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2008年1月の15件の記事

2008/01/27

ぐふふ、若い兄ちゃんの女形もええなあ(早乙女太一『蒼伝説を舞う』グリーンホール相模大野2008年1月24日)

 妻のにゃん子が「みたいにゃ〜、みたいにゃ〜」と鳴いてうるさいので、相模大野まで早乙女太一を観に言ってきました。駅を出ると既にオバ、いやオクサマ方でいっぱい。列をなしてホールに流れ込んでいきます。客席の男性比率は1%以下。とっても恥ずかしかったです。こちらが早乙女太一のオフィシャル・サイトです。
 公演は2部に別れており、第1部は芝居、第2部は舞踊ショーです。まずは新相馬節にのって幕が開き、太一くんが任侠姿の男役で登場です。しゃべり方も含め、いまどきの若い男の子という感じでかわいいです。筋は、太一くん扮する渡世人が、小さいころ生き別れになった母親に会いにいくが「金目当ての語り」となじられ、あとで本当の息子だとわかった母親が追いかける声を聞きながらも、太一くんはまたさすらいの旅に出ていく、というベタなものです。パンフレットを買わなかったもので、あとでググってみたら、『相馬の千太郎』という題のようです。ふだん歌舞伎を見慣れたぽん太は、殺陣が目にも留まらぬ早業なのにびっくりしました。
 休憩を挟んでいよいよお待ちかねの第2部。太一くん、女形の着物姿で登場!か、かわいいです。いにしえの梅沢富美男のような妖艶な大人の色気はありませんが、初々しい若い娘という感じで、これはこれでイイ!あらすじはよく分かりませんでしたが、何回か衣装替えもあり、大満足でした。仕草も女らしく、踊りも上手で、ただかわいいだけではありません。これで現在16歳とのこと。先が楽しみです。
 劇団の名前は「劇団朱雀」(げきだんすじゃく)というそうです。こちらが劇団朱雀の公式サイトです。座長の葵陽之介がお父さん、団員の鈴花奈々がお母さんだそうです。

 思えば歌舞伎も、1603年(慶長8年)に京都で阿国の歌舞伎踊りが大流行。やがて京都の遊女たちが真似をして四条河原で踊りだし、そのまま客を引いて遊郭の出店のようになったため、幕府は1629年(寛永6年)に女歌舞伎を禁止しました。ところがその結果流行したのが若衆歌舞伎。美少年が女装して踊るという、かえって妖しくアブナいものになってしまい、1652年(承応元年)には若衆歌舞伎も禁止されます。こうして成年男子による歌舞伎が誕生し、現在まで続いているわけです。
 ここはひとつ国立劇場あたりで、日本の伝統芸能の復活ということで、若衆歌舞伎を上演してみてはどうでしょうか?協賛ジャニーズ事務所ということで。大当たり間違いなしと思うのですが。

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2008/01/24

【演劇】二十数年ぶりの野田秀樹さまお懐かしゅうございます(NODA・MAP「キル」)

 目を覚ますとぽん太の巣穴のまわりは一面の雪景色でした。雪からかわった冷たい雨のなか、野田秀樹の「キル」を観に行ってきました。
 野田秀樹の芝居を見るのは実に二十数年ぶりです。1980年代の小劇場ブームの頃、夢の遊眠社を観て以来です。こちらの「野田地図」のサイトの「夢の遊眠社」の公演記録を見てみると、「小指の思い出」(第22回公演、1983年9〜10月)と「瓶詰めのナポレオン」(第23回公演、1984年1月)を観たようです。ほかに「野獣降臨」や「贋作・桜の森の満開の下」の記憶もあるのですが、舞台で観たのかテレビで観たのかよく覚えてません。ぽん太はその後、演劇からはすっかり遠ざかっていました。

 久々の野田秀樹で、「しばらく観ないうちにつまらなくなってたらやだな」などと思いながら行ったのですが、昔の遊眠社の世界そのままで、「をひをひ、ちっとも変わってないじゃ〜ん」という感じで、まるで旧友に久々に会ったような懐かしさでした。
 「キル/着る/切る/KILL」「羊毛/絹/麻」「征服/制服」「羊/西洋(羊)/羊水」などの言葉遊びのオンパレードに、ジンギスカンの史実、ファッション戦争を重ね合わせて、夢と現実が入り交じったような世界を創り上げるやり方は昔と同じ。さまざまな手法を使った目まぐるしい場面転換の連続も見事でした。舞台装置もシンプルで、小道具もいくつかの椅子がほとんどでしたが、それらをさまざまに見立てて、時には鏡像、時には船出、そして時にはモンゴルの大平原を演出しました。
 しかし題材やメッセージに関しては、1994年に初演された作品ということで、時代のずれを感じたのも確かです。ファッション業界を題材にして、有名ブランド名を出されても、「そんなバブルの時代もあったな〜」と隔世の感があります。また「いろいろなファッションを追い求めてたけれど結局はモンゴルの青い空に行き着く」という「青い鳥」的なオチも、「いまさらこのオチじゃ納得できないよな〜」と思いました。一方で、子供を愛せない父親という点では、現代的な問題意識も感じられました。
 野田秀樹ももういい年かと思いますが、まだまだ身体も動き、セリフまわしはあいかわらず絶品。とくに子供の役になってからがすばらしかったです。西の果てから送って来た手紙の朗読は、独特の声の質が胸を締め付けるような郷愁を漂よわせ、「そうだ、これが野田秀樹だったよな〜」と思い出し、久々にこれを聞けただけでも来た価値がありました。勝村政信はテレビでしか観たことがなかったのですが、こんなに実力のある上手な役者さんだとはまったく知りませんでした。芝居全体を引っ張っていました。妻夫木聡は初めての舞台出演とのこと。若々しいテムジンを体当たりで演じて大健闘でしたが、声がいつも同じ調子なのが残念で、最後に死にかけた(生まれかけた?)時にふと空を見上げて初めてモンゴルの青い空に気がつく場面などは、すごくいいセリフだと思うのですが、あっさりと流していました。生広末涼子は初めてでしたが、芸能ニュースなどの情報からアブナイ人かと思っていましたが、意外と普通のひとで(あたりまえか?)普通の演技でした。高田聖子、セリフがうまい。高橋恵子、もう少し母体回帰的な声の甘さがあると好みでした。
 とはいえ、久々に野田ワールドを満喫し、野田秀樹がまだまだ元気でがんばっていることもわかって、とてもよかったです。また機会があったらNODA・MAPの公演を観てみたいです。

NODA・MAP第13回公演 「キル」
2008年1月23日
Bunkamuraシアターコクーン
      《キャスト》
     テムジン………妻夫木 聡
      シルク………広末 涼子
       結髪………勝村 政信
       人形………高田 聖子
     フリフリ………山田 まりや
       J・J………村岡 希美
案人ガイド/ヒツジ
  ・デ・カルダン………市川しんぺー
   旅人ポロロン………中山 祐一朗
  イマダ/蒼い狼………小林勝也
       トワ………高橋 惠子
バンリ/真人バンリ………野田 秀樹
      《スタッフ》
     作・演出………野田 秀樹
       美術………堀尾 幸男
       照明………服部 基
       衣裳………ひびのこづえ
    選曲・効果………高都 幸男
 ステージング協力………謝 珠栄
    ヘアメイク………河村 陽子
     舞台監督………瀬崎 将孝
  プロデューサー………北村 明子
      提 携………Bunkamura
    企画・製作………NODA・MAP

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2008/01/23

海老蔵大活躍の歌舞伎エンターテイメント(2008年1月新橋演舞場)

 1月の歌舞伎鑑賞の締めくくりは、市川海老蔵が五役を勤めるという、新橋演舞場の『雷神不動北山櫻』です。
 筋書によれば、1742年(寛保2年)に大阪の佐渡嶋長五郎座で初演された狂言をもとに、新たに台本を書き直したものだそうです。この狂言には、歌舞伎十八番のうち『鳴神』『不動』『毛抜』の三つが含まれていますが、初演時に新たに創られた『毛抜』以外は、初演以前からあった演目を組み込んだものだそうです。通し狂言としての上演は、平成8年以来だそうです。
 海老蔵主演とあって、会場の雰囲気がいつもの歌舞伎とは違い、若い女性やカップルが目立ちました。2階には、成田山新勝寺不動明王が出開帳しておりました。
 で、市川家に伝わる歌舞伎十八番が三つも入っている演目なので、古典歌舞伎の伝統にのっとって演じるのかと思いきやさにあらず。発端の鳴神上人や除幕第一場の早雲王子は、「を、今回は、海老蔵もなかなか押さえて演じてるじゃん」という感じだったのですが、除幕第二場の安倍清行の女好きのなよなよ男では、むむむ、ちょっと変。二幕目の『毛抜』もNHKの子供番組に出てくるみたいな変なキャラ。まわりの澤瀉屋一門の演技も現代劇風。『鳴神』では、右之助市蔵の白雲坊・黒雲坊がさすがに歌舞伎味のあるすばらしい演技で、ここでは海老蔵も古典歌舞伎を演じきるのかと思いましたが、エッチでコミカルな演技でエンジン全開。かための盃を飲む前からロレツが回らなくなっていて、ずいぶん堕落が早い鳴神上人でした。大詰めの立ち回りは派手で海老蔵の身体能力を遺憾なく発揮、最後は不動明王の空中浮遊のイリュージョンで幕となりました。
 見事な歌舞伎風エンターテイメントで、若い客層を魅了していましたが、古典歌舞伎が好きなぽん太にはちと不満が残りました。
 
