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2017/05/16

【バレエの原作を読む(9)】「ダフニスとクロエ」←ロンゴス『ダフニスとクロエー』


 久々登場の「バレエの原作を読む」シリーズ。今回は「ダフニスとクロエ」です。

 「ダフニスとクロエ」は、バレエよりも、原作よりも、ラヴェルが作曲した音楽が一番有名ですね。

 1909年に「バレエ・リュス」を旗揚げしたディアギレフは、1910年に、ロンゴスの『ダフニスとクロエ』を原作とするバレエの音楽をラヴェルに依頼。台本はフォーキンでしたがラヴェルはあんまり気に入らなかったようです。それでもラヴェルは5月にはピアノ譜を完成させましたが、今度がディアギレフがそれを気に入りません。リズムよりメロディー重視だし、合唱が入ってたり……。てなことで初演が延びのびになるなか、待ちくたびれたラヴェルは第1部後半から第2部前半を1911年に「第1組曲」として初演。バレエが初演されたのは1912年になってからでした

 バレエの初演は1912年6月8日、パリのシャトレ座でバレエ・リュス(ロシアバレエ団)。振付けはフォーキン、ダフニスはもちろんニジンスキー、クロエはタマーラ・カルサヴィナ、指揮はピエール・モントゥーでした。

 フォーキン版のあらすじは、例えばこちらのブログ(バレエ音楽「ダフニスとクロエ」|liebevoll)に詳しく書かれております。フォーキン版とは書いてありませんが、たぶんフォーキン版でしょう。
 すごく大雑把にまとめると、クロエに恋心をいだくダフニス。たくましい牛飼いドルコンが「ちょっとまった〜」とクロエに近づくが、踊りが下手で物笑いにされる。ダフニスの踊りにクロエは魅せられ、甘い口づけ。二人は恋に落ちます。年増女リュセイオンがやってきてダフニスを誘惑して立ち去る。そこへ海賊がやってきてクロエを誘拐。絶望したダフニスは、ニンフの助けを得て、パンの神に助けを乞う。すきをみて逃げようとするクロエだが、海賊に手込めにされようとする瞬間、パンが現れて海賊をやっつける。再会を喜ぶ二人。パンを讃えながら、一同祝福の乱舞。

 さて、フォーキン版以外にどのような振付けがあるのか、ぽん太は申し訳ありませんがよく知らないし、調べる気力もないのですが、これまでぽん太が観たものを挙げると……

アシュトン版 英国バーミンガム・バレエ団
 だいたいフォーキンと同じストーリー。詳細は忘れましたgawk
ジャン・クリストフ=マイヨー版 モナコ公国モンテカルロ・バレエ団
 愛し方がわからない若いカップルに、成熟したカップル(リュセイオンとドルコン)が愛の手ほどきをするというエロティックなコンテ作品。
バンジャマン・ミルピエ版 パリ・オペラ座バレエ団
 だいたいのあらすじは同じだが、抽象的な衣装やセット。


 で、原作ですが、ロンゴス(Λόγγος)の『ダフニスとクロエー』(Ποιμενικά κατά Δάφνιν και Χλόηνもしくは Δάφνις και Χλόη)で、翻訳は上にアマゾンのリンクを張った岩波文庫版が手に入りやすいかと思います。

 その解説(松平千秋)によりますと、紀元前後から5世紀にかけて、地中海世界では多くの通俗的な大衆小説が作られたそうで、その大部分はギリシャ語で書かれていたそうです。しかし現在完全なかたちで残っているのはわずが5篇しかなく、ロンゴスの『ダフニスとクロエー』はそのうちのひとつだそうです。書かれたのは2世紀後半から3世紀前半、日本でいうと、邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送ったのが239年ですね。
 作者のロンゴスについては、確かなことはほとんどわからないそうです。
 レスボス島を舞台にした、若い男女のラブ・ストーリー。レスボス島は、エーゲ海の東側にある島で、現在のトルコの沿岸にありますが、ギリシャの領土です。

 で、あらすじですが……。
 めんどくさいけどまとめるかな〜。ゴールデンウィークで暇だし。
 ただ、小学生以下にはふさわしくない表現がありますので、中学生以上だけお読み下さい。

序  レスボス島で狩りをしていた私は、世にも美しい絵をみつけた。そこには恋の物語が描かれていて、多くの人たちがそれを見にこの島を訪れていた。私は長老の話を元にして、4巻の物語を書き上げた。


巻1
 レスボス島の町ミュティレーネーのほど近くに住む山羊飼いのラモーンは、ある日一頭の山羊が男の赤ちゃんを育てているのを見つけた。男の子はたいそう美男子で、、高価な品々を携えていた。ラモーンはこの子の出生を秘密にしたまま自分の子供として育てることにし、ダフニスと名付けた。しばらして今度は羊飼いのドリュアースが、羊が育てている女の赤ちゃんを見つけた。ドリュアースもこの子を自分の娘として育ていることにし、クロエーと名付けた。
 こうして山羊飼いとなったダフニスと羊飼いとなったクロエーは、近くで仕事をしていたこともあり、仲良く一緒に遊ぶようになった。ところがだんだんと二人はお年頃。水浴びをしているダフニスの裸を見て、体を洗ってあげていたら、何かドキドキしてきたクロエーちゃん。夜も眠れず食事もとらず、仕事もほったらかしで、泣いたかと思ったら笑い出す始末。でも恋などという言葉さえ知らないダフニスは、自分が病気になったと思うばかり。
 さて、既に恋をわきまえた荒々しい牛飼いのドルコーンが、クロエーに目を付けました。ダフニスとドルコーンは喧嘩になりますが、言い合いに勝ったダフニスに、クロエーはご褒美のキッスheart01。あらあら、大変。この日からダフニスも恋に落ちました。ほてる体を冷やそうと水浴びしても、恋の炎は燃え盛るばかり。
 しかしエロサイトなどない時代の牧人の二人。ダフニスは、クロエーのかぶっている松の冠にキスをして自分もかぶってみたり、クロエーも、水浴びをしているダフニスの服にキスをして、それを着てみたり。お互いにリンゴをぶつけあったり、髪の毛を整え合ったり。あ〜違うでしょ。あらじれったい。
 そんなある日、テュロスの海賊がやってきて、家畜からなにから略奪を行うが、ダフニスとクロエーは、牛飼いのドルコーンの身を犠牲にした助けを借りて、海賊を撃退する。

巻2
 秋になって、ダフニスとクロエーはブドウの収穫に駆り出されます。ある老人が、二人にエロース(恋)の話を聞かせます。「いいかい、若いお二人さん。恋の病に効く薬は、キスをすること、抱き合うこと、裸になって一緒に寝ることしかないんじゃ。」
 二人は自分たちが恋をしていることを知ります。そして教わった最初の二つの方法を試してみますが、最後の一つはさすがに恥ずかしくてできません。でも二人の心はさらに火がつくばかり。それからの二人は、出会うたんびに抱き合ったりキスしたり。あるとき二人は抱き合ったままバランスをくずして倒れてしまいました。でも、そのあとどうしていいかわからず、夕暮れとともにそれぞれ帰途についたのでした(あ〜〜じれったい)。
 そんなおり、メーテュナムの裕福な若者たちが小舟に乗って、村や町を訪れて遊んでおりました。彼らはダフニスとクロエーの村の近くに船を停めようとしたのですが、とも綱をなくしてしまったので、青い柳の枝で船を陸につなぎ止めました。ところがこの柳をダフニスの山羊が食べてしまったからさあ大変。船は沖に流されてしまい、怒った若者たちはダフニスを責め立て、縛り上げようとします。村人たちはこれには憤慨し、若者たちを追い返しますが、メーテュナムにようやく帰り着いた若者たちは、村人たちに船や金品を略奪されたと嘘を言います。それを聞いてメーテュナム人はミュティレーネーに戦争をしかけ、村々を襲って手当り次第に略奪を行い、あげくのはてにクロエーまでつれ立てて行きました。
 残されたダフニスはニンフの祠に行って悲しみを切々と訴えます。するとあら不思議、その夜、夢の中に三人のニンフが現れ、クロエーを助けるように勇敢な闘士でもあるパーンにお願いしたことを伝えます。実際メーテュナムの船には異常現象が次々と起こります。羊が狼のように吠えだしたり、碇を上げようとしてもびくとも動かなかったり、イルカの群れが海中から躍り出て船を壊したりします。ついには司令官の夢枕にパーンが現れ、クロエーと山羊、羊を返すように命じます。
 クロエーが無事に帰ってきたことを喜んだ村人たちは宴を開きます。再会に喜ぶ二人は、お互いに愛し続けることを誓い合ったのでした。

