カテゴリー「書籍・雑誌」の32件の記事

2018/06/01

【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(3)当時の精神医療

 鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)の拾い読み、今回でラストです。

 今回は、ニジンスキーと当時の精神医療についての拾い読みです。

 ニジンスキーの性的初体験は娼婦が相手であり、彼はその後も娼婦を買うという習慣を捨てませんでした。しかも初体験の相手から淋病を移されたらしい。そのときニジンスキーは18歳ですから、1908年のことか。世界初の抗生物質のペニシリンが発見されたのが1928年ですから、まだろくな治療法もなかった時代で、治すのに苦労したようです。
 性病といえば、ニジンスキーが晩年に精神病になったことと関連して、梅毒にはかからなかったのかという疑問がわいてきます。
 梅毒の原因である梅毒トレポネーマは、1905年シャウディンとホフマンによって発見されました。翌年1906年にはワッセルマンが、梅毒の感染を検出するワッセルマン反応を発明。梅毒は症状も独特ですが、この時点で診断もかなり精度があがりました。梅毒の治療に関しては、1910年にサルバルサンが発明されました。1928年には抗生物質第一号のペニシリンがフレミングにより発見され、1940年代には広く使われるようになりました。
 ということは、ニジンスキーの時代には梅毒は診断も治療も可能だったことになりますから、ニジンスキーが梅毒で精神障害を起こしたという可能性はなさそうですね。


 1917年にサンモリッツに移ったニジンスキーは、初めこそ精神状態が改善したように見えましたが、次第に舞踊に対する関心を失い、かわりにパステルや木炭による抽象画に熱中するようになりました。これらのデッサンとユングのマンダラの関連性を、鈴木晶氏は指摘しております。
 ちなみにユングは、1875年、スイスの生まれ。チューリヒ大学のオイゲン・ブロイラーの元で学んだあと、フロイトに接近し、1911年には国際精神分析協会の初代会長となりました。しかし1914年にはフロイトと決別し、「心理学クラブ」を設立して分析心理学の確立に集中するようになりました。
 フロイトから次第に離れていく1912年から1916年ごろ、ユング自身がかなり精神的に不安定な状況になったのですが、この時彼は自分の深層心理に導かれて、重なり合った円のような図形を書き続けました。また自分以外にも、回復期の患者がしばしば同様な図形を描くことに気づきました。1928年に中国の錬金術の本を読んでマンダラを知るとそれに夢中になり、1929年に『黄金の華の秘密』という本を出版します。ユングにとってマンダラは、集合的無意識の現われとしてたいへん重要な概念になっていきます。
 ユングが直接ニジンスキーを診察したことはなかったようですが、なんかふたりの間にシンクロニシティーを感じますね。


 ニジンスキーが、1919年の「最後の踊り」の日から一ヶ月半にわたって書き記した『手記』は、鈴木晶氏の訳で完全版が出版されております(『ニジンスキーの手記 完全版』(新書館、1998年)。読んでみると、完全に統合失調症の幻覚妄想状態ですな。この本のみちくさはまたの機会に。


 サンモリッツには、リゾート客を相手にしていたフレンケルという内科医がいましたが、若いころチューリヒ大学でオイゲン・ブロイラーの講義を聴いて以来、精神分析に興味を持っていたこともあり、ニジンスキーの主治医となって素人精神分析を施し、またニジンスキーの妻ロモラと不倫関係になっていたらしいです。『手記』の混乱したように見える記述には、フレンケルの影響があるのかもしれません。


 ブロイラーに関しては、ドイツ語のウィキペディアが詳しいです(Eugene Bleuler-Wikipedia)。1857年にチューリヒの近くで出生。チューリヒ大学の医学部を卒業し、精神医学を志す。博士号を取得し、留学などを経て、1884年から1885年頃にチューリヒ大学医学部の精神科病院ブルクヘルツリの医員となり、1886年からライナウの精神科病院の院長、そして1898年にはブルクヘルツリ院長、チューリヒ大学医学部精神科の教授となりました。1900年から1909年まで、ブルクヘルツリにユングが勤務していたことは知られております。
 ということで、フレンケルがブロイラーの講義を聞いたのは1898年以降と推定されますが、それ以前にブロイラーがチューリヒ大学の講義を受け持っていた可能性もあります。
 ブルクヘルツリは現在も、チューリッヒ大学医学部の精神科病院として機能しております(Burghölzli-Wikipedia英語版)。場所はここです(google map 3D写真)。美しい建物ですね。


 1919年3月、ニジンスキーは妻に伴われてブルクヘルツリを訪れ、ブロイラーの診察を受けます。ブロイラーのカルテには次のように書かれていたそうです。

 彼は精神病と診断されることを怖がっていて、私の質問に対して、ほとんど洪水のような言葉で答えるのだが、あまり内容はなく、言い抜けやはぐらかしが見られた。彼は私に、精神病の人をどうやって見分けるのかといったことをしつこく尋ね、自分は妻がどう反応するかを試すために、妻の前では精神病のふりそしているのだ、それで時どきじっと部屋の隅を見つめたりするのだ、と説明した。妄想に関してはいっさい情報を提供するまいと防衛していた。明らかに以前は知能が非常に高かったと思われるが、いまは軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症である。

 このあたりの記述は、アメリカの精神科医オストウォルドの『ヴァーツラフ・ニジンスキー 狂気への跳躍』(Peter Ostwald, Vaslav Nijinsk: A Leap into Maddness, A Lyle Stuart Book, 1991)に基づいているようです。邦訳はありませんが、アマゾンで原書を購入できます。ぽん太も一応購入手続きをしてみましたが、読む元気があるかどうかはわからないです。Ostwaldってどっかで聞いたと思ったら、『グレン・グールド伝―天才の悲劇とエクスタシー』の著者ですね(こちらは邦訳あり)。
 上記の引用の中で、「軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症」という表現に関し、鈴木晶氏はオストウォルドの見解どおり、「躁鬱病である可能性も否定できないが、おそらく統合失調症だろう」という意味にとっています。しかしぽん太には、ちょっと陽気で多弁な状態の統合失調症だったように読めます。このあたりは原書を読んで見ないとなんとも言えないですね。
 ブロイラーは、ニジンスキーの妻ロモラに、環境のよい高級私立病院のベルヴューへの入院をすすめました。また離婚も勧めたそうで、鈴木氏はロモラを「結婚の義務から解放してやるべきだと考えた」と書いておりますが、「ロモラと一緒にいることがニジンスキーにとってよくない」と考えたからかもしれず、ぽん太には判断がつきません。
 ニジンスキーとロモラはホテルに戻りましたが、その晩にホテルでトラブルを起こし、ブルクヘルツリに緊急入院させられました。そして2日後にベルヴューに転院になりました。ブルクヘルツリでの診断は(そしてベルヴューでも)カタトニー(緊張病)だったそうです。オストウォルドは現在ならば「自己愛性人格における統合失調感情障害」と診断されるだろうと書いているそうですが、緊張病の興奮と昏迷と、統合失調感情障害の躁状態とうつ状態は、全然異なるものなので、混同されるとは思えません。もっともぽん太はブロイラーの時代の診断体系には詳しくないので偉そうなことは言えませんが、ここもちょっと疑問に思えるところです。
 というか、書いたばかりのニジンスキーの『手記』を読めば、躁鬱病ではなく統合失調症であることは一目瞭然のはずですが、『手記』はロシア語で書かれておりましたし、ロモラとしては他人の目に触れさせたくないことも書いてありましたから、この時はブロイラーが読む機会はなかったのでしょう。


 1919年にニジンスキーはベルヴューに入院しました。ベルヴュー(Sanatorium Bellevue )は、ビンスワンガー家が4代にわたって運営した個人精神科病院で、ニジンスキー入院時の院長は、現存在分析の創始者のルートヴィヒ・ビンスヴァンガーでした。もっとも彼が現存在分析を確立したのは1930年代から40年代のことですから、もっとあとの話です。というか、ビンスヴァンガーはちょうどニジンスキーとの関わっている時期に、現存在分析を確立していったことになります。
 ベルヴューは、ルートヴィヒのあと、息子のウォルフガング・ビンスヴァンガーが後を継ぎましたが、財政の事情から1980年に閉院しました。場所はたぶんこの辺ですね(googe map 3D写真)。建物の多くは現在は建て替えられてしまっているようです。
 ビンスヴァンガーは病院のなかで、外部からの客も集めて、ニジンスキーのダンス・リサイタルを開いたそうです。またビンスヴァンガーは、妻との再会が良い効果をもたらすだろうと考え、妻と外泊させたりしました(ブロイラーの考えとはちょっと違うのが面白いですね)。


 その後、ニジンスキーの病状はいろいろと変化し、様々な症状が出たようですが、精神科医からみて統合失調として普通の経過、普通の症状なので、バッサリと省略。


 1920年2月、ロモラはニジンスキーを、ウィーンのシュタインホーフ精神病院に入院させました。
 この病院はウィーンの西部にあり、建築家オットー・ワーグナーの計画に基づいて作られたもので、広大な敷地を擁し60もの建物からなっておりました。現在もオットー・ワーグナー病院として診療を続けているようです。付属施設のひとつであるシュタインホーフ教会は、オットー・ワーグナー自身の設計によるユーゲント・シュティールの建物で、現在でも人気観光スポットとなっております。こちらがgoogle map 3D写真です。
 で、当時この病院の院長だったのがヴァグナー=ヤウレックで、梅毒による進行麻痺に対するマラリア療法を1917年に発明して、1927年にノーベル賞を受賞した人ですね。ほんとにニジンスキーは当時の一流の医師の治療を受けてますよね。


 ウィーン滞在中に、ロモラはフロイトに相談に行ったと書いているそうですが、真偽は不明です。


 その後、1922年か23年ごろ、フランスの高名な医師たちに診てもらったそうですが、具体的な名前はわかりません。


 次はまたまた有名人、深層心理学者、アルフレート・アドラーです。最近は、アドラー心理学を踏まえた『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』などという本が売れてますね。
 ロモラは、1936年に出版されることになる『ニジンスキーの手記』の序文をアドラーに依頼したのだそうです。しかし、出来上がった序文をロモラは気に入らず、今度はユングに依頼しましたが、診察したことがないからと、丁重に断られたそうです。
 スゴイですね。三大深層心理学者コンプリートです。
 で、1934年、ロモラはそのアドラーをつれて、再びベルヴューに入院していたニジンスキーを訪ねます。アドラーはニジンスキーを引き取るつもりでしたが、ニジンスキー本人の同意が得られず、転院はかないませんでした。
 オーストリア生まれの医師アドラーは、フロイトの精神分析学派に加わりますがやがて決別。次第にその名声は世界に知れ渡り、アメリカとヨーロッパで半々過ごしながら、世界各地を飛び回る生活でした。しかしアドラーはユダヤ人だったので、ナチスの台頭により、1935年にアメリカに移住をしております。


