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2008年5月の14件の記事

2008/05/30

【ウズベキスタン旅行(6)】ブハラでかつて流行した疫病とは(付:ハエ除け効果がある草)

P5030216 写真はブハラのラビハウズです。ハウズというのは溜池のことです。現在はあまり残っていませんが、ブハラには昔はこのような溜池が200近くあったそうです。周囲は階段状の石造りとなっておりますが、水はずいぶん濁っています。現在は周囲にレストランができて、住民や観光客の憩いの場となっております。
 しかしガイドさんの話しでは、この濁った水が、かつてはブハラの住人の飲み水として使われていたのだそうです。さらに彼らはこの池で洗濯をしたり水浴したり、さらには家畜の水浴びまでさせていたのだそうです。そのため不衛生で疫病がはやり、皮膚から虫が出てきたのだそうです。
 ん? 皮膚から虫が出てきたということは、寄生虫疾患か? 医者の端くれのぽん太の好奇心が刺激されます。

 ググってみると、こちらの外務省の在外公館医務官情報がヒット。生肉から旋毛虫に感染する恐れがあるとのこと(画像)。旋毛虫は、成虫でも雌は体長2〜3mm、雄は1.2〜1.4mmと小さいです。生肉に潜む幼虫を食べると、小腸の粘膜の中で成虫となって、一匹につき500〜1000匹の幼虫を生みます。幼虫は血液やリンパ液の流れに乗って体内を移動し、筋肉に住み着きます。症状は、筋肉痛、発熱、浮腫などがみられます。体の中を動き回るようですが、皮膚から虫が出てきたりはしません。また感染源も幼虫が寄生した生肉であって、水ではありません。
 
 こちらのエキノコックス情報掲示板には、2007年に一人の東京在住の日本人がウズベキスタンで単包条虫に感染したと書いてあります。エキノコックス症は、単包条虫と多包条虫があります。多包条虫は、北海道でキタキツネの糞から感染するので有名ですね。かわいいからといって、北海道でキタキツネにエサをやったり、なでたりしてはいけません。キタキツネの30〜60%が感染しているというデータもあります。また、北海道の山ではけっして沢の水を湧かさずに飲んではならないことは、登山の愛好家はみな知っています。卵が口に入ると、小腸のなかで孵化し、血液やリンパ液に乗って体内を移動し、主に肝臓で増殖します。成虫の体長は1.2〜4.5mmと小さいですが、多数があつまって包虫と呼ばれる袋状の組織を造ります。これは10〜20年かけて大きくなり、大きいものでは直径20cmになります。こうなると、疲労感、腹痛、黄疸などの肝機能障害の症状が出てきます。単包条虫の場合も、だいたい同じ経過です。エキノコックス症は生水から感染しますが、皮膚から虫が出たりはしないので、やはりブハラの疫病とは異なるようです。

 さらにググっていくと、金子民雄の『中央アジアに入った日本人』[1]にゆきあたりました。西徳二郎、福島安正、日野強という、明治時代に中央アジアに入った3人の日本人の跡を辿った本です。西徳二郎は1873年にブハラに入りましたが、不衛生な溜池について記述しています。金子民雄は次のように書いています。「しかし、淀んだこの池の水には恐ろしい寄生虫がおり、生水を飲むのはきわめて危険であった。ブハラ人がよくここの墓石がもし口をきくようなことがあったら、俺たちは戦争やなんかで死んだのではない、水にあたっていっちまったんんだ、とよく言った」([1]p.120)。さらにここには以下のような脚注が付けられています。「ブハラはザラフシャン川の水の供給が十分でないため、慢性的に水不足に古くから悩まされていた。そこで溜池(ハウゼ)を造り、そこから飲料水を得ていたが、そこはまたあらゆる疾病の温床となり、多くのブハラ人はこの不潔な水で死んだという。中でもこの水中に恐ろしい寄生虫——リシタ(rishta)またはギニー虫(Guinea-worm)がおり、人間がこの生水を飲むとこの幼虫が人体に寄生し、成虫は人体の中で1メートル近くにも成育する。そして、その毒素のために腫物となり、非常な苦痛と死に到らしめる。ブハラのこの病虫についてはオーストリア人のグスタフ・クリストが面白い目撃と体験談をしている」([1]p.458)。
 アタリ、という感じです。「体長1メートル」……嫌です。「面白い目撃と体験談」……怖そうです。
 この寄生虫は、メジナ虫(Dracunculus medinensis)のようです。メジナ虫の幼虫は、ケンミジンコのなかに潜んでいて、水と一緒に飲んでしまうと感染します。腸管から腹腔に入って成長。雄は体長3〜4cmと短いのですが、雌は2〜3m(!)にもなるそうです。受精した雌は、足先などの水に浸る可能性がある部分の皮下組織に移動。このときかゆみや焼けるような痛みが生じ、皮膚に潰瘍ができたりします。このひとが水に入ると、今だとばかりに雌虫の子宮が破れ、水の中に無数の幼虫が放出されるそうです([2]p.122)。
 治療は民間医が、この虫を4〜5日かけてゆっくり棒に巻き取るのだそうです。その動画を見たい方はこちら(Youtubeに飛びます。メジナ虫の撲滅を訴えるカーター財団のまじめな映像ですが、虫のシーンは生々しいので注意)。
 オーストリア人のグスタフ・クリストの「面白い目撃と体験談」については、邦訳があり古書店で手に入るようですが(G・クリスト『ソ領トルキスタン潜入記』閔丙台、斉藤大助訳、大和書房、1942年)、ちとそこまで追っかける気にはなりません(気持ち悪そうなので)。

P5040732 お口直しに、衛生つながりで別の話題を。シャフリサーブスというティムールが生まれた街のレストランで昼食を食べたのですが、ハエが多くて閉口しました。そしたらお店の人が、テーブルの上にこのような草を何カ所か置きました。ミントのような匂いがしますが、「ライホン」という草だそうで、ハエ除け効果があります。ハエはテーブルの上空を旋回していますが、けっして食卓にまで降りてきません。すごい効果です。日本や他の国でも栽培するといいと思いました。
【参考文献】
[1]金子民雄『中央アジアに入った日本人 』中公文庫、1992年。
[2]吉田幸雄『図説人体寄生虫学』南山堂、1977年。

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2008/05/29

【歌舞伎】怨霊そのもの・海老蔵の碇知盛(2008年5月歌舞伎座・昼の部)

 ぽん太の今回のお目当ては、海老蔵初役の碇知盛です。ただでさえ目一杯気合いが入る碇知盛を、エネルギー爆発の海老蔵がどう演じるか。これは目が離せません。
 結果から述べると、とてもよかったです。これまで海老蔵は、変なところで力を入れすぎたり、妙な台詞回しをしたり、声が『千の風になって』状態になってしまったりして、「顔はかっこいいのに、なんでかにゃ〜」という感じだったのですが、今回は笑いどころがありませんでした。
 特に「大物浦」の知盛は、凄まじい妖気が漂っていました。これまでぽん太は、碇知盛は「怨霊」を装った「人間」だと思ってましたが、海老蔵演じる知盛は、義経に対する復讐心によって「人間」から「怨霊」に変化したのだと感じました。「大物浦」が、義経が怨霊を鎮める物語であることが、初めてわかりました。
チケットぴあ
 「碇知盛」と呼ばれる『義経千本桜』の「渡海屋/大物浦」は、『平家物語』(あるいは『吾妻鏡』『義経記』など)の物語と、それを下敷きにして造られた能の『船弁慶』とを、両方踏まえて創られた狂言です。
 『平家物語』の「能登殿最後」では、壇ノ浦の合戦に敗れた知盛は、鎧を二枚重ね着して、乳母子(めのとご)の家長と手を取り合って入水します([1]p.179)。一方、碇を背負って海に飛び込むのは、教盛と経盛の兄弟です([1]p/168)。また「判官都落」では、大物浦から九州に向って漕ぎ出した義経一行は、突然の西風によって住吉浦に打ち上げられてしまい、味方の武将の多くを失います。怨霊に関しては、「忽ちに西の風ふきける事も、平家の怨霊のゆゑとぞおぼえける」と書かれているだけです([2]p.78)。
 能の『船弁慶』はこの物語を踏まえて創られた謡曲です。場面は大物浦から義経一行が漕ぎ出すところ。漕ぐにつれて波風が荒くなり、やがて海上に壇ノ浦で滅んだ平家一門の悪霊が現れます。その中から知盛の怨霊が、「自分と同じように海に沈めてやる」と長刀を振って襲いかかってきます。一行は慌てふためきますが、義経は少しも驚かずに、生きた人に対するかのように、刀を抜いて立ち向かいます。弁慶は「相手は亡霊だから生きた人と同じように戦ってはうまくいかない」と、数珠を押し揉みながら不動明王に祈ります。これによって怨霊は、次第に消え去っていきます([3]p.502-505)。『船弁慶』には知盛の怨霊は出てきますが、碇を担いで入水する場面はありません。
 歌舞伎の「碇知盛」では、ご存知の通り、実は知盛や安徳天皇は壇ノ浦の戦いで死なずに生き残っていたという設定です。身を隠して再起の機会を伺っていた知盛らは、大物浦から船で西国へ逃れようとする義経一行を襲うことにします。そのさい頼朝を油断させるため、知盛らが生きていたことがバレないように、幽霊に化ける計画を立てます。『平家物語』と『船弁慶』を踏まえて、巧みなストーリーを作り上げているのがわかります。しかし戦いは義経らの勝利となり、満身創痍となった知盛は、大物浦で義経と再び対面します。

