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2007/10/16

愛知の田原市博物館で渡辺崋山をみちくさ

田原市博物館 愛知県を旅するぽん太とにゃん子ですが、渥美半島の根元近くにある田原市博物館をみちくさしました。というのも、この博物館は田原城趾にあるのですが、有名な渡辺崋山は田原藩の家老だったそうで、渡辺崋山の作品や資料がいろいろと展示されていると聞いたからです。ちなみにこちらが田原市博物館の公式サイトです。渡辺崋山の生涯や、収蔵作品の写真も見ることができます。「国宝」の「鷹見泉石像」(たかみせんせきぞう)は複製しかありませんでした。現物は上野の国立博物館にあるそうで、常設はしていないようですが、機会があったら見たいです。
 渡辺崋山(華山じゃなく崋山ですネ)といえば、蛮社の獄でタイホされた画家というぐらいの知識しか持ち合わせていないぽん太ですが、これも何かのご縁と思い、ドナルド・キーンの『渡辺崋山』を読んでみました。
 渡辺崋山は1793年(寛政5)に江戸で生まれました。父親が田原藩の江戸藩邸勤務だったためで、晩年に田原に蟄居を命じられるまでは数回しか田原に行ったことはなく、ほとんど江戸で生活していたそうです。貧窮の少年時代を送った崋山は、生活費を稼ぐために絵を描いて売っていましたが、やがて、「なんでも鑑定団」でもおなじみの谷文晁に入門して才能を開花させました。さらに能力を買われて1832年(天保7)に田原藩家老に就任しました。また蘭学に関心を持ち、高野長英や小関三英らと尚歯会と呼ばれる洋学研究会を作りましたが、それを快く思わなかった国学者の告発によって逮捕され、田原に蟄居となりました(蛮社の獄、1839年(天保10))。その後、蟄居の身でありながら生活のために絵を売っていることが問題となり、藩に迷惑がかかることを恐れた崋山は、1841年(天保12)に切腹によって生涯を閉じました。
 画家としては写実を重視し、性格までも描き出した肖像画は特に評価が高く、西洋画の影響を受けているそうです。崋山はかなりの数のヨーロッパの肖像画を模写したそうです。すでに司馬江漢(1747〜1818)のようなオランダ様式の画家はいたものの、ヨーロッパ風の「肖像画」を描いたのは、崋山が最初だったようです。
 また、崋山の逮捕をきっかけに、これまで親しくしていた人たちが手のひらを返したように無関係を主張する下りは、現代と江戸時代では司法制度が違うとはいえ、おかしくも物悲しく感じました。例えば滝沢馬琴は、亡くなった息子の肖像画を数年前に崋山に依頼していいたにも関わらず、手紙で崋山を次のように非難しています。「昔、崋山は金に困った時に、よく古人の偽画を作り、人を欺いて金を儲けたことがありました。亡くなった息子がそのことを私に告げ、崋山は才子ではあるが、偽画の件があるので信用がおけないと申しておりました。私の孫に画を学ばせようとした時、崋山の弟子にしようと思って、四年前に会った折に崋山にそのことを話したことがありました。しかし、よく考えてみると例の偽画のこともあり、どうも崋山に親しみを覚えることが出来なかったので、去年の秋から楠本雪渓に弟子入りさせました。今思えば、よくぞ崋山の弟子にしなかったものよ、と思わず頬がゆるみます」(236〜237ページ)。

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