2度。手がかじかみます。登り始めてすぐ朝日が昇ってきました。まるで雲がダムから流れ落ちているかのようです。実はこの雲の下には奥只見湖があります。
魚沼駒ヶ岳の紅葉 紅葉も黄葉も少し茶色くなってしまっていて、紅葉の当たり年とは言えませんが、まさに紅葉の真っ盛り。錦繍のなかの登山道です。左の奥に見えるのは中ノ岳です。
魚沼駒ヶ岳の紅葉 歌川広重風の構図(?)で一枚。平日というのに団体ツアーも含めて大勢の登山客がいました。奥只見の紅葉の最盛期だからでしょうか。山頂からは360度の展望で、北は雪をかぶった飯豊山、西にはやはり雪を戴いた白馬から槍までの北アルプス、南から東には平ケ岳、燧ヶ岳の双耳峰、そして那須連山まで見渡すことができました。
 おそらくこれが今年最後の登山となりますが、すばらしい山行でしめくくることができました。

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2007/10/26

【ダイビング】慶良間の海でのんびりゆったり

 天気は快晴、うねりもおさまりました。クイーンざまみでいよいよ慶良間に渡ります。

マリンハウス・シーサー阿嘉島店 今回お世話になったサービスは、マリンハウス・シーサー阿嘉島店です。初めて利用するサービスでしたが、アットホームかつ中高年もとけ込める雰囲気で、とても楽しくダイビングができました。
ホワイトソックス@ニシバマ 1本目のポイントはニシバマ(北浜)です。北浜と書いてニシバマ…。なんでだろう? それはさておき、慶良間を代表するダイビングポイントとして有名ですが、自然保護のため数年前まで潜水禁止になっていました。ですからぽん太は初体験のポイントです。白い砂地のなかに有名なアザハタの根があります。台風の影響か、ちと透明度が悪かったです。ちなみに水温は29度。写真はホワイトソックスという名のエビで、足が白いのが名前の由来です。初めて見ました。
ツバメウオのクリーニング 2本目のポイントは「安室魚礁」です。珊瑚に被われた海底に魚礁があり、チョウチョウウオなどさまざまな魚が楽しめます。写真はツバメウオですが、小魚にクリーニングをしてもらうために横になっています。気持ち良さそうですね。
佐久原隠れ根 2日目の最初のポイントは、佐久原隠れ根(さくばるかくれね)です。30メートルぐらいの断崖絶壁があるダイナミックな地形のポイントです。昨日よりさらに透明度が良くなっていたので、迫力満点でした。
ハナゴンベ@ケラマハナゴンベ@ケラマ ハナゴンベ君も初めて見る魚ですが、真横の写真を撮らせてくれませんでした。顔の模様がとてもきれいです。
嘉比ブツブツサンゴ 2本目は「嘉比ブツブツサンゴ」。斜面に大きなサンゴが広がり、小魚が群れています。
ホシゾラワラエビ@ケラマ ホシゾラワラエビを初めて見ました。先日安良里でご紹介したオルトマンワラエビと似ていますが、足の関節のところの白い模様がなく、足全体にまるで星空のような白点があります。
阿嘉島ヒズシビーチの夕暮れ 宿から徒歩5分、ヒズシビーチの夕暮れです。なんだかにゃん子がきれいに見えます。

