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2008年2月の13件の記事

2008/02/24

ペンギンの散歩とあられもない姿のホッキョクグマ・真冬の旭山動物園を再訪

 過日、ぽん太とにゃん子は北海道の旭山動物園に行ってきました。今回が2回目の訪問です。
 前回一昨年行ったときは3月も末の早春でしたが、今回は真冬なので、前回とは違った動物たちの姿を見ることができました。

雪のなかのトラ・旭山動物園 雪のなかのトラです。なんかシュールです。このほか、雪のなかのライオン、雪のなかのゾウ、雪のなかのサイ、雪のなかのキリンなどを見ることができます。
レッサーパンダ団子・旭山動物園 レッサーパンダも寒くて丸まっています。
タンチョウヅル綿アメ タンチョウヅルも寒くて綿アメのようになっています。
ホッキョクグマの痴態・旭山動物園 一方、ホッキョクグマ君は、雪の上で大喜びです。腹這いになるホッキョクグマ。足の裏がキュートです。
ホッキョクグマの痴態・旭山動物園 雪に体をこすりつけて恍惚とした表情のホッキョクグマ。
ホッキョクグマの痴態・旭山動物園 頭をかかえるホッキョクグマです。
ペンギンの散歩・旭山動物園 真冬の旭山動物園の最大の見物は「ペンギンの散歩」です。足を痛めないように、雪がある時期だけに行われます。前回訪れたときは観ることができませんでした。目の前をキングペンギン君が歩いて行くのを観ることができます。
ペンギンの散歩・旭山動物園 一匹がつまずいてコケタと思ったら、そのまま腹這いで雪の上を進んで行きます。あまりのカワユさに観客から思わず声があがりました。

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2008/02/23

【精神医学史】メスメルとフリーメイソン

 以前にぽん太がモーツァルトの『魔笛』とフリーメイソンの関係について書いたとき読んだ茅田俊一の『フリーメイスンとモーツァルト』[1]のなかに、気になる記述がありました。茅田は、18世紀後半のフリーメイソン全盛期にみられた疑似フリーメイソン活動のひとつとして、メスメルを取り上げているのです。メスメルといえば、催眠術を使って神経症の治療を行った人で、ぽん太の守備範囲ではないか!こ、これはみちくさしてみる必要があります。

 フランツ・アントン・メスメル(Franz Anton Mesmer, 1734〜1815)はドイツ生まれの医者で、彼が動物磁気と呼ぶものを使って神経症の治療を行ったのですが、それはいまでいう催眠術であり、彼は精神療法の先駆者とも呼ばれています。
 茅田は、18世紀後半のフリーメイソンの全盛期において、その周辺で、「山師、詐欺師、不法なぺてん師などによる魔術を援用した疑似メイスンリー活動」が行われたと述べ、その代表的な二つの例として、カリオストロとメスメルを挙げています。メスメルは動物磁気による治療を行えるのは、「特別に霊的な能力を備えた人」である必要があり、「メスマーはこの経験から、1783年パリでメイスンリー的性格の結社「宇宙の調和団」を創設した。メンバーは霊的に浄化されて、メスマーの療法を実行し、広める能力を身につけることが出来ると教えたのである。メスマーのシステムは、当然、真正なメイスンリーとは縁のない一種の瞞着ではあったが、実際に治療の効果があがっていたことから、今日では精神療法の先駆者として認められている」([1]、p.118)と茅田はいいます。
 メスメルが山師カリオストロと同列に扱われているのは、精神科医のぽん太はちょっと納得できない気がします。茅田は、一般には政治的陰謀を企む秘密結社のように思われているフリーメイソンが、時代的制約はあったにしろ、実は18世紀の啓蒙主義・理性主義・人間中心主義の思想のなかに位置づけられることを強調していますが、メスメリズムに関しては、同様の好意的な見方をしていないようです。しかし茅田の記述を読むまで、ぽん太はメスメルとフリーメイソンを結びつけて考えたことはありませんでした。
 そこで、エレンベルガーの『無意識の発見』[2]を読み直してみました。すると、なんだ、ちゃんと出てました。メスメルに治療を頼んだひとのなかに、彼に対して多額の金銭援助を行ったひとたちがいました。ひとりが法律家のニコラ・ベルガスで、もうひとりは銀行家コルンマンでした。1783年頃、彼ら二人は、新しい企画を立案します。「二人で予約会員組織を設立し、大金を集めてメスメルの発見を買い上げようというのである。会員はメスメル法の“機密”の所有権を与えられる特典を有し、また会員は全員が一つの結社をつくり、メスメル法を勉強したいものを教育訓練したり、メスメルの思想の普及に当たることとなる」。この協会の名前は調和協会(Société de l'Harmonie)といい、高額な入会金にもかかわらず、著名人も含め多くの人が入会を希望しました。メスメルと弟子たちのあいだの軋轢もありましたが、この会はメスメルに巨額の富みを与えました。この協会は「企業のようなところと市立学校のようなところと秘密結社フリーメイソン支部のようなところが混じった妙な会」でしたが、パリ以外の市や町にも支部が設置されるなどして、大衆の興味の的となりました。1784年3月、フランス国王ルイ16世は二つの委員会を発足させ、メスメルの方法を科学的立場から検証させました。これら委員会には、天文学者バイイ、化学者ラヴォアジエ、医師ギヨタン(豆知識:有名な機会の発案者。但し発明者ではない)、当時アメリカ合衆国駐仏大使だったベンジャミン・フランクリンなど、名だたる科学者が名を連ねていたそうです。委員会の結論は否定的なものでした。またメスメルと弟子たちとの内紛も激しくなり、嫌気がさした多くの会員が脱退していきました。協会設立からわずか2年後の1785年、メスメルはパリから姿を消してしまいます([2]、p.74〜p.78)。
 またシェルトーク、ソシュールの『精神分析の誕生』には、メスメルの「普遍的流体」(un fuide universel)という概念がフリーメイソンの秘密の協議から着想を得たものだと書いてありますが([3]、p.10)、対応するフリーメイソンの教義がなんなのか、ぽん太にはわかりません。

[1]茅田俊一『フリーメイスンとモーツァルト』講談社現代新書、1997年。
[2]エレンベルガー『無意識の発見 上 - 力動精神医学発達史』木村敏・中井久夫監訳、弘文堂、1980年。
[3]シェルトークk、ソシュール『精神分析学の誕生?メスメルからフロイトへ』岩波書店、1987年。

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2008/02/22

【バレエ】マラーホフの存在感に圧倒される(マラーホフの贈り物:Bプロ)

