【現存天守】丸岡城、新田義貞の墓(称念寺)
2月上旬、越前かにを満喫したぽん太とにゃん子は、福井県の丸岡城をみちくさしました。
丸岡城は、日本に12しかない現存天守のひとつで、しかも現存天守のなかでは最古のものだそうです。公式サイトはなさそうなので、坂井市丸岡観光協会公式サイトのページにリンクしておきます。 現存天守とは、江戸時代以前に造られた天守閣が現在まで残っているものです。それ以外のものは熊本中のような復元天守であったり、テッコンキンクリート造りの大阪城のような復興天守であったり、とりあえず造ってみた模擬天守であったりします。ヨーロッパなどを旅行すると、あちこちに古城が残っていますが、うらやましいかぎりです。日本もあちこちに古城が残っていたら、なんか楽しかったのに。石造りの西洋のお城と違って日本のお城が木造であることや、徳川家康の一国一城令で多くの城が廃城になったことが影響しているのでしょう。
2階に登る急な階段です。丸岡城は、厳密にいうと、昭和23年(1948年)の福井地震で倒壊してしまい、昭和30年(1955年)に修復再建されました。以前は国宝でしたが、現在は重要文化財なのが残念です。
2階です。丸岡城の築城は、天正4年(1956年)。大河ドラマ「江」に出てきた柴田勝家は、天正3年(1575年)の北陸攻めの功績が認められ、越前之国の守護職に任ぜられ、北ノ庄に城を築きました(柴田勝家と鈴木保奈美(お市)が自害した城ですね)。同年、勝家の甥の勝豊は豊原城を築きましたが、翌天正4年(1576年)に丸岡城を築いてここに移りました。
最上階からの眺めです。絶景かな、絶景かな。
一番上の写真の石垣の手前に石碑が写っておりますが、有名な「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という手紙文が刻まれております。この「お仙」が、丸岡城6代目城主の本多成重だそうです。
丸岡町の観光案内を見ていてたら、新田義貞の墓があると知り、訪れてみました。場所は称念寺、こちらが公式サイトです。
こちらが称念寺のなかにある、新田義貞の墓所です。新田義貞といえば、群馬県で生まれ、ぽん太の棲息する多摩の分倍河原で鎌倉軍と戦ったはずですが、福井県で死んだとは知りませんでした。なんか最後は北陸方面に逃げて行き、延元3年/建武5年(1338年)に戦死したらしいです。このあたりの歴史はぽん太はよくわからん。NHK様、大河ドラマで幕末と戦国時代ばかりでなく、ぜひ室町も取り上げてください。
こちらがお墓ですね。そういえば歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」は、舞台を室町時代に設定しておりますが、大序は「兜改めの場」と呼ばれ、戦利品の兜のなかから新田義貞の兜を探し出すという話しです。この兜は福井市の藤島神社にあるそうで、重要文化財に指定されているとのこと。ところがこの兜、明暦2年(1656年)にお百姓さんが水田から掘り出したものだとのこと。これはなんだか面白そうですが、今回はみちくさはやめておきましょう。
お寺の案内板です。これによれば、明智光秀が永禄5年(1562年)にこの寺を訪れ、門前に寺子屋を開いたそうです。そして後にこの寺を訪れた松尾芭蕉は、「月さびよ 明智が妻の咄せむ」と詠んだそうです。
ぽん太は、芭蕉といえば『奥の細道』ぐらいしか知らないのですが、この句は出てないようです。ぐぐってみると、こちらの明智が妻の話|芭蕉文集というサイトに出てました。引用させていただくと
将軍明智が貧のむかし、連歌会いとなみかねて、侘びはべれば、その妻ひそかに髪を切りて、会の料に供ふ。明智いみじくあはれがりて、「いで君、五十日のうちに輿にものせん」と言ひて、やがて言ひけむやうになりぬとぞ。ぽん太が自由にタヌキ語約すれば、「明智光秀が以前に貧しかった頃、連歌会を主宰するためのお金がなくて困っていたところ、妻が密かに自分髪を切って売り、会の費用に充てた。光秀はたいへん感激して「ああお前、俺は出世して50日以内にお前を輿に乗せてやる」と言ったが、やがてその通りになった。『月よ、しみじみと照らしてくれ。明智光秀の妻の話しをしようと思うのだ』 又玄の妻に送る」。
ばせを
月さびよ明智が妻の話せむ
又玄子妻に参らす
(真蹟懐紙)
「真蹟懐紙」というのは、何でしょう。そういう名前の句集があるのか、芭蕉が懐紙に自ら書いて送ったものをいうのか、そういうものを後に集めたものなのか、さっぱりわかりません。
芭蕉の弟子の路通がまとめた句集「俳諧勧進牒」では、次のように書かれています。
伊勢の国又幻が宅へとどめられ侍る比、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに見えければ、旅の心を安くし侍りぬ。彼の日向守の妻、髪を切りて席をまうけられし心ばせ、今更申し出でて、タヌキ語訳、「伊勢の国の又幻さんの家に泊まったとき、奥さんも又幻さんと同じ気持ちで細かく気を使ってくれたので、旅の不安がやわらいだ。あの明智光秀の妻が、髪を切って人をもてなした気持ちが今更ながら思い出されたので」。元禄2年(1689年)、「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は伊勢に参拝の折に又幻さんの家に泊まり、そのときに詠んだ句だそうです。
月さびよ明智が妻の咄しせむ
(俳諧勧進牒)
振り返って称念寺の案内を考えてみると、芭蕉が称念寺を訪れた時にこの句を詠んだと書いてありますが、なんか根拠はあるのでしょうか?明智光秀が門前で寺子屋を開いたというのもホントかどうかわからないし、また奥さんが髪を切ったという逸話それ自体がホントかどうか、その逸話が寺子屋を開いていた時期なのかなど、さまざまな疑問が湧いてきます。結局このあたりは、信じるも信じないもあなた次第です、といったところでしょうか。いずれにせよ元禄時代には、光秀の妻の逸話は多く人の口に上っていたようです。
光秀の妻が髪を切った話しといえば、歌舞伎の『時今也桔梗旗揚』(ときはいまききょうのはたあげ)が頭に浮かびます。四世鶴屋南北が文化5年(1808年)に作ったこの歌舞伎は、武智光秀(明智光秀)が小田春長(織田信長)を本能寺で討つまでを描いた狂言です。「馬盥の場」は、春長が光秀に馬盥(ばだらい。馬を洗うための大きなたらい)で酒を飲ませるという場面ですが、さらに光秀の妻皐月の切髪を、満座のなかで光秀に与えて、屈辱を加えます。ぽん太はこの意味がよくわからなかったのですが、この逸話を踏まえていたんですね。
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