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2014/06/14

【拾い読み】とてもリアルなルポルタージュ!『宮地團四郎日記 土佐藩士が見た戊辰戦争』

 戊辰戦争に参加した一人の土佐藩士の従軍日記ですが、とても面白いです。というのも、土佐から大阪・京都、江戸を経て会津へと転戦して行くなかで、ええじゃないか踊りや龍馬暗殺、王政復古、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊との交戦、江戸無血開城、そして会津戦争などの、幕末の重要な歴史的事件に遭遇していくのです。こうした出来事を描いた小説やドラマ、映画はいくつもありますが、それらはしょせんは作り事であり、ホントのところはどうだったんだろうという思いをぽん太は昔から持っていたのですが、本書では一藩士の生の声を、日記というリアルタイムなかたちで聞くことができます。宮地の筆致はあくまで簡潔ですが、そのなかから当時の風俗・習慣、そして何よりも彼の思いが感じ取れます。
 原文に、読みやすい現代語訳と、解説がついております。『宮地團四郎日記―土佐藩士が見た戊辰戦争』(小美濃清明編著、右文書院、2014年)。

 いつものように、興味を持たれた方は自分で勝手に読んでいただくことにして、以下はぽん太が気になったところをピックアップいたします。

 慶応三年(1867年)11月21日に土佐の自宅を出発し、23日に兵庫に到着すると、いきなり遊郭を見物。折しも御影踊り(おかげおどり、いわゆる「ええじゃないか踊り」)の真っ盛りで、神仏のお守りが降った、外国人の首が降った、お金が降ったなどの風説が乱れ飛んでいた様子。25日大阪では、見物しているうちに宮地自身も一緒に踊りたくなって、踊りの輪に加わったそうです。
 11月26日、京都で坂本龍馬が暗殺されたという噂について書いてます。龍馬暗殺は11月15日ですから、11日間のタイムラグがあったことになります。
 11月27日は大阪天王寺の五重塔に登って四方を見渡したところ、絶景であったと書いてます。これに限らず今後の行程でも、時間が空いている時は、あちこちの名所旧跡を見物しているのが面白いです。
 途中の宿代はとりあえず自分で建て替え、あとで領収書を提示して会計係からお金を受け取る仕組みのようです。諸々の金額の記載もあり、当時の物価を知る上でも重要な資料だと思いますが、このへんはぽん太はあまり興味なし。
 12月9日、京都で王政復古の大号令を迎え、明けて慶応4年(1968年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発。宮地はこの戦には加わりませんでしたが、1月9日、征討将軍の護衛として大阪に向かいます。あちこちが大きく焼けていて、何百人もの死体が散乱し、「流血が雨上がりのように広がって」いたそうです。また、焼け落ちた大阪城を見学し、心斎橋で写真を撮ったりしております。
 お酒が支給されて皆で飲んだことや、病気になって療養したことなども書かれております。どうも日記全体を通して、宮地は病気で寝込むことが多かったようです。宮地が病弱だったのか、あるいは戊辰銭湯の身体的・精神的ストレスのなせるものなのか、ぽん太にはわかりません。この点は、気が向いたら、日を改めてみちくさするかもしれません。
 慶応4年(1968年)2月14日、京を出発して江戸へ向かいます。3月1日、先日ぽん太が高ボッチ山に登ったときに通ったばかりの塩尻峠にさしかかり、諏訪湖と富士山を望む絶景を誉め讃えています。ぽん太は逆方向に越えたので、そんなに景色がいいところだとは気がつきませんでした。
 ここでぽん太が興味深かったのは、諏訪湖の白狐の伝説を書き留めていること。諏訪湖の水が凍ると白い狐が通り、そこが街道になって人馬の通行が始まり、春になって暖かくなると再び白狐が通るのを合図に、通行が出来なくなると書いています。
 歌舞伎の「本朝廿四孝」(ほんちょうじゅうにしこう)で、兜の力によって八重垣姫に狐が乗り移り、姫は諏訪湖の氷の道を渡って行きます。これは今で言う御神渡りを題材にしていると思われます。ぽん太は以前に、御神渡りと狐の関係をぐぐってみたのですが、はっきりとした情報が見つかりませんでした(そのときの記事はこちら)。しかし宮地の記述からすると、諏訪湖の狐の伝説は、幕末には広く知られていたようです。ということは、明治の神仏分離のときに、狐伝説は消し去れたということでしょうか?まだまだ興味は続きます。