 春の訪れを思わせる暖かい日。バレエ初心者のぽん太とにゃん子は、初めてマラーホフを観に行ってきました。ぽん太の風邪はだいぶよくなり、今日は眠らずに観れそうです。
 ベルリン国立バレエ団の芸術監督にしてプリンシパルのマラーホフ(こちらがマラーホフのオフィシャルサイトです)は、昨年9月に来日する予定で、ぽん太たちも「ニジンスキー・プロ」のチケットを買って楽しみにしていたのですが、残念ながら膝の手術のため降板。おかげでシャルル・ジュドの牧神やローラン・イレールのペトルーシュカが観れたのはよかったですが……。
 さてこんかいは、同じくベルリン国立バレエ団のポリーナ・セミオノワを伴って、満を持しての来日です。ぽん太とにゃん子も満を持して観に行きました。
 まずはマラーホフとセミオノワの「牧神の午後」。今回はジェローム・ロビンズの振付けです。ニジンスキー版と違ってバレエ的な要素もあり、池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』のような官能的でけだるい雰囲気がよかったです。ニジンスキー版をどのように踊るかも観たくなりました(今回は予定があいませんでした)。マラーホフは、「バレエ・インペリアル」では、すごく軽く踊っているのに(怪我が治りきっていないせいか?)、とても魅力的でした。ポリーナ・セミオノワは、昨年の4月にフリーデマン・フォーゲルと「白鳥」を踊った時は、若さピチピチという感じで、3回転をふんだんに盛り込んだクランフェッテや長いバランスなど、身体能力の高さを見せてくれましたが、今回は大人っぽい雰囲気が加わり、ゆっくりした動作がとても美しかったです。
 「グラン・パ・クラシック」は、ベルリン国立バレエ団のサレンコと、ナショナル・バレエ・オブ・カナダのコンヴァリーナのペア。丁寧に正確に踊っている印象を受けましたが、一転して「ドン・キホーテ」では、思い切りの良いジャンプや回転を見せてくれました。
 ボリショイ・バレエ団のアレクサンドロワとフィーリンのペアは、「ハムレット」では深刻で苦悩に満ちた内面性を表現し、一方「シンデレラ」ではやわらかく優雅なでした。
 「黒鳥のパ・ド・ドゥ」はドヴォロヴェンコとベロツェルコフスキーのABTペア。ドヴォロヴェンコは鼻っ柱の強いお嬢さんという感じで、黒鳥の妖艶で蠱惑的(こわくてき)な魅力にはちと欠けていました。グランフェッテも、スピードは速かったですが、全部シングルではちょっと拍手がしにくい。ぽん太は、むしろ「アポロ」の力強いダンスの方が気に入りました。
 シメはマラーホフのソロで「ラ・ヴィータ・ヌォーヴァ」の世界初演。雰囲気たっぷりのコンテンポラリー・ダンスで、マラーホフの存在感が光り、まさにすばらしい「贈り物」でした。

<マラーホフの贈り物>
プログラムB
2008年2月21日(木)19時開演 
会場:東京国際フォーラム ホールC
第1部
「牧神の午後」
  振付:ジェローム・ロビンズ
  音楽:クロード・ドビュッシー
  ポリーナ・セミオノワ  ウラジーミル・マラーホフ
「グラン・パ・クラシック」
  振付:ヴィクトール・グゾフスキー
  音楽:ダニエル・オーベール
  ヤーナ・サレンコ  ズデネク・コンヴァリーナ
「ハムレット」
  振付:ボリス・エイフマン
  音楽:ルードヴィヒ・V.ベートーヴェン
  マリーヤ・アレクサンドロワ  セルゲイ・フィーリン
「白鳥の湖」より"黒鳥のパ・ド・ドゥ"
  振付:マリウス・プティパ
  音楽:ピョートル・I.チャイコフスキー
  イリーナ・ドヴォロヴェンコ  マクシム・ベロツェルコフスキー
第2部
「バレエ・インペリアル」
  振付:ジョージ・バランシン
  音楽:ピョートル・I.チャイコフスキー
  ポリーナ・セミオノワ  ウラジーミル・マラーホフ
  奈良春夏、中島周、横内国弘、ほか東京バレエ団
第3部
「シンデレラ」
  振付:ユーリー・ポソホフ
  音楽:セルゲイ・プロコフィエフ
  マリーヤ・アレクサンドロワ
  セルゲイ・フィーリン
「アポロ」
  振付:ジョージ・バランシン
  音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー
  イリーナ・ドヴォロヴェンコ  マクシム・ベロツェルコフスキー
「ドン・キホーテ」
  振付:マリウス・プティパ
  音楽:レオン・ミンクス
  ヤーナ・サレンコ  ズデネク・コンヴァリーナ
「ラ・ヴィータ・ヌォーヴァ」 (世界初演)
  振付:ロナルド・ザコヴィッチ
  音楽:クラウス・ノミ/ロン・ジョンソン
  ウラジーミル・マラーホフ

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2008/02/21

中世ロシアの文学『イーゴリ遠征物語』を読む

 過日マリインスキー・オペラの『イーゴリ公』を観て感動したぽん太は、オペラの題材となった『イーゴリ遠征物語 』(木村彰一訳、岩波文庫、1983年)を読んでみました。

 ボロディンのオペラ『イーゴリ公』は、「だったん人の踊り」(ポロヴェツ人の踊り)で有名ですが、その物語の下敷きとなったのは『イーゴリ遠征物語』という作者不明の中世ロシア文学です。ちなみにイーゴリ公のポエロヴェツ遠征は、1185年に実際にあった出来事だそうです。
 この物語は、いまでこそ中世ロシア文学を代表する傑作として評価されていますが、発見されたのは比較的新しく、1790年代に写本(Mと略記)が見つかったのが始まりだそうです。1800年には、当時のロシア語への対訳・脚注・解題を添えた初刊本(Pと略記)が出されました。また、それとは別に、女王エカテリーナ2世のためにコピーが作られ、こちらは1864年になって公刊されました(Aと略記)。ところが写本Mは、1812年のナポレオンのロシア遠征によるモスクワの大火で焼失してしまい、現在はPとAだけが残っています。ちなみにテクスト・クリティークの結果から、焼失した写本Mも16世紀初め頃に北ロシアで作られたと考えられており、12世紀末に作られたとされる原作とは大きくことなっているそうです。
 『イーゴリ遠征物語』は比較的短い作品で、邦訳は叙事詩のような文体になっていますが、訳者の解説によれば、原文は複雑な詩的リズムを持つ散文で書かれているそうです。
 この物語の自然感は独特で、自然が意思や感情をもっており、人間や出来事に反応します。さらにはイーゴリ公とドネツ川が対話したりします。
 コンチャークがイーゴリ公を紳士的に扱ったことや、イーゴリ公の息子ヴラジーミルがコンチャークの娘と結婚したことなどは、『イーゴリ遠征物語』には出てきません。他の「年代記」などに記されているそうです。
 オペラの中では、イーゴリ公の妻ヤロスラーヴナが夫の身を案じて「郭公となって愛する夫のところに飛んで行きたい」と歌う美しいアリアがありますが、『遠征物語』のなかに、ほぼ同じ内容の詩句があるようです。

 邦訳の解説には、イーゴリ公遠征の時代背景について書かれています。ウクライナのキエフを中心に9世紀末に建国された東スラブ人の国家ルーシ(キエフ大公国)は、11世紀には全盛期を迎えますが、13世紀前半にモンゴル帝国によって滅ぼされます。イーゴリ公の遠征が行われた12世紀末は、ポロヴェツ人の侵入と、諸候の内乱によって、ルーシは危険をはらんだ状態だったそうです。
 ポロヴェツ人はテュルク系の遊牧民で、勇猛果敢であり、ルーシに何度も侵入して、村を焼き討ちしたり、住民を殺したり奴隷にしたりしたそうです。西ヨーロッパとアジアの交易を担って栄えていたルーシですが、ポロヴェツ人によって黒海やカスピ海への通商路を断たれたことや、十字軍遠征によって地中海貿易のルートが栄えたことなどによって、力を失うことになります。
 ルーシでは諸候同士の内乱が絶えませんでしたが、その原因のひとつは、独特の候位継承制度があったそうです。候が死んでも、候の子供には継承権がありませんでした。各都市はキエフを頂点とする格付けがなされており、ある都市を支配していた候が死ぬと、一つ下位の都市を支配していた候が後を継いだのだそうです。
 さらには諸候同士の内乱に際して、共通の敵であるはずのポロヴェツ人の軍事力を借りるといったことが横行していたのだそうです。
 この物語の主役のイーゴリ公の遠征も、個人的な功名心に基づくスタンドプレーだったどいう評価もあるようです。
イーゴリ公遠征関連地図 イーゴリ公の遠征は、この物語以外にも、古い年代記などに記載されているそうで、それらを総合すると、公は1185年4月23日、弟フセーヴォロト、甥スヴャトスラーフ、息子ヴラジーミルを伴い、居城のあったノーヴゴロト・セーヴェルスキイを出発(地図を参照して下さい。ただし邦訳を参考にぽん太が作成したので、多少違っている可能性があります)。5月1日夕刻、ドネーツ川付近で日食に遭遇。5月10日、ポロヴェツ人の小部隊と戦って勝利。しかし5月11日の明け方に敵の大群に包囲され、夜を徹して戦いますが、12日に大敗を喫して壊滅。その場所はいろいろと説がありますが、アゾフ海北岸に近いカリミウス川のほとりとも言われているそうです。勢いに乗ったポロヴェツ人はスーラ川とセイム川の間のドニエプル左岸にまで侵入して引き上げたそうです。おそらく6月頃、イーゴリ公はポロヴェツの陣地を脱出。11日歩いてドネーツに行き、ノーヴゴロドに戻りました。2年後の1187年秋、息子ヴラジーミルが、コンチャーク汗の娘と子供一人を伴って帰国したそうです。

