カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の59件の記事

【違法】診療所がエリミンを大量に横流し……えっ!エリミン?

 先日、大阪の診療所で、睡眠薬「エリミン」が約30万錠不明になり、暴力団に流れた可能性があるという新聞記事を目にしました。たとえばこちらの毎日新聞の記事をご覧下さい。
 「えっ、なんでエリミン?」というのがぽん太の正直な感想でした。というのもエリミンは睡眠剤の中では地味な存在で、ぽん太もほとんど使ったことがなく、特別にトリップしやすい薬と思われません。
 しかしググって見ると、エリミンが不正使用されている実態があるようです。以前によく不正使用された某睡眠剤と同じように、アルミ箔の包装であることが、好まれる理由のひとつかもしれません。
 そういえば何年か前、ぽん太のクリニックにも、エリミンの処方を希望して来た患者さんがいました。ちょっとワケアリの雰囲気の青年で、ハルシオンでも希望したら断っていたでしょうが、エリミンだったので、ちゃんと用量を守って定期的に通院していたから、ぽん太は処方しておりました。ひょっとして横流ししていたのでしょうか? 複数のクリニックで処方を受けていた可能性も否定できません。転売目的だったとしたら裏切られた気分です。
 ちゃんと自分で服用していたのか転売目的だったのか、いまやぽん太は知る由もありませんが、いずれにせよ、診察での会話の流れから、ぽん太と彼のあいだには何らかのつながり(ラポールなどという精神医学用語を使いたくありません)ができたと思っています。何かのときには、ぽん太をまた訪ねて来てくれるといいのですが……って、ぽん太の思い上がりでしょうか?

 ついでに、上にリンクした毎日新聞の記事の間違いを指摘しておきます。「エリミンは依存性の強い睡眠導入剤」→睡眠導入剤のなかで、特に依存性が強いというわけではありません。「大量に服用すると幻覚や妄想などの症状が出る」→「症状がでることがある」が正しい。幻覚や妄想といっても、統合失調症や覚せい剤による幻覚や妄想と異なり、睡眠作用による朦朧状態(薬が効いてぼーっとして、寝ぼけたような状態)において生じるものです。

 ちなみに、睡眠剤などを他人にあげたり売ったりすると、麻薬及び向精神薬取締法違反となりますので、ご注意下さい。

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【ジャズ】カサンドラ・ウィルソン@Blue Note(付:青山脳病院跡地の碑)

 日曜日、Blue Note TOKYOにジャズを聴きに行きました。とはいえぽん太はジャズはまったく不案内。ジャズ好きのにゃん子が選んだライブに、言われるがままにくっついていくだけです。
 表参道は、スタイルもよくてファッションもきまった人ばかりなので、短足オヤジ体型でユニクロに身を固めたぽん太は苦手です。こんどはせめて無印良品でシックにキメようかと思っています。

 ちょっと早めに着いたので、以前の記事で宿題になってた青山脳病院の跡地に行ってきました。斎藤茂吉の父親の斎藤紀一が1907年(明治40年)に設立した精神病院で、巨大なローマ式建築は、人々の度肝を抜いたようです。青山脳病院の写真は、たとえばこちらのサイトにあります。残念ながらこの建物は1924年(大正13年)に焼失。跡地は現在マンションになっていて、一角に斎藤茂吉の句碑があります。カメラを持ってなかったので、かわりにこちらのGoogleストリートビューをご覧下さい。ネットの噂によると、青山脳病院の模型が世田谷文学館にあるとのこと。またこんどみちくさしてみます。

 さて、Blue Noteで聴いたのは、カサンドラ・ウィルソン。ソウルっぽい雰囲気の女性ヴォーカルで、とてもよかったです。ギターのマーヴィン・スーウェルがとても気に入りました。Blue Noteはちと高いけど、大人の空間という感じで、たまに来てみたくなる場所です。

CASSANDRA WILSON
カサンドラ・ウィルソン
2008 8/7 thu. - 8/11 mon.

Cassandra Wilson(vo)
カサンドラ・ウィルソン(ヴォーカル)
Orrin Evans(p)
オリン・エヴァンス(ピアノ)
Marvin Sewell(g)
マーヴィン・スーウェル(ギター)
Kenny Davis(b)
ケニー・デイヴィス(ベース)
EJ Strickland(ds)
イージェー・ストリックランド(ドラムス)
Lekan Babalola(per)
レカン・ババロラ(パーカッション)

1ST
1.CARAVAN
2.SLEEPIN' BEE
3.BLACK ORPHEUS
4.ST.JAMES INFIRMARY
5.WHICHITA LINEMAN
6.GOD BLESS THE CHILD
7.DUST MY BLOOM
8.'TIL THERE WAS YOU
9.DEATH LETTER
10.ARERE

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【テロ?】北海道で洞爺湖サミットを妨害する

 ぽん太とにゃん子は、7月上旬に北海道に登山に行ってきました。ところが、ちょうど洞爺湖サミットと日程がぶつかり、いろいろと大変でした。P7060134 7月6日の夕刻に新千歳空港に到着。レンタカーの送迎の運転手さんが、「あれがブッシュの専用機ですよ」と教えてくれました(写真の左はじ)。
P7060001 空港でレンタカーを借りて、日高方面へ。沿道のあちこちに警察官がいて、物々しい警備体制です。でもぽん太とにゃん子は、「洞爺湖の方には行かないから大丈夫だろ」などとたかをくくっておりました。夕方だったので早く宿に着きたいと、北海道では不要の高速をわざわざ利用したのが間違いのもと。千歳ICから苫小牧東ICまでのわずか11.9km(所要時間8分)の間で悲劇は起こったのです。
 千歳ICから高速に入って、道央自動車道を南下して行くと、うしろにパトカーが一台ぴったりと追走してきます。そこで「いつもの通り」法定速度の時速100kmで走行。
 別に悪いことはしていませんが、ずっとパトカーに追いかけられるのも気分がよくないので、抜いてもらおうと思って、速度を80kmぐらいに落としました。すると、パトカーから拡声器で怒鳴り声が……。
 「スピードを上げなさい!!」
 ぽん太とにゃん子はパニックです。スピードを落とせというのならわかりますが、スピードを上げろと怒られるのは生まれて初めてです。状況が理解できません。

 混乱していると、業を煮やしたのかこんどはパトカーが並走。路肩に停止させられました。
 「何にも聞いてないんですか!? 100キロで着いて来なさい」とのこと。
 ぽん太とにゃん子は何にも聞いてないよ〜。高速入口も普通に入れたし……。

P7060003 パトカーに先導されて、美沢PAに入らされました。
P7060135 先客の車がもう一台停まっています。おまわりさんの話しでは、何でもこれから高速を要人が通過するので、その間ここで車から出ずに待機していなくてはならないとのこと。車一台に警察官一人の監視つきです。ちなみにおまわりさんは京都府警とのこと。ご苦労様です。

 ここから先は撮影禁止。しばらくすると、白バイとパトカーに先導されて、何台かの黒塗りの車がすごいスピードで通過。イタリアのベルルスコーニ首相だそうです。珍しいものを見れてよかった。さあ、民宿へいってビールでも飲もうっと。
 これで解放されると思いきや、次の要人の車が高速に入ったとのこと。さらに軟禁は続きます。誰だか忘れましたがさらに二人の要人が通過し、結局1時間近くパーキングエリアに缶詰にされました。
P7060004 ようやく釈放されて、警備車両だらけのパーキングエリアからおさらばです。

