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2007年12月の19件の記事

2007/12/30

【神社】赤城神社をみちくさしてみた

 ぽん太とにゃん子は、忠治温泉忠治館に泊まった翌日、近くの赤城神社をみちくさして参りました。場所はここ(Yahoo!地図)です。
赤城神社 大きな木製の鳥居があり、境内は木がうっそうと生い茂っていて、けっこうな杉の大木もあります。有名な名水なのでしょうか、湧き水をポリタンクに大量に汲んでいるひとたちもいました。
赤城神社 本殿はあまり古いものではなさそうですが、なかなか立派です。神楽殿などもあります。
赤城山松並木 赤城神社の参道にある松並木です。案内の看板には次のように書いてあります。「参道松並木の起源については、赤城神社「年代記」に記されており、慶長17年(1612年)に大前田村川東の彦兵衛が、松苗木を太田の金山より取り、寄進したといわれています。」赤松と黒松を混ぜて、全部で1200本あるそうです。これだけの松並木が寄進されたということは、江戸時代初期はかなりの信仰を集めていたのでしょう。

 さて、赤城神社の御祭神や御由緒はどうなっているのでしょうか。公式サイトは残念ながらなさそうです。境内の立て札には次のように書いてありました。

赤城神社(正一位 上野国神名帳)
 赤城神社は群馬県内は基より、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県の各地に三〇〇余ある分社の総本社です。古代、崇高な赤城山と水源である沼の神霊を自然崇拝の対象に、農耕の神、東国開拓の神々の大己貴命、豊城入彦命を主祭神に祀り、創建は崇神天皇の御世と伝えられています。延喜式神名帳には上野国三大明神の一つに列せられる古社(延喜式内社)です。
 上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ
と金槐集の源実朝の歌にもあるように、将軍をはじめ武将達が崇敬したばかりでなく、一般の人の信仰を集めました。また、神道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には、
「もと赤城神は一宮であったが、はたを織っているときに「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり、自分は二宮になった。」
ということが見えています。その頃は、一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰を集めていたから、このような伝説が起こったのでしょう。

 確かに「赤城神社」は各地にあり、東京では神楽坂にあるのが有名です(公式サイトはこちら)。赤城神社が、赤城山に対する自然信仰と、農耕の神に起源を持つというのも納得できます。
 大己貴命は「おおあなむちのみこと」と読みますが、有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名で、『日本書紀』に出てきます。『古事記』では「大穴牟遅神」と書かれ、「おほなむぢのかみ」と読むようです。
 豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)は崇神天皇の息子であることが『日本書紀』に書かれています。崇神天皇は、豊城入彦命と、腹違いの兄弟の活目尊(いくめのみこと)のどちらを跡継ぎにすべきか迷い、それぞれが見た夢で占うことにしました。豊城入彦命が見た夢は、「御諸山(みもろやま)に登って東に向い、八回槍を突き、八回刀を振った」というものでした。一方活目尊は、「御諸山に登って四方に縄を張り、粟をついばむ雀を追い払った」という夢を見ました。それを聞いた崇神天皇は、「豊城入彦命は東に向って武器をふるったので、東国を治めるのによいだろう。活目尊は四方に気を配って稔りを考えたので、国を治めるのにいいだろう」と考え、活目尊に後を継がせ(つまり垂仁天皇)、豊城入彦命には東国を治めさせました。「これが上毛野君(かみつけのきみ)・下毛野君(しもつけのきみ)の先祖である」と書かれています。群馬県は古くは「上毛野」(かみつけの・こうづけの)と呼ばれ、江戸時代には「上野国」(こうづけのくに)と改名されて上州(じょうしゅう)と略され、現在でも上毛(じょうもう)という呼び方をする(新幹線に上毛高原という駅がありますよね)ことは、たとえばこちらの前橋のバー・リクカワのサイトにも出ています。赤城神社が崇神天皇の時代に造られたということと、豊城入彦命が御祭神であることは、つじつまがあっているように思われます。またさらに『日本書紀』によれば、崇神天皇の御代に疫病が流行って国が荒れたため、大物主神と大国魂神(おおくにたまのかみ=大国主命)を祀ったと書いてあります。赤城神社のもう一柱の御祭神が大国主命であることと関連しているかもしれません。
 しかし、ぽん太が以前のブログ(【宗教】神仏分離についてちと勉強してみる)で書いたように、現在の神社の御祭神は、明治の神仏分離で変えられていることが多いので、この立て札に書かれた歴史が、江戸時代以前から伝わるものか、明治以降につくられたものなのかは、判断を保留する必要があります。
 延喜式神名帳とは、927年(延長5年)に作られた『延喜式』の巻九・十のことです(wikipediaはこちら)。当時、官舎であった神社の一覧表で、これに載っていることは神社の格となり、そのような神社は「式内社」とか「式社」とか呼ばれます。ところが、延喜式神名帳に載っていた神社が現在のどの神社なのかというのは、いろいろと問題があります。たとえば赤城神社に関しても、赤城山頂付近にある富士見村の赤城神社(公式サイトはこちら)と、前橋市二之宮町の赤城神社(たとえばこちらの「玄松子の記憶」というサイトのページをご覧下さい)が、式内社の後裔を主張しています。このように、式内社の後裔と思われる神社が複数あるとき、これらを「論社」と言います。三つの論社の由来をほじくりだして比較検討するのは、みちくさの範囲を超えております。
 『金槐和歌集』のみちくさもまたの機会に。
 貫前神というのは、富岡市にある貫前神社ですね。公式サイトはこちらです。

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2007/12/28

【温泉】忠治温泉「旅籠 忠治館」は上州の雰囲気があふれる宿(★★★★)

忠治温泉忠治館 今年も残すところわずかとなった12月末、ぽん太とにゃん子は、群馬県は赤城山麓、忠治温泉の「旅籠 忠治館」に泊まってきました。こちらが忠治館の公式サイトです。場所は赤城山の南麓。紅葉の季節もとうに過ぎ去って、あたり一面冬枯れの荒涼たる林が、冬の北関東の真っ青な空を背景に、寒風のなか梢を揺らす風景は、上州に来たことを実感させてくれます。
忠治温泉忠館 赤城温泉郷の入りぐちにある、古民家風の建物が、忠治館です。
忠治温泉忠館 高い天井、黒光りする床、内装もなかなか雰囲気があります。とはいっても15年くらい前に造られたそうで、内部は清潔で快適です。
露天風呂@忠治温泉忠館 お風呂は、男女別の露天風呂と、男女別の内湯があります。露天風呂は、滝のある渓流に面していて、とても開放的です。夜になると篝火が焚かれ、雰囲気が盛り上がります。お湯は無色透明でよく暖まります。つかっていると、北風が心地よく感じられます。吸い込み口があったので循環加熱はしているようでしたが、掛け流しかどうかなど、表示がないのでわかりませんでした。
忠治温泉忠館 内風呂はタイル張りでいまひとつ特徴がありません。
夕食@忠治温泉忠館夕食@忠治温泉忠館夕食@忠治温泉忠館 夕食は、打ち鳴らされる太鼓の音を合図に、お食事どころでいただきます。山里風の郷土料理で、上州定番の刺身こんにゃくはもちろん、きのこ鍋、とろろ茶碗蒸し、むかごの天ぷらなど、とても美味しかったです。
朝食@忠治温泉忠館朝食もおいしく、イワナの開きは生まれて初めていただきました。生卵も黄身の色が濃くて盛り上がっていて新鮮でした。
 サービスもアットホームながら適度にあっさりしていて気楽です。上州の雰囲気を味わえる格好の宿です。

 ところで、「忠治館」という宿の名前は、「赤城の山も今宵限り。かわいい子分のおめえたちとも、別れわかれになる門出だ」(だっけ?)で有名な国定忠治の名前からとったのでしょうが、国定忠治がどんな人かは以外と知られていません。2010年は生誕200年となりますので、ぜひ大々的にイベントでもやって盛り上げて欲しいひとです。ぽん太もそのうちみちくさいたしましょう。

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2007/12/26

【蕎麦】「手打蕎麦 車家」の「おせいろ」は細打ちだけど香りが強い(★★★★★)

