カテゴリー「雑学」の61件の記事

2017/03/13

【雑学】歌舞伎にも出てくるお土砂に興味を持った江戸時代のオランダ人・ティチング

 吉田元の『江戸の酒 その技術・経済・文化』(朝日新聞社、1997年)という本を読んでみました。江戸時代の日本酒の状況がわかって面白かったのですが、ぽん太の目が止まったのは別の部分。

 外国人の日本酒に対する関心を論じているところで、長崎オランダ商館長イサーク・ティッツィングが、日本人を出島に密かに招き入れて、目の前で日本酒を作らせた話が出てきます。で、ティッツィングがいかに好奇心おう盛だったかを書いた次の記述に、ぽん太の目は釘付けになりました。

 ティッツィングの好奇心は強烈だった。不幸にも出島において病死した若いオランダ人商館員の遺体にかけられ、死後硬直を解いた真言宗の「土砂」(加持祈祷しをした土砂)の正体解明に執念を燃やし、九州の寺から取り寄せて帰国時に持ち帰ったくらいだから、杜氏を呼び入れることなど何でもなかったろう。

 にゃにゃにゃ、にゃに〜?土砂?
 「お土砂」といえば、歌舞伎の「松竹梅湯島掛額」(しょうちくばいゆしまのかけがく)の「吉祥院お土砂の場」に出てくる、かけられると体がフニャフニャになるという粉ではないか。主人公の紅長は敵にお土砂をかけて撃退しますが、だんだん悪のりして出てくる人に片っ端からお土砂をかけはじめ、さらには舞台に上がってきたお客さん(仕込みです)や劇場の係員、しまいには舞台袖の附け打ちさん(木でバタバタバッタと音を出す係の人)までフニャフニャにしてしまうというドタバタコメディーです。
 ぽん太はてっきりフィクションの世界の話かと思ってたのですが、お土砂は実在したんでしょうか。
 ちなみにここに出てくる吉祥院(きっしょういん)は、おそらく谷中にあった吉祥院で、現在は杉並区に移転しておりますが(吉祥院|猫のあしあと)、真言宗ではなく天台宗のお寺です。

 まず、困ったときのWikipediaを見てみると、イサーク・ティチングという表記で出ています(イサーク・ティチング - Wikipedia)。イサーク・ティチング(Isaac Titsingh。1745年-1812年)はオランダの外科医・学者。1779年から1784年の間3度にわたってオランダ商館長として日本に滞在したそうです。
 で、下の方の「著書」をじっと見てみると、どうやらTitsingh, Isaac. (1822年). Illustrations of Japan, London: Ackermann.というのがあやしい。アマゾンでぐぐってみると、『日本風俗図誌』(丸善雄松堂 、1980年)というのがあります。どうやらこれのようですね。
 でも、近くの図書館にはないようだし、このためにわざわざ買うのも悔しい。ということで、ネット上で探してみると……あった!え、英語ですけど。

 ・同志社大学 貴重書デジタルアーカイブ Illustrations of Japan

 目次(14ページ)を見てみると、第二章に「土砂という粉と、その発明者・弘法大師に関する報告」という節と、「土砂という粉の報告への注」という節があります!!

 それによると、1783年に一人のオランダ人が出島で亡くなりました。ティチングは土砂の効果を確かめようと、その遺体を冷たい外気に一晩さらして死後硬直を起こさせました。翌日、一人の日本人が土砂を持ってきて、両耳、鼻腔、口にそれを注ぐと、20分ほどで遺体は柔らかくなったそうです。
 ティチングは、それが土砂の効果によるのか、それとも見抜けなかったけれども何らかのトリックが使われたのか、わからないと言っております。
 万能薬としても用いられていた土砂にティチングは興味を持ち、あちこちで買い集めて、帰国の際に持ち帰ったそうです。
 しかしこの後ティチングは、土砂のことは忘れたかのように、土砂の発見者とされる弘法大師の生涯や思想に話を移してしまいます。

 そのあと編集者による注がついていて、フランス人のシャルパンティエ・コシニィ(charpentier-cossingny)が1799年に出版した「ベンガル旅行」のなかで、土砂について触れているそうです。
 コシニィはティチングから土砂の一部を貰い受け、様々な科学的分析を試みた後、死後硬直に対する効果を実験してみましたが、思うような結果は得られなかったと書いてあります。

 う〜ん、ということは、やっぱりお土砂はインチキだったのか?とはいえ、日本で昔から信じられ、広く使われていた「魔法の粉」だったのでしょう。ただ、歌舞伎の「松竹梅湯島掛額」が作られた安政3年(1856)には、ドタバタ劇の小道具として使われたくらいですから、幕末の江戸庶民にはもはや迷信と受け止められていたのでしょう。

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2016/02/16

【自由研究】つげ義春と会津西山温泉「中の湯」

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 ぽん太は先日、かつてつげ義春が泊まった宿、会津西山温泉の中の湯に行って来ました。その時の感想は既にブログにアップしましたが、会津西山温泉、中の湯とつげ義春との関係については宿題となっていたので、こんかいご報告申し上げます。

 ぽん太が調査したところ、会津西山温泉と中の湯に関連するつげ義春の作品は、以下の8点です。

 まずは代表作、「桃源行」のイラスト3枚。
 「桃源行」は、つげ義春のイラストに、詩人の正津勉(しょうづ べん)が詩を添えたもので、初出は1977年(昭和52年)、雑誌『ポエム』に連載。
 右のリンクの『つげ義春とぼく』(新潮文庫)などに入ってます。
 三つのイラストを[I-1][I-2][I-3]とします。画像は著作権があるのでアップできません。本を買うか、ぐぐってみてね。

 [I-1]木造2階建ての古めかしい温泉宿を描いたもの。壁に「中の湯」と書いてあります。木造の古めかしい建物で、空けられた障子から、浴衣を着てくつろぐ宿泊客が見えます。割烹着を着た宿の従業員もおり、玄関から勢いよくツバメが飛び立っています。