 ロモラは何かよい治療がないかと、あちこちの病院や大学を訪れ、手紙を書いたそうですが、インシュリン・ショック療法を選びました。アメリカの医師、マンフレート・ザーケルが始めた治療法で、患者にインシュリンを注射し、一定時間、低血糖の昏睡状態に置くというもので、事故死の可能性も否定できませんでした。
 1937年8月、ロモラはザーケル自身を連れてベルヴューへ乗り込みました。しかし精神病を人間的現象として捉えるビンスヴァンガーはこの治療法を拒否。それでも翌1938年7月、ロモラの強い要望の結果インシュリン・ショック療法が開始されました。
 2ヶ月後、目覚ましい改善が見られた、とロモラとザーゲルは思ったのですが、実際はなんの変化もなく、ビンスヴァンガーはこれ以上インシュリン療法を行うことを禁止。そこで12月、ニジンスキーは、ビンスヴァンガーの親友マックス・ミューラーが院長をつとめるミュンシンゲンの州立病院に転院し、そこでインシュリン療法を続けることになりました。
 ミュンシンゲンの州立病院とはこちらでしょうか(Psychiatriezentrum Münsingen - E
Wikipediaドイツ語版
, google map 3D写真)。マックス・ミューラー(Max Müller)はぽん太は聞いたことありませんが、ドイツ語のWikipediaを見ると、のちにベルン大学の教授になったようです。
 ニジンスキーのインシュリン療法は翌1938年6月まで続けられ、ベルヴューと通算228回施行されましたが、莫大な医療費とは裏腹に、さしたる効果はありませんでした。


 何回か入退院を繰り返したのち、ミュンシンゲン病院に入院していたニジンスキーを、1945年3月12日、看護人がロモラのところに連れてきました。敗走するドイツ兵が、精神病院の患者を全員処刑するように命令したというのです。やがてソ連軍が進駐してくると、そこにロシアの英雄ニジンスキーがいることを知って驚いたそうです。
 ところが、気さくなロシア兵と接するうちに、ニジンスキーの病状がみるみる改善し、感情が戻ってきて、自分から話しかけたりするようになったそうです。
 それを見たロモラは、精神科医の指示があったとはいえ、これまで自分たちがニジンスキーにしてきたことは間違っていたのではないかと思ったそうです。何十年間にわたって行ってきた治療よりも、数週間の粗野なロシア兵の扱いの方が、ニジンスキーの病気にはるかに良い効果を与えた。私たちはニジンスキーを外界から引き離し、独房に閉じ込めきただけだった。このことに関して、いまでも決して自分を許すことはできない。


 1950年4月8日、ニジンスキーは「慢性腎炎による尿毒症」により死去。


 その2年後の1952年、最初の抗精神病薬クロルプロマジンが発見され、以後、精神医療は薬物療法の時代に入ります。それによって精神病患者は、これまでとはまったく異なる良好な経過を辿ることが可能になりました。
しかし上のロモラの告白は、現在であっても、精神障害に関わる者が決して忘れてはいけない真実を含んでいるとぽん太は思います。

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2018/05/31

【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(2)病歴のまとめ

 鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)の拾い読み、今回はニジンスキーの精神障害に関する部分です。


 今回は、ニジンスキーの病歴を、医学レポートの形式でまとめてみました。

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病歴報告書
東京都多摩地区狸の穴1番地
どうぶつ精神科病院
医師:ぽん太


【氏名】ヴァーツラフ・フォミッチ・ニジンスキー(Вацлав Фоми́ч Нижи́нский)
【性別】男性
【生没年月日】1890年3月12日〜1950年4月8日
【診断】統合失調症
【既往歴】帝室舞踊学校時代(1898〜1907)に転倒事故にて4日間の意識不明となり生死をさまよい、2ヶ月間入院(後遺症はなし)。
18歳ごろ淋病。5ヶ月ほどで改善。
【家族歴】兄、妹がいる。兄は幼少時からぼんやりしたが、精神障害を発症して入院歴もあり、第二次対戦中に病院内で自殺。また祖母がうつ病で自殺?。
【生活歴】1889年3月12日にウクライナのキエフで出生。両親はポーランド人のバレエ・ダンサー。幼少期は活発で冒険好きで机に向かうことが苦手など、多動傾向が認められた。また言語コミュニケーションが苦手だった。
 1898年、帝室舞踊学校に入学。舞踊技術は優れていたが、陰湿ないじめに会う。いじめのなかで転倒し、上記のように4日間の意識不明となり生死をさまよう。
 1907年、帝室舞踊学校卒業と同時にマリインスキーバレエ団に入団し、頭角をあらわす。
 1909年、ディアギレフが旗揚げしたバレエ・リュスに加わって大活躍し、振付家としても革新的な振り付けにより高い評価を受ける。この頃、気に入らないことがあると興奮して大声でわめくことがしばしばあった。
 1913年、ハンガリー人の女性と結婚。これが原因となりバレエ・リュスを解雇されたため、1914年、自分の一座を組んで公演を行うがうまくいかず、強いストレスを受ける。
【病歴】この頃から、ちょっとしたことで大声を出し、だだをこねるように転げ回ったり、他人に殴りかかるなどの行動が見られるようになった。その後抑うつ状態となり、不眠、思考力低下、易疲労感、情動不安定、不安・抑うつなどがみられ、稽古もできずに横になっている状態となったが、数ヶ月で軽快。1916年からはバレエ・リュスに復帰し、全米ツアーなどに参加。だがここでも癇癪を起こすことが多かった。また友人の影響でトルストイ主義に心酔し、菜食主義となり、ロシアの農民服を着用し、コール・ド・バレエに主役を踊らせるなどした。
 1917年、スイスのサンモリッツに転居。当初は心身ともに回復したようだったが、1918年にはバレエへの興味を失い、マンダラのような抽象画を描きまくるようになる。精神分析に興味を持つ内科医フレンケルと知り合う。
 1919年1月19日、サンモリッツのホテルにて私的なダンス・リサイタルを開くが、かなり前衛的なもので、途中で第一次大戦についての説教をするなどした。
 この日から2ヶ月間、『手記』の執筆に没頭。絵に対する興味はなくなり自分のデッサンをしまい込む。『手記』は極めて混乱しており、妄想的な内容であった。この頃から言動が誰の目にも「異常」と映るようになり、家に閉じこもったり、家族に暴力を振るうなどしたため、フレンケルはオイゲン・ブロイラーにニジンスキーを紹介した。
 1919年3月5日、チューリッヒのブルクヘルツリ病院でブロイラーの診察を受ける。軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症と判断し、同病院では監禁的処遇しかできないため、クロイツリンゲンにあるベルヴューという私立のサナトリウム(院長がビンスヴァンガー)への入院を勧めた。その日の夜、ホテルで騒ぎを起こし、ブルクヘルツリ病院に強制入院となり、2日後にベルヴューに転院となった(ブルクヘルツリの最終診断はカタトニー(緊張病))。
 ベルヴューでは開放的な環境で治療を受けたが、症状は緊張病性の興奮と昏迷を繰り返し、指を目につっこむといった自傷行為や、幻聴も認められた。
 同年7月、妻が来院し、患者の退院を執拗に要求。退院できる状態ではないことを説明したが納得せず、地元の保健所と相談の上、「サンモリッツに患者のために特別な部屋を用意すること、自殺に使えるものを一切置かないこと、経験ある看護人2名が24時間患者を監視すること、精神科医の監視下に置くこと」という条件のもと、7月29日に退院となった。
 しかし約束が十分守られなかったため、12月3日にベルヴューに強制入院となる。病状はかなり悪化しており、暴力を振るったり、床に排泄するなどした。
 1920年2月、妻の転居に伴いウィーンのシュタインホーフ精神病院に転院。この間、妻がフロイトに相談に行ったというが、真偽は不明。
 1922年、同院を退院し、ブダペストの妻の実家に戻り、その後さらにパリに転居。フランスの高名な医師の診察を受けるが改善はみられず。
 1926年、妻がアメリカに渡ったため、妻の姉と看護人が面倒をみたが、道で他人に危害を加えたり、体を出血するまで引っ掻くなどの自傷行為がみられたため、私立の精神病院に入院。退院後、自宅で劣悪な条件で監置される。
 1929年4月、ベルヴューのスタッフが苦労して移送し、ベルヴューに3度目の入院。病状は進行していて、興奮は見られなかったが、外界への興味を失い、ぼうっと座って過ごすことが多かった。
 1934年、妻がアドラーを伴ってベルヴューを訪問。転院を試みるが、本人の同意が得られずにあきらめる。
 この年と翌年に2回の心臓発作。
 1938年、ザーケル医師が自らベルヴューを訪れ、病院内でインシュリン・ショック療法を行う。2ヶ月間行うが、効果なし。
 同年12月、ベルヴューの院長ビンスヴァンガーがインシュリン・ショック療法を禁じたため、効果を信じる妻の希望でミュンシンゲンの州立病院に転院し、インシュリン・ショック療法を継続。
 1939年、インシュリン・ショック療法を計128回行うが、効果は見られず終了となる。ミュンシンゲン病院を退院。
 1940年、ミンシュンゲン病院に再入院。夏、妻の実家のブダペストに移るが、暴力が手に負えず、1942年に私立のサナトリウムに入院。5月、膀胱炎と痔の治療のためブダペストの公立病院に入院。一度退院したが、再度入院。
 1943年、ウィーンの聖ヨハネ病院に入院。
 1945年3月24日、ドイツ軍から精神病患者を全員処刑するよう命令が下ったため、看護人が機転をきかせて患者を妻の疎開先に連れて行く。
 妻とともにウィーンに転居。
 1947年、ロンドンに転居。1948年、ロンドン郊外に居を構える。
 1950年4月4日、ベッドから起き上がれなくなり、ロンドンの私立クリニックに救急搬送。4月8日に死去(死因、慢性腎炎による尿毒症)。

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2018/05/30

【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(1)ダンサー編

 ちょっと前のことですが、ぽん太はハンブルク・バレエの来日公演でノイマイヤーの「ニジンスキー」を観て、いたく感激したのでした。

【バレエ】「ニジンスキー」ハンブルク・バレエ2018年日本公演

 しかし、実はぽん太はニジンスキーをあまり知らなかったので、バレエを見ていてよく解らないところがありました。それではというわけで、鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)を読んで勉強してみました。

