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『コーラン』と『コーランを読む』を読む

 海外旅行の行き帰りの飛行機では宗教書か哲学書を読むことに決めているぽん太です。今回は行き先がイスラム教のウズベキスタンだったので、『コーラン』にしてみました。
 イスラム教は言わずと知れた世界三大宗教のひとつで、いろいろ話題になることも多いのですが、『コーラン』を読むのはぽん太は初めてです。ところが仏教の経典や、キリスト教の聖書が、一般に物語のようになっていて読みやすいのに比べ、コーランは断片的な詩句のような文章の連続で、とても読みにくいのです。おかげで行き帰りの飛行機では十分な睡眠時間が確保できましたが、イスラム教について理解を深めることはできませんでした。
 何事にも先達はあらまほしけれ、ということで、帰国後、井筒俊彦氏の『コーランを読む』を読んでみました。ところがこの先達さんがなかなか大したもので、市民セミナーをまとめたものだそうですが、とてもわかりやすくてよかったです。

 まず『コーラン』に関する覚え書き。皆さんには常識かもしれませんが、ぽん太の読書ノートだと思ってお許し下さい。
 『コーラン』は、ムハンマド(570〜632)が神から受けた啓示をまとめた聖典です。ムハンマドはアラビア半島のメッカで生まれ、幼くして両親を亡くして苦労もしたようです。長じて商人となり隊商にも参加したそうです。裕福な寡婦と結婚したりもしているようです。ムハンマドが初めて神の啓示を受けたのは40歳のときで、意外と遅いです。その後死ぬまで折に触れて啓示を受けたそうで、それらは口伝されたり、さまざまなかたちで書き留められましたが、ムハンマド自身が『決定版コーラン』を作ることはありませんでした。第3代カリフウスマーン(在位644年〜656年)が、ムハンマドの没後訳20年後、さまざまなかたちで読誦されていた『コーラン』の統一を試みますが、最終的なかたちで『コーラン』が成立するまで、3世紀かかったそうです。
 『コーラン』は114章からなり、おおむね長いものから短いものへという順番で配置されています。古い預言に短いものが多いことから、晩年の啓示が前の方、初期の啓示が後ろの方に位置します。
 一読してわかることは、アダムとかモーゼとか旧約聖書の話しが出てくることです。イスラム教の考え方では、神は何人もの預言者を地上に使わしたのであり、キリストもその一人であるが、多くの人たちは神の真意を誤解して理いる、そのため神が最後に使わした預言者がムハンマドであり、『コーラン』は正真正銘の神の教えの啓示である、ということのようです。
 もうひとつ目を引くのは、戦争が出てくることです。キリストも仏陀もいろいろと迫害を受けたりはしましたが、自らが指揮して戦争することはありませんでした。歴史的には624年、メッカ軍がムハンマドのいるメディナを攻撃しましたが、メディナ軍は劣勢にもかかわらずこれを撃退します(バドルの戦い)。翌年再びメッカ軍がメディナに侵攻しますが、こんどは大敗してムハンマド自身も負傷します(ウフドの戦い)。その後もムハンマドはメッカ軍と戦ったり、遠征を行ったりと、生涯戦争と縁が切れませんでした。このことと、イスラム教徒の一部が戦闘的なことと関係があるのかどうか、ぽん太にはまったくわかりません。
 ぽん太が『コーラン』を読んでわかったのはこれだけです。

