カテゴリー「雑学」の12件の記事

【雑学】ぶらぶら病(ぶらぶらやまい)補遺

 ぽん太は以前の記事で、歌舞伎の「直侍」に出てきた「ぶらぶら病」(ぶらぶらやまい)をみちくさしました。そのとき、松井高志の『人生に効く!話芸のきまり文句』(平凡社新書、平凡社、2005年)でぶらぶら病について触れているらしいと書きました。こんかいその本を入手しましたので、ご報告申し上げます。
 204〜205ページの欄外の「豆辞典」に出ています。引用させていただきます。
 「ぶらぶら病(ぶらぶらやまい)  重症ではないが、寝たり起きたり、さっぱり全快しないような病気。気鬱の病(神経症)など。話芸では、実は往々にして深窓の令嬢の恋煩いであったりする。(落語「代脈」「御神酒徳利」他)」
 なるほど。挙げられている落語を聞いたりし始めると、きりがなさそうなので、みちくさを続けるのは止めておきます。
 ちなみに「ぶらぶら病」でググって見ると、現代の用法で一番多いのは、放射線による原因不明の健康被害(たとえばこちら)のことのようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【歌舞伎】『ひらかな盛衰記』に出てくる「武士道」という言葉

 ぽん太は以前の記事で、歌舞伎で『ひらかな盛衰記』の「逆櫓」を観たことを書きました。その記事なかで、「武士道」という台詞が気になったと書きました。

 というのも、一般には「武士道」というと、日本古来の生き方・考え方みたいに思われておりますが、実のところいわゆる「武士道」は、五千円札でおなじみの新渡戸稲造が、1900年(明治33年)に書いた『武士道』が元になっております。この本は、当初は外人向きに英語で書かれた本でしたが、日本語に翻訳されて逆輸入され、武士道ブームを引き起こしたのでした。明治も30年代になると、西洋にかぶれて日本の伝統が見失われがちになってきました。そのような風潮のなかで、「日本にも、西洋の騎士道に勝るとも劣らない倫理があったのだ」という新渡戸の主張は、おおいにもてはやされたのでした。
 とすると、「武士道なんてものは、明治時代になってから作られた虚像であり、そんなものは過去の日本の歴史のなかには存在しなかったか、少なくとも傍流にすぎなかったのだ」という考え方と、「いやいや、過去の日本には武士道に通じる考え方が立派に存在したのであって、それを明確に言い表したのが新渡戸稲造なのだ」という考え方ができますが、どっちがホントなのか、ぽん太は今のところ「わからない」と判断を保留しております。

 武士道という「考え方」がどこまで遡れるかはさておき、武士道という「言葉」が使われるようになったのは、戦国時代後半から末期とされているようです。「武士道」という言葉の初期の用法を知るためには『甲陽軍鑑』が大切な資料となるそうで、ここでは「武士道」は「荒々しく、猛々しい」といった意味に使われたことが多いようです。ちなみに『甲陽軍鑑』は、高坂昌信(1527-76)が記したものを春日惣次郎らが書き継ぎ、小幡景憲(1572-1662)が編纂したものとされております。

 武士道といえば、「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」で有名な『葉隠』ですが、これは佐賀の鍋島藩に仕えていた山本常朝(1659-1719)の出家後(1710年以降)の談話を田代陣基が筆録したものとされております。しかし『葉隠』は当時としては異端の書で、全国的に読まれることはなかったようです。

 さて、歌舞伎の『ひらかな盛衰記』に戻りますが、「逆櫓」と呼ばれている部分では、武士と庶民が対比されて描かれています。猟師の権四郎は娘婿の船頭松右衛門に、取り違えた子どもを殺して、孫の槌松の仇をとるように迫ります。ここで松右衛門が自らの正体(木曽義仲の四天王のひとり樋口次郎兼光)と、その子どもの正体(義仲の息子・駒若丸)を明かすことで、これまでの立場がいろいろと変化するところが、この芝居の見所のひとつです。松右衛門「権四郎、頭が高い」、権四郎「なにをぬかすぞい」、松右衛門「イヤサ、頭(かしら)が高い」という名ゼリフで、これまでの父と子という関係が、庶民と武士という関係に変化したことを劇的に表現しております。
 「孫の槌松の仇をとるために子ども(駒若丸)を殺してくれ」という権四郎の庶民の倫理に対して、兼光(松右衛門)は、「槌松は、主君義仲の若君である駒若丸の身代わりとなったのだから、あきらめるように」と権四郎を説得します。ここで「私の武士道をたてさせて下さりませ」というセリフが出てきます。
 納得した権四郎は庶民の倫理を捨て、「侍を子に持てば、おれも侍。わが子の主人はおれがためにも御主人」と、「武士の父親」として振る舞い始めます。孫の死を恨んだり嘆いたりするのを止めるばかりか、先ほどまでなじっていたお筆を、「さてさて、武家に育ったお女中は又格別。コレ、およしよ、今からあれを見習え、見習え」と誉めたたえるしまつ。さらには孫の形見の笈摺(おいずる:衣の一種)を目にとめ、「ここに七面倒な笈摺がある。とっとと捨ててしまえ」と言い出します。さすがに兼光が「それはあまりにむごい、せめて仏壇に供えてあげなさい」という言うと、権四郎は「侍の親のくせに未練がましいと、人が笑いませんか」と尋ね、兼光の「いったい誰が笑いましょうか」という答えを聞くや否や、「本当はそうしたかったのじゃ」と泣き出します。
 ここでは、主君への忠義を第一とし、親と子の情といった私的な感情を押し殺す、という振る舞いや心理的態度を、「武士道」と読んでいるようです。
 人形浄瑠璃『ひらかな盛衰記』の初演は1739年(元文4年)。『葉隠』が一般には読まれていなかったことは先ほど述べましたし、『甲陽軍鑑』に代表される「武士道」は、荒々しさ・猛々しさを意味するものであったことも既に書きました。すると『ひらかな盛衰記』に出てくる「武士道」という言葉は、なんだか、その時代にから浮き上がった、納まりの悪い言葉に見えてきます。
 『ひらかな盛衰記』は1739年に初演されたといいましたが、現在にいたるまで連綿と上演し続けられてきたわけで、その間にセリフが書き換えられている可能性も否定できません。しかし残念ながら、初演当時のセリフを調べる手段とエネルギーは、ぽん太にはありません。ここらでみちくさを終えることにしましょう。

【参考文献】
(1)織田紘二編著『新版歌祭文?摂州合邦辻・ひらかな盛衰記 (歌舞伎オン・ステージ)』、白水社、2001年。
(2)佐伯真一『戦場の精神史 ~武士道という幻影 (NHK出版)』、日本放送出版協会、2004年。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

水沢の高野長英記念館、佐藤昌介著『高野長英』

水沢市の高野長英記念館 ぽん太とにゃん子は、先日岩手県水沢市(現在は奥州市水沢区)にたちよったとき、高野長英記念館でみちくさしてきました。こちらが高野長英記念館の公式サイトです。歴史紙芝居もありますが、音が出るので要注意。
 水沢市(現在は奥州市水沢区)には、ほかにも後藤新平記念館斎藤實記念館もありますが、そのなかで一番興味深い高野長英を選びました。ちなみに水沢市(現在の奥州市水沢区)出身の有名人は、ほかに小沢一郎や吉田戦車がいます。
 無学なぽん太は、高野長英と聞いても、蛮社の獄で捕まった蘭学者というぐらいの知識しかありません。また群馬県吾妻郡の六合村(くにむら)に赤岩温泉「長英の隠れ湯」というところがあり、高野長英が付近に隠れていたという言い伝えがあることは、以前から気になっていました。
 ちなみに、同じく蛮社の獄で捕まった渡辺崋山はぽん太はすでにみちくさ済みです。
 記念館には、椿椿山筆「高野長英画像」や自筆の手紙などの重要文化財があり、興味深かったです。高野長英が蛮社の獄で永牢(無期懲役)を申し付けられたことや、牢屋に火を放って脱出したこと、薬品で顔を焼いてわからないようにして江戸に戻って医療を行ったことなどを初めて知りました(無学ですみません)。明治初期には歌舞伎にもなっていたようです。また、高野長英の生涯を描いた紙芝居も展示してありました。明治以降の価値観からすれば、蘭学を学んで開国を訴え、幕府から迫害されても不屈の精神で真実を訴え続け、医師として患者を救った長英は、「日本人の鑑」なのでしょう。

