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2009/05/08

【ロシア旅行(3)】エカテリーナ宮殿、聖イサク聖堂、ニコライ聖堂など

P4300013 旅行2日目。まずはエカテリーナ宮殿の観光。とはいえぽん太の狸脳では、エカテリーナという人がいつ頃のどういう人なのか、お会いしたこともないのでまったくわかりません。ということで、まず、サンクトペテルブルグの歴史を少々おさらいしてみました。
 前回のブログで、アレクサンドル・ネフスキーがネヴァ川の戦い(1240年)でスウェーデン軍を打ち破った話を書きましたが、ネフスキーはサンクトペテルブルクを守ったわけではありません。というのも当時はまだこの都市は存在せず、このあたりはノブゴロド公国の北の偏狭だったのです。
 サンクトペテルブルクは、ピョートル1世(1671年-1725年、在位1682年-1725年)が作った人工都市でした。彼はいわば「変人」で残虐でもありましたが、外国文化を移入し、北の辺境の遅れた国だったロシアを近代化して、ヨーロッパ列強のひとつにまで発展させました。子供の頃は不遇でモスクワ郊外で過ごしていましたが、近くのドイツ人村に入りびたっては、ドイツの生活や文化・学問を吸収していたそうです。そのドイツ人村があったのは、このあたりだったようです。実権を握ってからも、自らヨーロッパ使節団の一員として参加し、自ら船大工として働いたりもしながら、ヨーロッパの新しい技術をロシアに伝えました。そして、こうしてつけた国力を背景に、ロシアの領土を拡張しました。ピョートル1世は、ヨーロッパに向かった港湾都市に首都を移すことを計画します。地図で位置関係を見てみると、なるほどモスクワが内陸に位置するのに対し、サンクトペテルブルクは海沿いにあり、海路でヨーロッパへとつながっております。彼がその町にサンクトペテルブルクというドイツ語風の名前を付けたことからも、彼の気持ちがヨーロッパに向かっていたことがわかります。ちなみにサンクトペテルは「聖ペテロ」で、ブルクはザルグプルクやハンブルクと同じように「街」という意味ですね。またペテロのロシア語読みはピョートルですから、彼は聖ペテロにかこつけて自分の名を街につけたことになります。この地はネヴァ川のデルタ地帯であり、湿地帯が広がるうえに洪水の被害もあって、街の建設は困難を極めたそうです。とはいえピョートル1世によって、1712年、サンクトペテルブルクがロシアの首都となりました。
 狸脳でも理解できるように細かいことは省略し、エカテリーナ2世(1729年-1796年、在位1762-1796年)に話を移します。彼女はドイツ人で、のちのピョートル3世の皇太子妃となりました。このあたりは、こちらの系図を見るとわかりやすいです。才気活発、乗馬をするなど男勝りだった彼女は、無能な夫の統治を見ておられず、クーデターで夫を倒して自ら皇帝となります。この18世紀後半のヨーロッパは、フランス革命へと向かう啓蒙思想の時代で、エカテリーナ2世は新しい思想を取り入れながら、美術品の収集などロシアの文化の発展に努めました。
 そしてまた細かいことは省略し、ロシア革命の時代となります。1914年、第一次世界大戦でドイツと敵国となったため、サンクトペテルブルクはペトログラードというロシア語風の名前に変えます。グラードはロシア語で「街」、ペトロは……わかりますよね。1917年にはロシア革命。1924年、この年に死去したレーニンの名にちなんで、レニングラードと改名します。第二次世界大戦では、ヒトラー率いるドイツ軍によるレニングラード攻防戦が有名です。そしてソ連崩壊後の1991年、住民投票に基づいて再びサンクトペテルブルクという名称に戻りましたとさ……。

 ということでエカテリーナ宮殿に話を戻しますと、この宮殿は、ピョートル1世の(2度目の)妻エカテリーナによって1724年に建設されました。その後女帝エリザヴェータ(在位1741-1762)が1752年からバロック様式に改築しましたが、彼女自身はここに住まず、ペテルゴーフの大宮殿を使っていたそうです。そして男勝りのエカテリーナ2世が、狩りの途中にこの宮殿を目にします。彼女はクラシック様式による改装を行い、夏の宮殿として利用しました。
P4300011 駐車場から宮殿に向かうと、まず、宮殿に併設する形で立てられた肌色の建物が目に入ります。これが「学習院」と呼ばれる学校で、プーシキンが第一期生だったそうです。
P4300023 エカテリーナ宮殿内部の写真はあちこちにあるのでなるべく省略。この写真には、豪華なバロック風の部屋の中にテーブルがしつらえてありますが、食器は古いものではありません。これはなにかというと、ロシアのお金持ちのひとたちが、この部屋でパーティーを開いたりするそうです。文化財の保護を行っている人たちは当然反対しているそうですが、資本主義となったロシアの「格差」を示す一コマです。
 「琥珀の間」は圧巻でした。ただ琥珀が壁に貼られているので透過光がなく、意外と地味な印象でした。もともとの琥珀は第二次世界大戦中にドイツ軍によって持ち去られたきり、行方不明になってしまい、2003年に復元されました。ロシア人はドイツの酷さばかりを強調しますが、シュリーマンがトロイの発掘時に持ち出した金銀財宝が第二次世界大戦時にベルリン博物館から消え去り、ながらく行方不明になっていましたが、最近ひょっこりとモスクワのプーシキン美術館にあることが判明し、いまだトルコの返還要求には応じていないとのことでから、どっちもどっちですね。