 [I-2]浴室を描いたもの。木造の浴室の、奥と手前に二つの湯船があり、手前の湯船にはおかっぱ頭の女性が腰掛けてます。

 [I-3]女の子がいる集落の風景。

 つぎは「颯爽旅日記」(さっそうたびにっき)(初出:つげ義春『つげ義春とぼく』晶文社、1977年(昭和52年))。
 これも『つげ義春とぼく』に収録されてます。
 つげ義春の旅の日記で、「会津 新潟 群馬」という節で西山温泉に触れています。これを[S-1]とします。引用すると……

 [S-1]「このメモはわりあい新しいもので、雑誌『ポエム』に連載した「桃源行」の一回目の取材に出たときのもの。
 ……中略……
 六月十六……会津若松からすぐ只見線に乗換え柳津下車。そばを食べ、タクシーで西山温泉へ。途中、八木沢集落を写真にとる。そこから歩いて一・五kmで温泉に。前に来たことのある中ノ湯に泊る。新館の立派なのができてしまったが、旧館に泊めてもらう。旧館の素朴な造りに正津さんは喜んでいた。」

 つまり、この取材旅行をもとにして、「桃源行」の3つのイラストが生まれたことになります。

 おつぎは『つげ義春の温泉』(初出:カタログハウス、2003年(平成15年))に載っている写真3枚。[P-1][P-2][P-3]とします。あとがきに、未発表の写真と書いてあるので、これが初出です。

 [P-1]「昭和46年5月」と日付が入れられた、温泉宿の玄関の内側と思われる写真。向かって右に階段があり、左には女性と男の子が座っている。

 [P-2]「昭和51年6月」の日付。手前に川が流れ、対岸に林を背景に、二階建ての建物が見える。

 [P-3]「昭和51年6月」の日付。温泉宿の部屋に浴衣を着た男性が座っている。

最後は『新版 貧困旅行記』(新潮社、1995年、新潮文庫)にある写真。もともとの晶文社の『貧困旅行記』(1991年)には存在せず、新版で初めて収録されたもの。
 ぽん太はあいにくこの本を持ち合わせてないのですが、手元にある「芸術新潮」新潮社、2014年1月号に同じ写真が載ってます。

 [P-4]「福島県柳津西山温泉付近」お面をつけた少女のいる集落。1971年(昭和46年)5月撮影。

 会津西山温泉、中の湯に関するつげ作品は、ぽん太の調べた限り、イラスト3点、文章1つ、写真4点の、計8点です。

 さて、分析を開始しましょう。

Img_8522 中の湯」の壁には、左の新聞記事が掲示してありました。笠井尚という人の「西山温泉 つげ義春 ふくしまのいで湯と作家たち」というエッセイで、2006年10月18日の福島民友です。
 つげについて書かれている部分を書き出してみます。

 つげは、柳津町の西山温泉「中の湯」に、三度ばかり訪れている。「颯爽旅日記」では二度目であった。
 ……中略……
 「中の湯」の原忠社長と妻の延子さんは、一風変わった泊まり客だったこともあり、毎回、二泊程度しか滞在しなかったが、つげのことは印象に残ったという。
 まず口数が少なく、こちらから話しかけなければ、口をひらくことがなかった。
 ぽつんと独りっ切りで、物思いに耽っているという感じだった。一番ビックリしたのは、テーブルの前にでんと坐っているのではなく、片隅の方に隠れるようにしていたことだ。
 何の商売をしている人間かも分からず、後になって売れっ子の漫画家だと聞かされたとか。
 ……中略……
 つげが、もっとも気に入ってたのは、湯殿であったようだ。原社長によると、豪雪でつぶれてしまったので、にわかづくりでこしらえたのだ。
 それでも、コンクリートの浴槽が二つあって、水でうするめるたのホースがすぐ近くにあった。

 う〜ん、いいですね。部屋の片隅に坐ってじ〜っとたたずむつげさんの様子が頭に浮かんできます。

 で、ここから、つげ義春が中の湯に3回宿泊したこと、2回目が「颯爽旅日記」の取材であったことがわかります。[S-1]の日付が正しいとすると、昭和51年6月16日に、正津勉氏と二人で一泊したことになります。
 さらに[S-1]によれば、このとき新館ができていたけど、旧館の方に泊めてもらったということです。新館はこの前ぽん太が泊まった建物だと思いますが、旧館を壊して建て替えたのではなく、旧館は新館と別の所にあったことになります。
 こちらのつげ義春の旅を行く2「西山温泉」というサイトでは、新館を出て右手にある建物の場所に、かつて旧館があったことを、宿の人に確認しているようです。
 ちなみに中の湯の新館がいつ建てられたのかは、ちょっと調べがつきませんでした。

 ということでイラスト[I-1]は、昭和51年6月16日時点での、中の湯の旧館を描いたものですね。ツバメの季節感も6月ということで合致します。

 そしてイラスト[I-2]は、新聞記事の記載通りコンクリートの浴槽が二つあるので、中の湯の温泉です。これが現在の離れのお風呂の位置にあったことも、上のサイトの人が確認しています。

 さてイラスト[I-3]ですが、場所はいったいどこでしょう……。
 実はこれも上のブログですでに調べがついております。ブログにその場所の写真が出ていますが、具体的にどこかわかりません。
 どうやら西山温泉から柳津駅へ向かう道のどこからしいので、ぽん太がグーグル・ストリートビューを眺め続けること30分、ようやく見つけました!この風景ですね。

 グーグル・マップでは下記の場所です。ここから北側を見たのが上のストリートビューです。

 住所でいうと、福島県河沼郡柳津町大字郷戸で、字居平丁か字岩下丁のどちらかか?