 で、高野さんともせっかくの縁なので、多摩の巣穴に戻ってから、佐藤昌介著『高野長英 』(岩波新書、1997年)を読んでみました。知らないことばかりで(無学でごめんね)おもしろかったです。興味を持たれた方は勝手に自分で読んでいただくことにして、ぽん太が面白かった点だけをピックアップいたします。
 まず、現在一般に知られている高野長英の生涯は、高野長運の『高野長英伝』(1928、昭和3年)によるのだそうです。高野長運は、血のつながりはないものの、長英の曽孫さんだそうです。しかしこの伝記は、長英をあまりに神格化しているうえに、単なる伝聞に多く基づいていて、科学的な信憑性に欠ける傾向があるのだそうです。佐藤昌介は本書で、できるだけ資料に基づいて、史実と伝説を区別しようと試みています。
 長英はかなり強烈な個性の持ち主だったようです。こうと思ったことを貫き通す強い意志を持つ反面、厚かましく、他人への思いやりや共感性が乏しく、周囲に配慮したり状況に合わせたりすることが苦手だったようです。例えば、これは伝説ですが、養父の代理で出席した無尽講で当たった15両を持ち逃げして、江戸に遊学しようとしたそうです(p.11)。世間知らずでお人好しの面もあったようで、知り合った男に人足の仕事を世話してやったところ、その男は金品17両余りを持ち逃げして姿をくらましてしまい、身元引き受け人だった長英は中間(ちゅうげん:武家の奉公人)にまで身を落として返済にあてたそうです(p.20)。長崎留学中にはたびたび養父に借金を懇願する手紙を出し、やがて養父も腹に据えかねて手紙に返事を書かなくなり、事実上の絶縁となってしまいました(p.34)。しかし長英自身は、その事実に長らく気がつきませんでした。そしてついには養父が死去し、高野家の家督相続人であり婚約者も決まっていた長英は、当然帰郷してあとを継がなければならなかったのですが、なんだかんだ理由をつけては帰郷を先延ばししました。ついには自分が隠居し、婚約者を娘として養子縁組し、娘が婿をもらうことでお家断絶を免れるという秘策を考え出し、武士の身分を捨てて町医者になりました。長崎から江戸にもどってからの蘭学者仲間での評判も芳しくなく、長崎時代の同輩を平気で呼び捨てにし、金に困ると知人宅におしかけては強奪同然に金を借りたそうです。また彼の酒好き・女好きは有名で、脱獄後に幕府が配布した人相書きに「大酒のよし」と書かれていたそうです(p.64)。本書の著者の佐藤昌介は、「封建的諸制約から解放された自我の貫徹であり、個人の自立であって、当時の社会的通年からはみだしていた」(p.56)と述べていますが、ぽん太の印象では、長英の言動は近代的な自我の先取りなどではなく、現代社会に生きていたとしても、迷惑で困ったちゃんでヤなやつだったように思えます。
 また長英は、世界情勢に目を向け、日本の政治状況を批判した「憂国の士」というイメージがありますが、実は卓越した語学力を持った学究肌のひとで、政治や大局観には欠けていたようです。渡辺華山は長英の語学力を評価し、華山自身は外国語を習得する暇がなかったため、さまざまな洋書の翻訳を長英に依頼しました。その華山も、長英の見識は伍長程度だと手紙に書いていたそうです(p.94)。 しかし一方で『西洋学師ノ説』と佐藤が呼ぶメモは、西洋自然哲学史と呼びうる内容で、アリストテレスからガリレイ、デカルト、ベーコン、ライプニッツ、ロックなどを論じているのだそうです。
 本筋とは関係ありませんが、オランダ語文法の全容を日本に紹介したのは、オランダ通詞馬場佐十郎貞由(さだよし)(1787-1822)で、オランダ語文法に基づいてオランダ語を読むことを「新読法」といい、杉田玄白や大槻玄沢のように、経験だけをたよりに読む方法を「古読法」と読んだことを初めて知りました(p.17)。
 さて、ぽん太恒例の江戸考古学。高野長英にまつわる場所を調べてみましょう。シーボルト事件をきっかけに長崎を去り、広島、京都などを経て江戸に戻った長英は、1829年(天保元年)頃、麹町貝坂に居を構えて開業・開塾しますが、その名も大観堂といいました。1837年(天保8年)には貝坂近くの家屋を購入しましたが、翌年の火災で類焼。ただちに再建したものの、「俗に『医者の玄関構え』というように、職業柄、客寄せのために外構には見得を張らねばならず、そこだけは年内に無理して再建したものの宅内の再建はおくれ、天井板は張れず、瓦はふけずという状態で、年を越した」そうです(p.60)。江戸時代の医者は大変だったんですね〜。そういえば落語の「ちしゃ医者」でも、ヤブ医者が見得をはって、底が抜けた籠に乗って往診にいくシーンがあります。
 ググってみると、東京都平河町1-6-13(地図)に高野長英大観堂学塾跡という石盤があるようですが、上記のうちどれなのかは、ちとわかりません。貝坂なので、おそらくは最初に住んだ借家のことでしょうか。ちなみに落語や歌舞伎の文七元結(ぶんしちもっとい)で、最後にお久と結ばれた文七が元結いの店を開いたのも、麹町貝坂だそうです。こんど最高裁判所じゃなくて国立劇場にでも行ったときによってみたいと思います。
 大観堂の門人には上州の吾妻川流域のひとが多かったそうで、1836年(天保7年)には長英自身が上州に旅行もしており、「長英の隠れ湯」の言い伝えと関係がありそうです。
 町営が永牢となったのは小伝馬町の牢屋敷ですが、地図ではこのへんです。1841年(天保12年)に牢名主となります。「牢名主になる」というのが年譜にある人は珍しい気がします。ちなみにこの年、渡辺華山が自刃しております。
 放火に乗じて脱獄した長英が、六合村に隠れていた事実があるかどうか。佐藤昌介の考えは否定的で、比較的早く江戸に戻り、潜伏していたのではないかと想像しています(p.174)。
 その後は多くの兵学書を翻訳。一時は密かに宇和島藩で翻訳に携わります。再び江戸に戻った長英は麻布本村町に身を潜めますが、生活のためか青山百人町に転居し、医業を行います。薬品を使って顔を焼き人相を変えたという逸話にかんしては、証拠が見当たらないそうです。その場所は港区南青山5-6-23(地図)で、スパイラルホールの入口横に、高野長英終焉の地の碑があるそうです。そのうちみちくさしてみます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アスピリンスノーってなんじゃ?