 で、井筒俊彦の『コーランを読む』ですが、これがたいへん読みやすくていい本です。『コーランを読む』という題なので、コーラン全体を解説してくれるのかと思ったら、なんとたった7行からなる第1章を10回に分けて読むのだとのこと。ちょっとびっくりしますが、7行を理解するためにコーランの他の部分を参照するので、コーラン全体のエッセンスを知ることができます。そもそもイスラム教の考え方でも、第1章がコーランすべての思想を凝縮していると考えられているのだそうです。井筒氏の読み方は、コーランの一語一語が、当時のアラビア世界の文化的・宗教的・政治的状況においてどういう意味を持っていたかを描き出してくれるので、コーランが当時の時代背景のなかに浮き彫りになったかたちで理解できます。
 いつものように、この本に興味を持った方は自分で読んでいただくことにして、ぽん太が興味深かった点をいくつか取り上げます。
 まず『コーラン』はつねに声を出して誦むものだということ([2]p8-9)。もちろんキリスト教の聖書も仏教の経典も声に出して読まれますが、繰り返し声に出して読むことは本質ではありません。一方『コーラン』は繰り返し読誦されるべきものであることが、『コーラン』自身に書かれています。
 『コーラン』はサジュウと呼ばれる独特の文体で書かれています。これは文章を脚韻でリズミカルに句切って行くもので、純粋な詩とも違う、独特の散文形式だそうです([2]p.261-274)。これはイスラム以前のアラビアでは、神託とか予言とか呪詛、祝福などで使われる独特の文体だったそうです。『コーラン』のなかには、合戦の歴史的な記述や、結婚・離婚などの諸規則を述べた部分もあるのですが、こうした部分もサジュウで書かれているのだそうです。ちなみにムハンマド自身も、いわゆる神がかり状態、トランス状態で、アッラーの預言を語ったのだそうです。
 『コーラン』の詠唱を聴いてみたい方には、CDがあります。記事の末尾にリンクを張っておきます。節をつけて誦んでいるので、脚韻まではわかりませんが、日本の民謡のようなこぶしがきいていて、非常に神秘的です。
 ユダヤ今日では神の名は軽々しく口にしてはいけないことになっていますが、イスラム教では神の名を口にすることに宗教的意義を認めるのだそうです(p.80-84)。神は本来絶対不可知ですが、神が我々に姿を表す形態のひとつが「名前」なのだそうです。イスラムでは神が視覚的に姿を現すことはないそうです。このことは、イスラム教が偶像崇拝を禁じることと関係があるのでしょうか? またムハンマド自身が、視覚的な体験よりも聴覚的な体験に勝ったひとだったのでしょうか? 想像が膨らんで行きます。
 アッラーは99の名を持っているそうで、それらの名前は「ジャマール」と「ジャラール」という2つの系統に大別できます。「ジャマール」は慈悲、情け深いといった優しく穏やかな側面、「ジャラール」は怒り、復讐、審判、処刑などの恐ろしい側面を表しているそうです。
 イスラムが名前を重視することに関連して、第2章第30節以降でアッラーがアダムを作る話しがでてきます。天使たちは地上に災いをもたらす人間を造ることに反対しますが、アッラーはこっそりとアダムにものの名前を教えます。アダムがものの名前を言うのを聞いて、天使たちは降参します。
 イスラム教の考え方では、この夜のありとあらゆるものは神を賛美しているのだそうです([2]p.120-131)。人間が言葉で賛美するのはもちろんのこと、鳥は飛ぶことによって、地上のあらゆる存在が神を賛美し、その声に地上は満ちているのです。ぽん太は仏教でいうと、法華経の世界を思い出します。法華経の世界では、わたしたちの現実は現実そのままで、仏性に照らされて神々しく輝き渡ります。イスラム教の考えでは、あらゆる存在は神を賛美していますが、人間だけが、自分が神を賛美していることを知っています。つまり神を自由意思で賛美することができるのですが、裏を返せば自らの意思で神を賛美しないことができます。ここにあらゆる存在のなかで、人間の特殊性が認められるのです。ぽん太は、仏教の六道輪廻を思い浮かべます。六道輪廻においても、輪廻を解脱して成仏しようと考えることができるのは人間だけです。人間の上に位置する天でさえ、その何不足ない境遇に安住するあまり、六道輪廻から解脱することはできないのです。
 イスラムでは「終末論」がとても大切な概念なのだそうです。われわれの世界にはやがて恐るべき終末がおとずれます。われわれは終末が刻々と迫る恐怖のなかに生きています。そのあとには「復活」があり、すべての死者が蘇ります。輪廻転生という仏教ではなじみの考えは、イスラムの考え方とは相いれないものであり、人が死ぬと肉体は墓のなかで朽ち果てますが、魂は生まれ変わらずにどんどん蓄積して行きます。やがて復活の時、魂は生きていた頃の肉体と一つひとつ結びついて、地上に蘇るのです。そして彼らは神の審判を受け、そこで自分の人生にふさわしい恩賞と罰とを受けるのです。そして新しい世界秩序が始まることになります。
 そういえばキリスト教でも最後の審判とか復活とかの考え方がありますが、キリスト教の場合はどうなっているのでしょうか。ぽん太はまったくわかりません。機会があったらみちくさしましょう。
 この終末論は、葬式仏教徒のぽん太からすると「荒唐無稽」ですが、でも六道輪廻の考え方だって「荒唐無稽」ですよね。
 「荒唐無稽」な終末論ですが、当時のアラビアでは「人間死んだら終わり、ただそれだけさ」というペシミスティックな考え方が一般的だったそうで(]2]p.306)、この「終末論」は逆に来世への希望を持たせるものだったようです。
 イスラムは、商業が発達するにつれて古い部族制度が崩壊して行くなか、新しい共同体秩序を提示するものでもありました([2]p.329-332)。そこでは神と人間が一対一で向かい合うのであって、部族や血縁といった古いつながりは否定されました。そのことが因習的な人々の反発を買う原因になったようです。
 イスラムでは、神を崇める、神に帰依するということは、神を主人とし、自分は奴隷として仕えるという意味合いなのだそうです([2]p.339)。この考え方も、奴隷ば恥ずべき卑しむべき存在で人間ではないと考えていた当時、誇り高いアラブ人には受け入れがたい考え方でした。この感覚が、キリスト教の神への帰依や、浄土真宗の絶対他力と比較してどうなのかまでは、よくわかりませんでした。
 井筒氏は「存在の夜」と表現していますが、当時のイスラム世界は、悪霊とか妖気とかが闇でうごめくような独特の世界感があったそうです([2]p.371)。たとえば「ささやく」というのは呪詛することを意味するそうで、『旧約聖書』にもみられるそうです。「詩編」の「第41篇」の「すべて我を憎む者、互いにささやき、我をそこなわんとて相はかる」というのは、ひそひそ話で悪口をしているのではなく、呪詛の言葉を集団で唱えて害そうとしているのだそうです。とはいえ日本でも昔は、滅ぼした相手の怨霊が世界を漂い、それを鎮めるために寺社を造ったりしていたから、同じことかもしれません。これについてはぽん太も以前にちとみちくさしました(【宗教】神仏習合について勉強してみた)。