知盛 あら珍しや、いかに義経(ト思い入れ)。
 〽思いぞ出ずる浦波に、知盛が沈みしその有様に、また義経も微塵になさんと長刀取り直し。
 ここは謡曲『船弁慶』の詞章を踏まえた部分ですが、歌舞伎の設定では知盛は壇ノ浦で海に沈んでいないわけですから、ちょっと変な気がします。つまりこの段階では知盛は、まだ幽霊の振りをしているわけですね。このあと義経が「実はとっくに知盛らの計略は見抜いていた、安徳天皇は自分がお助けしよう」と伝えます。知盛はそれでも義経に切り掛かろうとするので、弁慶は数珠を押し揉んで知盛の首に掛けます。『船弁慶』では弁慶の数珠の威力で知盛の悪霊は退散したのですが、「碇知盛」では知盛は、首に掛けられた数珠を引きちぎり、かえって逆上して悪霊の本性を現します。
 〽思い込んだる無念の顔色、眼血走り、髪逆立ち、この世から悪霊の相を現すばかりなり。
 このあと安徳天皇のお言葉と、典侍の局の自害によって、知盛は仏教の無常と因果を悟るのですが、詳細は省略。その後の六道の苦しみを述べる部分は、海老蔵が演じると、さながら怨霊が自らの苦悩を独白しているかのようでした。
いま、この海に身を沈め、末代に名を残さん。大物の浦にて判官に仇をなせしは、知盛が怨霊なりと伝えよや。
 知盛は、怨恨から義経に復讐しようとした自らを恥じ、自分の名誉を守るために、今回のことは怨霊のしわざだったことにしてほしいと義経らに頼みます。その結果、後世へ伝わったのは、『船弁慶』に描かれた物語になったことになります。最後に知盛は、碇綱を体に縛り付けて、自ら海の底に沈んで行きます。先に書いたように、『平家物語』では知盛は鎧を二枚着て海に飛び込んだのであって、碇を抱いて入水したのは教盛と経盛でした。しかし知盛が碇とともに海に沈むというアイディアは歌舞伎のオリジナルではなく、もっと以前からあったようです。たとえば金春禅鳳が室町後期に創った謡曲の『碇潜』(いかりかづき)でも、知盛は碇を担いで入水します。
 幕外で弁慶が吹く法螺貝も、知盛の霊を鎮めるためというより、怨霊に触れたことよるケガレを払う儀式と思われました。
 知盛が悪霊に化身するというのが、海老蔵が意図してやったことなのか、気合いが入りすぎてぽん太にそう見えただけなのか、よくわかりません。魁春は、渡海屋の女房役も大物浦の典侍の局役もよかったです。

 「喜撰」は踊りの達人三津五郎でしたが、日頃の疲れから意識喪失。

 「幡随長兵衛」は、歌舞伎初心者のぽん太がぜひ観たいと思っていた演目でした。團十郎扮する幡随院長兵衛は貫禄といい男気といい立派。妻が長兵衛の羽織袴の仕付け糸を抜くところ、長兵衛がみすみす罠にはまりに行くことを子分に納得させるところ、子供との別れ、水野の座敷における腹のさぐりあいなど、見所満載です。しかしストーリーはあまりおもしろくなく、劇中劇で始まり観客席から俳優が登場するのは、珍しいといえば珍しいですが常套手段といえば常套手段です。最後に長兵衛が、早桶を持って迎えにくるよう子分に言いつけておいたということで「あっぱれ」となるのですが、観客は、2幕目の最後で長兵衛が子分に言いつけるのを見ていてネタワレしているので、あんまりオチがききません。筋書の解説によると、この芝居の眼目は、「長兵衛が水野邸で殺されるところを劇化した」ことだったようです。ご存知の通り幡随院長兵衛は実在の人物で、水野十郎左衛門の屋敷で惨殺されたのも事実ですが、それを劇化するのはタブーだったそうです。江戸時代が終わって明治14年(1881年)となってようやく河竹黙阿弥は、皆が知っているけど公にはできなかった惨殺シーンを、劇化することができたのです。当時の観客達にとっては、「をひをひ、こんなの舞台でやっていいの?」という感じだったのでしょう。ちなみに幡随院長兵衛と幡随院の関係に関しては、以前にちらっとみちくさしたことがありますが、その後新しい情報は得ていません。
 ところで幡随院長兵衛の子分で松江が演じた「小仏小平」ですが、先日観た『東海道四谷怪談』の「薬くだせ〜」の人と同じ名前ですね。どういう関係があるのでしょう。歌舞伎初心者のぽん太にはわかりません。

團菊祭五月大歌舞伎 平成20年5月 歌舞伎座 昼の部
一、義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)
  渡海屋/大物浦
   渡海屋銀平実は新中納言知盛  海老蔵
             源義経  友右衛門
            相模五郎  権十郎
            亀井六郎  男女蔵
            片岡八郎  亀 寿
            伊勢三郎  亀 鶴
            駿河次郎  松 也
            入江丹蔵  市 蔵
           武蔵坊弁慶  團 蔵
            典侍の局  魁 春
二、六歌仙容彩
  喜撰(きせん)
            喜撰法師  三津五郎
              所化  秀 調
               同  松 江
               同  亀 寿
               同  松 也
               同  萬太郎
               同  新 悟
               同  小 吉
               同  巳之助
               同  梅 枝
               同  亀 鶴
               同  男女蔵
               同  高麗蔵
           祗園のお梶  時 蔵
三、極付 幡随長兵衛(ばんずいちょうべえ)
  「公平法問諍」
          幡随院長兵衛  團十郎
         水野十郎左衛門  菊五郎
           出尻清兵衛  三津五郎
            極楽十三  権十郎
            雷重五郎  松 緑
            神田弥吉  海老蔵
            小仏小平  松 江
            閻魔大助  亀 寿
            笠森団六  亀 鶴
            地蔵三吉  松 也
          長兵衛倅長松  玉太郎
            坂田公平  市 蔵
             柏の前  右之助
           渡辺綱九郎  家 橘
           伊予守頼義  萬次郎
           近藤登之助  彦三郎
           唐犬権兵衛  梅 玉
         長兵衛女房お時  藤十郎
【参考文献】
[1]『平家物語〈11〉』杉本圭三郎訳、講談社学術文庫、1988年。
[2]『平家物語〈12〉』杉本圭三郎訳、講談社学術文庫、1991年。
[3]『新編日本古典文学全集 (59) 謡曲集 (2)
[4]『義経千本桜 (歌舞伎オン・ステージ (21))』原道生編、白水社、1991年。

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2008/05/28

【ウズベキスタン旅行(5)】民族舞踊は同じ中央アジアとはいってもボロディンとは違うみたい

 ウズベキスタンの踊りには、ぽん太は期待するものがありました。というのも、以前にマリインスキー・オペラでボロディンの『イーゴリ公』を観たとき、有名な「ポロヴェツ人の踊り」(ダッタン人の踊り)のすばらしさに感動した経験があるからです。ポロヴェツ人は11世紀から13世紀頃に中央アジアで力を持ったテュルク系の遊牧民です。ウズベキスタンの民族舞踊は、はたして「ポロヴェツ人の踊り」と似ているのでしょうか?
P5020152 まず、アヤズカラのユルタで観た民族舞踊です。オーケストラピットの3人の向かって左がドイラという楽器で、タンバリンというか、沖縄のパーランクーにも似ています。これを両手の指で打ち鳴らすのですが、けっこう速いテンポで、ゆったりしたスローな曲はありませんでした。トルコとも東欧とも違う音楽で、浅学のぽん太の知る限りでは、東南アジアやネパールの音楽と似ている気がしました。踊りも動きが激しく、「ポロヴェツ人の踊り」にでてきた女性の優雅な踊りとも、男性の野性的な踊りとも異なるものでした。ガイドさんの話しでは、本日の踊りはウズベク人の踊りだそうです。
P5030006 こちらはブハラのナディール・ディヴァンベギ・メドレセで行われる民族舞踊ショーです。ガイドさんによれば、こちらにはタジク系の踊りも含まれているそうです。ひらひらの服装は「ポロヴェツ人の踊り」の女性たちを思わせますが、やはりテンポは速く、ドイラが独特のリズムを刻みます。「中央アジアの草原にて」や「弦楽四重奏第2番」などで聴かれるボロディンの叙情的ですすり泣くような音楽とはまったく異なります。結局ウズベキスタンの民族舞踊には、「ポロヴェツ人の踊り」に通じるものはないようです。
 ポロヴェツ人はウズベキスタンよりはやや北部に分布していたのかもしれません。また「ポロヴェツ人の踊り」のなかの女性たちの踊りも、たしかカスピ海あたりからさらってきた女奴隷という設定で、ウズベキスタンとはちょっと地域が違います。ボロディン自身はグルジアの皇太子の非嫡出子ですから、ボロディンがいう中央アジアは、カスピ海西側から黒海のあたりなのかもしれません。
 考えてみれば、現在の中央アジアの民族舞踊が、いにしえのポロヴェツ人の民族舞踊の影響をどこまでうけているのかわかりませんし、ボロディンが中央アジアの民族音楽を取り入れて作曲したのかどうかも、「ポロヴェツ人の踊り」の振付けをしたフォーキンが中央アジアの民族舞踊を参考にしたのかもわかりません。
P5030005 オーケストラもやや大きめの編成。ツィンバロムのような楽器もあります。なぜか女性の踊りばかりで、男性の踊りがないことに、にゃん子は不満そうです。ふと思いついて、ガイドさんに「この踊りは民衆の踊りですか、それとも王様が鑑賞した踊りですか」と聞いてみたところ、王様が鑑賞した踊りとのこと。なるほど女性の踊りばかりなのもうなづけます。

