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2014/09/28

【拾い読み】御嶽山信仰の入門に最適。青木保『御岳巡礼』

 (昨日、御嶽山が噴火し、多くの登山者が被害を受けたとのニュースが飛び込んできました。心からお見舞い申し上げます。)
 先日、美ヶ原に登ったぽん太は、御岳信仰を持つ人々が、美ヶ原で御嶽山を望みながら宗教行事を行っていたことを知りました(その時の記事は文字列)。そこで今回、『御岳巡礼―現代の神と人 』(青木保著、講談社、1994年、講談社学術文庫)を読んでみました。御岳信仰の基本的な知識を得ることができ、前回の記事の誤り(御嶽教と木曽御嶽本教の混同)にも気がつきました。また著者は、タイの仏教を研究するにあたって自分自身が僧になって修行をしたそうで、御嶽山でも御神火祭に加わって火を見つめているうちに、いつしか我を忘れて身を震わせ、同行の研究者や学生に気味悪がられたというエピソードが書かれております。というわけで、外部からの客観的な解説に留まらず、内部に飛び込まなければ分からないことも書かれており、1985年とちょっと古い本ではありますが、とても興味深く読めました。
 さて、いつものように、あとはぽん太自身が興味を持ったところの抜き書きです。

 恐山で亡くなった人の口寄せをする「イタコ」は有名ですが、御嶽山でも行者に霊や神様が憑依して言葉を話すという儀式が伝統的にあり、「御座立て」(おざたて)と呼ばれるそうです。
 堀一郎は、山岳信仰を、①火山系(噴火するヤマハ畏怖の気持ちを抱かせる)、②水分系(農耕のための水の源である山に対する感謝の念)、③葬所系(月山などの様に死者の霊が帰って行くところ)に分類したそうですが、御嶽山はこのどれにもあてはまる。また池上広正は、①仏教の山、②神社神道の山。③修験の山、④教派神道の山、⑤民間信仰の山、に分けましたが、これまた御嶽山はどの要素も持っている。このような多様性が御岳信仰のひとつの特徴だそうです。
 御嶽信仰の歴史は、大きく4つの時期に分けられるそうです。①修験者が修行をしていた時期(鎌倉時代を頂点とする)、②山麓の集落に住む道者たちが特別な精進潔斎を行って集団登拝していた時期。③江戸時代中期、覚明・普寛という二人の行者が登拝を一般の人々に解放し、講活動の端緒を作った時期、④明治以後、教派神道教団が成立して全国に普及して行く時期。
 ①の修験道による山の支配が早めに終わったのが御嶽山の珍しいんだそうです。そのおかげで御嶽山は、特定の宗教集団によって支配されず、多くの信者に開かれた山となったそうです。
 筆者は修験道が早期に廃れた理由は書いておりませんが、御嶽山を初めあちこちの山に登ったぽん太が思うには、この山修験道に向いてなかったんだと思います。修行をするには、断崖絶壁や、急な山道、住むための水辺、高山植物の咲き乱れるお花畑など、多様な自然が必要です。ところが御嶽山は、基本円錐形で、しかもある高さから上はオンタデしか生えない火山礫の山なので、修験道をするにはアイテムが足りなかったのではないでしょうか。
 修験者たちが去ったあとは、山麓の村に住み着いた道者と呼ばれる人たちが、集団で登拝登山を行うようになりました。しかし手順は厳格で、75日から100日間の精進潔斎を経なくてはならず、とても一般人が参加できるものではありませんでした。
 江戸時代になって、覚明と普寛という二人の行者が、御嶽登拝を一般に開放しました。覚明は、現在の黒沢口ルートを開き、27日程度の軽精進だけでの登拝登山を開始しました(天明5年、1785年)。また遅れて普寛は、王滝口からの登山道を開き、一般登拝に開放しました(寛政4年、1792年)。
 背景には諸々の社会情勢の変化があったようですが、ぽん太にはよくわかりません。
 普寛(享保16年(1731年)〜享和元年(1801年))は武州秩父で生まれ、三峰山で修行をした人です。御嶽山開山ののち、越後の八海山や上州の武尊山も開山したんだそうです。
 覚明さんは天明6年(1786年)に御嶽山の二の池近くで亡くなったそうですが、普寛が日本の各地を回って、御嶽信仰を広め、講組織の基礎を築きました。
 黒沢・普寛と、王滝・覚明のあいだには、微妙なライバル関係があったそうで、講社も普寛講と覚明講の二つの系列に別れてたりしました。対立を避けるため「講名の自由」を提唱したところ、全国各地に様々な名前を持つ御嶽信仰の講社ができるようになっていったそうです。
 時は下って明治時代となり、神仏分離を初めとする宗教政策により、神を祀る信仰集団は「教派神道」を設立する必要に迫られました。各地で自由に発展し、統一的な組織を持たなかった御嶽信仰の教派設立は困難を極めましたが、下山応助の尽力により、明治15年(1882年)に神道十三派の一つの御嶽教として独立を果たしたそうです。
 その後の時代の流れの中で、御嶽教にも紆余曲折があったようですが、こんかいは省略。御嶽教中興の祖と言われる8代目管長渡辺銀治郎は、「副業」の才能もあったようで、あちこちに映画館や芝居小屋を作り、その経営手腕を見込んだ松竹の支援を受けて、横浜劇場を作ったとのことですが、ググってもよくわかりません。
 さて、戦後になって信教の自由の時代となりました。この頃に黒沢口の御嶽神社(→こちら)を中心にして独立したのが御嶽本教だそうです。以前の記事では、御嶽教と御嶽本教をごっちゃにしてました。ごめんなさい。
 御嶽教の方は、昭和23年(1948年)に木曽福島に神殿を設立(例えば これ?)。ちなみに現在の御嶽山木曽本宮は、2012年に移転新築したもののようです(これかしら)。
 御嶽教の9代目管長渡辺照吉は、昭和24年から57年まで管長を務めましたが、以前は松竹に務めていた人で、帝劇の副支配人、浅草国際劇場の支配人、新橋演舞場の支配人なども務めたと書かれております。ただ、「渡辺照吉 松竹」でググっても何もヒットしないのが不思議。
 昭和39年には奈良に大和本宮と呼ばれる神殿が完成し、御嶽教の本部は奈良に置かれることになりました。現在の大和本宮(こちら)は、昭和57年に建て替えられたものだそうです。

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