新橋演舞場 初春花形歌舞伎
成田山開基1070年記念
通し狂言 雷神不動北山櫻(なるかみふどうきたやまざくら)

            鳴神上人
            粂寺弾正
            早雲王子  海老蔵
            安倍清行
            不動明王

           雲の絶間姫  芝 雀
            関白基経  門之助
            文屋豊秀  段治郎
            腰元巻絹  笑三郎
            秦秀太郎  春 猿
            小野春風  宗之助
            山上官蔵  猿 弥
        八剣玄蕃・黒雲坊  市 蔵
         秦民部・白雲坊  右之助
            小野春道  友右衛門

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2008/01/21

【歌舞伎】「金閣寺」(『祇園祭礼信仰記』)と囲碁

 先日ぽん太は、新春浅草歌舞伎で『祇園祭礼信仰記』の「金閣寺」を観て来ました。雪姫が桜の花びらを集めてつま先で鼠を描く「爪先鼠の段」が有名で、雪姫は歌舞伎の「三姫」のひとつに数えられています。それに対して前半の「碁立の段」(ごたてのだん)は、大膳と東吉がじっと座って碁を打ちながら言葉のやりとりをする場面が続き、退屈なことで有名です。「碁立」の言葉のやりとりには、囲碁の用語が織り込んであるようですが、ぽん太は囲碁も歌舞伎も初心者なので十分に理解できませんでした。この部分のセリフが理解できれば「碁立の段」も少しは面白くなるのではないかと考え、調べてみることにしました。
 しかしググってみても、なかなかいいサイトが見つかりません。仕方なく力不足ながらぽん太が、タヌキにわかる範囲でまとめてみることにします。ホントは、碁と歌舞伎にもっと詳しい人が解説してくれればいいのですが……。
 ぽん太が使用したテキストは、『名作歌舞伎全集 第4巻 丸本時代物集 3 (4)』(東京創元新社、1970年)ですが、HTML化されたテキストが、こちらの「ようこそ文楽へー鶴澤八介メモリアル「文楽」ホームページ」や、こちらの「海南人文研究室」のページの下の方にあります。
 「金閣寺」のあらすじは、たとえばこちらの棋聖堂のページをご覧下さい。

 まず、この歌舞伎の舞台となっている16世紀末は、武士の間で囲碁がたいへん盛んになった時代だったことを押さえておきましょう。それは、こちらの日本棋院のサイトにも書いてあります。小田春永のモデルの織田信長や、此下東吉(このしたとうきち)のモデルの豊臣秀吉も(そして徳川家康も)碁が大好きでした。ですから「金閣寺」で碁を取り上げていること自体が、史実に基づいており、興味深いことなのです。
 さて、冒頭から松永大膳は、弟の鬼藤太と碁を打っていますが、二番続けて大膳が勝ったようです。

大膳 「コリャ、鬼藤太、此度も又その方が負けたよな。白は源氏、源義輝を、四つ目殺しにした松永、中々われには続くまい」
鬼藤 イヤモ、この鬼藤太も碁はずいぶん鍛錬なれども、四海に威をふる兄者人には中々叶わぬ。コリャ石を替わらずばなるまい。

 松永大膳は、足利義輝を既に殺しております。足利といえば清和源氏の流れを汲み、本姓は源です。源氏の旗印が白であるのは有名ですね(ちなみに平氏は赤)。「四つ目殺し」は、碁で相手の石を取る最も基本的な方法です。ですから大膳のセリフは、「白を旗印にした源氏の流れを汲む足利義輝を、まるで囲碁の四つ目殺しのように、いとも簡単に打ち取った自分であるから、白石を持ったお前(鬼藤太)になんか負けないよ」という意味になります。
 対する鬼藤太のセリフの「石を替わらずばなるまい」は、「ハンディを変える」という意味だと思います。囲碁のハンディ戦は置き碁と呼ばれ、あらかじめ盤上に石を置いたり、コミをなくすことによって、実力差を調整します。現在は「石を替える」という言い方はしませんが、おそらく「置き石を変える」という意味だと思います。

 さて、此下東吉がやってきます。悪役の大膳ですが、碁には目がないと見えて、今度は東吉と碁を打ち始めます。

義太夫(アヽどうがなと差しうつむき、千々に心を砕くは碁立て、大膳は先手の石打つや、現の宇津の山蔦の細道此下が、一間飛びに入り込んだも、松永を討って取る、岡目八目軍平が、助言と知らぬ大膳が、詞もあると打ちうなづき)

 「大膳は先手の石打つや」となっておりますが、ハテ、今回の舞台では大膳が白石を持っていたぞ。おかしい。囲碁では先手は黒石と決まっています。舞台で大膳と東吉のどちらが先手を打ったかまでかはぽん太は覚えていません。次回に舞台を観る時は注意して見てみようっと。さて、この「大膳は先手の石打つや」というのは、東吉と打ち始めた碁の勝負だけではなく、足利義輝を亡き者にして雪姫と慶寿院をとりこにしたという現実の勝負も意味しています。一間飛びというのも碁の用語で、自分の石から一つ開けて次の石を打つことです。むしろ連結を重視した着実な手で、寝返ったと見せかけて大膳の屋敷に入り込んだ東吉の大胆な行動にはあてはまりませんが、敵の屋敷に「飛び」込むとか、「一足飛び」とかにひっかけてあるのでしょう。岡目八目とは、「第三者の方が当事者よりも情勢を客観的によく判断できる」という意味で日常用語でも使われますが、もともとは碁を打っている人よりも、横で見ている人の方が八手先まで読めるという意味です。ちなみにぽん太は今日まで、「横で見ている人の方が八目分くらい強い」という意味かと思っていました。大膳の家来の軍平は実は佐藤正清という名前で(モデルは加藤清正)、実は東吉の味方であり、東吉より一足早く大膳の屋敷に入り込んで手引きをしていたのです。ですからここでは、「大膳と東吉の争いにおいて、実は第三者の立場の軍平が東吉に助言をしていたのを大膳は知らなかった」ということを、「囲碁を横で見ている有利な立場の人が、一方の対局者に助言をしている」というのに掛けているわけです。

雪姫 厭と言うたら夫の命。
大膳 イヤ、危ない事の、大膳が石が既の事。
東吉 アいやアいや、死ぬはこの白石。
大膳 どうやら遁れ鰈の魚。
東吉 白き方には目がなうて。

 雪姫の「厭」が、大膳の「イヤ」に掛かっています。雪姫は夫の命の生き死にを案じていますが、大膳と東吉が考えているのは、石の生き死に(取られないか取られるか)です。大膳の「危ないところをのがれた」の「がれ」が魚の「かれい」に掛けてあり、東吉は、「鰈の白い方(下側)には目がない」というのと、「白石には眼(め)がない」というのを掛けています。ちなみに石が囲んだ空間を眼(め)と言い、眼が二つあると石は生きます
 ここのやり取り、東吉が白石を持っていたとしたら、大膳が「自分の石が危ない」と言うのに対して、東吉が謙遜して「いやいや自分の石の方が危ないですよ」と言っていることになり、東吉が黒石を持っているとしたら、大膳が「何とか逃れた」と言うのに対して東吉が「逃れてませんよ、死んでますよ」と追求していることになり、意味が全然違ってしまいます。ですから上にも書いた「どっちが先手(黒)でどっちが後手(白)か」はとても大切な問題になります。ぽん太の考えでは、最初は東吉は大膳にへりくだって雇ってもらおうとしているわけですから、大膳が先手(黒)であるのが正しいと思います。ということは、今回の新春浅草歌舞伎は黒と白が逆!?