 ところが例の高橋巖根の『ウズベキスタン—民族・歴史・国家』(創土社、2005年)を読んでみると、事情はさらに複雑なようです。現在女性が踊っている踊りは、ウズベキスタンの伝統舞踊では、女装した若い男性が踊っていたのだそうです。歌舞伎みたいですね。ウズベクの伝統社会では、結婚前の女性が公衆の面前で顔を見せて踊ることは許されませんでした。ソ連時代にはこれは悪習であると見なされ、女性の舞踏団が組織されるようになりました。しかし女性の踊子が、そのことを恥辱に感じた兄弟に殺されるという事件も起きたそうです。集められた踊り子たちは若い女性ばかりでしたが、ウズベク人ではなかったり、混血児・孤児などだったそうです。こうした舞踏団は、ソビエトの国際社会に対するプロパガンダとして用いられると同時に、ウズベキスタンの伝統社会に対する教化の手段でもあったそうです。
P5030214 ブハラのアブドゥールアジス・ハーン・メドレセのお土産屋で楽器を弾くおじさん。「島唄」もレパートリーのようでした。ガイドさんの話しでは、沖縄でリサイタルをしたことがあるひとだそうです。
P5020484 同じくブハラのタキ・ザルガランにある楽器屋さん。楽器の名前をひとつひとつ教えてくれましたが、すべて忘れてしまいました。

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2008/05/27

【バレエ】お洒落でほどよいエロティシズム パリ・オペラ座バレエ団「ル・パルク」

 ぽん太とにゃん子は、パリ・オペラ座バレエ団を観に、渋谷のオーチャードホールに行ってきました。オーチャードホールに行く日には雨が降るというジンクスはいまだ健在です。
 ニコラ・ル・リッシュは、昨年シルヴィ・ギエムと踊ったのを見てるはずですが、バレエ初心者のぽん太の狸脳には記憶なし。エミリー・コゼットはたぶん初めてです。
 開演前に廊下を歩いていたら、スタッフルームからルグリが出てきて、2メートルまで接近したので感動する。
 ダンサーの善し悪しについて論評する能力はぽん太にはなし。
 プレルジョカージュが1994年に振付けたという「ル・パルク」は、生まれて初めて観ました。象徴的に表現されたフランス庭園のセットは悪くありません。抽象的なサウンドを背景とした庭師たちのモダンな動きと、モーツァルトの音楽にのせて踊る男女のクラシカルな踊りの対照がおもしろかったです。椅子取りゲームのアルゴリズムのような動きや、次々と女性が失神するユーモラスな踊りなど、「バレエ」の枠を超えたような振付けもありました。クライマックスのコゼットとル・リッシュのパ・ド・ドゥは、「をひをひこんなの舞台でやってええのんか?」という感じの濃厚な踊りでしたが、「芸術性」の装いのおかげで、良家子女も恥ずかしがらずに見ることができます。
 全体としてみると、フランスらしくオシャレで、ほどよいエロティシズム、ときにユーモラス、コンテンポラリーが観たい人にはちゃんとご用意と、観客へのサービス精神旺盛な品良くまとまった演目で、インパクトにはちと欠けた気がしました。とはいえぽん太は大満足!
 ちょっと山海塾を思い浮かべました。を、山海塾、秋に2年ぶりに国内ツアーをやるらしい。観に行こうっと。

 帰りがけに十年ぶりぐらいにミンクさんに会いました。ミンクさんは昔同じ病院で働いたことがある女医さんですが、ぽん太よりずいぶん前からバレエにはまっております。ぽん太も彼女のブログでバレエを勉強させていただいておりますが、リンクを張ると迷惑でしょうからやめときます。

パリ・オペラ座バレエ団
Le Parc(ル・パルク)
2008年5月25日、Bunkamuraオーチャードホール

 キャスト:エミリー・コゼット、ニコラ・ル・リッシュほか
振付・演出:アンジュラン・プレルジョカージュ
   音楽:W.A.モーツァルト
   演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団
   指揮:コーエン・ケッセル
ピアニスト:エレーナ・ボナイ

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2008/05/25

【ウズベキスタン旅行(4)】イスラム教とゾロアスター教

 ウズベキスタンの主な宗教はイスラム教ですが、あまり敬虔ではないようです。ガイドさんに毎日5回の礼拝をしているか聞いてみたら、していないとのこと。大切な金曜日の礼拝だけしている人が多いそうです。ラマダーンも、ガイドさんは「仕事があるのでしていない」とのことでした。しかしそんなガイドさんも、ぽん太たちとイスラムの聖者のお墓を訪ねたときは、神妙な面持ちで祈りを捧げていました。ウズベキスタン人たちは、豚肉も食べればお酒も飲みます。街で居酒屋や酔っぱらいを見かけないので、ウズベキスタン人はあまりお酒を飲まないのかと思ったら、そんなことはないそうで、酔っぱらって一晩中騒いだりするそうです。確かにタシケントで見かけた酒屋には、ウォッカがずらりと並んでいました。ちなみにソビエト連邦では、アルコール依存は大きな社会問題でした。
 ウズベキスタン人がイスラム教の戒律をあまり守らない理由は、宗教を禁じたソビエト時代の影響があるのかもしれません。「宗教はアヘンだ」というマルクスの言葉は有名です。高橋巖根の『ウズベキスタン 民族・歴史・国家』(創土社、2005年)によれば、ソ連時代にはイスラム教は公式には禁止され、無神論が押し付けられました。しかし実は、ソビエトの権力は意外と弱かったのだそうで、ウズベキスタンの農村部などではイスラムの伝統が儀礼や行事や民族心理として存続していたそうです。それでも、1日5回の礼拝は生産力の低下につながるため、まとめて行うよう指導されたり、労働者の断食の免除が正当化されたりしました。またメッカへの巡礼は宗教的な指導者にしか認められず、ソ連全体で年にたった36人だけだったそうです。断食明けの祭りラマザン・ハイートなどは、当局の警告にもかかわらず、公務員や共産党員も仕事を休んで参加していたそうです。
P5050050P5050052 サマルカンドのビビハニム・モスクは、中央アジア最大と言われています。左がソ連時代の崩壊した状態の写真、右が現在の復元された様子です。礼拝にきていたウズベキスタン人は、「モスクも改修され、礼拝に来ることも許され、独立して本当によかった」と言っていました。ぽん太がこのモスクを訪れた時、ちょうどインド映画の撮影をしていました。『マハラジャ、ウズベキスタンに行く』とでもいう映画かと思ったら、インドの宮殿という設定だそうです。
P5030204 ブハラのミル・アラブ・メドレセを見ながらお祈りを唱える老人です。このメドレセ(神学校)は、ソ連時代にも中央アジアで活動していた数少ない神学校のひとつです。
P5030218 イスラム教では偶像崇拝は禁じられているので、モスクや神学校などの宗教建築には絵画や彫刻はありません。しかし、このブハラのナディール・デイヴァンベギ・メドレセには、人の顔と鳥が描かれています。
P5050044 サマルカンドのシェルドル・メドレセにも、顔のかたちの日輪を持つライオンが、子鹿を追う様子が描かれています。

 イスラム教が伝わる以前、ウズベキスタンの信仰はゾロアスター教だったそうです。ゾロアスター教といえばペルシャだと思い込んでいたぽん太は、ちょっとびっくりしましたが、よく考えたらウズベキスタンはイランのすぐ近くです。
P5030198P5030199 ブハラにあるイスマイール・サーマーニ廟です。9世紀末から10世紀前半にかけて造られた、中央アジアに現存する最古のイスラム建築だそうです。とはいえ、丸や三角の石の組み合わせなど、ゾロアスターの様式も使われているそうです。
P5030220P5030001 同じくブハラのマゴキ・アッタリ・モスクです。創建は9世紀頃まで遡ることができるそうですが、丸や三角、リボンのようなかたちなど、ゾロアスター教の影響が見て取れます。
P5010092P5010093 ヒヴァのタシュ・ハウリ宮殿内部の装飾ですが、同様にゾロアスター教の伝統のリボンのようなデザインが用いられています。この宮殿が造られたのは19世紀前半ですから、ゾロアスター教の伝統がウズベキスタンにずっと受け継がれていることがわかります。