 つまり、要人を通すためにパトカーが先導していたら、前をのろのろと走っているぽん太とにゃん子がいたので、「もっと速く走れ」と指示したのでした。たしかに、後ろからイタリア首相の車が追いついてしまったら大変ですものね。ぽん太もそんなんでワイドショーのネタになりたくないです。
 でもそれなら、高速の入口を閉鎖しておいてくれればいいのに。ぽん太とにゃん子は何も知らずにすんなりと入ってしまいました。
 後で知ったことには、なんでも本来はヘリで移動するはずだったのが、霧のために急きょ車に変更になったそうで、警備も混乱していたのかもしれません。

 滅多に体験できない事件で、おもしろかったです。迷惑かけてすみません。

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【医療制度】延命やめたら医師に2000円?「後期高齢者終末期相談支援料」とは

 平成20年4月1日から開始された後期高齢者医療制度は、その実態が一般に知れ渡るにつれ、ますます批判が強まっているようです。政府はあわてて「長寿医療制度」などという別名をつけましたが、一部では「平成姥捨て山制度」などと揶揄されているようです。それにしても「長寿医療制度」というのもセンスのない名前で、口にするのが恥ずかしい感じがしますね。昔の「E電」を思い出します。え、「E電」なんて知らない? 知らない方は例えばこちらをどうぞ。

 後期高齢者医療制度の問題点は既にいろいろと挙げられていますが、最近話題になったのは「後期高齢者終末期相談支援料」で、週刊ポスト(2008年5月9・16日号)が「後期高齢者の終末医療『延命やめたら医師に2000円』」というセンセーショナルなタイトルでスクープしております。
 「後期高齢者終末期相談支援料」とは、以下のようなものです(厚労省のこちらのページのなかにあるこちらのpdfファイルの一番最後にあります)。

B018 後期高齢者終末期相談支援料 200点
注 保険医療機関の保険医が、一般的に認められている医学的知見に基づき回復を見込むことが難しいと判断した後期高齢者である患者に対して、患者の同意を得て、看護師と共同し、患者及びその家族等とともに、終末期における診療方針等について十分に話し合い、その内容を文書等により提供した場合に、患者1人につき1回に限り算定する
 診療報酬は1点=10円で換算しますから、2000円の収入となります。

 これだけではよくわからないと思いますが、細かな運用に関しては「診療報酬の算定方法の制定等に伴う実施上の留意事項について」(保医発第0305001号)に書かれています。厚労省のこちらのページのなかにあるこちらのpdfファイルの33ページにあります。リンクを辿るのも大変でしょうから、ちょっと長いですけど全文引用しておきましょう。

B018 後期高齢者終末期相談支援料
(1) 後期高齢者終末期相談支援料は、後期高齢者である患者が、終末期においても安心した療養生活を送ることができるよう、医師等の医療関係職種から適切な情報の提供と説明がなされ、それに基づいて患者が医療従事者と話し合いを行い、患者が終末期における療養について十分に理解することを基本とした上で、診療が進められることを目的としたものである。
(2) 一般的に認められている医学的知見に基づき終末期と保険医が判断した者について、医師、看護師その他の医療関係職種が共同し、患者及びその家族等とともに、診療内容を含む終末期における療養について、「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」( 平成18年5月21日医政発第0521011号)、「終末期医療に関するガイドライン」(日本医 師会)等を参考として、患者の十分な理解を得るために話し合い、その内容を文書(電子 媒体を含む。)又は映像により記録した媒体(以下、この区分において「文書等」という。)にまとめて提供した場合に患者1人につき1回に限り算定する。とりまとめた内容の提供に当たって交付した文書等の写しを診療録に添付すること。
(3) 患者の十分な理解が得られない場合又は患者の意思が確認できない場合は、算定の対象とならない。また、患者の自発的な意思を尊重し、終末期と判断した患者であるからといって、保険医は患者に意思の決定を迫ってはならない。
(4) 話し合う内容は、現在の病状、今後予想される病状の変化に加え、病状に基づく介護を含めた生活支援、病状が急変した場合の治療等の実施の希望及び急変時の搬送の希望(希望する場合にあっては搬送先の医療機関等を含む。)をいうものであること。
(5) なお、入院中の患者については、患者及び家族等と話し合いを行うことは日常の診療においても必要かつ当然のことであることから、特に連続して1時間以上に渡り話し合いを行ったうえで、患者の十分な理解を得ること。
(6) 時間の経過、患者の病状の変化、医学的評価の変更、生活の変化に応じて、また、患者の意思が変化するものであることに留意して、その都度説明し患者の十分な理解を得ること。ただし、変更があった際の文章等の作成に係る費用については所定点数に含まれ、別に算定できない。
(7) 入院中の患者については退院時又は死亡時、入院中以外の患者については死亡時に算定する。
 よーするに、患者に回復の見込みがないと判断された時、医師・患者・家族等が話し合って、最後は自宅で看取るのか、それとも病院に入院させるのか、点滴などは行うか、人工呼吸器をつけるか、などを話し合って文書化すれば、診療報酬2000円が与えられるというものです。「連続して1時間以上に渡り話し合いを行ったうえで」とありますが、医師の時給は2000円以下かい! 精神科医のぽん太は終末期医療に関わることはほとんどないので詳しくないのですが、こういった問題は、日々の診療のなかで少しずつ話し合っていくものではないでしょうか? 最終的に確認をとって文書にまとめるのには1時間もかからないでしょう。するとこの「後期高齢者終末期相談支援料」を実際に使用する機会は多くはないと思われます。むしろこういったことを「まず明文化して反応を見る」ことが厚労省の目的であるようにも思われます(2008.5.16訂正、よく読んだら1時間かけないといけないのは入院の場合だけでした)。

 この制度に関しては、日本ALS協会も4月24日、見直しを求める見解を表明しております。例えば毎日新聞2008年4月25日のこちらの記事をどうぞ。「見解」の全文はちと見つかりません。日本ALS協会のサイトにでもアップしていただけるといいのですが。ちなみに記事のなかに出ている全日本病院協会作成の意思表示の文書は、たぶんこのpdfファイルだと思います。
 終末期をどう迎えるかというのは大変複雑でデリケートな問題です。十分に話し合いが行われたか、医師の情報提供が適切に行われたか、患者や家族(それに医師も!)の複雑な思いが切り捨てられてしまうのではないか、あとで気持ちが変わったときに相談しにくいのでは、などの心配があります。また終末期が近づいた患者さんは精神的に弱って、ときにはうつ状態になったりします。そういった状態では正しい判断ができない恐れもあります。また、家族に迷惑をかけるのを申し訳なく思い、自分の希望に反して延命を断るかもしれません。こうした問題を抱えた状態で、制度化のみが一人歩きして行くのは危険に思われます。

 反発にあわてた厚労省は、平成20年4月28日に厚生労働省保険局医療課の事務連絡というかたちで、「患者の希望が確認できない場合等には、「不明」、「未定」等とすることで差し支えない」と、事実上の修正を発表しました(こちらのページこちらのpdfファイル)。

事 務 連 絡
平成20年4月28日
地方社会保険事務局長
都道府県民生主管部(局)
国民健康保険主管課(部)長     殿
都道府県高齢者医療主管部(局)
高齢者医療主管課(部)長
厚生労働省保険局医療課

