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『コーラン』と『コーランを読む』を読む

 海外旅行の行き帰りの飛行機では宗教書か哲学書を読むことに決めているぽん太です。今回は行き先がイスラム教のウズベキスタンだったので、『コーラン』にしてみました。
 イスラム教は言わずと知れた世界三大宗教のひとつで、いろいろ話題になることも多いのですが、『コーラン』を読むのはぽん太は初めてです。ところが仏教の経典や、キリスト教の聖書が、一般に物語のようになっていて読みやすいのに比べ、コーランは断片的な詩句のような文章の連続で、とても読みにくいのです。おかげで行き帰りの飛行機では十分な睡眠時間が確保できましたが、イスラム教について理解を深めることはできませんでした。
 何事にも先達はあらまほしけれ、ということで、帰国後、井筒俊彦氏の『コーランを読む』を読んでみました。ところがこの先達さんがなかなか大したもので、市民セミナーをまとめたものだそうですが、とてもわかりやすくてよかったです。

 まず『コーラン』に関する覚え書き。皆さんには常識かもしれませんが、ぽん太の読書ノートだと思ってお許し下さい。
 『コーラン』は、ムハンマド(570〜632)が神から受けた啓示をまとめた聖典です。ムハンマドはアラビア半島のメッカで生まれ、幼くして両親を亡くして苦労もしたようです。長じて商人となり隊商にも参加したそうです。裕福な寡婦と結婚したりもしているようです。ムハンマドが初めて神の啓示を受けたのは40歳のときで、意外と遅いです。その後死ぬまで折に触れて啓示を受けたそうで、それらは口伝されたり、さまざまなかたちで書き留められましたが、ムハンマド自身が『決定版コーラン』を作ることはありませんでした。第3代カリフウスマーン(在位644年〜656年)が、ムハンマドの没後訳20年後、さまざまなかたちで読誦されていた『コーラン』の統一を試みますが、最終的なかたちで『コーラン』が成立するまで、3世紀かかったそうです。
 『コーラン』は114章からなり、おおむね長いものから短いものへという順番で配置されています。古い預言に短いものが多いことから、晩年の啓示が前の方、初期の啓示が後ろの方に位置します。
 一読してわかることは、アダムとかモーゼとか旧約聖書の話しが出てくることです。イスラム教の考え方では、神は何人もの預言者を地上に使わしたのであり、キリストもその一人であるが、多くの人たちは神の真意を誤解して理いる、そのため神が最後に使わした預言者がムハンマドであり、『コーラン』は正真正銘の神の教えの啓示である、ということのようです。
 もうひとつ目を引くのは、戦争が出てくることです。キリストも仏陀もいろいろと迫害を受けたりはしましたが、自らが指揮して戦争することはありませんでした。歴史的には624年、メッカ軍がムハンマドのいるメディナを攻撃しましたが、メディナ軍は劣勢にもかかわらずこれを撃退します(バドルの戦い)。翌年再びメッカ軍がメディナに侵攻しますが、こんどは大敗してムハンマド自身も負傷します(ウフドの戦い)。その後もムハンマドはメッカ軍と戦ったり、遠征を行ったりと、生涯戦争と縁が切れませんでした。このことと、イスラム教徒の一部が戦闘的なことと関係があるのかどうか、ぽん太にはまったくわかりません。
 ぽん太が『コーラン』を読んでわかったのはこれだけです。