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2008/05/23

【歌舞伎】超豪華キャストの「白波五人男」(2008年5月・歌舞伎座夜の部)

 5月は新橋演舞場と歌舞伎座と両方で歌舞伎をやっているので観劇が忙しいです。今回は歌舞伎座夜の部です。
 まずは白波五人男で有名な「青砥稿花紅彩画」。歌舞伎初心者のぽん太は、「浜松屋」と「勢揃」は何度か観たことがありますが、通しで観るのは初めてです。ようやく物語全体の筋が理解できました。河竹黙阿弥の代表作で1862年(文久2年)に江戸市村座で初演されたそうです。
 今回は菊五郎が弁天小僧。浜松屋の嫁入り前の娘の役は年齢的にちょっと無理があり、観客に豊かな想像力が要求されますが、正体を現してからの気っ風の良さは最高です。「知らざぁ言って聞かせやしょう」の名台詞も聞き惚れやした。團十郎の日本駄右衛門も堂々とした風格。左團次の南郷力丸、時蔵の赤星十三郎、三津五郎の忠信利平で、ツラネを見ているときれいだしかっこいいし、ひとりひとりに歳月だけが生み出すことのできる味わいがあり、思わず頬がほころんできます。最後の青砥左衛門藤綱は富十郎で締めるという豪華配役でした。
 海老蔵が、なよなよした若旦那の浜松屋宗之助を演じました。ここでためている力を、こんど観る午前の部の「碇知盛」でどのように爆発させてくれるのか期待が膨らみます。日本駄右衛門の團十郎が海老蔵に「実は誠の親子であったか」と言うところでは、予想通り観客席が暖かい笑いに包まれました。
 錦絵のような豪華な場面が次々と現れ、七五調の美しいセリフの連続、大道具の大仕掛けもあって、黙阿弥ワールドを堪能しました。
 この大狂言のあとを、踊りで飾った松緑も立派。

團菊祭五月大歌舞伎 平成20年5月 歌舞伎座 夜の部
一、通し狂言 
  青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)/白浪五人男
  序 幕 初瀬寺花見の場
      神輿ヶ嶽の場
      稲瀬川谷間の場
  二幕目 雪の下浜松屋の場
      同 蔵前の場
      稲瀬川勢揃の場
  大 詰 極楽寺屋根立腹の場
      同 山門の場
      滑川土橋の場
         弁天小僧菊之助  菊五郎
          日本駄右衛門  團十郎
            南郷力丸  左團次
           赤星十三郎  時 蔵
            忠信利平  三津五郎
          浜松屋宗之助  海老蔵
           木下川八郎  松江
           大須賀五郎  男女蔵
             千寿姫  梅枝
            川越三郎  市蔵
            薩島典蔵  團蔵
           伊皿子七郎  友右衛門
          浜松屋幸兵衛  東 蔵
               柵  田之助
            鳶頭清次  梅 玉
         青砥左衛門藤綱  富十郎
二、三升猿曲舞(しかくばしらさるのくせまい)
            此下兵吉  松 緑

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2008/05/22

【ウズベキスタン旅行(3)】地理と自然・気候

 ウズベキスタンの面積は約45万平方キロメートルと日本の約1.2倍、人口は2,700万人です。

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 ウズベキスタンの地図は、こちらのナゴヤ建機センターのサイトの一番下の地図がわかりやすいです。なぜナゴヤ建機センターのサイトにウズベキスタンの地図があるのか、ぽん太にはわかりません。
 南東から北西に伸びた国土で、南東はタジキスタンの山岳地帯に連なり、北西はアラル海に面しています。首都のタシケントがある北東部は、キルギスやタジキスタンと複雑に入り組んでいます。
P5010129 写真は、ウルゲンチの北東約60キロのにあるアヤズカラ周辺の砂漠です。灌木や草が生えているので砂漠に見えませんが、近づいてみると正真正銘の砂です。ウズベキスタンの国土のほとんどがこのような乾燥地帯になっています。
P5010364 アヤズカラには6,7世紀に造られた城跡があります。そこを見学する途中、ぽん太の視線の端に動くものが! なんでしょう。不思議な生物です。誰か知っていたら教えて下さい。
P5010110 ウズベキスタンには大きな川が二つあり、アラル海にそそいでいます。これは南部のトルクメニスタンとの国境付近を流れるアムダリヤ川です。ウルゲンチからアヤズカラに向かう途中で渡りました。かなり濁っています。
P5060095 こちらはシルダリヤ川。サマルカンドからタシケントに行く途中で渡りました。この川の下流はカザフスタンに入って行きます。
P5020158 アヤズカラ近くにある、運河のポンプ場です。ソビエト時代に農業用水を確保するために大規模な運河がいくつも造られました。しかしそれは一方で、アラル海の消滅という世界的に有名な環境破壊問題を引き起こしています。
P5060082 サマルカンド付近から東を見ると、初夏の気候だというのに、雪を頂いた山なみが見えます。タジキスタンやキルギスの山々です。ちなみにウズベキスタンの気温ですが、ガイドさんの話しでは、冬にはマイナス10度とかまで下がって雪も積もり、夏の日中には40度とか45度になったりするそうです。日本も寒暖の差が激しい国ですが、日本どころではないですね。
P5050074 サマルカンドとタシケントの間の高地にはステップが広がり、耕作が行われています。真っ赤なケシの花が満開で、とても美しかったです。
P4300002 タシケント市内の風景です。シルクロードのイメージとまったく異なる近代的な街並です。帝政ロシアの時代に多くのロシア人が入植して新市街を形成したのがその理由のひとつですが、もうひとつの大きな理由は地震です。タシケントは地震が多く、なかでも1966年の大地震で古い建物のほとんどが壊れてしまったそうです。
P4300001 地震といえば、写真のナヴォイ・オペラ・バレエ劇場は大地震でびくともしなかったのだそうですが、地元では「さすが日本人が造った建物は頑丈だ」と言われているそうです。第二次世界大戦で60万人以上の日本人が強制的に連行され、終戦後も強制労働を強いられたシベリア抑留は有名ですが、中央アジアまで日本人が連れてこられていたとは知りませんでした。ウズベキスタンに連れてこられた日本人は約2万5千人、タシケントには1万人弱が連行され、ヤッカサライの日本人墓地には79名が眠っているそうです。これに関しては、藤野達善の『もうひとつの抑留―ウズベキスタンの日本人捕虜』(文理閣、2004年)に詳しく書かれています。

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2008/05/21

【ウズベキスタン旅行(2)】多種多様な人種が平和に共存?