大膳 雪姫が顔の白石、返事とはアア嬉しい、抱かれて寝ばまの返事ぢゃな。
雪姫 アイナ。
大膳 アイとはうまい、昨今の東吉が見る前、恋は曲者、赦せ赦せ。
東吉 ハッ、これはこれは痛み入ったる御挨拶、主となり家来となれど、碁の勝負には遠慮は致さぬ。のう軍平殿。

 大膳は、雪姫の白い顔を白石に例えたようです。「寝ばま」という日本語は聞いたことがないので、たぶん囲碁の用語に掛けてある気がしますが、ぽん太にはわかりません。アゲハマという用語はありますが。
 「アイ」というのも、なんか掛けてある感じですが、よくわかりません。先ほどの石の責め合いが「アイコ」(いい勝負)という意味でしょうか?あるいは見合いのことかもしれません。「見合い」とは、有力な手がふたつあり、相手がどっちを打っても自分が残りの手を打つことができる状態です。
 大膳が雪姫に「赦せ赦せ」と言ったのを、東吉は自分に対してと理解して、「碁の勝負では手加減しませんよ」と答えています。

軍平 いかにもさよう、女房に翅鳥とはずんでござる大膳様。
大膳 オオサオオサ、晩には一目、劫おさえて。
東吉 この東吉が中手を入れて。
大膳 面白い春永でも直信でも、斬ってしまえば駄目も残らぬ。
軍平 いかにも左様。
大膳 軍平、切れ切れ、切ってしまえ。
軍平 ハッ

 う〜ん、このあたりも難しい。シチョウは囲碁の用語で、普通は四丁とか征とか書きますが、翅鳥という字をあてることもあるようです。「翅鳥」の羽と鳥に、大膳が「はずんでいるを掛けているのかもしれません。「晩には一目(いちもく)」は、「一目(ひとめ)会いたい」というのと掛けているのでしょうか。「刧(コウ)中手(ナカデ)はともに囲碁用語ですが、どういうシャレになっているかはよくわかりません。
 切る駄目(ダメ)も囲碁用語。日常用語の「ダメ」は囲碁用語に由来すると言われています。碁の勝負に熱中した大膳が、「(石を)切ってしまえ」と言ったのを、軍平は、「(雪姫の夫を)切れ」と言ったと勘違いします。

大膳 ハハハハハ、碁にかゝっては何を言うやら。危ないは狩野介、のう東吉、かの太平記に記した天竺波羅那国の大王、まっこの如く碁に打ち入り、過って沙門を殺した引き事、それは因果これは眼前。

 天竺波羅那国の話しの元ネタはわかりませんでした。

東吉 ハハハ、すべて碁は勝たんと打つより、負けまじと打つが碁経の掟。東吉が癖として囲碁に限らず、口論あるいは戦場に向こうてもおくれを取る事大嫌い、盤上は時の興、勝つべき碁をわざと負けるは追従軽薄、負腹の投打ちなら、今一勝負遊ばされんや。ササ、何番でもお相手つかまつらん(井目すえたる東吉が、手段もさぞと知られたり/トよろしく見得)。
大膳 面白い碁のたとえ、見かけによらぬ丈夫の魂、頼もしゝ頼もしゝ。

 碁は東吉の勝ちで終わります。東吉は碁に例えて、自分の戦での心構えを述べます。

 次いで大膳は東吉の知恵を試そうとして、碁笥(ごけ)を井戸に放り込み、手を濡らさずに取るように命じます。碁笥とは、碁石の入れ物です。東吉は、樋を使って滝の水を井戸に導いて碁笥(普通は木製)を浮かせ、要求どおり手を濡らさずに碁笥を取り出します。

(このうちに件の碁笥を取り、碁盤を打ち返し、真中に載せ、キッと見得)
東吉 四つの足の真中に、据えたる碁笥は、春永が首実検のその時の用意に用ゆる碁盤の裏、四つの足を四星に象り、軍神の備えとし小田を亡す血祭、まッこの通り。

 東吉は、碁盤をひっくり返し、取り出した碁笥をその真ん中に載せて、どうだとばかりに見得を切ります。ここは拍手喝采が来るところ。東吉は、盤上の碁笥を、打ち取った春永の首に例えます。
 碁盤の裏には「へそ」と呼ばれるくぼみがあり(写真はたとえばこちら)、板が割れるのを防ぐためとか、石を打ったときの音を良くするためとか言われています。「へそ」は別名「血溜まり」とも呼ばれますが、観戦者が助言をしたら首をはねてここに据えたからだという話しがあります。上の東吉のセリフを聞くと、囲碁ファンはこのことを頭に浮かべます。

 「金閣寺」で囲碁に関係するのはこんなところでしょうか?これで次に「碁立」を観るときは、少しは楽しめるのではないでしょうか。大膳と東吉とどっちが先手(黒石)を打つかも、注意して観たいと思います。
 なお、今回の記事の内容は、囲碁と歌舞伎の初心者のぽん太の推察ですから、全然違っている可能性もありますので、他人には話さないのが身のためです。

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2008/01/18

【歌舞伎】愛之助の与三郎はナヨナヨしてても悪党でもカッコイイ(2008年新春浅草歌舞伎)

 正月といえば新春浅草歌舞伎。若手が名作にチャレンジします。昨年は大河ドラマで忙しくて欠席した亀治郎も戻って来て、とても楽しみです。
 仲見世を歩き、焼きたての人形焼きをほおばり、浅草寺で一年の無事を祈ってから浅草公会堂へ。
 恒例のお年玉ご挨拶は亀鶴。舞台から客席にとんぼで降りたのにはびっくり。『傾城反魂香』は亀治郎・勘太郎のおとく・又平。勘太郎の又平は、本人の性格どおりまじめで実直な人柄。もう少しひょうひょうとした人の良さがある方がぽん太の好みなんですが。涙と鼻水で顔中ぐしょぐしょにしての熱演でしたが、ちょっとこっちが引きそうになってしまいました。ホントに泣くのではなく、芸で悲しみを表現して欲しいものです。亀治郎は、ちっと夫に対する情愛が薄い感じがしたものの、あいかわらず巧み。『弁天娘女男白浪』は七之助の弁天小僧が、女形での美しさと、正体を現してからの粋でいなせな悪党ぶりが両方ともよかったです。若々しく生きのいい勢揃いにも大満足。
 第2部も続けて観て、初春から8時間耐久歌舞伎にチャレンジ。公会堂の階段に地元の芸者さんがずらりとならんでお迎えしてくれました。あゝ、うれしや。第2部のお年玉ご挨拶はごひいきの愛之助。『金閣寺』は亀治郎が雪姫の大役を熱演しましたが、8時間耐久歌舞伎の疲労が押し寄せてきて眠くなってしまいました。ごめんね。3階だったので、勘太郎と獅童の碁がよく見えました。推察するに、勘太郎は碁を打つが、獅童は碁を知らない様子。勘太郎が獅童の白石をピシピシ抜きまくり、獅童扮する大膳が「大方この碁も身共が勝ち、勝負をつけてみようかい」と言ったときには、すでにぼろ負けの状態でした。『金閣寺』の碁を打ちながらのやりとりに関しては、そのうち、ちとみちくさしてみたい気がします。『与話情浮名横櫛』は、愛之助の与三郎が、羽織落としのなよなよした美男子も、全身傷だらけのすごみのある悪党も、どちらもカッコよかったです。
 若々しく華やかな歌舞伎を満喫した一日でした。

新春浅草歌舞伎
第1部
お年玉〈年始ご挨拶〉:中村亀鶴
1、傾城反魂香(けいせいはんごんこう)土佐将監閑居の場
            浮世又平  中村勘太郎
          狩野雅楽之助  片岡愛之助
            土佐将監  市川男女蔵
           女房おとく  市川亀治郎
2、弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)
  浜松屋店先より稲瀬川勢揃いまで
         弁天小僧菊之助  中村七之助
            南郷力丸  中村獅 童
           赤星十三郎  中村勘太郎
            鳶頭清次  中村亀 鶴
            忠信利平  市川亀治郎
          日本駄右衛門  片岡愛之助
第2部
お年玉〈年始ご挨拶〉:片岡愛之助
1、祗園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)金閣寺
              雪姫  市川亀治郎
            此下東吉  中村勘太郎
          狩野之介直信  中村七之助
            慶寿院尼  中村亀 鶴
            佐藤正清  市川男女蔵
            松永大膳  中村獅 童
2、与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)
  木更津海岸見染の場、源氏店の場
             与三郎  片岡愛之助
              お富  中村七之助
             蝙蝠安  中村亀 鶴
           鳶頭金五郎  中村獅 童
         和泉屋多左衛門  市川男女蔵

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2008/01/17

【歌舞伎】理屈抜きに楽しい祝祭的な狂言(2008年1月、国立劇場)

 国立劇場は今年も菊五郎劇団で幕が開きました。演目は『小町村芝居正月』(こまちむらしばいのしょうがつ)の通し狂言でした。あらすじや配役、簡単な解説などは、こちらの国立劇場のサイト内のページをご覧下さい。
 筋書(歌舞伎のパンフレット)の解説によれば、寛政元年(1789年)の江戸・中村座の顔見世狂言なんだそうです。顔見世とは、毎年11月、それぞれの芝居小屋がこの一年間の出演契約を結んだ役者をお披露目する大切な興行です。顔見世狂言は、毎年新しく作り直すのが原則でしたから、この狂言は以後再演されたことはなく、今回の公演がなんと219年ぶりの復活となるのだそうです。
 天皇の跡継ぎ争いと小野小町とを題材に、だんまりもあれば立ち回りもあり、妖術で雲に乗り、狐も出現し、踊りもあって、最後は暫で締めくくるという、顔見世らしい見所満載の狂言でした。菊五郎劇団らしいおふざけもありましたが、ネタバレしないように書かないでおきます。小野小町と深草少将が江戸の下町で獣肉の料理屋を営むというシュールな設定もナイス。ぽん太は、日本人は猟師などを除いて肉食はしていなかったのかと思っていましたが、筋書きによると、江戸時代の初期には肉食が盛んに行われたが、その後しばらく下火となり、1800年代前半からまた盛んになったのだそうです。知らなかった!
 菊五郎と時蔵が演ずる深草少将と小野小町のカップルが情愛たっぷり。時蔵、美しかったです。またふたりの世話物夫婦ぶりも味がありました。菊五郎のもう一役の黒主は、憎々しくも妖しい敵役。菊之助の女形はきれいで、狐もこっけいにならずに品よく演じておりました。松緑は踊りもよく、正月屋庄兵衛は小粋な町人風の風情ですが実は悪人、最後には「しばらく」と声をかけるいい役まで持って行く大活躍でした。
 全体として、明るく楽しい祝祭的な芝居を、理屈抜きに楽しむことができました。