 で、井筒俊彦の『コーランを読む』ですが、これがたいへん読みやすくていい本です。『コーランを読む』という題なので、コーラン全体を解説してくれるのかと思ったら、なんとたった7行からなる第1章を10回に分けて読むのだとのこと。ちょっとびっくりしますが、7行を理解するためにコーランの他の部分を参照するので、コーラン全体のエッセンスを知ることができます。そもそもイスラム教の考え方でも、第1章がコーランすべての思想を凝縮していると考えられているのだそうです。井筒氏の読み方は、コーランの一語一語が、当時のアラビア世界の文化的・宗教的・政治的状況においてどういう意味を持っていたかを描き出してくれるので、コーランが当時の時代背景のなかに浮き彫りになったかたちで理解できます。
 いつものように、この本に興味を持った方は自分で読んでいただくことにして、ぽん太が興味深かった点をいくつか取り上げます。
 まず『コーラン』はつねに声を出して誦むものだということ([2]p8-9)。もちろんキリスト教の聖書も仏教の経典も声に出して読まれますが、繰り返し声に出して読むことは本質ではありません。一方『コーラン』は繰り返し読誦されるべきものであることが、『コーラン』自身に書かれています。
 『コーラン』はサジュウと呼ばれる独特の文体で書かれています。これは文章を脚韻でリズミカルに句切って行くもので、純粋な詩とも違う、独特の散文形式だそうです([2]p.261-274)。これはイスラム以前のアラビアでは、神託とか予言とか呪詛、祝福などで使われる独特の文体だったそうです。『コーラン』のなかには、合戦の歴史的な記述や、結婚・離婚などの諸規則を述べた部分もあるのですが、こうした部分もサジュウで書かれているのだそうです。ちなみにムハンマド自身も、いわゆる神がかり状態、トランス状態で、アッラーの預言を語ったのだそうです。
 『コーラン』の詠唱を聴いてみたい方には、CDがあります。記事の末尾にリンクを張っておきます。節をつけて誦んでいるので、脚韻まではわかりませんが、日本の民謡のようなこぶしがきいていて、非常に神秘的です。
 ユダヤ今日では神の名は軽々しく口にしてはいけないことになっていますが、イスラム教では神の名を口にすることに宗教的意義を認めるのだそうです(p.80-84)。神は本来絶対不可知ですが、神が我々に姿を表す形態のひとつが「名前」なのだそうです。イスラムでは神が視覚的に姿を現すことはないそうです。このことは、イスラム教が偶像崇拝を禁じることと関係があるのでしょうか? またムハンマド自身が、視覚的な体験よりも聴覚的な体験に勝ったひとだったのでしょうか? 想像が膨らんで行きます。
 アッラーは99の名を持っているそうで、それらの名前は「ジャマール」と「ジャラール」という2つの系統に大別できます。「ジャマール」は慈悲、情け深いといった優しく穏やかな側面、「ジャラール」は怒り、復讐、審判、処刑などの恐ろしい側面を表しているそうです。
 イスラムが名前を重視することに関連して、第2章第30節以降でアッラーがアダムを作る話しがでてきます。天使たちは地上に災いをもたらす人間を造ることに反対しますが、アッラーはこっそりとアダムにものの名前を教えます。アダムがものの名前を言うのを聞いて、天使たちは降参します。
 イスラム教の考え方では、この夜のありとあらゆるものは神を賛美しているのだそうです([2]p.120-131)。人間が言葉で賛美するのはもちろんのこと、鳥は飛ぶことによって、地上のあらゆる存在が神を賛美し、その声に地上は満ちているのです。ぽん太は仏教でいうと、法華経の世界を思い出します。法華経の世界では、わたしたちの現実は現実そのままで、仏性に照らされて神々しく輝き渡ります。イスラム教の考えでは、あらゆる存在は神を賛美していますが、人間だけが、自分が神を賛美していることを知っています。つまり神を自由意思で賛美することができるのですが、裏を返せば自らの意思で神を賛美しないことができます。ここにあらゆる存在のなかで、人間の特殊性が認められるのです。ぽん太は、仏教の六道輪廻を思い浮かべます。六道輪廻においても、輪廻を解脱して成仏しようと考えることができるのは人間だけです。人間の上に位置する天でさえ、その何不足ない境遇に安住するあまり、六道輪廻から解脱することはできないのです。
 イスラムでは「終末論」がとても大切な概念なのだそうです。われわれの世界にはやがて恐るべき終末がおとずれます。われわれは終末が刻々と迫る恐怖のなかに生きています。そのあとには「復活」があり、すべての死者が蘇ります。輪廻転生という仏教ではなじみの考えは、イスラムの考え方とは相いれないものであり、人が死ぬと肉体は墓のなかで朽ち果てますが、魂は生まれ変わらずにどんどん蓄積して行きます。やがて復活の時、魂は生きていた頃の肉体と一つひとつ結びついて、地上に蘇るのです。そして彼らは神の審判を受け、そこで自分の人生にふさわしい恩賞と罰とを受けるのです。そして新しい世界秩序が始まることになります。
 そういえばキリスト教でも最後の審判とか復活とかの考え方がありますが、キリスト教の場合はどうなっているのでしょうか。ぽん太はまったくわかりません。機会があったらみちくさしましょう。
 この終末論は、葬式仏教徒のぽん太からすると「荒唐無稽」ですが、でも六道輪廻の考え方だって「荒唐無稽」ですよね。
 「荒唐無稽」な終末論ですが、当時のアラビアでは「人間死んだら終わり、ただそれだけさ」というペシミスティックな考え方が一般的だったそうで(]2]p.306)、この「終末論」は逆に来世への希望を持たせるものだったようです。
 イスラムは、商業が発達するにつれて古い部族制度が崩壊して行くなか、新しい共同体秩序を提示するものでもありました([2]p.329-332)。そこでは神と人間が一対一で向かい合うのであって、部族や血縁といった古いつながりは否定されました。そのことが因習的な人々の反発を買う原因になったようです。
 イスラムでは、神を崇める、神に帰依するということは、神を主人とし、自分は奴隷として仕えるという意味合いなのだそうです([2]p.339)。この考え方も、奴隷ば恥ずべき卑しむべき存在で人間ではないと考えていた当時、誇り高いアラブ人には受け入れがたい考え方でした。この感覚が、キリスト教の神への帰依や、浄土真宗の絶対他力と比較してどうなのかまでは、よくわかりませんでした。
 井筒氏は「存在の夜」と表現していますが、当時のイスラム世界は、悪霊とか妖気とかが闇でうごめくような独特の世界感があったそうです([2]p.371)。たとえば「ささやく」というのは呪詛することを意味するそうで、『旧約聖書』にもみられるそうです。「詩編」の「第41篇」の「すべて我を憎む者、互いにささやき、我をそこなわんとて相はかる」というのは、ひそひそ話で悪口をしているのではなく、呪詛の言葉を集団で唱えて害そうとしているのだそうです。とはいえ日本でも昔は、滅ぼした相手の怨霊が世界を漂い、それを鎮めるために寺社を造ったりしていたから、同じことかもしれません。これについてはぽん太も以前にちとみちくさしました(【宗教】神仏習合について勉強してみた)。

 以上、まとまりのない雑感でしたが、『コーラン』に入門できてよかったです。また機会があったら『コーラン』をみちくさしたいと思います。
【参考文献】
[1] 『コーラン〈1〉 (中公クラシックス)』、藤本勝次他訳、中央公論社、2002年。
[2] 井筒俊彦著『コーランを読む (岩波セミナーブックス 1)』、岩波書店、1983年。

