カテゴリー「書籍・雑誌」の2件の記事

カトリーヌ・クレマン『フロイト伝』雑感

 『ジャック・ラカンの生涯と伝説』を書いたクレマンの『フロイト伝』の邦訳が出たということで、買って読んでみました。
 フロイトの伝記は、アーネスト・ジョーンズやピーター・ゲイなど既にいろいろ出てますが、これまで通読したことはありませんでした。クレマンの本は手軽なので一気に読むことができ、いろいろと勉強になりました。
 例えばフロイトとブリットの共著で『トーマス=ウッドロー・ウィルソン』という本があって、そこでアメリカ大統領ウィルソンが痛烈に批判されていることなど、ぽん太はまったく知りませんでした。もちろん1967年に出版されたこの本は、フロイトがどこまで関与しているかという問題があるようです。
 しかしこの『フロイト伝』には、取り上げられているエピソードの出典がまったく書かれていないので、事実確認に苦労します。たとえばフロイトがノーベル賞を夢見ていたと書いてあるので([1]p.185)、へ〜、ホンマかいな、と調べてみると、フロイトの1929年10月31日の日記に「ノーベル賞見送られる」と書いてあるのがみつかったりします([2]p.2)。こんなのばかりで、いちいち調べるのが大変ですが、フロイト検定を受験する人には(もしあればの話しですが)恰好の問題集でありましょう。
 さらに間違いもあるようです。ブロイアーがアンナ・Oの治療後に授かったとされる娘に関して、「その後夫との間に生まれた子どもは、ヴェネチアでできたのではありません。もっと後に、別のある場所のことでした」([1]p.63)と書いてあります。これは、エランベルジュやヒルシュミュラーの調査を踏まえているのだと思いますが([3]p.79の原注53)、ブロイアーの娘が生まれたのは、アンナ・Oの治療が終結した1882年6月より以前の1882年3月11日であり、「もっと後」ではなく「もっと前」のはずです。これが原著の間違えなのか、翻訳の間違えなのか、原著に当たって調べる元気はありません(それともぽん太の誤解でしょうか……)。
 クレマンのフロイトに語りかけるような文体もあいまって、本書はフロイトの伝記ではなく、クレマンが抱いているフロイトのイメージ、クレマンのフロイトへの思いを書いた本であると思われます。ですから『フロイト伝』という邦訳のタイトルよりも、原作のPOUR SIGMUND FREUD(フロイトのために)の方が適切であるように思われます。
 解説を書いた十川孝司氏もクレマンに釣られたのか、同じようなミスをしています。フーコーの『知への意志』を引用して、フーコーが「精神分析こそがファシズムと理論的にも実践的にも対立する立場にあったと論じている」([1]p.246)と書いているので、「へ〜、フーコーがそんなに精神分析を買っているの?」と疑問に思って原文を読んでみました。するとA cela la psychanalyse doit d'avoir été - à quelques exceptions près et pour l'essentiel - en opposition théorique et pratique avec la fascisme.ですから、精神分析「こそ」などとは言っておらず、精神分析が反ファシズム陣営に属することを述べているだけです。十川氏がフロイトを持ち上げたい気持ちはわかりますが……。
 どうも概してラカン派のひとたちは、あれこれ難しい概念を振りかざして理知的で科学的な装いをしていますが、実のところけっこう感情的であって、「見られていることを知らない」ひとが多いようにぽん太には思えます。
 ラカンの言っていることは難しくてよくわからないのですが、ラカン派のひとたちに聞いても「分析を受けてない人にはわからん」などと言って教えてくれません。ですからせめて、分析を受けた人の言動を観察してラカン理論の価値を判定するしかありません。同じくよく理解できない「禅」のお坊さんの生き方を見ると、「立派な生き方だなあ」と思ったりするのですが、どうもラカン派の人を見て「自分もこのように生きてみたい」という気には、ぽん太はならないのです。え?精神分析は立派な生きた方をするためのものではないですって? はいはい。
【参考文献】
[1] カトリーヌ・クレマン『フロイト伝』吉田加奈子訳、青土社、2007年。
[2] ジグムント・フロイト『フロイト最後の日記 1929-1939』小林司訳、日本教文社、2004年。
[3] ピーター・ゲイ『フロイト1』鈴木晶訳、みすず書房、1997年。

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【書籍】また筒井康隆がバカな小説を!『ダンシング・ヴァニティ』