 邦訳の底本は、ロマーン・ヤーコブソン『選集』第4巻(1966)に収録されたテクストとのこと。ロマーン・ヤーコブソンといえば、構造主義言語学で有名ですが、ロシアの古い物語の校訂のような仕事もしてたんですね。
 そういえば、遠征物語の舞台は現在のウクライナですが、バレエダンサーのウラディミール・マラーホフもウクライナ出身ですね。実は今夜観に行く予定です。

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2008/02/20

【歌舞伎】2008年2月歌舞伎座昼の部&横山大観展

 今日は春の訪れを思わせる暖かい日。しかし風邪気味で体調が悪い。切符を購入してあったので、歌舞伎を観に行く。夢うつつでよく観れず。
 「小野道風青柳硯」は、梅玉がおっとりと立ち回り。小野道風(894〜967)といえば、花札の図柄にもなっている、柳に飛びつく蛙の逸話で有名ですが、この逸話が広まったきっかけが、この狂言なのだそうです。さらに戦前には、この話しは教科書に載せられ、軍国主義教育に使われました。書道家として有名で、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)とともに、「三磧」と呼ばれています。小野道風の書を見たい方は、たとえばこちらの「e国宝」のサイトで円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書(国宝)を見ることができます。
 次は「車引」。それぞれの役者が、きっちり役を勤めていました。桜丸の錦之助に、もう少し色気があるといいのですが。錦之助は女形の修行はしないのでしょうか。時平の歌六は、もう少し怪異さがあるとよかったです。
 「積恋雪関扉」は、食後で爆睡してしまいました。ホントはとてもいい舞台だった気がするのですが。ごめんなさい。
 「七段目」は、平右衛門とおかるのくだり、比較してはいけないと思いつつ、前回のニザタマの名演技の印象が強すぎます。ニザタマはじゃらじゃらが濃すぎて、兄妹というより恋人同士のような感じでしたが、こんかいの染五郎・芝雀は若い兄妹という感じでした。ただあいかわらず染五郎が父親と同じく、動きも台詞も歌舞伎狂言ぽくないのが残念でした。

 帰りがけに、国立新美術館横山大観展を見ました。横山大観は、名前は知れどもどういう人で、どういう絵を書いたのか、ぽん太はまったく知りませんでした。さまざまな画風の絵があって、なかには劇画あるいはアニメ調のものもありました。どれも雰囲気があってよかったです。ぽん太が興味を持ったのは、横山大観は無類の日本酒好きで、ご飯はほとんど食べず、日本酒で必要なカロリーを摂取していたという話し。ここだけはぽん太と同じです。横山大観のお気に入りは広島の酔心だったそうです。

歌舞伎座
歌舞伎座百二十年 初代松本白鸚二十七回忌追善
二月大歌舞伎
昼の部
一、小野道風青柳硯(おののとうふうあおやぎすずり)
  柳ヶ池蛙飛の場
            小野道風  梅 玉
           独鈷の駄六  三津五郎
二、菅原伝授手習鑑
  車引(くるまびき)
             松王丸  橋之助
             梅王丸  松 緑
             杉王丸  種太郎
           金棒引藤内  亀 蔵
              桜丸  錦之助
            藤原時平  歌 六
三、積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)
     関守関兵衛実は大伴黒主  吉右衛門
          良峯少将宗貞  染五郎
           小野小町姫
            傾城墨染  福 助
         実は小町桜の精
四、仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)
  祗園一力茶屋の場
          大星由良之助  幸四郎
          寺岡平右衛門  染五郎
            大星力弥  高麗蔵
            斧九太夫  錦 吾
           矢間重太郎  秀 調
          富森助右衛門  家 橘
            赤垣源蔵  友右衛門
           遊女おかる  芝 雀

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2008/02/19

斎藤茂太『精神科医三代』で日本の精神医学史を学ぶ

 昨日のブログに映画の『去年マリエンバートで』のことを書いたら、本日の新聞に、脚本を書いたアラン・ロブ・グリエの訃報が出てました。ぽん太のブログはデスノートか!?

 森田正馬の評伝を読んで日本の精神医学史に興味をもったぽん太は、続いて斎藤茂太『精神科医三代』(中公新書、1971年)を読んでみました。斎藤茂太先生は、言わずと知れた精神科医で斎藤病院の元院長、斎藤茂吉の息子にして北杜夫のお兄さんです。本書は斎藤家の紀一・茂吉・茂太の三代に渡る歴史を書いたもので、北杜夫の小説『楡家の人びと 』と同一の題材です。
 こんかいも書評や要約ではなく、ぽん太が興味深かった点を抜き書きいたします。