 さて、巣穴に戻って筋書を読みながら復習です。
 顔見世狂言は、先ほど書いたように毎年新しく作り直すものでしたが、その際いろいろと約束事があったようです。『歌舞伎事典』(服部幸雄等編、平凡社、2000年)によれば、「世界」(歌舞伎の設定となる時代背景)は、御位争い(業平・行平)、前太平記(頼光四天王)、奥州攻め(八幡太郎・貞任)、鉢木(鎌倉時代)、東山(不破・名古屋)、出世奴(秀吉)などから選ばれます。1番目(前半)は時代物、2番目(後半)は世話物で構成されます。1番目の序幕は神社の回廊を舞台として「暫」や「だんまり」を演じ、二幕目には舞踏劇、大詰には金襖の御殿とします。また二番目序幕は裏長屋などのうらぶれた家を舞台とし、雪降りの場面を入れなければなりませんでした。さらに筋書きの解説には、世話物には時代物の人物が身分をやつして登場すること、動物や植物の精が出ること、という規則も挙げられています。
 なにやらずいぶん約束事が多いようですが、当時の芝居小屋は、このルールのもとで腕を競い合ったのでしょう。また、同じようなものを形を変えて繰り返すというのは、1年を周期とする農耕文化に合っていたのかもしれませんが、無学なぽん太にはよくわかりません。
 さて、上記の規則を今回の上演と比べてみると、あんまり合っていないような気がしますが、実は今回の脚本は、原作の順序を入れ替えて再構成してあるそうです。表にまとめてみましょう。あってるかしら?

原作今回の上演
一番目
二立目 関寺小町の段序幕 第一場(神社)
三立目 清水小町の段序幕 第一場
序幕 第二場(だんまり)
四立目 草紙洗小町の段二幕目前半
    通小町の段三幕目(舞踊)
五立目 鸚鵡小町の段二幕目後半
    雨乞小町の段大詰(金襖・暫・狐)
二番目 卒塔婆小町の段四幕目(世話物・雪)

 こうしてみると原作は、完全にではありませんが、だいたいは上記の規則に則っているようです。原作では二番目の世話物は、一番目に現れない新しい登場人物の物語となっているようです。しかし今回の脚本では、それを小野小町と深草少将として劇の途中に組み込み、最後を「暫」で劇的に締めくくったわけですね。
 ただ、せっかく国立劇場で税金を使って歌舞伎をやるからには、商業ベースの劇場ではできない演目とか、通し狂言とか、歴史的に興味深い作品を上演すべきだという考え方もあります。もっと原作に近い形でやったほうが、「へ〜え、なんだか変だけど、昔の顔見世狂言はこんなもんだったのか〜」という感じで観れたような気がします。
 もうひとつ面白いのが、原作では各場に「○○小町の段」という名前がついていることで、これは「七小町」という、小野小町が登場する七つの能の見立てになっているのだそうです。なかなかの趣向ですが、「七小町」といわれてもぽん太にはピンと来ません。当時の観客には常識だったのでしょうか?残念ながらこの趣向は、今回の上演では解消されてしまいました。これらの能に関しては、筋書に西野春雄の解説があります。
 ます『関寺小町』は、老いさらばえた我が身と栄華を極めた過去の幻影を対比させるものだそうですが、序幕第一場とどう関係しているのか不明。省略されたのか?次の『清水小町』は、旅の僧が清水寺の絵馬の中に老女の姿と小町の歌を見出すが、その夜、小町の霊が現れる。これも序幕第一場・第二場との関連は不明。『草紙洗小町』は歌合わせで剽窃の疑いをかけられるが無事に疑いが晴れるといもので、二幕目前半そのもの。『通小町』は、死後もなお小町の霊を追い求める深草少将の霊の話しで、三幕目に対応。『鸚鵡小町』は、老いた小町に歌を送ったところ、一文字だけ変えておうむ返しで返歌を送ったというはなしですが、二幕目後半との関連は不明です。『雨乞小町』は、能としては現在は曲名だけしか残っていないそうですが、宮廷から退いて誰にも会わずに暮らしていた小町が、干ばつによる大飢饉に際して乞われ、宮中に参内して見事な雨乞いの歌を詠んだという話しで、大詰めに相当。『卒塔婆小町』は、落ちぶれて醜い老婆となった小町の話し。愛想をつかした夫が若い後添えをもらおうとするのが関係しているのでしょうか?
 なんか、歌舞伎も能もよく知らないぽん太には、さっぱりわかりませんぞ。小野小町の伝説は奥深そうですが、これ以上みちくさを続けると道に迷いそうなので、今回はこの辺で巣穴に戻ることにいたしましょう。

初世桜田治助=作
国立劇場文芸課=補綴
通し狂言
小町村芝居正月(こまちむらしばいのしょうがつ)五幕六場
      国立劇場美術係=美術

  序 幕  第一場 江州関明神の場
       第二場 大内裏手の場
  二幕目  大内紫宸殿の場
  三幕目  鈴木英一=補綴
       深草の里の場
        「花色香いたずら娘(はなのいろかいたずらむすめ」
              常磐津連中・長唄連中
        尾上菊之丞=振付
  四幕目  第一場 柳原けだもの店の場
       第二場 柳原土手の場
  大 詰  神泉苑の場

(出演)
  大伴黒主、深草少将、柳原の五郎又:尾上菊五郎
    小野小町姫、五郎又女房おつゆ:中村時蔵
 紀名虎、孔雀三郎松平、正月屋庄兵衛:尾上松緑
五位之助兼道、小女郎狐、妻恋のおみき:尾上菊之助
            虎王丸竹夜叉:坂東亀三郎
            熊王丸月夜叉:坂東亀寿
               香取姫:中村梅枝
              惟仁親王:尾上松也
       惟喬親王、家主太郎兵衛:片岡亀蔵
              藤原良房:河原崎権十郎
           家主女房おとら:市村萬次郎
           四の宮兵藤武足:市川團蔵
              小野良実:坂東彦三郎
           関寺の大刀自婆:澤村田之助