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2007/10/24

【福祉】「親なき後」という考え方は間違いだった

 先日ぽん太は、タヌキ障害者福祉会議に出席してきました。タヌキ界の障害者福祉を今後どのようにしていくべきか話し合う会議で、当事者から学識経験者までさまざまな立場のタヌキが委員となっており、ぽん太も精神科医の資格の委員の一人でした。
 そのなかで、精神障害者の家族会代表の委員が、「親なき後の問題がある限り、家族は安心できない。私たちが死んだあと、子どもたちは誰が面倒を見てくれるんだろう、と思うと気が休まることがない」と述懐され、委員一同強く心を動かされました。
 以前は病院に収容・隔離されてきた患者さんを、退院させて地域のなかで支えて行こうというのが、現在の精神障害者福祉の大きな流れです。それはそれですばらしいことですが、それが障害者の家族の献身・努力によって行われているというのも事実です。家族は、障害者の日常生活の手助けをするだけでなく、家にこもっていたら外に連れ出したり、たまには部屋の掃除をするよう促したり、イライラしていたらタイミングを見計らってなだめたり、ときには医師に連絡をとったり、さまざまな制度を利用するための手続きをしたりと、専属のホームヘルパー・社会福祉士・看護師・臨床心理士の役目を担っているのです。そしてその対応は、何十年間も障害者と一緒に暮らし、さまざまな失敗を繰り返すなかで、身につけたものなのです。しかし、いまや患者さんたちは40代、50代となり、その両親は60代、70代となってきています。「自分たちが病気になったり、なくなったあと、子どもたちはどうするのだろう」というのは親たちの切実な(かつ現在は解決策のない)悩みなのです。
 さて会議では、ご家族の発言に対して、介護者同伴で車いすの身体障害当事者の委員から、「私も20年前に親から、自分が死んだ後はお前はどうするんだい、と何度も言われたことを覚えています。でもいま、自分はなんとか社会で自立して生活できています。精神障害も、きっとなんとか解決の道がみつかるはずです」という励ましのお言葉がありました。
 次に福祉関係の大学教授の先生が、「親なき後という問題の立て方は、最近は行わなくなってきています。親なき後を社会がなんとかしてほしいと訴えることは、裏をかえせば、親が生きている間は親がなんとか面倒を見る、ということになってしまいます。そうではなくて、障害者が成人したあとは、親に頼らず社会が援助をしていくという考え方が大切です」という意見がありました。

 なるほど、おっしゃる通りです。まだまだ知らないことはあるものです。ぽん太は以前のブログ「精神障害の成年後見制度ーー権利擁護がキーワードだ!(05/12/22)親なきあとの子の財産は?/成年後見制度(05/01/22)で「親なき後」の問題に触れましたが、確かに「親に頼らない福祉」というふうに考えるのが正しい問題の立て方のようです。
 ただ実際には、障害者の援助はまず親の責任とされており、古き良き「家」の制度の伝統を守ろうとしているのが、日本の社会の現実です。

 さらに考えてみると、現在のタヌキ界の障害者福祉制度をみると、成年後見制度といった財産の保護や、ホームヘルプ・サービスといった生活援助の制度はありますが、精神障害者が必要としているのは財産保護や家事援助だけではありません。ときどき様子を見に来てくれて、話し相手になったり、外出に誘ってくれたり、具合が悪いときには「どうしたの?」の聞いてくれ、必要なら病院に連絡を取ってくれるような役割を果たしてくれる人です。
 このような人が、自立支援法の制度からはすっぽりと抜け落ちていることにぽん太は今頃になって気がつきました。参加する意味のない会議が多いなか、たいへん勉強になった会議でした。

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2007/10/22

【沖縄】やんばる(山原)を旅する

 慶良間でダイビングをする予定だったぽん太とにゃん子ですが、台風10号の影響で慶良間行きの船(クイーンざまみ)が欠航する可能性があるということで、本島で1日過ごすことになりました。そこでレンタカーを借りて、やんばるを一周することにしました。
 やんばるとは、沖縄本島の北部地域を指しますが、うっそうとした森が広がり、多くの貴重動物が棲息しています。

慶佐次湾のヒルギ林 慶佐次湾のヒルギ林です。ヒルギとはマングローブのことで、国の天然記念物に指定されています。なかなか立派です。以前にパラオでマングローブを見たことがありますが、日本では初めてです。
ヤンバルクイナ観察小屋 さて、やんばるといえば「ヤンバルクイナ」。次に訪れたのはヤンバルクイナ観察小屋です。ヤンバルクイナといえば、ごく最近の1981年に発見され、世界中でやんばるにしか棲息していない飛べない鳥です。国の天然記念物に指定されていますが、個体数は現象の一途をだとり、絶滅危惧種に指定されています。このヤンバルクイナ観察小屋は、ヤンバルクイナの棲息地域の一部をフェンスで囲んで天敵から保護し、3台の観察カメラを通して運が良ければヤンバルクイナのライブ映像を楽しめるというものです。
 胸をわくわくさせながら行ってみると、観察小屋は、ゴルフ場の隣りにある小さなプレハブで、なんか、がっかりだよ!という感じです。ところがモニターを見てみると、なんとヤンバルクイナが映っています。しばらく水浴びをして去って行きました。や〜見れてよかったです。
辺戸岬 沖縄の最北端の辺戸岬(へどみさき)です。断崖絶壁に波が打ち寄せるダイナミックな景観です。
ヤンバルクイナ展望台 辺戸岬の近くにあるヤンバルクイナの格好をした展望台です。なかなかキッチュで悪くありません。なんか寂れて汚れていましたが、ちゃんと整備をすれば、観光客には受けそうな気がします。