 まず斎藤紀一は、1891年(明治24年)に浅草区東三筋町54番地に浅草医院を開業しました(p.4)。現在も台東区三筋という地名が残っていますが、こちらの大正元年の浅草地図の東三筋町54番地を現在の地図と比べてみると、ここらあたり(地図)のように思うのですが、正確にはわかりません。ちなみに三筋2-16の三筋老人福祉会館に、斎藤茂吉の碑があるそうです。で、この頃、まだ紀一が精神科を志す以前で、あらゆる病気を診ていましたが、なかなか繁盛したそうです。1896年(明治29年)、守谷茂吉(のちの斎藤茂吉)は、生まれ故郷の山形県の上ノ山を立ち、紀一にもとに身を寄せました。ちなみに現在、山形県上山市には斎藤茂吉記念館があります。
 この頃の思い出を茂吉は、『三筋町界隈』(1937年、昭和12年)という随筆に書いているそうですが(p.5)、こちらの青空文庫で読むことができます。それを読むと「ぽん太」という芸妓が出てきますが、小生とは無関係なことはいうまでもありません。初代ぽん太は鹿島ゑ津というひとだそうですが、多磨墓地にお墓があるそうです。彼女は森鴎外の『百物語』(1911年、明治44年)に出てくるのだそうですが(こちらの青空文庫で読めます)、「太郎」という芸妓がそうでしょうか?
 さて、紀一は明治28年頃(?)に、神田泉町一番地にもうひとつ東都病院をつくりました。この場所はのちに坪井医院となり、昭和45年に茂太がそこを訪問したと書かれていますが、現在も坪井医院は残っているようです。
 細かい理由はわかりませんが、紀一は精神病院設立を思い立ち、まず自分が精神医学を修得するために、1900年(明治33年)にヨーロッパに旅立ちます。帰国は1903年(明治36年)ですが、奇しくも夏目漱石のイギリス留学からの帰国と同じ船になったそうで、日本で漱石の帰国を待っていた親戚は、精神科医が同船していると聞いて、留学中に精神障害になったのではないかと戦々恐々だったそうです(p.41)。
 帰国した紀一は、東都病院を精神科の病院に造りかえ、「帝国脳病院」と命名しました。さらに赤坂区青山南町5丁目に大精神病院の建設を開始し、1907年(明治40年)に完成。これが有名な青山脳病院です。この場所は現在では、表参道交差点から根津美術館方向に向かい、青山南小学校の向こう側を左に曲がった突き当たりです(地図はこちら)。マンションの一角に、斎藤茂吉の歌碑(注:当初「句碑」と書きましたが、「茂吉ファン」さんのご指摘で2014年3月3日に修正)があるそうです。こんどブルーノートにで行くときによってみようっと。
 話しは飛んで1924年(大正13年)、青山脳病院は火災で焼失します。病院の再建に対して反対運動が起こり、紀一は東京府下松原村に土地を借りて、病院を建設します(p.125)。これが現在の都立梅ヶ丘病院のある場所ですね。なぜこの病院が都に移ったかについては、後で述べます。
 知らなかったのは、この頃、精神病院の監督官庁が警視庁だったこと。有名な金子準二先生が、当時警視庁に技官としておられたそうです(p.129)。年配の先生にとっては当たり前か?厚生省ができたのは1938年(昭和13年)で、ようやく精神病院が警視庁の管轄からはずされたのだそうです(p.146)。
 1928年(昭和3年)、紀一は、気に入ってたびたび訪れていた熱海の旅館「福島屋」で死去します(p.137)。なぬなぬ、温泉と聞くと目の色が変わるぽん太ですが、ぐぐってみると、確かに熱海温泉福島屋という旅館が現存します。現在は日帰り入浴しか行っていないようですが、現在は古びてはいるものの内装も凝っていて、「ここに違いない」とぽん太の野生の本能が話しかけてきます。
 もうひとつ豆知識。精神科の病名から「狂」の字を取り除いたのは呉秀三先生だそうで、「躁うつ狂」を「躁うつ病」に、「早発痴狂」を「早発性痴呆」に改めたそうです。またカルテを日本語で書いたのも呉秀三先生の流儀で、当時カルテを日本語で書いたのは精神科だけだったそうです(p.139)。
 さて、千葉県市川市にある国府台病院の歴史。もともとは1872年(明治5年)に教導団兵学寮(のちの陸軍士官学校のようなもの?)の病室として使われたのがそもそもの始まりだそうです。1937年(昭和12年)、時の陸軍省小泉親彦医務局長が、自らドイツの第一次大戦で観察した経験に基づいて、日本でも戦争によって遠からず大量の神経症者が発症するだろうと予測し、国府台に精神科専門病院を作ったそうです。茂太さんは、「皇軍に精神病者はいない」「精神病はたるんでいるから起こる」などという思想だった当時の帝国陸軍において、精神病院を作った小泉軍医の先見の明と勇気を誉めたたえています。ちなみに茂太さんは、戦争中に召集されてここで働いていたそうです(p.155)。
 戦局が長引いてくると、後療法の必要が生じ、山梨県下部温泉に下部転地療養所が開かれ、作業療法などが行われたそうです。ちなみにぽん太が2006年6月に下部温泉大市館に泊まったときの記事はこちらです。ちなみに大市館は、つげ義春一家も泊まったことがあるなかなかいい旅館でしたが、昨年の9月15日から休館中です。再開を期待いたします。
 この下部転地療養所がどこにあったのかぐぐってみると、こちらの下部温泉湯元旅館大家のサイト(音楽がなるので注意!!)のなかに、下部ホテルが国府台陸軍病院の転地療養所として接収されたことが書いてありました。しかしこちらの下部ホテルのサイトは、そのような歴史には触れていません。
 茂太先生が、国府台病院の諏訪病院長の統計を引用して言うには、外地から送り返された傷病兵の精神疾患の比率は、昭和13年には1〜2パーセントでしたが、年々増加し、昭和19年には7〜8パーセントに達したそうです(p.158)。あれ、ぽん太は、「戦争中は神経症が減る」と思い込んでしましたが。それは軍隊にいない一般の国民の場合でしょうか?ホントはどうなのでしょう。謎です。
 こうした患者の症状は、敗戦後数日で劇的に変化したそうで、歩行不能だった患者が歩き出したり、失声症が自然に治ったりしたそうです(p.167)。
 松原の青山脳病院が東京都に移譲された話しですが。大戦中、松沢病院が戦災にあった場合に備えて、ほかにベッドを確保する必要が生じたそうです。いくつかの候補地が検討されましたが、最終的に青山脳病院に白羽の矢が立ち、1945年(昭和20年)5月18日に都立松沢病院梅ヶ丘分院となりました。この計画には先程述べた金子準二先生(当時は東京都の衛生技師)がかかわったのだそうですが、移譲の一週間後に梅ヶ丘分院は空襲で半分焼けてしまい、金子先生はえらく怒られたそうです(p.162)。

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2008/02/18

【舞台】前代未聞のパフォーマンス(『空白に落ちた男』首藤康之・小野寺修二・coba)

 妻のにゃん子が、「首藤康之が出るからみたいにゃ〜、みたいにゃ〜」と鳴いてうるさいので、寒いなか両国まで出かけてきました。
 マイムというと「か、壁だ」みたいなのしか知らなかったぽん太は、内心ほとんど期待していなかったのですが、これまで見たことのない全く新しいジャンルのパフォーマンスにびっくり仰天!あっという間の1時間半でした。

 会場のベニサンピットは、染色会社の紅三が本社工場跡を利用してオープンした小劇場で、外観はいかにも下町の工場といった感じです。客席数わずか180の小さなスペースですが会場と舞台の一体感があり、こけら落としは坂東玉三郎がつとめたのだそうです。スタジオも7つあるそうで、昔からの下町に、このような文化を支える企業があることは、喜ばしいかぎりです。

 舞台上にはアンティークっぽい煤けた室内がしつらえてありますが、天井に逆さにバスタブなどの家具があったりして、エッシャーの絵のような歪んだ空間となっています。
 cobaの哀愁に満ちたアコーディオンの演奏(残念ながら録音でした)のあと、舞台が明るくなると、首藤康之がひとりテーブルに座って煙草をふかしたり手帖を繰ったりします。単なるバレエダンサーでは間がもてないところですが、さすがに首藤は観客をしっかり引きつけ、ただのダンサーではないことを見せつけます。
 その後に舞台上で繰り広げられるものを、いったい何と表現したらいいのでしょうか?この不思議なパフォーマンスを言葉に置き換えることは困難です。無声映画のフィルムを、速度を変えたり反復したりしているようでもあります。映画の『去年マリエンバートで』や、昔テレビでやっていたモンキーズも思い出されます(え?誰も知らない?)。
 5人の登場人物が、まるでオートメーション工場のロボットのように同期したりずれたりして動きます。人物が突然消えたり現れたりするのを、身体が瞬間的に人間らしさを失って無機的になることで表現します。反復。主体の入れ替わり。突然とろけていく人間たち。現実と非現実の混交。机・椅子・本棚と人間の複雑な動き。日常性のなかの違和感。
 小野寺修二の生み出す不思議な空間は、ときにはユーモラス、ときにはゴシック的なおどろおどろしさがあり、悪夢や、さらには統合失調症の幻覚妄想状態のようでさえあります。とはいえ高踏なゲージュツを気取ったりはせず、ベタなギャグもあったりして、楽しめる舞台に仕上がっていました。
 元東京バレエ団メンバーの首藤は、クラシックバレエのダンスを封印。まずは小野寺をリフトして渋く技を披露、終盤にはしっかりコンテンポラリー風のソロ・ダンスも盛込まれ、バレエファンのぽん太も満足。
 全体としてみると、人間の機械化・部品化、テクノロジーに支えられた生活、危険に囲まれながらもそれに気づかずに安穏と暮らしていることなど、現代的な問題意識を感じました。
 久々にいいものを見た。小野寺修二をぴあとイープラスにアーティスト登録しておこおっと。