 ところで、図柄がほとんど一致していることから、イラスト[I-3]は写真[P-4]を元に描いたと思われます。しかし[P-4]の日付は、取材旅行をした昭和51年より5年前の昭和46年(1971年)5月。
 上の新聞記事には、つげ義春は中の湯に3回泊まったと書いてあります。2回目が昭和51年6月16日であることはすでに明らかにしたので、1回目の宿泊が昭和46年5月だったということでしょうか。
 じっさい『つげ義春漫画術 下巻』(つげ義春・権藤晋著、ワイズ出版、1993年)に収録された、つげ義春の年譜を見てみると、1971年(昭和46年)5月に「会津・檜枝岐へ」と書かれています。これが第1回目の中の湯宿泊で確定ですね。
 ちなみに1976年(昭和51年)には「ポエムの取材で会津へ」と書かれており、これが2回目の中の湯泊です。
 では3回目はいつだろうかと年譜をチェックしてみましたが、残念ながらそれらしい記載は見つかりませんでした。

 というわけで、話しを元に戻すと、第2回目の中の湯宿泊のあとに描いた「桃源行」の3枚のイラストのうち[I-3]だけは、5年前の第一回目の中の湯宿泊のおりに撮った写真[P-4]を元に描いたことになります。
 「颯爽旅日記」によれば、つげと正津はタクシーで西山温泉に向かいましたが、途中の八木沢集落で車を降りて写真を撮り、そこから中の湯まで歩いていきました。おそらくつげは八木沢で思うような風景に出会えず、以前に撮ったお面の女の子が写っている写真が気になってきて、そちらをイラストに採用したのでしょう。
 それとも単につげ義春が写真の日付を間違えたという可能性は……ありませんよね。

 続いて写真[P-1]。日付が昭和46年5月ですから、最初に中の湯に泊まった時に撮ったものですね。温泉宿の玄関の中の写真と思われます。どこの旅館でしょう?
 ふ、ふ、ふ、イラスト[I-1]に描かれた中の湯旧館の、玄関部分をよく見て下さい。向かって右に急な階段があり、写真[P-1]と同じです。ということでこの写真は、中の湯の旧館に決定!
 
 お次ぎは写真[P-2]。西山温泉の風景と思われます。川があって、対岸の遠くに二階建ての建物が見えます。中の湯の旧館の可能性が高いと思われますが、昭和51年6月だと新館ができていたはずですが見当たりません。木の後ろに建物が隠れているようにも見ます。
 最近の写真(例えばこちらの冒頭の写真)と比べると、川と建物の距離が遠い気がすます。しかし、中の湯でないとすると滝の湯になりますが、滝の湯だとこちらの一番下の写真にあるように、建物が川からかなり高い位置にあるし、川が左へカーブした感じになります。写真[P-2]を良く見ると、川の水が奥から手前に向かって流れいるようなので、やはり中の湯と考えていいでしょう。川筋が少し変わったのかもしれません。赤い橋もできてますし。

 最後に写真[P-3]。昭和51年6月ということで、中の湯に2度目に泊まったときの写真ですね。人物はもちろんつげさん。口にくわえた煙草にライターで火をつけようとしているようです。畳の上にお膳が二つあります。外が明るいので朝食でしょうか。向かいの席には正津勉がいたはずで、彼が席を立ってこの写真を撮ったのでしょう。

 以上でぽん太の分析は終了です。


 まとめます。

 会津西山温泉と中の湯に関連するつげ義春の作品は下記の8点。

 つげ義春、正津勉「桃源行」(初出:1977年(昭和52年)、雑誌「ポエム」に連載)
 [I-1] イラスト。中の湯の旧館。
 [I-2] イラスト。中の湯の浴室。
 [I-3] イラスト。只見線滝谷駅近くの集落。

 つげ義春「颯爽旅日記」(初出:つげ義春『つげ義春とぼく』晶文社、1977年(昭和52年))
 [S-1] 文章。「桃源行」の取材で、正津勉とともに中の湯に泊まった時の記録。

 つげ義春『つげ義春の温泉』カタログハウス、2003年(平成15年)
 [P-1] 写真。昭和46年5月。中の湯の玄関の内側。
 [P-2] 写真。昭和51年6月。中の湯の遠望。
 [P-3] 写真。昭和51年6月。中の湯の客室にいるつげ義春。

 つげ義春『新版 貧困旅行記』新潮社、1995年(平成7年)、新潮文庫。
 [P-4] 写真。只見線滝谷駅近くの集落で撮った、お面をつけた少女のいる風景。1971年(昭和46年)5月撮影。

 つげ義春が会津西山温泉中の湯に宿泊したのは3回。1回目は1971年(昭和46年)5月、2回目は1976年(昭和51年)6月16日、3回目の時期は不明。
 1回目の宿泊時、中の湯の玄関内の写真[P-1]が撮影された。また、途中の集落でお面の女の子がいる写真[P-4]を撮影した。
 2回目は、雑誌『ポエム』の連載の取材で、詩人の正津勉氏との二人旅だった。この旅の様子が「颯爽旅日記」に記載されている[S-1]。この時撮った写真が[P-2]と[P-3]。
 そしてこの取材旅行から「桃源行」のイラスト2枚[I-1]と[I-2]が描かれた。また、1回目の宿泊時に撮影した写真[P-4]を元にしたイラスト[I-3]も加えられた。

 以上で〜す♡

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2015/03/29

【医は算術】一般の寄附を行っている個人事業者の、ふるさと納税の限度額は?

 ぽん太の「医は算術」シリーズ、今回が2回目です……たぶん。
 ふるさと納税。話題になってますね。なんでもたった2,000円の負担で、魚やら野菜やらふるさとの名産品やら温泉宿泊券がもらえるという制度だそうです(なんか間違って理解してる気がします)。
 細かい部分が難しそうですが、物は試しと、昨年山陰のどこにあるかもわからない某自治体に寄附をし、見事ズワイガニをゲットしました。美味しかったです。でも、いくら節税になったのか、よくわかりませんでした。
 そして気になるのは限度額。得をするためには納税額に限度があるらしく、それを超えると節税のメリットがなくなるそうです。しかし計算はなんだか難しそうで、ちまたに早見表のようなものもあふれてますが、「何人家族の月収いくら」というサラリーマン向けのものばかりで、ぽん太のような個人事業の場合の限度がよくわかりません。

 そこでググってみたところ、個人事業の場合に限度額を知ることができるサイトがありました。こちらの小西公認会計士事務所さまのサイトです。これを参考にしながら考えて、計算してみました。