 ぽん太とにゃん子は先日、岩手県は安比高原スキー場に行ってきました。
 首都高の山手トンネル、始めて走りました。いいですね〜。これまで東京脱出に1時間はかかっていたのに、約半分の時間ですみました。ちゃんとこういう道路を造ってくれるのなら、ガソリン税も払う気がするのですが……。マッサージチェアじゃね。
 で、安比高原スキー場のキャッチフレーズのひとつが「アスピリンスノー」。むむむ、「アスピリンスノー」ってなんだ? 初めて聞いたぞ。パウダースノーなら知っているが。
 アスピリンと聞いて医者の端くれのぽん太が思い浮かべるのは、ドイツバイエル社の医薬品です。解熱消炎作用があるから、冷たい雪のことか? あるいは抗血小板作用で血液サラサラにするので、サラサラの雪のことか?
 「アスピリンスノー」は国語辞典に出てないし、aspirinを英和や独和で引いても薬のアスピリンという意味しかありません。
 仕方ないからググってみたら、素人投稿ビデオで児童買春で捕まった北海道の小学校教頭がヒット!なーんだそうだったのか。ちがうやろ!
 さらに検索してみたらwebioに出てました。北海道方言辞書に載ってますが、標準語だと主張しています。「粉状のさらさらした雪。氷点下のごく寒い状況下で見られる」と書いてあります。いくつかのサイトを総合してみると、「気温が非常に低いところで降る、普通の粉雪よりもさらに細かい良質の雪」といった語感のようです。これでだいたい意味はわかりましたが、何でアスピリンスノーというのかはわかりません。
 「まるでアスピリンの粉末のように白い粉雪のこと」と書いてあるサイトもありましたが、白い粉末ならアスピリン以外にもあると思うのですが。第一、アスピリンの粉末なんて、医者のぽん太も見たことがないぞ。
 ということで、「アスピリンスノー」という言葉は、実際のアスピリン粉末の形状から来た表現ではなく、「アスピリン」という言葉のイメージや印象からきたものだと考えられます。
 やはり解熱消炎作用や血液サラサラが関係しているのだろうか。あるいはアス「ピリン」というところが、氷点下っぽくも感じられるのだろうか。「アス」の方も、「アイス」を連想させます。「通常の自然現象を超えたもの」→「化学物質」という連想でしょうか? なんかよくわからないけど、確かに「アスピリンスノー」と聞くと、粒子が細かくて舞い上がると日の光でキラキラ輝くような雪を思い浮かべるから不思議です。
 ちなみにアスピリンをピリン系薬剤だと誤解している人が多いですが、アスピリンはピリン系ではありません
 安比高原は、とても広くてダイナミックなスキー場でしたが、さすがに3月下旬では雪が重かったです。今度はアスピリンスノーのときに行ってみたいです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

歌舞伎『鈴ヶ森』から鈴ヶ森刑場・幡随院・『牡丹燈籠』をみちくさ

 ぽん太は先日歌舞伎座に行ってきました。そのとき観た『鈴ヶ森』から、本日のみちくさを開始しましょう。

 まずは題名の元になっている鈴ヶ森刑場ですが、現在で言えば東京都品川区南大井で、京浜急行大森海岸駅のやや北側に、鈴ヶ森刑場跡があります(地図)。白井権八のモデルとなった平井権八はここで処刑されましたが、他にも慶安事変の丸橋忠弥や、天一坊、八百屋お七などもここで処刑されています。
 『鈴ヶ森』に出てくる幡随院長兵衛は実在の人物で、本名は塚本伊太郎です。Wikipediaによれば、幡随院の裏手に住んでいたので、そのように呼ばれるようになったと書いてあります(幡随院に身を寄せていたという説もあるようです)。
 幡随院の歴史については、文献が手元にないので、ネットの情報を観てみましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/幡随院
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/tjo/j010/j010t.htm
 1610年(慶長15年)に神田駿河台に創建。その後、年代は不明ですが湯島に移り(台東区谷中2-18あたり、地図)、1659年(万治2年)に浅草神吉町に移転(台東区東上野5-23,24あたり、地図)しました。ここには跡地の碑があるようです。1940年(昭和15年)(昭和7年説もあり)に焼失のために小金井市前原町3-37-1(地図)の現在の場所に移っております。なお現在の幡随院は非公開だそうです。
 さて、幡随院長兵衛は1622年(元和8年)に生まれて1657年(明暦3年)に死んでおりますから、この頃幡随院は湯島にあったことになります。
 
 とこで幡随院といえば、三遊亭円朝の『牡丹燈籠』にも出てきます。牡丹燈籠を掲げて萩原新三郎を夜な夜な訪れる幽霊のお露とお米の墓は「新幡随院」にあり([1]p.82)、新三郎にお札と海音如来のお守りを与えた良石和尚は、そこの住職です。「谷中の新幡随院」([1]p.232)という表現があるので、2番目の湯島にあった幡随院のことでしょう。しかし『牡丹燈籠』の出だしは寛保3年(1743年)ですから([1]p.13)、すでに浅草神吉町に移っていたはずで、これも時代があいません。ちなみに円朝が『牡丹燈籠』を作ったのは文久年間(1861〜1863)と言われていますから([1]p.302)、100年も前の時代考証をあまりしっかりしなかったのかもしれません。

【参考文献】
[1] 三遊亭円朝『怪談 牡丹燈籠』岩波文庫、2002年。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【医学史】小浜藩と杉田玄白・中川淳庵

 先日小浜市に行って来たぽん太とにゃん子ですが、そのとき小浜市が杉田玄白の出身地であることを知りました。杉田玄白といえば、フルヘッヘンドの『解体新書』で有名な江戸時代の医師、ぽん太の大先輩ではないか。こちらの小浜市のホームページを見てみると、中川淳庵も小浜藩の藩医ではないか。これはみちくさしなくては。杉田玄白の生涯を小浜藩との関係を中心に振り返ってみましょう。

