« 【バレエ】主役はもちろん道化です。「白鳥の湖」ボリショイ・バレエ | トップページ | 【珍百景】レトロでシュールな東京都の児童育成手当障害認定診断書 »

2012/02/12

【拾い読み】日本バレエの先駆者小牧正英を知る。山川三太『「白鳥の湖」伝説』

 たまたま目に止まったので読んでみました。山川三太『「白鳥の湖」伝説』無明舎出版、1995年です。
 バレエ「白鳥の湖」の日本初演に携わったダンサー小牧正英について書かれたほんです。ぽん太はパラパラとめくってみて、「小牧正秀?知らね〜な〜。なんかバレエ事始めの「ふるへっへんど」みたいな話しだったらつまらないな〜」などと思いながら読み始めたのですが、とても面白くて、引きつけられました。
 考えてみればぽん太は、最近バレエにはまっているとはいうものの、日本のバレエの創成期についてはまったく知識がありませんでした。
 小牧正英(明治44年(1911年) - 平成18年(2006年))は本名が菊池榮一で、岩手県生まれです。21歳のときにパリで画家になろうと決意し、大連からシベリア鉄道で密航を試みますが失敗。ハルビンに連れ戻されました。そこでバレエと出会ってバレエ学校に入学し、めきめきと頭角を現して、上海バレエ・リュスの一員として活躍します。敗戦に伴って引き上げたのち、敗戦からわずか1年の昭和21年(1946年)8月に、東京バレエ団(現在の東京バレエ団とはまったく無関係)を率いて「白鳥の湖」日本初演を、帝国劇場で22日間にわたって行ったそうです。
 だいたいぽん太は、上海バレエ・リュスなどというものも初耳だし、戦後すぐに、ちょっと前までは敵国のものとされていたバレエの公演が大々的に行われ、観客を集めたというのも驚きでした。
 詳しくは、自分で読んで下され。こちらの小牧正英「白鳥の湖」伝説というサイトも見やすいです。ということで、いつものように、以下はぽん太が興味を持ったところの抜き書きです。

 小牧正英がハルビンに行ったのは昭和8年(1933年)ですが、満州事変ののち満州国が設立された翌年ですね。当時のハルビンは、39万人の中国人のなかに、3万6千人の日本人と、2万5千人の亡命ロシア人が暮らす国際都市で、ロシア風の建築が立ち並び、ホテルや劇場、カフェやレストランもあったとのこと。小牧は絵を描くことにはすぐに飽き、ロシア人のおばさんにピアノを習いますが、半年ほどで「ピアノを習い始めるには遅すぎるから」と、ハルビン音楽バレエ学校を紹介されました。レッスンを覗いた小牧はバレエに魅了され、入学を希望しますが、「ここはロシア人専用の学校だから」と断られたにもかかわらず、小牧は連日のように学校に通い詰めて頼み込み、ついに入学を果たします。
 ハルビンのバレエ学校などというと、レベルが低そうな気がしますが、小牧の先生はワルシャワ国立バレエでプリマとして活躍したこともある人だったそうです。

 しかし時代は足早に戦争へと突き進んで行きます。昭和15年(1940年)小牧は、ハルビンからの退去命令に従わず、上海バレエ・リュスの招きに応じて再び密航を企て、こんどは成功します。「上海バレエ・リュス」とは初耳ですが、本家のバレエ・リュスはディアギレフの死去によって1929年に解散、またマリインスキー劇場の多くのダンサーたちも、1917年のロシア革命によって世界に散って行きました。上海バレエ・リュスは、こうしたダンサーたちが集まって、マリインスキー劇場のレパートリーとバレエ・リュスのレパートリーを継承していくために組織された、ロシアの伝統を受け継ぐバレエ団でした。またイギリスやイタリアのダンサーも合流していたそうです。フランス租界にあるライセアム劇場を拠点とし、英国工部局の助成とフランス疎開の格銀行からの補助によって運営されていたそうです。しかしこうした西欧文化はあくまで租界の内部のことであり、「犬と黄色人種は立ち入るべからず」の立て札が建てられていたことはよく知られています。このような戦前の上海の様子も、ぽん太はまったく知りませんでした。

 昭和16年(1941年)、日本は大東亜戦争に突入。連合国側に属するダンサーやスタッフは、収容所に入れられます。しかし上海バレエ・リュスは、東和映画の川喜田長政などの援助もあり、日本軍の管轄下で活動が続けられたそうです。戦時下にもバレエが行われていたとは、無知なるぽん太には驚きです。
 昭和18年(1943年)、小牧は上海ライセアム劇場で「牧神の午後」の主役をつとめ、高い評価を受けたそうです。この年に上海を訪れた指揮者の朝比奈隆はが小牧に会っているそうです。朝比奈はこれまで彼のことを知りませんでしたが、上海の多くの外国人から彼の名前を聞かされ、「私達内地にいる日本人が少しも気がつかない間に、否、バレエ芸術というものが日本では全く未開の状態に止まっていた間に、『コマキ』は少なくとも極東の文化人の間では大きな名前になっていたのだった」と感動したそうです。
 当時の上海には、羽仁五郎、小林秀雄、河上徹太郎などが訪れ、小牧は彼らとも交流を持ったそうです。
 また昭和19年(1944年)の「ペトルーシュカ」の「オリエント初演」においても、小牧は主役を踊りました。

 さて、疲れて来たのでだいぶ省略し、大戦も終わって帰国した小牧に、「白鳥の湖」全幕公演の話しが舞い込みます。東勇作バレエ団、服部・島田バレエ団、貝谷八百子バレエ団、に小牧正英が加わって「東京バレエ団」(註、現代の東京バレエ団とは別物です)が組織され、昭和21年(1946年)8月9日から帝国劇場で上演されることになりました。東宝が支援してくれることになりましたが、重役会議では「バレエなどというものは女子供のやる『おさらい会』のようなものだ」ど大反対されたりしたそうです。舞台美術はなんと藤田嗣治が担当するという豪華版。音楽は山田一雄(当時は和男?)、オケは東宝交響楽団(現在の東京交響楽団)だったそうです。オケの団員たちも、初めはバレエのために演奏するのを嫌がったそうです。

 小牧正英が谷桃子と一時結婚していたことも初めて知りました。そういえば、劇場でもらうチラシのなかに、「谷桃子バレエ団」というのがありますね。その気になってよくみたら、「小牧バレエ団」というのもありました。

|

« 【バレエ】主役はもちろん道化です。「白鳥の湖」ボリショイ・バレエ | トップページ | 【珍百景】レトロでシュールな東京都の児童育成手当障害認定診断書 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/74997/53954579

この記事へのトラックバック一覧です: 【拾い読み】日本バレエの先駆者小牧正英を知る。山川三太『「白鳥の湖」伝説』:

« 【バレエ】主役はもちろん道化です。「白鳥の湖」ボリショイ・バレエ | トップページ | 【珍百景】レトロでシュールな東京都の児童育成手当障害認定診断書 »