 ♪ピンポ〜ン。以下の記述は、会計のかの字もしらないタヌキのぽん太がネットの情報を参考に考えたものですので、ぜんぜん違っている可能性もあるのでご注意を。うっかり信じ込んであなたが大損しても、ぽん太は責任を取りません。ネットは使用上の注意を守って正しく利用しましょう。

 ふるさと納税による控除の概要は、こちらの総務省のサイトのpdfファイルにも書いてあります。

都道府県・市区町村に対する寄附金(ふるさと納税)のうち2千円を超える部分については、一定の上限まで、原則として次のとおり所得税・個人住民税から全額控除される。
① 所得税・・・(寄附金-2千円)を所得控除(所得控除額×所得税率(0~40%(※))が軽減)
② 個人住民税(基本分)・・・(寄附金-2千円)×10%を税額控除
③ 個人住民税(特例分)・・・(寄附金-2千円)×(100%-10%(基本分)-所得税率(0~40%(※)))
→ ①、②により控除できなかった寄附金額を、③により全額控除(所得割額の1割を限度)
(※) 平成26年度から平成50年度については、復興特別所得税を加算した率とする。
 タヌキにもわかる言葉で書くと、ふるさと納税額のうち2千円は、お通し代だと思ってさしあげる。残りの(寄付金ー2千円)に関して、まず①の所得税は、(寄付金ー2千円)に収入などに応じた所得税率をかけた分だけ税金が安くなる。さらに②で、(寄付金ー2千円)の10%が安くなる。③はなんか複雑だけど、要するに(寄付金ー2千円)から①と②を引いた残りの分だけすべて税金が安くなる。
 ということは、①と②と③をあわせれば、(寄付金ー2千円)が全額税金から引かれるということではないか!わはははは、やったぜ!

 ところが、ここで注意すべきことは、上になにげに書かれている③が「所得割額の1割を限度」という言葉。これがふるさと納税額のリミッターになっているわけですね。
 ということで限度額を知るには、

(寄附金-2千円)×(100%-10%(基本分)-所得税率(0~40%))
  =住民税(所得割額)×10%

という方程式を解いていけばいいわけで、小西公認会計士事務所さまの計算によると、

Photo

となります。課税所得金額は、個人事業者なら確定申告書を見るとわかりますから、それから計算すると、ふむ、ふむ、ふむ、なるほどね……。額は秘密だよ。

 ところがぽん太の場合、自慢じゃないけど、福祉団体などに一般の寄附をしているのでさらに話しが複雑です(ほめて、ほめて)。一般の寄付金による控除に関しては、総務省のサイトに「ふるさと納税以外の寄附金税制」というページ(こちら)があります。
 これをじっと見つめてタヌキにも分かるように大雑把に言えば、要するにふるさと納税の①と②だけ。ただし②の「10%」という率が、どこが指定した寄付金控除かによって6%になったり4%になったりする。それから②の「寄付金」は「総所得金額等の30%を限度」と書いてるけど、もちろんぽん太はそんなに高額の寄附はしていないので関係なし。
 ここで大切なのは、③のリミッターはふるさと納税だけに関するものであり、一般の寄付金額がふるさと納税の限度額に影響を及ぼすことがない、というところ。

 ということで、結論としては、一般の寄付金による所得控除も含めて計算した課税所得金額から、小西公認会計士事務所さんの算出した表で限度額を計算し、用心のためにそれよりやや少ない額をふるさと納税すればいいようです。

 ふふふ、今年は何をもらおうかな?

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2015/01/17

【tips】YAMAPのGPSデータをMacでヤマレコに取り込む方法

【注意】最近もこの記事を読む方がいるようですが、現在はこんな面倒なことをしなくても、YAMAPから書き出したGPSデータを、ヤマレコでそのまま読み込むことができます(2016年1月28日付記)。

 ヤマレコ(http://www.yamareco.com)は、登山データを管理するのにとっても便利なサイトで、ぽん太も以前から使わせて頂いております。
 そして最近の注目株がYAMAP(https://yamap.co.jp/)。スマホにアプリをダウンロードすると、スマホがGPSがわりになるという優れもの。登山マップもなんと「無料」でダウンロードできます。登山用のGPSを買ったら安くも数万円。もちろん機能や精度ではかないませんが、別にぽん太はGPSを頼りに道なき道を進むわけではなく、遊び半分でルートを記録したいだけですから、YAMAPで十分です。
 ただ、YAMAPの問題点は、せっかくできたルート図を、ブログに埋め込むことができないところ。そのうち改善されるかもしれませんが、ぽん太にはちと不満です。
 そこでYAMAPのGPSデータを、ヤマレコに取り込めば、ということになるのですが、うまくいきません。ぐぐってみると、いったんカシミールを経由するとうまくいくなどと書いてるのですが、悲しいかな、Macではカシミールが使えません。
 そこでYAMAPのGPSデータと、ヤマレコのGPSデータをじっと見比べた結果、YAMAPのデータを簡単にヤマレコに取り込む方法を発見したので、ご報告申し上げます。
 なお、ぽん太のMacは0S10.7.5です。

 まず、YAMAPのデータを、「軌跡データをダウンロード」というボタンを押してMacにダウンロード。するとなぜだかtxtファイルとなってしまい、「YAMAP_2015-1-1-1.gpx.txt」みたいなファイル名になります。(別の拡張子になった場合は、拡張子を.txtに変更すればいいと思います。)これを「テキストエディット」のアプリケーションで開きます。

 次いで、ヤマレコの自分の過去の記録の中から適当なものを開き、「マップ機能」の「GPXファイルをダウンロード」を選択してGPSデータをダウンロードします。これは「track-111111.gpx」といった名前のファイルとなります。拡張子はgpxですが、なぜかこれもテキストエディットで開くことができます。
 これを「入れ物」にして、YAMAPのデータを放り込むわけです。

 さて、テキストエディットで開いたYAMAPのデータをじっと見つめ、<trkseg>ではじまり</trkseg>で終わるまでのところをコピーします。スタートは数行目、終わりは最後から数番目のタグですかね。これがおそらくGPSデータと思われます。