 以上、まとまりのない雑感でしたが、『コーラン』に入門できてよかったです。また機会があったら『コーラン』をみちくさしたいと思います。
【参考文献】
[1] 『コーラン〈1〉 (中公クラシックス)』、藤本勝次他訳、中央公論社、2002年。
[2] 井筒俊彦著『コーランを読む (岩波セミナーブックス 1)』、岩波書店、1983年。

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コメント

ハハ、ホント!そりゃそダ!^^

投稿: ちーぼー | 2008/07/11 08:14

ちーぼーさんは読書家ですね。
ええ、ぽん太は(タヌキの)精神科医をやっております。
特別に大変ということはないですよ。
どの仕事も大変だと思います。
『コーラン』訳すのだって大変ですよね。

投稿: ぽん太 | 2008/07/04 11:27

いえいえ、こちらこそ。
そーですねー、ホント、むずかしいことをカンタンにご説明してくれますネ~^^。
第9巻、決してムズカシくはありません。・・・慣れるまでチョット、ややこしいですけどネ^^

ぽん太さんは精神科のお医者さんなんですか~。
わたし、河合氏に一時、のめりこみましてネ。ホント、すっごい世界ですねー。ま、世の中みんなタイヘンなんでしょうけど、タイヘンの意味が違いすぎますよネー。

※今、『コーランを読む』のほかに、『ソウルアンドボディ』、『境界例』、『裸のサイババ』なんか、乱読中です。

投稿: ちーぼー | 2008/06/24 07:35

ちーぼーさん、コメントありがとうございます。
難しいことをわかりやすく書いてくれる人はありがたいし、
ホントに頭がいいんだろうな〜と思います。
著作集の9巻は『東洋哲学』ですか?
難しそうですね。
縁があったらチャレンジしてみます。

投稿: ぽん太 | 2008/06/22 10:47

こんにちわ~。偶然ですねー。私も今、これ読んでます。
・・・井筒氏については、河合隼雄氏(『ブックガイド・心理療法』)から知りまして、今ハマリ込んでる最中です^^

※井筒俊彦著作集・第9巻、おすすめします!・・・ここからハマッてしまいました、私は^^
・・・ついでに全集、古書で購入してしまいました~^^

投稿: ちーぼー | 2008/06/20 08:15

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