 3月6日、勝沼で甲陽鎮撫隊と交戦し、敵を敗走させました。もっともこの時は敵の正体はわかっておらず、3月11日の日記にようやく、敵の大将は大久保剛という者だが、近藤勇の変名であると書いてあります。
 3月15日、江戸新宿に到着。4月11日、江戸城の無血開場。仕事をしたり見物をしたりして過ごしました。
 4月23日、江戸を出発して北へ向かいました。4月25日、壬生戦争における死者や負傷者の名前が記載されております。死者・負傷者名の列挙は本書ではよく見かけますが、ここが初出となります。
 閏4月1日からしばらくは、今市・日光付近に逗留。お仕事の合間に、左甚五郎の眠り猫を見て「見事で生きた猫と変わりなし」と書いたり、男体山、中禅寺湖や滝(華厳の滝?)を見学。日光の律院は「バケモノ寺」と呼ばれていて、本堂の天井に血まみれの手で撫でた跡があると書いています。現在の日光山興雲律院のことでしょうか、ググってみると確かに「血染めの天井」というものがあるようですが(→こちら)、修行の寺で観光客の見学は受け入れていないようです。
 この後、だんだんと賊軍との戦闘の機会が増えてきて、記載も血なまぐさくなってきます。
 5月25日、白河入り。6月6日、川へうなぎ釣りに行ったが、首、腕、足などが流れて来て、あまりにうっとうしいので帰ったとのこと。6月12日、戦闘の末に敗走した賊軍を追撃。人家があったので放火。生け捕った敵の足軽の首を斬り、体を川に流しました。
 6月22日、七連銃(スペンサー銃)を、10両の借金をして38両で購入。新式の銃を手に入れて、これからの自分の戦功が頭に浮かんで来て元気が湧き、嬉しいこと限りなかったそうです。
 7月27日、出くわした賊軍を撃ち殺したと思ったが、近づいてみると生きていたので、腰のあたりを刀で突いたところ、2回ほど「堪忍して」と言ったあと、うなって死にました。この夜は仲間と酒を三、四合ひっかけたとあります。
 8月21日、母成峠の戦いに参戦。官軍が裏を突いて、会津軍の首尾が手薄だった母成峠を攻め、勝利した戦いです。母成峠はここ(→googleマップ)で、よく見るとぽん太がこの冬に中沢温泉を訪れた時に通った道ですね。そんな歴史ある道だったのか……。「弾丸が雨のように飛んでくる」状態で、宮地は「心中はまるで夢の中のようだ」と記しています。
 翌8月22日、母成峠から猪苗代に移動。あまりに順調に勝ち進んだため、補給が間に合わなかったのか、空腹で兵隊たちは動けなくなりました。木の実などを採って食べたが間に合わず、ところどころに会津軍が残して行った食料を食べて、何とか腹を満たしました。猪苗代駅に着きましたが住民は人っ子一人おらず、売り物の菓子から、民家にあった米、鶏や池の鯉まで焚いて食べたそうです。
 ついに会津城の包囲線が始まりますが、8月30日に「今日、少し体調が不調なので引き籠っていた」という記載があります。9月4日にも越後口へ進軍の命令が出たが、「少し体調が悪いので、残ることにする」との記載があり、最後の決戦に臨んで、体調不良での休養が許されるというのは驚きです。
 9月22日、松平容保が降伏。「父子とも駕篭で去る。供のもの、二十人ばかりで、軍服のままで刀も差していない。実に目もあてられぬ事だった」と宮地は書いております。
 間もなく仙台も降伏し、宮地にも故郷に戻る日が来ました。帰りは栃木県の阿久津(現在の東北本線宝積寺駅付近でしょうか)から船に乗って鬼怒川を下って久保田(結城市、水戸線の川島駅のちょっと下流あたりか?)でおり、そこから境駅(茨城県猿島郡境町か?)に出て、再び船で江戸川で下って江戸に戻ったようです。
 数日間江戸に留まりますが、行きと違って物見遊山の報告はなく、この間の戦闘における仲間の戦死者、負傷者の名前を、延々と列挙しています。
 品川からは外国船に乗って土佐まで行き、11月1日に無事我が家に戻ったようです。

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