古宇利大橋 やんばるから戻り、古宇利大橋を渡って古宇利島に行ってきました。古宇利橋は2005年2月に開通したばかりです。
古宇利島ポットホール 古宇利島の北側にあるトケイ浜には、ポットホール(甌穴)と呼ばれる穴のあいた奇岩があちこちにあり、不思議な景観を呈しております。写真も、なんだかサルバドール・ダリの絵のようです。場所はちょっとわかりずらいです。
 台風の影響による海のうねりもおさまってきたようです。明日は慶良間に渡ってダイビングです。

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2007/10/20

【ダイビング】安良里の沖の根は伊豆とは思えない魚群

 ぽん太とにゃん子は9月下旬、安良里にダイビングに行ってきました。実は昨年は、忙しかったり怪我をしたりで、一回も潜っていません。2年ぶりのダイビングで、器材のセッティングがちゃんとできるかどうか心配です。

あらり荘の夕食 前夜は民宿あらり荘に宿泊。やさしく物静かなお母さんが作ってくれた料理は海の幸がとてもおいしく、高額な温泉ホテルに泊まるより遥かにコストパフォーマンスが高いです。
 ダイビングサービスはおなじみの安良里ダイビングサービス・タツミにお世話になりました。アットホームな雰囲気で、魚にも詳しく、ガイドさんたちがダイビングを好きで好きでたまらないのが伝わってくるダイビングサービスです。
サラサエビ/安良里 ポイントは沖の根です。珍しくはありませんが、マクロでうまくピントが合った写真が撮れたのでご紹介します。どこにでも嫌というほどいるサラサエビです。
オルトマンワラエビ/安良里 オルトマンワラエビです。
ハナタツ/安良里 2本目も沖の根です。まずはハナタツ君。
ベニサンゴガニ?/安良里 サンゴガニの一種です。ベニサンゴガニでしょうか?
イソギンチャクモエビ/安良里 イソギンチャクモエビも良く見かけますが、シャチホコのような姿勢がキュートです。
イボイソバナガニ/安良里 イボイソバナガニが必死に擬態してしがみついています。
マダイの群れ/安良里 2本目は潮が変わって透明度は少し落ちましたが、少し流れが出たせいか魚の群れがすごかったです。まずはマダイの群れです。
スズメダイ大群/安良里 次はスズメダイの大群。伊豆とは思えない魚影の濃さです。
イサキ/安良里 イサキの群れも出現。タテジマが特徴です。美味しそうです。ああ、食べたい。
トウシマコケギンポ/安良里 シメは小物のトウシマコケギンポ君です。かわいいですね。

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2007/10/18

伊良湖岬の萬八屋の大アサリと刺身定食を食す

萬八屋@伊良湖岬 田原市博物館で知識欲を満たしたぽん太とにゃん子は、次に食欲を満たすべく、渥美半島の先端の恋路ヶ浜にある萬八屋を訪れました。立ち並ぶお土産屋のうちの一軒で、民宿もやっているようです。こちらが萬八屋の公式サイトです。
萬八屋@伊良湖岬 注文したのは刺身定食。新鮮な魚介類がいっぱいで、とてもおいしかったです。
萬八屋@伊良湖岬 ここでぜひともいただきたいのが大アサリです。ハマグリいやホタテぐらいの大きさのアサリに似た貝ですが、ホントはアサリではなくウチムラサキ貝というものだそうです。焼きたてはとてもジューシーでおいしいです。

恋路ヶ浜 恋路ヶ浜といえば、島崎藤村の「椰子の実」で有名です。この詩の元ネタが柳田国男であることは良く知られており、それは『海上の道 』(岩波文庫、1978年)に書かれています。明治30年の夏、大学2年生の柳田国男は伊良湖岬を訪れました。