巻3
 冬が過ぎて、春になりました。長い冬の間に、二人は少し成長しております。ダフニスはクロエーに、老人が教えてくれた恋を癒す三つの薬のうち、だたひとつやり残していたことをしようと言います。そう、裸になって二人で寝るのです。
 「でも一緒に寝てどうするの?」とクロエー。
 「牡羊や牡山羊が牝にするようなことをするのさ。あれは楽しいことに違いないよ」とダフニス。
 二人でしばらく裸でじっと横たわったあげく、ダフニスは山羊のまねをしてクロエーに後ろからのしかかったりしましたが、結局どうしていいかよくわからず、とうとうダフニスは泣き出してしまいます。
 そこに現れたるはリュカイニオンという町から嫁いできた美人で垢抜けした女房。ダフニスとクロエーの現状はとうにお見通し。自分の欲望を満たすチャンス到来とばかりにダフニスをだまして森の中に誘い込むと、まんまと愛の手ほどき。しかしその後もダフニスは、「クロエーに同じことをしようとすると、痛がって泣き出して血だらけになる」とリュカイニオンに言われたことを心配し、あいかわらずキスと抱き合うことしかしませんでした

 夏になると、美しい娘へと成長したクロエーに、あちこちから縁談が持ち上がります。あわてたダフニスは、自分もお婿さんとして立候補しようとしますが、他の金持ちの求婚者には太刀打ちできません。すると霊験あらたかにも三人のニンフが再び夢枕に立ち、お金のありかをダフニスに教えます。
 お告げに従って大金を手にしたダフニスは、クロエーの父ドリュアースに結婚を申し出ます。大金に気を良くしたドリュアースは、自らダフニスの父ラモーンに結婚を掛け合いに行きますが、ラモーンは「自分は領地を持っているご主人様の使用人にすぎない。秋になるとご主人様がやってくるので、その許可が得られたら結婚を許しましょう」と答えます。

巻4
 秋になり、ラモーンはご主人様を迎える準備にせいを出します。
 そこに領主様より一足早く、ご主人様の息子アステュロスが、取り巻きの遊び人グナトーン(男)を伴って到着。グナトーン(男)はクロエーではなくって、なんとダフニスにご執心。ダフニスに後ろからのしかかって「自由にさせてくれ」というと、ダフニスは意味がわからず、「牡牛が牝牛に乗るのはあたりまえだが、牡牛に牡牛が乗るのは見たことがない」と逃げ出します。
 やがて主人のディオニューソファーネスが到着。裕福で、誠実なお人柄。丹精込めて手入れされた畑に満足し、ダフニスの山羊飼いとしての仕事ぶりもほめ讃えます。ラモーンはここぞとばかりダフニスの出生の秘密をみなに打ち明け、証拠の品々を示します。それを見た主人の妻が大声をあげます。なんとダフニスは主人夫妻の実の息子だったのです。皆が大喜びするなか、ダフニスは「そうだ山羊に水を飲ませにいかないと」などと言い出し、「をひをひ、この子はまだ山羊飼いのつもりでおるわい」などと、ホームドラマのような会話があったりします。
 けれどもクロエーは「ダフニスがご主人様の息子だとしたら、羊飼いの私のことなんかもう忘れてしまうに違いないわ」とただ一人嘆くことしきり。そのときクロエーの父ドリュアースは、自信に満ちた表情で、「大丈夫だ、俺にまかせろ」。お父さんかっこいー。
 翌日ドリュアースは、証拠の品々を抱えご主人様を訪ね、クロエーの出生の秘密を打ち明けました。品々を吟味した主人夫妻は、クロエーが立派な家柄の娘であることを確信し、二人の婚約を許します。着飾ったクロエーの美しさに、一同ばかりかダフニスまでもびっくり。
 クロエーは、町一番の年長者の老人の娘であることがわかりました。ダフニスとクロエーの希望で、村に戻って牧人風の結婚式をあげることになりました。ディオニューソファーネスは村人を全員呼んで豪華な宴を催しましたが、山羊たちもこれに加わったので、その匂いに町から来た人たちは閉口しました。
 結婚式の夜、ダフニスはリュカイニオンに教わったことを初めてクロエーに試みます。クロエーも、これまで長い間二人がしてきたことが、子供の遊びにすぎなかったことを初めて知ったのでした。


 う〜ん、ライトノベル顔負けのラブ・ストーリーですね〜。書いててこっちがこっぱずかしいです。
 べたなストーリーではありますが、ちょっと感動するな〜。昔のおおらかな時代というか、エロい表現が少なくないです。いろいろ事件や困難は生じますが、みななんだかいい人で、最後はめでたしめでたしみたいなところがほっとしますね〜。

 こうしてみると、もともとのフォーキン版やアシュトン版、ミルピエ版は、原作の一部をうまく利用している感じですね。マイヨー版は、恋のこの字も知らない男女の淡い恋がやがて大人の愛へと成長して行くという原作の大枠をうまく生かした読み替えと言えそうです。

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2014/12/15

【雑学】ツキノワグマは(自然界で)共食いするのか本で調べてみた【拾い読み】

P9190308←クマの共食い(?)シーン。グロ注意。

 今年の夏に黒部でクマに遭遇したぽん太は(そのときの記事はhttp://ponta.moe-nifty.com/blog/2014/10/4-1b46.html)、二つの疑問を抱いたのでした。すなわち(1)ツキノワグマは共食いするのか、(2)ツキノワグマは草食のくせに、なぜ無駄に力が強いのか、です。この謎を解明すべく、『山でクマに会う方法』(米田一彦著、山と渓谷社、2011年)を読んでみましたが(そのときの記事はこちら)、まだ十分には納得できませんでした。
 そうこうしているうちに、熊本県「阿蘇カドリー・ドミニオン」でクマの共食い事件が起きたというニュースが飛び込んできました(ライブドア・ニュース)。今年の11月23日、ヒマラヤグマの檻の中で、一頭のクマに6〜7頭のクマが折り重なるように襲いかかり、共食いをしたとのこと。
 ニュースの写真を見ると、首のところに白い三日月型の斑紋が見えます。調べてみると、ヒマラヤグマ(ヒマラヤツキノワグマ:Ursus thibetanus thibetanus)は、ニホンツキノワグマ(Ursus thibetanus japonicus)と同じく、アジアクロクマ(Ursus thibetanus)という種に含まれる仲間のようです。
 ということで、(ニホン)ツキノワグマの共食いも大いにありそうですが、ただ今回の事件は動物園での出来事。果たして自然界でツキノワグマの共食いがあるかどうかは、はっきりしません。
 そこでぽん太は、ツキノワグマに関する本をさらにいくつか読んで見ました。

 まずは『日本のクマ―ヒグマとツキノワグマの生物学』(坪田敏男他編、東京大学出版会、2011年。日本に棲むに種類のクマ(ヒグマ、ツキノワグマ)について専門家が分担執筆したもので、ちと専門的で読みにくいです。
 進化論的には、中新世にイヌの仲間が大型でがっしりした動物に進化し始め、鮮新世には大きな頭と頑丈な歯を持つ動物が出て来ました。新生代中期から後期には、クマ類が、四肢が短く、獲物を追いかける習性が薄れた食肉類として進化してきました。日本には、草原性に進化したヒグマ、森林性に進化したツキノワグマが分布するようになりました。
 クマは食肉目でありながら、雑食性あるいは草食性に傾いていきました。現存する5種のクマでは、完全肉食性がホッキョクグマ、完全昆虫食性がナマケグマ、完全草食性がジャイアントパンダとメガネグマ、中間的な雑食性がヒグマ、クロクマ、ツキノワグマ、マレーグマとなるそうです。
 しかしクマの消化器官は、いわゆる草食動物のように複数の胃があったり食べ物を反芻したりはせず、胃袋が一つしかなく、草食に適した構造にはなっていません。冬眠からさめた草食性のクマは、草や葉を食べている春から夏はどんどん体重が減っていき、イチゴ類や木の実などを食べるようになって、ようやく体重が増えて来るのだそうです。
 共食いに関しては、この本には書かれておりませんでした。

 次いで、『ツキノワグマ―追われる森の住人』(宮尾嶽雄編著、信濃毎日新聞社、1995年)。ツキノワグマに関する分かりやすい総説。
 体が大きいことの利点について、相対的に体表面積が小さくなるため、体温を保つためのコストが少なく、寒冷気候に対して優位なこと、絶食に対する抵抗力が大きいことが挙げられています。また寿命が長くなることで、親の経験を学ぶ機会が得られるという利点もあるといいます。
 寒さに強いということは、逆にいえばオーバーヒートしやすいということで、真夏に熱そうにしているホッキョクグマの様子はテレビのニュースの定番ですよね。
 長野県筑摩山地でのクマの糞の分析からは、動物性食物の糞も見つけられています。哺乳類と昆虫類があるそうで、哺乳類ではカモシカとノウサギが食べられていたそうです。
 ツキノワグマに食べられたと推定されるカモシカの死骸が見つかっておりますが、生きたまま襲われたとは考えにくく、死亡後に食べられたと推定されるそうです。

 そのほかに、『ツキノワグマ―クマと森の生物学』(大井徹著、東海大学出版会、2009年)や、『ツキノワグマ―滅びゆく森の王者』(岐阜県哺乳動物調査研究会編著、岐阜新聞社、1997年)を読んでみましたが、共食いに関する記載はありませんでした。

