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2007/10/14

【風林火山】偶然に牛久保の山本勘助の墓をみちくさする

 愛知県の豊川市を車で走っていたぽん太とにゃん子の目に、偶然「山本勘助の墓」という案内板が飛び込んできました。にゃにゃにゃに〜!? 山本勘助といえば、NHKの大河ドラマ「風林火山」の主人公ではないか。それは見学してみなければなりません。物見高いぽん太とにゃん子は、さっそくみちくさすることにしました。

長谷寺@牛久保 こちらが山本勘助の墓があるという長谷寺です。豊川市観光協会のページによると、お墓といっても、ここに勘助の骨が納められているわけではないようです。勘助が武田信玄に召し抱えられたとき、自分が死んだら弔ってくれよと髪の毛をこの寺の念宗和尚に託し、勘助が川中島の戦いで命を失った後、和尚が勘助の死を悼んで建立したものだそうです。
山本勘助の墓@牛久保の長谷寺 こちらが山本勘助のお墓です。ああ、感動です。また、こちらのお寺には、大河ドラマでも勘助がお守りとして肌身離さず持っていた摩利支天像も安置されているそうですが、公開日ではなかったので残念ながら見れませんでした。
 で、感動に水をさすようで恐縮ですが、山本勘助が実在の人物かどうかは議論があるようです。
 ぽん太の持っている『甲陽軍鑑 』(佐藤正英訳、ちくま学芸文庫、2006年)(ちなみにこの本には『甲陽軍鑑』全体の約4分の1しか収録されていません)の解説によれば、山本勘助に関する資料は長いあいだ『甲陽軍鑑』しかなく、江戸時代から勘助は架空の人物ではないかと疑われていたそうです。『甲陽軍鑑』は、武田信玄・武田勝頼の時代のを描いた壮大な歴史物語です。信玄の家臣であった高坂昌信(1527〜1576)が書き始め、春日惣次郎が書き継いだものを、小幡景憲(1572〜1663)が編纂したものとされており、江戸時代には広く読まれたそうです。のちに「市河文書」というものに勘助の名が見出され、勘助が実在したことは確定されたものの、容貌や事績に関してはどこまでがホントかはっきりしないそうです。
 長谷寺の勘助の墓も、ひょっとしたら江戸時代の勘助ブームのなかで後から作られたものという可能性もありますが、はっきりとはわかりません。

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