後期高齢者終末期相談支援料の取扱いについて

 標記については、「診療報酬の算定方法の制定等に伴う実施上の留意事項について(通知)」(平成20年3月5日保医発第0305001号)により本年四月の診療報酬改正に伴う留意事項を定めたところであるが、当該項目についてとりまとめる文書等の取扱い等は下記のとおりであるので、遺憾のないよう関係者に対し周知徹底を図られたい。


 後期高齢者終末期相談支援料の算定にあたっては、病状が急変した場合の治療等について、医師、看護師その他の医療関係職種が共同し、患者及びその家族等とともに話し合い、その内容を文書等にとりまとめることとしているが、「診療報酬の算定方法の制定等に伴う実施上の留意事項について(通知)」(平成20年3月5日保医発第0305001号)にあるように、後期高齢者終末期相談支援料は、終末期においても安心した療養生活を送ることができるよう、患者が終末期における療養について十分に理解することを基本とした上で診療が進められることを目的としたものであるため、患者の自発的な意思を尊重し、患者に意思の決定を迫ってはならず、病状が急変した場合の治療方針や急変時の搬送の希望等について、患者の希望が確認できない場合等には、「不明」、「未定」等とすることで差し支えないものである。
 いつもながらの厚労省の朝令暮改の場当たり的なやり方にはあきれます。しかしさらに、終末期をどのように迎えるか相談した場合、なぜ75歳以上の後期高齢者の場合だけ医師に報酬が与えられるのかは、ぽん太のタヌキ脳では理解できません。「後期高齢者終末期相談支援料」は75歳未満のひとに対しては適用されないのです。

【ブログ内の関連記事】
【高齢者医療】「みだりに診察を行ってはならない」ーー既に始まっていた高齢者切り捨て2008/05/14

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「病と医療ー江戸から明治へ」(国立公文書館)・「東山魁夷展」(東京国立近代美術館)・イタリアンレストランBiCE東京(カレッタ汐留)

 国立公文書館で「病と医療ー江戸から明治へ」という展示会をやっているのを地下鉄のポスターで見かけ、行ってみることにしました。そもそも国立公文書館ってどこ? 竹橋の東京国立近代美術館の隣のようです。何と入場無料で、カラー67ページのパンフレット付き。ありがたいと思いつつも、税金の無駄遣いが行われている疑念が湧いてきます。
 江戸から明治にかけての病と医療の変遷を、古文書の資料を例示しながら解説したもので、なかなか興味深かったです。展示されていた『養生訓』は新しいものでしたが、杉田玄白が執筆し養子の杉田伯元が出版した『形影夜話』は1810年(文化7年)のものですから、初版本でしょうか。
 最近日本では、新型インフルエンザのパンデミックが話題になっております。厚生労働省の「新型インフルエンザ対策行動計画」では、日本の全人口の25%が新型インフルエンザにかかると想定されています。新型インフルエンザの毒性が中等度と仮定すると、死亡者は日本全体で17万人、重度の場合は64万人となります。とっても恐ろしく思えますが、人類の歴史上このような伝染病の被害は何度もありました。命が医療によって保証されていると考える方が間違っています。今回の展示によれば、資料の数字が正確かどうかはわかりませんが、例えば1716年(享保元年)のインフルエンザでは、1ヶ月の間に江戸だけで8万人の死者が出たという記事があるそうです。1858年(安政5年)にはコレラが流行し、江戸の死者は3〜4万人だったといいます。江戸の人口に関しては正確な資料は乏しいようですが、よくいわれるように100万都市だったとしても人口の3〜4%。現在の日本の人口に単純に換算すれば、400万人くらいが死亡したことになりましょうか。
 昔どっかでぽん太が聞いた話しで、出典は覚えていませんが、江戸時代の女郎かなんかが「私○歳よ」とサバを読んでいたら、流行病に感染しなかったため、前回の流行時にすでに生まれていて免疫ができていることがわかってしまい、年がバレてしまった、というのがあります。また江戸時代には、麻疹(はしか)や痘瘡(天然痘)の流行が何度もありましたから、子どもが顔に瘢痕を残さずに成長するということは、親にとっては大きな喜びでした。江戸時代の「容姿端麗」というのは、単に美人というだけではなく、疫病の瘢痕が少ないという意味もあったそうです。乳幼児の死亡率も非常に高く、無事に成長した子どもを両親が大切にしたのもうなづけます。海外ではたとえば作曲家のモーツァルト(1756〜1791)は6人の子どもをもうけましたが、無事に成人したのは2人だけでした。子ども全員に同じ名前をつけたら一人だけ生き残ったのでちょうど良かった、などという話しも聞あります。現代では正常分娩は病気でないという考えから、健康保険も使えないことになっていますが、それはひとえに産科学の進歩によるものですから、みなさん産婦人科医を大事にしてあげて下さい。

 ついでに隣の東京国立近代美術館の「東山魁夷展」を見ました。東山魁夷というと、ぽん太は、緑の林が池に映って白い馬がいる絵しか知らなかったので、とても興味深かったです。今年が生誕100年なんだそうです。晩年の絵は、写真のようにリアルなのがかえって俗っぽく感じられ、ぽん太はあんまり好きになれませんでした。

 その後、カレッタ汐留のイタリアンレストランBiCE東京でディナー。もちろんタヌキのぽん太とネコのにゃん子が、自腹でこんな高級レストランに来ることはありません。キャッシュカードのポイントでディナー券を手に入れたのです。料理もおいしく夜景もきれい、ボーイさんも外人で、雰囲気良かったです。ぽん太たちは正体がばれるのではないかと緊張しました。またポイントがたまったら来たいです。
 しかし汐留駅がこんなになっていたとは知りませんでした。電通やリコーのビルが建ち並び、おしゃれな会社員が闊歩しておりました。これまで「好景気」と言われても実感がなかったのですが、ここに来たら「なるほどこのあたりは景気がいいんだな」と納得できました。

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いま「ひまわり」(東京都医療機関案内サービス)がおもしろい!

 2008年4月1日から、東京都医療機関案内サービス「ひまわり」がリニューアルされました。これは、同日に開始された医療機能情報提供制度とも連動しているもので、以前よりもきめ細かい情報を得ることができ、患者さんが病院を選択するときの助けとなると思います。

 しかし、情報が細かいだけに、なかなか興味深い情報もあります。病院を検索すると、まず基本情報が現れますが、画面右上の「医療の実績、結果に関する事項」というリンクをクリックして表示すると、ページの一番下に、1日当たりの平均外来患者数が書かれています。これと診療日数を勘案すると、おおまかな売り上げがわかってしまいます。知り合いの先生のクリニックを覗いてみると、「をを、あの先生、こんなに繁盛してたのか」とか、「へ〜、意外と細々やってるんだな〜」とか、興味津々です。今日の午前中は閑だったので、あちこち見てまわって楽しみました。
 税務署にも筒抜けなので、悪事を働いている先生はご注意を。

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【精神医学史】野村章恒『森田正馬評伝』を読んで森田療法の歴史をみちくさ