 う〜ん、(2)の草食性のくせに体が大きい理由は、進化の過程や、大型動物の利点から、何となくわかってきたけど、(1)の共食いについてはよくわかりません。というか、生きた動物は滅多に襲わないと考えられているようです。するって〜とぽん太が見たのは、たまたま死んでいたクマを、他のクマが食べていたということなのか?そんな偶然ってある?そもそもいくら死んでたからって同じクマの肉を食べるのか。
 謎は謎のまま、もうみちくさがめんどくさくなってきました。クマの件は、ここらで一休みにしたいと思います。
 なお、先日イタリア料理店で熊肉入りのスパゲッティーがあったので、それを食べて、人を脅かしたクマさんに復讐してやりました。

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2014/11/08

【拾い読み】長年クマを調査して来た著者ならでは『山でクマに会う方法』米田一彦

 先日の記事に書いたように、山でクマであったので、についてちと勉強してみることにしました。今回読んだのは、『山でクマに会う方法』(米田一彦著、山と渓谷社、2011年)です。著者はフリーのクマ研究者。主にテレメトリー法(クマに発信器をつけて追跡する)によって、三十年近くにわたって多くのクマを観察して来たそうで、クマ経験(^_^)が豊富なようです。もちろん「山でクマに会う方法」というタイトルは逆説であって、本書によって「クマに会わない方法」を知ることができます。ちなみに本書で扱われているクマは、本州に生息する「ツキノワグマ」です。
 山でクマに会ったぽん太の疑問点は二つです。(1)クマは共食いをするのか、そして、(2)木の実を食べて暮らしてるのに何であんなに力が強いのか、です。残念ながら、この本ではどちらの疑問も解けませんでしたが、クマとじかに関わり続けてきた人ならではの、クマの生態を知ることができました。
 以下、いつもの通り、ぽん太が興味を持った部分の拾い読み。これは「書評」ではありませんので、興味を持った方は自分でお読み下さい。

 クマが秋に食べる堅果類は、ミズナラやコナラなどのドングリです。クリも、イガを剥き、皮だけ上手に吐き出して食べるそうです。クルミやハシバミなどの実も食べるが、著者の経験では、シイ、カシや、トチノキなどは食べないという。ブナの実に関しては、少量しか食べてないという研究もあるが、栄養価が高いので、ある程度の働きをしている可能性はあるという。
 6月頃になると、雌クマは「着床遅延」と呼ばれる独特な繁殖生理を持っていて、交尾して受精するのは6月頃ですが、受精卵はしばらく発育を休止し、子宮内膜に着床して妊娠が成立するのは11月頃だそうです。そして受精できるかどうかは、この間にしっかりと食事をとり、栄養状態がよかった場合に限られるそうです。
 夜のクマは、フラッシュのような閃光には反応しませんが、動く光や点滅する光にはよく反応するそうです。
 クマは冬眠すると言われてきましたが、「体温や代謝が低下して昏睡状態になる」という冬眠の定義を満たしていないため、最近は「冬ごもり」と呼ばれるそうです。冬ごもりの期間は、中部以北では6ヶ月に及ぶこともありますが、暖かい広島県では60〜70日くらいで、栄養状態が良くて体力があると、冬ごもり期間が短かったりするそうです。
 糞の調査では、冬ごもりを終えた4月下旬は、ブナの若葉が圧倒的に多く、5月になるとミズバショウ、ザゼンソウ、フキノトウ、アザミ類が出てくるそうです。フキ、ミズ、セリなどの山菜類も大好きで、6月になるとチシマザサ(ネガマリタケ)のタケノコも食べるそうです。6月下旬になるとキイチゴも食べます。
 7月になると昆虫をよく食べるようになります。アリやハチが主ですが、クワガタムシなどの甲虫も食べるそうです。8月下旬には、まだ殻が堅くなっていないオニグルミや、熟していないドングリを食べ始めます。
 捕殺したクマの胃からカモシカの毛が出て来ることはあるそうです。しかし著者がみた限り、クマがカモシカにちょっかいを出した時、カモシカは余裕で逃げ、クマもすぐ追うのを止めてしまったそうです。
 クマは基本的には耳と鼻がよく、人間に会わないように避けて行く。出会った時にクマが実を隠したら、クマに攻撃する気がない証拠。威嚇の場合は、小走りに近寄って来て、両足を30センチぐらい上げて地面に叩き付け、引き返して行く。著者は、この威嚇の後に襲われた経験はないといいます。攻撃する場合は、何の前触れもなく一気に襲ってくるそうで、マンガにあるような、仁王立ちになってうなり声を上げたりすることはありません。頭を下げて上目使いにこちらをにらみつけ、耳を伏せてアゴを引き、脇を締めて身構え、前足で弧を描くようなすり足で、声も出さずにすごいスピードで突進してくるそうです。
 クマの対処法。鈴をぶら下げるのは有効。火は怖がらない。出会った時に「話しかけてみる」というのは無意味どころかクマを刺激する可能性もある。無言でクマの目を見ながら静かに後退する。背中を見せて走って逃げると、クマは本能的に追ってくる。(仙人温泉小屋のおっちゃんは、こちらからふっと目をそらして、闘う意思がないことを示した方がいいと言ってました。)木に登って助かった人もいる。クマも木登りが上手だが、攻撃力が弱まるので防御しやすい。クマが下で待っている場合は、根比べとなる。いざ襲われた時はクマ撃退スプレーが有効。唐辛子のエキスで、これを浴びるとクマが大声で鳴くほどだそうな。しかしこのスプレーは、5メートル先までしか届かず、連続なら5秒間しかでないので、クマに襲われるという状況で正確にクマに命中させるのは難しいとのこと。

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2014/10/15

【拾い読み】DSM-5を使う前に読んでおこう。アレン・フランセス『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』

 たまたま気が向いて、アレン・フランセスの『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』(大野裕監修、講談社、2013年)を読んでみました。
 DSMというと、ぽん太はどのバージョンも一緒くたにしてましたが、DSM-IVの作成委員長だった著者が、DSM-5の問題点を批判したのが本書です。最大の論点は、著者が「診断のインフレーション」と呼ぶ、なんでもかんでも精神障害に診断してしまう傾向への警告です。こうしたことは精神科医なら誰でも感じていることで(例えば現在でもすでに何でもかんでもうつ病です)、その裏には製薬会社の営利主義があることなども衆知の事実ですが、自らDSMに関わった人が言っているところに説得力があります。また、うちわを知っている人だからこその証言もあって、面白い本でした。もちろん著者の主張が正しいかどうかもわからないので、本書を読むときも批判的な精神を忘れてはなりません。最近流行の、ドグマチックな精神医学批判の本ではございません。
 さて、興味がある人は自分で読んでいただいて、ぽん太が興味を持ったところの抜き書きです。

 「DSMは正常と精神疾患のあいだに決定的な境界線を引くものであるため、社会にとってきわめて大きな意味を持つものになっており、人々の生活に計り知れない影響を与える幾多の重要な事柄を左右しているーーたとえば、だれが健康でだれが病気だと見なされるのか、どんな治療が提供されるのか、だれがその金を払うのか、だれが障害者手当を受給するのか、だれに精神衛生や学校や職業などに関したサービスを受ける資格があるのか、だれが就職できるのか、養子をもらえるのか、飛行機を操縦できるのか、生命保険に加入できるのか、人殺しは犯罪者なのかそれとも精神異常者なのか、訴訟で損害賠償をどれだけ認めるのかといった事柄であり、ほかにもまだまだたくさんある」(p.17)
 ぽん太が思うに、DSMの分類が、純粋な医学的・科学的なものではなく、アメリカ社会の、アメリカの医療制度のもとでの分類であることは常識でしょう。また精神科医の診断という行為も、常に社会的な側面を持つことを忘れてはなりません。

 フランセスは、DSM-IVの作成にあたって、リスクのあるもの、科学的データによる裏付けがないものをすべて却下しました(その結果、DSM-IVはDSM-IIIRとあまり変わりませんでした)。一方DSM-5は、正常な多くの人を新たな「患者」にしたてる危険性があり、それを製薬会社がいかに利用してやろうかと、手ぐすね引いて待っていると彼は言います。
 そのように用心して作成したDSM-IVでさえも、三つの精神疾患のまやかしの流行を引き起こしました。それは自閉症、ADHD、小児双極性障害だそうです。
 「アメリカ人の成人の5人にひとりが、精神的な問題のために一種類以上の薬を飲んでいる。2010年時点で、全成人の11パーセントが抗うつ薬を服用している。小児の4パーセント近くが精神刺激薬を飲み、ティーンエイジャーの4パーセントが抗うつ薬を服用し、老人ホーム入居者の25パーセントに抗精神病薬が与えられている」(p.20)
 日本の現状はどうなのでしょうか。ここまではひどくないような気がしますが。常々ぽん太思うには、精神的な問題を解決するには、つべこべ言わずに薬を飲めというのに、快楽を得るためには薬を使ってはいけないというのは、筋が通らないですよね。覚せい剤や危険ドラッグの使用が増えるのは、仕方ないことに思えます。

