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2010/01/25

【紅葉の和歌山旅行(5)】龍神温泉「上御殿」・牛馬童子・熊野本宮大社・熊野古道中辺路(水呑王子〜熊野本宮大社)

Pb030138 梵恩舎のランチで癒されたぽん太とにゃん子は、高野龍神スカイラインを南下し、龍神温泉の「上御殿」に宿を取りました。こちらが上御殿の公式サイトです。
Pb030136 明暦3年(1657年)に創建された歴史ある老舗旅館で、国の有形登録文化財に指定された旅籠風の木造建築が見事です。龍神温泉には、ぽん太とにゃん子がよくお世話になる日本秘湯を守る会の会員の下御殿という宿もあるのですが、残念ながらこちらは建物を新しく建て替えてしまったようで、古い建物に泊まるのが好きなぽん太とにゃん子は、今回は上御殿を選びました。
Pb030140 さらに奮発して、江戸時代に徳川頼宣公が湯治の際に利用したという「御成りの間」を指定。徳川頼宣(慶長7年(1602年)〜寛文11年(1671年))は、八代将軍徳川吉宗の祖父にあたり、紀州徳川家の祖として有名です。とはいえぽん太とにゃん子が泊まった部屋は、頼宣公が泊まった部屋そのものではありません。火事で焼失した建物を明治18年に再建したとき、御成りの間を以前そのままに復元したのだそうです。またここは、有吉佐和子の『日高川』に出てくる大黒屋という旅館のモデルなんだそうです。
Pb030142 貸し切りの露天風呂です。川に面していて開放感があります。紅葉が見事でした。龍神温泉は、日本三美人の湯のひとつとされ、お肌がすべすべになります。日本三美人の湯のあとの二つは、群馬の川中温泉と島根の湯の川温泉だそうです。川中温泉には以前に泊まったことがあるので、そのうち湯の川温泉も制覇したいところです。
Pb030148 こちらは男女別の内湯です。真新しい木造の浴室です。
Pb030151 夕食も豪華でおいしいです。がはは、お殿様になった気分じゃ。昨日の精進料理もよかったですが、これもまたよし。余は満足じゃぞ。
Pb040153 朝食です。品数は多いですが、とてもヘルシーです。