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2008/01/14

モーツァルトの『魔笛』とフリーメイソン

 先日ぽん太は、プラハ国立劇場の『魔笛』を観てきました。『魔笛』がフリーメイソンを題材にしていることはよく知られておりますが、家に帰ってから書庫にあった『フリーメイソン 西欧神秘主義の変容』(吉村正和著、講談社現代新書、1989年)と、『フリーメイスンとモーツァルト 』(茅田俊一著、講談社現代新書、1997年)を読み返してみました。
 フリーメイソンというと、世界征服をたくらむ秘密結社のように思っているひともいるようで、たとえばビューヒナー(1813-1837)の『ヴォイツェク』にも、次のようなセリフがあります。
 「いいかアンドレース、見えるだろう、草の上に筋がさ。首が転がってった跡だぞ。ある男がそれを抱えあげた、針鼠だと思ってな。そしてら、そいつは三日三晩経ったら棺桶に入ってたんだとさ。アンドレース、フリーメイソンの仕業だぞ。俺には分かったんだ。フリーメイソンだぞ、しーっ!」(ビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』、岩淵達治訳、岩波文庫、2006年、73ページ)。
 しかし実際のフリーメイソンは、会員相互の親睦や会員の道徳的向上、慈善などを行う団体のようです。フリーメイソンの起源にかんしては様々な説があるようですが、近代的なフリーメイソンが歴史の舞台に登場するのは、18世紀初頭のイギリスのようです。フリーメイソンはまもなく大陸に伝わり、1730年代にはヨーロッパ各地に、ロッジと呼ばれる集会場が作られました。モーツァルトの住んでいたオーストリアでは、マリア=テレジア(1717-1780)は1764年にフリーメイソンを禁止したものの、その後を継いだヨーゼフ2世(1741-1790)はフリーメイソンに寛容な態度をとり、彼のもとでオーストリアのフリーメイソンは全盛期を迎えました。
 18世紀は啓蒙主義の世紀であり、合理主義が台頭し、キリスト教の威信が低下しました。神への帰依のかわりに人間の道徳的完成を掲げ、合理主義に基づくフリーメイソンが、その空隙を埋めたと考えられます。
 モーツァルト(1756-1791)がいつ頃からフリーメイソンに関わるようになったのかは不明ですが、1784年12月14日にウィーンのロッジ「慈善」に入会したことは確かなようです。以後モーツァルトはフリーメイソンと密接に関わり、フリーメイソン的な音楽をたくさん作曲しているそうです。また具体的に『魔笛』のどこがどうフリーメイソンなのかなど、興味がある方は『フリーメイスンとモーツァルト』をお読み下さい。ちなみに『魔笛』の初演は1791年ですね。
 『魔笛』では、ザラストロは「イシス」と「オシリス」を信仰していましたが、これらは古代エジプトの神々ですね。フリーメイソンとイシス・オシリスが関係あるのかどうかは、今回読んだ2冊の本には書いてありませんでした。
 隆盛を極めたフリーメイソンですが、1875年にヨーゼフ2世は「フリーメイソン勅令」を発令し、フリーメイソンの管理・統制に乗り出しました。これまで容認していたフリーメイソンに対し、一転して締め付けを行った理由は、神秘主義的・カルト的な傾向が強まったこと、反政府運動の隠れ蓑になったこと、内部の不透明な組織の拡大を恐れたことなどが考えられますが、はっきりとはわからないようです。しかしこれをきっかけに、フリーメイソンの退会者が急増するようになりました。さらにフランス革命の影響がヨーロッパに波及していくなかで、啓蒙主義・政治改革派であり、ロッジのなかでは階級差を認めなかったフリーメイソンは、ジャコバン派に接近し、その結果政府の取り締まりの対象となっていきました。この結果ウィーンでは、1794年に全てのロッジが閉鎖されました。
 こんかい読んだ本には、その後のフリーメイソンの歴史は書かれていませんが、こうした流れのなかで「過激派の秘密組織」みたいなイメージが作られ、冒頭のビュヒナーのような言い方がされるようになったのかもしれません。
 ちなみにこちらが、フリーメイソンの日本グランド・ロッジのサイトです。

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2008/01/13

【オペラ】シンプルで効果的な舞台装置がお見事!(プラハ国立劇場『魔笛』)

 ぽん太とにゃん子は、プラハ国立劇場の『魔笛』を観てきました。会場が巣穴に近い多摩地区で便利なうえ、お値段もS席¥12,500円と、海外オペラにしては格安です。会場も広くないので間近で楽しめます(でも音響がいまいちな感じがしました)。
 ホールに入ると、舞台上でバレエ団員がくつろいでいます。えび茶色のコスチュームが、先日行って来たばかりのチベットのお坊さんを思い出させます。「楽屋が満員で居場所がないのかしら」などと余計なことを考えながら開演を待ちます。
 客席に電気が点いたままで指揮者が入場。序曲の最初の和音とともに電気が消えるという趣向。序曲に合わせてバレエ団が踊りだします。
 舞台装置は極めてシンプルで、パウル・クレーの絵のような美しいグラジュエーションの大きな布が何本ものケーブルで天井からぶら下げてあり、舞台の両サイドの見えるところに座ったひとたちがケーブルを操作し、布を上げたり下げたり、いろいろ変形させるというもの。ビデオで撮影した顔のアップを、プロジェクターで布に写したりもします。仕組みは単純だけど、動きがおもしろく、視覚的効果がすばらしかったです。
 このケーブルを操るのもバレエ団。冒頭の大蛇の代りもし、随所で踊ったりと、バレエ団大活躍でした。
 地方公演だけに歌手は2番手が多く、「うっとりと聞き惚れる」というわけにはいかなかったですけど、よかったです。パミーナ役のファイトヴァーはなかなか美人。ヴァニュカトヴァーの夜の女王は、最初のコロラトゥーラちょっと不安定でしたが、2番目のアリアではすばらしい声を聞かせてくれました。
 演出も、パミーナが客席から登場したり、いろいろ工夫されていました。パパゲーノのグロッケンシュピールは鈴ではなくてオルゴール。脚本の解釈はいたって普通で、変な思想的な解釈はなし。
 ジンクシュピールらしい理屈ぬきに楽しめる舞台でした。

『魔笛』2幕のドイツ語オペラ
作曲:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
台本:エマヌエル・シカネーダー

指揮:ヤン・ハルペツキー
演出:ダヴィド・ラドク
舞台美術・衣装:カタリーナ・ホラー
振付:ハカン・マイヤー

ザラストロ、弁者:イジー・カレンドフスキー
タミーノ:アレシュ・ブリツェイン
夜の女王:ダグマル・ヴァニュカトヴァー
パミーナ:マリエ・ファイトヴァー
第一の侍女:イトカ・スヴォボドヴァー
第二の侍女:イヴォナ・シュクヴァロヴァー
第三の侍女:カテジナ・ヤロフツォヴァー
パパゲーノ:フランティシェク・ザフラドニーチェク
パパゲーナ:ラトカ・セフノウトコヴァー
モノスタトス:ミロスラフ・ペリカーン
第一の武士:ヴラディミール・ドレジャル
第二の武士:アレシュ・ヘンドジフ
プラハ国立劇場オペラ管弦楽団/合唱団/バレエ団
2008年1月10日(木)府中の森芸術劇場

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2008/01/12

板橋の近藤勇の墓をみちくさ

 先日、たまたまJR埼京線の板橋駅に降り立ったところ、「近藤勇の墓」という表示が目に入り、少し時間もあったのでみちくさしてきました。
 近藤勇(こんどういさみ:1834天保5〜1868慶応4)といえば、新撰組でおなじみ。ぽん太も大河ドラマを楽しみました。しかもぽん太の地元、東京は多摩の出身です。
 で、近藤勇の最後ですが、1868年(慶応4年)の4月25日に、板橋宿の平尾一里塚で斬首されたそうです[1][2]によれば、平尾一里塚はだいたいこのあたり(地図へのリンク)だったらしいのですが、現在は特に案内板などはありません。
 板橋宿は、中山道の、江戸に最も近い宿場です。旧中山道と板橋宿の地図に関しては、[3]の略図が見やすいです。板橋宿は、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿とともに、江戸四宿(えどししゅく)と呼ばれていました。これらはすべて、江戸に最も近い宿場だったのですが、いわゆる飯盛女と呼ばれる遊女を起き、非公式の遊郭としてにぎわっていました。歌舞伎でも長谷川伸の『暗闇の丑松』では、人を殺めて江戸から逃げた丑松が、板橋宿の杉屋で女郎を買いますが、座敷に現れたのは妻のお米だったというシーンがあります。もっとも長谷川伸がこの戯曲を発表したのは1931年(昭和6年)ですから、どれだけ当時の江戸の状況を踏まえているかという問題はあります。この芝居は講談の『天保六歌撰』をふまえており、また長谷川伸より以前に河竹黙阿弥が『天衣粉上野初花』という歌舞伎を書いていますが、そこまで散歩の足を延ばす気にはなれません。
板橋の近藤勇の墓 で、前置きが長くなりましたが、こちらが近藤勇の墓です。場所はJR埼京線の板橋駅の東口を出て正面にあります。ちょっと見にくいですが、土方歳三の名前も併記されています。
長倉新八の墓 傍らには永倉新八の墓もあります。大河ドラマではぐっさんがやってた役ですね。
 東京都北区教育委員会が建てた案内板には(板橋区ではないのか……)、次のように書かれています。

慶応4年(1868)4月25日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
 本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。(以下略)
ナルホド、胴体を埋めたところに、8年後に供養塔を建てたのですね。
 しかしググってみると、近藤勇の墓というのは各地にあるようです。まず、三鷹市の龍源寺[4]で、いくつかのサイトの情報を総合すると、板橋で斬首された近藤勇の胴体を、親戚が持ち帰って埋葬したのだそうです。板橋にいったん埋められた胴体を、掘り出して引き取ったと考えれば、一応矛盾はしません。
 次は愛知県岡崎市の法蔵寺で[5]、こちらは、京都でさらし首になっていた近藤勇の首を奪って来て埋葬したと主張しているようです。
 そして福島県会津若松市の天寧寺[6]の近藤勇の墓は、土方歳三が遺髪などを持っていて、会津の戦いのときに仮埋葬したものだそうです。
 その他、米沢市の高国寺[7]や荒川の円通寺[8]などもあるようですが、もうめんどくさくなって来たので散歩は終了!