 先日、坂口安吾の『流浪の追憶』に1936年頃東大外来で森田療法を行っていたと書いてあるのを読み、森田療法の歴史に関心を持ったぽん太ですが、我が家の森田療法の本を読んでみても、理論や技法の解説は書かれているものの、森田療法の歴史に関しては触れられていません。そこで、野村章恒の『森田正馬評伝 』(白揚社、1974年)という本を見つけ、読んでみることにしました。
 以下、ぽん太が興味深かった点だけをあげてみます。森田正馬の生涯を要約するつもりはありませんので、興味がある方は自分で書物にあたってくらはい。また、以下は一冊の本に基づいており、他の文献との比較検討は行っておりませんので、ご了承下さい。

 森田正馬(もりたまさたけ)は、1874年(明治7年)高知県香美郡富家村兎田(かみぐんふけむらうさえだ)で生まれたそうです。現在ではこのあたりでしょうか?生家は現存しているようで、こちらのサイトに写真があります。「生誕の地」の石碑もあるようです。
 森田は中学時代の1893年(明治26年)12月から日記をつけ始め、全部でノート36冊に及んでいるそうで、野村は日記を引用しながら森田の生涯をたどっています。
 高知県立第一中学校を経て、1895年(明治28年)熊本第五高等学校に入学します。神経症の治療法を確立した森田自身が、若い頃から神経症に悩んでいたことは有名で、動悸や頭痛、腰痛に苦しめられました。第五高等学校には一年後輩に、のちに物理学者・随筆家として有名になった寺田寅彦がいました。また同校では1896年から夏目漱石が英語の教鞭をとっていたはずですが、本書では夏目漱石には言及していません。森田の日記にそもそも夏目漱石が出て来ないのか、それとも野村が取り上げなかっただけなのかはわかりません。
 1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学に入学。当時の精神病学講座は、初代教授の榊淑(さかきはじめ、1857-1897)が若くして他界したあとで、1901年(明治34年)には、留学から帰国した呉秀三(1866-1932)が教授に就任します。呉秀三が後に有名な『精神病者私宅監置の実況及び其統計的観察』(1918年)を記して日本の精神医療の改善に大きな貢献をしたことは、以前のブログで書きました。
 大学一年の時、森田は「神経衰弱兼脚気」という診断を受けたものの、やぶれかぶれになって薬もやめて勉学に打ち込んだら症状も消失し、成績もよかったそうで、この体験がのちの「恐怖突入」の基礎となった、という話しは詳しく述べません。
 日記によると、1901年(明治34年)12月14日に、前日に喉頭癌で死去した中江兆民の解剖に立ち会ったと書かれています。ちなみに中江兆民も土佐藩出身でした。
 1902年(明治35年)の元旦には山内侯爵家(つまり土佐藩主の子孫)を訪ね、また同年2月9日には大町桂月(1869〜1925)宅の宴会に呼ばれたそうで、当時の交友関係の一端がわかります。ちなみにぽん太が以前に泊まったことがある青森県の蔦温泉旅館は、大町桂月の終焉の地で、旅館のほど近くにお墓がありました。

 1903年(明治36年)、大学を卒業した森田は精神病学教室に入局します。野村章恒によれば、当時、東京帝国大学医科大学の卒業生で精神科医を志望するものは、よほどの奇人か変人と思われていて、毎年の希望者はゼロか一人。森田が入局した年も彼一人だったそうです。精神病学教室も大学キャンパス内にはなく、巣鴨村の東京府立巣鴨病院にあったそうです。
 当時の日記には、呉秀三や三宅紘一などに加えて、根岸病院院長の松村清吾や青山脳病院院長の斎藤紀一の名前も出てきます。ご存知かもしれませんが、根岸病院は1879年(明治12年)に根岸に開院した病院で、戦火により国立(くにたち)に移転、現在は清吾の孫にあたる松村英幸先生が院長となっておられます。こちらが根岸病院の公式サイト、こちらに根岸病院の歴史が書かれています。ふ〜む、昔は根岸にあったから「根岸病院」という名前なのか。知らなかった!また斎藤紀一は斎藤茂吉を養子とし、その茂吉の子供が斎藤茂太・北杜夫ですね。青山脳病院は1903年(明治36年)に開設。紆余曲折ののち、現在は府中市の斎藤病院となり、茂太さんの息子で航空ファンで有名な斎藤章二先生が院長をされています。こちらが斎藤病院の公式サイト、そしてこちらに斎藤病院の沿革があります。
 さて、話しを戻して1903年(明治36年)、7月には大学の心理学実験室で催眠実験を見たり、8月には土佐の「犬神憑きの調査」をたりしています。9月17日には呉秀三から慈恵医院学校の講義を受け持つように言われ、10月6日から開始しました。また12月には、弟の徳弥が慈恵医学校3年級に編入しました。森田正馬と慈恵医大との関係はこの頃から生じたようです。しかし徳弥は1905年(明治38年)に日露戦争で戦死します。
 1906年(明治39年)2月1日、森田は終生の住処となった家に移ります。当時の住所は本郷区蓬莱町65番地だそうです。現在だと文京区向丘のあたりだと思うのですが、ググってもよくわかりません。自宅が博物館などになって保存されていないのでしょうか?またこの年の12月1日から、根岸病院に勤務することになります。
 1912年(明治45年)春、自宅での診療を開始。この後、次第に森田療法を確立していったようで、1915年(大正4年)8月8日の日記には、「精神性心臓症を唯一回の診察で根治す。適切に本症を治せる第一例なり」と書いています。
 1917年(大正6年)森田は中村古峡に出会い、雑誌『変態心理』に関わるようになります。中村古峡については、みちくさするときりがないので、またそのうちに。
 1919年(大正8年)は一般に森田療法が確立した年とされており、4月12日の日記には、「この月、巣鴨病院の永松看護婦長の久しく神経衰弱に悩めるを、私の家に静養せしめて軽快す。これまで私は神経質患者を近隣に寄宿せしめて治療せるが、このことありてより自宅で神経質者を治療する便を知り、次第に入院をゆるし、この年十八人の入院患者ありたり」と書かれており、自宅での入院治療を開始したことがわかります。
 1920年(大正9年)、重病(反復性大腸炎??)にかかり、一時死線をさまよいます。回復後、最初の著作『神経質及神経衰弱の療法』の執筆を開始し、翌年6月、中村古峡主宰の日本精神医学会から出版します。患者にも医者にも読まれることを期待して書かれたもので、好評を博したそうです。
 1921年(大正10年)11月10日の日記には、東大教授三宅鉱一と助教授杉田直樹を自宅に招き、森田療法で治癒した患者と歓談したそうで、そのなかには三宅や杉田が治療できなかった患者も含まれていたそうです。森田療法の見学に来る医師もいたようです。
 1923年(大正12年)には『神経質の本態及療法』を学位論文として提出し、翌年医学博士号を得ました。
 1925年(大正14年)、大学に昇格した東京慈恵会医科大学の教授となりました。
 森田自身は、大正8年から12年までに、124人の患者を治療したそうです。
 森田療法を関西へひろめた重要な人物として、宇佐玄雄がいます。彼はもともと禅師でしたが、一念発起して東京慈恵医院医学専門学校に1915年(大正4年)に入学し、1919年(大正8年)からは森田正馬に森田療法の手ほどきを受けました。そして1922年(大正11年)に京都に三聖医院、1927年(昭和2年)に三聖病院を開き、森田療法の普及に貢献しました。
 『出家とその弟子』などで有名な倉田百三が、森田療法によって自分の強迫観念が治癒した体験を発表したことが、森田療法を広める一因となったそうです。彼は1926年(大正15年)2月頃に強迫観念に取りつかれ、宇佐と森田の指導を受けました。彼はこの体験を雑誌で発表し、1932年に『神経質者の天国』として出版しました。森田自身も1936年に「倉田百三氏の悩みたる強迫観念の心理的解説」を発表しました。
 精神分析との論争については省略。
 1931年(昭和6年)6月1日、森田は熱海の旅館伊勢屋を買い取り、のちに森田旅館と改名したそうです。へ〜、知らなかった。温泉ファンでもあるぽん太はすごく興味があります。本書には森田旅館の写真も載っています。現在でいうとどこなのでしょうか?ぐぐってみてもわかりません。
 1937年(昭和12年)4月、慈恵医大教授を辞任。
 1938年(昭和13年、64歳)、自宅で死去。