 バレエ会場でたびたびお見かけする著者の鈴木晶氏は、バレエ研究家であると同時に、精神分析にも造形が深いので、バレエファンの精神科医であるぽん太は、とても面白く読むことができました。特にニジンスキーが精神病になって踊るのをやめてからの部分が興味深かったです。

 いつものように、ぽん太が興味を持ったところの拾い読みです。興味を持った方はぜひご自身でお読みください。

 こんかいはダンサーとしてのニジンスキーについて。病気に関しては、稿を改めます。


 なんとベジャールもニジンスキーを題材にしたバレエを振り付けているそうな。初演は1971年、タイトルは「ニジンスキー・神の道化」、主役はジョルジュ・ドン。第一部(バレエ・リュスのニジンスキー)と第二部(神のニジンスキー)に分かれていて、第一部にはバレエ・リュスの作品の断片が組み込まれ、第二部には彼の狂気と死が描かれていたそうで。ノイマイヤー版と似てますね。
 これを元にベジャールは、1990年に同じタイトルのバレエを発表しました。この作品では、『ニジンスキーの手記』の朗読が大部分を占めていたそうです。またクライマックスでは、ニジンスキー役のドンが赤い布を舞台上に十字架の形に置き、その上に立つそうですが、これもノイマイヤー版と重なりますね〜。
 ということは、ノイマイヤー版「ニジンスキー」はベジャール版を踏まえており、ベジャール版を観ずしてノイマイヤー版を理解することはできないと思われます。でも、ちょと探してみたのですが、DVDは見つかりませんでした。
 しかし、何と、youtubeで見れるじゃyないですか!(https://www.youtube.com/watch?v=ROS-jG0qAXU&list=PLl50gigE6yC4XZF_EzqSXNaKvIeZYFTMv)。でも、両者の比較検討はまたの機会に……。


 さて、ディアギレフのバレエ・リュスの旗揚げに際して、ニジンスキーはマリインスキー劇場を辞めて参加しましたが、他にマリインスキー劇場から駆けつけたダンサーの一人、リディア・ロプコワは、後に経済学者ケインズと結婚したそうです(まあ、どうでもいいけど)。


 ニジンスキーはマリインスキー劇場を辞めるため、わざとタイツの上に半ズボンをはかずにステージに立ち、解雇されたそうです。当時の男性ダンサーは、タイツの上に半ズボンを履くのが普通だったんですネ。


 ドビュッシーの「遊戯」が、ニジンスキーの振付第2作であることも初めて知りました。しかもテーマはテニス。若い娘ふたりがテニスをしていると、その様子を茂みの中から伺っていた若者が登場。くどいたり嫉妬したりの諸々があって、最後は仲良く三人でダンス。作曲を依頼されたドビュッシーは、「そんなバカバカしいものに曲を書く気はない」と断りましたが、ディアギレフが倍の作曲料を提示したところ、作曲を承諾したそうです。振り付けは失われておりましたが、復元版があるそうです。これもYoutubeにあるので(https://www.youtube.com/watch?v=lovGVYNKG_I)、そのうち見てみたいと思います。


 第一次大戦中の1917年、スイスのサンモリッツに移り住んだニジンスキーには、次第に精神病の兆候が現れてきます。
 1919年、ニジンスキーは突然「狂気と戦争」をテーマにした作品を踊るためのリサイタルを開きたいと言い出しました。そこで同年1月19日、サンモリッツのスブレッタ・ハウスという名のホテルの大広間でリサイタルが開かれました。観客が二百人ほど集まりましたが、スキーをしにきたリゾート客だったそうです。これが、ノイマイヤーの「ニジンスキー」の冒頭とエンディングで描かれていたものですね。
 スブレッタ・ハウスというのはここですかね(公式サイト)。現在もあるようです。お城みたいなかっちょいい建物です(google mapの写真)。公式サイトの(こちら)のページにニジンスキーのことが書かれているから、ここで当たりのようです。

 実際のリサイタルの様子について、本書にはけっこう詳しく描かれています。ちょっと長いけど引用させていただきます。

 広間の照明が暗くなり、友人のピアニストがピアノの前にすわると、観衆の前にニジンスキーが姿をあらわした。黒い縁のついた白い絹のパジャマのような衣装をつけ、ベルトはせず、白いサンダルをはいていた。
 バレエでは、黒いパジャマ風の上下の上に、白い帯状の布をガウンのようにまとってました。足は裸足だったきがするけど。
彼はピアノに近づいて、何かショパンかシューマンの曲を弾いてくれと頼んだ。だが、曲が始まると、彼は椅子をステージの中央にもってきて、それに腰かけ、手足を少しもうごかすことなく、じっと観衆のほうを見つめていた。(……)我慢できなくなった妻が近寄って、「『レ・シルフィード」か何か、みんなのよく知っている曲を踊って下さい」と頼むと、ニジンスキーは「邪魔をするな!」と怒鳴りつけた。だが、ピアニストがショパンのプレリュードを弾き始めると、その曲に合わせて、ゆっくりと両腕を前方に持ち上げた。指先は上を向き、掌は外向きに、つまり観客の方に向けられていた。次いで彼はその両腕を頭の上まであげ、そしてふいに、関節がばらばらになったかのように、両腕をだらりと垂らした。
 バレでは、ピアノが音を出さぬまま、ニジンスキーは椅子に座り続けていて、妻が声をかけるために近づこうとすると、それを制するように立ち上がり、白い布を取ってピアノの方に歩いていきます。そしてピアノのショパンの前奏曲第20番にあわせて、踊り始めました。しかし本に書かれているような動作はありませんでした。
 彼自身は、そうした腕の動きによって大事なメッセージを観客に伝えることができた、と満足していたが、観客席の間にはざわめきの波が広がり、何人かは席を立った。それを見たニジンスキーはますます緊張したが、ふと、観客を楽しませてやらなければと考え、コミックな踊りを見せた。観客席は和み、ちらほら笑い声も聞こえた。
 バレエでも最初の踊りの後、まばらな拍手がありました。そして再び立ち尽くすニジンスキーに妻が声をかけると、ニジンスキーはこっけいな踊りをはじめ、観客が笑い声をあげておりました。この踊りの途中に、ニジンスキーのレパートリーの様々な登場人物が侵入してきて、狂気の世界へとなだれ込んでゆきました。
だが、またもやふいに彼の気分は変化し、陰鬱で真剣な表情になったかと思うと、白と黒の長い布を一本ずつ床一面に敷き、大きな十字架を作り、その十字架の頂点にあたる所に、十字架にかかったキリストのように両手を広げて直立し、つたないフランス語で、終わったばかりの大戦について、そして大戦で失われた無数の生命について説教を始めた。
 布で十字架を作るシーンはバレエのラストにありますが、これは実話だったんですね。
 さて、ニジンスキーは説教を終えると、「これから戦争の踊りを踊ります。あなたがたが阻止できなかった戦争。あなたがたに責任があるあの戦争の踊りです」と言って、踊りはじめ、やがてあの伝説的な跳躍を見せた。踊りはどんどん激しくなり、彼の凄まじい形相に観客は震え上がり、金縛りにかかったように彼の踊りを凝視していた。ニジンスキーは疲れ果てるまで踊り続けた。これがニジンスキーの「最後の踊り」であった。
 この戦争についての説教、踊りの部分を膨らませて、ノイマイヤーのバレエが作られているのですね。バレエ全体が、ホテルで踊っているニジンスキーの記憶と妄想の世界なのかもしれません。


 ニジンスキーの長女キラは、作曲家・指揮者のイーゴリ・マルケヴィチと結婚したんだそうな。マルケヴィチは一時期ディアギレフの愛人だったこともあるらしいです。

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2017/05/16

【バレエの原作を読む(9)】「ダフニスとクロエ」←ロンゴス『ダフニスとクロエー』


 久々登場の「バレエの原作を読む」シリーズ。今回は「ダフニスとクロエ」です。

 「ダフニスとクロエ」は、バレエよりも、原作よりも、ラヴェルが作曲した音楽が一番有名ですね。

 1909年に「バレエ・リュス」を旗揚げしたディアギレフは、1910年に、ロンゴスの『ダフニスとクロエ』を原作とするバレエの音楽をラヴェルに依頼。台本はフォーキンでしたがラヴェルはあんまり気に入らなかったようです。それでもラヴェルは5月にはピアノ譜を完成させましたが、今度がディアギレフがそれを気に入りません。リズムよりメロディー重視だし、合唱が入ってたり……。てなことで初演が延びのびになるなか、待ちくたびれたラヴェルは第1部後半から第2部前半を1911年に「第1組曲」として初演。バレエが初演されたのは1912年になってからでした

 バレエの初演は1912年6月8日、パリのシャトレ座でバレエ・リュス(ロシアバレエ団)。振付けはフォーキン、ダフニスはもちろんニジンスキー、クロエはタマーラ・カルサヴィナ、指揮はピエール・モントゥーでした。

 フォーキン版のあらすじは、例えばこちらのブログ(バレエ音楽「ダフニスとクロエ」|liebevoll)に詳しく書かれております。フォーキン版とは書いてありませんが、たぶんフォーキン版でしょう。
 すごく大雑把にまとめると、クロエに恋心をいだくダフニス。たくましい牛飼いドルコンが「ちょっとまった〜」とクロエに近づくが、踊りが下手で物笑いにされる。ダフニスの踊りにクロエは魅せられ、甘い口づけ。二人は恋に落ちます。年増女リュセイオンがやってきてダフニスを誘惑して立ち去る。そこへ海賊がやってきてクロエを誘拐。絶望したダフニスは、ニンフの助けを得て、パンの神に助けを乞う。すきをみて逃げようとするクロエだが、海賊に手込めにされようとする瞬間、パンが現れて海賊をやっつける。再会を喜ぶ二人。パンを讃えながら、一同祝福の乱舞。

 さて、フォーキン版以外にどのような振付けがあるのか、ぽん太は申し訳ありませんがよく知らないし、調べる気力もないのですが、これまでぽん太が観たものを挙げると……

アシュトン版 英国バーミンガム・バレエ団
 だいたいフォーキンと同じストーリー。詳細は忘れましたgawk
ジャン・クリストフ=マイヨー版 モナコ公国モンテカルロ・バレエ団
 愛し方がわからない若いカップルに、成熟したカップル(リュセイオンとドルコン)が愛の手ほどきをするというエロティックなコンテ作品。
バンジャマン・ミルピエ版 パリ・オペラ座バレエ団
 だいたいのあらすじは同じだが、抽象的な衣装やセット。