手打蕎麦 車家 雑誌などで見て、以前から気になっていた八王子の「手打蕎麦 車家」に、先日ぽん太とにゃん子は行ってきました。こちらが車家の公式サイトです。場所は京王堀之内の近く、野猿街道沿いにあります。場所としては、バイパスにありがちなチェーン店や大型店が立ち並ぶ地域ですが、会津の只見地方の民家を移築したという建物は、そこだけ時代が違うかのようです。
手打蕎麦 車家 席は、座敷と椅子席があります。天井の高いこの部屋は、クラシックモダンな調度品がよく似合います。
おせいろ@手打蕎麦 車家 鴨せいろがお勧めのようですが、冬になってちとメタボ気味のぽん太は、基本メニューの「おせいろ」を選択。細打ちながら腰が強く、食べると強い蕎麦の香りが口一杯に広がります。ツユは鰹節系の濃い味ですが、甘くはなく、強い蕎麦の香りをキリリと支えます。
手打蕎麦 車家 食器類やお盆も風情があり、接客もレストランのようできびきびして、気持ちがいいです。ぽん太の巣穴からも近いので、ちょくちょく来てみたいお店です。

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2007/12/24

【音楽】年末の渋谷を疾走するシフの『第九』(新日本フィルハーモニー交響楽団2007年『第九』特別演奏会/12月23日、オーチャードホール)

 年末の恒例行事といえば『第九』である。ということで、ぽん太とにゃん子は新日本フィルの『第九』を聴きに行ってきました。
 指揮はハインリヒ・シフ……。恥ずかしながら知りません。オーストリア生まれのチェリストで、近年は指揮者としても活躍しているとのこと。どんな演奏をしてくれるか楽しみです。

 1曲目はドホナーニの弦楽三重奏のためのセレナード。ドホナーニって、それな〜に? 恥ずかしながら知りません。なんでもバルトークやコダーイと同時代に活躍したハンガリーの有名な作曲家とのこと。プログラムで『第九』の前に何をもってくるか、というのはちょっとした楽しみなのですが、弦楽三重奏とはシブい。新日本フィルのコンサートマスターと首席奏者による演奏で、トリオ エド・アルテという名で活動をしているそうです。
 ロマン派風・現代風・民族風の曲ですが、あまり特徴がなく、申し訳ないけどやや眠くなりました。最後のロンドはやたらとガチャガチャした曲。拍手が短かったのが気の毒で、カーテンコールが一度もなく拍手が消えそうになり、袖から舞台に出ようとした奏者が苦笑していました。

 さて、いよいよ『第九』。舞台上に合唱団が整列していやでも雰囲気が盛り上がります。拍手とともに現れたハインリヒ・シフは、あご髭をたくわえた恰幅のいいおじさんで、首には赤い蝶ネクタイ。さながらサンタさんです。
 『第九』の出だしは宇宙の果てからかすかに伝わってくるような神秘的な5度の和音で始まります……と待ち受けていたら、すごいスピードで始まり、三つの5度の和音があっという間に終了。「うわ、早いな」と思っているうちに第一主題は過ぎ去ります。一拍目だけを鋭く振るシフの指揮に合わせて、ティンパニーや金管で一拍目が強調され、細かいニュアンスを吹っ飛ばしてぐんぐん進んで行きます、という間に展開部に。一拍目以外の細かいリズムは不明瞭で、アンサンブルもやや乱れ気味。内声部はゴロゴロ聞こえるのみ。木管楽器でのメロディーの引き渡しなども、聴いてる閑はありません。気がつくともう再現部。なんだか観光バスに乗ったらすごいスピードで走り出し、いろいろ見たい観光名所があるのにどんどん通過して行くような心境です、で第一楽章終了。な、なんだこれは。
 以下の楽章も同様の速いテンポで疾走。第2楽章は、スケルツォというより4拍子の行進曲のよう。第3楽章は美しいメロディを聴かせるも、やはり早い。第4楽章の合唱は早口言葉のようで、あっという間にフィナーレでした。踏切で目の前を特急列車が通過して行ったかのようです。ぽん太は『第九』を聴いて神々しい気分に浸り、「さあ、今年もいろいろあったが、一年終わりだ。また来年がんばろう」という気持ちになりたかったのですが、年末の慌ただしさのみが心に残りました。シフのいいところは何なのか、いったい何を目指しているのか、ぽん太にはよくわからず、今年の『第九』はちと欲求不満でした。
 
新日本フィル『第九』特別演奏会2007
ドホナーニ作曲 弦楽三重奏曲「セレナード」作品10 ※
ベートーヴェン作曲 交響曲第9番ニ短調「合唱つき」作品125
  指揮:ハインリヒ・シフ
  ソプラノ:中嶋彰子
  アルト:カロリン・マズア
  テノール:シュテファン・リューガマー
  バス:アンドレアス・シュミット
  ヴァイオリン:崔文洙※
  ヴィオラ:篠崎友美 ※
  チェロ:花崎 薫 ※
2007年12月23日(日)15時00分開演
会場:Bunkamuraオーチャードホール

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2007/12/22

【文学】継母が継子に恋をする話し エウリピデス『ヒッポリュトス』・セネカ『パエドラ』・ラシーヌ『フェードル』

 歌舞伎の「摂州合邦辻」をきっかけに、継母が継子を愛する話しに興味を覚えたぽん太は、前回は『今昔物語集』の説話をみちくさいたしました。こんかいは海を越えて、ヨーロッパの文学をみちくさしてみました。
 今日のみちくさは、エウリピデス『ヒッポリュトス』(『ギリシア悲劇〈3〉エウリピデス〈上〉 (ちくま文庫)』ちくま書房、1986年、に所収)、セネカ『パエドラ』(『セネカ悲劇集〈1〉 (西洋古典叢書)』小林正廣他訳、京都大学学術出版会、1997年、に所収)、ラシーヌ『フェードル』(『フェードル;アンドロマック (岩波文庫)』、渡辺守章訳、岩波書店、1993年、に所収)の三つです。いずれもギリシア神話に題材をとっており、王(テセウス、テゼー)の不在の間に、王の実子(ヒッポリュトス、イポリット)に対して継母(パイドラ、フェードル)が愛を告白しますが拒絶されます。やがて戻って来た王は、息子の方が継母に迫ったという讒言を信じて、息子を呪い殺してしまい、また継母も自害するという話しです。
 ただ、細かいところはいろいろと違いがあります。どこがどう違うかをまとめるのは面倒くさいし、どうせ誰かがやっているでしょうから、省略いたします。ぽん太のひとこと読後感は、エウリピデスでは神の意思に翻弄される人間の運命が胸を打ち、セネカではうんざりするほどの修辞を伴う長台詞のなかにパイドラの複雑で矛盾した内面が描き出され、ラシーヌでは登場人物たちが様々にかかわり合いながら状況が次々と変化していく劇的な構成が見事に思われました。
 エウリピデスの『ヒッポリュトス』のあらすじは例えばこちらのla maison du soirのページに、セネカの『パエドラ』のあらすじは例えばこちらのpdfファイルの4ページに、またラシーヌの『フェードル』のあらすじは例えばこちらのwikipediaの「フェードル」の項目をご覧下さい。
 これらの「西洋系」と、「摂州合邦辻」や『今昔物語集』の「東洋系」を比べてみると、「東洋系」に共通する「息子が盲目となって放浪するが最後に救われる」という部分が「西洋系」にはみられません。「西洋系」で盲目となって放浪する話しといえば、ソポクレスの『コロノスのオイディプス』(『ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)』所収)が思い出されますが、この劇ではオイディプスは最後には神に許され、大地のなかに消え去ります。
 ラシーヌの『フェードル』がエウリピデスとセネカを下敷きにして書かれたということは、ラシーヌ自身による序文に書かれています。エウリピデスは、現存している『ヒッポリュトス』以前に、もうひとつ別の同名の劇を作ったそうで、第一作を「顔を蔽うヒッポリュトス」、第二作を「花冠を捧げるヒッポリュトス」と呼んで区別するそうです。セネカは、「顔を蔽うヒッポリュトス」に影響を受けたといわれています。またエウリピデスの訳者松平千秋の解説によれば、ヒッポリュトス伝説の起源は、古くはペロポネソス半島東北のトロイゼンにあるそうです。
 11月の国立劇場「摂州合邦辻」の筋書(歌舞伎のパンフレットのこと)の解説には、「継母が息子を恋する説話は、インドに源流をもつとされ、それが西に伝わりギリシアの悲劇の題材となり、さらにラシーヌの『フェードル』を生み、一方、東へ流布してこの作品(注:「摂州合邦辻」のこと)に結実したともいわれています」と書かれていました。エウリピデスの『ヒッポリュトス』の初演は紀元前428年の春ですから、これは『今昔物語集』の説話に登場するアショカ王の在位(紀元前268年から232年)より200年も前になります。両者に共通するインドの説話があったかどうか、ぽん太には確認するすべはありません。しかしぽん太には、どっちが先でどっちに後から伝わったかを云々するよりは、継母が継子に恋をするという話しが、人類に共通する説話の類型なのだと考える方が自然なような気がします。

