« 【温泉】忠治温泉「旅籠 忠治館」は上州の雰囲気があふれる宿(★★★★) | トップページ | 絶景また絶景の快適な旅【青蔵鉄道で行く冬のチベット(1)】 »

2007/12/30

【神社】赤城神社をみちくさしてみた

 ぽん太とにゃん子は、忠治温泉忠治館に泊まった翌日、近くの赤城神社をみちくさして参りました。場所はここ(Yahoo!地図)です。
赤城神社 大きな木製の鳥居があり、境内は木がうっそうと生い茂っていて、けっこうな杉の大木もあります。有名な名水なのでしょうか、湧き水をポリタンクに大量に汲んでいるひとたちもいました。
赤城神社 本殿はあまり古いものではなさそうですが、なかなか立派です。神楽殿などもあります。
赤城山松並木 赤城神社の参道にある松並木です。案内の看板には次のように書いてあります。「参道松並木の起源については、赤城神社「年代記」に記されており、慶長17年(1612年)に大前田村川東の彦兵衛が、松苗木を太田の金山より取り、寄進したといわれています。」赤松と黒松を混ぜて、全部で1200本あるそうです。これだけの松並木が寄進されたということは、江戸時代初期はかなりの信仰を集めていたのでしょう。

 さて、赤城神社の御祭神や御由緒はどうなっているのでしょうか。公式サイトは残念ながらなさそうです。境内の立て札には次のように書いてありました。

赤城神社(正一位 上野国神名帳)
 赤城神社は群馬県内は基より、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県の各地に三〇〇余ある分社の総本社です。古代、崇高な赤城山と水源である沼の神霊を自然崇拝の対象に、農耕の神、東国開拓の神々の大己貴命、豊城入彦命を主祭神に祀り、創建は崇神天皇の御世と伝えられています。延喜式神名帳には上野国三大明神の一つに列せられる古社(延喜式内社)です。
 上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ
と金槐集の源実朝の歌にもあるように、将軍をはじめ武将達が崇敬したばかりでなく、一般の人の信仰を集めました。また、神道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には、
「もと赤城神は一宮であったが、はたを織っているときに「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり、自分は二宮になった。」
ということが見えています。その頃は、一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰を集めていたから、このような伝説が起こったのでしょう。

 確かに「赤城神社」は各地にあり、東京では神楽坂にあるのが有名です(公式サイトはこちら)。赤城神社が、赤城山に対する自然信仰と、農耕の神に起源を持つというのも納得できます。
 大己貴命は「おおあなむちのみこと」と読みますが、有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名で、『日本書紀』に出てきます。『古事記』では「大穴牟遅神」と書かれ、「おほなむぢのかみ」と読むようです。
 豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)は崇神天皇の息子であることが『日本書紀』に書かれています。崇神天皇は、豊城入彦命と、腹違いの兄弟の活目尊(いくめのみこと)のどちらを跡継ぎにすべきか迷い、それぞれが見た夢で占うことにしました。豊城入彦命が見た夢は、「御諸山(みもろやま)に登って東に向い、八回槍を突き、八回刀を振った」というものでした。一方活目尊は、「御諸山に登って四方に縄を張り、粟をついばむ雀を追い払った」という夢を見ました。それを聞いた崇神天皇は、「豊城入彦命は東に向って武器をふるったので、東国を治めるのによいだろう。活目尊は四方に気を配って稔りを考えたので、国を治めるのにいいだろう」と考え、活目尊に後を継がせ(つまり垂仁天皇)、豊城入彦命には東国を治めさせました。「これが上毛野君(かみつけのきみ)・下毛野君(しもつけのきみ)の先祖である」と書かれています。群馬県は古くは「上毛野」(かみつけの・こうづけの)と呼ばれ、江戸時代には「上野国」(こうづけのくに)と改名されて上州(じょうしゅう)と略され、現在でも上毛(じょうもう)という呼び方をする(新幹線に上毛高原という駅がありますよね)ことは、たとえばこちらの前橋のバー・リクカワのサイトにも出ています。赤城神社が崇神天皇の時代に造られたということと、豊城入彦命が御祭神であることは、つじつまがあっているように思われます。またさらに『日本書紀』によれば、崇神天皇の御代に疫病が流行って国が荒れたため、大物主神と大国魂神(おおくにたまのかみ=大国主命)を祀ったと書いてあります。赤城神社のもう一柱の御祭神が大国主命であることと関連しているかもしれません。
 しかし、ぽん太が以前のブログ(【宗教】神仏分離についてちと勉強してみる)で書いたように、現在の神社の御祭神は、明治の神仏分離で変えられていることが多いので、この立て札に書かれた歴史が、江戸時代以前から伝わるものか、明治以降につくられたものなのかは、判断を保留する必要があります。
 延喜式神名帳とは、927年(延長5年)に作られた『延喜式』の巻九・十のことです(wikipediaはこちら)。当時、官舎であった神社の一覧表で、これに載っていることは神社の格となり、そのような神社は「式内社」とか「式社」とか呼ばれます。ところが、延喜式神名帳に載っていた神社が現在のどの神社なのかというのは、いろいろと問題があります。たとえば赤城神社に関しても、赤城山頂付近にある富士見村の赤城神社(公式サイトはこちら)と、前橋市二之宮町の赤城神社(たとえばこちらの「玄松子の記憶」というサイトのページをご覧下さい)が、式内社の後裔を主張しています。このように、式内社の後裔と思われる神社が複数あるとき、これらを「論社」と言います。三つの論社の由来をほじくりだして比較検討するのは、みちくさの範囲を超えております。
 『金槐和歌集』のみちくさもまたの機会に。
 貫前神というのは、富岡市にある貫前神社ですね。公式サイトはこちらです。

|

« 【温泉】忠治温泉「旅籠 忠治館」は上州の雰囲気があふれる宿(★★★★) | トップページ | 絶景また絶景の快適な旅【青蔵鉄道で行く冬のチベット(1)】 »

旅・宿・温泉」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 【神社】赤城神社をみちくさしてみた:

« 【温泉】忠治温泉「旅籠 忠治館」は上州の雰囲気があふれる宿(★★★★) | トップページ | 絶景また絶景の快適な旅【青蔵鉄道で行く冬のチベット(1)】 »