【参考リンク】
[1]Wikipediaの「近藤勇」の項目
[2]長野郷土史研究会のサイトの中山道史跡地図のページ。リンクをクリックすると地図を見ることができます。
[3]板橋商店街による史跡ガイド
[4]多摩武蔵野の情報サイト・タチカワオンラインのなかの龍源寺・近藤勇墓所の案内
[5]Wikipediaの「法蔵寺」の項目
[6]会津若松市のサイトのなかの天寧寺の案内
[7]米沢市立北部小学校5年の「高国寺PR」のページ
[8]「会津いん東京」のサイトの「三ノ輪円通寺」のページ

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2008/01/11

【歌舞伎】助六由縁江戸桜で江戸の粋と華を満喫(2008年1月歌舞伎座夜の部)

 ぽん太とにゃん子は先日、春のような暖かい天気のもと、歌舞伎座に行ってきました。今月は浅草だの新橋だの行くところが多いので、歌舞伎座の昼の部は省略です。
 「鶴寿千歳」は、松竹梅の爽やかで派手やかな踊りに続き、芝翫と富十郎の老夫婦の情愛が暖かく、初春の寿ぎいとめでたし。
 定番の「連獅子」は、最後に染五郎がハイテンポで首を回しまくって拍手喝采を受けていました。
 しかしなんといっても今回の目玉は「助六由縁江戸桜」。團十郎のカラリとした演技が助六の華と粋や、狂言の古風な様式によくあっていました。ほかにも福助の揚巻は気品と存在感があって凛としており、梅玉のなよなよしたおかしみ、段四郎の大騒ぎの滑稽さ、東蔵の通人の小粋さなど、すべての役者がきっちり自分の仕事をしている感じでした。最後に母親役の芝翫が、芝居を引き締める貫禄を見せつけてくれました。河東節も華やかで迫力がありました。新春らしいすばらしい舞台に、ぽん太は大満足でした。
 そういえば、小○元総理が見に来てました。医療政策でさんざんひどい目にあっていたはずなのに、近くを通った時ついつい拍手をしてしまいました。ぽん太もミーハーですね。

【演目と配役】
1、鶴寿千歳(かくじゅせんざい)
               姥  芝 翫
               尉  富十郎
               松  歌 昇
               竹  錦之助
               梅  孝太郎
2、連獅子(れんじし)
    狂言師右近後に親獅子の精  幸四郎
    狂言師左近後に仔獅子の精  染五郎
             僧遍念  高麗蔵
             僧蓮念  松 江
3、歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)
  河東節十寸見会御連中
           花川戸助六  團十郎
          白酒売新兵衛  梅 玉
           三浦屋揚巻  福 助
            同 白玉  孝太郎
          福山のかつぎ  錦之助
            朝顔仙平  歌 昇
     口上/くわんぺら門兵衛  段四郎
              通人  東 蔵
            髭の意休  左團次
            曽我満江  芝 翫

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2008/01/10

チベット人の心意気【青蔵鉄道で行く冬のチベット(5)】

 (★本日の記事は、旅で出会った少数のチベット人からの情報によるものなので、事実と違っている可能性があります。)
ジョカンの五体投地 ぽん太がこんかいチベットに行ったのは、早く行っておかないとチベット文化がどんどん崩壊してしまうと思ったからでもあります。しかし、その旅に利用した青蔵鉄道が、一方ではチベット文化破壊の役割も担っているわけですから、現実とは皮肉なものです。
 というわけで、今回の旅では、ホントのところチベット人が自分たちの文化や信仰をどう思っているのか、が一つのポイントでした。慣れてくるにつれて、彼らは少しずつ重い口を開いてくれました。
ラサの犬 中国政府はダライ・ラマ14世への信仰を禁じていますが、実際のところはどうなのでしょう。「チベット人はみなダライ・ラマ14世を信仰しているのか」と聞いてみると「その通りだ」という答えが返ってきました。寺院などの公の場で14世の写真を掲げることは、10年くらい前に禁止されたのですが、自宅などにはその後も法王の写真が置かれていたそうです。しかしここ数年は取り締まりが厳しくなり、ダライ・ラマ14世の写真を掲げているのが見つかると、その人だけではなく、家族まで職を失うのだそうです。そこで仕方なしに多くのチベット人は、こっそりと隠して法王の写真を持っているのだそうです。
 公団住宅や、中国政府の資金援助を受けて建てられて住宅では、中国政府が当然の権利として抜き打ちの調査を行うそうで、そこでダライ・ラマの写真が見つかるとたいへんなことになるそうです。また、仏壇を置くこと自体が禁止されている場合もあり、そうした人たちが寄進した仏壇が寺院に置かれていました。

バター灯明 さて、チベットと中国の問題のひとつに、二人のパンチェン・ラマ問題があります。こちらのダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトに(ダライ・ラマの立場からですが)詳しく書かれています。それによれば、パンチェン・ラマは、チベットにおいてダライ・ラマに次いで宗教的・政治的に重要な人物であり、やはり輪廻転生すると信じられています。パンチェン・ラマ10世が1989年に死去したのを受けて、転生者探しが開始されました。これに対し、ダライ・ラマ14世が1995年5月14日にゲンドゥン・チューキ・ニマ少年を転生者と認めたのに対し、中国政府はギェンツェン・ノルブ少年を転生者に認定しました(1995年11月30日に就任し、12月8日に即位)。ところがニマ少年は、認定から数日後に両親とともに姿を消し、行方不明となりました。1996年に中国政府は、チベット民族主義者の誘拐から守るという理由で、ニマ少年を拘留していることを発表しました。また、中国が認定したギェンツェン・ノルブ少年の方は、北京に住まわされて、中国政府による教育を受けました。
ラサ河 で、そのパンチェン・ラマ問題に関しても、チベット人の認識を尋ねてみました。彼らの話しによれば、中国政府が認定したパンチェン・ラマ(ノルブ少年)は、周囲からパンチェン・ラマ11世と見なされて育てられながらも、本当に自分が11世なのだろうかという疑問をぬぐい去れなかったのだそうです。あるとき彼は、西寧のクンブム(タール寺)に行き、高僧に、本当に自分がパンチェン・ラマの転生者なのか聞いてみたのだそうです。高僧は、彼が宗教的に非常に優れた人物であり、おそらく誰かの転生者であることは認めましたが、パンチェン・ラマの転生者ではなく、それは中国政府が勝手に決めたことだと伝えました。それを聞いた彼は、次第に中国政府に反発するようになったそうです。これまで中国政府は、対チベット・プロパガンダの一環として、中国認定パンチェン・ラマの動向をあれこれと発表していたのだそうですが、ここ数年そうしたニュースがまったく流れなくなったのだそうです。チベット人のあいだでは、中国認定パンチェン・ラマが逃げ出してどこかに潜伏しているとか、ダライ・ラマ認定パンチェン・ラマを連れ出してインドに亡命したとか言われているそうです。
 なんか、カルマパ17世のインド亡命と混同されている部分もありそうですが、地元の噂はこんな感じでした。
 インドに逃げると言えば、チベット人は毎年3,000人くらい、ダライ・ラマをしたってインドに逃げているとのことでした。

少年は何を思う? さて、中国政府のアメとムチの政策のもと、チベット人はまだまだ自分たちの信仰と文化と誇りを失わないでいるようにぽん太には思えました。しかし、欲に溺れた「生臭坊主」がチベットでも増えているのも事実だそうです。翻って世界情勢を眺めてみるに、自分たちの文化と政治体制を地球全体に押し付けようとするブッシュ率いるアメリカと、それを殺戮によって阻止しようとするテロリストが、果てしない闘いを続けており、この方向にはけっして未来はなさそうです。まったく新しい第三の道を、チベット人は見つけることができるのでしょうか?彼らが、激しい弾圧や厳しい思想・宗教の統制、漢民族の移住や中央の資本の流入に抗して平和的に自国を守り抜いて行けるのか、それとも民族の誇りを失って中国に同化されていくのか、ぽん太は見守って行きたいと思います。