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2007/12/18

【文学】継母が継子に恋をする話し。歌舞伎の「摂州合邦辻」と今昔物語集の「拘那羅太子、眼を抉り法力に依りて眼を得る語」

 ぽん太が11月に歌舞伎の「摂州合邦辻」(せっしゅうがっぽうがつじ)を見た話しは、以前の記事で書きました(【歌舞伎】国立劇場「摂州合邦辻」)。そのとき、継母が継子を愛するというこの物語は、古くはインドの説話として『今昔物語集』に収録され、その後もさまざまに形を変えながら語り継がれていることを知りました。またギリシア悲劇でも似たような話しがあり、ラシーヌの『フェードル』という名作を生んだとのことでした。
 今回は、そのへんから散歩を始め、あちこちでみちくさしてみましょう。

 まず「摂州合邦辻」の復習です。あらすじをまとめるのは面倒なので、たとえばこちらの「人形浄瑠璃文楽」のページや、「歌舞伎文庫」のページを参照して下さい。テキストを読みたい方は、『新版歌祭文ー摂州合邦辻・ひらかな盛衰記』(織田紘二編、白水社、2001年)が手に入りやすいです。

 さて『今昔物語』です。ぽん太が読んだのは、安価な講談社学術文庫版です(『今昔物語集 4 (4) (講談社学術文庫 308)』国東文磨訳注、講談社、1981年)。第4巻の第4に、「拘那羅太子、眼を抉り法力に依りて眼を得る語」というのがあります。読みがなを付けると、「拘那羅(くなら)太子、眼(まなこ)を抉(くじ)り法力(ほうりき)に依りて眼を得(う)る語(こと)」だそうです。
 あらすじですが、今は昔、天竺の阿育王(あいくおう)に拘那羅(くなら)という名の太子がおりました。継母の帝尸羅叉(たいしらしゃ)は拘那羅に愛欲を抱き、太子の居間に忍び込んで思いを遂げようとしますが、拒絶されます。そのことで太子を恨んだ継母は、夫の阿育王に「太子が自分に恋心を抱いている」と訴えます。王は后の嘘を見破り、太子に遠い国を与えてそこに住まわせます。しかし怒りの収まらない后は、「太子の両目をえぐって国外に追放せよ」という偽りの王の命令を発します。盲目となった太子は妻を連れて流浪の旅に出ますが、いつしか生まれ故郷にたどり着きます。姿形は変わり果てたものの、太子の弾く琴の音で、王はそれが息子であることに気がつきます。真実を知った王は后を罰しようとしますが、太子はそれを制します。寠沙(くしゃ)大羅漢が貴い説法をし、それを聞いた人々が流した涙を集めて太子の眼を洗うと、再び光を取り戻しました。王は関係者を処罰し、太子が眼をえぐったところに塔を建てましたが、そこに盲人がお参りすると眼が見えるようになった。
 阿育王とは、アショカ王のことで、在位は紀元前268年から232年です。ですからこの伝説が事実であったとしたらこの時代まで遡れますが、おそらくそれ以後に作られた伝説でしょう。もちろんこれに似た説話が、アショカ王の時代以前からインドに伝わっていた可能性もあります。
 この説話では、継母が継子に恋をするという点が「摂州合邦辻」と共通ですが、拒否された継母は継子に直ちに恨みを抱き、その恨みから太子の眼をえぐらせます。「摂州合邦辻」では、継母の玉手御前は拒否されても継子の俊徳丸に恋心を抱き続けます。玉手御前が俊徳丸に毒を盛って盲目にさせた理由は、俊徳丸が醜くなることによって、許嫁の浅香姫から嫌われるようもくろんだからです(最後にどんでんがえしがありますが……)。
 盲目となった継子が身をやつしてさまよう点は両方に共通しており、折口信夫はこのように高貴な生まれの人間が身をやつしてさまよう」という物語を日本文学の原型のひとつとして捉え、貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)と呼びました。wikipediaによれば、「のだめカンタービレ」も千秋真一の貴種流離譚とみなせるのだそうです。
 さて、『今昔物語集』では、太子の眼は仏教の霊験によって元通りとなり、仏教のありがたさが強調されます。「摂州……」の方では、実はすべては継母玉手御前が深い思慮によって仕組んだことが明らかとなり、玉手が我が身を犠牲にすることによって俊徳丸の眼が開き、継母の慈愛が誉めたたえられます。継子を愛するという家族制度の侵犯を行った玉手御前が、実は自分を犠牲にしても家族制度を守ろうとしていたというテーマは、1773年(安永2年)の初演時にはおそらくありがたい話しだったと思われますが、現代ではちと納得できない部分があります。

 『今昔物語集』のこの説話は、中世には説教『しんとく丸』と能『弱法師』(よろぼし)を生み出すことになるのですが、今日のところはここまでに。

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2007/12/14

【歌舞伎】2007年12月歌舞伎座夜の部「寺子屋」「粟餅」「ふるあめりかに袖はぬらさじ」

 午前中の雨も上がった銀座の街に、今年の歌舞伎の見納めに出かけてきました。今回は、海老蔵と玉三郎の喜劇二つで、三津五郎の踊りを挟んだ演目。海老蔵が何をやってくれるかわくわくしながら行ったのですが、期待にそむかず楽しませてくれました。
 最初は「寺子屋」。花道を海老蔵が深刻そうな顔をしながら出てきます。なんかおかしいです。家に入って、子どもたちの顔をじっと見つめます。なんかおかしいです。戸浪が小太郎を引き合わせます。すぐ横にいるのに海老蔵の目には入らぬ様子。突然気がついて、すんごい顔して目玉をひんむいてびっくり仰天。驚き過ぎやろ! 顔はかっこいいのになんでかな〜。恐いもの見たさで1月の新橋の切符も買ってしまいました。頑張れ海老蔵!
 勘三郎の松王丸は、前半ではあまり大きさを感じませんでしたが、後半の心情を吐露する部分がとてもよく、涙があふれてきました。福助も抑えた演技で悪くなし。勘太郎は相手が相手なのでいいのか悪いのかよくわかりませんでした。
 「粟餅」は、軽く明るい所作事。三津五郎と橋之助の踊りも完成された芸で、安心してみてられました。
 「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は、戦後に作られた有吉佐和子の有名な芝居の、歌舞伎座初演だそうです。あまり期待しないで見たのですが、意外や意外、とてもおもしろかったです。とにかく戯曲がすばらしい。亀遊と藤吉の淡い恋、イルウスと岩亀楼主人と唐人口のドタバタ、「亀勇の死」を滔々と語るお園、ラストの寂寥感など、演劇的な見所のフルコース。また、女性から見た男性のしょ〜もなさが実によく描かれていて、男のぽん太から見ても、「あるよな〜」という感じでした。亀遊に恋心を抱いていながら志のためにアメリカに渡ろうとする藤吉。また藤吉は、浪人客に脅されたお園が口から出任せで烈女亀勇の最後の物語を語ったのを聞いて、「(亀遊の死に対する)後ろめたさがなくなりました」と言い出す始末(「をひをひ、お前もかい」とツッコミたくなりました)。思誠塾の面々は、正義だ思想だ政治だなんのと理屈を振りかざし、お園を脅しつけて帰って行きますが、そのくせけっして自分たちは、大橋先生とお園の関わりや亀遊の死などの真実を手に入れることはできません。
 「亀遊の死」という現実の周りにさまざまな言葉が紡ぎだされて上滑りし、それに人々が踊らされていくさまは、ラカンの精神分析をも思わせます、などと精神科医っぽいコメントも付け加えてみます。
 「歌舞伎」としてやる意味があるかどうかという問題はありますが、ぽん太はこれまでの歌舞伎以外の上演を見ていないので、何とも言えません。ただ、せっかく歌舞伎でやるのなら花道を使って欲しいと思いました。とはいえ、玉三郎以下一座総出演の熱演でおおいに盛り上がり、今年の最後を飾るにふさわしい舞台でした。