 「今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れよっていたのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えて、まだ新しい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが大きな驚きであった。
 この話しを東京に還ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。
  そを取りて胸に当つれば
  新たなり流離の愁ひ
という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々たる私の見聞もまた不朽のものになった」(24~25ページ)。

 せっかくなので『海上の道』を読み直してみました。稲作技術を既に持っていた人々が、南方から沖縄を経て海上の道を北上し、日本人の祖先になったという仮説を論じた本ですが、論証部分は細かくてぽん太にはよくわかりません。

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2007/10/16

愛知の田原市博物館で渡辺崋山をみちくさ

田原市博物館 愛知県を旅するぽん太とにゃん子ですが、渥美半島の根元近くにある田原市博物館をみちくさしました。というのも、この博物館は田原城趾にあるのですが、有名な渡辺崋山は田原藩の家老だったそうで、渡辺崋山の作品や資料がいろいろと展示されていると聞いたからです。ちなみにこちらが田原市博物館の公式サイトです。渡辺崋山の生涯や、収蔵作品の写真も見ることができます。「国宝」の「鷹見泉石像」(たかみせんせきぞう)は複製しかありませんでした。現物は上野の国立博物館にあるそうで、常設はしていないようですが、機会があったら見たいです。
 渡辺崋山(華山じゃなく崋山ですネ)といえば、蛮社の獄でタイホされた画家というぐらいの知識しか持ち合わせていないぽん太ですが、これも何かのご縁と思い、ドナルド・キーンの『渡辺崋山』を読んでみました。
 渡辺崋山は1793年(寛政5)に江戸で生まれました。父親が田原藩の江戸藩邸勤務だったためで、晩年に田原に蟄居を命じられるまでは数回しか田原に行ったことはなく、ほとんど江戸で生活していたそうです。貧窮の少年時代を送った崋山は、生活費を稼ぐために絵を描いて売っていましたが、やがて、「なんでも鑑定団」でもおなじみの谷文晁に入門して才能を開花させました。さらに能力を買われて1832年(天保7)に田原藩家老に就任しました。また蘭学に関心を持ち、高野長英や小関三英らと尚歯会と呼ばれる洋学研究会を作りましたが、それを快く思わなかった国学者の告発によって逮捕され、田原に蟄居となりました(蛮社の獄、1839年(天保10))。その後、蟄居の身でありながら生活のために絵を売っていることが問題となり、藩に迷惑がかかることを恐れた崋山は、1841年(天保12)に切腹によって生涯を閉じました。
 画家としては写実を重視し、性格までも描き出した肖像画は特に評価が高く、西洋画の影響を受けているそうです。崋山はかなりの数のヨーロッパの肖像画を模写したそうです。すでに司馬江漢(1747〜1818)のようなオランダ様式の画家はいたものの、ヨーロッパ風の「肖像画」を描いたのは、崋山が最初だったようです。
 また、崋山の逮捕をきっかけに、これまで親しくしていた人たちが手のひらを返したように無関係を主張する下りは、現代と江戸時代では司法制度が違うとはいえ、おかしくも物悲しく感じました。例えば滝沢馬琴は、亡くなった息子の肖像画を数年前に崋山に依頼していいたにも関わらず、手紙で崋山を次のように非難しています。「昔、崋山は金に困った時に、よく古人の偽画を作り、人を欺いて金を儲けたことがありました。亡くなった息子がそのことを私に告げ、崋山は才子ではあるが、偽画の件があるので信用がおけないと申しておりました。私の孫に画を学ばせようとした時、崋山の弟子にしようと思って、四年前に会った折に崋山にそのことを話したことがありました。しかし、よく考えてみると例の偽画のこともあり、どうも崋山に親しみを覚えることが出来なかったので、去年の秋から楠本雪渓に弟子入りさせました。今思えば、よくぞ崋山の弟子にしなかったものよ、と思わず頬がゆるみます」(236〜237ページ)。