 で、原作ですが、ロンゴス(Λόγγος)の『ダフニスとクロエー』(Ποιμενικά κατά Δάφνιν και Χλόηνもしくは Δάφνις και Χλόη)で、翻訳は上にアマゾンのリンクを張った岩波文庫版が手に入りやすいかと思います。

 その解説(松平千秋)によりますと、紀元前後から5世紀にかけて、地中海世界では多くの通俗的な大衆小説が作られたそうで、その大部分はギリシャ語で書かれていたそうです。しかし現在完全なかたちで残っているのはわずが5篇しかなく、ロンゴスの『ダフニスとクロエー』はそのうちのひとつだそうです。書かれたのは2世紀後半から3世紀前半、日本でいうと、邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送ったのが239年ですね。
 作者のロンゴスについては、確かなことはほとんどわからないそうです。
 レスボス島を舞台にした、若い男女のラブ・ストーリー。レスボス島は、エーゲ海の東側にある島で、現在のトルコの沿岸にありますが、ギリシャの領土です。

 で、あらすじですが……。
 めんどくさいけどまとめるかな〜。ゴールデンウィークで暇だし。
 ただ、小学生以下にはふさわしくない表現がありますので、中学生以上だけお読み下さい。

序  レスボス島で狩りをしていた私は、世にも美しい絵をみつけた。そこには恋の物語が描かれていて、多くの人たちがそれを見にこの島を訪れていた。私は長老の話を元にして、4巻の物語を書き上げた。


巻1
 レスボス島の町ミュティレーネーのほど近くに住む山羊飼いのラモーンは、ある日一頭の山羊が男の赤ちゃんを育てているのを見つけた。男の子はたいそう美男子で、、高価な品々を携えていた。ラモーンはこの子の出生を秘密にしたまま自分の子供として育てることにし、ダフニスと名付けた。しばらして今度は羊飼いのドリュアースが、羊が育てている女の赤ちゃんを見つけた。ドリュアースもこの子を自分の娘として育ていることにし、クロエーと名付けた。
 こうして山羊飼いとなったダフニスと羊飼いとなったクロエーは、近くで仕事をしていたこともあり、仲良く一緒に遊ぶようになった。ところがだんだんと二人はお年頃。水浴びをしているダフニスの裸を見て、体を洗ってあげていたら、何かドキドキしてきたクロエーちゃん。夜も眠れず食事もとらず、仕事もほったらかしで、泣いたかと思ったら笑い出す始末。でも恋などという言葉さえ知らないダフニスは、自分が病気になったと思うばかり。
 さて、既に恋をわきまえた荒々しい牛飼いのドルコーンが、クロエーに目を付けました。ダフニスとドルコーンは喧嘩になりますが、言い合いに勝ったダフニスに、クロエーはご褒美のキッスheart01。あらあら、大変。この日からダフニスも恋に落ちました。ほてる体を冷やそうと水浴びしても、恋の炎は燃え盛るばかり。
 しかしエロサイトなどない時代の牧人の二人。ダフニスは、クロエーのかぶっている松の冠にキスをして自分もかぶってみたり、クロエーも、水浴びをしているダフニスの服にキスをして、それを着てみたり。お互いにリンゴをぶつけあったり、髪の毛を整え合ったり。あ〜違うでしょ。あらじれったい。
 そんなある日、テュロスの海賊がやってきて、家畜からなにから略奪を行うが、ダフニスとクロエーは、牛飼いのドルコーンの身を犠牲にした助けを借りて、海賊を撃退する。

巻2
 秋になって、ダフニスとクロエーはブドウの収穫に駆り出されます。ある老人が、二人にエロース(恋)の話を聞かせます。「いいかい、若いお二人さん。恋の病に効く薬は、キスをすること、抱き合うこと、裸になって一緒に寝ることしかないんじゃ。」
 二人は自分たちが恋をしていることを知ります。そして教わった最初の二つの方法を試してみますが、最後の一つはさすがに恥ずかしくてできません。でも二人の心はさらに火がつくばかり。それからの二人は、出会うたんびに抱き合ったりキスしたり。あるとき二人は抱き合ったままバランスをくずして倒れてしまいました。でも、そのあとどうしていいかわからず、夕暮れとともにそれぞれ帰途についたのでした(あ〜〜じれったい)。
 そんなおり、メーテュナムの裕福な若者たちが小舟に乗って、村や町を訪れて遊んでおりました。彼らはダフニスとクロエーの村の近くに船を停めようとしたのですが、とも綱をなくしてしまったので、青い柳の枝で船を陸につなぎ止めました。ところがこの柳をダフニスの山羊が食べてしまったからさあ大変。船は沖に流されてしまい、怒った若者たちはダフニスを責め立て、縛り上げようとします。村人たちはこれには憤慨し、若者たちを追い返しますが、メーテュナムにようやく帰り着いた若者たちは、村人たちに船や金品を略奪されたと嘘を言います。それを聞いてメーテュナム人はミュティレーネーに戦争をしかけ、村々を襲って手当り次第に略奪を行い、あげくのはてにクロエーまでつれ立てて行きました。
 残されたダフニスはニンフの祠に行って悲しみを切々と訴えます。するとあら不思議、その夜、夢の中に三人のニンフが現れ、クロエーを助けるように勇敢な闘士でもあるパーンにお願いしたことを伝えます。実際メーテュナムの船には異常現象が次々と起こります。羊が狼のように吠えだしたり、碇を上げようとしてもびくとも動かなかったり、イルカの群れが海中から躍り出て船を壊したりします。ついには司令官の夢枕にパーンが現れ、クロエーと山羊、羊を返すように命じます。
 クロエーが無事に帰ってきたことを喜んだ村人たちは宴を開きます。再会に喜ぶ二人は、お互いに愛し続けることを誓い合ったのでした。

巻3
 冬が過ぎて、春になりました。長い冬の間に、二人は少し成長しております。ダフニスはクロエーに、老人が教えてくれた恋を癒す三つの薬のうち、だたひとつやり残していたことをしようと言います。そう、裸になって二人で寝るのです。
 「でも一緒に寝てどうするの?」とクロエー。
 「牡羊や牡山羊が牝にするようなことをするのさ。あれは楽しいことに違いないよ」とダフニス。
 二人でしばらく裸でじっと横たわったあげく、ダフニスは山羊のまねをしてクロエーに後ろからのしかかったりしましたが、結局どうしていいかよくわからず、とうとうダフニスは泣き出してしまいます。
 そこに現れたるはリュカイニオンという町から嫁いできた美人で垢抜けした女房。ダフニスとクロエーの現状はとうにお見通し。自分の欲望を満たすチャンス到来とばかりにダフニスをだまして森の中に誘い込むと、まんまと愛の手ほどき。しかしその後もダフニスは、「クロエーに同じことをしようとすると、痛がって泣き出して血だらけになる」とリュカイニオンに言われたことを心配し、あいかわらずキスと抱き合うことしかしませんでした

 夏になると、美しい娘へと成長したクロエーに、あちこちから縁談が持ち上がります。あわてたダフニスは、自分もお婿さんとして立候補しようとしますが、他の金持ちの求婚者には太刀打ちできません。すると霊験あらたかにも三人のニンフが再び夢枕に立ち、お金のありかをダフニスに教えます。
 お告げに従って大金を手にしたダフニスは、クロエーの父ドリュアースに結婚を申し出ます。大金に気を良くしたドリュアースは、自らダフニスの父ラモーンに結婚を掛け合いに行きますが、ラモーンは「自分は領地を持っているご主人様の使用人にすぎない。秋になるとご主人様がやってくるので、その許可が得られたら結婚を許しましょう」と答えます。

巻4
 秋になり、ラモーンはご主人様を迎える準備にせいを出します。
 そこに領主様より一足早く、ご主人様の息子アステュロスが、取り巻きの遊び人グナトーン(男)を伴って到着。グナトーン(男)はクロエーではなくって、なんとダフニスにご執心。ダフニスに後ろからのしかかって「自由にさせてくれ」というと、ダフニスは意味がわからず、「牡牛が牝牛に乗るのはあたりまえだが、牡牛に牡牛が乗るのは見たことがない」と逃げ出します。
 やがて主人のディオニューソファーネスが到着。裕福で、誠実なお人柄。丹精込めて手入れされた畑に満足し、ダフニスの山羊飼いとしての仕事ぶりもほめ讃えます。ラモーンはここぞとばかりダフニスの出生の秘密をみなに打ち明け、証拠の品々を示します。それを見た主人の妻が大声をあげます。なんとダフニスは主人夫妻の実の息子だったのです。皆が大喜びするなか、ダフニスは「そうだ山羊に水を飲ませにいかないと」などと言い出し、「をひをひ、この子はまだ山羊飼いのつもりでおるわい」などと、ホームドラマのような会話があったりします。
 けれどもクロエーは「ダフニスがご主人様の息子だとしたら、羊飼いの私のことなんかもう忘れてしまうに違いないわ」とただ一人嘆くことしきり。そのときクロエーの父ドリュアースは、自信に満ちた表情で、「大丈夫だ、俺にまかせろ」。お父さんかっこいー。
 翌日ドリュアースは、証拠の品々を抱えご主人様を訪ね、クロエーの出生の秘密を打ち明けました。品々を吟味した主人夫妻は、クロエーが立派な家柄の娘であることを確信し、二人の婚約を許します。着飾ったクロエーの美しさに、一同ばかりかダフニスまでもびっくり。
 クロエーは、町一番の年長者の老人の娘であることがわかりました。ダフニスとクロエーの希望で、村に戻って牧人風の結婚式をあげることになりました。ディオニューソファーネスは村人を全員呼んで豪華な宴を催しましたが、山羊たちもこれに加わったので、その匂いに町から来た人たちは閉口しました。
 結婚式の夜、ダフニスはリュカイニオンに教わったことを初めてクロエーに試みます。クロエーも、これまで長い間二人がしてきたことが、子供の遊びにすぎなかったことを初めて知ったのでした。


 う〜ん、ライトノベル顔負けのラブ・ストーリーですね〜。書いててこっちがこっぱずかしいです。
 べたなストーリーではありますが、ちょっと感動するな〜。昔のおおらかな時代というか、エロい表現が少なくないです。いろいろ事件や困難は生じますが、みななんだかいい人で、最後はめでたしめでたしみたいなところがほっとしますね〜。

 こうしてみると、もともとのフォーキン版やアシュトン版、ミルピエ版は、原作の一部をうまく利用している感じですね。マイヨー版は、恋のこの字も知らない男女の淡い恋がやがて大人の愛へと成長して行くという原作の大枠をうまく生かした読み替えと言えそうです。