 それを、テキストエディットで開いたヤマレコのデータの、<trkseg>ではじまり</trkseg>で終わるまでの部分にペーストして置き換えてしまいます。

 これを保存して偽装データが完成!ヤマレコの「山行記録の作成」の「3ルート作成」のところで、「GPSログを登録」のボタンをクリック。「ログファイルの形式」は「GPS」、「ログ種別」は「GPSログ」をそれぞれ選択し、「ファイル選択(最大10MB)」で、内部を入れ替えたヤマレコのデータ(いまの例だと「track-111111.gpx」かな?)を選択して、「登録」を押すと、YAMAPのデータがうまくヤマレコに取り込まれると思います。

 簡単なので、ぜひお試し下さい。ただし自己責任で。
 早くヤマレコでも、YAMAPのようなGPSアプリが出るといいですね。

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2014/12/15

【雑学】ツキノワグマは(自然界で)共食いするのか本で調べてみた【拾い読み】

P9190308←クマの共食い(?)シーン。グロ注意。

 今年の夏に黒部でクマに遭遇したぽん太は(そのときの記事はhttp://ponta.moe-nifty.com/blog/2014/10/4-1b46.html)、二つの疑問を抱いたのでした。すなわち(1)ツキノワグマは共食いするのか、(2)ツキノワグマは草食のくせに、なぜ無駄に力が強いのか、です。この謎を解明すべく、『山でクマに会う方法』(米田一彦著、山と渓谷社、2011年)を読んでみましたが(そのときの記事はこちら)、まだ十分には納得できませんでした。
 そうこうしているうちに、熊本県「阿蘇カドリー・ドミニオン」でクマの共食い事件が起きたというニュースが飛び込んできました(ライブドア・ニュース)。今年の11月23日、ヒマラヤグマの檻の中で、一頭のクマに6〜7頭のクマが折り重なるように襲いかかり、共食いをしたとのこと。
 ニュースの写真を見ると、首のところに白い三日月型の斑紋が見えます。調べてみると、ヒマラヤグマ(ヒマラヤツキノワグマ:Ursus thibetanus thibetanus)は、ニホンツキノワグマ(Ursus thibetanus japonicus)と同じく、アジアクロクマ(Ursus thibetanus)という種に含まれる仲間のようです。
 ということで、(ニホン)ツキノワグマの共食いも大いにありそうですが、ただ今回の事件は動物園での出来事。果たして自然界でツキノワグマの共食いがあるかどうかは、はっきりしません。
 そこでぽん太は、ツキノワグマに関する本をさらにいくつか読んで見ました。

 まずは『日本のクマ―ヒグマとツキノワグマの生物学』(坪田敏男他編、東京大学出版会、2011年。日本に棲むに種類のクマ(ヒグマ、ツキノワグマ)について専門家が分担執筆したもので、ちと専門的で読みにくいです。
 進化論的には、中新世にイヌの仲間が大型でがっしりした動物に進化し始め、鮮新世には大きな頭と頑丈な歯を持つ動物が出て来ました。新生代中期から後期には、クマ類が、四肢が短く、獲物を追いかける習性が薄れた食肉類として進化してきました。日本には、草原性に進化したヒグマ、森林性に進化したツキノワグマが分布するようになりました。
 クマは食肉目でありながら、雑食性あるいは草食性に傾いていきました。現存する5種のクマでは、完全肉食性がホッキョクグマ、完全昆虫食性がナマケグマ、完全草食性がジャイアントパンダとメガネグマ、中間的な雑食性がヒグマ、クロクマ、ツキノワグマ、マレーグマとなるそうです。
 しかしクマの消化器官は、いわゆる草食動物のように複数の胃があったり食べ物を反芻したりはせず、胃袋が一つしかなく、草食に適した構造にはなっていません。冬眠からさめた草食性のクマは、草や葉を食べている春から夏はどんどん体重が減っていき、イチゴ類や木の実などを食べるようになって、ようやく体重が増えて来るのだそうです。
 共食いに関しては、この本には書かれておりませんでした。

 次いで、『ツキノワグマ―追われる森の住人』(宮尾嶽雄編著、信濃毎日新聞社、1995年)。ツキノワグマに関する分かりやすい総説。
 体が大きいことの利点について、相対的に体表面積が小さくなるため、体温を保つためのコストが少なく、寒冷気候に対して優位なこと、絶食に対する抵抗力が大きいことが挙げられています。また寿命が長くなることで、親の経験を学ぶ機会が得られるという利点もあるといいます。
 寒さに強いということは、逆にいえばオーバーヒートしやすいということで、真夏に熱そうにしているホッキョクグマの様子はテレビのニュースの定番ですよね。
 長野県筑摩山地でのクマの糞の分析からは、動物性食物の糞も見つけられています。哺乳類と昆虫類があるそうで、哺乳類ではカモシカとノウサギが食べられていたそうです。
 ツキノワグマに食べられたと推定されるカモシカの死骸が見つかっておりますが、生きたまま襲われたとは考えにくく、死亡後に食べられたと推定されるそうです。

 そのほかに、『ツキノワグマ―クマと森の生物学』(大井徹著、東海大学出版会、2009年)や、『ツキノワグマ―滅びゆく森の王者』(岐阜県哺乳動物調査研究会編著、岐阜新聞社、1997年)を読んでみましたが、共食いに関する記載はありませんでした。

 う〜ん、(2)の草食性のくせに体が大きい理由は、進化の過程や、大型動物の利点から、何となくわかってきたけど、(1)の共食いについてはよくわかりません。というか、生きた動物は滅多に襲わないと考えられているようです。するって〜とぽん太が見たのは、たまたま死んでいたクマを、他のクマが食べていたということなのか?そんな偶然ってある?そもそもいくら死んでたからって同じクマの肉を食べるのか。
 謎は謎のまま、もうみちくさがめんどくさくなってきました。クマの件は、ここらで一休みにしたいと思います。
 なお、先日イタリア料理店で熊肉入りのスパゲッティーがあったので、それを食べて、人を脅かしたクマさんに復讐してやりました。