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モーツァルトの『魔笛』とフリーメイソン

 先日ぽん太は、プラハ国立劇場の『魔笛』を観てきました。『魔笛』がフリーメイソンを題材にしていることはよく知られておりますが、家に帰ってから書庫にあった『フリーメイソン 西欧神秘主義の変容』(吉村正和著、講談社現代新書、1989年)と、『フリーメイスンとモーツァルト 』(茅田俊一著、講談社現代新書、1997年)を読み返してみました。
 フリーメイソンというと、世界征服をたくらむ秘密結社のように思っているひともいるようで、たとえばビューヒナー(1813-1837)の『ヴォイツェク』にも、次のようなセリフがあります。
 「いいかアンドレース、見えるだろう、草の上に筋がさ。首が転がってった跡だぞ。ある男がそれを抱えあげた、針鼠だと思ってな。そしてら、そいつは三日三晩経ったら棺桶に入ってたんだとさ。アンドレース、フリーメイソンの仕業だぞ。俺には分かったんだ。フリーメイソンだぞ、しーっ!」(ビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』、岩淵達治訳、岩波文庫、2006年、73ページ)。
 しかし実際のフリーメイソンは、会員相互の親睦や会員の道徳的向上、慈善などを行う団体のようです。フリーメイソンの起源にかんしては様々な説があるようですが、近代的なフリーメイソンが歴史の舞台に登場するのは、18世紀初頭のイギリスのようです。フリーメイソンはまもなく大陸に伝わり、1730年代にはヨーロッパ各地に、ロッジと呼ばれる集会場が作られました。モーツァルトの住んでいたオーストリアでは、マリア=テレジア(1717-1780)は1764年にフリーメイソンを禁止したものの、その後を継いだヨーゼフ2世(1741-1790)はフリーメイソンに寛容な態度をとり、彼のもとでオーストリアのフリーメイソンは全盛期を迎えました。
 18世紀は啓蒙主義の世紀であり、合理主義が台頭し、キリスト教の威信が低下しました。神への帰依のかわりに人間の道徳的完成を掲げ、合理主義に基づくフリーメイソンが、その空隙を埋めたと考えられます。
 モーツァルト(1756-1791)がいつ頃からフリーメイソンに関わるようになったのかは不明ですが、1784年12月14日にウィーンのロッジ「慈善」に入会したことは確かなようです。以後モーツァルトはフリーメイソンと密接に関わり、フリーメイソン的な音楽をたくさん作曲しているそうです。また具体的に『魔笛』のどこがどうフリーメイソンなのかなど、興味がある方は『フリーメイスンとモーツァルト』をお読み下さい。ちなみに『魔笛』の初演は1791年ですね。
 『魔笛』では、ザラストロは「イシス」と「オシリス」を信仰していましたが、これらは古代エジプトの神々ですね。フリーメイソンとイシス・オシリスが関係あるのかどうかは、今回読んだ2冊の本には書いてありませんでした。
 隆盛を極めたフリーメイソンですが、1875年にヨーゼフ2世は「フリーメイソン勅令」を発令し、フリーメイソンの管理・統制に乗り出しました。これまで容認していたフリーメイソンに対し、一転して締め付けを行った理由は、神秘主義的・カルト的な傾向が強まったこと、反政府運動の隠れ蓑になったこと、内部の不透明な組織の拡大を恐れたことなどが考えられますが、はっきりとはわからないようです。しかしこれをきっかけに、フリーメイソンの退会者が急増するようになりました。さらにフランス革命の影響がヨーロッパに波及していくなかで、啓蒙主義・政治改革派であり、ロッジのなかでは階級差を認めなかったフリーメイソンは、ジャコバン派に接近し、その結果政府の取り締まりの対象となっていきました。この結果ウィーンでは、1794年に全てのロッジが閉鎖されました。
 こんかい読んだ本には、その後のフリーメイソンの歴史は書かれていませんが、こうした流れのなかで「過激派の秘密組織」みたいなイメージが作られ、冒頭のビュヒナーのような言い方がされるようになったのかもしれません。
 ちなみにこちらが、フリーメイソンの日本グランド・ロッジのサイトです。

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【文学】継母が継子に恋をする話し エウリピデス『ヒッポリュトス』・セネカ『パエドラ』・ラシーヌ『フェードル』

 歌舞伎の「摂州合邦辻」をきっかけに、継母が継子を愛する話しに興味を覚えたぽん太は、前回は『今昔物語集』の説話をみちくさいたしました。こんかいは海を越えて、ヨーロッパの文学をみちくさしてみました。
 今日のみちくさは、エウリピデス『ヒッポリュトス』(『ギリシア悲劇〈3〉エウリピデス〈上〉 (ちくま文庫)』ちくま書房、1986年、に所収)、セネカ『パエドラ』(『セネカ悲劇集〈1〉 (西洋古典叢書)』小林正廣他訳、京都大学学術出版会、1997年、に所収)、ラシーヌ『フェードル』(『フェードル;アンドロマック (岩波文庫)』、渡辺守章訳、岩波書店、1993年、に所収)の三つです。いずれもギリシア神話に題材をとっており、王(テセウス、テゼー)の不在の間に、王の実子(ヒッポリュトス、イポリット)に対して継母(パイドラ、フェードル)が愛を告白しますが拒絶されます。やがて戻って来た王は、息子の方が継母に迫ったという讒言を信じて、息子を呪い殺してしまい、また継母も自害するという話しです。
 ただ、細かいところはいろいろと違いがあります。どこがどう違うかをまとめるのは面倒くさいし、どうせ誰かがやっているでしょうから、省略いたします。ぽん太のひとこと読後感は、エウリピデスでは神の意思に翻弄される人間の運命が胸を打ち、セネカではうんざりするほどの修辞を伴う長台詞のなかにパイドラの複雑で矛盾した内面が描き出され、ラシーヌでは登場人物たちが様々にかかわり合いながら状況が次々と変化していく劇的な構成が見事に思われました。
 エウリピデスの『ヒッポリュトス』のあらすじは例えばこちらのla maison du soirのページに、セネカの『パエドラ』のあらすじは例えばこちらのpdfファイルの4ページに、またラシーヌの『フェードル』のあらすじは例えばこちらのwikipediaの「フェードル」の項目をご覧下さい。
 これらの「西洋系」と、「摂州合邦辻」や『今昔物語集』の「東洋系」を比べてみると、「東洋系」に共通する「息子が盲目となって放浪するが最後に救われる」という部分が「西洋系」にはみられません。「西洋系」で盲目となって放浪する話しといえば、ソポクレスの『コロノスのオイディプス』(『ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)』所収)が思い出されますが、この劇ではオイディプスは最後には神に許され、大地のなかに消え去ります。
 ラシーヌの『フェードル』がエウリピデスとセネカを下敷きにして書かれたということは、ラシーヌ自身による序文に書かれています。エウリピデスは、現存している『ヒッポリュトス』以前に、もうひとつ別の同名の劇を作ったそうで、第一作を「顔を蔽うヒッポリュトス」、第二作を「花冠を捧げるヒッポリュトス」と呼んで区別するそうです。セネカは、「顔を蔽うヒッポリュトス」に影響を受けたといわれています。またエウリピデスの訳者松平千秋の解説によれば、ヒッポリュトス伝説の起源は、古くはペロポネソス半島東北のトロイゼンにあるそうです。
 11月の国立劇場「摂州合邦辻」の筋書(歌舞伎のパンフレットのこと)の解説には、「継母が息子を恋する説話は、インドに源流をもつとされ、それが西に伝わりギリシアの悲劇の題材となり、さらにラシーヌの『フェードル』を生み、一方、東へ流布してこの作品(注:「摂州合邦辻」のこと)に結実したともいわれています」と書かれていました。エウリピデスの『ヒッポリュトス』の初演は紀元前428年の春ですから、これは『今昔物語集』の説話に登場するアショカ王の在位(紀元前268年から232年)より200年も前になります。両者に共通するインドの説話があったかどうか、ぽん太には確認するすべはありません。しかしぽん太には、どっちが先でどっちに後から伝わったかを云々するよりは、継母が継子に恋をするという話しが、人類に共通する説話の類型なのだと考える方が自然なような気がします。