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2014/12/15

【雑学】ツキノワグマは(自然界で)共食いするのか本で調べてみた【拾い読み】

P9190308←クマの共食い(?)シーン。グロ注意。

 今年の夏に黒部でクマに遭遇したぽん太は(そのときの記事はhttp://ponta.moe-nifty.com/blog/2014/10/4-1b46.html)、二つの疑問を抱いたのでした。すなわち(1)ツキノワグマは共食いするのか、(2)ツキノワグマは草食のくせに、なぜ無駄に力が強いのか、です。この謎を解明すべく、『山でクマに会う方法』(米田一彦著、山と渓谷社、2011年)を読んでみましたが(そのときの記事はこちら)、まだ十分には納得できませんでした。
 そうこうしているうちに、熊本県「阿蘇カドリー・ドミニオン」でクマの共食い事件が起きたというニュースが飛び込んできました(ライブドア・ニュース)。今年の11月23日、ヒマラヤグマの檻の中で、一頭のクマに6〜7頭のクマが折り重なるように襲いかかり、共食いをしたとのこと。
 ニュースの写真を見ると、首のところに白い三日月型の斑紋が見えます。調べてみると、ヒマラヤグマ(ヒマラヤツキノワグマ:Ursus thibetanus thibetanus)は、ニホンツキノワグマ(Ursus thibetanus japonicus)と同じく、アジアクロクマ(Ursus thibetanus)という種に含まれる仲間のようです。
 ということで、(ニホン)ツキノワグマの共食いも大いにありそうですが、ただ今回の事件は動物園での出来事。果たして自然界でツキノワグマの共食いがあるかどうかは、はっきりしません。
 そこでぽん太は、ツキノワグマに関する本をさらにいくつか読んで見ました。

 まずは『日本のクマ―ヒグマとツキノワグマの生物学』(坪田敏男他編、東京大学出版会、2011年。日本に棲むに種類のクマ(ヒグマ、ツキノワグマ)について専門家が分担執筆したもので、ちと専門的で読みにくいです。
 進化論的には、中新世にイヌの仲間が大型でがっしりした動物に進化し始め、鮮新世には大きな頭と頑丈な歯を持つ動物が出て来ました。新生代中期から後期には、クマ類が、四肢が短く、獲物を追いかける習性が薄れた食肉類として進化してきました。日本には、草原性に進化したヒグマ、森林性に進化したツキノワグマが分布するようになりました。
 クマは食肉目でありながら、雑食性あるいは草食性に傾いていきました。現存する5種のクマでは、完全肉食性がホッキョクグマ、完全昆虫食性がナマケグマ、完全草食性がジャイアントパンダとメガネグマ、中間的な雑食性がヒグマ、クロクマ、ツキノワグマ、マレーグマとなるそうです。
 しかしクマの消化器官は、いわゆる草食動物のように複数の胃があったり食べ物を反芻したりはせず、胃袋が一つしかなく、草食に適した構造にはなっていません。冬眠からさめた草食性のクマは、草や葉を食べている春から夏はどんどん体重が減っていき、イチゴ類や木の実などを食べるようになって、ようやく体重が増えて来るのだそうです。
 共食いに関しては、この本には書かれておりませんでした。

 次いで、『ツキノワグマ―追われる森の住人』(宮尾嶽雄編著、信濃毎日新聞社、1995年)。ツキノワグマに関する分かりやすい総説。
 体が大きいことの利点について、相対的に体表面積が小さくなるため、体温を保つためのコストが少なく、寒冷気候に対して優位なこと、絶食に対する抵抗力が大きいことが挙げられています。また寿命が長くなることで、親の経験を学ぶ機会が得られるという利点もあるといいます。
 寒さに強いということは、逆にいえばオーバーヒートしやすいということで、真夏に熱そうにしているホッキョクグマの様子はテレビのニュースの定番ですよね。
 長野県筑摩山地でのクマの糞の分析からは、動物性食物の糞も見つけられています。哺乳類と昆虫類があるそうで、哺乳類ではカモシカとノウサギが食べられていたそうです。
 ツキノワグマに食べられたと推定されるカモシカの死骸が見つかっておりますが、生きたまま襲われたとは考えにくく、死亡後に食べられたと推定されるそうです。

 そのほかに、『ツキノワグマ―クマと森の生物学』(大井徹著、東海大学出版会、2009年)や、『ツキノワグマ―滅びゆく森の王者』(岐阜県哺乳動物調査研究会編著、岐阜新聞社、1997年)を読んでみましたが、共食いに関する記載はありませんでした。

 う〜ん、(2)の草食性のくせに体が大きい理由は、進化の過程や、大型動物の利点から、何となくわかってきたけど、(1)の共食いについてはよくわかりません。というか、生きた動物は滅多に襲わないと考えられているようです。するって〜とぽん太が見たのは、たまたま死んでいたクマを、他のクマが食べていたということなのか?そんな偶然ってある?そもそもいくら死んでたからって同じクマの肉を食べるのか。
 謎は謎のまま、もうみちくさがめんどくさくなってきました。クマの件は、ここらで一休みにしたいと思います。
 なお、先日イタリア料理店で熊肉入りのスパゲッティーがあったので、それを食べて、人を脅かしたクマさんに復讐してやりました。

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2014/11/08

【拾い読み】長年クマを調査して来た著者ならでは『山でクマに会う方法』米田一彦

 先日の記事に書いたように、山でクマであったので、についてちと勉強してみることにしました。今回読んだのは、『山でクマに会う方法』(米田一彦著、山と渓谷社、2011年)です。著者はフリーのクマ研究者。主にテレメトリー法(クマに発信器をつけて追跡する)によって、三十年近くにわたって多くのクマを観察して来たそうで、クマ経験(^_^)が豊富なようです。もちろん「山でクマに会う方法」というタイトルは逆説であって、本書によって「クマに会わない方法」を知ることができます。ちなみに本書で扱われているクマは、本州に生息する「ツキノワグマ」です。
 山でクマに会ったぽん太の疑問点は二つです。(1)クマは共食いをするのか、そして、(2)木の実を食べて暮らしてるのに何であんなに力が強いのか、です。残念ながら、この本ではどちらの疑問も解けませんでしたが、クマとじかに関わり続けてきた人ならではの、クマの生態を知ることができました。
 以下、いつもの通り、ぽん太が興味を持った部分の拾い読み。これは「書評」ではありませんので、興味を持った方は自分でお読み下さい。

 クマが秋に食べる堅果類は、ミズナラやコナラなどのドングリです。クリも、イガを剥き、皮だけ上手に吐き出して食べるそうです。クルミやハシバミなどの実も食べるが、著者の経験では、シイ、カシや、トチノキなどは食べないという。ブナの実に関しては、少量しか食べてないという研究もあるが、栄養価が高いので、ある程度の働きをしている可能性はあるという。
 6月頃になると、雌クマは「着床遅延」と呼ばれる独特な繁殖生理を持っていて、交尾して受精するのは6月頃ですが、受精卵はしばらく発育を休止し、子宮内膜に着床して妊娠が成立するのは11月頃だそうです。そして受精できるかどうかは、この間にしっかりと食事をとり、栄養状態がよかった場合に限られるそうです。
 夜のクマは、フラッシュのような閃光には反応しませんが、動く光や点滅する光にはよく反応するそうです。
 クマは冬眠すると言われてきましたが、「体温や代謝が低下して昏睡状態になる」という冬眠の定義を満たしていないため、最近は「冬ごもり」と呼ばれるそうです。冬ごもりの期間は、中部以北では6ヶ月に及ぶこともありますが、暖かい広島県では60〜70日くらいで、栄養状態が良くて体力があると、冬ごもり期間が短かったりするそうです。
 糞の調査では、冬ごもりを終えた4月下旬は、ブナの若葉が圧倒的に多く、5月になるとミズバショウ、ザゼンソウ、フキノトウ、アザミ類が出てくるそうです。フキ、ミズ、セリなどの山菜類も大好きで、6月になるとチシマザサ(ネガマリタケ)のタケノコも食べるそうです。6月下旬になるとキイチゴも食べます。
 7月になると昆虫をよく食べるようになります。アリやハチが主ですが、クワガタムシなどの甲虫も食べるそうです。8月下旬には、まだ殻が堅くなっていないオニグルミや、熟していないドングリを食べ始めます。
 捕殺したクマの胃からカモシカの毛が出て来ることはあるそうです。しかし著者がみた限り、クマがカモシカにちょっかいを出した時、カモシカは余裕で逃げ、クマもすぐ追うのを止めてしまったそうです。
 クマは基本的には耳と鼻がよく、人間に会わないように避けて行く。出会った時にクマが実を隠したら、クマに攻撃する気がない証拠。威嚇の場合は、小走りに近寄って来て、両足を30センチぐらい上げて地面に叩き付け、引き返して行く。著者は、この威嚇の後に襲われた経験はないといいます。攻撃する場合は、何の前触れもなく一気に襲ってくるそうで、マンガにあるような、仁王立ちになってうなり声を上げたりすることはありません。頭を下げて上目使いにこちらをにらみつけ、耳を伏せてアゴを引き、脇を締めて身構え、前足で弧を描くようなすり足で、声も出さずにすごいスピードで突進してくるそうです。
 クマの対処法。鈴をぶら下げるのは有効。火は怖がらない。出会った時に「話しかけてみる」というのは無意味どころかクマを刺激する可能性もある。無言でクマの目を見ながら静かに後退する。背中を見せて走って逃げると、クマは本能的に追ってくる。(仙人温泉小屋のおっちゃんは、こちらからふっと目をそらして、闘う意思がないことを示した方がいいと言ってました。)木に登って助かった人もいる。クマも木登りが上手だが、攻撃力が弱まるので防御しやすい。クマが下で待っている場合は、根比べとなる。いざ襲われた時はクマ撃退スプレーが有効。唐辛子のエキスで、これを浴びるとクマが大声で鳴くほどだそうな。しかしこのスプレーは、5メートル先までしか届かず、連続なら5秒間しかでないので、クマに襲われるという状況で正確にクマに命中させるのは難しいとのこと。

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2014/10/15

【拾い読み】DSM-5を使う前に読んでおこう。アレン・フランセス『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』

 たまたま気が向いて、アレン・フランセスの『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』(大野裕監修、講談社、2013年)を読んでみました。
 DSMというと、ぽん太はどのバージョンも一緒くたにしてましたが、DSM-IVの作成委員長だった著者が、DSM-5の問題点を批判したのが本書です。最大の論点は、著者が「診断のインフレーション」と呼ぶ、なんでもかんでも精神障害に診断してしまう傾向への警告です。こうしたことは精神科医なら誰でも感じていることで(例えば現在でもすでに何でもかんでもうつ病です)、その裏には製薬会社の営利主義があることなども衆知の事実ですが、自らDSMに関わった人が言っているところに説得力があります。また、うちわを知っている人だからこその証言もあって、面白い本でした。もちろん著者の主張が正しいかどうかもわからないので、本書を読むときも批判的な精神を忘れてはなりません。最近流行の、ドグマチックな精神医学批判の本ではございません。
 さて、興味がある人は自分で読んでいただいて、ぽん太が興味を持ったところの抜き書きです。