 う〜ん、ぽん太のそもそもの関心だった、1936年頃に東大外来で森田療法をやっていたかどうかは書いてありません。慈恵医大の教え子から森田療法を受け継いだ医師が大勢育ち、また自宅兼診療所には多くの見学者が訪れたようですが、正統派アカデミズムの東京帝国大学でホントに森田療法が行われていたのでしょうか?この点は、さらに今後のみちくさの課題にしたいと思います。
 でも、明治から戦前にかけての日本の精神医学の社会史が少しわかってよかったです。

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【雑学】坂口安吾『流浪の追憶』・本沢温泉・森田療法

 先日ネットサーフィン(死語か?)をしていたら、坂口安吾の『流浪の追憶』という短文に行き当たりました。こちらの「青空文庫」のサイトで読むことができます。
 とりとめのないエッセイですが、以前にぽん太が泊まった本沢温泉が出てきます。

 「八ヶ岳の中腹に本沢といふ温泉がある。海抜二一〇〇米(メートル)ぐらゐの地点にあるらしい。大正十二年に出版された某登山家の著書によると、この温泉は春ひらいて秋とざす。一冬八十円の報酬で留守番を置き残し一同下山するが、春に訪れてみると大概番人は死んでゐる。首をくゝるもあり半身焼けただれてゐるもあり明らかに殺されてゐる者もあると言ふのであつた。然し八十円の報酬に目がくらんで、番人を希む者は絶えた例がないと言ふ。いまだにさうか私は知らない。」

 本沢温泉が、こんなキューブリックの『シャイニング』のような恐ろしいところだとは知りませんでした。従業員の人たちは知っているのでしょうか?こちらが本沢温泉の公式ホームページですが、現在は冬期も営業しているようです。ちなみに山小屋スタッフ・アルバイト募集中のようです。日給は当時の100倍の8,000円から。みなさんいかがですか?
 「大正十二年に出版された某登山家の著書」というのはなんだかわかりません。

 「例の日本一といふ高原鉄道小海線が去年十一月開通した。八ヶ岳の麓千米ほどの高原を通るのである。私はこれに乗り、もし閉ぢられてゐないなら季節の終りの本沢温泉を訪ねてみやうと思つた。八十円に目のくらんだ番人がゐたら茶飲み話をしながら素朴な心境を探りたいとも考へてゐた。去年の十一月の終りのことだ。」

 JR鉄道最高地点(1,375m)のある小海線が全線開通したのは1935年(昭和10年)11月29日。安吾の文章の初出は「都新聞」1936年(昭和11年)3月17日〜19日ですから、つじつまはあっています。
 しかしけっきょく安吾は本沢温泉に行きませんでした。旅の途中で精神病院に友人の見舞いに行きましたが、その友人のあまりの俗人ぶりに腹を立てて気が重くなり、行き先を雪の山中の温泉から、明るい南国の大島に変更してしまいます。
 ところで、精神障害つながりで、安吾は次のような一段落を記しています。

 「友人のW君が目下神経衰弱で帝大病院へ通つてゐるが、療法をきいて面白いと思つた。医者は薬を与へない。毎日日記を書かせそれを提出させる。日記に批判を与へる掛りがゐて、ここの追求が足りないとか、ここは正しいとか朱を入れて返すのである。要するに潜在意識をさらけ出さしめ、それを隠すことによつて精神を疲労せしめた原因を除去するのではあるまいかと私は愚考したわけだが、自分をさらけだし追求し反省するのは小説家の本道で、その意味では小説家は神経衰弱を通りこして一種の告白不感症に憑かれてゐると言つてよからう。W君の場合にしろ要するに完全な私小説を書ききれば医者も文句が言へないわけで、嘉村礒多の小説でも帝大病院へ持つて行つたら医者も辟易して朱筆を投げると思ふのである。告白型といふ点で近代作家は狂人の塁を摩してゐる。」

 ここに描かれている帝大病院の日記療法は、どうみても森田療法ではないか。へ〜え、当時、東大で外来森田療法をやっていたのでしょうか。
 ちょっと調べてみると、森田療法の創始者森田正馬は、1874年(明治7年)に生まれて1938年(昭和13年)に死去。森田療法を確立したのは1919年(大正8年)頃と言われています。とすると、坂口安吾が『流浪の追憶』を発表した1936年は森田正馬の最晩年ということになり、森田療法自体は広まっていたとは思いますが、はたして東大外来で行っていたのかどうか?ぽん太にはわかりません。そのうち森田療法の歴史をみちくさしてみたいと思いますが、これまでも何度か書いたように、医学の「科学史」の本は多いのですが、医学の「社会史」の本は少ないので、どうなりますことやら。
 ちなみに「要するに潜在意識をさらけ出さしめ、それを隠すことによつて精神を疲労せしめた原因を除去する」という坂口安吾の理解は間違っていて、それはフロイトの精神分析に近い考え方ですね。

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板橋の近藤勇の墓をみちくさ

 先日、たまたまJR埼京線の板橋駅に降り立ったところ、「近藤勇の墓」という表示が目に入り、少し時間もあったのでみちくさしてきました。
 近藤勇(こんどういさみ:1834天保5〜1868慶応4)といえば、新撰組でおなじみ。ぽん太も大河ドラマを楽しみました。しかもぽん太の地元、東京は多摩の出身です。
 で、近藤勇の最後ですが、1868年(慶応4年)の4月25日に、板橋宿の平尾一里塚で斬首されたそうです[1][2]によれば、平尾一里塚はだいたいこのあたり(地図へのリンク)だったらしいのですが、現在は特に案内板などはありません。
 板橋宿は、中山道の、江戸に最も近い宿場です。旧中山道と板橋宿の地図に関しては、[3]の略図が見やすいです。板橋宿は、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿とともに、江戸四宿(えどししゅく)と呼ばれていました。これらはすべて、江戸に最も近い宿場だったのですが、いわゆる飯盛女と呼ばれる遊女を起き、非公式の遊郭としてにぎわっていました。歌舞伎でも長谷川伸の『暗闇の丑松』では、人を殺めて江戸から逃げた丑松が、板橋宿の杉屋で女郎を買いますが、座敷に現れたのは妻のお米だったというシーンがあります。もっとも長谷川伸がこの戯曲を発表したのは1931年(昭和6年)ですから、どれだけ当時の江戸の状況を踏まえているかという問題はあります。この芝居は講談の『天保六歌撰』をふまえており、また長谷川伸より以前に河竹黙阿弥が『天衣粉上野初花』という歌舞伎を書いていますが、そこまで散歩の足を延ばす気にはなれません。
板橋の近藤勇の墓 で、前置きが長くなりましたが、こちらが近藤勇の墓です。場所はJR埼京線の板橋駅の東口を出て正面にあります。ちょっと見にくいですが、土方歳三の名前も併記されています。
長倉新八の墓 傍らには永倉新八の墓もあります。大河ドラマではぐっさんがやってた役ですね。
 東京都北区教育委員会が建てた案内板には(板橋区ではないのか……)、次のように書かれています。