 鹿児島旅行の行き帰りの飛行機のなかで読むために購入しました。
 また筒井康隆がバカなことをやっております。冒頭から同じシーンがぐるぐると何度も反復します。こ、こ、これは、まさかコピペして枚数を稼ごうという魂胆では、とも思いましたが、よく読むと細部が微妙に変わっています。なんと、これでは斜め読みができないではないか……。
 仕方がないので、ぽん太としては珍しく、端からきちんと読んでいくも、その後も諸々のシーンが微妙に変化しながら何度も繰り返されます。白いフクロウも要所要所で出現。主人公の妻は、寝ているとき以外は顔を降り続ける強迫行為症と、筒井お約束の精神障害も登場。何度も鍵を確認したりする強迫行為は、この小説の繰り返しと重なります。
 「匍匐前進」というかけ声に従って、主人公は何度も地べたを這いつくばります。しかしいつのまにか「匍匐前進」とかけ声をかける隊長に役割を変え、さらには意識的に「匍匐前進」と叫ぶことで人々を思いどおりに動かせるようになります。
 コーラスでもあるコロスも登場。コロスは本来はギリシャ悲劇の合唱隊ですが、「正面のドアを開けて功刀さんがコーヒーをトレイに載せてあらわれると、またコロスが喋りはじめる。『まじめな顔ね』『緊張してるわ』『何緊張してるのかしら』『何緊張してるのかしら』『コーヒーを零しちゃいけないからでしょ』『上役がいるからでしょ』『きんちょうしてるわ』」。これではコロスというより、統合失調症の幻聴である。
 ぽん太の好きな歌舞伎の「傾城反魂香」もでてきます。この話しは「吃り」の絵描きが主人公ですが、同じ場面が何度も繰り返されるこの小説とマッチしています。
 主人公は浮世絵の研究のために武士となって江戸時代にも行きます。武士として振る舞いながらも、一方で「その宿屋たるや、なんと木造四階建てではないか。あきらかに建築基準法違反だが昔はこんな建物もゆるされたらしい」と客観的に眺めている自分もいます。半分夢だとわかりながら観ている夢にそっくりでです。おまけにこの武士、寝ようとするが寒いので酒を買いに行くことにします。やがて遠くにコンビニの灯りが見え、「酒を置いてあるコンビニでありますようにと祈りながら近づいていくと」(あははは、その気持ちぽん太もよくわかります)、嬉しいことにいつも酒を買っているコンビニに辿り着き、店を出ると武士だったことを忘れてうっかり(現在の)自宅に戻ってしまいます。ぽん太は飛行機の中で大笑いして、すっかり周囲の顰蹙を買いました。
 同じシーンの反復というと、ルイス・ブニュエルの映画『皆殺しの天使』(1962)を思い出します。人々が夜食会のために邸宅を訪れるシーンが2回繰り返されます。また乾杯のシーンも2回あるのですが、2回目は客が演説を聞こうとしません。
 筒井康隆の反復する世界は、パラレルワールドのようでもあり、また何度もリセットを行うロールプレイイング・ゲームのようでもあります。またクラシック音楽では、いくつかの主題が変形されたり順序を変えたりしながら繰り返されるのが普通で、そういう意味では『ダンシング・ヴァニティ』は音楽的だな、さすが自らクラリネットをものする筒井氏、文章に音楽的なリズムがあるよね、他の作家が真似してもこのリズム感は生まれないだろう、などと思っていたら、筒井康隆自身がインタビューに答えて「交響曲にもジャズにもポップスにも繰り返しがあり、いいなと思ったメロディーが反復されると大きな充足感をもたらす。モダンダンスにも繰り返しがある。他の芸術ジャンルにはあるのに、小説には反復がない」と言ってるやんか(asahi.com、2008年2月14日)。

 小説の終わりに近づくと、全ては死の床にある主人公の混乱した記憶のように思えてきますが、それもホントかどうかわかりません。とはいえ過ぎ去った時間を慈しむ郷愁が胸を打ちます。しかし小説としてのまとまりを出すためにとって付けた「オチ」のようにも思え、むしろ理屈抜きの反復に身を任せる方が気持ちいいような気もしてきます。
 死を前にした老人の非合理的な意識の流れというと、アラン・レネの映画『プロビデンス』(1977)が思い出されます。博覧強記の筒井氏、きっと意識しているに違いありません。
 さらに巻末の参考資料をみると、新宮一成の『夢と構造−フロイトからラカンへの隠された道』があげられています。フロイトやラカンの精神分析の夢理論や反復強迫も踏まえているようです。
 こちらの新潮社のサイトでは、表紙の写真にある小池隆のバニーちゃんのフィギュアがくるくる廻ってくれます。フィギュアの愛読者プレゼントの応募券がないかと、カバーや帯の裏をめくったりしてみましたが、残念ながらありませんでした。
 筒井先生、また次も、ばかばかしいの一丁お願いします。待ってます。

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