 「DSMは正常と精神疾患のあいだに決定的な境界線を引くものであるため、社会にとってきわめて大きな意味を持つものになっており、人々の生活に計り知れない影響を与える幾多の重要な事柄を左右しているーーたとえば、だれが健康でだれが病気だと見なされるのか、どんな治療が提供されるのか、だれがその金を払うのか、だれが障害者手当を受給するのか、だれに精神衛生や学校や職業などに関したサービスを受ける資格があるのか、だれが就職できるのか、養子をもらえるのか、飛行機を操縦できるのか、生命保険に加入できるのか、人殺しは犯罪者なのかそれとも精神異常者なのか、訴訟で損害賠償をどれだけ認めるのかといった事柄であり、ほかにもまだまだたくさんある」(p.17)
 ぽん太が思うに、DSMの分類が、純粋な医学的・科学的なものではなく、アメリカ社会の、アメリカの医療制度のもとでの分類であることは常識でしょう。また精神科医の診断という行為も、常に社会的な側面を持つことを忘れてはなりません。

 フランセスは、DSM-IVの作成にあたって、リスクのあるもの、科学的データによる裏付けがないものをすべて却下しました(その結果、DSM-IVはDSM-IIIRとあまり変わりませんでした)。一方DSM-5は、正常な多くの人を新たな「患者」にしたてる危険性があり、それを製薬会社がいかに利用してやろうかと、手ぐすね引いて待っていると彼は言います。
 そのように用心して作成したDSM-IVでさえも、三つの精神疾患のまやかしの流行を引き起こしました。それは自閉症、ADHD、小児双極性障害だそうです。
 「アメリカ人の成人の5人にひとりが、精神的な問題のために一種類以上の薬を飲んでいる。2010年時点で、全成人の11パーセントが抗うつ薬を服用している。小児の4パーセント近くが精神刺激薬を飲み、ティーンエイジャーの4パーセントが抗うつ薬を服用し、老人ホーム入居者の25パーセントに抗精神病薬が与えられている」(p.20)
 日本の現状はどうなのでしょうか。ここまではひどくないような気がしますが。常々ぽん太思うには、精神的な問題を解決するには、つべこべ言わずに薬を飲めというのに、快楽を得るためには薬を使ってはいけないというのは、筋が通らないですよね。覚せい剤や危険ドラッグの使用が増えるのは、仕方ないことに思えます。

 「DSM-IVのADHDは慎重に作成されたが、変更の提案による有病率の上昇は15パーセントにとどまるとわれわれは予測していた。データが収集された1990年代はじめの現実を考えれば、これはかなり正確な推定だったと言えよう。われわれは1997年にこの現実が一変するとは予見できなかった。この年、製薬会社がADHDの高価な新薬を売りだし、しかも同時に、親や教師に直接宣伝することが認められたのである。まもなく、ADHDの診断を商品として売るのが、雑誌やテレビや小児科病院のどこでも見られるようになったーー予想外の流行が発生したわけで、ADHDの有病率は3倍になった」(p.86)。
 高価な薬が出ることと、診断が流行していることは確かにリンクしているとぽん太も思います。双極性障害の流行も、ラミクタールの発売と関係しているのではないでしょうか。これまで双極性障害の第一選択薬であったリーマスは、標準使用量1日600mgで62.7円ですが、2008年12月に発売されたラミクタールは1日200mgで547.6円と、ほぼ十倍の価格です。さらに2012年9月にリーマスの添付文書(こちら)が改訂され、わざわざ医薬品医療機器総合機構から「炭酸リチウム投与中の血中濃度測定遵守について」という文書(こちら)まで出されました。これによると、リーマスを服用中の患者さんは、2〜3ヶ月に一度血液検査が事実上義務づけられることになりました。ごていねいに「適切な血清リチウム濃度測定が実施されずに重篤なリチウム中毒に至った症例などは、基本的に医薬品副作用被害救済 制度においても、適正な使用とは認められない症例とされ、救済の支給対象とはなっておりません」という文言もあります。「リチウム中毒を防ぐ」という大義名分はありますが、背後に、有効で安価なリーマスを使いにくくさせようとする何らかの圧力があったのでは、と考えるのは考え過ぎでしょうか。ここらの裏事情を知る立場にぽん太はありません。
 また最近、ベンゾジアゼピン系の抗不安薬、睡眠薬の使用を制限する動きが出ており、これはこれで過剰使用を防ぎ、依存を減らすという大義名分があるのですが、一方で代わりにSSRIや非定型抗精神病薬を売りたいという製薬会社の意図があるのではないか、というのもぽん太の妄想でしょうか?
 また、たとえば風邪薬など薬局で売っている薬はテレビのCMで宣伝することができますが、病院で医者が処方する薬は宣伝することができませんでした。ところがいつの頃からか、薬の名前こそ言わないものの、「〇〇の症状があったら、よく効く薬があるので、病院を受診しましょう。××製薬」というCMが流れるようになりました。これは製薬会社の申し出によって、コマーシャルの基準が変更されたのだと思いますが、これがどこの管轄で、どのように決められ、具体的にどこに明記されているのか、ぽん太はいまだにわかりません。
 ついでに上の引用の「ADHDの診断を商品として売るのが、雑誌やテレビや小児科病院のどこでも見られるようになった」というのは、ADHDの診断チェック表みたいなのが、雑誌やテレビでやってたり、病院に(製薬会社が作った)パンフレットとして置かれていることを言ってるんだと思いますが、原文にあたるのは面倒なのでよくわかりません。

 精神疾患の定義を、統合失調症80・双極性障害10みたいに数値で表すという考え方にかんしては、将来的には主流になるのかもしれないが、現時点では実現不可能と書いてます。

 DSM-IIIに関して。1970年代、精神疾患の診断の不正確さに対する批判が強まりました。ひとつはイギリスとアメリカの国際共同研究で、アメリカとイギリスで診断が大きく異なることが示されました。もうひとつは、正常な人が症状を偽ることで、誤った診断や不適切な治療に誘導できることがわかりました。
 こうしたことで、統一した診断システムを作ることが必要となり、ロバート・スピッツァー(1932 - )がDSM-III(1980年)の責任者に選ばれました。診断のパラダイムシフトをもたらしたDSM-IIIですが、診断基準の作成は科学的なものとは言えませんでした。十人弱の専門家が一室に閉じ込められ、午前中はそれぞれが、科学的データではなく実体験に基づく診断基準を無秩序に主張し合い、昼食が済むとスピッツァーが論点を神業のように整理して草案を作成し、それを疲れて眠気を催した専門家が微調整したそうです。「論争がつづくときは、声のいちばん大きな者、自信に満ちた者、頑固な者、年長の者、ボブ(スピッツァー)に最後に話したものがいつだって有利になった(p.117)そうです。ひどい方法でしたが、当時としては最上の方法で、しかもうまくいったそうです。
 DSM-IIIは病因論を棚上げにしたので生物学的・心理学的・社会的モデルのどれにも利用できるとされましたが、実際は生物学的モデルによくあてはまり、心理学的・社会的側面は軽視される結果をもたらしました。またいわゆる「多軸診断」を導入しましたが、これはほどなく忘れ去られました。
 DSM-IIIが非常に売れて、いわゆるバイブルになってしまったことは、良く知られたとおり。

 DSM-IIIR(1987年)に関しては、著者は「誤りであり、混乱のもとだった」と批判的です。その内容というよりも、DSM-IIIからわずか7年後に改訂をしたことを問題としているようです。DSM-IIIが科学的データの裏付けがある診断基準ではない以上、思いつきで安易に変更すべきではなく、科学的研究が追いついて、基準が確認されたり、変更の必要性が実証されるのを待つべきだったと言います。

 DSM-IV(1994年)の作成委員長に著者はなったわけですが、IIIRからの変更は最小限とし、科学的な必要性が証明されない変更は却下したそうです。また彼は、DSM-IVをバイブルではなく、ガイドブックとしたかったそうで、このことを「序文」に書いておいたそうです。ぽん太はDSMの序文なんて読んだことありませんでした。こんど読んでみたいと思います。
 著者は、当時は予測できなかったけれど、後から振り返ると、過剰診断がおきないようにもっと注意を払うべきだったと書いてます。特にADHDの診断基準をわずかに緩めたこと、双極II型を導入したことを後悔しています。また、「性的倒錯の項目でずさんな表現を使ったために、憲法に違反する精神科病院への強制入院が広く乱用されることになった」と反省していますが、ぽん太には具体的にはわかりません。

 著者は、早期診断のリスクを指摘します。正常だけど「病気になりかけている」人を発掘することで、医産複合体は急速に成長していますが、それによって必要ない人に過剰な医療が行われ、必要としている人に適切な医療が施せていません。
 最近「かくれ〇〇病」や「〇〇病予備軍」といった言葉がマスコミに溢れてます。また最近言われている「統合失調症の早期発見と早期治療」という考え方も、ひとつ間違えば、発病以前の「前駆期」の名のもとに、正常な人たちへの過剰診断・過剰医療が行われる可能性がありそうです。

 過去に流行して、消えてしまった疾患として、彼は「悪魔憑き」と並べて、神経衰弱やヒステリー、多重人格などを挙げてます。たとえば多重人格を、「保険会社が支払いをやめ、疲れたセラピストが現実に目覚めると、多重人格の治療を求める声は激減した」と切って捨ててます。

 現在の流行に関して、ADHDや小児双極性障害、自閉症などをあげて検討しておりますが、この辺は現役の精神科医にとっては周知の事実なので省略。

 DSM-5に関して、高く飛ぼうとしすぎて燃え尽きたイカロスに例えて、3つの点から批判しています。DSM-5は、第一に、神経科学の進歩を土台にもってきて精神科の診断を一新することを目標にしましたが、それは時期尚早で、現実離れした目標でした。第二に、早期発見・予防医学の観点から精神医学の領域を広げようとしましたが、これも行き過ぎた目標でした。第三に、数量化によって診断をもっと正確に下そうとしましたが、臨床現場で使いようのない複雑な多元評価を作っただけでした。