 「DSM-IVのADHDは慎重に作成されたが、変更の提案による有病率の上昇は15パーセントにとどまるとわれわれは予測していた。データが収集された1990年代はじめの現実を考えれば、これはかなり正確な推定だったと言えよう。われわれは1997年にこの現実が一変するとは予見できなかった。この年、製薬会社がADHDの高価な新薬を売りだし、しかも同時に、親や教師に直接宣伝することが認められたのである。まもなく、ADHDの診断を商品として売るのが、雑誌やテレビや小児科病院のどこでも見られるようになったーー予想外の流行が発生したわけで、ADHDの有病率は3倍になった」(p.86)。
 高価な薬が出ることと、診断が流行していることは確かにリンクしているとぽん太も思います。双極性障害の流行も、ラミクタールの発売と関係しているのではないでしょうか。これまで双極性障害の第一選択薬であったリーマスは、標準使用量1日600mgで62.7円ですが、2008年12月に発売されたラミクタールは1日200mgで547.6円と、ほぼ十倍の価格です。さらに2012年9月にリーマスの添付文書(こちら)が改訂され、わざわざ医薬品医療機器総合機構から「炭酸リチウム投与中の血中濃度測定遵守について」という文書(こちら)まで出されました。これによると、リーマスを服用中の患者さんは、2〜3ヶ月に一度血液検査が事実上義務づけられることになりました。ごていねいに「適切な血清リチウム濃度測定が実施されずに重篤なリチウム中毒に至った症例などは、基本的に医薬品副作用被害救済 制度においても、適正な使用とは認められない症例とされ、救済の支給対象とはなっておりません」という文言もあります。「リチウム中毒を防ぐ」という大義名分はありますが、背後に、有効で安価なリーマスを使いにくくさせようとする何らかの圧力があったのでは、と考えるのは考え過ぎでしょうか。ここらの裏事情を知る立場にぽん太はありません。
 また最近、ベンゾジアゼピン系の抗不安薬、睡眠薬の使用を制限する動きが出ており、これはこれで過剰使用を防ぎ、依存を減らすという大義名分があるのですが、一方で代わりにSSRIや非定型抗精神病薬を売りたいという製薬会社の意図があるのではないか、というのもぽん太の妄想でしょうか?
 また、たとえば風邪薬など薬局で売っている薬はテレビのCMで宣伝することができますが、病院で医者が処方する薬は宣伝することができませんでした。ところがいつの頃からか、薬の名前こそ言わないものの、「〇〇の症状があったら、よく効く薬があるので、病院を受診しましょう。××製薬」というCMが流れるようになりました。これは製薬会社の申し出によって、コマーシャルの基準が変更されたのだと思いますが、これがどこの管轄で、どのように決められ、具体的にどこに明記されているのか、ぽん太はいまだにわかりません。
 ついでに上の引用の「ADHDの診断を商品として売るのが、雑誌やテレビや小児科病院のどこでも見られるようになった」というのは、ADHDの診断チェック表みたいなのが、雑誌やテレビでやってたり、病院に(製薬会社が作った)パンフレットとして置かれていることを言ってるんだと思いますが、原文にあたるのは面倒なのでよくわかりません。

 精神疾患の定義を、統合失調症80・双極性障害10みたいに数値で表すという考え方にかんしては、将来的には主流になるのかもしれないが、現時点では実現不可能と書いてます。

 DSM-IIIに関して。1970年代、精神疾患の診断の不正確さに対する批判が強まりました。ひとつはイギリスとアメリカの国際共同研究で、アメリカとイギリスで診断が大きく異なることが示されました。もうひとつは、正常な人が症状を偽ることで、誤った診断や不適切な治療に誘導できることがわかりました。
 こうしたことで、統一した診断システムを作ることが必要となり、ロバート・スピッツァー(1932 - )がDSM-III(1980年)の責任者に選ばれました。診断のパラダイムシフトをもたらしたDSM-IIIですが、診断基準の作成は科学的なものとは言えませんでした。十人弱の専門家が一室に閉じ込められ、午前中はそれぞれが、科学的データではなく実体験に基づく診断基準を無秩序に主張し合い、昼食が済むとスピッツァーが論点を神業のように整理して草案を作成し、それを疲れて眠気を催した専門家が微調整したそうです。「論争がつづくときは、声のいちばん大きな者、自信に満ちた者、頑固な者、年長の者、ボブ(スピッツァー)に最後に話したものがいつだって有利になった(p.117)そうです。ひどい方法でしたが、当時としては最上の方法で、しかもうまくいったそうです。
 DSM-IIIは病因論を棚上げにしたので生物学的・心理学的・社会的モデルのどれにも利用できるとされましたが、実際は生物学的モデルによくあてはまり、心理学的・社会的側面は軽視される結果をもたらしました。またいわゆる「多軸診断」を導入しましたが、これはほどなく忘れ去られました。
 DSM-IIIが非常に売れて、いわゆるバイブルになってしまったことは、良く知られたとおり。

 DSM-IIIR(1987年)に関しては、著者は「誤りであり、混乱のもとだった」と批判的です。その内容というよりも、DSM-IIIからわずか7年後に改訂をしたことを問題としているようです。DSM-IIIが科学的データの裏付けがある診断基準ではない以上、思いつきで安易に変更すべきではなく、科学的研究が追いついて、基準が確認されたり、変更の必要性が実証されるのを待つべきだったと言います。

 DSM-IV(1994年)の作成委員長に著者はなったわけですが、IIIRからの変更は最小限とし、科学的な必要性が証明されない変更は却下したそうです。また彼は、DSM-IVをバイブルではなく、ガイドブックとしたかったそうで、このことを「序文」に書いておいたそうです。ぽん太はDSMの序文なんて読んだことありませんでした。こんど読んでみたいと思います。
 著者は、当時は予測できなかったけれど、後から振り返ると、過剰診断がおきないようにもっと注意を払うべきだったと書いてます。特にADHDの診断基準をわずかに緩めたこと、双極II型を導入したことを後悔しています。また、「性的倒錯の項目でずさんな表現を使ったために、憲法に違反する精神科病院への強制入院が広く乱用されることになった」と反省していますが、ぽん太には具体的にはわかりません。

 著者は、早期診断のリスクを指摘します。正常だけど「病気になりかけている」人を発掘することで、医産複合体は急速に成長していますが、それによって必要ない人に過剰な医療が行われ、必要としている人に適切な医療が施せていません。
 最近「かくれ〇〇病」や「〇〇病予備軍」といった言葉がマスコミに溢れてます。また最近言われている「統合失調症の早期発見と早期治療」という考え方も、ひとつ間違えば、発病以前の「前駆期」の名のもとに、正常な人たちへの過剰診断・過剰医療が行われる可能性がありそうです。

 過去に流行して、消えてしまった疾患として、彼は「悪魔憑き」と並べて、神経衰弱やヒステリー、多重人格などを挙げてます。たとえば多重人格を、「保険会社が支払いをやめ、疲れたセラピストが現実に目覚めると、多重人格の治療を求める声は激減した」と切って捨ててます。

 現在の流行に関して、ADHDや小児双極性障害、自閉症などをあげて検討しておりますが、この辺は現役の精神科医にとっては周知の事実なので省略。

 DSM-5に関して、高く飛ぼうとしすぎて燃え尽きたイカロスに例えて、3つの点から批判しています。DSM-5は、第一に、神経科学の進歩を土台にもってきて精神科の診断を一新することを目標にしましたが、それは時期尚早で、現実離れした目標でした。第二に、早期発見・予防医学の観点から精神医学の領域を広げようとしましたが、これも行き過ぎた目標でした。第三に、数量化によって診断をもっと正確に下そうとしましたが、臨床現場で使いようのない複雑な多元評価を作っただけでした。

 また著者は、DSM-5の作成の手順についても疑問を呈しています。全体をコントロールするリーダーシップを発揮する人がおらず、作業グループごとに検討の方法や質のばらつきがった、また事前に時間定期な計画を立てなかった。また、文献調査を独立した評価者が行うといった、公平性を保つ手段も講じなかった。

 またフィールドトライアル(診断基準を実際に使ってみて、妥当性を評価すること)に関しても、DSM-IVでは、外部の研究者が方法を評価した上で、アメリカ国立精神保健研究所(NIMH)の資金を得て行われました。しかしDSM-5は、計画は非公開で、NIMHは十分な資金を調達できず、実施機関も短すぎたため、低い信頼性しか得られませんでした。しかもアメリカ精神医学会(APA)は、利益を見込んである2013年の出版予定日を守るため、必要な修正や検証を行わずに、出版してしまったそうです。

 DSM-5には、診断のインフレーションを引き起こしかねない疾患が多く見られます。小児の「重篤な気分調節不全障害」は、ただの癇癪を病気と診断する危険があります。また老人の「軽度神経認知障害」も、アルツハイマー病の早期発見と早期治療という専門家の無邪気な善意から作られたのでしょうが、多くの人に有害無益な検査や投薬が行われ、結局は医産複合体だけが喜ぶという結果になりかねません。「大食い」が精神病とされ、「成人注意欠陥・多動性障害」は過剰診断の危険性があります。また、死別後の喪が「うつ病」と混同されかねないなどなど。

 著者は大胆にも、製薬会社と麻薬組織を併せて論じております。そして、製薬会社が利益を上げるために行っているマーケティング能力を制限することを求めます。また、精神科医の同業組合であるAPAが、DSMによって精神疾患の診断を独占する状況を批判します。精神疾患の診断は、現在医学的な領域を遥かに越えてしまっています。とはいえその任を担うのにふさわしい組織も、今のところ見当たりません。