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2007/10/14

【風林火山】偶然に牛久保の山本勘助の墓をみちくさする

 愛知県の豊川市を車で走っていたぽん太とにゃん子の目に、偶然「山本勘助の墓」という案内板が飛び込んできました。にゃにゃにゃに〜!? 山本勘助といえば、NHKの大河ドラマ「風林火山」の主人公ではないか。それは見学してみなければなりません。物見高いぽん太とにゃん子は、さっそくみちくさすることにしました。

長谷寺@牛久保 こちらが山本勘助の墓があるという長谷寺です。豊川市観光協会のページによると、お墓といっても、ここに勘助の骨が納められているわけではないようです。勘助が武田信玄に召し抱えられたとき、自分が死んだら弔ってくれよと髪の毛をこの寺の念宗和尚に託し、勘助が川中島の戦いで命を失った後、和尚が勘助の死を悼んで建立したものだそうです。
山本勘助の墓@牛久保の長谷寺 こちらが山本勘助のお墓です。ああ、感動です。また、こちらのお寺には、大河ドラマでも勘助がお守りとして肌身離さず持っていた摩利支天像も安置されているそうですが、公開日ではなかったので残念ながら見れませんでした。
 で、感動に水をさすようで恐縮ですが、山本勘助が実在の人物かどうかは議論があるようです。
 ぽん太の持っている『甲陽軍鑑 』(佐藤正英訳、ちくま学芸文庫、2006年)(ちなみにこの本には『甲陽軍鑑』全体の約4分の1しか収録されていません)の解説によれば、山本勘助に関する資料は長いあいだ『甲陽軍鑑』しかなく、江戸時代から勘助は架空の人物ではないかと疑われていたそうです。『甲陽軍鑑』は、武田信玄・武田勝頼の時代のを描いた壮大な歴史物語です。信玄の家臣であった高坂昌信(1527〜1576)が書き始め、春日惣次郎が書き継いだものを、小幡景憲(1572〜1663)が編纂したものとされており、江戸時代には広く読まれたそうです。のちに「市河文書」というものに勘助の名が見出され、勘助が実在したことは確定されたものの、容貌や事績に関してはどこまでがホントかはっきりしないそうです。
 長谷寺の勘助の墓も、ひょっとしたら江戸時代の勘助ブームのなかで後から作られたものという可能性もありますが、はっきりとはわかりません。

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2007/10/12

【ミステリー】なんと!豊川稲荷は神社ではなかった!?

豊川稲荷 足助・香嵐渓を観光したぽん太とにゃん子は、近くの豊川稲荷を訪れました。
豊川稲荷 お稲荷さんといえば、キツネがつきもの。ここ豊川稲荷にもキツネさんがいました。まるでどこかの車のCMの動物のようにちょっとリアルで怖いです。
豊川稲荷大きなちょうちんがユニークです。ところが、お稲荷さんにしては何か変です。にゃん子が「お稲荷さんなのに、赤い鳥居がないわね〜」と言います。そういえばそうだな〜。神社なのに本堂みたいなのがあるし。
豊川稲荷 三重塔です。三重塔とか五重塔とかは、もともと仏舎利を納めたものであり、お寺にはあっても神社にはありません。
 ということで案内板をよく読んでみると、こちらの豊川市観光協会のページにあるように、豊川稲荷は神社ではなく、「豊川閣妙厳寺」という曹洞宗のお寺でした。えっえ〜〜! これは衝撃です。
 寺社仏閣ファンなら誰でも知っているように、日本の宗教は本来神仏習合といって、仏教と神道が渾然一体となっているものでした。神道と仏教が区別されたのは明治時代になってからで、1868年(慶応4〜明治1)の一連の神仏分離令以降です。神仏分離令は神道と仏教を分けろというだけで、必ずしも仏教排斥をねらったものではなかったのだそうですが、江戸時代にお寺が幕藩体制維持のお役所のような役割を果たしていたこともあり(寺請制度)、各地で廃仏毀釈と呼ばれる仏教排斥に発展しました。
 こうした流れでみると、豊川稲荷は、神仏分離のときに寺院であることを選択したのでしょう。
 ということは、神仏習合の時代に、主に神社のところと主にお寺のところがあったのでしょうか? なんで明治政府は神仏分離という宗教政策をおこなったのでしょうか? いろいろと疑問が浮かんできます。そのうちみちくさしてみることにしましょう。
 ところで、「るるぶ愛知」2003年版にょると、豊川稲荷寺宝館には国指定重要文化財の「地獄菩薩」があるとのこと。地獄菩薩とは何かと思って行ってみたら、なんのことはない「地蔵菩薩」の誤植でした。すごい誤植です。でも、地蔵菩薩はなかなかいいお顔でした(特に右側)。