Pb040158 一夜明けて本日は、熊野本宮大社を目指します。まずは箸折峠の牛馬童子をみちくさです。牛と馬の上にちょこんと腰掛けた姿は、雅やかな雰囲気があります。
 この像は、花山法皇の熊野御幸のときの旅姿を刻んだものと言われています。神坂次郎の『藤原定家の熊野御幸』(角川ソフィア文庫、角川書店、2006年)によれば、 花山法皇は、わずか17歳(永観2年、984年)で即位して花山天皇となりますが、わずか1年10ヶ月後に退位して上皇となります。一説によると右大臣藤原兼家が陰謀を巡らし、愛する女御の死を悲しむ花山天皇の悲しみに付け入って、出家をそそのかしたといいます。まんまと天皇を退位させた兼家は、すかさず孫の懐仁(やすひと)親王を天皇に即位させました(一条天皇)。悲劇のひと花山法皇の熊野御幸(992年)はわびしい旅だったそうです。そういえば牛馬童子は、どことなく悲しげな顔をしてますね。
 2008年6月にどこかの罰当たりが牛馬童子の頭を壊したのですが、同年10月に無事修復されたそうです。
Pb040166 熊野本宮大社に車を停め、バスかタクシーで発心門王子までゆき、熊野古道を歩いて熊野本宮大社まで戻る予定だったのですが、バスは適当な便がなく、タクシーも見当たらず。仕方なく、まず本宮大社に参拝し、その後熊野古道を時間の許す範囲で行って来いしてくることにしました。本宮から熊野古道を逆行する人は少ないらしく、途中あちこちの茶屋でどうしたのか声をかけられました。こちらが 熊野本宮大社の公式サイトです。
 さて熊野本宮ですが、神社にはよくあることですが、超有名な神社でありながら、とても質素で小規模であっけないです。もっとも元来は、熊野川の中州に社殿があったそうで、1889年(明治22年)の洪水で流されてしまったため、現在の山の上の場所に移ったのだそうです。
Pb040178 本宮の裏手から熊野古道を行くと、すぐにあるのがこの祓殿王子跡(はらいどおうじあと)です。案内板によると、「建仁元年(1201年)に、和歌の講師として熊野御幸に供奉した貴族・藤原定家(1162〜1241)は、この王子近くの地蔵堂で後鳥羽上皇の一行を待ち、本宮の神前に向かった」のだそうです。歌人と上皇がここで待ち合わせをしたとは。う〜ん、なんともスケールの大きい歴史ロマンですね。
 しかし、帰宅してから調べてみると、そんな優雅な話しではなかったような。この話しは、藤原定家の日記『明月記』が出典ですが、『明月記』のうち、後鳥羽上皇の熊野御幸に同伴した部分は、『熊野御幸記』などと呼ばれています。『明月記』は漢文で書かれているそうで、ちょっと原文にあたる元気はでませんが、上にも引用した神坂次郎の『藤原定家の熊野御幸』が読みやすくておもしろいです。それによれば、歌人として有名な藤原定家は、実は官位の低い二流貴族で(ぽん太はちっとも知りませんでした!)、上皇の先回りをして、先々での儀式や食事や宿舎の手配をするのが主な役目だったのだそうです。疲れきって寝ようとしても、与えられる宿舎は、にわか造りの小さな小屋で、床板もありません。熊野御幸が行われたのは旧暦の10月ですから、定家は寒さに震えながら夜を明かすことがたびたびでした。この仮屋すらも公卿の家人に占拠されて追い出されたこともありました。40歳近い定家はすっかり体調を崩し、咳が止まらず腹痛に苦しみながら、職務を続けました。それでも夜には上皇の開く歌会に何度も呼び出され、歌を詠まなくてはなりませんでした。疲れから思わず寝過ごしてしまったり、正装すべきところにうっかり普段着で行ってしまうなどという失態もあったそうです。
Pb040171 こちらは伏拝王子跡(ふしおがみおうじあと)です。ここの案内板には、「熊野本宮を目前にしてにわかに月の障りとなり、参拝を断念しようとした女流歌人・和泉式部を、熊野権現が快く受け入れたという伝説がある」と書いてありました。ググってみると、『風雅和歌集』にこの伝説に関する和歌が収められているようですが、ちょっと簡単にはぽん太の手に入りません。こちらの 和泉式部:熊野の歌というサイトを見てみると、

もとよりも塵にまじはる神なれば月の障も何かくるしき

是は和泉式部熊野へまうでたりけるにさはりにて奉幣かなはざりけるに「晴やらぬ身のうき雲のたなびきて月の障りとなるがかなしき」とよみてねたりける夜の夢につげさせ給ひけるとなむ
(巻第十九 神祇歌 2109・新2099)
と書かれているようです。つまり、『風雅和歌集』に採用されたのは、和泉式部の歌の方ではなく、熊野の神様が夢のなかで告げた歌の方なわけです。『風雅和歌集』は貞和二年(1346年)頃に編纂されたものであり、また和泉式部は天元元年(978年)頃に生まれて死んだ年は不明ですから、300年以上前の歌を取り上げたことになります。14世紀には、この伝説はすでに有名になっていたと考えていいのでしょうか?

 ところで王子とは、もともとは本社の子供の神で、熊野権現の末社の意味があるのですが、熊野詣でをするひとの遥拝所や宿泊所として機能しておりました。東京の北区に王子という地名がありますが、中世に紀州熊野三所若一王子(現在の王子神社)を勧請したことから、王子という地名がついたのだそうです。ちなみに八王子の方は牛頭天王(ごずてんのう)の8人の王子に由来し(「八王子市の名前の由来」八王子市の公式サイト)、熊野信仰とは関係ありません。

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