 もう飽きてきたので、この辺でやめておくことにします。アレン・フランスセスの基本的なスタンスとしては、精神疾患の診断は医療の領域を越えて大きな影響力を持つようになっていて、しかも製薬会社に代表される医産複合体が利益を拡大するために、過剰診断が行われる危険性が高い(診断のインフレーション)。そのためDSMは、過剰診断が行われにくいものにしておく必要があるが、DSM-5は質の確保をおろそかにしたうえ、拡大解釈されやすい新たな疾患を盛り込んでしまった……ということになりましょうか。
 冒頭に書いたように、これはあくまでもアレン・フランセスの考えてあって、これが正しいのかどうかわかりませんが、これからDSM-5を使って行くうえで、これらの点に注意を払って行く必要があるのは確かでしょう。

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2014/09/28

【拾い読み】御嶽山信仰の入門に最適。青木保『御岳巡礼』

 (昨日、御嶽山が噴火し、多くの登山者が被害を受けたとのニュースが飛び込んできました。心からお見舞い申し上げます。)
 先日、美ヶ原に登ったぽん太は、御岳信仰を持つ人々が、美ヶ原で御嶽山を望みながら宗教行事を行っていたことを知りました(その時の記事は文字列)。そこで今回、『御岳巡礼―現代の神と人 』(青木保著、講談社、1994年、講談社学術文庫)を読んでみました。御岳信仰の基本的な知識を得ることができ、前回の記事の誤り(御嶽教と木曽御嶽本教の混同)にも気がつきました。また著者は、タイの仏教を研究するにあたって自分自身が僧になって修行をしたそうで、御嶽山でも御神火祭に加わって火を見つめているうちに、いつしか我を忘れて身を震わせ、同行の研究者や学生に気味悪がられたというエピソードが書かれております。というわけで、外部からの客観的な解説に留まらず、内部に飛び込まなければ分からないことも書かれており、1985年とちょっと古い本ではありますが、とても興味深く読めました。
 さて、いつものように、あとはぽん太自身が興味を持ったところの抜き書きです。

 恐山で亡くなった人の口寄せをする「イタコ」は有名ですが、御嶽山でも行者に霊や神様が憑依して言葉を話すという儀式が伝統的にあり、「御座立て」(おざたて)と呼ばれるそうです。
 堀一郎は、山岳信仰を、①火山系(噴火するヤマハ畏怖の気持ちを抱かせる)、②水分系(農耕のための水の源である山に対する感謝の念)、③葬所系(月山などの様に死者の霊が帰って行くところ)に分類したそうですが、御嶽山はこのどれにもあてはまる。また池上広正は、①仏教の山、②神社神道の山。③修験の山、④教派神道の山、⑤民間信仰の山、に分けましたが、これまた御嶽山はどの要素も持っている。このような多様性が御岳信仰のひとつの特徴だそうです。
 御嶽信仰の歴史は、大きく4つの時期に分けられるそうです。①修験者が修行をしていた時期(鎌倉時代を頂点とする)、②山麓の集落に住む道者たちが特別な精進潔斎を行って集団登拝していた時期。③江戸時代中期、覚明・普寛という二人の行者が登拝を一般の人々に解放し、講活動の端緒を作った時期、④明治以後、教派神道教団が成立して全国に普及して行く時期。
 ①の修験道による山の支配が早めに終わったのが御嶽山の珍しいんだそうです。そのおかげで御嶽山は、特定の宗教集団によって支配されず、多くの信者に開かれた山となったそうです。
 筆者は修験道が早期に廃れた理由は書いておりませんが、御嶽山を初めあちこちの山に登ったぽん太が思うには、この山修験道に向いてなかったんだと思います。修行をするには、断崖絶壁や、急な山道、住むための水辺、高山植物の咲き乱れるお花畑など、多様な自然が必要です。ところが御嶽山は、基本円錐形で、しかもある高さから上はオンタデしか生えない火山礫の山なので、修験道をするにはアイテムが足りなかったのではないでしょうか。
 修験者たちが去ったあとは、山麓の村に住み着いた道者と呼ばれる人たちが、集団で登拝登山を行うようになりました。しかし手順は厳格で、75日から100日間の精進潔斎を経なくてはならず、とても一般人が参加できるものではありませんでした。
 江戸時代になって、覚明と普寛という二人の行者が、御嶽登拝を一般に開放しました。覚明は、現在の黒沢口ルートを開き、27日程度の軽精進だけでの登拝登山を開始しました(天明5年、1785年)。また遅れて普寛は、王滝口からの登山道を開き、一般登拝に開放しました(寛政4年、1792年)。
 背景には諸々の社会情勢の変化があったようですが、ぽん太にはよくわかりません。
 普寛(享保16年(1731年)〜享和元年(1801年))は武州秩父で生まれ、三峰山で修行をした人です。御嶽山開山ののち、越後の八海山や上州の武尊山も開山したんだそうです。
 覚明さんは天明6年(1786年)に御嶽山の二の池近くで亡くなったそうですが、普寛が日本の各地を回って、御嶽信仰を広め、講組織の基礎を築きました。
 黒沢・普寛と、王滝・覚明のあいだには、微妙なライバル関係があったそうで、講社も普寛講と覚明講の二つの系列に別れてたりしました。対立を避けるため「講名の自由」を提唱したところ、全国各地に様々な名前を持つ御嶽信仰の講社ができるようになっていったそうです。
 時は下って明治時代となり、神仏分離を初めとする宗教政策により、神を祀る信仰集団は「教派神道」を設立する必要に迫られました。各地で自由に発展し、統一的な組織を持たなかった御嶽信仰の教派設立は困難を極めましたが、下山応助の尽力により、明治15年(1882年)に神道十三派の一つの御嶽教として独立を果たしたそうです。
 その後の時代の流れの中で、御嶽教にも紆余曲折があったようですが、こんかいは省略。御嶽教中興の祖と言われる8代目管長渡辺銀治郎は、「副業」の才能もあったようで、あちこちに映画館や芝居小屋を作り、その経営手腕を見込んだ松竹の支援を受けて、横浜劇場を作ったとのことですが、ググってもよくわかりません。
 さて、戦後になって信教の自由の時代となりました。この頃に黒沢口の御嶽神社(→こちら)を中心にして独立したのが御嶽本教だそうです。以前の記事では、御嶽教と御嶽本教をごっちゃにしてました。ごめんなさい。
 御嶽教の方は、昭和23年(1948年)に木曽福島に神殿を設立(例えば これ?)。ちなみに現在の御嶽山木曽本宮は、2012年に移転新築したもののようです(これかしら)。
 御嶽教の9代目管長渡辺照吉は、昭和24年から57年まで管長を務めましたが、以前は松竹に務めていた人で、帝劇の副支配人、浅草国際劇場の支配人、新橋演舞場の支配人なども務めたと書かれております。ただ、「渡辺照吉 松竹」でググっても何もヒットしないのが不思議。
 昭和39年には奈良に大和本宮と呼ばれる神殿が完成し、御嶽教の本部は奈良に置かれることになりました。現在の大和本宮(こちら)は、昭和57年に建て替えられたものだそうです。

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2014/06/14

【拾い読み】とてもリアルなルポルタージュ!『宮地團四郎日記 土佐藩士が見た戊辰戦争』

 戊辰戦争に参加した一人の土佐藩士の従軍日記ですが、とても面白いです。というのも、土佐から大阪・京都、江戸を経て会津へと転戦して行くなかで、ええじゃないか踊りや龍馬暗殺、王政復古、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊との交戦、江戸無血開城、そして会津戦争などの、幕末の重要な歴史的事件に遭遇していくのです。こうした出来事を描いた小説やドラマ、映画はいくつもありますが、それらはしょせんは作り事であり、ホントのところはどうだったんだろうという思いをぽん太は昔から持っていたのですが、本書では一藩士の生の声を、日記というリアルタイムなかたちで聞くことができます。宮地の筆致はあくまで簡潔ですが、そのなかから当時の風俗・習慣、そして何よりも彼の思いが感じ取れます。
 原文に、読みやすい現代語訳と、解説がついております。『宮地團四郎日記―土佐藩士が見た戊辰戦争』(小美濃清明編著、右文書院、2014年)。