1、菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)寺子屋
             松王丸  勘三郎
            武部源蔵  海老蔵
            春藤玄蕃  市 蔵
          涎くり与太郎  亀 蔵
            百姓吾作  寿 猿
          御台園生の前  松 也
              戸浪  勘太郎
              千代  福 助
2、粟餅(あわもち)
              杵造  三津五郎
              臼造  橋之助
3、ふるあめりかに袖はぬらさじ(ふるあめりかにそではぬらさじ)
            芸者お園  玉三郎
            通辞藤吉  獅 童
            遊女亀遊  七之助
          唐人口マリア  福 助
            イルウス  彌十郎
           浪人客梅沢  権十郎
            同 佐藤  海老蔵
            同 堂前  右 近
             大種屋  市 蔵
            幇間和中  猿 弥
         唐人口チェリー  吉 弥
          同  メリー  笑 也
          同バタフライ  松 也
          同  ピーチ  新 悟
            芸者 奴  笑三郎
            同 太郎  春 猿
            帳場定吉  寿 猿
           旦那三河屋  男女蔵
           同 駿河屋  亀 蔵
           同 伊東屋  友右衛門
          思誠塾多賀谷  段治郎
           同  飯塚  勘太郎
           同  松本  門之助
           同  小山  橋之助
           同  岡田  三津五郎
           岩亀楼主人  勘三郎

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2007/12/13

【雑学】太宰治、パビナール中毒、精神病院

 (本日の記事は、ネットの情報をもとに書いたため、事実と異なる可能性もあります。参照したサイトは本文中でリンクを張っています。)
 ここのところ太宰治を巡ってみちくさしていたぽん太ですが、太宰治が精神病院に入院したことがあると聞いて、興味がわいてきました。
 太宰治は、1935年(昭和10年)4月4日(25歳)に盲腸炎から腹膜炎を起こして阿佐ヶ谷の篠原病院に入院しました(『川端康成へ』)。ここで鎮痛剤として使われたパビナールに対して、太宰は依存症となったようです。
 パビナールは、こちらの添付文書情報からもわかるように、アヘンアルカロイドを成分とする鎮痛剤で、薬物依存の危険性があります。現在では武田薬品が製造販売しているようですが、なぜか武田薬品の医療用医薬品情報には含まれていません。どうしてでしょう? 最近はさすがにパビナール依存はあまり聞きませんが、鎮痛剤ペンタゾシン依存は少なくなく、夜中の救急を訪れては注射を要求する人が後を絶ちません。
 アヘンや、アヘンに含まれるモルヒネやコデインなどのアヘンアルカロイド、モルヒネから製造させるヘロインの依存症の症状、治療などに関しては、たとえばこちらの麻薬・覚せい剤乱用防止センターのサイトをご覧下さい。
 また、太宰が篠原病院に入院していたとき、同郷で太宰の義弟でもあった画学生小館善四郎が自殺未遂で篠原病院に入院していましたが、太宰を見舞いに来た妻の小山初代と姦通事件を起こし、それが1937年3月に発覚し、群馬県の水上温泉での太宰と初代との心中未遂事件につながりました。
 篠原病院は、こちらの東京紅團のページによれば、篠原外科整形外科として近年まで診療をしていたようですが、現在は閉院して篠原ビルとなっているようです。
 5月1日に太宰は、世田谷の経堂病院に転院しました。この病院は児玉経堂病院として現在も診療を続けているようです。東京紅團のページには、当時のままという趣きある建物の写真も出ています。
 6月30日(7月1日?)に退院した太宰は、転地療養のため千葉県船橋市に転居しますが、そこでもさらに依存は強まったようです。
 1936年2月、太宰は佐藤春夫の手引で済生会芝病院に入院します。江戸時代の有馬屋敷の跡に造られ、現在は東京都済生会中央病院となっている済生会芝病院に関しては、ぽん太は以前の記事「【江戸】永井荷風も有馬屋敷跡を探検していた」で書いたことがあります。
 しかし退院後も薬を断ち切ることはできず、10月13日に東京武蔵野病院に入院となります。こんどは精神病院(当時は脳病院といったか?)で、最初の2日は開放病棟でしたが、その後は閉鎖病棟に移されたようです。近藤富枝の『水上心中』にそのときの様子が書かれています。退院は11月12日。約1ヶ月の入院ですから、離脱のみの治療だったと思われます。当時の「依存」に対する治療はどのようなものだったのでしょうか? ちょっと興味がありますが、またの機会に。
  入院体験をもとに、太宰は『HUMAN LOST』という小説を1937年4月に発表しています。

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2007/12/12

【温泉】レトロな雰囲気の安田屋旅館(★★★★)と太宰治の『斜陽』

安田屋旅館 ぽん太とにゃん子は11月、西伊豆の安田屋旅館に泊まってきました。安田屋旅館は、なんといっても国の登録有形文化財に指定された古い建物が魅力。太宰治が宿泊して『斜陽』を執筆した部屋が、現在も残っています。こちらが安田屋旅館の公式サイトです。
三津浜の富士 この宿があるのは西伊豆の三津浜。入り江にはヨットが立ち並び、あわしまマリンパークも近く、現代的なマリンレジャーの雰囲気のなかに、そこだけ時代が止まったかのように古い数寄屋風の建物があります。
『斜陽』執筆の部屋 こちらが太宰治が逗留し、『斜陽』の第1章と第2章を執筆した部屋です。現在は太宰治にちなんで「月見草」という名前がつけられていますが、当時は「松の弐」という部屋だったそうです。
安田屋旅館 ぽん太とにゃん子が泊めていただいたのはこちらの部屋。「月見草」の真下になります。落ち着く和室で、窓からは夕日に赤く染まった富士山が望めます。
安田屋旅館 廊下には畳が敷かれています。宿の前に立てられていた沼津教育委員会の案内板によると、安田屋旅館の創業は明治二十年。政治家尾崎行雄もここを訪れて、「対岳楼」と名付けたそうです。木造総二階建の建物は、松棟が大正7年、月棟が昭和6年の建築で、平成12年に国の登録有形文化財に指定されたそうです。
安田屋旅館安田屋旅館 お風呂は新しい建物の別棟にあります。露天つきの内風呂が2セットあり、時間で男女入れ替わりとなります。写真は石とタイルの「富嶽の湯」と露天風呂の「満願」。新しくてムードはあまりなく、露天も狭くて開放感がありません。お湯は無色透明のやわらかいお湯ですが、塩素臭が気になりました。
安田屋旅館安田屋旅館 こちらが内湯の「桜桃の湯」と露天の「思い出」。木の香りが漂う木造の浴槽です。
安田屋旅館の夕食安田屋旅館の安田屋旅館の 夕食は、鯛の薄造りに始まる手の込んだおいしい会席料理。
安田屋旅館の朝食 朝食もアジの干物がみずみずしてくおいしかったです。
 サービスもアットホームでよかったです。秋の観光シーズンでしたが幸い団体さんも宿泊しておらず、静かな西伊豆の晩秋を味わうことができました。これで温泉力があれば大満足なのですが。