慶応4年(1868)4月25日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
 本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。(以下略)
ナルホド、胴体を埋めたところに、8年後に供養塔を建てたのですね。
 しかしググってみると、近藤勇の墓というのは各地にあるようです。まず、三鷹市の龍源寺[4]で、いくつかのサイトの情報を総合すると、板橋で斬首された近藤勇の胴体を、親戚が持ち帰って埋葬したのだそうです。板橋にいったん埋められた胴体を、掘り出して引き取ったと考えれば、一応矛盾はしません。
 次は愛知県岡崎市の法蔵寺で[5]、こちらは、京都でさらし首になっていた近藤勇の首を奪って来て埋葬したと主張しているようです。
 そして福島県会津若松市の天寧寺[6]の近藤勇の墓は、土方歳三が遺髪などを持っていて、会津の戦いのときに仮埋葬したものだそうです。
 その他、米沢市の高国寺[7]や荒川の円通寺[8]などもあるようですが、もうめんどくさくなって来たので散歩は終了!

【参考リンク】
[1]Wikipediaの「近藤勇」の項目
[2]長野郷土史研究会のサイトの中山道史跡地図のページ。リンクをクリックすると地図を見ることができます。
[3]板橋商店街による史跡ガイド
[4]多摩武蔵野の情報サイト・タチカワオンラインのなかの龍源寺・近藤勇墓所の案内
[5]Wikipediaの「法蔵寺」の項目
[6]会津若松市のサイトのなかの天寧寺の案内
[7]米沢市立北部小学校5年の「高国寺PR」のページ
[8]「会津いん東京」のサイトの「三ノ輪円通寺」のページ

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【雑学】太宰治、パビナール中毒、精神病院

 (本日の記事は、ネットの情報をもとに書いたため、事実と異なる可能性もあります。参照したサイトは本文中でリンクを張っています。)
 ここのところ太宰治を巡ってみちくさしていたぽん太ですが、太宰治が精神病院に入院したことがあると聞いて、興味がわいてきました。
 太宰治は、1935年(昭和10年)4月4日(25歳)に盲腸炎から腹膜炎を起こして阿佐ヶ谷の篠原病院に入院しました(『川端康成へ』)。ここで鎮痛剤として使われたパビナールに対して、太宰は依存症となったようです。
 パビナールは、こちらの添付文書情報からもわかるように、アヘンアルカロイドを成分とする鎮痛剤で、薬物依存の危険性があります。現在では武田薬品が製造販売しているようですが、なぜか武田薬品の医療用医薬品情報には含まれていません。どうしてでしょう? 最近はさすがにパビナール依存はあまり聞きませんが、鎮痛剤ペンタゾシン依存は少なくなく、夜中の救急を訪れては注射を要求する人が後を絶ちません。
 アヘンや、アヘンに含まれるモルヒネやコデインなどのアヘンアルカロイド、モルヒネから製造させるヘロインの依存症の症状、治療などに関しては、たとえばこちらの麻薬・覚せい剤乱用防止センターのサイトをご覧下さい。
 また、太宰が篠原病院に入院していたとき、同郷で太宰の義弟でもあった画学生小館善四郎が自殺未遂で篠原病院に入院していましたが、太宰を見舞いに来た妻の小山初代と姦通事件を起こし、それが1937年3月に発覚し、群馬県の水上温泉での太宰と初代との心中未遂事件につながりました。
 篠原病院は、こちらの東京紅團のページによれば、篠原外科整形外科として近年まで診療をしていたようですが、現在は閉院して篠原ビルとなっているようです。
 5月1日に太宰は、世田谷の経堂病院に転院しました。この病院は児玉経堂病院として現在も診療を続けているようです。東京紅團のページには、当時のままという趣きある建物の写真も出ています。
 6月30日(7月1日?)に退院した太宰は、転地療養のため千葉県船橋市に転居しますが、そこでもさらに依存は強まったようです。
 1936年2月、太宰は佐藤春夫の手引で済生会芝病院に入院します。江戸時代の有馬屋敷の跡に造られ、現在は東京都済生会中央病院となっている済生会芝病院に関しては、ぽん太は以前の記事「【江戸】永井荷風も有馬屋敷跡を探検していた」で書いたことがあります。
 しかし退院後も薬を断ち切ることはできず、10月13日に東京武蔵野病院に入院となります。こんどは精神病院(当時は脳病院といったか?)で、最初の2日は開放病棟でしたが、その後は閉鎖病棟に移されたようです。近藤富枝の『水上心中』にそのときの様子が書かれています。退院は11月12日。約1ヶ月の入院ですから、離脱のみの治療だったと思われます。当時の「依存」に対する治療はどのようなものだったのでしょうか? ちょっと興味がありますが、またの機会に。
  入院体験をもとに、太宰は『HUMAN LOST』という小説を1937年4月に発表しています。

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シェイクスピアの時代の狂気と魔術と医学

 以前にぽん太は、シェイクスピアの『十二夜』で狂気と悪魔憑きが扱われていることを述べました。だまされて馬鹿げた身なりと振る舞いをしたマルヴォーリオは狂ったと勘違いされて部屋に閉じ込められてしまいますが、そこに道化が牧師の振りをしてやってきて、悪魔を尋問したりします。こうしたやり取りが喜劇として笑い飛ばされています。
 シェイクスピアの活躍した時代、狂気と医学と悪魔との関係はどうなっていたんじゃろうか?という疑問から、酒井明夫の『魔術と狂気 (精神科医からのメッセージ)』(勉誠出版、2005年)と森島恒雄『魔女狩り 』(岩波新書、1970年)を買って読んでみました。
 酒井の本は、予言者にして医師でもあった古代ギリシアのメランプスの伝説、人が動物に変身する病気とりわけ王神に変身するリュカントロピア、ルネッサンス期を代表する魔術師アグリッパ、ヒポクラテスの神聖病、という4つのトピックスを扱っています。興味深いのは2番目のトピックスで、人間が狼に変身するというリュカントロピアは、夜になると青白い顔にうつろなまなざしで狼のような仕草をしながら墓場をうろつくというおぞましいものなのですが、4世紀頃からすでにメランコリーの一種の病気であるという記載があり、以後一貫して疾病として扱われ、近代精神医学の19世紀になっても疾病分類の一部に記載されていたそうです。とはいえ、一方ではリュカントロピアを悪魔に結びつけようとした人たちがいたのも事実で、こうしたリュカントロピア=悪魔論に対する例のレジナルド・スコットの反論が要約されています。
 しかし残念ながらこの本を読んでも、中世からルネッサンスにかけての人々が多くの精神障害者を魔女として処刑したなかで、なぜリュカントロピアだけを病気として扱ったのかはよくわかりませんでした。ぽん太が知りたいのはそこなのです。当時の人々の頭の中で、狂気と悪魔がどのように区分されていたかなのです。
 森島恒雄の『魔女狩り』は、魔女狩りの始まりから最盛期までの概説です。魔女狩りが終息していく過程は書かれていません。魔女狩りは異端審問から発生したそうです。異端審問とは、誤った信仰を持つ異端者を発見し改宗させることを任務とし、1233年のグレゴリウス9世の教書が、組織的な異端審問のはじまりとされています。この異端審問に徐々に魔女が現れるようになってきたのですが、1318年にヨハネス22世が魔女狩り解禁令とも言える教書を発表したのをきかっけに、魔女狩りは激化します。そこで起きたことはよく知られていますが、多くの無実の人々が、そのなかには精神障害者も混ざっていたと思われますが、拷問のすえに処刑されたのです。
 ここで腑に落ちないのは、シェイクスピアの時代はまさに魔女裁判の最盛期だったということです。ちなみにシェイクスピアは1564年に生まれ、1616年に死去。『十二夜』は1601-02年頃の執筆とされています。1603年にイングランド王となったジェームズ1世は、自ら魔女の尋問を行ったこともあるという「魔女狩り王」でした。時代は少し下ってイングランドのマシュー・ホプキンスは、さまざまな拷問によって自白を引き出すエキスパートとして有名で、「魔女狩り将軍」とあだ名されていたそうです。このような時代になぜシェイクスピアは、だまされて狂人と見なされた人に「黙れ悪魔憑き」などと言う「喜劇」を書けたのでしょうか? ブラッックジョークにしても恐ろしすぎるような気がします。
 ちなみに当時の医師たちは、魔女の身体的な証拠を探したり、拷問に立ち会って監視するなど、魔女狩りの手助けをしていたそうです。