 いつものように、興味を持たれた方は自分で勝手に読んでいただくことにして、以下はぽん太が気になったところをピックアップいたします。

 慶応三年(1867年)11月21日に土佐の自宅を出発し、23日に兵庫に到着すると、いきなり遊郭を見物。折しも御影踊り(おかげおどり、いわゆる「ええじゃないか踊り」)の真っ盛りで、神仏のお守りが降った、外国人の首が降った、お金が降ったなどの風説が乱れ飛んでいた様子。25日大阪では、見物しているうちに宮地自身も一緒に踊りたくなって、踊りの輪に加わったそうです。
 11月26日、京都で坂本龍馬が暗殺されたという噂について書いてます。龍馬暗殺は11月15日ですから、11日間のタイムラグがあったことになります。
 11月27日は大阪天王寺の五重塔に登って四方を見渡したところ、絶景であったと書いてます。これに限らず今後の行程でも、時間が空いている時は、あちこちの名所旧跡を見物しているのが面白いです。
 途中の宿代はとりあえず自分で建て替え、あとで領収書を提示して会計係からお金を受け取る仕組みのようです。諸々の金額の記載もあり、当時の物価を知る上でも重要な資料だと思いますが、このへんはぽん太はあまり興味なし。
 12月9日、京都で王政復古の大号令を迎え、明けて慶応4年(1968年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発。宮地はこの戦には加わりませんでしたが、1月9日、征討将軍の護衛として大阪に向かいます。あちこちが大きく焼けていて、何百人もの死体が散乱し、「流血が雨上がりのように広がって」いたそうです。また、焼け落ちた大阪城を見学し、心斎橋で写真を撮ったりしております。
 お酒が支給されて皆で飲んだことや、病気になって療養したことなども書かれております。どうも日記全体を通して、宮地は病気で寝込むことが多かったようです。宮地が病弱だったのか、あるいは戊辰銭湯の身体的・精神的ストレスのなせるものなのか、ぽん太にはわかりません。この点は、気が向いたら、日を改めてみちくさするかもしれません。
 慶応4年(1968年)2月14日、京を出発して江戸へ向かいます。3月1日、先日ぽん太が高ボッチ山に登ったときに通ったばかりの塩尻峠にさしかかり、諏訪湖と富士山を望む絶景を誉め讃えています。ぽん太は逆方向に越えたので、そんなに景色がいいところだとは気がつきませんでした。
 ここでぽん太が興味深かったのは、諏訪湖の白狐の伝説を書き留めていること。諏訪湖の水が凍ると白い狐が通り、そこが街道になって人馬の通行が始まり、春になって暖かくなると再び白狐が通るのを合図に、通行が出来なくなると書いています。
 歌舞伎の「本朝廿四孝」(ほんちょうじゅうにしこう)で、兜の力によって八重垣姫に狐が乗り移り、姫は諏訪湖の氷の道を渡って行きます。これは今で言う御神渡りを題材にしていると思われます。ぽん太は以前に、御神渡りと狐の関係をぐぐってみたのですが、はっきりとした情報が見つかりませんでした(そのときの記事はこちら)。しかし宮地の記述からすると、諏訪湖の狐の伝説は、幕末には広く知られていたようです。ということは、明治の神仏分離のときに、狐伝説は消し去れたということでしょうか?まだまだ興味は続きます。
 3月6日、勝沼で甲陽鎮撫隊と交戦し、敵を敗走させました。もっともこの時は敵の正体はわかっておらず、3月11日の日記にようやく、敵の大将は大久保剛という者だが、近藤勇の変名であると書いてあります。
 3月15日、江戸新宿に到着。4月11日、江戸城の無血開場。仕事をしたり見物をしたりして過ごしました。
 4月23日、江戸を出発して北へ向かいました。4月25日、壬生戦争における死者や負傷者の名前が記載されております。死者・負傷者名の列挙は本書ではよく見かけますが、ここが初出となります。
 閏4月1日からしばらくは、今市・日光付近に逗留。お仕事の合間に、左甚五郎の眠り猫を見て「見事で生きた猫と変わりなし」と書いたり、男体山、中禅寺湖や滝(華厳の滝?)を見学。日光の律院は「バケモノ寺」と呼ばれていて、本堂の天井に血まみれの手で撫でた跡があると書いています。現在の日光山興雲律院のことでしょうか、ググってみると確かに「血染めの天井」というものがあるようですが(→こちら)、修行の寺で観光客の見学は受け入れていないようです。
 この後、だんだんと賊軍との戦闘の機会が増えてきて、記載も血なまぐさくなってきます。
 5月25日、白河入り。6月6日、川へうなぎ釣りに行ったが、首、腕、足などが流れて来て、あまりにうっとうしいので帰ったとのこと。6月12日、戦闘の末に敗走した賊軍を追撃。人家があったので放火。生け捕った敵の足軽の首を斬り、体を川に流しました。
 6月22日、七連銃(スペンサー銃)を、10両の借金をして38両で購入。新式の銃を手に入れて、これからの自分の戦功が頭に浮かんで来て元気が湧き、嬉しいこと限りなかったそうです。
 7月27日、出くわした賊軍を撃ち殺したと思ったが、近づいてみると生きていたので、腰のあたりを刀で突いたところ、2回ほど「堪忍して」と言ったあと、うなって死にました。この夜は仲間と酒を三、四合ひっかけたとあります。
 8月21日、母成峠の戦いに参戦。官軍が裏を突いて、会津軍の首尾が手薄だった母成峠を攻め、勝利した戦いです。母成峠はここ(→googleマップ)で、よく見るとぽん太がこの冬に中沢温泉を訪れた時に通った道ですね。そんな歴史ある道だったのか……。「弾丸が雨のように飛んでくる」状態で、宮地は「心中はまるで夢の中のようだ」と記しています。
 翌8月22日、母成峠から猪苗代に移動。あまりに順調に勝ち進んだため、補給が間に合わなかったのか、空腹で兵隊たちは動けなくなりました。木の実などを採って食べたが間に合わず、ところどころに会津軍が残して行った食料を食べて、何とか腹を満たしました。猪苗代駅に着きましたが住民は人っ子一人おらず、売り物の菓子から、民家にあった米、鶏や池の鯉まで焚いて食べたそうです。
 ついに会津城の包囲線が始まりますが、8月30日に「今日、少し体調が不調なので引き籠っていた」という記載があります。9月4日にも越後口へ進軍の命令が出たが、「少し体調が悪いので、残ることにする」との記載があり、最後の決戦に臨んで、体調不良での休養が許されるというのは驚きです。
 9月22日、松平容保が降伏。「父子とも駕篭で去る。供のもの、二十人ばかりで、軍服のままで刀も差していない。実に目もあてられぬ事だった」と宮地は書いております。
 間もなく仙台も降伏し、宮地にも故郷に戻る日が来ました。帰りは栃木県の阿久津(現在の東北本線宝積寺駅付近でしょうか)から船に乗って鬼怒川を下って久保田(結城市、水戸線の川島駅のちょっと下流あたりか?)でおり、そこから境駅(茨城県猿島郡境町か?)に出て、再び船で江戸川で下って江戸に戻ったようです。
 数日間江戸に留まりますが、行きと違って物見遊山の報告はなく、この間の戦闘における仲間の戦死者、負傷者の名前を、延々と列挙しています。
 品川からは外国船に乗って土佐まで行き、11月1日に無事我が家に戻ったようです。

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2013/12/17

【拾い読み】ガラメキ温泉の情報を入手。池内紀「ガラメキ温泉探検記」

 先日、榛名山麓にあるガラメキ温泉に入って来たぽん太ですが、「ガラメキ温泉探検記」(池内紀著、廣済堂、1990年)という本があることを知り、読んでみました。
 著者の池内紀は言わずと知れたドイツ文学者。カフカの翻訳で有名ですね。1940年生まれですから、この本を出版したのが50歳。なかなかの物好き温泉ファンですね。
 上記のようなタイトルですが、まるまる一冊ガラメキ温泉のことが書かれているわけではなく、様々な温泉が取り上げられております。「ガラメキ温泉探検記」は、そのうちの一章のタイトルですが、これを署名にするということは、池内先生にもよっぽど印象に残ったのでしょう。
 さて、いつもならここで本書全体の拾い読みに入るところですが、今回はガラメキ温泉に関することだけ。
 池内氏がいつガラメキ温泉を訪れたのかは、本文中にはありませんが、この章の初出が日本交通公社の『旅』の1989年10月号であり、また本文の書き出しが「台風が近づいていた」というところから察すると、1989年の夏〜秋と思われます。
 ガラメキは、「がら女き」あるいは「我楽目嬉」などとも書いたそうです。
 明治35年発行の『伊香保温泉場名所案内』には、「住古人皇十四代仲哀天皇の御宇発見し遠近の老若入浴し効験の著しき事を知れり」、「鉱泉旅舎は阿蘇山や方、富士見館、扇屋等にして夏季に至れば都鄙の浴客多し」と書かれているとのこと。
 榛東村の村役場にある「温泉源泉台帳」によると、所有者は大蔵省となっているので、国有林のなかにあることになる。群馬県衛生研究所によれば、泉温30.5度、無色透明、クロールソーダ、硫酸、塩水などを含む。明治31年に相馬温泉組合が設立され、御料地だったところを借地して開発したそうです。源泉のすぐ下に大黒天の碑があり、「明治二十一年・湯元・松本福次郎」とあり、また石垣の上方に小さなほこらがまつってあって、明治二十一年の年号と、「ガラメキ温泉」という名前が刻まれているそうです。
 この温泉地周辺には、明治43年に陸軍の演習場が置かれ、高崎のだい15連隊が使用したそうです。さらに昭和21年4月、この演習場はアメリカ軍によって接収され、ガラメキ温泉は強制立ち退きが命じられたそうです。
 ここが有名なジラード事件の舞台となったそうですが、無知なるぽん太は知らず。Wikipediaを見てみると、1957年(昭和32年)1月30日に、薬莢を盗むために演習地内へ不法侵入していた日本人主婦を、アメリカ兵のウィリアム・S・ジラード特務二等兵が射殺。裁判を日本でやるか、アメリカでやるかなどでもめて、大きな社会問題となったそうです。
 さて、本書のなかでも源泉は沢にあり、「うす暗がり中に石柱が一つ。その下にまん丸いコンクリートの穴があって、鉄の蓋がのっている。駆けよって蓋の把っ手に両手をかけて横にずらし、すきまから手を差し入れた。あたたかい!」と書いてありますから、現在と状況はあまり変わらないようです。例の鉄製の蓋も、当時のままなのでしょう。入っている分にはあたたかいが、外に出ると寒いので、三人で入浴したと買い照りますから、さぞかし窮屈だったことでしょう。