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2008/01/09

ノルブリンカとダライ・ラマ14世【青蔵鉄道で行く冬のチベット(4)】

 ノルブリンカは、ダライ・ラマの夏の離宮です。冬の間は迷路のように入り組んだポタラ宮で過ごしますが、4月から9月のあいだは風通しのいいノルブリンカに滞在したようです。18世紀にダライ・ラマ7世が造営を開始してから、歴代のダライ・ラマがここに離宮を造りました。2001年にはユネスコの世界遺産に追加登録されています。
タクテン・ポタン(ノルブリンカ) ダライ・ラマ14世が実際に住んでいたタクテン・ポタンです。金ぴかの建物が、どこか現在のダライ・ラマ14世の雰囲気と似ています。ダライ・ラマ14世は、1935年7月6日に青海省のタクツェルで生まれました。ぽん太の参加したツアーでは、当初このダライ・ラマの生家を訪れる予定でしたが、中国政府の非公式の圧力で中止となりました。ダライ・ラマ14世は、2歳の時にダライ・ラマ13世の「転生」と認められました。
 え、「転生」って何かって? チベット密教の考え方では、生きとし生けるものは六道の輪廻転生を繰り返します。六道とは、天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄です。ですから、人間が死んで生まれ変わったとして、人間に生まれる確率は少ないわけで、六道のどれか、場合によってはタヌキのぽん太のような畜生道に生まれ変わるわけです。そしてこの六道輪廻から外れて解脱することがチベット密教信者の願いであり、その可能性があるのは人間界だけなのですが、この点については省略いたします。一方観音菩薩は六道を輪廻せず、生きとし生けるものを救うために、人間から人間へと転生を繰り返します。これがダライ・ラマなのです。
 ダライ・ラマが死去すると、その生まれ変わりの探索が始まります。それについては、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトに詳しいです。転生者は、血筋や地位で選ばれるのではなく、先代の遺言、遺体の状況、神降ろしによる託宣、聖なる湖の観察、転生者候補が先代の遺品を見分けられるかどうかなどによって決められるそうです。
 チベット密教を信仰していないぽん太から見ると、このような方法で国の宗教的・政治的指導者を決めるのはあまりにも大胆に思えるのですが、でも実際に選ばれたダライ・ラマ14世を見てみると、彼らの鑑識眼のすごさを認めざるを得ません。
 さて、転生と認められたダライ・ラマ14世(当時はラモ・トゥンドゥプ少年)は、1940年1月14日(4歳)にポタラ宮で即位し、ダライ・ラマ14世となりました。1949年、中国共産党がチベット侵攻を開始します。1950年(14歳?)には政治的な全権を与えられました。ちなみにダライ・ラマが死去すると摂政が選ばれ、摂政は、転生したダライ・ラマの探索と、新しいダライ・ラマが成人するまでのあいだ国を治める責任を負います。1950年ダライ・ラマ14世は、摂政から全権を受け継いだわけです。
タクテン・ポタン(ノルブリンカ) さて、タクテン・ポタンに話しを戻すと、ダライ・ラマ14世のためのこの夏の離宮は、1954年に建てられました。1959年のチベット動乱で、法王はチベットを脱出し、ヒマラヤを徒歩で超えてインドに逃れます。ですから法王がタクテン・ポタンで過ごしたのは、わずか5年間ということになります。このチベット脱出の舞台となったのが、ここタクテン・ポタンです。写真はタクテン・ポタンの玄関から庭を見たところですが、玄関を出たダライ・ラマは、噴水のある庭を抜けて、突き当たりのやや右にある門(不鮮明ですが、写真の中央あたりにやや明るく写っているところ)を入ります。
ダライ・ラマ14世が脱出した門 そして、ダライ・ラマ7世の夏宮であるケルサン・ポタンにあるこの写真の門を出て、ラサ河に逃れたそうです。
 ちなみにぽん太は十数年前、日本に来たダライ・ラマ14世の講演を聴きに行き、法王に握手していただいたことがあります。タヌキのぽん太は、完璧に人間に化けたつもりだったのですが、法王は一目で見破りになり、小声で「来世は人間に生まれ変われますように」と言って下さったのが印象に残っております。

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2008/01/08

ポタラ宮の信仰と観光地化【青蔵鉄道で行く冬のチベット(3)】

ポタラ宮 ラサと言えばポタラ宮、ポタラ宮といえばラサです(あたりまえか)。
 ラサのシンボルであるポタラ宮は、7世紀の吐蕃王朝時代に造られたという説もありますが、本格的にはダライ・ラマ5世の時代がチベットを統一した17世紀中頃に造られました。しかしダライ・ラマ5世は宮殿の完成を見ずに死去。ガイドさんによると、求心力の低下を恐れた高官たちは、彼の死を10年以上も隠し続けたそうです。以後、1959年のチベット動乱でダライ・ラマ14世がインドに亡命するまで、ポタラ宮はチベットの中心としての役割を果たしてきました。
ポタラ宮 実物のポタラ宮は壮大で独特の様式美があり、写真やテレビではなかなかわかりません。白と赤の色彩、階段の斜めのラインが、迷宮のような神秘的な雰囲気を醸し出します。
ポタラ宮 ポタラ宮に入るには、下から階段を一段一段登って行かなくてはなりません。ラサの標高が3650メートル。ポタラ宮の高さはさらに115メートルありますから、一番上は標高3765メートルとなり、富士山の標高の3776メートルとほぼ同じです。深呼吸をしながらゆっくりゆっくり登らないと、息が切れてしまいます。
ポタラ宮のトイレ 食事中の方は写真を拡大しないように注意。ポタラ宮の公衆トイレです。前後に二人並んでできるようになっていて便利ですが、そんなんでできるか!っちゅ〜の。穴の下は急な崖になっており、遥か下方に汚物の山が見えます。
ポタラ宮 白宮への入口で、ここから先は撮影禁止となります。それまで、かなり突っ込んだ質問にも答えてくれていたガイドさんですが、「ここから先は質問をしないように」と念を押されました。内部では声を録音していて、万が一中国政府を批判したり、政府の方針に反するような発言をすると、あとで処罰される可能性があるそうです。
 ポタラ宮の内部は、ダライ・ラマが政治を行った部屋や居室、あるいは歴代ダライ・ラマのお墓や、諸々の仏像などがありますが、その辺の情報は「ポタラ宮」でググればいろいろ出てくると思うので、ぽん太は省略いたします。
ポタラ宮の夜景 ポタラ宮は1994年に世界遺産として登録され、2000年にはジョカン、2001年にはノルブリンカが追加登録されました。こうしてみると、中国政府はチベット文化を尊重しているようにも見えます。しかし一方では、ポタラ宮の観光地化、非宗教化が勧められています。主であるはずのダライ・ラマ14世がいないポタラ宮には、大勢の外国人観光客が押し寄せ、観光シーズンの夏には入場制限が行われるほどです。観光客目当てに多くの漢民族がラサに移住し、レストランや土産屋、ホテルを経営しています。ガイドさんの話しでは、チベット人の信仰の対象となっている仏像をポタラ宮から運び出し、別のところにまとめて安置する計画が進められているそうです。こうして文化遺産の保護を詠いながら、巧妙にポタラ宮の観光地化、非宗教化が勧められているわけです。
ポタラ宮前の五体投地 チベットでは、聖地の周りを時計回りに歩く「コルラ」という習慣があります。一般の観光客が減るこの季節、ポタラ宮の周りはマニ車を回し、経文を唱えながらコルラする巡礼者でにぎわっていました。ポタラ宮の正面では、多くのチベット人が五体投地をしていました。五体投地とは、その名の通り、頭と両手両足を地面に投げ出して礼拝する方法です。どういうものか知りたい方は、たとえば下記の動画をご覧下さい。


ポタラ宮から見たラサ新市街 ポタラ宮から見た、ラサの新市街です。新しく移住して来た漢民族の町で、広々として区画整理もされています。
ラサ旧市街 こちらは、ジョカン周辺の旧市街です。チベット人が住む地区で、道幅は狭く、迷路のように入り組んでいます。

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2008/01/07

ここでチベットの歴史と対中国問題をおさらいしときましょう【青蔵鉄道で行く冬のチベット(2)】

兄妹(ポタラ宮) さて、前回の記事では、楽しい青蔵鉄道の旅についてご報告いたしました。次はポタラ宮などのラサ市内の観光をご報告したいのですが、その前にチベットの歴史と、中国との間に抱える問題について、ざっとお勉強しておく方がわかりやすいかと思います。
 とはいえ、このブログですべてをまとめるのはめんどくさいので、たとえばこちらのwikipediaの「チベット」の項目などをご覧下さい。かなり詳しく書いてあります。
親子(ノルブリンカ) チベットの最初の統一王朝は620年頃に成立した吐蕃王朝(とばんおうちょう)で、その王ソンツェン・ガンポが唐から文成公主を妻として迎え入れたことは、TBSの世界不思議発見!でやってました。彼はまた、ネパールも打ち破り、ネパールのティツン王女をめとりました。この二人の妻は、ラサのジョカン(大昭寺)とラモチェ(小昭寺)にゆかりがありますが、今回は省略いたします。吐蕃王朝は9世紀には分裂し、チベットは群雄割拠の時代となります。
 14世紀、ツォンカパ(1357-1419)は仏教界の改革を目指し、ゲルク派を興しました。戒律の厳しい宗派でしたが、次第に信者を増やして行きました。ノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ14世もゲルク派です。
若い僧侶たち(セラ・ゴンパ) ダライ・ラマといえば、この称号は、モンゴル人によって与えられたものです。16世紀のモンゴルの支配者アルタン・ハーン(1507-1582)は、チベット方面に侵出したおりに仏教に帰依し、チベット僧ソナム・ギャンツォに「ダライ・ラマ」という称号を贈りました。ダライとは、モンゴル語で「大海」を意味します。ソナム・ギャンツォはダライ・ラマ3世を名乗り、現在の14世にまで至っています。一方これがきっかけで、モンゴルにも仏教が広がりました。ぽん太は、以前にモンゴルに行ったとき、モンゴル人もチベット密教を信仰していることを知りましたが、モンゴルがチベット密教にこんな大きな役割を果たしているとは知りませんでした。またダライ・ラマ4世は、アルタン・ハーンの孫で、モンゴル人だそうです。
 17世紀、ダライ・ラマ5世(1617-1682)はチベットを統一し、ラサを首都とする政教一致の政権を打ち立てました。文化も発展し、ポタラ宮を建設したのもダライ・ラマ5世の時代です。しかし彼の死後政権は弱体化し、清の干渉を受けるようになりました。
 1911年に始まる辛亥革命をきっかけに、ダライ・ラマ13世率いるチベットは独立を試みましたが、当時のどの国にも承認されず、以後、中華民国とのあいだに緊張関係が続きました。
祈り(ポタラ宮周辺) そんななか、ダライ・ラマ14世が1939年(1940年でした)に即位。第二次大戦後にチベットも独立の機運が高まりましたが、1949年に建国された中華人民共和国はチベットは中国の一部分であると主張。1950年には圧倒的な軍事力によってチベットを制圧し、1951年にはチベットが中華人民共和国の統治下に入ることを認める十七か条協定を結びました。
 チベットはなおも抵抗を続けましたが、1959年にはラサの暴動に発展し、ダライ・ラマ14世はラサを脱出してヒマラヤ山脈を徒歩で越え、インドに亡命しました(チベット動乱)。
 1965年にチベットは中華人民共和国の西蔵自治区となり、続く文化大革命時代には、寺院や仏像の破壊、僧侶の投獄・殺害が行われました。
 改革開放政策になってからは、中国政府はチベットに対し、アメとムチの政策で対応しています。ダライ・ラマ14世への信仰を禁止して徹底的な弾圧を加える一方で、ラサへの漢民族の移住や資本の投入を行い、チベット人の信仰心や民族意識を崩壊させようとしています。ぽん太が前回ご報告した青蔵鉄道も、中国本土とラサを直結することで、一方ではチベット文化破壊の役割を担っているのです。青蔵鉄道で旅をなさる方は、ぜひともそういった問題があることを考えながら乗って欲しいと思います。