 杉田玄白は1733年(享保18年)9月13日、牛込矢来の小浜藩酒井若狭守の下屋敷で、藩医の子どもとして生まれました。古地図を見てみると、現在で言えば東西線神楽坂駅と大江戸線牛込神楽坂のあいだあたりで(地図)、今でも矢来町という地名が残っています。この屋敷には塀がなく、竹を縦横に組んだ矢来垣が巡らされていたそうで、そこから矢来という地名ができたのだそうです([1]、p.125-127)。あれ?この本では「上」屋敷になっているぞ。まあいいか。
 母親は、出産時に亡くなったそうです。1740年(元文5年)から1745年(延享2年)までの少年時代を小浜で過ごし、ふたたび江戸の下屋敷に戻ります。1752年(宝暦2年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤務します。上屋敷は筋違御門の近くにあったそうです。筋違御門は、現代でいえば昌平橋と万世橋のあいだ(地図)にあり、橋が架けられていました。徳川家が寛永寺に詣でるために作られた橋だそうです。筋違橋、昌平橋、万世橋の歴史については、こちらのwikipediaの「万世橋」の項目が詳しいです。筋違御門の南側は防火のための広場になっていました。しかし1859年(安政6年)頃の地図を見る限り、そこに小浜藩の上屋敷は見当たりません。残念ながらぽん太の手元には1750年頃の古地図はありません。ちなみにこの筋違御門の広場は歌川広重の「名所江戸百景」に描かれています。たとえばこちらの森川和夫さんのホームージそれを見ることができます。そこにはさらにプロシア使節の随員が描いたという筋違御門の絵もあります。
 さて、話しを戻しますが、1754年(宝暦4年)、京都で山脇東洋が日本で初めて公的な許可を得た人体解剖を行います。この解剖を願い出た原松庵・伊藤友信・小杉玄適は実は小浜藩医で、かつ許可をした京都所司代は若狭小浜藩主酒井讃岐守忠用だったそうです([2]、p.27)。むむ、小浜藩おそるべし。
 玄白は1757年(宝暦7年)、25歳で日本橋通4丁目に居を構え、開業をしたようです。当時の藩医の開業とは、どのようなものだったのでしょうか? 「藩医としての勤めに加えて開業医としての診療」([2]、p.15)と書いてあるところをみると、藩医として働きつつ、自宅で一般の病人を診ていたのでしょうか? よくわかりません。この年江戸では、平賀源内が中心となって第一回の物産会が開かれます。この物産会の出品者の中に、小浜藩医中川淳庵がいたそうです。
 1765年(明和2年)に玄白は小浜藩の奥医師となり、さらに1769年(明和6年)には侍医となり、新大橋(地図)の西側にあった小浜藩中屋敷内に住むことになります。
 1771年(明和8年)は杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』と出会った年です。中川淳庵が江戸に来ていたオランダ商館一行から借り受けたものを一目見るなり、杉田玄白はどうしてもそれが欲しくなりました。しかしあまりに高価で手が出ません。そこで小浜藩の予算で買ってもらおうと、大夫岡新左衛門に掛け合ったところ、「それは買い求めて必ず役に立つものか? 役に立つのならとりはからいましょう」と問いただされました。玄白は「必ずこうであるという目的はないけれど、私がそれを役立ててみせます」と答えました。傍らにいあわせた倉小左衛門が、「杉田玄白はこれを無駄にする人ではないから、ぜひ買ってあげて下さい」と助言し、希望が叶えられたのだそうです([3]、p118-119)。よっ、小浜藩、太っ腹!
 同年杉田玄白は小塚原刑場で腑分けを見て、『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚くという出来事がありましたが、小浜藩とは直接関係なし。小塚原刑場の位置が気になります。東京都荒川区南千住2丁目で、現在は延命寺となっているとのこと。こちらが地図ですが、JRと日比谷線の間に挟まれ、延命寺という名前すら載っていません。ちなみに1859年頃の江戸絵図には、小塚原刑場が載っておらず、田んぼになっています([1]、p.66)。この本に掲載された江戸絵図がいい加減なのでしょうか、それとも刑場というものは絵図に載せないものだったのでしょうか?(2008年3月24日付記:よく見ると[1]の江戸絵図と現在の鉄道の重ね合わせが間違っているようで、ちゃんと田んぼのなかに緑地ないし空き地として書き込まれていました)。
 『ターヘル・アナトミア』を翻訳して1774年(安永3年)に『解体新書』を刊行するまでの苦労話は省略。
 『解体新書』刊行の前年、杉田玄白は、予告見本ともいえる『解体約図』を出版します。これは、漢方医など世間の反応を見るという意味もあったようです。そこには、本書発行の責任が小浜藩と杉田塾に限られるということが明記されているそうです([2]、p.114)。
 1776年(安永5年)、玄白は藩の中屋敷を出て浜町に転居しますが、この場所は明らかではありません。1785年(天明5年)、酒井候のお供で小浜藩を訪れます。1805年(文化2年)、時の第11代将軍家斉に拝謁を赦され、さらに翌日には小浜藩の上屋敷に招かれて酒井候からもお褒めの言葉を頂いたそうです。1807年(文化4年)には隠居を赦されました。最晩年に書かれた回顧録の手録は大槻玄沢に託されましたが、その写本のひとつが福沢諭吉の目にとまり、明治2年に木版で刊行されたことはよくしられています。1817年(文化14年)に死去。なきがらは港区虎ノ門の栄閑院に眠っているそうです。そのうちお参りに行ってみようと思います。

 小浜藩すごいじゃないですか。江戸の蘭学の発展に大貢献しているようです。小浜市はオバマ候補に便乗して騒いでばかりいないで、杉田玄白記念館でも作ったらどうでしょうか?

[1] 『江戸散歩・東京散歩 切り絵図・古地図で楽しむ、最新東京地図で歩く100の町と道』成美堂出版、2005年。
[2] 『杉田玄白 』片桐一男著、吉川弘文館、1971年。
[3] 『蘭学事始 鎖国の中の青春群像』杉本つとむ訳。社会思想社(現代教養文庫)、1974年。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

悉達太子・檀徳山と『平家物語』付記

 以前のブログでぽん太は、「悉陀太子(しっだたいし)を檀特山(だんどくせん)に送った車匿(しゃのく)童子の悲しみ」という物語のみちくさをしました。そのとき、『平家物語』の巻第十「三日平氏」にこの物語が出てくることを指摘しました。その後、『平家物語』の別の所にもこの物語が出てくることがわかりましたので、ご報告しておきましょう。
 一番最後の「灌頂巻」(かんじょうのまき)の「大原御幸」です。「灌頂巻」は、長い長い平家物語の締めくくりにあたり、建礼門院の余生を描きます。建礼門院は、平清盛の次女であり、高倉天皇と結婚して安徳天皇を生みます。しかし壇ノ浦の戦いで平家は滅亡。建礼門院の母親である二位尼(時子)は安徳天皇を抱いて海に身を投げます。建礼門院もともに入水しましたが、源氏方の武将に引き上げられ、生きて捕虜となります。女性であったため罪は問われませんでしたが、尼になり京都の大原の寂光院に隠棲します。
 あるとき後白河法皇はふと思い立って、お忍びで大原に建礼門院を訪ねます。寂光院は古めかしく由緒はあるものの、都の暮らしとは比べ物にならぬわびしさです。法皇が声をかけると、なかから老いた尼が出てきます。建礼門院が自ら山へ花を摘みに行っていると聞いて哀れむ法皇に対して、尼は次のように言います。

「五戒十善の御果報つきさせ給ふによ(ッ)て、今かかる御目を御覧ずるにこそさぶらへ。捨身の行に、なじかは御身を惜しませ給ふべき。因果経には、『欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因』ととかれたり。過去未来の因果をさとらせ給ひなば、つやつや御歎あるべからず。
 悉達太子は十九に伽耶城を出て、檀徳山のふもとにて、木の葉をつらねてはだへをかくし、嶺にのぼりて薪をとり、谷にくだりて水をむすび、難行苦行の功によ(ッ)て、遂に成等正覚し給ひき」

 わかりやすくタヌキ語訳(注:現代語訳に非ず)すれば、だいたい次のような意味になります。

「これまで積んだ善行の御果報もつきてしまったので、いまはこのようなひどい目にあっているのです。いまは捨身の修行なのですから、身を惜しんでいる場合ではありません。『過去現在因果経』にも、『過去の原因を知りたければ、現在の結果を見よ。未来の結果を知りたければ、現在の原因を見よ』と書かれています。過去と未来の原因と結果の摂理を理解していれば、まったく嘆く必要はありません。
 悉達太子は19歳で伽耶城を出て、檀徳山のふもとで、木の葉をつづり合わせたもので肌を隠し、峰に登って薪を取り、谷に降りて水を汲むなど、難行苦行を行ったことで、ついに悟りを開きました」

 ここには、前の記事でもふれた『過去現在因果経』にも言及されています。そのとき書いたように、この経典では、釈迦がこもって修行をした場所は檀徳山ではなく苦行林です。むむむ、『因果経』を引用しながら、中身を読んでいなかったのだろうか?