 さて、東京の巣穴に戻ってから、太宰治の『斜陽』を読み返してみました。第1章と第2章を安田屋旅館で書いたといいますが、この旅館は残念ながら小説のなかにはでてきません。ただ、小説の舞台となっている別荘について、「三島で駿豆鉄道にのりかえ、伊豆長岡で下車して、それからバスで十五分くらいで降りてから山のほうに向かって、ゆるやかな坂道をのぼって行くと、小さい部落があって、その部落のはずれに、支那風のちょっとこった山荘があった」と書いてあります。こちらの安田屋旅館の交通案内にあるように、この旅館はまさに「伊豆長岡で下車して、それからバスで十五分くらい」のところにあります。安田屋旅館から山に少し入ったあたりに、舞台が設定されているのかもしれません。
 ところで、太宰治が安田屋旅館に泊まったのは、戦後間もない1947年(昭和22年)2月です。太宰がぽん太の巣穴にほど近い玉川上水に入水心中をしたのが1948年(昭和23年)6月13日ですから、自殺の1年ちょっと前になります。1947年の2月21日、太宰は、小田原の下曽我にある大雄山荘に疎開していた太田静子を訪ね、そこに5日間滞在しました。この間に静子は、太宰の子供(治子)を宿します。またここで太宰は、静子が太宰に勧められて書きためていた日記を受け取ります。この日記が『斜陽』の素材となったことは有名です。太宰は2月26日、三津浜に友人の田中英光の疎開先を訪ね、その向かいにあった安田屋旅館に宿泊します。そして早くも3月6日には『斜陽』の第1章と第2章を書き上げます。
 太宰の自殺直後の1948年8月1日、井伏鱒二らが太田静子を訪ね、十万円を渡して「太宰治ノ名誉及ビ作品ニ関スル言動(ヲ傷ツケルヤウナ言動)(新聞・雑誌ニ談話及ビ手記発表)ヲ一切ツツシムコト」という誓約書を取りました。しかし静子は、同年の10月にこの誓約を破って『斜陽日記 』を出版します。これを読んでみると、確かに『斜陽』と非常に似ていて、蛇の卵を焼くエピソードなどもそのまんま含まれています。太宰が静子の日記をどのように利用し、どのようなオリジナリティを付け加えたのかは興味あるテーマですが、そこまでみちくさするはぽん太の手に余りそうです。

【参考リンク】
太宰治が「斜陽」を書いた安田屋旅館:鉄道写真家・中井精也の読売新聞の記事。
安田屋旅館ー日本温泉遺産を守る会:ご存知、温泉達人野口悦男が代表を務める日本温泉遺産を守る会のページ。
東京紅團:文学散歩の情報が豊富。メニューから「太宰治を巡って」の「三島・三津浜を歩く」をご覧下さい。

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2007/12/10

【バレエ】ギエム姐さんの筋肉質の足にホレる(シルヴィ・ギエム・オン・ステージ2007)

 ぽん太とにゃん子は昨日バレエを見に上野に行ってきました。バレエ初心者のぽん太とにゃん子は、ギエムを見るのは初めてでした。
 まずは「白鳥の湖」。東京バレエ団の白鳥たちを従え、アダージオを踊りました。体が引き締まっていて、手足を思い通りにコントロールしている感じで、身体能力の高さが感じられました。女性的な柔らかい色気には欠けましたが、ひとつひとつのポジシオンや手足の細かい動きは美しく、すっかり魅了され……そうになったところでコーダとなりあっという間に終了。始まってから15分しかたっていないのに、ここで15分の休憩です。せめてもう一曲ソロでも入れて欲しかった。
 次に東京バレエ団で「ステッピング・ストーンズ」。頑張って踊っているのはわかるけど単調で、たいへん申し訳ありませんが睡魔に教われました。
 「優しい嘘」は、ルグリのスーパーバレエレッスンで見たはずなのに、まったく記憶になし。恐るべし、狸脳。切れのいい動きと躍動感に「をを!」と目を見開くうちに、これももまたあっという間に終了。
 最後の「Push」は、振付けをしたマリファントとの踊り。手足を絡ませたり、相手の体を支えにしたり、回転の軸にしたりして互いの位置関係を変えながらも、二人が全体として重心のバランスを保っていくという、力学的にとてもおもしろい不思議なダンスで、なにか武道を見ているような印象を受けました。ぽん太はこのような舞踏は生まれて初めてだったので、とても引き込まれました。赤毛のショートヘアと、短いスカートから伸びた鍛え抜かれたアスリートのような筋肉質の足。ギエム姐さんの中性的な魅力にぽん太はホレやした。
 ただ、全部で2時間はやはり短く、ちと食べ足りない気がしました。

東京バレエ団全国縦断公演
<シルヴィ・ギエム・オン・ステージ2007>
シルヴィ・ギエム、進化する伝説
<Aプロ>
2007年12月9日(日) 2:00 pm 会場:東京文化会館
1、白鳥の湖 第2幕より
振付:マリウス・プティパ、レフ・イワーノフ、アレクサンドル・ゴールスキー、イーゴリ・スミルノフ
音楽:ピョートル・I.チャイコフスキー

オデット: シルヴィ・ギエム
ジークフリート王子: ニコラ・ル・リッシュ
白鳥たち: 森志織‐村上美香‐岸本夏未‐河合眞里
西村真由美‐乾友子‐田中結子
ほか、東京バレエ団
 
2、ステッピング・ストーンズ
振付:イリ・キリアン  音楽:ジョン・ケージ、アントン・ウェーベルン

佐伯知香‐高木綾‐田中結子‐吉川留衣
大嶋正樹‐松下裕次‐長瀬直義‐横内国弘
 
3、優しい嘘
振付:イリ・キリアン  音楽:クラウディオ・モンテヴェルディ、カルロ・ジェズアルド、グレゴリオ聖歌

シルヴィ・ギエム  ニコラ・ルリッシュ
 
4、Push
振付:ラッセル・マリファント  音楽:アンディ・カウトン

シルヴィ・ギエム  ラッセル・マリファント

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2007/12/09

【オペラ】ドレスデン国立歌劇場「ばらの騎士」

 先月末、ぽん太とにゃん子は、NHKホールにドレスデン国立歌劇場の「ばらの騎士」を見に行ってきました。
 オペラ初心者のぽん太は、リヒャルト・シュトラウスといえば、いくつかの交響詩や「サロメ」は耳にしたことがあるものの、「ばらの騎士」はまったく初めてで、きっと例によって難解なオペラだろうと思っておりました。そこで『DVD BOOK 魅惑のオペラ 10 ばらの騎士 』(小学館)を買って、予習をしました。そしたら、な、なんと、わかりやすくて笑える楽しいオペラではないか。これまでのぽん太のリヒャルト・シュトラウスのイメージと違って、音楽も筋立ても大衆向きであることに驚きました。

 当日、NHKホールの前の道はストリート・ミュージシャンでいっぱい。ちょっと早く着いたので、鑑賞しながら行きました。若い男の子や女の子が一生懸命歌ったり踊ったりしていて、オジサンにはかわいらしく見えました。特にホールの入り口のところで歌っていたBUZZ、愛らしかったです。ちなみにオジサンの好みはshukuちゃんです。
 さて、第1幕の舞台装置は、前述のDVDブックに載っていた、ウィーンでのアルフレート・ロラーのものに似ていました。でも時代は現代に設定されているようでした。ググってみると、誰かのブログに、プログラムによれば原作の登場人物の子孫たちが主人公だとか書いてありましたが、ぽん太はお金をケチってプログラムを買わなかったのでよくわかりません。
 元帥夫人とオクタヴィアンのすばらしい歌声を堪能。男爵のコミカルな演技や、イタリア歌手の歌もよかったです。古風な舞台装置もあいまって、18世紀ウィーンの明るく華やかで軽妙洒脱な雰囲気を楽しめました。
 第2幕は、日本人の森麻季が登場。かわいらしいけど、やはりちょっと声量がないような。二重唱ではヴォンドゥングが声を落として合わせていたようで、ちと迫力に欠けてました。才能ある歌手なのかもしれませんが、高いお金を払ってドレスデン国立歌劇場を見に行って、日本人の歌を聞くというのは「なんだかな〜」という感じです。たとえばドイツ人が、日本の歌舞伎のドイツ公演を高いお金を払って見に行ったのにドイツ人が出演していたら、それがどんなに歌舞伎のうまいドイツ人であったとしても、イヤだと思うのですが……。
 また、この幕では、オックス男爵の酔っぱらった召使いが、小間使いの女性を相手にズボンを下げて下着を出すなどという顔を背けたくなる場面がありました。コミカルな場面へのグロテスクなものの突然の侵入に、演出家の「単なる楽しい娯楽にしたくない」という意志を感じました。
 第3幕は、地下室の廃墟のような舞台装置に、カーテンや小道具を整える場面からはじまり、「嘘くささ」が強調されます。混乱、喧噪、叫び声が繰り広げられ、明るいどんちゃんさわぎではなく、暗くグロテスクなカーニバル的雰囲気です。足下からの照明によって大騒ぎする人々の大きな影が壁にうつるシーンは、ドイツ表現主義的な不気味さを感じました。元帥夫人の「これで終わり」という言葉は、舞台のなかの意味以外に、「こんな明るく楽しいオペラはもう終わりよ」というダブルメッセージにも思われました。「ばらの騎士」が大成功をおさめ、観劇のための特別列車まで仕立てられたというユーゲント・シュティールの繁栄も終わり、第一次大戦の暗い時代へと向かっていくことを暗示しているような気がしたのです(考え過ぎか?)。さらに言えば、愛の「永遠」を信じる若い二人をいとおしみながらも、大人の元帥夫人には社会が戦争へと突入していく「時間」が見えており、見えていながらも暗い時代に向かって進んで行かざる終えない運命を悲しんでいるかのように感じました(考え過ぎか?)
 とても感動して、涙が止まりませんでした。オペラ初心者につき妄言多謝!