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2014/07/08

【雑学】クラック(crack):ガタリ・バルテュス・リルケ・ブラックウッド

 これまでのみちくさのおさらいです。
 以前の記事「【展覧会】バルテュス展@東京都美術館」でのみちくさ。
 ぽん太が以前に読んだフェリックス・ガタリのバルテュス論が、「街路のなかの亀裂」(Cracks in the street、『分裂分析的地図作成法』所収)というタイトルだったのですが、このCrakという言葉の出所がよくわからないでいたのでした。ところが、その後に読んだ『バルテュス、自身を語る』によると、クラックという言葉は、バルテュスが幼かった時にリルケが語って聞かせたことだということが分かりました。
 その後の記事「【絵画】バルテュス展補遺・クラックとローランス・バタイユ」でのみちくさ。
 「ユリイカ 2014年4月号 特集=バルテュス 20世紀最後の画家」に収録された江澤健一郎の「『裂け目』の画家バルテュス」という論文によると、リルケは「クラック」という言葉をアルジャーノン・ブラックウッドから取って来たそうで、夜中の零時に、今日と明日の間の裂け目(クラック)に滑り込むことによって、時間の外の王国に入ることができるんだそうです。

 で、ぽん太は邦訳されているブラックウッドの小説を何冊か読んでみたのですが、「クラック」の出所は分かりませんでした(小説は面白かったですが)。
 ところが今回、ようやく出典を見つけることができました。ふふふ……。
 それは「The education of Uncle Paul 」(1909年)という小説で、残念ながら邦訳はないようですが、こちらで英語の原文を読むことができます。Read onlineというリンク先の、巻頭辞と、181ページから182ペーじあたり(14章)に出てきます。
 カナダの大自然のなかから20年振りに故郷に戻ったポール叔父さんは、子供のような心を保ったままです。妹の子供たちに促されて、子供たちだけに見えるという、昨日と明日のあいだの亀裂(crack)を通って、もう一つの不思議な世界に入り込みます。ポールはその世界で体験したことを物語に書き、子供たちに読んで聞かせるのでした……。
 詳しい内容は、各自お読み下さい。これを元に「Through the Crack」 (1920)という演劇も作られたようですが、残念ながらぽん太はこちらの脚本を見つけることはできませんでした。

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2014/07/06

【絵画】バルテュス展補遺:クラックとローランス・バタイユ

 いつぞやぽん太がバルテュス展について書いた記事(→こちら)のなかで、リルケが幼いバルテュスに語った「クラック」という言葉がバルテュスのキーワードのひとつであること、そして「ユリイカ 2014年4月号 特集=バルテュス 20世紀最後の画家」に江澤健一郎の「『裂け目』の画家バルテュス」という論文が掲載されていることを書きました。
 手に入れて読んでみたところ、リルケは「クラック」という言葉を、アルジャーノン・ブラックウッドの小説から取って来たそうです。彼の小説の中に、「いつも零時に、終わる日と始まる日の間に微かな裂け目が生じて、非常に巧みな人物はそこにうまく滑り込み、時間の外に出て、われわれが耐え忍ぶいかなる変化とも無縁な王国に入り込むでしょう」と書いてあるんだそうです。
 な〜んだそうだったのか、これで納得……じゃなくて、じぇんじぇんわからんがね。第一アルジャーノン・ブラックウッドって誰じゃーのん。初めて聞いたぞ。「アルジャーノンに花束を」は関係ないよね。
 困った時のWikipedia先生に聞いてみると、アルジャーノン・ブラックウッド(Algernon Henry Blackwood、1869 - 1951年)は、イギリスのホラー・ファンタジー作家とのこと。翻訳もけっこう出てるみたいなので、2〜3冊読んでみよ〜っと。
 ただ、リルケが引用した文章が、どの小説のものなのかがわからんな〜。参考文献には、Rilke, Balthus, Lettre à un jeune peintre, suivi de Mitsou, が上がってますが、フランスのアマゾンで買えるようなので(→こちら)、興味のある方はどうぞ。ぽん太はそこまでみちくさする元気はありません。

 それからもひとつ、バルテュス展に来ていた「猫と裸婦」(1948-50年)や「決して来ない時」(1949年)、「地中海の猫」(1949年)のボートに乗ってる女の子のモデルって、ローランス・バタイユなんですってね。
 ローランス・バタイユ( Laurence Bataille, 1930 - 86年)は、ジョルジュ・バタイユとシルヴィア・バタイユの娘。ジョルジュ・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille, 1897 - 1962年)は、フランスの作家・思想家。昼は真面目な図書館職員、夜になると妖しくエロチックな本を書いていた人ですな。ちなみにこちらのサイトでは、バタイユの代表作『眼球譚』を4コマ漫画で読むことができます(笑)。シルヴィア・バタイユ(Sylvia Bataille, 1908 - 1993年)はフランスの女優。代表作はジャン・ルノワール監督の「ピクニック」(1936年)でしょうか。
 普通はこのくらいまででしょうが、精神科医のぽん太はさらに書かなければならないことがあります。というのも、シルヴィア・バタイユは1938年頃から精神分析家ジャック・ラカンとダブル不倫状態となり、1941年に二人の間に娘が生まれます。この娘がジュディット(Judith)で、のちにジャック=アラン・ミレールと結婚し、ジュディット・ミレールとなるわけですな。ちなみにぽん太は昔、京都のシンポジウムで見たような気がしますが、いかにも気位の高い箱入りお嬢さんという感じでした。
 で、シルヴィアとラカンは1953年に正式に結婚しましたから、ローランス・バタイユは連れ子でラカンの娘となったわけです。ラカンの影響か、彼女もやがてラカン派の精神分析家になりました。
 彼女は16歳の頃からバルテュスの絵のモデルになったそうです。愛人であったという説もあるようですが、いまのところ真偽不明。その後、演劇の世界に入り、共産党に入党。アルジェリア独立運動に参加しましたが、1960年に逮捕され、6ヶ月間刑務所に入れられたそうです。ラカンは娘が政治に関わっていることを誇らしげに感じていたようです。物理学者アンドレ・バッシュ(Andrè Basch)と結婚して娘をもうけたそうです。興味がある方は、彼女の著書『夢のへそ』をフランスのアマゾンで購入できます(→こちら)。
 また、岩波書店の『 フロイト全集 第13巻』に挟み込まれている月報15に、向井雅明の「ローランス・バタイユの想い出に捧ぐ」という文章があります。
 