 話しは全く変わりますが、「灌頂巻」のラストシーン、つまり『平家物語』のラストシーンは、建礼門院の死去です。建礼門院は、阿弥陀仏の手にかけてある五色の糸を持ち、念仏を唱えながら、静かに息を引き取ります。
 「仏像の指にかけてある五色の糸」と聞いて、以前に訪れた山形県の月山のふもとにある注連寺を思い出しました。このお寺は、鉄門海上人の即身仏(つまりミイラ)や、森敦がこの寺で過ごした体験をもとに書いた小説『月山』などで有名です。で、このお寺には大日如来があって、その指に五色の糸がかけられていた記憶があります。
 『平家物語』の解説によればこの五色の糸は、臨終のとき阿弥陀仏に浄土に導いていただくために手をつなぐものだそうですが、なんで大日如来なのかなどの詳細については、ちとぽん太にはわかりません。

【参考文献】
[1] 『平家物語〈12〉』杉本圭三郎訳注、講談社学術文庫、1991年。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

平山武者所季重と『平家物語』、日野市

 先日歌舞伎座で観た『一谷嫩軍記』のなかに、市蔵の演ずる平山武者所季重(ひらやまのむしゃどころすえしげ)という人物が出てきました。ホントは源氏方の大将なのに、『一谷嫩軍記』では敵役として登場します。で、イヤホンガイドで、この武将の出身地が現在の東京都日野市だと解説しておりました。なに、日野市といえば、ぽん太が生息する多摩地区ではないか。そういえば日野には「平山」城趾公園というのがあるぞ。むむむ、これはみちくさしてみたくなりました。

 まず、『一谷嫩軍記』の元になっている『平家物語』の「巻第九 敦盛最後」を見てみましょう。坂落しで有名な一の谷の合戦ですね。『平家物語』では、熊谷直実が首を刎ねるのは本物の敦盛ですが、それを知るのは戦がすんでからです。合戦の場では直実は、「名前はわからないが、年の頃十六、七と息子小次郎と同年代の立派な若武者。先ほど息子小次郎が軽傷を負っただけで自分(直実)は心苦しいのに、この若武者を討ち取ったら父親はどれほどなげくだろうか」と考えて、逃そうとします。そこに登場するのは平山季重ではありません。

……うしろをき(ッ)と見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりでつづいたり。
 熊谷涙をおさへて申しけるは、
「たすけ参らせんとは存じ候へども、御方の軍兵雲霞のごとく候。よものがれさせ給はじ」([1]、p.255)。

 「土肥、梶原五十騎」と書いてあり、季重の名前はありません。では、一の谷の戦いで平山季重がどこに出てくるかというと、2月4日に源氏は、範頼率いる大手と、義経率いる搦め手の二手に分かれて、都を出発します。その搦め手の武将のなかに、熊谷次郎直実とともに平山武者所季重の名前があります。義経はその日の夜、平家の先鋒に夜襲をかけてこれを蹴散らします。6日に義経は、配下の一万騎をさらに二手に分け、七千騎を土肥次郎実平に託して一の谷の西側に回らせ、自らは三千騎を率いて鵯越(ひよどりごえ)をめざします。しかしここは名だたる難所。義経が「誰かこの山の案内人はいないか」と問うと、

……武蔵国住人平山武者所すすみ出でて申しけるは、
「季重こそ案内は知(ッ)て候へ」
御曹司
「わ殿は東国そだちの者の、今日はじめて見る西国の山の案内者、大きにまことしからず」
と宣へば、平山かさねて申しけるは、
「御諚ともおぼえ候はぬものかな。吉野、泊瀬の花をば歌人が知り、敵のこも(ッ)たる城のうしろの案内をば、剛の者が知候」
と申しければ、是又傍若無人にぞきこえる([1]、p.168)。
 
 平山季重が道案内の名乗りをあげたので、義経が「東国育ちのおぬしが何で西国の初めての山を案内できるのだ」と聞いた所、「すぐれた歌人が見たこともない吉野の桜を知るように、すぐれた武将は初めてのところでも道案内ができるのです」と答えて皆の顰蹙をかったという話しです。
 しかしここは季重の非論理性をあげつらっているというよりは、戦で功名を得ようとはやる荒武者の心性を描いていると考えたいものです。
 
 既に述べたように、直実と季重は、ともに義経率いる搦め手に加わり、鵯越に向っておりました。しかし6日夜半、直実は、「このような急坂を下って背後を襲うような戦では、混戦となって先陣の功名を得ることができまい。一の谷の西に向った土肥が率いる軍に合流し、そちらで先陣を得よう」と考えます。ふと気がついて「まてよ、平山季重も同じことを考えているかもしれない」と思って様子を見に行かせると、案の定季重も出発の準備をしております。二人はそれぞれ義経の隊を抜け出し、土肥軍の陣地を目指します。ここから二人の先陣争いの物語となるのですが、興味がある方は『平家物語』をお読み下さい。

 平山季重の生涯に関しては資料によっていろいろな異同があるようで、それを比較検討するのは面倒なので省略。

 『日野市史』([1]、p.322-328)を見ると、季重のことが出ています。平山氏の本姓は日奉(ひまつり)氏で、10世紀中頃に日奉宗頼が武蔵に現れ、西党の租となったそうです。当時、武蔵の国には、武蔵七党と呼ばれる武士団があり、西党はそのひとつでした。季重は定期的に上京し、上皇や法皇の親衛軍である北面の武士を務めたために、「武者所」と呼ばれるようになったと考えられているそうです。『保元物語』『平治物語』『吾妻鏡』などに熊谷直実とライバルとして描かれているそうです。
 日野市観光協会のサイトにも平山季重について書かれています。そこには、季重ゆかりの史跡もまとめられています。そのうち訪ねてみたいです。
 このサイトによると平山城趾公園は、実は城があったわけではなく、京王電鉄がレジャー施設としてこの公園を作った時、平山氏の言い伝えを元に名付けたものだそうです。な〜んだ、そうだったのか……。

[1] 『平家物語〈9〉』杉本圭三郎訳注、講談社学術文庫、1988年。
[2] 『日野市史 通史編1』日野市史編さん委員会、1988年

| | コメント (0) | トラックバック (0)

檀特山の憂き別れ、悉陀太子を送りたる、車匿童子が悲しみも……

 ぽん太とにゃん子は先日、歌舞伎で『一谷嫩軍記』を見てきました。感動いたしました。
 で、そのなかに「檀特山(だんどくせん)の憂き別れ、悉陀太子(しっだたいし)を送りたる、車匿(しゃのく)童子が悲しみも」という一節がありました。出だしは義太夫が語り、「悉陀太子」からは熊谷直実のセリフになります。イヤホンガイドでは、釈迦が生まれ育った城を離れて出家した時、白馬の口を引いて従った車匿童子が、別れを惜しんで悲しんだという話があるのだとの説明でした。
 仏陀の生涯に関しては様々な伝説が入り乱れていてはっきりしませんが、父親は王様で、何不自由ない暮らしをし、結婚もしていたそうです。しかし次第に贅沢な暮らしに満ち足りなくなり、29歳のときに生まれ育った城を抜け出して出家しました。上記の話は、このときのエピソードと思われます。
 「筋書」([1]、p14)によれば、この話は『宇津保物語』、『梁塵秘抄』や浮世草子に載せられ、能の『通小町』や歌舞伎の『勧進帳』にも出てくるそうです。なんか、みちくさしたくなってきたぞ。

 まず『宇津保物語』を見てみます。平安中期に成立した長編物語で、『源氏物語』に影響を与えたと言われています。作者は、源順(みなもとのしたごう)という説もありますがはっきりしないそうです。
 『宇津保物語』の「俊蔭」の巻の二十六に、兼雅が北山を再び訪れる下りがあります。兼雅は北山の山中から聴こえてくる琴の音がに耳を留め、兄と一緒に山の中へと分け入ります。すると驚くことに山一面に獣が集まっています。兄が「気持ち悪いなあ、もう帰ろう」というと、兼雅は「わろきことをも宣はするかな。これこそおもしろけれ。ふかき山にけだものすまずは、なにをか山といはむ。だんどく山に入るとも、兼雅ら、けだものにせずべき身かは」と答えます([2]、p240)。「嫌なことをおっしゃいますね。これだからおもしろいんじゃないですか。深い山に獣が住んでいなかったら、なんで山と言えましょうか。私たちが檀特山に入ったとしても、自らを獣に施さなくてはいけないわけではないでしょう」といった意味でしょうか? ここには檀特山は出てきますが、釈迦の出家には触れていません。きっと当時の読者は、檀特山というだけで、何のことかわかったのでしょう。『宇津保物語』の他の部分で釈迦の出家の件が出てくるのかもしれませんが、さすがに全部調べる元気はありませんでした。