ドレスデン国立歌劇場「ばらの騎士」
2007年11月25日、NHKホール

作曲:リヒャルト・シュトラウス
台本:フーゴー・フォン・ホフマンスタール
指揮:ファビオ・ルイジ
演出:ウヴェ=エリック・ラウフェンベルク
舞台美術:クリストフ・シュビーガー
衣裳:ジェシカ・カーゲ
合唱指揮:ウルリッヒ・ペッツホルト

元帥夫人:アンネ・シュヴァンネヴィルムス 
オックス男爵:クルト・リドル
オクタヴィアン:アンケ・ヴォンドゥング
ファーニナル:ハンス=ヨアヒム・ケテルセン 
ゾフィー:森麻季

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2007/12/08

【グルメ】由比の井筒屋で桜えびを食す(★★★★★)

桜えびの井筒屋@由比 ぽん太とにゃん子は11月下旬、静岡県の由比に言ってきました。由比といえば、江戸時代は東海道の宿場として栄えましたが、現在では桜えびのメッカとして有名です。桜えびのシーズンは1年に2回あり、3月下旬から6月上旬が春のシーズン、10月下旬から12月下旬が秋のシーズンです。今回は秋のシーズンということで、桜えびを食べに行きました。
 前回に由比に行ったのは今年の6月で、そのときは「くらさわや」さんにお世話になったことは、以前の記事に書きました(由比のくらさわやで桜えびを堪能(★★★★★))。そこでは、由比や倉沢の宿、桜えび漁についても触れました。
 前回はくらさわやさんだったので、今回は井筒屋さんに行きました。公式サイトはなさそうです。例えばこちらのYahoo!グルメのページをご覧下さい。
井筒屋の由比定食 にゃん子が頼んだ由比定食です。かき揚げはかなり分厚いのですが、柔らかくてみずみずしくて美味しいです。天つゆもありますが、桜えび味の塩につけてもおいしいです。
井筒屋のかき揚げ天ざる ぽん太はお腹があまりすいていなかったので、かきあげ天ざるを頼みました。蕎麦はあまり香りがしませんでしたが、もちろんかき揚げは絶品で、桜えびが目的のぽん太とにゃん子は二人とも大満足でした。

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2007/12/07

【温泉】伊豆の踊子の宿・福田家は川端康成の世界(★★★★★)

伊豆の踊子の宿・福田家 11月下旬、ぽん太とにゃん子は、伊豆の踊子の宿・福田家に泊まってきました。こちらが福田家さんの公式サイトです。場所は、西伊豆の河津から自動車で10分ほど河津川を遡ったところにある湯ヶ野温泉です。車で宿の前まで行くことはできず、河津川のこちら側に車を停め、橋を渡っていきます。
 この宿は、「伊豆の踊子の宿」というのが売りです。『伊豆の踊子』という小説は、川端康成が一高時代の1918年(大正7年)に伊豆を旅したときの体験をもとに、1926年(大正15年・昭和元年)に書かれたものですが、この一高時代に泊まった宿というのがここなのです。ですから、『伊豆の踊子』を執筆した宿というのは別にあり、湯ヶ島の湯本館です。
川端康成が泊まった部屋@福田家 ここが川端康成が泊まった部屋です。1枚目の写真でいうと、橋の正面の2階で、福田家という看板がある部屋です。当日の宿泊客がいなかったので、内部を見せていただきました。
伊豆の踊子の宿・福田家 手すりの下部の透かし彫りの装飾です。富士に舟という伊豆らしい図案です。
太宰治が『東京八景』を執筆した部屋@福田家2 隣りには、太宰治が『東京八景』を執筆した部屋もありました。『東京八景』は「文学界」の1941年(昭和16年)1月号に発表されたので、泊まったのはその直前になるのでしょうか?
榧のマス風呂@福田家 宿の創業以来百二十数年使われている、榧(かや)のマス風呂です。風格があります。建物はコンクリートで造りかえられているようですが、レトロなタイルがムードがあります。もちろん源泉かけ流しです。お湯は無色透明で、少しスベスベ系です。
内湯@福田家露天風呂@福田家 こちらが露天風呂つきの内湯です。客が少なかったせいなのか、お風呂は夕方から早朝まで、どちらも貸切で入るシステムです。露天風呂つきの内湯を貸し切りで入るのは、なかなかの贅沢です。
福田家の夕食 夕食は、伊豆の幸、魚をふんだんに使ったお料理です。刺身に唐揚げ、そしてキンメダイの煮付けがうれしいです。
福田家の朝食 朝食もアジの開きが柔らかくておいしかったです。職員の応対も素朴で暖かくてよかったです。宿の評価は満点です。

 さて、川端康成の『伊豆の踊子』と聞いて、どんな小説だったか思い出そうとしたのですが、ぽん太の狸脳に浮かんで来たのは、山口百恵が裸で風呂から飛び出して手を振るシーンだけです。ところでこのYoutubeの動画、部屋や風呂が福田家さんとそっくりですが、ロケでしょうか、セットなのでしょうか。
 あまりに自分が情けなくなり、文庫本を買って読み返してみました。
 踊子一行とともに湯が島に着いた主人公は、踊子とは別の宿に案内されます。「私達は街道から石ころや路や石段を一町ばかり下りて、小川のほとりにある共同浴場の横の橋を渡った。橋の向こうは温泉宿の庭だった」。これが福田家さんですね。いまではこの共同浴場はなかったと思います。この共同浴場から山口百恵、じゃなくって踊子が裸で飛び出して来たわけですね。また主人公は、踊子一行が川向こうの料理屋のお座敷に呼ばれている物音を、悶々として聞いていたのですが、現在の宿の川向こうは、すっかり寂れていました。しかしこの『伊豆の踊子』という小説は、ひねくれた若者が踊子と接したことで素直な気持ちになるという話しで、なんかどうでもいい話しである。

 ついでに太宰治の『東京八景』も読んでみることにする。お読みになりたい方は、記事の下にある岩波文庫に収録されていますし、青空文庫で無料ダウンロードできます。『東京八景』は太宰治がこれまでの半生を振り返った作品のようですが、出だしは次のようになっています。
 「伊豆の南、温泉がわきでているというだけで、ほかには何一つとるところのない、つまらぬ山村である。戸数三十という感じである。こんなところは、宿泊料も安いであろうという、理由だけで、私はその索漠たる山村を選んだ。昭和十五年、七月三日の事である」
 う〜む。いくら太宰でも、この宿が川端康成の定宿だったということを知らないはずはないですよね。ぽん太は太宰治という作家はほとんど知らないのですが、彼特有のヒネクレなのか、それとも小説上のレトリックなのか。
 ところでこの本に書いてある、薬物依存になった太宰治が、1936年(昭和11年)に入院させられた板橋の脳病院はどこだ? 精神科医のぽん太は気になってきました。ググってみたら、ハハ〜ァ。これは奥が深そうなので、また日を改めてみちくさすることにしましょう。