吉良邸跡 帰りがけに、赤穂浪士の討ち入りがあった吉良邸跡と、明暦の大火で亡くなった人を祀った回向院をみちくさしました。回向院は、境内で江戸後期に勧進相撲が行われたことで有名で、境内には鼠小僧次郎吉の墓もあります。

公演期間:2008年1月14日〜2月28日
作・演出:小野寺修二
音楽:coba
出演:首藤康之/梶原暁子/藤田桃子/丸山和彰/小野寺修二
会場:ベニサン・ピット

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2008/02/17

【蕎麦】小布施の「せきざわ」の三昧そばを食す(★★★★★)

 満山荘に泊まってYAMABOKUワイルドスノーパークでスキーを楽しんだぽん太とにゃん子は、小布施の「せきざわ」によりました。公式サイトはなさそうなので、各自ググってみて下さい。基本情報だけ書いておきます。

せきざわ
026-247-5652
長野県小布施町中松872-9(地図はたぶんこのあたり)
11:30〜14:30、17:30〜19:30
水曜定休

以前は群馬県箕郷町にあったようです。
小布施の蕎麦「せきざわ」 小布施の観光街からは少し離れた静かなところにあり、木造の洗練された建物で、内部空間ものびのびとしており、一角には薪ストーブがあかあかと燃えています。
「せきざわ」の三昧そば「生粉打ち」 はじめて訪れたぽん太とにゃん子は、三種類の蕎麦が楽しめるという「三昧そば」を注文。まずは生粉打ち。そば粉の香りが鮮烈で、細打ちですが腰が強いです。ツユは品の良い味でやや薄めですが、細い蕎麦とよくあいます。
「せきざわ」の三昧そば「海苔」 次の「変わり」は、本日は海苔を錬り込んだものでした。ちょっとへぎそば風の味がします。
「せきざわ」の三昧そば「粗挽き」 最後は「粗挽き」です。香りが強いですが、いわゆる田舎そばのような雰囲気ではなく、あくまでも上品に仕上がっています。
 お蕎麦の味、店の雰囲気、ぽん太は大満足でした。

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2008/02/16

【温泉】奥山田温泉満山荘・YAMABOKUワイルドスノーパーク

 過日、ぽん太とにゃん子は、長野県にスキーと温泉の旅に行ってきました。
 宿泊は満山荘。公式ホームページが見当たらないので、日本秘湯を守る会のなかのページにリンクしておきます。この宿に泊まるのは2度目です。こんかいは、日本秘湯を守る会のスタンプをためて、ご招待でお伺いしました。前回の感想は、@nifty温泉に投稿しました。このときは夏も終わりでしたが、今回は真冬です。
 奥山田温泉は、須坂・小布施から、志賀高原の笠ケ岳スキー場へと抜ける道の途中にありますが、冬期はここから志賀高原までの区間は閉鎖されます。
奥山田温泉満山荘 宿はとりあえず和風モダンですが、このようなセンス溢れる部分と、ちと古びた部分とが混在しています。
奥山田温泉満山荘露天風呂 お風呂は、露天つきの内湯が2セットあり、時間で男女が交代となります。灰白色のうす濁りに湯の華が舞うお湯は、硫黄の香りが強いですが、pHは6.8とほぼ中性でお肌にやさしいです。露天風呂はややぬるめでしたが、雪に囲まれた冬の露天風呂は温泉冥利に尽きます。
満山荘の夜景 宿の自慢の北アルプスの大パノラマは見えませんでしたが、日が落ちると、冬の澄んだ空気のせいか、長野市の夜景がとても美しかったです。
満山荘の夕食 もうひとつの宿の自慢がこの夕食。見た目も美しいですが、手も込んでいて、味もおいしいです。また天ぷらやイワナの塩焼きが、アツアツで次々と運ばれてきます。
満山荘は地酒が充実 地酒が充実しているのも、日本酒好きのぽん太とにゃん子には得点が高いです。
 前回ハイテンションだった館主のおじさんは、今回は趣味の写真部屋で黙々と作業をしておられました。ホルンの練習をして雪辱戦に臨んだにゃん子はちょっと残念そうでした。

 翌日は大寒波が押し寄せ朝から大雪。宿の裏手のYAMABOKUワイルドスノーパークで今シーズンの初滑りを楽しみました。昔は山田牧場スキー場という名だったと思いますが、ずいぶんハイカラ(死語か?)な名前になっていました。まあまあの広さなのですが、リフトがすべて高速リフトではなく、この日は猛烈な寒さだったので凍えそうになりました。ヘリスキーやバックカントリーツアーなどに力を入れているようです。

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2008/02/15

【精神医学史】野村章恒『森田正馬評伝』を読んで森田療法の歴史をみちくさ

 先日、坂口安吾の『流浪の追憶』に1936年頃東大外来で森田療法を行っていたと書いてあるのを読み、森田療法の歴史に関心を持ったぽん太ですが、我が家の森田療法の本を読んでみても、理論や技法の解説は書かれているものの、森田療法の歴史に関しては触れられていません。そこで、野村章恒の『森田正馬評伝 』(白揚社、1974年)という本を見つけ、読んでみることにしました。
 以下、ぽん太が興味深かった点だけをあげてみます。森田正馬の生涯を要約するつもりはありませんので、興味がある方は自分で書物にあたってくらはい。また、以下は一冊の本に基づいており、他の文献との比較検討は行っておりませんので、ご了承下さい。

 森田正馬(もりたまさたけ)は、1874年(明治7年)高知県香美郡富家村兎田(かみぐんふけむらうさえだ)で生まれたそうです。現在ではこのあたりでしょうか?生家は現存しているようで、こちらのサイトに写真があります。「生誕の地」の石碑もあるようです。
 森田は中学時代の1893年(明治26年)12月から日記をつけ始め、全部でノート36冊に及んでいるそうで、野村は日記を引用しながら森田の生涯をたどっています。
 高知県立第一中学校を経て、1895年(明治28年)熊本第五高等学校に入学します。神経症の治療法を確立した森田自身が、若い頃から神経症に悩んでいたことは有名で、動悸や頭痛、腰痛に苦しめられました。第五高等学校には一年後輩に、のちに物理学者・随筆家として有名になった寺田寅彦がいました。また同校では1896年から夏目漱石が英語の教鞭をとっていたはずですが、本書では夏目漱石には言及していません。森田の日記にそもそも夏目漱石が出て来ないのか、それとも野村が取り上げなかっただけなのかはわかりません。
 1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学に入学。当時の精神病学講座は、初代教授の榊淑(さかきはじめ、1857-1897)が若くして他界したあとで、1901年(明治34年)には、留学から帰国した呉秀三(1866-1932)が教授に就任します。呉秀三が後に有名な『精神病者私宅監置の実況及び其統計的観察』(1918年)を記して日本の精神医療の改善に大きな貢献をしたことは、以前のブログで書きました。
 大学一年の時、森田は「神経衰弱兼脚気」という診断を受けたものの、やぶれかぶれになって薬もやめて勉学に打ち込んだら症状も消失し、成績もよかったそうで、この体験がのちの「恐怖突入」の基礎となった、という話しは詳しく述べません。
 日記によると、1901年(明治34年)12月14日に、前日に喉頭癌で死去した中江兆民の解剖に立ち会ったと書かれています。ちなみに中江兆民も土佐藩出身でした。
 1902年(明治35年)の元旦には山内侯爵家(つまり土佐藩主の子孫)を訪ね、また同年2月9日には大町桂月(1869〜1925)宅の宴会に呼ばれたそうで、当時の交友関係の一端がわかります。ちなみにぽん太が以前に泊まったことがある青森県の蔦温泉旅館は、大町桂月の終焉の地で、旅館のほど近くにお墓がありました。