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【文学】継母が継子に恋をする話し。歌舞伎の「摂州合邦辻」と今昔物語集の「拘那羅太子、眼を抉り法力に依りて眼を得る語」

 ぽん太が11月に歌舞伎の「摂州合邦辻」(せっしゅうがっぽうがつじ)を見た話しは、以前の記事で書きました(【歌舞伎】国立劇場「摂州合邦辻」)。そのとき、継母が継子を愛するというこの物語は、古くはインドの説話として『今昔物語集』に収録され、その後もさまざまに形を変えながら語り継がれていることを知りました。またギリシア悲劇でも似たような話しがあり、ラシーヌの『フェードル』という名作を生んだとのことでした。
 今回は、そのへんから散歩を始め、あちこちでみちくさしてみましょう。

 まず「摂州合邦辻」の復習です。あらすじをまとめるのは面倒なので、たとえばこちらの「人形浄瑠璃文楽」のページや、「歌舞伎文庫」のページを参照して下さい。テキストを読みたい方は、『新版歌祭文ー摂州合邦辻・ひらかな盛衰記』(織田紘二編、白水社、2001年)が手に入りやすいです。

 さて『今昔物語』です。ぽん太が読んだのは、安価な講談社学術文庫版です(『今昔物語集 4 (4) (講談社学術文庫 308)』国東文磨訳注、講談社、1981年)。第4巻の第4に、「拘那羅太子、眼を抉り法力に依りて眼を得る語」というのがあります。読みがなを付けると、「拘那羅(くなら)太子、眼(まなこ)を抉(くじ)り法力(ほうりき)に依りて眼を得(う)る語(こと)」だそうです。
 あらすじですが、今は昔、天竺の阿育王(あいくおう)に拘那羅(くなら)という名の太子がおりました。継母の帝尸羅叉(たいしらしゃ)は拘那羅に愛欲を抱き、太子の居間に忍び込んで思いを遂げようとしますが、拒絶されます。そのことで太子を恨んだ継母は、夫の阿育王に「太子が自分に恋心を抱いている」と訴えます。王は后の嘘を見破り、太子に遠い国を与えてそこに住まわせます。しかし怒りの収まらない后は、「太子の両目をえぐって国外に追放せよ」という偽りの王の命令を発します。盲目となった太子は妻を連れて流浪の旅に出ますが、いつしか生まれ故郷にたどり着きます。姿形は変わり果てたものの、太子の弾く琴の音で、王はそれが息子であることに気がつきます。真実を知った王は后を罰しようとしますが、太子はそれを制します。寠沙(くしゃ)大羅漢が貴い説法をし、それを聞いた人々が流した涙を集めて太子の眼を洗うと、再び光を取り戻しました。王は関係者を処罰し、太子が眼をえぐったところに塔を建てましたが、そこに盲人がお参りすると眼が見えるようになった。
 阿育王とは、アショカ王のことで、在位は紀元前268年から232年です。ですからこの伝説が事実であったとしたらこの時代まで遡れますが、おそらくそれ以後に作られた伝説でしょう。もちろんこれに似た説話が、アショカ王の時代以前からインドに伝わっていた可能性もあります。
 この説話では、継母が継子に恋をするという点が「摂州合邦辻」と共通ですが、拒否された継母は継子に直ちに恨みを抱き、その恨みから太子の眼をえぐらせます。「摂州合邦辻」では、継母の玉手御前は拒否されても継子の俊徳丸に恋心を抱き続けます。玉手御前が俊徳丸に毒を盛って盲目にさせた理由は、俊徳丸が醜くなることによって、許嫁の浅香姫から嫌われるようもくろんだからです(最後にどんでんがえしがありますが……)。
 盲目となった継子が身をやつしてさまよう点は両方に共通しており、折口信夫はこのように高貴な生まれの人間が身をやつしてさまよう」という物語を日本文学の原型のひとつとして捉え、貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)と呼びました。wikipediaによれば、「のだめカンタービレ」も千秋真一の貴種流離譚とみなせるのだそうです。
 さて、『今昔物語集』では、太子の眼は仏教の霊験によって元通りとなり、仏教のありがたさが強調されます。「摂州……」の方では、実はすべては継母玉手御前が深い思慮によって仕組んだことが明らかとなり、玉手が我が身を犠牲にすることによって俊徳丸の眼が開き、継母の慈愛が誉めたたえられます。継子を愛するという家族制度の侵犯を行った玉手御前が、実は自分を犠牲にしても家族制度を守ろうとしていたというテーマは、1773年(安永2年)の初演時にはおそらくありがたい話しだったと思われますが、現代ではちと納得できない部分があります。

 『今昔物語集』のこの説話は、中世には説教『しんとく丸』と能『弱法師』(よろぼし)を生み出すことになるのですが、今日のところはここまでに。

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【トリビア】ピネルは精神障害者を鎖から解放して……いなかった。

 ピネルといえば、近代精神医学の父と呼ばれる高名な精神科医であり、それまで鎖で繋がれていた精神障害者を鎖から解放した人物として有名であり、その様子は絵にも描かれている。しかし、実はピネルは精神障害者を鎖から解放して……いなかった。(へ〜え、へ〜え)