 本書から得た情報はこれぐらいですが、以前には見つけられなかったガラメキ温泉の画像が、いくつかみつかりました。まず「我楽目嬉」で画像検索をかけたところ、「やまだくんのせかい」というブログに当時の阿蘇山館の絵が載ってました(こちら)。また「富士見館」でぐぐると、「ハレルヤ美容院」のブログに、「上毛 我樂目嬉温泉 全景」と「富士見館 全景」という2枚の絵はがき(写真)がアップされておりました(こちら)。昭和8年4月6日の消印があります。当時の温泉場らしい鄙びた雰囲気がいいです。

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2013/11/15

【拾い読み】混浴のみならず、温泉や銭湯の歴史がわかります。下川耿史『混浴と日本史』

 ふと目にとまって、下川耿史(しもかわこうし)の『混浴と日本史』(筑摩書房、2013年)を読んでみました。混浴の歴史を真面目に研究している人たちがいるということも驚きでしたが、その内容も知らないことばかりで、目から鱗の体験でした。普段なにげなく入っている温泉ですが、こんな歴史があったんですね。
 以下、いつものように、ぽん太が面白かったところの抜き書きです。
 日本における混浴の記録は、養老5年(721年)の『常陸風土記』が最初とされていて、混浴の記述が二カ所あるそうです。また、天平5年(733年)の『出雲風土記』にも、二カ所に混浴に関する記述があり、一つ目は現代の玉造温泉、もうひとつが湯村温泉と考えられるそうです。ぽん太が以前に湯村温泉を訪れた時の記事はこちらです。
 歌垣(うたがき)、あるいは東日本では嬥歌(かがい)という風習があり、特定の日に若い男女が集まって飲食をし、歌を交わしながら、気に入った相手と性的な関係を持つというものだそうです。著者ははっきりした証拠は挙げておりませんが、しばしば歌垣の場となった「川あみ」(川で水浴すること)と同様、温泉も歌垣の場となったのではないかと言います。
 『古事記』や『日本書紀』では、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギの命が、穢れを清めるために禊(みそぎ)を行ったところ、次々と神を生んだとされています。そのことはぽん太も知ってましたが、著者は、水辺で次々と女性と交わったと解釈し、禊と歌垣とを結びつけています。これが定説なのか、著者の思いつきなのか、ぽん太は判断できません。
 お湯ではなく海水ですが、大阪の住吉大社では、明治時代の終わりまで、夏祭りの神輿渡御が長峡の浦(ながおのうら)で、数百人の男女が丸裸で押し合いへし合い海水を浴びるという行事が行われていたそうです。現在の住吉祭りの神輿洗神事の前身でしょうか。
 諏訪温泉、草津温泉、道後温泉は、縄文時代から湧き出ていて、当時の住民が活用していたことが確認されているそうです。別府温泉に関しては、『豊後国風土記』や『万葉集』に、血の池地獄に当たる「赤湯の泉」や、鉄輪温泉にあたる「玖倍理湯の井」(くべりゆのい)といった記述があるそうです。蔵王温泉、万座温泉、伊香保温泉、和歌山県湯の峯温泉、佐賀県古湯温泉などは、弥生時代から古墳時代に始まったとされているそうです。
 奈良時代になった頃、歌垣は性的意味合いが消失し、農作祈願の行事となり、踏歌節会(とうかのせちえ)という宮中行事になったそうです。
 湯(ユ)という言葉が、斎(ユ)から来ているという説があり、折口信夫もその一人ですが、それが正しいかどうかは疑問があるとのこと。
 東大寺には750年頃に大湯屋と称する浴室が設けられ、修行としての入浴と同時に、衆生救済としての入浴が行われました。これが日本人が温泉以外のところで入浴することになった始まりだそうです。
 経典の「大比丘三千威儀経」(だいびくさんぜんいぎきょう)や「仏説温室洗浴衆僧経」(ぶっせつうんしつせんよくしゅうそうぎょう」には、入浴の効用が書かれているそうです。また「教誡律儀輯解」には、入浴のマナーが書かれているそうです。
 大寺院が庶民に風呂を提供する活動は、「功徳湯」と呼ばれたそうです。風呂は蒸し風呂と洗い場からなっていたそうです。ぽん太は以前に、京都の相国寺の浴室を見学したことがありますが(そのときの記事はこちら)、それと似たようなものだったのかもしれません。
 奈良時代、奈良は多くの僧と尼僧にあふれ、風紀の乱れがあったそうです。延暦16年(797年)、奈良に派遣された検非違使・藤原園人は、男女の混浴を禁止したそうです。当時風呂と言えるものは大寺院の風呂しかありませんでしたから、禁止令以前は僧と尼僧の混浴が行われていたと考えられるそうです。
 平安京には、最初から天皇が入浴するための「御湯殿」が設けられていたそうです。また後醍醐天皇(在位1318〜1339年)の撰といわれる『日中行事』には、天皇が入浴する際の手順が書かれているそうです。
 天皇ではなく、貴族の屋敷に湯殿が設置されたのは、平安時代後期と考えられており、藤原実資の『小右記』の長元元年(1028年)の条に「湯屋の近くに井戸を掘った」という記載があり、これが個人の家に湯屋があることの最古の記録だそうです。
 その後、女性が湯殿で主人の世話をするというやり方が広まり、湯殿で性的関係を持つことがポピュラーになったそうです。
 「銭湯」(町湯)がいつ頃できたかは、はっきりしていないそうです。『公衆浴場史』では、公家日記などを根拠に、平安時代としているそうです。
 一方「銭湯」という言葉の初出は、『祇園執行日記』の正平7年(1352年)1月の条だそうです。
 銭湯が混浴だったかどうかに関しては、『公衆浴場史』によれば、鎌倉時代から室町時代に、温泉の混浴の風習が浸透して来て、銭湯も混浴になったんだそうです。
 『竹取物語』のなかに、かぐや姫に難題を与えられた倉持の皇子が朝廷に、「筑紫の国に湯あみに行ってくる」という口実で休暇届を出す場面があるそうです。この温泉は吹田温泉を指すとされているそうです。温泉に湯治に出かけるために休暇を取ることは、湯治はしばしば行われていたそうです。
 平安時代には、西国三十三所の霊場めぐりという風習が始まりましたが、『西国三十三所名所図会』などを見ると、それは温泉巡りとセットになったレジャーだったそうです。また、大阪の「堺の塩湯」や、京都の「八瀬の窯風呂」が有名だったそうです。
 建久2年(1191年)、有馬温泉に「湯女」(ゆな)と呼ばれる女性がサービスするという、風呂史上の画期的な出来事が起きたそうです。彼女らは、ときに遊女のようなことも行ったそうです。とはいえ、湯女は各宿坊に二人と決められており、また湯治有馬温泉は多くの湯治客で賑わっていたため、性的サービスがメインという状況ではなかったと考えられるそうです。
 鎌倉時代になると、それまでは寺院が行うものであった施湯を、豪族から村人までの個人が行うようになったそうです。それは時に、慈善活動の色彩も帯びました。
 慶長19年(1614年)に出版された『慶長見聞集』には、江戸の最初の銭湯は1529年に開業したことが書かれているそうです。その後二十数年後には、各町内に銭湯ができるほどになったそうです。当時の風呂には、戸棚風呂という狭い蒸し風呂に戸を開け閉めして入る方式と、ざくろ口を持った形式とがあったそうです。
 湯女風呂が最初にできたのは、天正18年(1590年)の大阪。しかし当初は性的な色彩はなかった。湯女が遊女に変わってきてのは、寛永中頃(1630年頃)と考えられる。その後急速に拡大し、1950年代の江戸には200軒以上の湯女風呂があったそうです。なかでも神田四軒街から雉子町にかけては美麗を尽くした湯女風呂が並んでおり、堀丹後守の前に位置することから、「丹前風呂」と呼ばれた。勝山という湯女が特に人気で、どてらを粋に着こなしていたことから、どてらを丹前と言うようになったんだそうな。
 1638年頃から幕府は、湯女風呂を規制する布告を何度も出すようになりました。そして明暦2年(1656年)、吉原が日本橋から浅草の北に移転したのをきっかけに、湯女風呂はすべて取り壊され、残った湯女は吉原に送り込まれたそうです。
 このあと、男性ばかりの風呂に女性が入り込むようになり、この混浴の形態を「入り込み湯」と呼びました。江戸に女湯ができたのは、ようやく1733年ごろになってからと考えられます。寛政の改革で、1791年に徳川幕府初の混浴禁止令が出されましたが、その後も混浴がなくなることはなかったようです。
 明治時代になって、日本蔑視の理由になりかねない混浴は徹底的に規制されました。しかし地方や温泉場では、混浴が許されていたようです。
 1913年、伊東温泉の北里柴三郎の別荘内に、温泉を使った温水ブールが作られたそうで、「北里万人風呂」と呼ばれたそうです。ぐぐってみると、万人風呂ではなくて「千人風呂」のようで、例えばこちらの北里大学のサイトに写真が載っております。伊東温泉の松川歩道の「湯壷より鮎つる見えて日てり雨」という木下杢太郎詩碑の前あたりにあったようですが、正確な場所がわかりません。こんど伊東に行ったときに探してみます。
 この後、伊東でやまだ屋という温泉旅館を経営していた井原兄弟が、温泉プール2号を造り、これが「千人風呂」と呼ばれたといいます。実は井原兄弟は、このプールを混浴風呂として利用しました。また、ロンドンオリンピックに向けての水泳選手の強化合宿のため、この温泉プールが使われたんだそうです。