 結局、魔女・魔術については少し詳しくなりましたが、シェークスピアの生きた時代の狂気と魔術と医学の関係については、あいかわらずわからないままです。

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【神社】鳥海山大物忌神社

鳥海山大物忌神社 ぽん太が先日登った山形県の鳥海山の山頂直下には、鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)がありました。例によって、この神社について調べてみました。こちらが神社の公式ホームページですが、かなり地味です。
 普通は山の上にあるのは「奥社」で、ふもとにあるのが「本社」なのですが、鳥海山大物忌神社の場合は、山頂にあるのが「本社」で、ふもとの吹浦と蕨岡の2カ所にある神社を「口の宮」と呼んでいるようです。
 江戸時代に2つの里宮が一宮の名称を巡って争ったために、幕府の裁定で山頂の祠を一宮に決めたという情報もあります(2)。

 御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)と豊受姫神(とようけひめのかみ)ですが(1)、倉稲魂命が大物忌大神と同一視されているようです(2)。

 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)は『日本書紀』では伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)と伊弉冉尊 (いざなみのみこと)の間に生まれた子供とされています(6)。
 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)は『古事記』の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一視されますが、この神は素戔鳴命(すさのおのみこと)と神大市比売命(かみおおいちひめのみこと)の間の子供とされています。乱暴者の素戔鳴命は高天原をおわれて出雲の国に降り立ちます。そこでヤマタノオロチを退治し、宮を造って居を構え、さまざまな神と結ばれて子供を生みますが、その一人が宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です(5)。
 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)は五穀・食物を司る神とされ、赤い鳥居にキツネが目印の稲荷神社の御祭神となっている場合が多いです。
 
 次に豊受姫神(とようけひめのかみ)ですが、『古事記』には、伊弉冉尊 (いざなみのみこと)の尿から生まれた和久産巣日神(わくむすびのかみ)の娘として、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)が名前だけ紹介されています(5)。しかし、むしろこの神様は、豊受大御神(とようけのおおみかみ)という名で伊勢神宮の外宮の御祭神となっていることで有名です。ぽん太が見たかぎり、『日本書紀』には、豊受姫神(とようけひめのかみ)は出て来ないようです。Wikipediaの「トヨウケビメ」の項を見ると、「日本書紀では豊受媛神と表記される」と書いてありますが、ホントでしょうか? 「豊受媛神 日本書紀」でググってみると、同じ内容を主張するページがいっぱいひっかかりますが、まさかどれもWikipediaの丸写しなのでは……?

鳥海山御浜神社 なお、鳥海山の登山道の途中に御浜神社というのがありますが、これについてはぽん太はよくわかりません。鳥海湖のほとりにあるからでしょうか?

【参考リンク】
(1)鳥海山大物忌神社HomePage:公式ホームページです。
(2)鳥海山大物忌神社-Wikipedia:ご存知Wikipediaのページ
(3)玄松子神社参拝の記憶:日本全国の神社を訪ねる玄松子さんのホームページ。左のメニューの「山形」のなかに、「鳥海山大物忌神社」「鳥海山大物忌神社(蕨岡口之宮)」「鳥海山大物忌神社(吹浦口之宮)」があります。
【参考文献】
(4)川口謙二編著『日本の神様読み解き事典』、柏書房、1999年。
(5)『口語訳古事記 完全版』、三浦佑之訳、文藝春秋、2002年。
(6)『日本書紀 (講談社学術文庫)』、宇治谷孟訳、講談社学術文庫、1988年。

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【苦情】NHKがケーブルテレビの団体一括払い制度を隠して受信料ぼったくり

 先日、義妹夫婦が新居に引っ越したので、お祝いに行ってきました。歓談をするうちに、「さっそくNHKが受信料を取りに来た」という話しになったのですが、義妹の新居はケーブルテレビを引いているはずなので、「団体一括割引」を使ったか聞いてみると、「なにそれ?」という返事でした。多くのケーブルテレビ会社では、NHK受信料の団体一括払いというサービスがあり、それを使うと通常よりも受信料が安くなるはず。ぽん太も以前からそれを利用し、年間2,000円ほど安くすんでいます。
 義妹の契約書を見てみると、通常の契約で、しかも1年払いになっていました。契約に来た人に「ケーブルテレビですか?」と聞かれて「そうです」と答えたら、「ではこれですね」とすすめられたものを信じて、言われるがままに契約を結んだそうです。
 頭に来てNHKに電話をしてみました。すると返事は、「ケーブルテレビの団体一括払いは、ケーブルテレビ会社によってあるところとないところがあるので、訪問契約のさいはご案内していません」とのことでした。
 「ケーブルテレビですか」と聞いて「そうです」と答えたときに、「それでは、団体一括払いの制度があるかもしれませんから、問い合わせてみるといいですよ」と言うことがなぜできないのでしょうか? 
 さらにお客様第一で考えるのだったら、その地域に引かれているケーブルテレビ会社を調べておいて、団体一括払いができるかどうかの情報を仕入れておき、案内するべきではないでしょうか。
 受信料を安くできる方法があることを訪問員が知っていながら(知らないはずはないですよね)、それを教えずに高い契約を結ばせるというのは、ほとんどぼったくり、詐欺に近いのではないかとぽん太は思うのです。
 NHKは、受信料不払いが多くて困っているはずなのに、受信料をちゃんと払おうという人をだまして、必要以上の受信料をぼったくるとは、いったいどういうつもりなのでしょうか? ぽん太には信じられません。よっぽど、今後は受信料を不払いしようかと思いました。
 今回の教訓は、NHKの言うことを信じてはならないということでした。NHKは、まだまだお役所体質が抜けていないようです。

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【雑学】山形県戸沢村は国保発祥の地?