 また著者は、DSM-5の作成の手順についても疑問を呈しています。全体をコントロールするリーダーシップを発揮する人がおらず、作業グループごとに検討の方法や質のばらつきがった、また事前に時間定期な計画を立てなかった。また、文献調査を独立した評価者が行うといった、公平性を保つ手段も講じなかった。

 またフィールドトライアル(診断基準を実際に使ってみて、妥当性を評価すること)に関しても、DSM-IVでは、外部の研究者が方法を評価した上で、アメリカ国立精神保健研究所(NIMH)の資金を得て行われました。しかしDSM-5は、計画は非公開で、NIMHは十分な資金を調達できず、実施機関も短すぎたため、低い信頼性しか得られませんでした。しかもアメリカ精神医学会(APA)は、利益を見込んである2013年の出版予定日を守るため、必要な修正や検証を行わずに、出版してしまったそうです。

 DSM-5には、診断のインフレーションを引き起こしかねない疾患が多く見られます。小児の「重篤な気分調節不全障害」は、ただの癇癪を病気と診断する危険があります。また老人の「軽度神経認知障害」も、アルツハイマー病の早期発見と早期治療という専門家の無邪気な善意から作られたのでしょうが、多くの人に有害無益な検査や投薬が行われ、結局は医産複合体だけが喜ぶという結果になりかねません。「大食い」が精神病とされ、「成人注意欠陥・多動性障害」は過剰診断の危険性があります。また、死別後の喪が「うつ病」と混同されかねないなどなど。

 著者は大胆にも、製薬会社と麻薬組織を併せて論じております。そして、製薬会社が利益を上げるために行っているマーケティング能力を制限することを求めます。また、精神科医の同業組合であるAPAが、DSMによって精神疾患の診断を独占する状況を批判します。精神疾患の診断は、現在医学的な領域を遥かに越えてしまっています。とはいえその任を担うのにふさわしい組織も、今のところ見当たりません。

 もう飽きてきたので、この辺でやめておくことにします。アレン・フランスセスの基本的なスタンスとしては、精神疾患の診断は医療の領域を越えて大きな影響力を持つようになっていて、しかも製薬会社に代表される医産複合体が利益を拡大するために、過剰診断が行われる危険性が高い(診断のインフレーション)。そのためDSMは、過剰診断が行われにくいものにしておく必要があるが、DSM-5は質の確保をおろそかにしたうえ、拡大解釈されやすい新たな疾患を盛り込んでしまった……ということになりましょうか。
 冒頭に書いたように、これはあくまでもアレン・フランセスの考えてあって、これが正しいのかどうかわかりませんが、これからDSM-5を使って行くうえで、これらの点に注意を払って行く必要があるのは確かでしょう。

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2014/09/28

【拾い読み】御嶽山信仰の入門に最適。青木保『御岳巡礼』

 (昨日、御嶽山が噴火し、多くの登山者が被害を受けたとのニュースが飛び込んできました。心からお見舞い申し上げます。)
 先日、美ヶ原に登ったぽん太は、御岳信仰を持つ人々が、美ヶ原で御嶽山を望みながら宗教行事を行っていたことを知りました(その時の記事は文字列)。そこで今回、『御岳巡礼―現代の神と人 』(青木保著、講談社、1994年、講談社学術文庫)を読んでみました。御岳信仰の基本的な知識を得ることができ、前回の記事の誤り(御嶽教と木曽御嶽本教の混同)にも気がつきました。また著者は、タイの仏教を研究するにあたって自分自身が僧になって修行をしたそうで、御嶽山でも御神火祭に加わって火を見つめているうちに、いつしか我を忘れて身を震わせ、同行の研究者や学生に気味悪がられたというエピソードが書かれております。というわけで、外部からの客観的な解説に留まらず、内部に飛び込まなければ分からないことも書かれており、1985年とちょっと古い本ではありますが、とても興味深く読めました。
 さて、いつものように、あとはぽん太自身が興味を持ったところの抜き書きです。

 恐山で亡くなった人の口寄せをする「イタコ」は有名ですが、御嶽山でも行者に霊や神様が憑依して言葉を話すという儀式が伝統的にあり、「御座立て」(おざたて)と呼ばれるそうです。
 堀一郎は、山岳信仰を、①火山系(噴火するヤマハ畏怖の気持ちを抱かせる)、②水分系(農耕のための水の源である山に対する感謝の念)、③葬所系(月山などの様に死者の霊が帰って行くところ)に分類したそうですが、御嶽山はこのどれにもあてはまる。また池上広正は、①仏教の山、②神社神道の山。③修験の山、④教派神道の山、⑤民間信仰の山、に分けましたが、これまた御嶽山はどの要素も持っている。このような多様性が御岳信仰のひとつの特徴だそうです。
 御嶽信仰の歴史は、大きく4つの時期に分けられるそうです。①修験者が修行をしていた時期(鎌倉時代を頂点とする)、②山麓の集落に住む道者たちが特別な精進潔斎を行って集団登拝していた時期。③江戸時代中期、覚明・普寛という二人の行者が登拝を一般の人々に解放し、講活動の端緒を作った時期、④明治以後、教派神道教団が成立して全国に普及して行く時期。
 ①の修験道による山の支配が早めに終わったのが御嶽山の珍しいんだそうです。そのおかげで御嶽山は、特定の宗教集団によって支配されず、多くの信者に開かれた山となったそうです。
 筆者は修験道が早期に廃れた理由は書いておりませんが、御嶽山を初めあちこちの山に登ったぽん太が思うには、この山修験道に向いてなかったんだと思います。修行をするには、断崖絶壁や、急な山道、住むための水辺、高山植物の咲き乱れるお花畑など、多様な自然が必要です。ところが御嶽山は、基本円錐形で、しかもある高さから上はオンタデしか生えない火山礫の山なので、修験道をするにはアイテムが足りなかったのではないでしょうか。
 修験者たちが去ったあとは、山麓の村に住み着いた道者と呼ばれる人たちが、集団で登拝登山を行うようになりました。しかし手順は厳格で、75日から100日間の精進潔斎を経なくてはならず、とても一般人が参加できるものではありませんでした。
 江戸時代になって、覚明と普寛という二人の行者が、御嶽登拝を一般に開放しました。覚明は、現在の黒沢口ルートを開き、27日程度の軽精進だけでの登拝登山を開始しました(天明5年、1785年)。また遅れて普寛は、王滝口からの登山道を開き、一般登拝に開放しました(寛政4年、1792年)。
 背景には諸々の社会情勢の変化があったようですが、ぽん太にはよくわかりません。
 普寛(享保16年(1731年)〜享和元年(1801年))は武州秩父で生まれ、三峰山で修行をした人です。御嶽山開山ののち、越後の八海山や上州の武尊山も開山したんだそうです。
 覚明さんは天明6年(1786年)に御嶽山の二の池近くで亡くなったそうですが、普寛が日本の各地を回って、御嶽信仰を広め、講組織の基礎を築きました。
 黒沢・普寛と、王滝・覚明のあいだには、微妙なライバル関係があったそうで、講社も普寛講と覚明講の二つの系列に別れてたりしました。対立を避けるため「講名の自由」を提唱したところ、全国各地に様々な名前を持つ御嶽信仰の講社ができるようになっていったそうです。
 時は下って明治時代となり、神仏分離を初めとする宗教政策により、神を祀る信仰集団は「教派神道」を設立する必要に迫られました。各地で自由に発展し、統一的な組織を持たなかった御嶽信仰の教派設立は困難を極めましたが、下山応助の尽力により、明治15年(1882年)に神道十三派の一つの御嶽教として独立を果たしたそうです。
 その後の時代の流れの中で、御嶽教にも紆余曲折があったようですが、こんかいは省略。御嶽教中興の祖と言われる8代目管長渡辺銀治郎は、「副業」の才能もあったようで、あちこちに映画館や芝居小屋を作り、その経営手腕を見込んだ松竹の支援を受けて、横浜劇場を作ったとのことですが、ググってもよくわかりません。
 さて、戦後になって信教の自由の時代となりました。この頃に黒沢口の御嶽神社(→こちら)を中心にして独立したのが御嶽本教だそうです。以前の記事では、御嶽教と御嶽本教をごっちゃにしてました。ごめんなさい。
 御嶽教の方は、昭和23年(1948年)に木曽福島に神殿を設立(例えば これ?)。ちなみに現在の御嶽山木曽本宮は、2012年に移転新築したもののようです(これかしら)。
 御嶽教の9代目管長渡辺照吉は、昭和24年から57年まで管長を務めましたが、以前は松竹に務めていた人で、帝劇の副支配人、浅草国際劇場の支配人、新橋演舞場の支配人なども務めたと書かれております。ただ、「渡辺照吉 松竹」でググっても何もヒットしないのが不思議。
 昭和39年には奈良に大和本宮と呼ばれる神殿が完成し、御嶽教の本部は奈良に置かれることになりました。現在の大和本宮(こちら)は、昭和57年に建て替えられたものだそうです。

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2014/06/14

【拾い読み】とてもリアルなルポルタージュ!『宮地團四郎日記 土佐藩士が見た戊辰戦争』

 戊辰戦争に参加した一人の土佐藩士の従軍日記ですが、とても面白いです。というのも、土佐から大阪・京都、江戸を経て会津へと転戦して行くなかで、ええじゃないか踊りや龍馬暗殺、王政復古、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊との交戦、江戸無血開城、そして会津戦争などの、幕末の重要な歴史的事件に遭遇していくのです。こうした出来事を描いた小説やドラマ、映画はいくつもありますが、それらはしょせんは作り事であり、ホントのところはどうだったんだろうという思いをぽん太は昔から持っていたのですが、本書では一藩士の生の声を、日記というリアルタイムなかたちで聞くことができます。宮地の筆致はあくまで簡潔ですが、そのなかから当時の風俗・習慣、そして何よりも彼の思いが感じ取れます。
 原文に、読みやすい現代語訳と、解説がついております。『宮地團四郎日記―土佐藩士が見た戊辰戦争』(小美濃清明編著、右文書院、2014年)。