 1903年(明治36年)、大学を卒業した森田は精神病学教室に入局します。野村章恒によれば、当時、東京帝国大学医科大学の卒業生で精神科医を志望するものは、よほどの奇人か変人と思われていて、毎年の希望者はゼロか一人。森田が入局した年も彼一人だったそうです。精神病学教室も大学キャンパス内にはなく、巣鴨村の東京府立巣鴨病院にあったそうです。
 当時の日記には、呉秀三や三宅紘一などに加えて、根岸病院院長の松村清吾や青山脳病院院長の斎藤紀一の名前も出てきます。ご存知かもしれませんが、根岸病院は1879年(明治12年)に根岸に開院した病院で、戦火により国立(くにたち)に移転、現在は清吾の孫にあたる松村英幸先生が院長となっておられます。こちらが根岸病院の公式サイト、こちらに根岸病院の歴史が書かれています。ふ〜む、昔は根岸にあったから「根岸病院」という名前なのか。知らなかった!また斎藤紀一は斎藤茂吉を養子とし、その茂吉の子供が斎藤茂太・北杜夫ですね。青山脳病院は1903年(明治36年)に開設。紆余曲折ののち、現在は府中市の斎藤病院となり、茂太さんの息子で航空ファンで有名な斎藤章二先生が院長をされています。こちらが斎藤病院の公式サイト、そしてこちらに斎藤病院の沿革があります。
 さて、話しを戻して1903年(明治36年)、7月には大学の心理学実験室で催眠実験を見たり、8月には土佐の「犬神憑きの調査」をたりしています。9月17日には呉秀三から慈恵医院学校の講義を受け持つように言われ、10月6日から開始しました。また12月には、弟の徳弥が慈恵医学校3年級に編入しました。森田正馬と慈恵医大との関係はこの頃から生じたようです。しかし徳弥は1905年(明治38年)に日露戦争で戦死します。
 1906年(明治39年)2月1日、森田は終生の住処となった家に移ります。当時の住所は本郷区蓬莱町65番地だそうです。現在だと文京区向丘のあたりだと思うのですが、ググってもよくわかりません。自宅が博物館などになって保存されていないのでしょうか?またこの年の12月1日から、根岸病院に勤務することになります。
 1912年(明治45年)春、自宅での診療を開始。この後、次第に森田療法を確立していったようで、1915年(大正4年)8月8日の日記には、「精神性心臓症を唯一回の診察で根治す。適切に本症を治せる第一例なり」と書いています。
 1917年(大正6年)森田は中村古峡に出会い、雑誌『変態心理』に関わるようになります。中村古峡については、みちくさするときりがないので、またそのうちに。
 1919年(大正8年)は一般に森田療法が確立した年とされており、4月12日の日記には、「この月、巣鴨病院の永松看護婦長の久しく神経衰弱に悩めるを、私の家に静養せしめて軽快す。これまで私は神経質患者を近隣に寄宿せしめて治療せるが、このことありてより自宅で神経質者を治療する便を知り、次第に入院をゆるし、この年十八人の入院患者ありたり」と書かれており、自宅での入院治療を開始したことがわかります。
 1920年(大正9年)、重病(反復性大腸炎??)にかかり、一時死線をさまよいます。回復後、最初の著作『神経質及神経衰弱の療法』の執筆を開始し、翌年6月、中村古峡主宰の日本精神医学会から出版します。患者にも医者にも読まれることを期待して書かれたもので、好評を博したそうです。
 1921年(大正10年)11月10日の日記には、東大教授三宅鉱一と助教授杉田直樹を自宅に招き、森田療法で治癒した患者と歓談したそうで、そのなかには三宅や杉田が治療できなかった患者も含まれていたそうです。森田療法の見学に来る医師もいたようです。
 1923年(大正12年)には『神経質の本態及療法』を学位論文として提出し、翌年医学博士号を得ました。
 1925年(大正14年)、大学に昇格した東京慈恵会医科大学の教授となりました。
 森田自身は、大正8年から12年までに、124人の患者を治療したそうです。
 森田療法を関西へひろめた重要な人物として、宇佐玄雄がいます。彼はもともと禅師でしたが、一念発起して東京慈恵医院医学専門学校に1915年(大正4年)に入学し、1919年(大正8年)からは森田正馬に森田療法の手ほどきを受けました。そして1922年(大正11年)に京都に三聖医院、1927年(昭和2年)に三聖病院を開き、森田療法の普及に貢献しました。
 『出家とその弟子』などで有名な倉田百三が、森田療法によって自分の強迫観念が治癒した体験を発表したことが、森田療法を広める一因となったそうです。彼は1926年(大正15年)2月頃に強迫観念に取りつかれ、宇佐と森田の指導を受けました。彼はこの体験を雑誌で発表し、1932年に『神経質者の天国』として出版しました。森田自身も1936年に「倉田百三氏の悩みたる強迫観念の心理的解説」を発表しました。
 精神分析との論争については省略。
 1931年(昭和6年)6月1日、森田は熱海の旅館伊勢屋を買い取り、のちに森田旅館と改名したそうです。へ〜、知らなかった。温泉ファンでもあるぽん太はすごく興味があります。本書には森田旅館の写真も載っています。現在でいうとどこなのでしょうか?ぐぐってみてもわかりません。
 1937年(昭和12年)4月、慈恵医大教授を辞任。
 1938年(昭和13年、64歳)、自宅で死去。

 う〜ん、ぽん太のそもそもの関心だった、1936年頃に東大外来で森田療法をやっていたかどうかは書いてありません。慈恵医大の教え子から森田療法を受け継いだ医師が大勢育ち、また自宅兼診療所には多くの見学者が訪れたようですが、正統派アカデミズムの東京帝国大学でホントに森田療法が行われていたのでしょうか?この点は、さらに今後のみちくさの課題にしたいと思います。
 でも、明治から戦前にかけての日本の精神医学の社会史が少しわかってよかったです。

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2008/02/08

【雑学】坂口安吾『流浪の追憶』・本沢温泉・森田療法

 先日ネットサーフィン(死語か?)をしていたら、坂口安吾の『流浪の追憶』という短文に行き当たりました。こちらの「青空文庫」のサイトで読むことができます。
 とりとめのないエッセイですが、以前にぽん太が泊まった本沢温泉が出てきます。

 「八ヶ岳の中腹に本沢といふ温泉がある。海抜二一〇〇米(メートル)ぐらゐの地点にあるらしい。大正十二年に出版された某登山家の著書によると、この温泉は春ひらいて秋とざす。一冬八十円の報酬で留守番を置き残し一同下山するが、春に訪れてみると大概番人は死んでゐる。首をくゝるもあり半身焼けただれてゐるもあり明らかに殺されてゐる者もあると言ふのであつた。然し八十円の報酬に目がくらんで、番人を希む者は絶えた例がないと言ふ。いまだにさうか私は知らない。」