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2007/10/06

【旅館】赤坂宿の旅籠大橋屋で江戸の宿場の風情を味わう(★★★★)

旅籠大橋屋/赤坂宿 温泉が大好きなぽん太とにゃん子ですが、「温泉」という縛りをなくすとけっこういい宿があることに最近気がつき、今回は愛知県宝飯郡音羽町にある旅籠大橋屋に泊まってきました。
旅籠大橋屋/赤坂宿 愛知県宝飯郡音羽町といってもわからないと思いますが、いわゆる東海道五十三次の37番目の宿場である赤坂宿にあります。大橋屋は、「伊右エ門鯉屋」という屋号で江戸時代から旅籠として営業していたそうで、現存の建物は1716年(正徳6)頃に建てられたのだそうです。公式ホームページはないようなので、興味ある方は各自ググってみて下さい。
灯籠/旅籠大橋屋この旅館は、歌川広重の「東海道五十三次」の「赤坂 旅舎招婦ノ圖」のモデルと言われているそうです。写真の石灯籠は南北朝時代のものだそうですが、浮世絵に描かれているはこの灯籠なのでしょうか?
旅籠大橋屋/赤坂宿 「旅舎招婦ノ圖」という副題についてですが、江戸時代の旅籠には「飯盛女」というのがいて、実質的には娼婦として夜伽をしたそうです。備前ではやった歌に「御油に赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い」というのがあるそうで、赤坂の「飯盛女」は有名だったそうです。版画の右側に描かれた部屋で「飯盛女」が化粧などの身支度をしており、その奥にはカラフルなフトンが積まれています(1)。
松尾芭蕉が泊まった部屋/旅籠大橋屋 こちらは芭蕉が泊まったと伝えれている部屋です。東海道に面した2階にあります。「夏の月御油より出て赤坂や」という松尾芭蕉の句があるそうです。御油宿と赤坂宿のあいだがわずか16町(1.7km)しか離れてなかったことから、夏の夜の短さを読んだものだそうです。
御油の松並木 現在も残っている「御油の松並木」です。江戸時代の東海道の雰囲気が今でも感じられます。
夕食/旅籠大橋屋 夕食です。「ふつうにおいしい」会席料理でしたが、写真の右下に写っているたっぷりの自然薯がクセモノです。土臭くて濃厚な味で、そのままでも、ご飯にかけても、おソバにかけてもおいしかったです。
 泊まった部屋は新しい部屋で、クーラーもついて快適な、おちついた和室でした。
朝食/旅籠大橋屋 朝食もおいしくいただきました。卵豆腐に甘味噌がかかっているのが珍しくもおいしかったです。
 東海道で現存して宿泊できる旅籠はここだけだと書いているホームページもありました。歴史ある建物に泊まれ、江戸時代の風情を味わえて、ぽん太は大満足です。

【参考文献】(1)『広重の東海道伍拾三次旅景色ー天保懐宝道中図で辿る』、人文社、1997年。

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2007/10/04

【愛知の旅】鳳来寺、東照宮、長篠城趾

 次にぽん太とにゃん子が向かったのは、鳳来寺です。鳳来寺の公式ホームページが見つからないのですが、こちらのあいちまDriveのページがよくまとまっています。
 鳳来寺に参拝するには、正しくは1425段の石段を登っていくのが正式なのですが、光岳の登山で大筋肉痛状態のぽん太とにゃん子は、まよわず鳳来寺山パークウェイを利用しました。