 続いて『梁塵秘抄』。後白河法皇が編纂した平安末期(1180年頃)の歌謡集です。雑法門歌五十首のなかに次のような歌があります。

(207)太子の御幸には、犍陟駒(こんでいこま)に乗り給ひ、車匿舎人に口取らせ、檀特山にぞ入り給ふ([3]、p61)

(219)摩掲陀国(まかだこく)の王の子に、在(おは)せし悉達太子(すだちたいし)こそ、檀特山の中山に、六年行い給ひしか([3]、p64)

 釈迦が乗っていた馬は「カンタカ」という白馬だったそうで、それがなまって犍陟駒(こんでいこま)になったのだそうです。摩掲陀国はマガダの音を写したもので、紀元前6世紀頃から中インドにあった王国とのこと。しかし実際には釈迦の父親はネパールの迦毘羅衛(カピラヴァスツ)の王でしたら、ちょっと違っています。なぜこのような間違いが生じたのかについては、ぽん太には皆目見当がつきません。

 また『平家物語』の巻第十「三日平氏」には、次のような一節があります([4]、p209)。

 ……舟底にふしまろび、をめきさけびる有様は、むかし悉達太子の檀特山に入らせ給ひし時、車匿舎人がこんでい駒を給は(ッ)て、王宮にかへりし悲しみも、是には過ぎじとぞ見えし。

 一の谷の戦いに敗れ、平家の敗色が濃くなります。平維盛は陣を抜け出して出家し、熊野詣でをしたのちに船で沖に漕ぎ出し、供をつれて海に身を投じます。遺言に従って後の供養をするためにただ一人船に残った舎人武里(たけさと)の悲しみの描写です。

 この話はさらに『過去現在因果経』にまで遡ることができます。この経典は5世紀にインドの求那跋陀羅(ぐなばつだら)が漢訳したもので、釈尊の前世での行いから現世の伝歴までを語ることで、過去に撒いた因が必ず結果を生ずることを説いたものです。巻の第二、十五、「出家」に、例の話がでてきます([5]、p.49-57)。これは長いのであらすじを言えば……
 29歳となった太子(釈迦)は出家を決意しますが、王である父は反対し、なんとかやめさせようとします。しかし太子は、ある夜、皆が寝静まっているときに、車匿(しゃのく)を起こし、愛馬の犍陟(けんぢょく)に鞍をつけて連れてくるように命じます。車匿は王の命令と板挟みとなって悩みますが、結局釈迦に従って馬を引き、城を後にします。やがて一行が跋伽(はが)仙人が苦行をする林の中に至ると、太子は馬から下りて、車匿に犍陟を連れて城に帰るように言います。車匿は、「太子をおいて一人で城へは帰れません」などといいますが、太子はありがたいお言葉で諭します。やりとりの間にも、太子は髪を剃り、美しい衣類や装飾品を脱ぎ捨て、袈裟を身にまといます。車匿はもはや太子を引き止めることができないことを悟り、泣く泣く犍陟を連れて来た道を城へ引き返してゆきます。
 ここでは、車匿や犍陟は出てきますが、釈迦が行った先が檀特山ではありません。

 檀特山は北インドにある山で、ホントは須大拏(しゅだいぬ)太子が修行した場所ですが、釈迦と混同されたのだそうです([3]、p.61)
 もともとは出家する釈迦を見送る話しが、『一谷嫩軍記』や『平家物語』では何で死んだ人との離別で使われているのかという疑問が湧いてきますが、「死ぬこと」=「極楽浄土に生まれ変わること」である浄土思想の影響があるのかもしれません。

 次に能の『通小町』ですが、小学館の『歌謡集2』(新編日本古典文学全集59、小学館、1998年)を見ましたが、それらしきものが出てきません。むむむ、なぜだ? 朝田富次さんがほかの小町物と間違えたのか。それとも『通小町』にもいろいろな版があるのか。

 『勧進帳』では、問答の部分で、富樫が「山伏は何で金剛杖を持っているのか」と聞くのに対して、弁慶が「事も愚かや、金剛杖は天竺檀特山の神人、阿羅邏(あらら)仙人の持ち給ひし霊杖にして、胎蔵金剛の功徳籠めり」と答えます([6]、p.311)。『勧進帳』は何度も観ているのに気がつきませんでした。四月大歌舞伎でニザタマの『勧進帳』を観るときに、注意して聞いてみたいと思います。ところで阿羅邏仙人って誰じゃ?
 もう疲れたので今日のみちくさはこのへんで。

【参考文献】
[1]朝田富次「芝居片片」、2008年3月大歌舞伎「筋書」に所収
[2]『宇津保物語・俊蔭』上坂信男等訳注、講談社学術文庫、1998年。
[3]『梁塵秘抄』、「新日本古典文学大系56」所収、岩波書店、1993年。
[4]『平家物語〈10〉』杉本圭三郎訳注、講談社学術文庫、1988年。
[5]『国訳一切経 (印度撰述部 本縁部 4)』大東出版社、1929年。
[6]『勧進帳』守随憲治校訂、岩波文庫、1941年。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【精神医学史】メスメルとフリーメイソン

 以前にぽん太がモーツァルトの『魔笛』とフリーメイソンの関係について書いたとき読んだ茅田俊一の『フリーメイスンとモーツァルト』[1]のなかに、気になる記述がありました。茅田は、18世紀後半のフリーメイソン全盛期にみられた疑似フリーメイソン活動のひとつとして、メスメルを取り上げているのです。メスメルといえば、催眠術を使って神経症の治療を行った人で、ぽん太の守備範囲ではないか!こ、これはみちくさしてみる必要があります。

 フランツ・アントン・メスメル(Franz Anton Mesmer, 1734〜1815)はドイツ生まれの医者で、彼が動物磁気と呼ぶものを使って神経症の治療を行ったのですが、それはいまでいう催眠術であり、彼は精神療法の先駆者とも呼ばれています。
 茅田は、18世紀後半のフリーメイソンの全盛期において、その周辺で、「山師、詐欺師、不法なぺてん師などによる魔術を援用した疑似メイスンリー活動」が行われたと述べ、その代表的な二つの例として、カリオストロとメスメルを挙げています。メスメルは動物磁気による治療を行えるのは、「特別に霊的な能力を備えた人」である必要があり、「メスマーはこの経験から、1783年パリでメイスンリー的性格の結社「宇宙の調和団」を創設した。メンバーは霊的に浄化されて、メスマーの療法を実行し、広める能力を身につけることが出来ると教えたのである。メスマーのシステムは、当然、真正なメイスンリーとは縁のない一種の瞞着ではあったが、実際に治療の効果があがっていたことから、今日では精神療法の先駆者として認められている」([1]、p.118)と茅田はいいます。
 メスメルが山師カリオストロと同列に扱われているのは、精神科医のぽん太はちょっと納得できない気がします。茅田は、一般には政治的陰謀を企む秘密結社のように思われているフリーメイソンが、時代的制約はあったにしろ、実は18世紀の啓蒙主義・理性主義・人間中心主義の思想のなかに位置づけられることを強調していますが、メスメリズムに関しては、同様の好意的な見方をしていないようです。しかし茅田の記述を読むまで、ぽん太はメスメルとフリーメイソンを結びつけて考えたことはありませんでした。
 そこで、エレンベルガーの『無意識の発見』[2]を読み直してみました。すると、なんだ、ちゃんと出てました。メスメルに治療を頼んだひとのなかに、彼に対して多額の金銭援助を行ったひとたちがいました。ひとりが法律家のニコラ・ベルガスで、もうひとりは銀行家コルンマンでした。1783年頃、彼ら二人は、新しい企画を立案します。「二人で予約会員組織を設立し、大金を集めてメスメルの発見を買い上げようというのである。会員はメスメル法の“機密”の所有権を与えられる特典を有し、また会員は全員が一つの結社をつくり、メスメル法を勉強したいものを教育訓練したり、メスメルの思想の普及に当たることとなる」。この協会の名前は調和協会(Société de l'Harmonie)といい、高額な入会金にもかかわらず、著名人も含め多くの人が入会を希望しました。メスメルと弟子たちのあいだの軋轢もありましたが、この会はメスメルに巨額の富みを与えました。この協会は「企業のようなところと市立学校のようなところと秘密結社フリーメイソン支部のようなところが混じった妙な会」でしたが、パリ以外の市や町にも支部が設置されるなどして、大衆の興味の的となりました。1784年3月、フランス国王ルイ16世は二つの委員会を発足させ、メスメルの方法を科学的立場から検証させました。これら委員会には、天文学者バイイ、化学者ラヴォアジエ、医師ギヨタン(豆知識:有名な機会の発案者。但し発明者ではない)、当時アメリカ合衆国駐仏大使だったベンジャミン・フランクリンなど、名だたる科学者が名を連ねていたそうです。委員会の結論は否定的なものでした。またメスメルと弟子たちとの内紛も激しくなり、嫌気がさした多くの会員が脱退していきました。協会設立からわずか2年後の1785年、メスメルはパリから姿を消してしまいます([2]、p.74〜p.78)。
 またシェルトーク、ソシュールの『精神分析の誕生』には、メスメルの「普遍的流体」(un fuide universel)という概念がフリーメイソンの秘密の協議から着想を得たものだと書いてありますが([3]、p.10)、対応するフリーメイソンの教義がなんなのか、ぽん太にはわかりません。