 はい、その通りです。ピネルは精神障害者を鎖から解放していません。それは、ジャック・オックマンの『精神医学の歴史』(阿部惠一郎訳、白水社[文庫クセジュ]、2007年)に書いてあります。
 「(ピネルは)1793年以降、ビセートル病院長に任命される。ここで彼は類いまれな人物で精神障害者の施設で管理人をしていたジャン=バチスト・ピュッサンに巡りあう。療養所に長期間居住していたピュッサンは、人道主義的でしかも明確な援助方法を作りあげていたので、ピネルは道徳療法を理論化するにあたって、ピュッサンから多くの示唆を受けている。精神障害者の拘束を緩和し、鎖を解き放ったのは、絵画などに描かれている有名なエピソードと異なり、ピネルではなく、彼がいなくなったのちにピュッサンが行ったのである」(15ページ)。

 し、知らなかった。ぽん太は過去の記事でどうどうとピネルが精神障害者を鎖から解放したと書いていました。よく見たら、Wikipediaにもちゃんと書いてあるやん。なになに、Wikipediaには、ピュッサンがビセートルの元患者だと書いてる。ほんまかいな。また新たな疑問が湧いてきました。

 ところでこの本はなかなか面白く、ぽん太が興味をもっている19世紀前半のフランスの精神医学の状況が書かれています。本書によれば、エスキロールらによる近代精神医学の確立は、精神科医が裁判に関与する権限の獲得と、表裏一体に行われたようです。そのためにエスキロールは、ピネルがすでに記録していた「部分的狂気」を「モノマニー」という概念で説明しました。
 これまでは犯罪は犯罪行為のみによって裁かれましたが、精神科医が精神鑑定を行って、モノマニー概念を使って責任無能力を認める権限を持つようになったため、モノマニー概念は激しい論争を引き起こしたそうです。そもそも裁判に精神科医が関わる必要があるのか、モノマニーは全体としては理性が保たれているのではないか、犯罪者の罪を軽減したら犯罪の抑止力が働かなくなるのではないか、あるいは狂人を装う者が出てくるのではないか、また裁判で無罪となった患者に対して結局精神科医は治療することができず、精神病院に収容するだけではないかなど、現在行われている議論とまったく同じようなことが論じられていたようです。
 1838年、フランスでは精神障害者を自由の制限などを定めた法律が作られました。この法律制定のために、エスキロールも力を尽くしたそうです。この法律では精神医学の専門性が認められ、精神科医に患者の自由の制限の権限を与え、精神科医に裁判への関与を認めました。この法律は、精神障害者の治療と、社会防衛との妥協の上に作られました。精神科医に与えられた権限に関して、その後もさまざまな議論が繰り広げられたそうです。

 近代精神医学が、その成立の当初から、犯罪責任能力の問題と結びついていたことがわかりました。しかし、なぜ両者のあいだに必然的な関係があるのかについては、ぽん太の狸脳ではいまだによくわかりません。

 もうひとつこの本で面白いのは、現代の精神学を「経済の時代」と呼んでいることです。長期入院をなくすこと、症状に的を絞って薬物療法と行動療法を行うこと、DSM-IIIの作成、社会的プログラムによるリハビリテーション、発達障害を心理や教育に任せることなどが、医療費の削減や、保険会社・製薬会社の要請などに結びつけられています。本書では詳しく分析されてはいるわけではなく、経済ですべてを説明できるわけではありませんが、現代の精神医療を過去に比べて「科学的に発展したもの」とみなす素朴で単純な考え方をしてはならないことは事実でしょう。

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【ヴォイツェク・レンツ】ビューヒナーと精神医学

 以前に『ヴォイツェク』と『レンツ』を読んで精神障害が描かれているのを知り、ビューヒナーに興味を持ったぽん太ですが、先日ネット上をみちくさしていたら、面白い文献に行き当たりました。河原俊雄の「G・ビューヒナー研究  殺人者の言葉から始まった文学」(文献(1))です。「第三部 『ヴォイツェック』と『レンツ』の研究史」と、「第四部 『ヴォイツェック』と『レンツ』の時代背景」がダウンロードできるようですが、ダウンロード先は記事の末尾をご覧下さい。河原俊雄は広島大学の文学部教授のようです。
 第三部の方は、『ヴォイツェク』と『レンツ』のこれまでの作品研究の総説で、文学論の領域ですからぽん太は関心がありませんし、読んでもよくわかりません。興味深いのは第四部の方で、ここではビューヒナーの作品を、同時代(1820年代、30年代)のドイツとフランスの精神医学の状況と結びつけて論じています。
 『ヴォイツェク』と『レンツ』はともに狂気を扱った作品で、ビューヒナー自身は医者でした。ぽん太は、ビューヒナーが精神医学の聞きかじりの知識を使ってこれらの作品を書いた、ぐらいに思っていました。ところが河原俊雄の論文によれば、これらの作品と精神医学との関係はもっと深く、もっと本質的なんだそうです。
 当時、ある精神医学上の問題が社会的に大きな関心を集め、法曹界をも巻き込む大論争を引き起こし、一般民衆の興味の的となっていました。すなわち、精神障害者の刑事責任能力の問題です。
 現在の日本の法律では、精神障害によって善悪を判断する能力や、それに従って行動する能力が低下している場合、その程度に従って刑が減軽されたり無罪になったりします。一部に異論や抵抗感もあるものの、一応それが普通とされています。このような、精神障害者は刑事責任能力が低下していて減刑が必要になる、という考え方が社会的な同意を得られるようになってきたのが、まさに19世紀前半なのだそうです。それ以前は、精神障害があろうとなかろうと、犯罪行為そのものに対して罰を与えていましたが、その頃から、責任能力がない者は罪に問えないと考え方が生まれてきたのです。
 過渡期にあったその19世紀前半には、判決を巡って激しい議論が闘わされて世間の注目を集めた事件がいくつかあったようで、その代表と言えるのが『ヴォイツェク』の題材となったヴォイツェク事件の裁判(1821-24)と、フランスのリヴィエール事件の裁判(1835-36)でした。ヴォイツェク事件とは、精神障害を負っていたヴォイツェクという名の鬘師(かつらし)が嫉妬からヴォーストという未亡人を刺殺した事件であり、一方のリヴィエール事件は、やはり精神障害の若い農夫リヴィエールが、ナタで母親と弟・妹を惨殺した事件です。そういえばミシェル・フーコーがリヴィエール事件についてなんか本を書いていたような……。書庫を探したらありました。『ピエール・リヴィエールの犯罪ー狂気と理性』(河出書房新社、1975年)で、訳者はなんと岸田秀と久米博です。買ったまま読んでいませんでした。
 フランスとドイツの裁判の結果は相反するものでした。ヴォイツェクは責任能力ありと判断されて公開斬首刑となったのに対し、リヴィエールは一度は死刑判決が出されたものの、当時のフランス精神医学の権威エスキロールの精神鑑定もあって、王の特赦によって終身禁固に減刑されました(ただし4年後に自殺)。
 ビューヒナーが『ヴォイツェク』を執筆した1836年は、まさにこのリヴィエールの判決が下された年で、またエスキロールの精神鑑定書もこの年に医学雑誌に公表されました。一方、ヴォイツェクは1824年にすでに処刑されていましたが、その後もこの判決が正しかったかどうかの議論が続けられ、リヴィエールの判決を契機に改めて問い直され、同じく1936年にヴォイツェクの精神鑑定書とそれに対する弁護士による批判が、法医学関係の雑誌に公表されたのだそうです。
 ビューヒナーはニゴイの神経系の研究で学位を取得しましたが、これは当時の最先端の神経科学の研究でした。そしてビューヒナーの父親のエルンスト・ビューヒナーも医者であり、裁判で精神鑑定をしたことがあったそうです。
 つまり『ヴォイツェク』と『レンツ』はビューヒナーが、当時の最先端の精神医学と、最新の社会問題に取り組んだ作品だったわけです。
 精神障害の責任能力の問題は、それ自体とても重要な問題ですが、かなり複雑なので、機会があったらみちくさすることにしましょう。
 フランス革命、近代的自我の成立、ピネルによる精神障害者の鎖からの解放、精神障害者の刑事責任能力低下が認められたこと。これらは、ある思考の枠組みの同一の変化が、さまざまな形で現れたものだと思うのですが、ぽん太の頭のなかではいまひとつ整理がつきません。まだまだみちくさしたい領域です。