 本沢温泉が、こんなキューブリックの『シャイニング』のような恐ろしいところだとは知りませんでした。従業員の人たちは知っているのでしょうか?こちらが本沢温泉の公式ホームページですが、現在は冬期も営業しているようです。ちなみに山小屋スタッフ・アルバイト募集中のようです。日給は当時の100倍の8,000円から。みなさんいかがですか?
 「大正十二年に出版された某登山家の著書」というのはなんだかわかりません。

 「例の日本一といふ高原鉄道小海線が去年十一月開通した。八ヶ岳の麓千米ほどの高原を通るのである。私はこれに乗り、もし閉ぢられてゐないなら季節の終りの本沢温泉を訪ねてみやうと思つた。八十円に目のくらんだ番人がゐたら茶飲み話をしながら素朴な心境を探りたいとも考へてゐた。去年の十一月の終りのことだ。」

 JR鉄道最高地点(1,375m)のある小海線が全線開通したのは1935年(昭和10年)11月29日。安吾の文章の初出は「都新聞」1936年(昭和11年)3月17日〜19日ですから、つじつまはあっています。
 しかしけっきょく安吾は本沢温泉に行きませんでした。旅の途中で精神病院に友人の見舞いに行きましたが、その友人のあまりの俗人ぶりに腹を立てて気が重くなり、行き先を雪の山中の温泉から、明るい南国の大島に変更してしまいます。
 ところで、精神障害つながりで、安吾は次のような一段落を記しています。

 「友人のW君が目下神経衰弱で帝大病院へ通つてゐるが、療法をきいて面白いと思つた。医者は薬を与へない。毎日日記を書かせそれを提出させる。日記に批判を与へる掛りがゐて、ここの追求が足りないとか、ここは正しいとか朱を入れて返すのである。要するに潜在意識をさらけ出さしめ、それを隠すことによつて精神を疲労せしめた原因を除去するのではあるまいかと私は愚考したわけだが、自分をさらけだし追求し反省するのは小説家の本道で、その意味では小説家は神経衰弱を通りこして一種の告白不感症に憑かれてゐると言つてよからう。W君の場合にしろ要するに完全な私小説を書ききれば医者も文句が言へないわけで、嘉村礒多の小説でも帝大病院へ持つて行つたら医者も辟易して朱筆を投げると思ふのである。告白型といふ点で近代作家は狂人の塁を摩してゐる。」

 ここに描かれている帝大病院の日記療法は、どうみても森田療法ではないか。へ〜え、当時、東大で外来森田療法をやっていたのでしょうか。
 ちょっと調べてみると、森田療法の創始者森田正馬は、1874年(明治7年)に生まれて1938年(昭和13年)に死去。森田療法を確立したのは1919年(大正8年)頃と言われています。とすると、坂口安吾が『流浪の追憶』を発表した1936年は森田正馬の最晩年ということになり、森田療法自体は広まっていたとは思いますが、はたして東大外来で行っていたのかどうか?ぽん太にはわかりません。そのうち森田療法の歴史をみちくさしてみたいと思いますが、これまでも何度か書いたように、医学の「科学史」の本は多いのですが、医学の「社会史」の本は少ないので、どうなりますことやら。
 ちなみに「要するに潜在意識をさらけ出さしめ、それを隠すことによつて精神を疲労せしめた原因を除去する」という坂口安吾の理解は間違っていて、それはフロイトの精神分析に近い考え方ですね。

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2008/02/07

【歌舞伎】雪が舞うなか新春らしい華やかで古典的な舞台(2008年2月・歌舞伎座夜の部)

 今日もまた雪が舞っていました。昼の部の時間が押しているらしく、ようやく入場したかと思ったら、開演5分前のブザーです。今回の席は3階だったので、全体はよく見えましたが、細かい表情や動作は見えませんでした。
 まずは『対面』。曽我兄妹の仇討ちは、忠臣蔵の赤穂浪士の討ち入り、荒木又右衛門の伊賀越の仇討ちとともに、日本三大仇討ちに数えられておりますが、現代では一般には、忠臣蔵は良く知られているものの、伊賀越の仇討ちは古い映画や講談・浪曲に生き残っている程度です。曽我兄妹の仇討ちはほとんど知られていませんが、歌舞伎の世界では、初春の芝居は必ず「曽我もの」で始まるという伝統が受け継がれており、よくしられた演目です。
 富十郎の工藤祐経は、朗々としてかつ威厳があり、敵役と思えない貫禄がありました。曽我十郎の橋之助はほれぼれするような美男子ぶりでしたが、声を傷めていたのが残念。三津五郎の曽我五郎は、大きさやみなぎるような力強さには欠けましたが、古風で様式的な美しさを感じました。
 『口上』では、雀右衛門にとにかく大拍手。
 『熊谷陣屋』は、平成18年10月の歌舞伎座と似たような顔ぶれ。ぽん太の狸脳には前回の記憶が残ってな〜い!芝翫と魁春は、様式的な美しさのなかに深い悲しみを表現して絶品。幸四郎は、芝居が現代劇風になって古風な狂言では一人浮いてしまう傾向があるように思っていましたが、今回はそうした違和感をあまり感じませんでした。ただ、僧形になって座っている姿が、しょんぼりと小さくなってしまっていたのが気になりました。ここは苦しみに心が張り裂けんばかりなのか、出家を決意して澄み切った心境なのかぽん太にはわかりませんが、憔悴しきっているのではないことは確かでしょう。
 『鏡獅子』は、染五郎の弥生の美しさに、改めてびっくりしました。丁寧に踊っていましたが、色気や風情がにじみ出てくるところまでは行ってないか?後シテの迫力はさすが。ぜひとも女形も立役もできる俳優になって欲しいと思いました。
 ところで「獅子」ってなんだ?日本にライオンはいなかったはず。インドにはいるらしいが。伝説や伝承がもとになった架空の生き物でしょうか?「獅子」の歴史にも興味がわいて来たな。
 というのは置いといて、雪のなかでしたが新春らしく華やかで、かつ古典的な舞台でした。

歌舞伎座百二十年・初代松本白鸚二十七回忌追善
二月大歌舞伎(2008年2月・歌舞伎座)
夜の部
1、寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)
            工藤祐経  富十郎
            曽我五郎  三津五郎
            曽我十郎  橋之助
           化粧坂少将  孝太郎
           近江小藤太  松 江
            八幡三郎  亀三郎
            梶原景高  亀 蔵
            梶原景時  市 蔵
           小林朝比奈  歌 昇
            大磯の虎  芝 雀
          鬼王新左衛門  東 蔵
2、初代松本白鸚二十七回忌追善
  口上(こうじょう)
                  幸四郎
                  染五郎
                  松 緑
                  吉右衛門
                  雀右衛門
3、一谷嫩軍記
  熊谷陣屋(くまがいじんや)
            熊谷直実  幸四郎
             源義経  梅 玉
             弥陀六  段四郎
            亀井六郎  亀 寿
            片岡八郎  松 也
            伊勢三郎  宗之助
              庄屋  幸右衛門
            梶原景高  錦 吾
             堤軍次  松 緑
             藤の方  魁 春
              相模  芝 翫
4、新歌舞伎十八番の内
  春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)
      小姓弥生後に獅子の精  染五郎
           老女飛鳥井  吉之丞
         用人関口十太夫  桂 三
        家老渋井五左衛門  由次郎

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2008/02/05

【オペラ】最高の音楽・最高の歌・最高のバレエ(マリインスキー・オペラ『イーゴリ公』)