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2013/02/18

【拾い読み】アウンサンスーチーに入門/根本敬・田辺寿夫『アウンサンスーチー 変化するビルマの現状と課題』

 正月に観光したミャンマーの理解を深めるため、根本敬/田辺寿夫の『アウンサンスーチー 変化するビルマの現状と課題』(角川書店、2012年)を読んでみました。新書「角川oneテーマ21」の一冊なので手頃で読みやすいです。前半はビルマ近代史を専門にする上智大学教授の根本敬がアウンサンスーチーについて論じ、後半は、NHK国際放送ビルマ語班に所属していた経歴のあるフリージャーナリスト田辺寿夫が、日本に住むビルマ人についてエッセー風に書いております。知ってるようで知らないアウンサンスーチーさんについて、基本的な知識を得ることができました。以下いつもの拾い読み。

 アウンサンスーチーさんの自宅軟禁は全部で3回、15年2ヶ月に及ぶそうです。最初の軟禁が1989年7月から1885年7月までの6年間、二回目が2000年9月から2002年5月までの1年8ヶ月、最後が2010年11月から2003年5月までの7年半とのこと。以前のブログに書いたように、「自宅」軟禁といっても広大な敷地をもつ邸宅ですが、それでも15年間は凄いですね。
 2011年にミャンマーは民政移管されましたが、連邦議会の上院・下院それぞれの議席の25%が、あらかじめ軍人に割り当てられ、選挙で選ばれたのは75%にしか過ぎないそうです。また2008年に制定された憲法によれば、大統領は軍事に通じていることが「資格」とされており、内務大臣・国防大臣・国境担当大臣に関しては、任命権は大統領ではなく国軍最高司令官にあるそうです。また国家が非常事態に直面したときには、大統領は全権を国軍最高司令官に以上できるという規定があるそうで、軍が合法的にクーデターを起こせる抜け穴が作られているそうです。しかもこの憲法を改憲するためには、両院で75%以上の議員の賛成が必要だそうです。先ほど書いたように両院の25%が軍人ですから、民主的な方向への改憲は非常にハードルが高い仕組みになっているそうです。
 著者(根本敬)は、民政への移行の三つの理由を推測しています。最初の理由は、「独裁的・非民主的・人権抑圧・難民流出国」といった軍政時代の負のイメージを改善したいと考えたから。第二の理由は、安定的な経済発展の重要性に気付き、アメリカやEUの経済制裁を解除してもらうために、民主化するしかないと考えたから。最後の理由は、中国の衛星国家にされてしまう危険から逃れるため、西側との関係を強化したいと考えたから。
 アウンサンスーチーの思想には、国民の一人ひとりが「心の中の恐怖を克服する闘い」や「心理の追求」を行う強い意思が必要であるという、「自力救済」的な色合いがあります。この思想の背景には、ミャンマーの上座部仏教の影響があると考えられます。上座部仏教は、「仏の慈悲によって救済される」といった日本に伝わった大乗仏教とはことなり、一人ひとりが厳しい修行を通して悟りを開くことが求められます。しかしながら、一般の民衆が、彼女のいうような強い意思を持ちえるかどうか、という問題があります。また、アウンサンスーチーの自力救済の考え方は、他の宗教の人から見ると「傲慢」に見える可能性があるそうです。

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2013/02/17

【拾い読み】軍政が平和的に民政移行した理由が少しわかった・春日孝之『未知なるミャンマー』

 ミャンマー旅行に行って来たぽん太は、ミャンマーの理解を深めるため、春日孝之の『未知なるミャンマー』(毎日新聞社、2012年)を読んでみました。著者の春日孝之は毎日新聞の記者で、2011年の夏にミャンマーに3週間滞在し、その体験をまとめたのが本書だそうです。
 悪名高い軍事政権だったミャンマーは、2007年から改革を開始。2010年11月にアウンサンスーチーの軟禁が解かれ、2011年3月にはテインセインがミャンマー大統領に就任し、民政に移管しました。著者がミャンマーを訪問した20011年夏はその直後ですが、いまだ軍政時代の名残が見受けられ、ジャーナリストであることを隠して「紙幣研究家」という名目で入国したそうです。なんかぽん太には、紙幣研究家の方が新聞記者よりよっぽど怪しい気がしますが……。
 ぽん太がミャンマーを訪問して一番疑問に思ったのは、なぜ軍事政権が、武力闘争もなく民政に移行できたのかということです。本書を読んで、その疑問は解決したわけではありませんが、西欧社会とは一風違った仏教的な考え方など、おおいに参考になりました。
 いつものように、興味ある方は自分で読んでいただくことにして、ぽん太が面白いと思った点を抜き書きいたします。

 ミャンマーでは1987年に、45チャット札と90チャット札という何とも中途半端な金額の紙幣が発行されたんだそうです。なんでこんな金額の紙幣が発行されたのかよくわからないそうですが、占星術が関係していたという見方が定説なんだそうです。45も90も9の倍数であり、ミャンマーでは9が縁起のいい数字とされているんだそうです。
 民政移管を控えた2011年2月、政府の公式夕食会に集まった軍政の最高幹部たちは、女性用のロンジー(民族衣装の巻きスカート)を着用して女装していたそうです。これはヤダヤ(厄払い)の可能性が高いそうで、おそらくは占星術師が「近く女性が政権を取る」とでも占ったため(アウンサンスーチーさんのことか?)、女装することによって、「われわれがその女性だ」とアピールしたと考えられるそうです。
 ミャンマーの電力事情が悪いことは、以前のブログに書きました。しかしかつての軍事政権は、ミャンマー北部のカチン州に、中国と協同で水力発電用のダムをいくつも建設してきました。しかしその電力の大半は中国に送られていたそうです。テインセイン大統領は2011年にこうしたダムの建設を中止するという英断を下したそうです。
 ミャンマーでは地方の小都市にいたるまで各地に大学が設置されていますが、これは「地方のすみずみまで教育を普及させる」などという崇高な理念に基づくものではなく、軍政時代に学生たちが集まって民主化運動を起こさないように、大学を解体して分散したんだそうです。
 かつてシャン州北部の山岳地帯が麻薬の一大供給源となっており、「黄金の三角地帯」と呼ばれていたことは以前のブログに書きました。第二次大戦後に中華人民共和国が誕生したとき、共産党と戦ってきた国民党の一部が国境を越えてシャン州に逃げ込みました。アメリカは反共産主義の立場から国民党を後押しし、資金源としてアヘンの栽培を奨励した過去があるそうです。
 ミャンマーといえば、旧日本兵の遺骨収集団がトピックスのひとつですが、ミャンマー人は、遺骨を粉々の灰になるまで焼いて、処分してしまうそうで、いわゆる「お墓」もないそうです。また、死んでしまった人のことをいつまでも悲しんだりせず、一定の期間が過ぎたら忘れてしまうのがいいと考えられているそうです。
 「ラングーン事件」というのは、ぽん太は知りませんでした。1983年に韓国の全斗煥大統領がラングーン(今のヤンゴンですね)を訪問したとき、北朝鮮が全斗煥殺害を狙って爆弾テロを起こしたんだそうです。ところがその場所がアウンサン将軍の霊廟であったためミャンマーは激怒し、北朝鮮との国交を断絶し、国家承認まで取り消したんだそうです。
 ミャンマーの政治指導者は、北朝鮮のように自分をカリスマとして演出したりはしませんでした。また、親族を主要ポストにつけたり、ましてや権力の世襲もありませんでした。著者は、軍事政権が平和的に権力を委譲した背景に、仏教に基づくミャンマー人の精神性が関係しているのではないかと書いています。
 少数民族問題は、ミャンマーの重要な問題のひとつですが、かつてのイギリスの植民地政策が少なからぬ影響を与えているそうです。イギリスがミャンマーを植民地支配したとき、連れて来たインド人を重用しましたが、現地人としては少数民族を優遇し、多数派のビルマ族を最下層に押し込めて抑圧したそうです。民族どうしを互いに反目させ、支配者のイギリスに反目しないようにする、いわゆる「分断統治」政策だったそうです。そこで日本はビルマ族と結託してイギリスと戦おうとする、という流れだそうです。

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