【参考文献】
(1)河原俊雄「G・ビューヒナー研究  殺人者の言葉から始まった文学」第三部、第四部、2003年。(こちらからpdfファイルがダウンロードできます)。
(2)ビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』岩淵達治訳、岩波文庫、2006年。
(3)ミシェル・フーコー編『ピエール・リヴィエールの犯罪ー狂気と理性』岸田秀・久米博訳、河出書房新社、1975年。

【ブログ内の関連する記事】
(a)ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』は興味深い2007/04/20
(b)そういえばビューヒナーの『レンツ』はドゥルーズ、ガタリの『アンチ・オイディプス』に出てたな2007/04/25
(c)アルバン・ベルクの『ヴォツェック』は怖すぎ2007/05/03
(d)ビューヒナーの時代の精神医学の状況は?2007/05/20
(e)ビューヒナーが使った精神医学用語について2007/05/23
(f)レンツの時代(18世紀後半)の精神医療は?2007/06/08
(g)グリージンガーの『精神疾患の病理と治療』の抄訳を読む2007/06/10

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【宗教】神仏分離についてちと勉強してみる

 以前に神仏習合について学んだぽん太は、それではなぜ明治政府は神仏分離を行ったのかという疑問を持ったのでした。幕藩体制をこわして明治政府を打ち立てるために、なぜ長い間どの権力者も手をつけなかった神仏習合を改める必要があったのでしょうか? さっぱりわからないので、とりあえず手軽に読めそうな『 神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈 』(安丸良夫、岩波新書、1979年)を読んでみました。ところが手軽どころか、江戸時代の宗教の状況から説き始め、明治政府による神仏分離、廃仏毀釈の嵐、そして「信教の自由」に至までの流れがかなり詳しく書いてあり、新書でありながら読み応えのある立派な本でした。ぽん太が知らないことばかりで、とても勉強になりました。興味のある方にはぜひご一読をお勧めします。
 現在われわれが日常的に関わっている仏教や神道が、どのように歴史的を経てきたものなのかを知ることは、最近よく目にするナショナリズム的な日本人論について考えるうえでも、とても大切に思われます。ナショナリストが「日本古来の伝統」などと言っているものが、実は明治以降に成立したものだったりします。たとえば一般には日本伝統の儀式と思われている神前結婚式も、実は明治33年に大正天皇の婚儀のために作られた様式が、民間に普及したものなのだそうです。
 以下、ぽん太にとって面白かった点をまとめてみたいと思います。

 まず、信長が一向宗や比叡山を徹底的に弾圧したように、ときの権力者にとって、宗教は常に弾圧の対象だったそうです。宗教の信者は、世間一般の考えとは異なる勝手な理屈を信じて、社会通念や道徳に反する行動をとり、平気で支配者の命令を拒否します。江戸幕府は、寺請制度にいよって民衆を特定の寺院につなぎ止め、その寺院を幕府が統制するという形で、きびしい宗教支配を行っていました。
 一方で江戸時代の民衆の信仰は、氏神や自然神、祖霊崇拝と混ざり合ったものでした。また、参詣講、飲食や娯楽を伴う地域の講、開帳や縁日など、宗教は民衆の娯楽でもありました。民衆の生活と宗教は、深く結びついていました。
 江戸幕府は、かくれキリシタン、不受不施派、かくれ念仏などの宗教的異端を取り締まっただけでなく、在家法談、夜談義、いわれのない人集め、遊行勧進僧の入国、新法異説、流行神などを禁止しました。つまり幕府に取って問題なのは信仰の内容ではなく、民衆の行動の様式であり、人々が奇異な説を信じたり、人集めが行われたりするのがイヤだったのです。こうした禁を犯さなければ、日常的な民衆の宗教生活は、比較的自由でした。
 しかし一方で、権力が民衆の宗教をコントロールし、国家が祭祀を行うべきだという考え方もありました。おそらくは荻生徂徠(1666〜1728)に端を発し、幕末の水戸学や、平田篤胤などの後期国学につながって行きました。こうした思想は、日本侵略を狙う西欧諸国のキリスト教に対抗するためでもありました。しかしこのような祭政一致論は、あくまでもさまざまな考えのうちの一つに過ぎませんでした。