 しばらくブログを更新していなかったのは、前回あまりに品のない記事を書いたため、にゃん子からブログ禁止令が発令されていたからではありません。ちと忙しくて時間の余裕がなかったからです。
 で、先日ぽん太とにゃん子は渋谷のNHKホールまで、マリインスキー・オペラの『イーゴリ公』を観に行ってきました。東京は久々の大雪で、なかには長靴でやってきて、ホール内でハイヒールなどに履き替えているオバ、いやオクサマ方もいらっしゃいました。
 オペラ『イーゴリ公』といえば、「だったん人の踊り」で有名です。これがホントは「だったん人」ではなく「ポロヴェツ人」であることは、以前の記事で書きました。ポロヴェツ人(クマン人)は、11世紀頃に黒海北部にあらわれたテュルク系の遊牧民で、12世紀に入ると、小公国が乱立していたルーシと戦いを繰り返しました。1185年にはイーゴリ2世がポロヴェツ大遠征を行ったのですが、この遠征を描いた叙事詩『イーゴリ軍記』をもとにして、ボロディンはオペラ『イーゴリ公』を作曲しました。ちなみに『イーゴリ軍記』は、岩波文庫の古本で手に入ります(記事の末尾のリンク参照)。ぽん太もこんど読んでみるつもりです。
 で、オペラに話しを戻すと、ぽん太は『イーゴリ公』を観るのは初めてだったのですが、「だったん人の踊り」なんぞは所詮クラシックの入門曲みたいなものだから、どうせ大したオペラではないだろうと高をくくっていたました。ところがあにはからんや、とてもすばらしくてぽん太は感動いたしました。
 「ポロヴェツ人の踊り」も、有名なメロディーはポロヴェツ人が踊るのではなく、ポロヴェツ人がカスピ海あたり(だったか?)から奪って来た女たちの踊りでした。中央アジアの広大な平原を縦横無尽に駆け回る勇ましきコンチャーク汗、戦に敗れてさらわれてきた美しい娘たちの悲しみと故郷を思う気持ちなどが、説明は難しいのですがぽん太の心を針で突き刺し、思わず涙があふれてきました。ゲルギエフ指揮の最高の演奏、すばらしい合唱団の歌声、世界一流のバレエという三つのジャンルの総合芸術で、普通ではけっして味わえない贅沢な取り合わせでした。
 先日観たプラハ国立劇場の『魔笛』にもバレエが出てきましたが、オペラ内のバレエということで大したことはありませんでした。しかし今回は、世界一と評されるマリインスキー・バレエのプリンシパル・キャラクター・アーティストのポリーナ・ラッサーディナイスロム・バイムラードフの踊りです。フォーキンの振付けも、(ちょっと民族差別っぽい常套表現もありましたが)すばらしかったです。
 「ポロヴェツ人の踊り」が盛大な拍手で終わって休憩に入り、もうこれで今日の見所は終わったかと思いましたが、後半の幕開けのヤロスラーヴナが夫イーゴリ公の帰還を待ちながら歌う悲しのアリアと、それに続く、狼がやって来て家畜を食べた?とかいうロシア民話風の歌詞の合唱も寂しくて悲しくて終末感が漂って、またしても涙です。
 おもしろかったのは、敵であるポロヴェツ人の方が、少し野蛮ではあるものの、勇猛果敢で道義心に富む民族として好意的に描かれ、イーゴリ公の領地のノーヴゴロドの人々の方が、酒と女に溺れた堕落した民衆として描かれていることです。日本に勝る自虐史観です。
 また最後にポロヴェツ人の軍隊がイーゴリ公の城に迫り、火の手が上がって煙が漂い空が真っ赤になる場面では、ノーヴゴロドの貴族たちは、「これは神の怒りだ」「最後の審判が下った」と災いを甘受するような態度をとります。これがまるで仏教(特に最近接したチベット密教)の「前世の因縁だから仕方がない」という苦悩を受け入れる態度と似ているのも興味深かったです。なんかロシア人って、日本人と似ています。
 イーゴリ公は当初セルゲイ・ムルザーエフの予定でしたが、急病とのことでアレクサンドル・モロゾフに変更になりました。この代役が吉なのか凶だったのか、オペラ初心者のぽん太にはわかりません。
 ゲルギエフの指揮するオーケストラは、輝くような金管の響きと力強い打楽器がロシア特有でした。
 ところでボロディンってどんな人?医者が本職で「日曜作曲家」などと言われていたことは知っているが……。Wikipediaの「アレクサンドル・ボロディン」を見てみると、1833年生まれで1887年死去。幕末から明治にかけての人ですな。生まれはサンクトペテルブルクですが、なんとグルジア皇太子の非嫡出子で、農奴の名前を使って戸籍登録されたとのこと。ボロディンが中央アジアに関心を持ち、他民族に好意的だったのは、それが関係しているのでしょうか?ぽん太にはわかりません。そのうちみちくさしてみます。オペラ『イーゴリ公』は1869年に作曲が開始されましたが、完成しないままボロディンは死んでしまいました。
 ボロディンの頃のロシアの時代背景をざっと見てみると、1812年にナポレオン1世のロシア遠征を撃退。1814年のウィーン会議以後は、神聖同盟の一員として自由主義を抑圧します。しかし1825年にはロシア国内でもデカブリストの乱という革命運動が起きます。ニコライ1世は国民の不満を外に向けるために南下政策をとりますが、1854〜56年のクリミア戦争で、英仏の支援を受けたオスマン帝国に敗北。ロシアの後進性を思い知ったアレクサンドル2世は近代化を開始し、1861年には「農奴解放令」が出されます。
 こうしてみると、イーゴリ公の時代とボロディンの時代は、「南方の敵に対して遠征するが敗北し、かえって自国が劣っていることを知る」という点で共通している気がします。
 なおオペラ『イーゴリ公』に関しては、歌劇『イーゴリ公』の世界というとっても詳しいサイトがあります。

マリインスキー・オペラ
ボロディン「イーゴリ公」プロローグと3 幕
2008年2月3日 NHKホール
マリインスキー劇場管弦楽団、合唱団&バレエ団åÉGíc
 
指揮 : ワレリー・ゲルギエフ
演出 : エフゲニー・ソコヴニン
2001年版演出 : イルキン・ガビトフ
音楽監修(2007年) : ワレリー・ゲルギエフ
「ポロヴェッツ人の踊り」 振付 : ミハイル・フォーキン
装置・衣裳 : ニーナ・ティホーノワ/ニコライ・メルニコフ
装置復元 : ヴャチェスラフ・オクネフ
照明 : ウラジーミル・ルカセヴィチ
首席合唱指揮 : アンドレイ・ペトレンコ
楽曲指導 : イリーナ・ソボレワ
出 演 
イーゴリ公 (プチーヴリの公) : アレクサンドル・モローゾフ
ヤロスラーヴナ (その妻) : エカテリーナ・シマノーヴィチ
ウラジーミル (彼らの息子) :  セルゲイ・セミーシクル
ガリツキー公 (ヤロスラーヴナの兄) : ワディム・クラーヴェツ
コンチャーク汗 (ポロヴェッツ人の長) : セルゲイ・アレクサーシキン
コンチャコーヴナ (その娘) : ズラータ・ブルイチェワ
オヴルール (キリスト教徒のポロヴェッツ人) : ワシーリー・ゴルシコーフ
スクーラ (クドーク弾き) : グリゴリー・カラショーフ
エローシュカ (クドーク弾き) : アンドレイ・ポポーフ
ヤロスラーヴナの乳母 : エレーナ・ソンメル
ポロヴェッツ人の娘 : タチアーナ・パヴロフスカヤ
【ポロヴェッツ人の踊り】
: ポリーナ・ラッサーディナ
:イスロム・バイムラードフ
:エレーナ・バジェノワ
:ゲンナジー・ニコラーエフ

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