 ぽん太がウズベキスタンを訪れてまず驚いたのは、さまざまな民族の人たちが共存していることです。
P4300018 タシケントのチョルスー・バザールですが、多種多様な民族の人たちが思い思いの服装で歩いています。伝統的な服装に身を包んだウズベク人の女性がいるかと思えば、東欧風な顔立ちの人、朝鮮系の人、モンゴル系の人、そして背の高いロシア人がミニスカートでハイヒールをカツカツいわせて闊歩しております。
P5010073 アトラスという伝統的な模様の服を着た、ウズベク人の土産物屋のご夫人たちです。ウズベクの女性は年配になるとこのような体系になるようです。まんなかの女性は東欧っぽい顔立ちですね。場所はヒヴァです。
P5060081 サマルカンドのパン売りのおばさんです。眉毛の化粧が濃いです。両方の眉をつなげる化粧をしている人もいます。ウズベク人はこのようなテュルク系の人たちです。
P5030682 ブハラのナディール・ディヴァンベギ・メドレセで行われる民族舞踊ショーに登場したロシア人です。スタイルがいいです。
P5020183 ブハラではちょうどお祭りが行われていました。子供たちがかわいらしい民族衣装に身を包んで、広場に集まっていました。ウズベキスタンの人たちは、写真に撮られるのを嫌がりません。かえって向こうから「撮ってくれ」と言ってきます(もちろん言葉は通じませんが)。また、ウズベキスタンの田舎から来ている観光客には東洋人が珍しいのか、ウズベキスタン人から「一緒に写真に入ってくれ」と声をかけられることも多かったです。そういえば、ぽん太が田舎の高校の修学旅行で京都に行ったとき、友人の一人は、外人さんに声をかけては一緒に写真を撮っていました。それと同じですね。
P5030219 ブハラの店先でゲームを楽しむおじさん。バックギャモンでしょうか?
 ウズベキスタン(O'zbekiston)という国の名前は、ウズベク人(O'zbek)の国(-istan)という意味です。外務省のサイトによると、ウズベキスタンの民族構成は、ウズベク人(80%)、ロシア人(5.5%)、タジク人(5.0%)、カザフ人(3.0%)となっています。しかしガイドさんの話しでは、ウズベク人と分類されているひとの中にも、他民族のひとが多く混ざっているのだそうです。ウズベキスタンでは、パスポートに民族が記載されているのだそうですが、ガイドさんも「自分のパスポートのはウズベク人と書いてあるが、ほんとうはタジク人だ」と言っていました。ガイドさんはちょっと東欧っぽい顔立ちでした。
P5030007 夕暮れのブハラ旧市街のお母さん。すごく派手な衣装を着ていますが、普段着です。
 バルカン半島などでは、さまざまな民族が血みどろの抗争を続けていますが、ここ中央アジアでは多民族が共存していることにぽん太は驚きました。ガイドさんの話しでは、民族による差別意識や、貧富の差はないそうです。シルクロードの中継地として古来さまざまな民族が行き来してきたから、いろいろな民族の人たちが仲良く平和にくらしているのかな……などとぽん太は想像しておりました。
P5020441 アヤズカラからブハラへ向かう街道の途中で出会った、羊を追う農夫たちです。
 帰国後に高橋巖根の『ウズベキスタン—民族・歴史・国家』(創土社、2005年)を読んでみたところ、多民族の共存の理由はそんなロマンティックなものではなく、ウズベキスタンという国の成り立ちはソビエト連邦を抜きにして考えられないということがわかりました。ウズベキスタンは社会主義のイデオロギーに従って人工的に造られた国であり、ソ連から独立したために、また新たな観点から国家の歴史や文化や民族意識を再構成することになったわけです。そういえばぽん太が旧ソ連邦を旅行するのは、今回が初めてです。ですからぽん太は今回の旅で、初めて中央アジアに触れると同時に、初めて旧ソ連邦に接したことになるわけです。
 そもそもウズベキスタン共和国は、ソビエト連邦のウズベク共和国が1991年に独立したものです。しかしソ連時代の1924年に行われた中央アジアの共和国の線引きは、かなり恣意的だったようです。そういえばウズベキスタンの北西部のカザフスタンとの境界は、アフリカ諸国の境界と同じように、一直線になっています。
 「ウズベク」という名前も、14世紀頃初めて現れたもので、ウズベクと称する遊牧民族が中央アジアに流入してきて、先住民族と融合して「ウズベク」という名称をもたらしたのだそうです。
 ソビエト社会主義では、公式には民族は解消に向かうものとされており、民族差別は否定されていました。しかし現実には、ナチス・ドイツとのつながりを疑われた中央アジアの少数民族が別の地域に強制移住させられたり、極東で日本軍部との内通が疑われた朝鮮系住民が、突然中央アジアに移住させられたりしたそうです。ウズベキスタンに住む朝鮮系のひとたちも、ひょっとしたらそうした人たちの末裔なのではないかなどと考えると、見方が変わってきます。
 ソビエト時代の末期の1989年には、メスメチア・トルコ人をウズベク人が襲撃する事件が起きました(フェルガナ事件)。数百人から数千人の死者が出たそうですが、メスメチア・トルコ人は移送されたり他の地域に逃げたりし、事件前は15万人いた彼らの人口は、事件後には1万人程度に減少したそうです。

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2008/05/20

【歌舞伎】福助のお岩は鬼気迫る熱演「東海道四谷怪談」(2008年5月新橋演舞場)

 暖かい日差しのなか、ぽん太とにゃん子は新橋演舞場に行ってきました。ゴールデンウィーク後のクリニックの混雑も一段落して、ようやくゆったりした気分です。
 演目は「東海道四谷怪談」。歌舞伎初心者のぽん太は、2年前にシアターコクーンで見て以来2回目です。そのときは串田和美演出、舞台上に特設プールをしつらえた南番で、純粋な歌舞伎ヴァージョンは今回が初めてです。
 なんといっても二幕目の福助のお岩が最高でした。産後の病に苦しみながら、可愛い我が子を慈しみ、伊右衛門の冷たい態度に傷つきながらも、仇を討ってやるという言葉を信じ続けています。とっても不憫です。1825年(文政8年)初演、鶴屋南北の手になる狂言ですが、お岩が伊右衛門にいたぶられている様子は現代のDV(ドメスティック・バイオレンス)を思わせ、身につまされます。というよりも最近の犯罪は、「相手が誰でもよかった」とか「人を殺してみたかった」とかいうようなものが多いので、「四谷怪談」のような欲や情に基づく世界を見ると、「やっぱり犯罪はこうじゃなくちゃ」と気持ちが落ち着く自分が怖いです。
 お岩が自分の変わり果てた顔に驚く場面、宅悦に真相を聞かされて驚きから恨みへと変わって行くところ、お歯黒をしたり髪を梳いたりする動作を通してだんだんと猟奇的な姿へ変貌するところなど、双眼鏡から目が離せませんでした。髪を梳くところでカツラが取れないというハプニングもありましたが、まさか祟りではないでしょうね。
 伊右衛門は、コクーンの橋之助では根はいいひとみたいな印象でしたが、吉右衛門は根っからの悪人の貫禄。いつもながらのうまさは初役とは思えませんでした。
 歌六の宅悦も妖しげでよく、段四郎の直助のカラリとしたアウトローも素敵でした。
 最初から最後まで一睡もせずに鑑賞。終わったらどっと疲れました。

於岩稲荷田宮神社 先日、四谷の荒木町に飲みに行ったついでに、お岩さんゆかりの神社、於岩稲荷田宮神社に行ってきました。場所はこちらです。解説の書かれたコピーが置いてありましたが、内容はこちらのサイトに転記されています。
於岩稲荷田宮神社 それによれば、お岩と伊右衛門は人もうらやむいい夫婦で、働き者のお岩にあやかろうとお岩稲荷は信仰を集めていました。のちに鶴屋南北はお岩の人気を利用して、さらに当時のさまざまな事件を盛込んで、「東海道四谷怪談」を創ったのだそうです。

新橋演舞場 五月大歌舞伎 平成20年5月 夜の部
通し狂言 東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)
 序 幕 第一場 浅草観音額堂の場
     第二場 按摩宅悦内の場
     第三場 浅草田圃地蔵前の場
     第四場 同 裏田圃の場
 二幕目 第一場 伊右衛門浪宅の場
     第二場 伊藤喜兵衛内の場
     第三場 元の浪宅の場
 三幕目     砂村隠亡堀の場
 大 詰 第一場 蛇山庵室の場
     第二場 仇討の場
          民谷伊右衛門  吉右衛門
    お岩・小仏小平・女房お花  福 助
           佐藤与茂七  染五郎
           奥田庄三郎  錦之助
            四谷左門  桂 三
           伊藤喜兵衛  由次郎
           お岩妹お袖  芝 雀
            按摩宅悦  歌 六
           直助権兵衛  段四郎

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2008/05/16

【歌舞伎】「毛谷村」の染五郎の色気がよかったです(2008年5月新橋演舞場・昼の部)

 「毛谷村」がおもしろかったです。『彦山権現誓助剱』は1786年(天明6年)に人形浄瑠璃として大阪で初演され、4年後には歌舞伎に移された義太夫狂言。これまでぽん太の印象では、染五郎は世話物や現代劇はいいけれど、義太夫狂言だとなんか浮いてしまう気がしていました。しかし今回の六助では、義太夫狂言らしい様式美が感じられましたし、持ち味の前半の人の良さだけでなく、後半の真相を知ってからの大きさや猛々しさも迫力がありました。そしてなんといっても、観客を引きつける色気が出てきたように感じました。染五郎を見直しました。亀治郎はあいかわらず巧み。でも巧みさに目が行ってしまって、一登場人物として狂言のなかにしっくりとおさまっていない感じがしました。錦之助は人の良いお殿様ばかりでなく、微塵弾正のような悪役も魅力的になってきました。
 筋書によれば、毛谷村六助のモデルは、秀吉時代の実在の人物とも、宮本武蔵とも言われているそうです。ぐぐってみると、大分県に毛谷村六助の墓があるそうです。のちに加藤清正の家臣となり、木田孫兵衛という名に改め、朝鮮出兵で活躍したそうです。
 踊りは、疲れていたせいもあって、福助の藤娘をきれいだなあ、かわゆいなあと思っているあいだに意識を失いました。
 「一本刀土俵入り」は演歌などでは存じておりましたが、芝居を見るの初めて。先月の歌舞伎座の「刺青奇偶」に続いて、長谷川伸の新歌舞伎です。「刺青奇偶」はぽん太は筋が納得いかなかったけど、「一本刀土俵入り」はストレートでした。ナルホド、こういう話しかと思いました。お姫様役のイメージが強い芝雀が演ずる、アネゴ風なお蔦がよかったです。吉右衛門のよさは言わずもがな。

五月大歌舞伎(新橋演舞場)昼の部
一、彦山権現誓助剱 毛谷村(けやむら)
           毛谷村六助  染五郎
              お園  亀治郎
           杣斧右衛門  吉之助
         一味斎後室お幸  吉之丞
      微塵弾正実は京極内匠  錦之助
二、上 藤娘(ふじむすめ)
             藤の精  福 助
  中 三社祭(さんじゃまつり)
              悪玉  染五郎
              善玉  亀治郎
  下 勢獅子(きおいじし)
              鳶頭  歌 昇
              鳶頭  錦之助
三、一本刀土俵入(いっぽんがたなどひょういり)
           駒形茂兵衛  吉右衛門
              お蔦  芝 雀
         船印彫師辰三郎  錦之助
             老船頭  由次郎
             若船頭  種太郎
             清大工  桂 三
            掘下根吉  染五郎
           船戸の弥八  歌 昇
           波一里儀十  歌 六