 明治維新は、「幕府を倒して古の天皇中心の国家に戻す」というイデオロギーのもとで行われましたから、大昔の律令制度にならって神祇官という役職が置かれました。ここに神道国家主義を唱えるひとたちが登用され、国家権力における足がかりを得ました。明治政府は、当初は列候会議に基づく公議政体論を目指したのですが、岩倉具視などの一部の公家が、薩摩や長州の武力を背景にして、専制的な政治体制をうち立てました。このときに自分たちの立場を正当化するために使われたのが、「神権的な天皇を自分たちが擁している」という理屈でした。これも神仏分離の要因の一つとなりました。
 神仏分離が、廃仏毀釈の嵐を生じさせたことは、省略いたします。注意すべきことは、廃仏毀釈によって仏教が完全に破壊されたわけではないということです。明治政府は浄土真宗の権力と財力を必要としていました。また僧侶も、これまでの民衆との深いつながりを利用して国民教科をし、競って明治政府に協力しました。
 もうひとつ注意すべきことは、明治政府が弾圧したのは仏教だけでなく、氏神や村の祠、土地の神々を祀った神社も対象となったということです。こうした祠や社は破壊されたり整理統合されて、かわりに天皇家にゆかりの神々が御祭神としてすえられました。つまり、天皇家とそれにまつわる神様以外のあらゆる信仰が弾圧されたのです。ですから明治政府の宗教政策を、神仏分離や廃仏毀釈だけで捉えることは間違っていることになります。
 してみると、ぽん太はあちこちの神社を訪ねては祀ってある神々を調べるという遊びをしていたのですが、そうした神々は古来の伝統的なものではなく、多くは明治以降に勝手に決められたものだということになります。ああ、ショック。これからは現在の御祭神を調べるのではなく、神社仏閣の御由緒を調べ、江戸以前に祀ってあった神仏を調べる必要がありそうです。

 祭政一致による支配をもくろんだ明治政府ですが、外国との外交交渉の過程で、前提として「信教の自由」の保証を要求されます。しかし、こうして得られた日本における信教の自由は、宗教に対する深い理解に基づくものではなく、開国して世界のなかに入って行くために明治政府が身にまとった衣装にすぎませんでした。
 またこの頃、日本の僧侶が外国を訪れ、政治から独立したキリスト教のあり方を目の当たりにすることによって、仏教がこれまで時の権力におもねるようなやり方をしていたことに対する反省も生まれて来たそうです。

 この本を読むことで、幕末から明治にかけての日本の宗教の流れが少し理解できました。新たに興味がわいてきたのは、江戸時代にどのようにして国体神学が成立し、強まって来たのかということと、明治以降、神道非宗教説に立った国家神道がどのように発展し、昭和の戦前の思想につながっていったかということです。機会があったらみちくさしたいと思います。

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【神様】そもそも『古事記』と『日本書紀』ってなに?

 日本各地の有名な神社を訪れては、そこに祀られている神々を調べ、『古事記』や『日本書紀』と照らし合わせたりして喜んでいるぽん太ですが、先日ふと「で、『古事記』とか『日本書紀』ってなんだっけ?」という疑問がわいてきました。高校時代に習った記憶では、奈良時代に作られた神話だか歴史書だったと思いますが、それ以上はわかりません。『古事記』と『日本書紀』は似ている部分も多いのですが、神様の名前や神話的なエピソードなどがかなり食い違っています。たしか『古事記』の方が少し早かったと思いますが、『古事記』をもとに『日本書紀』を書いたのか、それともまったく別のものなのか、ちんぷんかんぷんです。
 ちょっとググってみると、成立年代は『古事記』が712年(和銅5)、『日本書紀』が720年(養老4)でした。しかし、両者についてそれ以上ネットで調べようとしても、かなり怪しいカルト的な説が飛び交っていて、調べようがありません。ということで、正攻法を使って、何冊か本を読んでみました。

 『古事記』の成り立ちに関しては、その序文から、天武天皇の命令によって稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦み習わせたものを、元明天皇の時代の712年(和銅5)に太安万侶(おおのやすまろ)らがまとめたものだそうです。この「誦み習わせた」という意味が、暗唱させたのか、書き留めて何度も誦んだのかは意見が分かれるようですが、当時の神話は祭りや儀式で実際に唄われていたのでしょうから、天才的記憶力を持つ稗田阿礼がこれらの唄を収集して暗記したと考える方が、ぽん太はワクワクします。
 『日本書紀』の方も天武天皇の命令により681年(天武10)に編纂が開始され、こちらは元正天皇の時代720年(養老4)に舎人親王によって完成されたそうです。
 このように『古事記』と『日本書紀』は、どちらも天武天皇の命令で作り始められ、完成したのもわずか8年しか違わないので、似ている点が多いようです。話しの内容や神様の名前の多くが一致し、天皇の名前は完全に一致しているそうです。
 しかし両者は異なる点も多く、『日本書紀』が第40代持統天皇まで扱っているのに対して、『古事記』は第33代の推古天皇までしか書かれていません。また天皇の在位年数や寿命がほとんど異なっています。『古事記』はひとつの物語して書かれていますが、『日本書紀』は本書とともに複数の説が注記されています。『古事記』は漢文と、漢字を使って音を表記した部分からなる和漢混交文体で書かれていますが、『日本書紀』は漢文体で書かれています。
 で、両者の関係ですが、『古事記』を参考にして『日本書紀』が書かれたという説や、両者は別個に作られたという説などがあり、定説はないようです。両者の比較はさまざまな観点からなされているようです。
 『日本書紀』は、中国の陰陽思想に基づいて書かれており、中国を意識した日本の公式の歴史書として編纂されたようで、それを使って貴族たちが勉強会を開いたそうです。『古事記』に関しては、元明天皇の私的な本であるとか、(当時の)近代化によって失われつつある古を懐かしんで作ったのだとか、諸説があるようです。
 ですから古来、もっぱら『日本書紀』が重視され、『古事記』は一参考文献程度に扱われていたそうです。中世には『日本書紀』が本地垂迹説に基づいて仏教的に読み替えられていたことは、【宗教】神仏習合について勉強してみた(2007/10/30)で書きました。江戸時代に本居宣長は『古事記伝』という『古事記』の注釈書を書き、『日本書紀』よりも『古事記』を重視し、そのなかに外国文化に汚される以前の本来の日本の心を見出そうとしました。明治以降、両書は皇国史観の根拠とされていましたが、津田左右吉(1873-1961)は文献批判学的方法によって、『古事記』や『日本書紀』は、皇室による日本の統治を正当化するという政治的意図に従って作り上げたものだと主張しました。そのほか、さまざまな観点から研究、読解が行われているようです。
 いずれにせよ『日本書紀』と『古事記』は、当時の日本という国家の始まり、天皇制の起源、天皇とはどういうものであったかといった、とても重要かつ難解な問題につながっているようです。このあたりは現在のぽん太にはまったく歯がたちません。