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2014/06/29

【歴史散歩】四谷駅から最高裁にかけて(尾張藩中屋敷・金鱗堂・岩城枡屋・高野長英大観堂・渡辺華山生誕地)

 いつぞやのことですが、国立劇場に行くおり、江戸時代スポットを訪ねながら四谷駅から歩いてみました。参考にしたのは「江戸散歩・東京散歩 改訂版―切り絵図・古地図で楽しむ、最新東京地図で歩く100の町と道」(成美堂出版、2008年)です。江戸切絵図と現在の地図が見開きになっていて、さまざまな史跡の解説が掲載されています。なかなか楽しい本ですが、地図上の史跡の位置が微妙にずれてたりするのでご注意を。

20140223_133849  まずは四谷駅を出て新宿通りを東に向かいます。新宿通りは、昔の甲州街道ですね。さて、まずはご存知上智大学です(地図の赤印)。ここは、徳川御三家のひとつ、尾張藩の中屋敷があったところです。「中屋敷」という言葉は皆さんご存知ですかね。江戸藩邸は普通は複数あって、距離や用途によって上屋敷・中屋敷・下屋敷などと呼ばれておりました。複数あれば火事になってもどれかは残る、といった火事対策の意味もあったようです。詳しくはWikpediaを御覧下さい。ちなみに尾張藩の上屋敷は現在の市ヶ谷の防衛省、下屋敷は新宿区の戸山公園の周辺でした。
20140511_153055 このあたり(地図の青印)が、切絵図の版元・金鱗堂があったところです。錦絵の版元でもあったため、5色を使った美しい地図で、人気が高かったそうです。
20140511_153055(地図の黄印)呉服店の大店、岩城桝屋があったところです。岩城枡屋は呉服屋の大店のひとつ。延宝5年(1677年)創業で、間口が50メートル、奉公人が200人以上いたそうです。
20140511_153118 (緑印)このあたりが高野長英の屋敷があったところです。
20140511_153055 白いビルの外壁にパネルがはまっていて、「麹町貝坂 高野長英 大觀堂學塾跡」と書かれています。
 ぽん太は高野長英に関しては、以前にみちくさしたことがあります(→こちら)。おさらいしますと、高野長英は文政11年(1828年)のシーボルト事件をきっかけに長崎を去りました。江戸に戻った長英は天保元年(1829年)に麹町貝坂に家を借り、医者をしつつ、大観堂塾を開塾しました。天保8年(1837)年には近くの家屋を購入して移転。翌年火事で類焼したものの、ただちに再建したそうです。
 こんかい訪れた場所が、最初の借家の方なのか、あとの買った家の方なのか、ぽん太にはちと判断がつきません。「貝坂」というの前者でしょうか?
20140511_154215 さて、最後は渡辺華山生誕の地です(オレンジ印)。写真は最高裁判所の南東の角、三宅坂交差点のところです。彫刻の後ろ側の植え込みの一角に立て看板が立ってます。
20140511_154145 ピンボケで読みにくーて申し訳ありませんが、ここに三河田原藩の上屋敷がかつてあって、渡辺家は藩士の息子として、寛政5年(1793年)に上屋敷内の長屋で生まれたそうです。また、天保10年(1839年)の蛮社の獄によって田原に蟄居を命じられるまで、ここに住んでいたと書いてあります。
 だけど、華山は天保3年(1832年)から田原藩の家老職に就き、様々な藩政改革に取り組んだはず。ということは、家老の仕事を、江戸屋敷でやってたのか。へ〜そういうもんなんだ。

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2014/04/09

【歌舞伎自由研究】弁天小僧菊之助ゆかりの地@江ノ島

 ぽん太とにゃん子は2月中旬、登録有形文化財のローマ風呂がある岩本楼に泊まって、江ノ島を観光してきました。江ノ島といえば超有名な観光地。江ノ島を紹介したブログは浜辺の砂の数ほどあるでしょうから、ぽん太は、歌舞伎の弁天小僧菊之助の名セリフに出てくるところを選んでご紹介することにしましょう。
 弁天小僧菊之助は、河竹黙阿弥作の歌舞伎「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)、通称「白浪五人男」(しらなみごにんおとこ)の登場人物です。「浜松屋店先の場」で弁天小僧は、武家娘に化けてゆすりを働きますが、悪事が露見して正体を明かすときのセリフが歌舞伎の名台詞として有名で、黙阿弥一流の七五調が耳に心地よく響きます。

知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!