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2008/05/14

【高齢者医療】「みだりに診察を行ってはならない」ーー既に始まっていた高齢者切り捨て

 後期高齢者医療制度(長寿医療制度)に関しては、高齢者が病院を受診しにくくするものではないかという批判がなされており、平成姥捨て山制度などという陰口も叩かれています。
 しかし医療関係者からみると、「ようやく騒ぎ出したか」という感じで、高齢者を医療から遠ざけるという施策は、すでに以前から始まっていたのです。ぽん太はこのあたりの実情にあまり詳しくないので、一部間違いもあるかと思うのでご注意下さい。

 まずは特別養護老人ホームの入居者の場合。特別養護老人ホーム(特養)は、身体的あるいは精神的に著しい障害があって常時介護が必要なひとを入所させる施設です。特養の入居者に対する医療に関しては、たとえば平成18年3月31日付けの通知「特別養護老人ホーム等における療養の給付(医療)の取扱いについて」(保医発第0331002)があります。特養には「配置医師」と呼ばれる医師の配置が義務づけられており、特養の入居者の医療は基本的には配置医師が行います。ただし、一人の配置医師が全ての病気の治療を行えるわけではありませんから、緊急の場合や、配置医師の専門外の病気の場合、配置医師以外の医師が診察することが禁止されているわけではありません。しかし、上の通知には、次のような記述があります。

3 保険医が、配置医師でない場合については、緊急の場合又は患者の傷病が当該配置医師の専門外にわたるものであるため、特に診療を必要とする場合を除き、それぞれの施設に入所している患者に対してみだりに診療を行ってはならない。
 「みだりに診療を行ってはならない」というのはすごい表現です。特養入居者は勝手に診察してはならない、診察する前によくよく考えてみろよ、ということでしょうか?

 次いで介護老人保健施設。介護老人保健施設(老健)とは、病院に入院してた患者さんが自宅に戻るための橋渡しをする施設で、治療を行いながらリハビリテーションに力を注ぎ、家庭に戻すために一時的に入所する施設です。老健には併設保険医療機関と呼ばれる病院あるいは診療所が定められており、老健入所者の医療は原則としてここで行うことになっております。そして併設保険医療機関以外の一般の医療機関による診療行為は、著しく制限されております。そのあたりの基本的な考え方については「介護老人保健施設入所者に係る往診及び通院(対診)について」(平成12年3月31日、老企第59号)に書かれております。

1 基本的考え方
(1) 介護老人保健施設は常勤医師が配置されるので、比較的安定している病状に対する医療については施設で対応できることから、入所者の傷病等からみて必要な場合には往診、通院を認めるが、不必要に往診を求めたり通院をさせることは認められないものであること。
 さすがに「みだりに」とは書かれていませんが、一般の医師が「不必要に」診察をしてはいけないことになっています。そして診察をした場合も算定できる診療報酬が非常に制限されております。上のリンクの「別表」にわかりやすくまとめられておりますが、平成20年厚労省告示第59号に詳しく(わかりにくく)書いてあります(こちらのpdfファイルの一番最後)。
 他の科のことはよくわからないのですが、精神科で初診の患者さんの場合、例えば、初診料270点、通院・在宅精神療法500点、処方せん料68点で、計838点、8,380円の収入となります。ところが老健入所者の場合、「精神科専門療法」がダメなので通院・在宅精神療法は取れず。薬を出すこともできないので処方せん料もなし。初診料の270点、2,700円だけの収入です(併設保険医療機関に対する診療情報提供料(I)250点が加わりますが、その分よけいな労働が加わるので、ここでは考慮しません)。小一時間かけて診察してこれでは割にあわないので、精神科医としては「通院・在宅精神療法の5,000円分を老健が払ってくれるのなら診ますよ」ということになるのですが、老健の方は「そんなら診なくていいです」ということになりますから、結局は併設保険医療機関の精神科が専門でない医師が診ることになります。
 まとめると、介護老人保健施設に入所中の患者の医療は、併設保険医療機関が行う。緊急時、あるいは専門外の場合は、他の医療機関を受診することは可能だが、その場合の診療報酬は低く抑えられているため、実際には他の医療機関はなるべく受診しないよう経済的に誘導される、ということになります。老健は、医療姥捨て山ということができるのかもしれません。

 こうしてみると、平成20年4月にスタートした後期高齢者医療制度における「後期高齢者診療料」は、介護老人保健施設のシステムを、すべての後期高齢者に拡大しようと目論んだものと思われます。後期高齢者診療料に対しては激しい批判の声が上がっていますが、同じような制度が老健ではすでに何年も前から行われていることは、あまり知られていないようにぽん太は思います。

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2008/05/13

【ウズベキスタン旅行(1)】GWにシルクロードの真珠を訪れました

レギスタン広場@サマルカンド ぽん太とにゃん子は、ゴールデンウィークにウズベキスタンを旅行して参りました。青いタイルが美しい建築物は、まさにシルクロードの真珠という呼び名にぴったりです。中央アジアを訪れるのは生まれて初めてだったので、見るものすべて珍しく、とても興味深かったです。

ビビハニム・モスク@サマルカンド とはいえ、最初からウズベキスタンに行こうと思っていたわけではありません。ホントはネパールに行くつもりだったのですがなかなか飛行機がとれず、どうしてもダメとあきらめたのはゴールデンウィークも直前で、空いているところがウズベキスタンぐらいしかありませんでした。ですから「で、ウズベキスタンってどこ?」という状態で、旅行会社から送られてきた旅程表に「プラハ」と書いてあったので、「なんだプラハに寄るということは、チェコの東隣かな?プラハは行ったことがあるけどまあいいか」などと言っていたら、よく見ると「プラハ」ではなくて「ブラハ」。さらに良く見たら「ブハラ」でした。恐るべし狸脳! チェコの東はウズベキスタンではなくウクライナでした。ううう、「ウ」しかあっていない。

 で、ウズベキスタンのホントの場所は? 

大きな地図で見る
 アラル海と接しており、いくつかの小国に囲まれておりますが、おおまかな位置取りとしては東に中国、北にはロシア、西にはカスピ海、南にはアフガニスタンがあります。なに?アフガニスタンに接している? 怖いところではないだろ〜な〜。
 ウズベキスタンの旅行記はネット上にいっぱいありますので、ぽん太は興味深かった点だけをかいつまんでご報告したいと思っています。
 今回の旅程は下記の通りです。
【1日目】成田空港からアシアナ航空でソウルを経由してタシケントへ。タシケント泊。
【2日目】タシケント市内観光。夕刻飛行機にてウルゲンチへ。車でヒヴァへ移動しヒヴァ泊。
【3日目】ヒヴァを観光。午後、車でアヤズカラへ。アヤズカラの遺跡観光。ユルタ泊。
【4日目】アヤズカラから一路車でブハラへ。ブハラ泊。
【5日目】終日ブハラ観光。
【6日目】ブハラから車でシャフリサーブスへ。シャフリサーブス観光・泊
【7日目】車でサマルカンドへ。サマルカンド観光・泊。
【8日目】サマルカンド観光。夕刻、車でタシケントに戻り、夜に飛行機でタシケント発。
【9日目】ソウルで乗り継ぎ、成田空港へ。

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2008/05/11

【医療制度】延命やめたら医師に2000円?「後期高齢者終末期相談支援料」とは

 平成20年4月1日から開始された後期高齢者医療制度は、その実態が一般に知れ渡るにつれ、ますます批判が強まっているようです。政府はあわてて「長寿医療制度」などという別名をつけましたが、一部では「平成姥捨て山制度」などと揶揄されているようです。それにしても「長寿医療制度」というのもセンスのない名前で、口にするのが恥ずかしい感じがしますね。昔の「E電」を思い出します。え、「E電」なんて知らない? 知らない方は例えばこちらをどうぞ。

 後期高齢者医療制度の問題点は既にいろいろと挙げられていますが、最近話題になったのは「後期高齢者終末期相談支援料」で、週刊ポスト(2008年5月9・16日号)が「後期高齢者の終末医療『延命やめたら医師に2000円』」というセンセーショナルなタイトルでスクープしております。
 「後期高齢者終末期相談支援料」とは、以下のようなものです(厚労省のこちらのページのなかにあるこちらのpdfファイルの一番最後にあります)。

B018 後期高齢者終末期相談支援料 200点
注 保険医療機関の保険医が、一般的に認められている医学的知見に基づき回復を見込むことが難しいと判断した後期高齢者である患者に対して、患者の同意を得て、看護師と共同し、患者及びその家族等とともに、終末期における診療方針等について十分に話し合い、その内容を文書等により提供した場合に、患者1人につき1回に限り算定する
 診療報酬は1点=10円で換算しますから、2000円の収入となります。