 いつものように、興味を持たれた方は自分で勝手に読んでいただくことにして、以下はぽん太が気になったところをピックアップいたします。

 慶応三年(1867年)11月21日に土佐の自宅を出発し、23日に兵庫に到着すると、いきなり遊郭を見物。折しも御影踊り(おかげおどり、いわゆる「ええじゃないか踊り」)の真っ盛りで、神仏のお守りが降った、外国人の首が降った、お金が降ったなどの風説が乱れ飛んでいた様子。25日大阪では、見物しているうちに宮地自身も一緒に踊りたくなって、踊りの輪に加わったそうです。
 11月26日、京都で坂本龍馬が暗殺されたという噂について書いてます。龍馬暗殺は11月15日ですから、11日間のタイムラグがあったことになります。
 11月27日は大阪天王寺の五重塔に登って四方を見渡したところ、絶景であったと書いてます。これに限らず今後の行程でも、時間が空いている時は、あちこちの名所旧跡を見物しているのが面白いです。
 途中の宿代はとりあえず自分で建て替え、あとで領収書を提示して会計係からお金を受け取る仕組みのようです。諸々の金額の記載もあり、当時の物価を知る上でも重要な資料だと思いますが、このへんはぽん太はあまり興味なし。
 12月9日、京都で王政復古の大号令を迎え、明けて慶応4年(1968年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発。宮地はこの戦には加わりませんでしたが、1月9日、征討将軍の護衛として大阪に向かいます。あちこちが大きく焼けていて、何百人もの死体が散乱し、「流血が雨上がりのように広がって」いたそうです。また、焼け落ちた大阪城を見学し、心斎橋で写真を撮ったりしております。
 お酒が支給されて皆で飲んだことや、病気になって療養したことなども書かれております。どうも日記全体を通して、宮地は病気で寝込むことが多かったようです。宮地が病弱だったのか、あるいは戊辰銭湯の身体的・精神的ストレスのなせるものなのか、ぽん太にはわかりません。この点は、気が向いたら、日を改めてみちくさするかもしれません。
 慶応4年(1968年)2月14日、京を出発して江戸へ向かいます。3月1日、先日ぽん太が高ボッチ山に登ったときに通ったばかりの塩尻峠にさしかかり、諏訪湖と富士山を望む絶景を誉め讃えています。ぽん太は逆方向に越えたので、そんなに景色がいいところだとは気がつきませんでした。
 ここでぽん太が興味深かったのは、諏訪湖の白狐の伝説を書き留めていること。諏訪湖の水が凍ると白い狐が通り、そこが街道になって人馬の通行が始まり、春になって暖かくなると再び白狐が通るのを合図に、通行が出来なくなると書いています。
 歌舞伎の「本朝廿四孝」(ほんちょうじゅうにしこう)で、兜の力によって八重垣姫に狐が乗り移り、姫は諏訪湖の氷の道を渡って行きます。これは今で言う御神渡りを題材にしていると思われます。ぽん太は以前に、御神渡りと狐の関係をぐぐってみたのですが、はっきりとした情報が見つかりませんでした(そのときの記事はこちら)。しかし宮地の記述からすると、諏訪湖の狐の伝説は、幕末には広く知られていたようです。ということは、明治の神仏分離のときに、狐伝説は消し去れたということでしょうか?まだまだ興味は続きます。
 3月6日、勝沼で甲陽鎮撫隊と交戦し、敵を敗走させました。もっともこの時は敵の正体はわかっておらず、3月11日の日記にようやく、敵の大将は大久保剛という者だが、近藤勇の変名であると書いてあります。
 3月15日、江戸新宿に到着。4月11日、江戸城の無血開場。仕事をしたり見物をしたりして過ごしました。
 4月23日、江戸を出発して北へ向かいました。4月25日、壬生戦争における死者や負傷者の名前が記載されております。死者・負傷者名の列挙は本書ではよく見かけますが、ここが初出となります。
 閏4月1日からしばらくは、今市・日光付近に逗留。お仕事の合間に、左甚五郎の眠り猫を見て「見事で生きた猫と変わりなし」と書いたり、男体山、中禅寺湖や滝(華厳の滝?)を見学。日光の律院は「バケモノ寺」と呼ばれていて、本堂の天井に血まみれの手で撫でた跡があると書いています。現在の日光山興雲律院のことでしょうか、ググってみると確かに「血染めの天井」というものがあるようですが(→こちら)、修行の寺で観光客の見学は受け入れていないようです。
 この後、だんだんと賊軍との戦闘の機会が増えてきて、記載も血なまぐさくなってきます。
 5月25日、白河入り。6月6日、川へうなぎ釣りに行ったが、首、腕、足などが流れて来て、あまりにうっとうしいので帰ったとのこと。6月12日、戦闘の末に敗走した賊軍を追撃。人家があったので放火。生け捕った敵の足軽の首を斬り、体を川に流しました。
 6月22日、七連銃(スペンサー銃)を、10両の借金をして38両で購入。新式の銃を手に入れて、これからの自分の戦功が頭に浮かんで来て元気が湧き、嬉しいこと限りなかったそうです。
 7月27日、出くわした賊軍を撃ち殺したと思ったが、近づいてみると生きていたので、腰のあたりを刀で突いたところ、2回ほど「堪忍して」と言ったあと、うなって死にました。この夜は仲間と酒を三、四合ひっかけたとあります。
 8月21日、母成峠の戦いに参戦。官軍が裏を突いて、会津軍の首尾が手薄だった母成峠を攻め、勝利した戦いです。母成峠はここ(→googleマップ)で、よく見るとぽん太がこの冬に中沢温泉を訪れた時に通った道ですね。そんな歴史ある道だったのか……。「弾丸が雨のように飛んでくる」状態で、宮地は「心中はまるで夢の中のようだ」と記しています。
 翌8月22日、母成峠から猪苗代に移動。あまりに順調に勝ち進んだため、補給が間に合わなかったのか、空腹で兵隊たちは動けなくなりました。木の実などを採って食べたが間に合わず、ところどころに会津軍が残して行った食料を食べて、何とか腹を満たしました。猪苗代駅に着きましたが住民は人っ子一人おらず、売り物の菓子から、民家にあった米、鶏や池の鯉まで焚いて食べたそうです。
 ついに会津城の包囲線が始まりますが、8月30日に「今日、少し体調が不調なので引き籠っていた」という記載があります。9月4日にも越後口へ進軍の命令が出たが、「少し体調が悪いので、残ることにする」との記載があり、最後の決戦に臨んで、体調不良での休養が許されるというのは驚きです。
 9月22日、松平容保が降伏。「父子とも駕篭で去る。供のもの、二十人ばかりで、軍服のままで刀も差していない。実に目もあてられぬ事だった」と宮地は書いております。
 間もなく仙台も降伏し、宮地にも故郷に戻る日が来ました。帰りは栃木県の阿久津(現在の東北本線宝積寺駅付近でしょうか)から船に乗って鬼怒川を下って久保田(結城市、水戸線の川島駅のちょっと下流あたりか?)でおり、そこから境駅(茨城県猿島郡境町か?)に出て、再び船で江戸川で下って江戸に戻ったようです。
 数日間江戸に留まりますが、行きと違って物見遊山の報告はなく、この間の戦闘における仲間の戦死者、負傷者の名前を、延々と列挙しています。
 品川からは外国船に乗って土佐まで行き、11月1日に無事我が家に戻ったようです。

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2013/12/17

【拾い読み】ガラメキ温泉の情報を入手。池内紀「ガラメキ温泉探検記」

 先日、榛名山麓にあるガラメキ温泉に入って来たぽん太ですが、「ガラメキ温泉探検記」(池内紀著、廣済堂、1990年)という本があることを知り、読んでみました。
 著者の池内紀は言わずと知れたドイツ文学者。カフカの翻訳で有名ですね。1940年生まれですから、この本を出版したのが50歳。なかなかの物好き温泉ファンですね。
 上記のようなタイトルですが、まるまる一冊ガラメキ温泉のことが書かれているわけではなく、様々な温泉が取り上げられております。「ガラメキ温泉探検記」は、そのうちの一章のタイトルですが、これを署名にするということは、池内先生にもよっぽど印象に残ったのでしょう。
 さて、いつもならここで本書全体の拾い読みに入るところですが、今回はガラメキ温泉に関することだけ。
 池内氏がいつガラメキ温泉を訪れたのかは、本文中にはありませんが、この章の初出が日本交通公社の『旅』の1989年10月号であり、また本文の書き出しが「台風が近づいていた」というところから察すると、1989年の夏〜秋と思われます。
 ガラメキは、「がら女き」あるいは「我楽目嬉」などとも書いたそうです。
 明治35年発行の『伊香保温泉場名所案内』には、「住古人皇十四代仲哀天皇の御宇発見し遠近の老若入浴し効験の著しき事を知れり」、「鉱泉旅舎は阿蘇山や方、富士見館、扇屋等にして夏季に至れば都鄙の浴客多し」と書かれているとのこと。
 榛東村の村役場にある「温泉源泉台帳」によると、所有者は大蔵省となっているので、国有林のなかにあることになる。群馬県衛生研究所によれば、泉温30.5度、無色透明、クロールソーダ、硫酸、塩水などを含む。明治31年に相馬温泉組合が設立され、御料地だったところを借地して開発したそうです。源泉のすぐ下に大黒天の碑があり、「明治二十一年・湯元・松本福次郎」とあり、また石垣の上方に小さなほこらがまつってあって、明治二十一年の年号と、「ガラメキ温泉」という名前が刻まれているそうです。
 この温泉地周辺には、明治43年に陸軍の演習場が置かれ、高崎のだい15連隊が使用したそうです。さらに昭和21年4月、この演習場はアメリカ軍によって接収され、ガラメキ温泉は強制立ち退きが命じられたそうです。
 ここが有名なジラード事件の舞台となったそうですが、無知なるぽん太は知らず。Wikipediaを見てみると、1957年(昭和32年)1月30日に、薬莢を盗むために演習地内へ不法侵入していた日本人主婦を、アメリカ兵のウィリアム・S・ジラード特務二等兵が射殺。裁判を日本でやるか、アメリカでやるかなどでもめて、大きな社会問題となったそうです。
 さて、本書のなかでも源泉は沢にあり、「うす暗がり中に石柱が一つ。その下にまん丸いコンクリートの穴があって、鉄の蓋がのっている。駆けよって蓋の把っ手に両手をかけて横にずらし、すきまから手を差し入れた。あたたかい!」と書いてありますから、現在と状況はあまり変わらないようです。例の鉄製の蓋も、当時のままなのでしょう。入っている分にはあたたかいが、外に出ると寒いので、三人で入浴したと買い照りますから、さぞかし窮屈だったことでしょう。

 本書から得た情報はこれぐらいですが、以前には見つけられなかったガラメキ温泉の画像が、いくつかみつかりました。まず「我楽目嬉」で画像検索をかけたところ、「やまだくんのせかい」というブログに当時の阿蘇山館の絵が載ってました(こちら)。また「富士見館」でぐぐると、「ハレルヤ美容院」のブログに、「上毛 我樂目嬉温泉 全景」と「富士見館 全景」という2枚の絵はがき(写真)がアップされておりました(こちら)。昭和8年4月6日の消印があります。当時の温泉場らしい鄙びた雰囲気がいいです。

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