 このセリフの解説は、あちこちにあるので、どうぞ参照して下さい。
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/610024.html
http://srnm5men.seesaa.net/article/8797488.html
http://hanautakurabu.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/1-f7fc.html
 また、これから解説する地名が江ノ島のどこにあるかは、例えば、藤沢市観光協会のサイトにある江ノ島イラストマップをご覧下さい。
http://www.fujisawa-kanko.jp/pamph/eno2010.pdf
Img_8045 まずは「七里ヶ浜」です。江ノ島から見た写真ですが、江ノ島の付け根から東に伸びる砂浜です。正確には付け根よりやや東にある小動岬から稲村ケ崎までを指すようです。
Img_8138 「稚児ヶ淵」です。江ノ島の一番奥、江ノ島岩屋へと下る手前の崖の上から見下ろすことができます。
 名前の由来ですが、たとえばこちらのサイトにあるように、鎌倉の建長寺広徳院の自休蔵主という僧侶が、江ノ島で出合った鶴岡相承院の稚児・白菊に恋をしてしまいました。自休の一方的なアタックに白菊はにっちもさっちも行かなくなり、江ノ島の断崖絶壁から身を投げました。それを知った自休は、白菊の後を追って身を投げたそうです。
 写真ではわかりませんが、打ち寄せる波が岩にぶつかって複雑な流れが生じ、身を投げるには良い場所のようです。
 ちなみにこの自休・白菊をモデルにした歌舞伎が、鶴屋南北による「桜姫東文章」(さくらひめあずまぶんしょう)で、僧清玄が稚児白菊丸と心中をはかる発端は、「江の島稚児が淵の場」となっております。
Img_8056 「上の宮」です。江ノ島神社には辺津宮(へつのみや)、中津宮(なかつのみや)、奥津宮(おくつのみや)という三つの宮がありますが、このうち中津宮が「上の宮」です。
Img_8050 境内には歌舞伎に関連するアイテムがいっぱい見受けられます。写真は、当代菊之助お手植えのしだれ梅。平成11年(1999年)の「江の島大歌舞伎」の折りに菊之助が植えたものだそうです。
Img_8052 これが、その時の菊五郎と菊之助の手形です。
Img_8054 こちらは「菊五郎のしだれ桜」。昭和60年(1985年)に当代の尾上菊五によって植えられたものだそうで、江戸時代の天明2年(1782年)に中村座が石灯籠を寄進して200年を記念して植樹したものだそうです。
Img_8046 で、こちらがその200年前の中村座寄進の石灯籠でしょうか?
Img_8048 角度を変えてみると、確かに天明2年と書かれています。 Wikipediaによると、この時期の中村座は堺町(現在の日本橋人形町3丁目)にあったようです。近くには、歌舞伎の市村座のほか、多くの人形浄瑠璃の小屋などもあって、演劇の待ちとして賑わっていたようです。天保12年(1841年)に中村座からの出火により市村座ともに焼失し、天保の改革によって浅草聖天町へ移転させられました。
Img_8047 別の角度です。名前が書いてありますが、よくわかりません。
Img_8049 別の角度です。名前が書いてありますが、よくわかりません。
Img_8056 市村座と書いている灯籠もありました。同じ頃に市村座が寄進したものでしょうか?
Img_8029 「岩本院」は、現在は岩本楼という旅館になっております。詳しくは、ぽん太がここに泊まったときの記事(こちら)を参照してください。
Img_8037 「弁天小僧」の名前の由来は、「江ノ島弁財天」です。現在の江の島には「江島神社」があり、多紀理比賣命、市寸島比賣命、田寸津比賣命といった神様が祀られてますが、明治時代の神仏分離によって神社になる以前は、弁財天の信仰が盛んでした。江ノ島弁財天は、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺、安芸の宮島の大願寺とともに、三大弁財天に挙げられておりました。
 写真の奉安殿のなかには、八臂弁財天と妙音弁財天という二つの弁財天が祀られております。江ノ島の信仰の歴史を示すものですが、拝観料がかかるせいか(150円ですが)、多くの観光客が素通りしていたのが残念です。
 弁財天というときれいなお姉さんが琵琶を弾いている姿を思い浮かべますが、「八臂弁財天」は、その名の通り八本の腕を持ち、密教的なおどろおどろしさが感じられます。江島神社の公式サイトによれば(こちら)、源頼朝が奥州藤原氏を調伏祈願のために文覚証人に造らせたものだそうです。Wikipediaによれば、弁財天の八臂の姿は『金光明最勝王経』に基づくものだそうで、鎮護国家の戦神としての姿だそうです。
 奉安殿のもう一つの弁財天である「妙音弁財天」は、なんとも艶かしい全裸のお姿で、琵琶を弾いておられます。時代もやや下るそうです。同じ神様が、このように対照的な像として表現されるということは、とても興味深いですね。「妙音」というのは琵琶の妙なる音色を思わせますが、実は『法華経』の妙音菩薩との同一視によるのだそうですが、これ以上は難しくてよくわかりません。
 岩本楼のロビーにも、室町時代末期の作とされる八臂弁財天が祀られてましたが、なかなか見事でした。

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2013/10/09

【歴史散歩】上田市丸子の木曽義仲ゆかりの地など

Img_5952 今年の8月のことですが、信州は上田市の丸子付近を走っていたぽん太の目に飛び込んで来たのは、「木曽義仲挙兵の地」の看板。え!?義仲が挙兵した所って……木曽じゃないの?
 確か木曽の宮ノ越に旗挙八幡宮(はたあげはちまんぐう)というものがあったはず(さわやか信州旅.net)。ここが挙兵の地だとぽん太は思ってました。よくわかりませんが、とりあえず観光、観光。
Img_5956 まずは「正海清水」です。田んぼのなかの一角で、現在は清水は湧き出ておりませんが、なんとなくじくじくしております。
Img_5955 こちらが案内板。
Img_5958 こちらは「高築地館跡」。
Img_5959 案内板によると、平家討伐のため義仲をこの地に招いた豪族・依田次郎実信の居館跡と伝えられているそうです。
Img_5961 「小鍋立の湯跡」です。消えかけた案内板によると、以前にはここに鉱泉宿があったのだそうです。
Img_5962 いまでも濁った水がたまってます。
Img_5964 その隣りにある「黒地蔵」。いわれはよくわかりません。
 なんか、あまり、義仲との関連性が明らかではありませんが、こちらの上田市役所のサイトをみると、ほかにも木曽義仲ゆかりの地は多数あるようです。
 で、義仲が旗揚げをしたのはどこだったのかという疑問ですが、Wikipediaには、「義仲は…小県郡依田城にて挙兵する」と書かれており、やはり丸子が旗揚げの地のようですが、いまだ議論があるようです。

Img_5950 さて、木曽義仲とは関係ありませんが、そのほか訪れたところのご紹介です。こちらは「法住寺虚空蔵堂」。国指定の重要文化財ですが、残念ながら修復中で見学できませんでした。
Img_5965 こちらは生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)です。公式サイトはこちらです。
 御祭神は、生島大神 (いくしまのおおかみ)と足島大神 (たるしまのおおかみ)ですが、これらの神様についてはぽん太はよく知りません。ぐぐってみても、あまり詳しい情報がないようです。今後のみちくさの課題にしたいと思います。
Img_5968 こちらは境内にある歌舞伎舞台。江戸〜明治期に造られたものだそうです。
Img_5970 舞台の下の回り舞台の装置。
Img_5967 歌舞伎舞台の内部には、古文書が展示されておりました。なかでも「武田信玄願文」は、武田信玄が上杉謙信との戦いの勝利を祈願したもので、信玄の自筆と言われており、国の重要文化財に指定されております。

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