 これだけではよくわからないと思いますが、細かな運用に関しては「診療報酬の算定方法の制定等に伴う実施上の留意事項について」(保医発第0305001号)に書かれています。厚労省のこちらのページのなかにあるこちらのpdfファイルの33ページにあります。リンクを辿るのも大変でしょうから、ちょっと長いですけど全文引用しておきましょう。

B018 後期高齢者終末期相談支援料
(1) 後期高齢者終末期相談支援料は、後期高齢者である患者が、終末期においても安心した療養生活を送ることができるよう、医師等の医療関係職種から適切な情報の提供と説明がなされ、それに基づいて患者が医療従事者と話し合いを行い、患者が終末期における療養について十分に理解することを基本とした上で、診療が進められることを目的としたものである。
(2) 一般的に認められている医学的知見に基づき終末期と保険医が判断した者について、医師、看護師その他の医療関係職種が共同し、患者及びその家族等とともに、診療内容を含む終末期における療養について、「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」( 平成18年5月21日医政発第0521011号)、「終末期医療に関するガイドライン」(日本医 師会)等を参考として、患者の十分な理解を得るために話し合い、その内容を文書(電子 媒体を含む。)又は映像により記録した媒体(以下、この区分において「文書等」という。)にまとめて提供した場合に患者1人につき1回に限り算定する。とりまとめた内容の提供に当たって交付した文書等の写しを診療録に添付すること。
(3) 患者の十分な理解が得られない場合又は患者の意思が確認できない場合は、算定の対象とならない。また、患者の自発的な意思を尊重し、終末期と判断した患者であるからといって、保険医は患者に意思の決定を迫ってはならない。
(4) 話し合う内容は、現在の病状、今後予想される病状の変化に加え、病状に基づく介護を含めた生活支援、病状が急変した場合の治療等の実施の希望及び急変時の搬送の希望(希望する場合にあっては搬送先の医療機関等を含む。)をいうものであること。
(5) なお、入院中の患者については、患者及び家族等と話し合いを行うことは日常の診療においても必要かつ当然のことであることから、特に連続して1時間以上に渡り話し合いを行ったうえで、患者の十分な理解を得ること。
(6) 時間の経過、患者の病状の変化、医学的評価の変更、生活の変化に応じて、また、患者の意思が変化するものであることに留意して、その都度説明し患者の十分な理解を得ること。ただし、変更があった際の文章等の作成に係る費用については所定点数に含まれ、別に算定できない。
(7) 入院中の患者については退院時又は死亡時、入院中以外の患者については死亡時に算定する。
 よーするに、患者に回復の見込みがないと判断された時、医師・患者・家族等が話し合って、最後は自宅で看取るのか、それとも病院に入院させるのか、点滴などは行うか、人工呼吸器をつけるか、などを話し合って文書化すれば、診療報酬2000円が与えられるというものです。「連続して1時間以上に渡り話し合いを行ったうえで」とありますが、医師の時給は2000円以下かい! 精神科医のぽん太は終末期医療に関わることはほとんどないので詳しくないのですが、こういった問題は、日々の診療のなかで少しずつ話し合っていくものではないでしょうか? 最終的に確認をとって文書にまとめるのには1時間もかからないでしょう。するとこの「後期高齢者終末期相談支援料」を実際に使用する機会は多くはないと思われます。むしろこういったことを「まず明文化して反応を見る」ことが厚労省の目的であるようにも思われます(2008.5.16訂正、よく読んだら1時間かけないといけないのは入院の場合だけでした)。

 この制度に関しては、日本ALS協会も4月24日、見直しを求める見解を表明しております。例えば毎日新聞2008年4月25日のこちらの記事をどうぞ。「見解」の全文はちと見つかりません。日本ALS協会のサイトにでもアップしていただけるといいのですが。ちなみに記事のなかに出ている全日本病院協会作成の意思表示の文書は、たぶんこのpdfファイルだと思います。
 終末期をどう迎えるかというのは大変複雑でデリケートな問題です。十分に話し合いが行われたか、医師の情報提供が適切に行われたか、患者や家族(それに医師も!)の複雑な思いが切り捨てられてしまうのではないか、あとで気持ちが変わったときに相談しにくいのでは、などの心配があります。また終末期が近づいた患者さんは精神的に弱って、ときにはうつ状態になったりします。そういった状態では正しい判断ができない恐れもあります。また、家族に迷惑をかけるのを申し訳なく思い、自分の希望に反して延命を断るかもしれません。こうした問題を抱えた状態で、制度化のみが一人歩きして行くのは危険に思われます。

 反発にあわてた厚労省は、平成20年4月28日に厚生労働省保険局医療課の事務連絡というかたちで、「患者の希望が確認できない場合等には、「不明」、「未定」等とすることで差し支えない」と、事実上の修正を発表しました(こちらのページこちらのpdfファイル)。

事 務 連 絡
平成20年4月28日
地方社会保険事務局長
都道府県民生主管部(局)
国民健康保険主管課(部)長     殿
都道府県高齢者医療主管部(局)
高齢者医療主管課(部)長
厚生労働省保険局医療課

後期高齢者終末期相談支援料の取扱いについて

 標記については、「診療報酬の算定方法の制定等に伴う実施上の留意事項について(通知)」(平成20年3月5日保医発第0305001号)により本年四月の診療報酬改正に伴う留意事項を定めたところであるが、当該項目についてとりまとめる文書等の取扱い等は下記のとおりであるので、遺憾のないよう関係者に対し周知徹底を図られたい。


 後期高齢者終末期相談支援料の算定にあたっては、病状が急変した場合の治療等について、医師、看護師その他の医療関係職種が共同し、患者及びその家族等とともに話し合い、その内容を文書等にとりまとめることとしているが、「診療報酬の算定方法の制定等に伴う実施上の留意事項について(通知)」(平成20年3月5日保医発第0305001号)にあるように、後期高齢者終末期相談支援料は、終末期においても安心した療養生活を送ることができるよう、患者が終末期における療養について十分に理解することを基本とした上で診療が進められることを目的としたものであるため、患者の自発的な意思を尊重し、患者に意思の決定を迫ってはならず、病状が急変した場合の治療方針や急変時の搬送の希望等について、患者の希望が確認できない場合等には、「不明」、「未定」等とすることで差し支えないものである。
 いつもながらの厚労省の朝令暮改の場当たり的なやり方にはあきれます。しかしさらに、終末期をどのように迎えるか相談した場合、なぜ75歳以上の後期高齢者の場合だけ医師に報酬が与えられるのかは、ぽん太のタヌキ脳では理解できません。「後期高齢者終末期相談支援料」は75歳未満のひとに対しては適用されないのです。

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【高齢者医療】「みだりに診察を行ってはならない」ーー既に始まっていた高齢者切り捨て2008/05/14

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2008/05/08

【医療】近頃話題のジェネリック医薬品についてみちくさ

 ゴールデンウィークあけの最初のブログは、楽しい記事から始めたいところですが、以前から気になっていたジェネリック医薬品についてみちくさしてみましょう。

【ジェネリック医薬品を使わないと生活保護を打ち切り!?】
 本日のみちくさのスタート地点は、2008年4月27日の毎日新聞に掲載された「ジェネリック医薬品:生活保護には安価薬 不使用、手当打ち切りもーー厚労省通知」という記事です。その内容ですが、生活保護受給者の投薬は値段の安いジェネリック医薬品を使うように本人に指導し、指導に従わない場合は生活保護手当の打ち切りも検討するという通知を、厚生労働省が4月1日に出したというものです。
 その結果がどうなったかというと、通知を出してからわずか1ヶ月後、マスコミで取り上げられてから3日後の4月30日に、厚労省は「手当打ち切り」などの対応の撤回を行いました(「ジェネリック医薬品:使用指示問題 「手当打ち切り」撤回、都道府県に厚労省通知」毎日新聞2008年4月30日)。

【ジェネリック医薬品のテレビCM】 
 この2つの記事を理解するために、まずジェネリック医薬品(後発医薬品)についておさらいしておきましょう。
 意味はよくしらなくても、「ジェネリック」という言葉に聞き覚えがある方も多いのではないでしょうか? 最近はテレビCMが盛んに流されており、黒柳徹子の人形が「ジェネリック」と代弁する東和薬品のCM(動画あり)や、高橋英樹がジェネリックを薦める沢井製薬のCM(動画あり)など、「ああそれか!」という感じです。
 対して渡哲也が「どんな薬かだけじゃなく、どこの薬かを考えたことがありますか」と言う第一三共製薬のCM(動画あり)は、ジェネリック医薬品メーカーを意識しているようにも思われます。

【ジェネリック医薬品とは】
 で、ジェネリック医薬品(後発医薬品)とは何かですが、詳しく知りたい方は、こちらのWikipediaの「後発医薬品」を見るなり、各自ググルなりしていただくことにして、ここでは簡単にまとめておきましょう。新しい薬(先発医薬品)を発売するには、膨大な開発費がかかります。したがって先発医薬品の薬の値段(薬価)には、これらの研究開発費が上乗せされているわけです。先発医薬品は特許で守られているのですが、特許権の存続期間は特許出願日から20年(場合によって25年)です。一般には、特許を出願しても、薬として発売されるまでには長い年月が必要ですから、発売されてから特許が切れるまでの期間はさらに短くなります。で、先発品の特許が切れると、他のメーカーが同じ成分の薬を出せることになりますが、この場合はどんな化学物質かすでにわかってますし、薬として承認を得るための条件も厳しくないので、安い値段で売り出すことができます。これがジェネリック医薬品(後発品)です。昔は、特許が切れるとゾロゾロ出てくるので、通称「ゾロ」と呼ばれていました。