 先日、山形県を旅行してきたぽん太ですが、最上川沿いの国道47号線を走っていたら、「国保発祥の地」という看板が目に入りました。場所は戸沢村(Yahoo!地図)です。なんじゃそりゃ、ということでさっそくググって見ました。
 戸沢村のホームページのなかに国保発祥地の歴史というページがありますが、なんか文章が途中から始まっているようで、この前の部分があるような気がします。が、ようするに、現在は戸沢村となった角川村で、村民の医療を充実させるために昭和11年に角川村保健組合を結成し、村立診療所なども作った。昭和13年に7月に国が国民健康保険法を施行したとき、角川村保健組合が「角川村国民健康保険組合」として全国第1号の設立許可を受けたのだそうです。
 なるほど、現在は医者にかかるときは健康保険を使い、その結果、診察料も全国一律で、ぽん太もそれが当たり前のように思っていました。しかし江戸時代などは医者は勝手に診察料を決めていたわけだし、健康保険制度の歴史もそのうちみちくさしてみる必要があるな。でも、今は止めておきます。
 それより気になったのは、ググってみると、埼玉県の越谷市も国保発祥の地なんだそうで、越谷市のホームページのなかの年表の1968年12月のところに、「国民健康保険施行30周年(越谷は国保発祥の地)」と書いてあります。また市指定文化財の「越ヶ谷順正会関連資料」の解説のなかに、「越ヶ谷順正会国民健康保険組合」が発足したいきさつが書かれています。
 むむむ、どっちが本当の「国保発祥の地」なんだ。大人の世界はよくわからん。

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ニセコの有島武郎記念館、軽井沢浄月庵

 ぽん太とにゃん子が行ってきたニセコには、有島武郎記念館があります。こちらが有島武郎記念館の公式ホームページです。ぽん太は15年くらい前に見学したことがあるので、今回は省略しました。なぜ有島武郎がニセコと関係あるかというと、父が所収していた広大なの農場を引き継ぎ、やがて農場解放を実践した地だからです。ちなみにこのYahoo!地図にあるように、現在でも「有島」という地名が残っています。
 ぽん太は有島武郎は、「好き」というほどではありませんが、興味を持っている人物のひとりです。有島は、学習院中等科に通うボンボンでありながら、約束された将来を投げ打って農業を志し、単身北海道に渡って札幌農学校に入学しました。ところがあとから父親が北海道にやってきて広大な農場を手に入れ、結局、大地主の有島様のお坊ちゃまという立場になってしまったという有島の苦悩は、思うに余りあります。またキリスト教に入信するも、信仰を徹底することができず、ついには棄教するにいたります。アメリカ留学中には、精神病院で2ヶ月間看護師をしたこともあり、精神科医のぽん太との接点もあります。農民のために、父から受け継いだ農場の解放を行いますが、最後は人妻と軽井沢の別荘で心中します。
 理想と自己との間で一生苦しみ抜いた有島の強さと弱さに、ぽん太は感動いたします。
 有島武郎の心中に際して、内村鑑三が「キリスト教を捨てた人間があのような見苦しい死に方をするのは当然だ」みたいなことを新聞で書いていたのを、15年前くらい前に有島武郎記念館に行ったときにぽん太は見て、内村鑑三の偏狭さに驚いた記憶があるのですが、ぽん太は最近自分の記憶を信じておりませんので、違っていたらごめんなさい。
 で、東京に戻って、久々に『カインの末裔』を読んでみました。この短編の舞台はニセコです。実際に訪れて地名や気候風土に実感が湧くことと、最近旧約聖書の『創世記』を生まれて初めて読んで、カインの出典も知ったことで、とてもおもしろく読めました。
 で、さらに、有島武郎が心中したのは軽井沢のどこだろう、という疑問が湧いてきました。「軽井沢 浄月庵」でググってみると、その建物が移築されて現在も残っていることがわかりました。この軽井沢タリアセンというところにあるそうです。こんど行ってみたいと思います。もともとこの別荘は旧軽井沢の三笠にあったそうです。

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【珍客】鷹がわが家に襲来!【万来】

鷹の子供!? 朝、ぽん太が巣穴で寝ぼけ眼で新聞を読んでいると、にゃん子が突然「鳥、鳥……」と取り乱した声。ベランダに見たこともない鳥が……。トンビ、いや鷹か?
 見たところ鷹の子供のような気がします。足にリードが巻かれているところを見ると、どこからか逃げ出してきたのか。人には慣れているようで、窓を開けて写真を撮っても逃げません。反対に、窓ガラスの外で羽ばたいて、家の中に入りたがっている様子。
 家のなかに住み着かれても困るので、入れないようにしていたら、しばらくしてどこかに飛び去って行きました。

 近くで飼われていた鷹が逃げ出したのでしょうか。足のリードで飛びにくそうでした。子供なので、カラスにでもやられやしないかと、ぽん太とにゃん子は心配になりました。

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『ギルガメシュ叙事詩』の大洪水で船が流れ着いた山は?

 前回の記事でぽん太は、旧約聖書の『創世記』に出てくるノアの方舟が流れ着いた山が、トルコのアララト山と言われていることを書きました。ところで、ぽん太が以前の記事(『ギルガメッシュ叙事詩』を読んでみた(2005/12/25))で書いたように、『創世記』より以前に書かれた『ギルガメシュ叙事詩』のなかに、ノアの方舟のとたいへんよく似た大洪水の物語があるのです。神の指示に従って船を造って生き物を乗せ、鳩を放って洪水が引いたかどうかを調べるなど、そっくりです。そこで、『ギルガメシュ叙事詩』では、洪水のときに船が流れ着いたのがどことされているのかが気になってきて、みちくさしてみることにしました。

 『創世記』のノアの方舟の物語は、紀元前10世紀頃に編集されたヤハウェ資料と、紀元前5世紀頃に編集された祭司資料からなっているとされています。『ギルガメシュ叙事詩』の洪水の物語は第XI書板に刻まれていますが、紀元前2000年頃に使われていたシュメール語の断片も見つかっているそうです。だからといって『創世記』が『ギルガメシュ叙事詩』を参照したということには、もちろんなりませんが、両者のもととなる言い伝えが古くからあったことは確かなようです。
 『ギルガメシュ叙事詩』は邦訳が文庫で手に入ります(『ギルガメシュ叙事詩』矢島文夫訳、ちくま学芸文庫、1998年)。本文に、洪水のさいに船が流れ着いたのは「ニシル山」と書かれています(XI-140、邦訳125ページ)。同じページの訳注によれば、「ニシル」は「ニムシュ」とも読めるそうで、新アッシリアの資料によると、クルディスタン地方(チグリス・ユーフラテス川の中上流近辺に広がる山岳地帯)にそのような名前の山があったらしいが、正確な場所は不明なのだそうです。
 邦訳193ページの解説によると、『ギルガメシュ叙事詩』のディヤコノフによるロシア語訳(1961年)の解説によると、この山は、イラン高原西方のピル・オマル・グドルン山とされているそうです。ちょっとググって見たのですが、残念ながらどこなのかわかりませんでした。

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ゲーテの『詩と信実』におけるレンツの言われよう

 岩波文庫のビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』(2006年)の巻末の、訳者・岩淵達治の解説のなかに、ゲーテが『詩と真実』でレンツに言及していると書いてあったので、みちくさしてみることにしました。第三部のなかで、ゲーテは3回レンツに言及しているようです。参照したテクストは『ゲーテ全集〈10〉自伝ー詩と真実第3部・第4部