歌舞伎『鈴ヶ森』から鈴ヶ森刑場・幡随院・『牡丹燈籠』をみちくさ
ぽん太は先日歌舞伎座に行ってきました。そのとき観た『鈴ヶ森』から、本日のみちくさを開始しましょう。
まずは題名の元になっている鈴ヶ森刑場ですが、現在で言えば東京都品川区南大井で、京浜急行大森海岸駅のやや北側に、鈴ヶ森刑場跡があります(地図)。白井権八のモデルとなった平井権八はここで処刑されましたが、他にも慶安事変の丸橋忠弥や、天一坊、八百屋お七などもここで処刑されています。
『鈴ヶ森』に出てくる幡随院長兵衛は実在の人物で、本名は塚本伊太郎です。Wikipediaによれば、幡随院の裏手に住んでいたので、そのように呼ばれるようになったと書いてあります(幡随院に身を寄せていたという説もあるようです)。
幡随院の歴史については、文献が手元にないので、ネットの情報を観てみましょう。
・http://ja.wikipedia.org/wiki/幡随院
・http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/tjo/j010/j010t.htm
1610年(慶長15年)に神田駿河台に創建。その後、年代は不明ですが湯島に移り(台東区谷中2-18あたり、地図)、1659年(万治2年)に浅草神吉町に移転(台東区東上野5-23,24あたり、地図)しました。ここには跡地の碑があるようです。1940年(昭和15年)(昭和7年説もあり)に焼失のために小金井市前原町3-37-1(地図)の現在の場所に移っております。なお現在の幡随院は非公開だそうです。
さて、幡随院長兵衛は1622年(元和8年)に生まれて1657年(明暦3年)に死んでおりますから、この頃幡随院は湯島にあったことになります。
とこで幡随院といえば、三遊亭円朝の『牡丹燈籠』にも出てきます。牡丹燈籠を掲げて萩原新三郎を夜な夜な訪れる幽霊のお露とお米の墓は「新幡随院」にあり([1]p.82)、新三郎にお札と海音如来のお守りを与えた良石和尚は、そこの住職です。「谷中の新幡随院」([1]p.232)という表現があるので、2番目の湯島にあった幡随院のことでしょう。しかし『牡丹燈籠』の出だしは寛保3年(1743年)ですから([1]p.13)、すでに浅草神吉町に移っていたはずで、これも時代があいません。ちなみに円朝が『牡丹燈籠』を作ったのは文久年間(1861〜1863)と言われていますから([1]p.302)、100年も前の時代考証をあまりしっかりしなかったのかもしれません。
【参考文献】
[1] 三遊亭円朝『怪談 牡丹燈籠』岩波文庫、2002年。
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