【ジェネリック医薬品の名前の由来】
 ちなみに「ジェネリック医薬品」という名前の由来ですが、英語のgeneric drugから来ています。薬には、化学薬品としての成分を表す一般名(generic name)と、製薬会社が発売するときにつける商品名(trade name)があります。例えば精神科でよく使う「ドグマチール」はアステラス製薬の商品名で、一般名はスルピリドです。同じ薬の日本シェーリングの商品名は「ミラドール」、大日本住友製薬の商品名は「アビリット」です。で、アメリカなどでは、後発品を処方する場合に一般名(generic name)を書くことが多いので、後発品はgeneric drugと呼ばれているのです。
 日本で「ジェネリック医薬品」という用語が使われるようになったのは最近のような気がしますが、「ゾロ」とか「後発」といったマイナスイメージを避けるためだとぽん太には思われます。
 日本のジェネリック医薬品には、以前にはさまざまな名称がつけられていましたが、最近発売されたものは「一般名+会社名」というパターンになってきています。たとえばスルピリドに関しては、昔からジェネリックを出している沢井製薬は「ベタマック」という商品名ですが、最近になって出した共和薬品は、「スルピリド錠○mg「アメル」」、大正薬品は、「スルピリド錠○mg「TYK」」、といった具合です。昔からあるジェネリックには、変な名前のも多かったです。たとえばセレネースのジェネリックの「エセックチン」など、何か口にしにくい気がします。ハルシオンのジェネリックのアサシオンなどはassassinを連想させます。

【ジェネリック医薬品ってどれくらい安いの】
 実際にジェネリック医薬品がどのくらい安いか見てみましょう。日本ジェネリック医薬品学会が運営する「かんじゃさんの薬箱」というサイトには、ジェネリック医薬品の検索ができるページがあります。試しにドグマチール錠100mgで検索すると、アステラスの先発品「ドグマチール錠100mg」は1粒22.0円、共和薬品のジェネリック「スルピリド錠100mg「アメル」」では6.4円で、3分の1以下です。ちなみに面白いのは、「スルピリド錠50mg「アメル」」の値段も同じく6.4円。なんと50mgでも100mgでも値段は同じ。つまり化学薬品そのものの値段はほとんどゼロということです。
 ドグマチールは極端に安くなる方ですが、他の薬でも何割か安くなるのが一般的です。

【何でジェネリック医薬品が普及しないのか】
 こんなに安くて品質も同等なら、ジェネリックの方がいいに決まっています。なのになぜ普及しないのでしょうか。それにはジェネリックには問題点もあるからです。いろいろと言われていますが、「ジェネリック 問題点」でググルといろいろ出てきますので、各自御覧下さい。いくつかの論点をピックアップすれば、(1)化学薬品は同じでも他の添加物が異なるので、効きすぎたら効かなかったりする可能性があり、また安全性にも不安がある、(2)錠剤ごとの薬品の含有量や溶解性、吸収量のばらつきが大きい、(3)ジェネリック製薬会社の、販売している薬に対する情報収集や情報提供の不足、(4)市場への供給の安定性が疑問、などがあります。
 (1)については、昔は「カプセルを飲んだら、そのまま溶けずにお尻から出て来た」などという陰口も効かれましたが、さすがに最近はそんなことはないようです。厚労省などジェネリックの使用を推進する側は、「生物学的同等性試験」や「溶出試験」を行っているので、先発品と同等であることが科学的に証明されていると主張しています。しかし実際に使用した医師が「効きが悪い」と感じる場合もあるようです。もっとも医師の「感じ」が正しいとは限りませんが。後発品が先発品と「統計的に優位な差がない」というだけで「同一だ」といっていいのか、という問題もあります。また、試験をしたロットと同じ品質でその後も製造されているか、という疑問もあります。(2)については、多少ばらつきが大きいのは確かなようですが、厚労省などは「問題のない範囲」としています。(3)に関しては、薬というのは作って売ればいいというものではなく、発売してからもその薬に対する効果や副作用などの情報を収集し、医療関係者やその他に情報を提供するというのが、製薬会社の大きな役割となっています。ジェネリック製薬会社はこうした点では遅れをとっているようです。嘘かほんとか知りませんが、医者がジェネリック製薬会社に薬に関する問い合わせをしたところ、「先発メーカーに聞いてくれ」との返事だったという笑い話があります。(4)に関しては、患者さんに継続的に出してくる薬が「品切れ」になってしまっては困ります。また薬局から聞いた話しでは、ジェネリック医薬品のなかには、名前は登録されているけれど、調べてみると実際には販売されていないものもあるようです。
 以上の点から、「ジェネリック医薬品には少し不安がある」と感じる医者が多いのではないかと思います。
 ぽん太の予測では、3年〜5年してジェネリック医薬品が普及した頃になって、いまさら気がついたかのように、「なんとジェネリック医薬品に問題点!」などという新聞記事が紙面をにぎわす、というのに3000点!
 付け加えれば、医者が後発品を使いたがらない理由として、「高い先発品を使って儲けようとしている」と書かれているのをよく目にしますが、薬代が医療機関の収入とならない院外処方のパーセンテージは平成17年には既に50%を超えており(厚労省の統計のグラフはこちら)、また薬代の儲けというのは売値ではなく、仕入れ値と売値の差であることは当然であり、この差益は先発品の方が多いとは限りません。高額の薬品は在庫を抱えたときのロスもかえって多く、「医者が儲けようとして高価な先発品を使っている」というのは完全な間違いです。先発品を使うと儲かるのは、先発品を販売している製薬会社です。

【平成24年までにシェアを30%に】
 で、厚労省はなぜジェネリック医薬品を普及したいのかというと、医療費を少しでも少なくするためです。
 日本のジェネリック医薬品のシェアは、1999年度10.8%でした。欧米ではアメリカで63%、イギリスで59%など、ジェネリックの普及がかなり進んでいます(ジェネリックのシェアのグラフは例えばこちらの資料のなかにあります)。
 そこで厚労省は、少しでも医者がジェネリックを処方するようにと、2002年4月の診療報酬改定から、ジェネリック医薬品を使って処方せんを出すと、医者に1回あたり20円の御褒美をあげることにしました(こちらの平成14年度社会保険診療報酬等の改定概要のまんなかへん、IIIの4の(2))。20円で人間の行動を変えようという厚労省の考え方が素敵です。当然のことながら、ジェネリックのシェアは2005年度で17.1%どまりでした。そこで厚労省は、2006年4月の診療報酬改定で処方せんの様式を変更し、処方せんに先発品の名前が書かれていても、「後発医薬品への変更可」という欄にチェックをすると、薬局と患者さんが相談してジェネリック医薬品に変更できることにしました。しかしこれによってもシェアは2006年度で16.9%とほぼ横ばい、実際に薬局で変更された率も1〜2%と、効果はあがりませんでした。
 「美しい国」で有名な安倍首相のもと2007年6月に発表された「骨太の方針2007」に、「後発医薬品の使用促進」が盛り込まれ、「平成24年度までに、数量シェアを30%(現状から倍増)以上にする」という数値目標が設定されました(「骨太の方針2007」の25ページの本文と脚注)。安倍首相は任期半ばで体調を壊され入院してしまいましたが、もちろん薬はジェネリックを選択したのでしょうね?
 2008年4月、あと4年間でシェアを30%にまで上げなくてはならない厚労省は、業を煮やして処方せんの様式を再び変更。処方せんは基本的にはジェネリック変更可とし、医師が変更を認めない時だけ「後発医薬品への変更がすべて不可」という欄に署名あるいは記名・押印することにし、2002年から続いていた20円のお駄賃を廃止しました。そして薬局の報酬に関しては、ジェネリックを使うと収入が増えるようにしました。医者が利益誘導に応じないなら、薬局から動かそうという方針です。
 これ以外にも、ジェネリック医薬品の使用促進のための対策は、テレビCMなどによる広報、ジェネリック医薬品の信頼性の改善、優良な製薬会社の育成などいろいろあるようですが、長くなるので今回は省略いたします。

【厚労省のなりふり構わぬ施策】
 で、ようやく最初の新聞記事に戻りますが、あと4年間でジェネリック医薬品のシェアを17%から30%に上げなくてはならず、焦った厚労省のなりふり構わぬ施策の一端が、「生活保護がジェネリック医薬品使用を使わなかったら保護を打ち切る」という通知として現れたわけです。生活保護者という弱者を対象に、まだ議論の対象となっているジェネリック医薬品の使用を強制し、選択権を奪うというのは、ぽん太の属するタヌキの世界では「タヌキ権侵害」として許されない行為です。
 医療費を削りまくる厚労省が次に何をしでかすか、目がはなせません。

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