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2009/04/07

江戸から明治への監獄の歴史・安丸良夫『一揆・監獄・コスモロジー 周縁性の歴史学』

 博物館網走監獄を見学して明治時代の監獄建築に興味を持ったぽん太は、安丸良夫の『一揆・監獄・コスモロジー―周縁性の歴史学』(朝日新聞社、1999年)を読んでみました。安丸良夫の本に関しては、以前に『神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈』について書いたことがあります。
 本書では、一揆、監獄の誕生、大本教という三つのテーマについて論じられていますが、こんかい取り上げるのは監獄についてだけ。しかもいつものように、ぽん太が興味深かった点だけをピックアップいたします。興味がわいた方はご自身でお読み下さい。
 
 安丸は、最終的には1754年(宝暦4年)に成立した「公事方御定書」まで遡って論を起こします。歌舞伎が好きなぽん太は、江戸時代の刑罰制度にも興味があります。江戸時代の裁判は「出入筋」(でいりすじ)と「吟味筋」(ぎんみすじ)に大別されるそうです。出入筋は現在の民事訴訟にあたりますが、現在の和解にあたる内済(ないさい)が重んじられたそうです。一方で刑事訴訟にあたる吟味筋では、内済は禁止されていました(p.67)。
 吟味筋の取り調べでは、自白をさせて自白調書にあたる「吟味詰り之口書」(ぎんみづまりのくちがき)を作成することが中心で、自白が得られれば、それで事実認定がされたと見なされました。この自白を引き出すために拷問が使われたことは言うまでもありません。
 自白によって認定された犯罪事実に対しては、これまでの膨大な判例に基づいて、刑罰が決められたそうです。この点では、どういう犯罪にどういう刑罰が対応するかが厳密に決められており、現在のような情状酌量などはなかったそうです。そこで例えば十両以上の盗みは死罪と決まっているので、被害額の認定の段階で「九両三分二朱」とするなどの取扱が行われたそうです。
 近世初頭にはさまざまな残虐な身体刑が行われたそうですが、人々の面前で見せしめとして行われるものには磔・獄門・火焙(ひあぶり)の三つがありました。このうち磔と火焙は西洋のキリスト教における迫害法をまねたものだということは、ぽん太は初めて知りました(p.72)。
 さて、江戸で逮捕された者が収容されたが、小伝馬町の牢です。現代でいうと、日本橋の小伝馬町駅の北西で、こちらがそのYahoo!地図です。基本的には未決囚が入れられていたそうです。暑さがひとく、過密で、一番多かったときには15坪の大牢に200人が入れられていたそうですから、一坪に13人強となります。ちなみにぽん太が山小屋で最も過密だったのは、妙高山の黒沢池ヒュッテに体育の日に泊まったときで、畳4枚で15人寝ましたが、それでも一坪7.5人ですから、江戸時代とは比べ物になりません。また通常でも、牢名主を初めとする牢役人が広いスペースを使ったため、平囚人は畳一枚に数人から十人以上になってしまったそうです(p.84)。
 このような過酷な条件だったために死ぬ者も多く、一時小伝馬町の牢屋敷に収容されていた吉田松陰は、死ぬ者が「日々三人ニ下ラズ」と書いていたそうですが、それがホントなら、当時の入牢者数は300人ほどだったので、毎日100人に一人が死んでいたことになります。
 江戸時代の収容施設でもうひとつ有名なのは、石川島の人足寄場です。1790年(寛政2年)に寛政の改革の一環として、火付盗賊改の長谷川平蔵が責任者となって作られました。犯罪者以外に、無罪の無宿人も収容されたそうで、また油絞りなどの労働が課されたそうです(p.100)。場所は現代でいえばこのへん(Yahoo!地図)ですね。明治時代になると東京府の所属となり、石川徒場と呼ばれるようになりました。これが1895年(明治28年)に巣鴨に移転し、のちの巣鴨刑務所となりましたが関東大震災で全壊し、場所を変えて1935年(昭和10年)に府中刑務所となりました。
 さて、明治時代になると、刑罰制度も改革が行われました。追放・所払いは廃止され、かわりに徒刑
が課されました。現在の刑罰制度とは異なり、明治初頭の刑罰は、苦役が特徴でした。また、これまで死刑に該当した犯罪が終身刑に回されるようになり、刑期の長期化や囚人の増加が生じたため、監獄の必要性が高まりました(p.110)。
 本書の112,113ページには、明治5年に小原重哉が提出した「監獄則」におさめられた、新様式の監獄平面図が載っておりますが、十字形の建物の交差する部分に監視所があるもので、獄舎全体を「一目洞視」(いちもくどうし)できるようになっていました。これは明らかにベンサムのパノプティコンに他なりません。現代では「一望監視」と呼ばれているこの概念が、明治初頭に日本に入っていたとは知りませんでした。
 1882年(明治15年)に施行された旧刑法は、明治政府の顧問であり、法政大学の開祖でもあったボワソナードが、母国フランスの刑法をもとに起草したものだそうで、明治の法制度はフランスとのつながりが大きかったようですが、その理由はぽん太にはわかりません(p.129)。
 監獄の整備は、明治20年代までの日本にとって重要課題のひとつであり、監獄はしばしば近代日本の洋風建築の代表作となったそうです(p.174)。

 ぽん太自身が興味を持った点の抜き書きで申し訳ありません。ぽん太も少しだけ、江戸時代から明治にかけての監獄・刑罰制度を知ることができました。

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