[1]茅田俊一『フリーメイスンとモーツァルト』講談社現代新書、1997年。
[2]エレンベルガー『無意識の発見 上 - 力動精神医学発達史』木村敏・中井久夫監訳、弘文堂、1980年。
[3]シェルトークk、ソシュール『精神分析学の誕生?メスメルからフロイトへ』岩波書店、1987年。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

中世ロシアの文学『イーゴリ遠征物語』を読む

 過日マリインスキー・オペラの『イーゴリ公』を観て感動したぽん太は、オペラの題材となった『イーゴリ遠征物語 』(木村彰一訳、岩波文庫、1983年)を読んでみました。

 ボロディンのオペラ『イーゴリ公』は、「だったん人の踊り」(ポロヴェツ人の踊り)で有名ですが、その物語の下敷きとなったのは『イーゴリ遠征物語』という作者不明の中世ロシア文学です。ちなみにイーゴリ公のポエロヴェツ遠征は、1185年に実際にあった出来事だそうです。
 この物語は、いまでこそ中世ロシア文学を代表する傑作として評価されていますが、発見されたのは比較的新しく、1790年代に写本(Mと略記)が見つかったのが始まりだそうです。1800年には、当時のロシア語への対訳・脚注・解題を添えた初刊本(Pと略記)が出されました。また、それとは別に、女王エカテリーナ2世のためにコピーが作られ、こちらは1864年になって公刊されました(Aと略記)。ところが写本Mは、1812年のナポレオンのロシア遠征によるモスクワの大火で焼失してしまい、現在はPとAだけが残っています。ちなみにテクスト・クリティークの結果から、焼失した写本Mも16世紀初め頃に北ロシアで作られたと考えられており、12世紀末に作られたとされる原作とは大きくことなっているそうです。
 『イーゴリ遠征物語』は比較的短い作品で、邦訳は叙事詩のような文体になっていますが、訳者の解説によれば、原文は複雑な詩的リズムを持つ散文で書かれているそうです。
 この物語の自然感は独特で、自然が意思や感情をもっており、人間や出来事に反応します。さらにはイーゴリ公とドネツ川が対話したりします。
 コンチャークがイーゴリ公を紳士的に扱ったことや、イーゴリ公の息子ヴラジーミルがコンチャークの娘と結婚したことなどは、『イーゴリ遠征物語』には出てきません。他の「年代記」などに記されているそうです。
 オペラの中では、イーゴリ公の妻ヤロスラーヴナが夫の身を案じて「郭公となって愛する夫のところに飛んで行きたい」と歌う美しいアリアがありますが、『遠征物語』のなかに、ほぼ同じ内容の詩句があるようです。

 邦訳の解説には、イーゴリ公遠征の時代背景について書かれています。ウクライナのキエフを中心に9世紀末に建国された東スラブ人の国家ルーシ(キエフ大公国)は、11世紀には全盛期を迎えますが、13世紀前半にモンゴル帝国によって滅ぼされます。イーゴリ公の遠征が行われた12世紀末は、ポロヴェツ人の侵入と、諸候の内乱によって、ルーシは危険をはらんだ状態だったそうです。
 ポロヴェツ人はテュルク系の遊牧民で、勇猛果敢であり、ルーシに何度も侵入して、村を焼き討ちしたり、住民を殺したり奴隷にしたりしたそうです。西ヨーロッパとアジアの交易を担って栄えていたルーシですが、ポロヴェツ人によって黒海やカスピ海への通商路を断たれたことや、十字軍遠征によって地中海貿易のルートが栄えたことなどによって、力を失うことになります。
 ルーシでは諸候同士の内乱が絶えませんでしたが、その原因のひとつは、独特の候位継承制度があったそうです。候が死んでも、候の子供には継承権がありませんでした。各都市はキエフを頂点とする格付けがなされており、ある都市を支配していた候が死ぬと、一つ下位の都市を支配していた候が後を継いだのだそうです。
 さらには諸候同士の内乱に際して、共通の敵であるはずのポロヴェツ人の軍事力を借りるといったことが横行していたのだそうです。
 この物語の主役のイーゴリ公の遠征も、個人的な功名心に基づくスタンドプレーだったどいう評価もあるようです。
イーゴリ公遠征関連地図 イーゴリ公の遠征は、この物語以外にも、古い年代記などに記載されているそうで、それらを総合すると、公は1185年4月23日、弟フセーヴォロト、甥スヴャトスラーフ、息子ヴラジーミルを伴い、居城のあったノーヴゴロト・セーヴェルスキイを出発(地図を参照して下さい。ただし邦訳を参考にぽん太が作成したので、多少違っている可能性があります)。5月1日夕刻、ドネーツ川付近で日食に遭遇。5月10日、ポロヴェツ人の小部隊と戦って勝利。しかし5月11日の明け方に敵の大群に包囲され、夜を徹して戦いますが、12日に大敗を喫して壊滅。その場所はいろいろと説がありますが、アゾフ海北岸に近いカリミウス川のほとりとも言われているそうです。勢いに乗ったポロヴェツ人はスーラ川とセイム川の間のドニエプル左岸にまで侵入して引き上げたそうです。おそらく6月頃、イーゴリ公はポロヴェツの陣地を脱出。11日歩いてドネーツに行き、ノーヴゴロドに戻りました。2年後の1187年秋、息子ヴラジーミルが、コンチャーク汗の娘と子供一人を伴って帰国したそうです。

 邦訳の底本は、ロマーン・ヤーコブソン『選集』第4巻(1966)に収録されたテクストとのこと。ロマーン・ヤーコブソンといえば、構造主義言語学で有名ですが、ロシアの古い物語の校訂のような仕事もしてたんですね。
 そういえば、遠征物語の舞台は現在のウクライナですが、バレエダンサーのウラディミール・マラーホフもウクライナ出身ですね。実は今夜観に行く予定です。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

斎藤茂太『精神科医三代』で日本の精神医学史を学ぶ

 昨日のブログに映画の『去年マリエンバートで』のことを書いたら、本日の新聞に、脚本を書いたアラン・ロブ・グリエの訃報が出てました。ぽん太のブログはデスノートか!?