東照宮/鳳来寺 駐車場からほぼ水平の道を歩いて行くと、まず鳳来山東照宮があります。こちらが公式ホームページです。東照宮というからには徳川家康ゆかりで、日光東照宮久能山東照宮とともに、三大東照宮に数えられているそうです。公式ホームページによれば、「家康の両親が子供ができないことを嘆いて鳳来寺に子供を授かるよう祈願したところ家康を授かった」ということを、「3代将軍家光」が「日光」東照宮を参拝したおりに知って、建立を命じたものだそうです。ちょっと複雑ですね。御祭神は、もちろん「贈正一位源家康朝臣」、つまり徳川家康ですね。
狛犬/鳳来寺東照宮 狛犬です。かなりヤバイ形象です。あまりの恐ろしさに身のすくむ思いです。
狛犬/鳳来寺東照宮 右側の狛犬です。ぽん太は以前のブログ「妙義神社、湯の平温泉松泉閣、熊野皇大神社」で軽井沢の熊野皇大神社の狛犬を紹介したことがあります。そちらはアルカイックなものでしたが、こちらはかなり怖いです。いったい何なのでしょう? 立て札があって、「戦場に召されし兵の守りとて 身を削られき 狛犬われは」という歌が書かれています。ググってみると、戦争に駆り出された人たちが、無事を祈ってか武運を祈ってか徳川家康にあやかろうと、狛犬を削ってお守りとしたそうです。なんと足下にごろりと転がっている丸い石が、削られまくった初代の狛犬だそうです。ナルホド。
鳳来寺 こちらが鳳来寺です。文武天皇の703年(大宝3)に創建された由緒あるお寺ですが、新しい建物です。
狛犬/鳳来寺  鳳来寺の脇に置かれている狛犬です。こちらもかなりインパクトがあります。お寺に狛犬?という疑問は置いておきましょう。
狛犬/鳳来寺 前の写真の足下にある別の狛犬です。これらもお守りとして削られたのでしょうか?

長篠城趾 さて、次に訪れたのは、近くにある長篠城趾です。長篠城趾といえば長篠の戦い。武田信玄の息子勝頼は、父信玄にも増して駿河・遠江への侵出を企てます。1575年(天正3)武田勝頼は、ここ長篠で織田信長・徳川家康の連合軍と激突します。武田の騎馬隊を、織田・徳川軍が鉄砲隊を使って粉砕したことはよくしられています。長篠の戦いに関するサイトはいっぱいあるようですが、ここではこちらの新城市(しんしろし)商工会のホームページをご紹介しておきます。

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2007/10/02

新旧が混在する足助・香嵐渓

 信州小渋温泉赤石荘で一泊したぽん太とにゃん子は、足の筋肉痛に耐えながら、愛知県の足助・香嵐渓に向かいました。こちらが足助観光協会の公式ホームページです。

足助の道標 足助は多くの街道が分岐する交通の要所で、かつては善光寺参りでにぎわい、江戸時代には三河湾で作られた塩を運ぶ道の宿場として栄えました。写真は1846年(弘化3)の道しるべだそうです。
足助の建築 宿場の伝統的な街並は他のホームページを参照していただくことにして、なかなか渋いデザインの建物があったのでアップしておきます。現在はお店として使われていないようですが、いい味を出しています。
足助のかじやさん 足助のかじやさんです。1階が鍛冶屋さん、2階がライブハウスとなっており、音楽を聴いて包丁を買えるという便利な店です。ライブハウスと鍛冶屋さんという組み合わせが、地元密着という感じでいいです。
もみじピザ@足助のかじやさん<br />
 昼は軽食がいただけます。ぽん太が食べたのは「もみじピザ」。鹿肉と味噌味の取り合わせが絶妙です。
松茸味ソバニョッキ@足助のかじやさん にゃん子は「松茸味ソバニョッキ」です。ひとくちいただきましたが、ニョッキがそばがきみたいで、松茸の風味がしておいしかったです。
足助のかじやさん 地階のトイレにいったらガラス窓があり、そこから鍛冶屋部門が見えました。職人です。いいです。ぽん太も精神科医の職人を目指しています。
 香嵐渓は、川沿いに紅葉が植わっており、紅葉の時期はさぞかし美しかろうと思われました。写真は他のホームページをご覧下さい。ぽん太が行った時は、名所の巴橋が秋のシーズンに向けての工事中で、コンクリート製の橋の欄干が真っ赤に塗られていました。足助は、古い伝統の街並、現代風観光名所の香嵐渓、地元に根付いた新しい文化の「足助のかじやさん」などの三つが混合した町だとぽん太は思いました。

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