P4300047 さて、午後はサンクトペテルブルク市内の観光です。まずは車窓から見えた、チャイコフスキーが最後に住んだ家。写真の左下に記念のパネルが写っています。場所はたぶんこのへんだと思うのですが、違ってたらごめんね。う〜む、チャイコフスキーって、サンクトペテルブルクに住んでいたのか。1893年、交響曲「悲愴」の初演から数日後、チャイコフスキーはここで息を引き取ったわけです。死因についてはコレラとも言われていますが、はっきりとはわからないようです。
P4300049 で、こちらはドストエフスキーが住んでいた家。3階のバルコニーのある部屋だそうです。場所はここらあたりです。いつ頃住んでいたのかはわかりません。
P4300055P4300057 聖イサク広場でニコライ1世の騎馬像を見た後、聖イサク聖堂を見学。もともとは、ピョートル大帝が自分の誕生日にちなんだ聖イサクを祀って、1710年に造った木造教会。現在の建物は4台目で、フランス人建築家オーギュスト・モンフェランが40年の歳月をかけて建設し、1858年に完成しました。軟弱な地盤だったために、1万本以上の杭を打ち込んで土台を造ったものの、さらにもともとあった古い壁と新しい壁の間に地盤の沈降率の差が生じたりして、工事は困難を極めたそうです。右の写真は、天井のドームに書かれたカルル・ブリュロフ作の『聖母マリアの栄誉』です。この教会は湿気が多いので、壁画はフレスコ画ではなく、モザイクで造られているそうです。
 今後の旅程でもわかるように、ロシアには多くのロシア正教の教会があり、多くの敬虔な信者たちが熱心に礼拝しております。こうしたことは聞き知っていましたが、ぽん太の狸脳では納得できません。というのも、社会主義では宗教を禁止し、弾圧していたと理解していたからです。「宗教はアヘンだ」というスローガンが頭に浮かびます。誰が言ったんだったかな、マルクスだっけ、レーニンだっけ。ググってみると、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序論』に書いてあるらしいが……。マルクス主義の本も、読み直してみたいものです。
 で、社会主義時代の宗教はどうだったのか、ガイドさんに聞いてみました。ちなみにガイドさんは60歳くらいの女性でした。その方の話では、社会主義時代でも、建前は宗教は自由ということになっていたそうです。ただし教会の数は制限され、一部は破壊されたり、倉庫や会議室として使用されたりしていたそうです。また非公式な圧力はあり、信仰をしている人が、信仰とは別の理由で出世できなかったり不利益を被ったりすることがあったそうです。もう年金の受給を受けている高齢の人たちは、信仰を隠さない人も多かったそうですが、若い人は隠れて信仰していた人もいたそうです。教会では一流の歌手が歌っていたりして(コンサートなのか賛美歌なのかよくわかりませんでした)、ガイドさんも学生時代はよく聴きに行ったそうですが、ある日教会で、担当の大学教授とばったり顔をあわせ、お互いにとっても気まずい雰囲気になったそうです。
 今回の旅で出会ったロシア人は、宗教に限らず、他の国のひとたちとちっとも変わりません。この普通の人たちが、社会主義下でどのように暮らし、どのように考え、感じていたのかが、ぽん太の新たな疑問となりました。
P4300117 エカテリーナ2世が造ったピョートル大帝像の「青銅の騎士像」を見学してからバスで移動です。通りかかった宮殿広場では、5月1日のメーデーか、5月9日の戦勝記念日(第二次大戦でナチスドイツに勝利した日)のために、パレードの予行練習が行われていました。
P4300061ヴァシリエフスキー島の東のストリェールカに行きました。ネヴァ川を挟んで右手にエルミタージュ美術館、左手にペトロパヴロフスク要塞が見えます。先日渋谷の「国立トレチャコフ美術館展」で見たアレクセイ・ボゴリューボフの「ネヴァ河でのそり遊び」(1854)に近い構図です。その絵には、冬の凍ったネヴァ川のうえで、人々がそり遊びをしている姿でした。
 左手のペトロパヴロフスク要塞は、ピョートル大帝が1703年に築いたもので、まさにここからサンクトペテルブルクの歴史が始まったのです。しかし実際にはここは要塞としては使われず、監獄として利用されました。最初の囚人は、なんとピョートル大帝自身の息子アレクセイです。ピョートル大帝は、最初エウドキアという女性と結婚し、3人の子供をもうけましたが、アレクセイだけが成長しました。ピョートル大帝は、エカテリーナ1世と再婚したのですが、当時ギリシア正教では離婚は認められていませんでした。例外のひとつが、妻が自らの意志で修道女となった場合だったので、ピョートル大帝は(もちろん無理矢理に)エウドキアを修道院に入れてしまいました。保守的なアレクセイの周囲には反対派が集結したため、ピョートル大帝はアレクセイの皇位継承権を奪って死刑を宣告し、ペトロパヴロフスク要塞に監禁しましたが、彼はまもなくここで獄死しました。そのほかドストエフスキーや、『何をなすべきか』などで有名なチェルヌイシェフスキーもここに監禁されていたことがあるそうです。
P4300122 祭日のためか、風光明媚なストリエールカでは、たくさんの新婚カップルが記念写真を撮っていました。友達を連れてリムジンでやって来て、記念写真を撮るというのがロシア式のようです。
 最後にニコライ聖堂(地図)でミサを見学しました。ロシア正教では教会内の楽器は禁止されており、歌だけによるコーラスが司祭さんの言葉の間あいだに入るのですが、その雰囲気がすばらしかったです。

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