 森田正馬の評伝を読んで日本の精神医学史に興味をもったぽん太は、続いて斎藤茂太『精神科医三代』(中公新書、1971年)を読んでみました。斎藤茂太先生は、言わずと知れた精神科医で斎藤病院の元院長、斎藤茂吉の息子にして北杜夫のお兄さんです。本書は斎藤家の紀一・茂吉・茂太の三代に渡る歴史を書いたもので、北杜夫の小説『楡家の人びと 』と同一の題材です。
 こんかいも書評や要約ではなく、ぽん太が興味深かった点を抜き書きいたします。

 まず斎藤紀一は、1891年(明治24年)に浅草区東三筋町54番地に浅草医院を開業しました(p.4)。現在も台東区三筋という地名が残っていますが、こちらの大正元年の浅草地図の東三筋町54番地を現在の地図と比べてみると、ここらあたり(地図)のように思うのですが、正確にはわかりません。ちなみに三筋2-16の三筋老人福祉会館に、斎藤茂吉の碑があるそうです。で、この頃、まだ紀一が精神科を志す以前で、あらゆる病気を診ていましたが、なかなか繁盛したそうです。1896年(明治29年)、守谷茂吉(のちの斎藤茂吉)は、生まれ故郷の山形県の上ノ山を立ち、紀一にもとに身を寄せました。ちなみに現在、山形県上山市には斎藤茂吉記念館があります。
 この頃の思い出を茂吉は、『三筋町界隈』(1937年、昭和12年)という随筆に書いているそうですが(p.5)、こちらの青空文庫で読むことができます。それを読むと「ぽん太」という芸妓が出てきますが、小生とは無関係なことはいうまでもありません。初代ぽん太は鹿島ゑ津というひとだそうですが、多磨墓地にお墓があるそうです。彼女は森鴎外の『百物語』(1911年、明治44年)に出てくるのだそうですが(こちらの青空文庫で読めます)、「太郎」という芸妓がそうでしょうか?
 さて、紀一は明治28年頃(?)に、神田泉町一番地にもうひとつ東都病院をつくりました。この場所はのちに坪井医院となり、昭和45年に茂太がそこを訪問したと書かれていますが、現在も坪井医院は残っているようです。
 細かい理由はわかりませんが、紀一は精神病院設立を思い立ち、まず自分が精神医学を修得するために、1900年(明治33年)にヨーロッパに旅立ちます。帰国は1903年(明治36年)ですが、奇しくも夏目漱石のイギリス留学からの帰国と同じ船になったそうで、日本で漱石の帰国を待っていた親戚は、精神科医が同船していると聞いて、留学中に精神障害になったのではないかと戦々恐々だったそうです(p.41)。
 帰国した紀一は、東都病院を精神科の病院に造りかえ、「帝国脳病院」と命名しました。さらに赤坂区青山南町5丁目に大精神病院の建設を開始し、1907年(明治40年)に完成。これが有名な青山脳病院です。この場所は現在では、表参道交差点から根津美術館方向に向かい、青山南小学校の向こう側を左に曲がった突き当たりです(地図はこちら)。マンションの一角に、斎藤茂吉の句碑があるそうです。こんどブルーノートにで行くときによってみようっと。
 話しは飛んで1924年(大正13年)、青山脳病院は火災で焼失します。病院の再建に対して反対運動が起こり、紀一は東京府下松原村に土地を借りて、病院を建設します(p.125)。これが現在の都立梅ヶ丘病院のある場所ですね。なぜこの病院が都に移ったかについては、後で述べます。
 知らなかったのは、この頃、精神病院の監督官庁が警視庁だったこと。有名な金子準二先生が、当時警視庁に技官としておられたそうです(p.129)。年配の先生にとっては当たり前か?厚生省ができたのは1938年(昭和13年)で、ようやく精神病院が警視庁の管轄からはずされたのだそうです(p.146)。
 1928年(昭和3年)、紀一は、気に入ってたびたび訪れていた熱海の旅館「福島屋」で死去します(p.137)。なぬなぬ、温泉と聞くと目の色が変わるぽん太ですが、ぐぐってみると、確かに熱海温泉福島屋という旅館が現存します。現在は日帰り入浴しか行っていないようですが、現在は古びてはいるものの内装も凝っていて、「ここに違いない」とぽん太の野生の本能が話しかけてきます。
 もうひとつ豆知識。精神科の病名から「狂」の字を取り除いたのは呉秀三先生だそうで、「躁うつ狂」を「躁うつ病」に、「早発痴狂」を「早発性痴呆」に改めたそうです。またカルテを日本語で書いたのも呉秀三先生の流儀で、当時カルテを日本語で書いたのは精神科だけだったそうです(p.139)。
 さて、千葉県市川市にある国府台病院の歴史。もともとは1872年(明治5年)に教導団兵学寮(のちの陸軍士官学校のようなもの?)の病室として使われたのがそもそもの始まりだそうです。1937年(昭和12年)、時の陸軍省小泉親彦医務局長が、自らドイツの第一次大戦で観察した経験に基づいて、日本でも戦争によって遠からず大量の神経症者が発症するだろうと予測し、国府台に精神科専門病院を作ったそうです。茂太さんは、「皇軍に精神病者はいない」「精神病はたるんでいるから起こる」などという思想だった当時の帝国陸軍において、精神病院を作った小泉軍医の先見の明と勇気を誉めたたえています。ちなみに茂太さんは、戦争中に召集されてここで働いていたそうです(p.155)。
 戦局が長引いてくると、後療法の必要が生じ、山梨県下部温泉に下部転地療養所が開かれ、作業療法などが行われたそうです。ちなみにぽん太が2006年6月に下部温泉大市館に泊まったときの記事はこちらです。ちなみに大市館は、つげ義春一家も泊まったことがあるなかなかいい旅館でしたが、昨年の9月15日から休館中です。再開を期待いたします。
 この下部転地療養所がどこにあったのかぐぐってみると、こちらの下部温泉湯元旅館大家のサイト(音楽がなるので注意!!)のなかに、下部ホテルが国府台陸軍病院の転地療養所として接収されたことが書いてありました。しかしこちらの下部ホテルのサイトは、そのような歴史には触れていません。
 茂太先生が、国府台病院の諏訪病院長の統計を引用して言うには、外地から送り返された傷病兵の精神疾患の比率は、昭和13年には1〜2パーセントでしたが、年々増加し、昭和19年には7〜8パーセントに達したそうです(p.158)。あれ、ぽん太は、「戦争中は神経症が減る」と思い込んでしましたが。それは軍隊にいない一般の国民の場合でしょうか?ホントはどうなのでしょう。謎です。
 こうした患者の症状は、敗戦後数日で劇的に変化したそうで、歩行不能だった患者が歩き出したり、失声症が自然に治ったりしたそうです(p.167)。
 松原の青山脳病院が東京都に移譲された話しですが。大戦中、松沢病院が戦災にあった場合に備えて、ほかにベッドを確保する必要が生じたそうです。いくつかの候補地が検討されましたが、最終的に青山脳病院に白羽の矢が立ち、1945年(昭和20年)5月18日に都立松沢病院梅ヶ丘分院となりました。この計画には先程述べた金子準二先生(当時は東京都の衛生技師)がかかわったのだそうですが、移譲の一週間後に梅ヶ丘分院は空襲で半分焼けてしまい、金子先生はえらく怒られたそうです(p.162)。

| | コメント (0) | トラックバック (1)