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2007/12/06

【歌舞伎】2007年12月大歌舞伎午前の部(歌舞伎座)「鎌倉三代記」「信濃路紅葉鬼揃」「水天宮利生深川」

 ぽん太とにゃん子は、慌ただしい師走のなか一息つくために、歌舞伎を見に行ってきました。
 最初は「鎌倉三代記」。佐々木高綱を初役でつとめる三津五郎が、「芝翫型」と呼ばれる古い型を50年ぶりに復活させたのが目玉らしいのですが、歌舞伎歴の浅いぽん太はこの演目は初めてなので、そもそも「普通の型」がわかりません。しかし三津五郎演じる高綱の大きさに感心しました。
 2番目は「信濃路紅葉鬼揃」。新作だそうですが、玉三郎が「美女軍団と美男子を集めて舞台で舞ったらきれいで華やかでしょうね〜」と思って創ったに違いないとぽん太は思いました。前半の美女軍団の舞は、あまり動作がなく舞台上を動き回るばかりで、ちと退屈。十月大歌舞伎の「羽衣」もそうでしたが、なんか玉三郎は、抑制された動きのなかでの表現を追い求めているように思います。しかもそれは、能のような幽玄の世界ではなく、平安時代の神楽のような素朴でありながら神々しい世界のような気がします。確かに玉三郎は、ちょっとした動きが非常に美しく感じられるのですが、ほかの4人の美女にはちと荷が重かったような気がします。
 ところが後半になると、うってかわって、その他4人の鬼女のほうが動きが大きくきびきびしていました。特に後半要員かと思われる門之助がよかったです。玉三郎は体が華奢に見えるうえ、立ち振る舞いも大きさや切れがありません。顔も鬼女というよりはネコという感じで、不覚にも、先日テレビで見たブサイク猫のまこちゃんが頭に浮かんできました。
 海老蔵はあいかわらず美男子。勘太郎の山神の全身を使った勢いある踊りが舞台を引き締めていました。
 最後は「水天宮利生深川」でした。勘三郎の船津幸兵衛は初役とのこと。ぽん太は2006年3月の幸四郎の筆屋幸兵衛を見てブログに記事を書きました(「水天宮利生深川」と狂気)。また2007年2月に実際に水天宮を訪れたのをきっかけに、水天宮の場所がどのように変わったかを調べてみました(水天宮の場所の変遷)。さて、幸四郎の幸兵衛はなんだか滑稽さが目立ったのですが、今回の勘三郎では、哀れさや悲しみが強く感じられてぽん太の好みでした。隣りの家から聞こえてくる清元に思わずふらついたり耳を塞いだりする場面は、単に「金持ちの息子の誕生祝いの清元なんか聞きたくない」と理性的に判断しているのではなく、清元の音に理性がかき乱されて、一瞬狂気の深遠がぽっかりと口を開けたような、鬼気迫るものを感じました。ホントにこの精神的に追いつめられた状況での、清元の甲高い声と華やかな調子は、アブナイ感じがします。黙阿弥の作劇術には驚くばかりです。
 こんかい勘三郎は第2場を、河竹黙阿弥の原作に近いものに戻したとのこと。幸四郎の時に原作を読んで、舞台と原作が違うことを確認したのですが、原作は図書館から借りたもので手元にないので、ただちに再確認することはできません。たしか前回の幸四郎のときは、「や〜い親父のはげ頭」とはやし立てる部分や、「碇を抱いて飛び込むなんて、船弁慶だ」などという部分が無かったような気がするのですが、よく覚えていません。さらに、なんで黙阿弥の原作が変えられて上演されるようになったのか、という興味もわいてきました。
 金貸しに産着を持って行かれるまでの下りが、少し間延びしているような気がしました。清元が流れ始めた頃からテンポがでてきて、ぽん太は芝居に引き込まれていきました。鶴松君かわいい。

【演目と配役】
1、鎌倉三代記(かまくらさんだいき) 絹川村閑居の場
           佐々木高綱  三津五郎
          三浦之助義村  橋之助
             おくる  右之助
            阿波の局  歌 江
            讃岐の局  鐵之助
            富田六郎  亀 蔵
             母長門  秀 調
              時姫  福 助
2、信濃路紅葉鬼揃(しなのじもみじのおにぞろい)
              鬼女  玉三郎
              山神  勘太郎
              鬼女  門之助
               同  吉 弥
               同  笑 也
               同  笑三郎
               同  春 猿
             太刀持  弘太郎
              従者  猿 弥
              従者  右 近
             平維茂  海老蔵
3、水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)筆屋幸兵衛
  浄瑠璃「風狂川辺の芽柳」
           船津幸兵衛  勘三郎
           車夫三五郎  橋之助
          巡査民尾保守  獅 童
           金貸金兵衛  猿 弥
             娘お雪  鶴 松
          差配人与兵衛  市 蔵
         代言人茂栗安蔵  彌十郎
          萩原妻おむら  福 助

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2007/12/05

【温泉】箱根の環翠楼は歴史と風格を感じる老舗旅館(★★★★★)

環翠楼 山のホテルでスイーツに腹鼓、もとい舌鼓を打ったぽん太とにゃん子は、箱根の塔ノ沢にある老舗旅館、環翠楼に泊まりました。こちらが環翠楼の公式サイトです。政界の大物や文人が多く訪れた歴史ある宿で、「環翠楼」は伊藤博文の命名だそうです。
環翠楼 葉っぱを頭に乗っけて一回転。ま人間に化けて宿に入ります。黒光りした廊下、売店の雰囲気が見事です。
環翠楼 1階の洗面所です。レトロでいい感じで、涙が出そうです。建物は登録有形文化財に指定されています。
環翠楼 廊下の片隅にある給湯室です。涙が流れてきました。
環翠楼 こちらが客室。落ち着いた和室で、新しく改装されていて気持ちがいいです。予約は山側の部屋でしたが、空いているということで川側の部屋に換えてくれました。
環翠楼 お風呂は、男女別の内風呂、男女別の露天、二つの貸切家族風呂、岩盤浴があります。写真は男性内風呂の湯船です。タイルがレトロな雰囲気を醸し出します。内風呂が一番雰囲気があり、露天は景色はいいけれど新しくて小さいです。貸切風呂は、内湯の隣りにあるのはいい雰囲気ですが、3階の方は田舎の温泉旅館みたいでムードがありません。岩盤浴は別料金がかかることもあって省略しました。
環翠楼 露天風呂からの紅葉が見事でした。お湯は無色透明の柔らかいお湯です。全体にちょっとぬるめでした。
Pb280043Pb280045Pb280048 夕食は手の込んだ会席料理。できたてが次々と運ばれてきました。
Pb290053 朝食です。朝から茶碗蒸しがつきます。干物もジューシーでおいしかったです。
 環翠楼の建物は風格がありながらも、箱根の温泉という華やいだ雰囲気を持っていました。ぽん太とにゃん子は大満足、文句なしの5点満点です。ただひとつ希望を言えば、館内ツアーをしていただきたいと思います。4会の大広間や、伊藤博文の「環翠楼」の書も見たかったです。

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2007/12/04

【トリビア】ピネルは精神障害者を鎖から解放して……いなかった。

 ピネルといえば、近代精神医学の父と呼ばれる高名な精神科医であり、それまで鎖で繋がれていた精神障害者を鎖から解放した人物として有名であり、その様子は絵にも描かれている。しかし、実はピネルは精神障害者を鎖から解放して……いなかった。(へ〜え、へ〜え)

 はい、その通りです。ピネルは精神障害者を鎖から解放していません。それは、ジャック・オックマンの『精神医学の歴史』(阿部惠一郎訳、白水社[文庫クセジュ]、2007年)に書いてあります。
 「(ピネルは)1793年以降、ビセートル病院長に任命される。ここで彼は類いまれな人物で精神障害者の施設で管理人をしていたジャン=バチスト・ピュッサンに巡りあう。療養所に長期間居住していたピュッサンは、人道主義的でしかも明確な援助方法を作りあげていたので、ピネルは道徳療法を理論化するにあたって、ピュッサンから多くの示唆を受けている。精神障害者の拘束を緩和し、鎖を解き放ったのは、絵画などに描かれている有名なエピソードと異なり、ピネルではなく、彼がいなくなったのちにピュッサンが行ったのである」(15ページ)。

 し、知らなかった。ぽん太は過去の記事でどうどうとピネルが精神障害者を鎖から解放したと書いていました。よく見たら、Wikipediaにもちゃんと書いてあるやん。なになに、Wikipediaには、ピュッサンがビセートルの元患者だと書いてる。ほんまかいな。また新たな疑問が湧いてきました。