【関連リンク】
・中国兵がヒマラヤを徒歩で越えてインドに逃れようとするチベット人を射殺する事件の報道の動画(残酷な映像がありますのでご注意下さい)


超入門 チベット問題:チベットに詳しいサイト「I LOVE TIBET!」のなかのページ

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2008/01/06

絶景また絶景の快適な旅【青蔵鉄道で行く冬のチベット(1)】

 あけましておめでとうございます、ってもう遅いか……。ぽん太とにゃん子は正月休みに、青蔵鉄道に乗ってチベットに行ってきました。真冬に、標高3600メートルのラサに行くのは無謀と思われるかもしれませんが、ラサは思ったほど寒くありませんでした。また、夏のラサは観光客が押し寄せますが冬は少なく、いれかわりに、農閑期のため多くのチベット人が巡礼に訪れ、独特の雰囲気がありました。
 とても楽しい旅でしたが、お世話になった旅行会社の名前は伏せておきます。というのは、チベットについて語れば、当然彼らの信仰について語ることになりますが、そこには中国政府の方針と反する部分があるので、旅行会社の名前からチベットの旅行代理店が判明して、現地ガイドさんたちが不利益を被ることを恐れるからです。
 青蔵鉄道は、青海省の西寧とチベット自治区のラサを結ぶ鉄道で、2年前の2006年7月1日に全線開通したばかりです。興味のある方は、たとえばこちらのwikipediaの「青蔵鉄道」の項目をご覧下さい。海抜4000メートル以上の凍土地帯を走り、最高地点は海抜5072メートルと、もちろん鉄道としては世界最高です。車窓からは雪を抱いた山々などの珍しい風景や、野生の動物たちを見ることができます。
西寧駅 西寧の駅を列車が出るのは、夜の20時28分でしたが、実際には20〜30分遅れました。駅の待合室は、食料の入った大きな袋を担いだ巡礼のチベット人で溢れかえっており、観光客はわれわれくらいで、まわりから好奇の目で見られていました。
青蔵鉄道の客車 これが客車です。新しくて美しいです。高山病対策のため、飛行機のように与圧されていると言われていますが、いや、与圧はされていないが気密性になっていて、酸素が供給される仕組みになっているという説もあります。ただ、窓の一部は開くようになっていて、中国人(漢民族)が窓を開けたりしていました。彼らは禁止されているタバコをこっそり吸ったりしていて、こまったものです。また高山病対策としては、ベッドの枕元に酸素吸入用のプラグがついていて、乗務員に言えば、鼻から吸うためのチューブ(鼻孔カニューレ)をくれます。
 ディーゼル機関車の写真も撮りたかったのですが、ぽん太が乗った車両は14号車で、とても先頭まで写真を撮りに行く時間はありませんでした。
硬臥車内(青蔵鉄道) ぽん太たちが乗ったのは「硬臥」で、いわゆる2等寝台です。3段ベッドが向かい合わせになっております。下段は腰掛けることができますが、中段・上段は天井が低くて、座り込むこともできません。車内は暖房されていてとても暖かいですが、空気が乾燥しています。下段は暖房が暑くて寝苦しく、反対に上段は換気の風で寒いようで、温度調節ができる服をもってくるといいでしょう。料金は下段が一番高く、上にいくほど安くなります。寝具は清潔で快適です。
硬臥の通路(青蔵鉄道) 通路の部分です。硬臥では、廊下とコンパートメントのあいだに扉もカーテンもありません。眺めはいいですが、通る人から中は丸見えです。飲料用の熱湯を無料でいつでも汲めるようになっており、持参のお茶やコーヒーを飲むことができます。トイレは車両の両端に着いており、硬臥では中国式、いわゆる1等寝台の軟臥では、片方が様式になっています。といれも一応清潔な造りで、こまめに掃除もしていますが、中国人の使い方が悪いのですぐ汚れます。夜は10時すぎに消灯になります。青海湖の近くを走って行くのですが、夜なのでまったく見えませんでした。
 翌朝の7時過ぎにゴルムドの駅(標高2828m)に到着します。ここで、アメリカのジェネラル・エレクトリック社製の高地用の機関車に交代します。見に行きたかったのですが、真っ暗で何も見えそうもないので止めました。「7時過ぎで真っ暗ですって?」 いいつっこみです。中国はあんなに大きい国なのに、国のなかに時差がなく、北京でちょうどいいように時差を設定しているため、西に行くほど時間がずれてくるのです。ラサでは日の出は朝の9時頃でした。
 ところで、ゼネラル・エレクトリック社製の機関車は、日本も初期に輸入したので鉄道ファンにはおなじみですね。国鉄ED11(→西武鉄道E61)国鉄ED14(→近江鉄道ED14)上田丸子電鉄A1→同EB4110,4111御池炭坑15t電気機関車国鉄DD12ディーゼル機関車などが思いつきます。
朝食のお弁当(青蔵鉄道) 朝ご飯は車内販売のお弁当です。豪華ではありませんが、油っこくなくて、とてもおいしかったです。
青蔵鉄道から見る雪山 列車はどんどん標高を上げて行き、ここらでは4000メートルくらいです。夜が明け始め、オレンジ色の朝日が差した雪山が見えます。山の標高は6000メートルくらいです。
コンロン山脈 喘ぐように坂を登る列車は、コンロン山峠を越えるとようやくスピードを上げて走り出します。振り返ると、コンロン山脈の峰々が気高い姿を見せてくれます。このあたりはココシリ自然保護区で、ところどころ野生の鹿や馬を見ることができます。
風火山 赤茶けた山は風火山、周囲は永久凍土です。この近くの風火山トンネルは、世界一標高が高いそうです(4905m)。
トト河 すっかり凍てついたこの河はトト河といい、長江の源流といわれているそうです。
青蔵鉄道の食堂車青蔵鉄道の食堂車のメニュー 昼食は食堂車でいただきました。座席数はあまり多くありませんが、快適です。料理もできたてでとても美味しいです。食堂車より先頭側の車両は、寝台ではなく座席の車両になっており、ちょっと訪問してみたらチベット人がぎっしり乗っていましたが、とても写真を撮れる雰囲気ではありませんでした。
鉄道世界最高地点 何のへんてつもない風景ですが、鉄道の標高世界最高地点、5072メートルです。日本だったら看板かなにか建てると思うのですが、まったく表示はありません。ちなみに日本の鉄道最高地点は、小海線の清里〜野辺山間の1375メートルです。
世界最高駅 そしてこちらが、世界最高鉄道駅のタングラ駅(5068メートル)です。ちなみに日本の最高駅は野辺山駅の1345.67メートルです。
ツォナ湖 この凍り付いた広い湖はツォナ湖で、チベット人にとっては聖なる湖だそうです。このあたりから草地が見られるようになり、放牧されている羊の群れや、民家などが見られるようになってきます。
ナクチュ駅 ナクチュ駅では2〜3分ですがホームに降り立ちました。標高4513メートルですから、走って息を切らしたりしないようにご用心。これまで20時間以上せまい車内にいたので、手足を延ばして新鮮な空気を吸い、とてもリフレッシュできました。
ラサ駅に到着ラサ駅 午後10時過ぎ、ようやくラサに到着です。広くて立派な駅です。みなさまご苦労様でした。

 約26時間と長い列車の旅でしたが、見たこともないような景色を楽しめ、世界最高地点も体験できます。アメニティも快適でした。鉄道ファンだけでなく一般の方々にもぜひお勧めしたい観光ルートです。

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