 ところでこの本はなかなか面白く、ぽん太が興味をもっている19世紀前半のフランスの精神医学の状況が書かれています。本書によれば、エスキロールらによる近代精神医学の確立は、精神科医が裁判に関与する権限の獲得と、表裏一体に行われたようです。そのためにエスキロールは、ピネルがすでに記録していた「部分的狂気」を「モノマニー」という概念で説明しました。
 これまでは犯罪は犯罪行為のみによって裁かれましたが、精神科医が精神鑑定を行って、モノマニー概念を使って責任無能力を認める権限を持つようになったため、モノマニー概念は激しい論争を引き起こしたそうです。そもそも裁判に精神科医が関わる必要があるのか、モノマニーは全体としては理性が保たれているのではないか、犯罪者の罪を軽減したら犯罪の抑止力が働かなくなるのではないか、あるいは狂人を装う者が出てくるのではないか、また裁判で無罪となった患者に対して結局精神科医は治療することができず、精神病院に収容するだけではないかなど、現在行われている議論とまったく同じようなことが論じられていたようです。
 1838年、フランスでは精神障害者を自由の制限などを定めた法律が作られました。この法律制定のために、エスキロールも力を尽くしたそうです。この法律では精神医学の専門性が認められ、精神科医に患者の自由の制限の権限を与え、精神科医に裁判への関与を認めました。この法律は、精神障害者の治療と、社会防衛との妥協の上に作られました。精神科医に与えられた権限に関して、その後もさまざまな議論が繰り広げられたそうです。

 近代精神医学が、その成立の当初から、犯罪責任能力の問題と結びついていたことがわかりました。しかし、なぜ両者のあいだに必然的な関係があるのかについては、ぽん太の狸脳ではいまだによくわかりません。

 もうひとつこの本で面白いのは、現代の精神学を「経済の時代」と呼んでいることです。長期入院をなくすこと、症状に的を絞って薬物療法と行動療法を行うこと、DSM-IIIの作成、社会的プログラムによるリハビリテーション、発達障害を心理や教育に任せることなどが、医療費の削減や、保険会社・製薬会社の要請などに結びつけられています。本書では詳しく分析されてはいるわけではなく、経済ですべてを説明できるわけではありませんが、現代の精神医療を過去に比べて「科学的に発展したもの」とみなす素朴で単純な考え方をしてはならないことは事実でしょう。

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2007/12/03

【スイーツ】山のホテルのサロン・ド・テ ロザージュで芦ノ湖の紅葉を見ながら優雅なコーヒータイム

サロン・ド・テ・ロザージュ 11月末、ぽん太とにゃん子は紅葉を見に、ベタな観光地の箱根に行ってきました。御殿場インターから乙女峠を通って箱根に入ると見事な紅葉です。芦ノ湖周辺は、ちょっと見頃を過ぎていました。
 まずは落ち葉を頭にのっけて一回転、「まっとうな人間」に化け、芦ノ湖畔の山のホテルのデザートレストラン「サロン・ド・テ ロザージュ」に入りました。
サロン・ド・テ・ロザージュ 山のホテルは、こちらの山のホテルの歴史というページに書かれているように、三菱4代目の社長の岩崎小彌太郎男爵が作った別荘の敷地にあります。足の湖畔にあるサロン・ド・テ ロザージュは、別荘時代は艇庫があった場所だそうで、芦ノ湖に突き出たように建っていて、眺めがいいです。
サロン・ド・テ・ロザージュ ちなみにrosageとは、フランス語でツツジやシャクナゲのことで、有名な庭園のツツジとシャクナゲにちなんで名付けられたのでしょうが、これらの花も別荘時代に植えられたものだそうです。
サロン・ド・テ・ロザージュ ぽん太とにゃん子はケーキセットと特製チョコレートサバランのセットを注文。ウェイトレスさんが色々なフルーツソースの入ったワゴンを持って来て、その場でお皿のうえにドレッサージュしてくれます。
サロン・ド・テ・ロザージュ こちらが完成品。お見事です。隣りのテーブルの子供には、動物の顔を造ってあげていました。ケーキセットはケーキを2つ選べるのがうれしいです。パッションショコラとフルーツタルトです。
サロン・ド・テ・ロザージュ こちらがチョコレートサバラン。甘すぎず上品なお味です。
 大満足で思わず気が緩んで出て来たタヌキのしっぽを、うっかり隣りの子供に見られてしまいました。

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2007/12/02

【ダイビング】伊豆海洋公園をディーフラットで堪能

 安良里で潜ったあと、伊豆の踊子の宿・福田家で一泊したぽん太とにゃん子は、ダイビングのメッカ伊豆海洋公園に向かいました。サービスは、IOPではいつもお世話になっているディーフラット。しばらくダイビングに縁遠かったぽん太とにゃん子は、3年ぶりのD♭体験です。
 なんと、いつの間にかガイドの津田さんが豪邸を建てているではないか。それも安藤忠雄を意識したコンクリート打ちっぱなし風とのこと。ムム、すごい。
 ぽん太とにゃん子はもう体力がないのであんまり深くはいかないでね、とお願いしたところ、なんと潜水時間が75分となる。あいかわらず体育会系の小物系という不思議なサービスである。
 では、いくつかの写真をご紹介いたしましょう。

キリンミノカサゴ幼魚@IOP キリンミノカサゴの幼魚です。大きさ3cm。まるでおもちゃです。
オオモンハタ幼魚@IOP8 オオモンハタの幼魚です。つぶらな瞳です。
ムラサキウミコチョウ@IOP ムラサキウミコチョウ。とてもきれいなウミウシです。
イロカエルアンコウ@IOP とっても小さなイロカエルアンコウです。
ギョウザヒラムシ@IOP ヒラムシの一種で、見たまんまギョウザヒラムシだそうです。初めて見るので、ピントがあってませんが写真を載せておきます。
キンギョハナダイに混ざって泳ぐオジサン幼魚 オジサンの幼魚が、キンギョハナダイの群れに混ざって泳いでいました。オジサンもキンギョハナダイもよくみかける魚ですが、一緒に泳ぐ様子は珍しい生態写真かと思います。
Pb230230 アジの群れでしょうか? IOPもキビナゴの群れが多く、カンパチやイナダが盛んにアタックをしかけていました。もちろん津田さんは全く興味を示しません。
クマドリカエルアンコウ@IOP クマドリカエルアンコウです。まるでケシゴム細工のようですね。
タテジマヤッコ幼魚@IOP おしまいはタテジマヤッコの幼魚の写真です。

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2007/12/01

【精神医学】河原俊雄「G・ビューヒナー研究 殺人者の言葉から始まった文学」をさらにみちくさする

 先日ネット上で発見した河原俊雄先生の論文「G・ビューヒナー研究  殺人者の言葉から始まった文学」をもう少し読んでみましょう。こちらから論文のpdfファイルがダウンロードできます
 ぽん太は文学論には興味がないのですが、1820年代、30年代のドイツの精神医学の状況に関しては興味があります。上記の論文の第四部、第二章で、それに触れられています。いくつかおもしろかった点をあげてみましょう。

 クラウゼは、1969年に出版された『ヴォイツェク』の解説において、1820年代、30年代に起こった殺人事件と、その精神鑑定書公開の年表を整理しているそうです。それからわかることは、当時のドイツには精神鑑定の制度があり、鑑定書やそれに対する批判が公にされていたという事実です。ヴォイツェク事件はこの時代、議論の中心だったようです。
 エーラー=クラインは1985年の論文で、フランツ・ガル(Franz Joseph Gall, 1758-1828)の学説とビュヒナーの作品の関連を論じているそうです。ガルといえば骨相学で有名です。骨相学は19世紀に広く流行し、ゲーテやヘーゲルにも影響を与えました。一方でガルは犯罪精神医学にも興味を持っていたそうで、部分的精神病(patriale Geisteskrankheit)が脳の機能障害(die Funktionsstörung)によって起こる病気あると考え、殺人・窃盗・放火などの犯罪を解釈していたのだそうです。ガルは有名なひとですが、ぽん太は彼のことはほとんど知らないので、そのうちみちくさしたいです。
 さらにゼーリング=ディーツは、2000年の論文『宗教的メランコリーの症例の再構築としてのビューヒナーの<レンツ>』において、1820年代、30年代のドイツでは、精神の部分的錯乱(die psychsche Partialstörung)の解釈を巡って「精神派」(Psychiker)と身体派(Somatiker)の論争があったと述べております。精神派は、キリスト教的な「意志の自由」という原則から、精神障害を個人の過失(selbstverschuldet)とみなしましたが、身体派は、ピネルやエスキロールの影響を受け、部分的な精神錯乱の原因を身体的な病(eine körperliche Krankheit)とみなしたそうです。

 ふむふむ、これはそのうち、精神鑑定の歴史をみちくさする必要がありそうです。なにかいい本はあるかしら。

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