【参考文献】
・倉西裕子『「記紀」はいかにして成立したか -「天」の史書と「地」の史書』、講談社選書メチエ、2004年。
・神野志隆光『 古事記と日本書紀ー「天皇神話」の歴史』、講談社現代新書、1999年。
・ 工藤隆『古事記の起源ー新しい古代像をもとめて』、中公新書、2006年。

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【宗教】神仏習合について勉強してみた

 豊川稲荷が神社ではなくお寺であることを知ってショックを受けたぽん太は、神仏習合について実はよく知らないことに気づき、義江彰夫の『神仏習合 』(岩波新書、1996年)を読んでみました。とても勉強になりました。

 詳しくは本を買って読んでいただくしかないのですが、本書の特徴は、神仏習合の各段階を、当時の政治的・社会的状況と結びつけて解説していることです。
 神仏習合の始まりは、8世紀後半頃です。諸国に鎮座する神様が仏教に帰依するという現象がおき、神様が仏様になるために修行をする寺(神宮寺)が神社のなかに作られるようになりました。こうした動きを支えたのは密教でしたが、やがて王権は空海の大乗密教を利用して諸国の神宮寺を支配するようになります。こうした変化は、律令制度における農村の貧富の増大、私営田の出現に結びついています。
 神仏習合の第2段階ですが、8世紀後半から9世紀前半にかけて、権力闘争で敗れた人たちが怨霊となって悪さをするという考えが生まれ、それを鎮めるための御霊会(ごりょうえ)が行われるようになりました。有名なのは菅原道真の怨霊ですね。律令制度の変化や権力闘争によって没落する貴族や豪族が現れ、彼らの不満や彼らに対する共感が密教と結びつき、反権力的な気分を生じさせたのです。しかしこうした怨霊も時代とともに鎮静化され、菅原道真の天神様も10世紀末には王権の守護神となりました。神仏習合のこの段階は、各地の私営田が、王権や上級貴族、大寺院への寄進によって再編成され、私的所有に基づく王朝国家が成立したことに対応しています。
 第3段階は、9世紀から10世紀頃に広まった浄土信仰です。それは10世紀末、源信の「往生要集」で頂点を迎えました。彼の厭離穢土(おんりえど)という考え方は、現世をケガレの世界、死後の極楽浄土をケガレのない世界と見なすことで、神道のケガレ忌避概念と仏教とを結びつけました。国家を維持するためにさまざまなケガレを受けなければならない貴族たち、一族の繁栄のために戦を繰り返す武士たちに、浄土信仰は心の支えを提供したのです。
 神仏習合の第4段階は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と中世日本紀です。本地垂迹説は、日本古来の神々は実はさまざまな仏様が姿を変えて現れたものだ、という考え方で、11世紀頃に生まれ14世紀初頭には全国に広がりました。さらに『日本書紀』などに書かれた古来の神話を本地垂迹説によって解釈し直すという作業が(中世日本紀)、13世紀後半から15世紀にかけて行われました。これに対応する社会状況は、殺生やケガレを意に介さない武士が台頭したことと、王権が彼らに対抗して一層の権力を身にまとおうとしたことです。

 以上が大雑把な要約ですが、細かい所でもいろいろと面白いところがありました。例えば支配と所有の罪悪感が仏教への帰依をもたらしたことに関連して、そもそも仏陀自身が王族だったというご指摘。なるほど、仏教は元々支配者の悩みに答えるものだったのか。
 また『平家物語』の安徳天皇入水の場面で、二位殿が幼い安徳天皇に対して、「まず東に向かって伊勢神宮に別れを告げ、次に西方浄土に生まれかわれるよう、西に向かって念仏を唱えなさい」と諭す部分を取り上げ、12世紀末から13世紀初頭には、天皇すら阿弥陀仏に極楽往生を願っていたことを示していると指摘しています。この場面は、歌舞伎の『義経千本桜』の「碇知盛」でも見所となっており、ぽん太も何度も涙を流しながら見ているのですが、そんな深い意味を読み取ったことはありませんでした。
 さらに、これまであまり縁のなかった密教や『往生要集』への興味もわいてきました。そして、これほど長く続いてきた神仏習合なのに、なぜ明治政府が神仏分離を行ったのかがますます疑問に思えてきました。
 みちくさしたいことがかえって増えてしまいました。

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【神社】白山ひめ神社をみちくさしてみた

 ぽん太が先日登った白山の山頂に奥宮がある、白山ひめ神社について調べてみました。公式ホームページはこちらです。白山ひめ神社は、漢字では白山比{口羊}神社(4文字目は口へんに羊です)と書き、「しらやまひめじんじゃ」と読むようです。
 文京区に白山という地名がありますが、白山神社があることから、このように呼ばれるようになりました。ここ以外にも日本各地に白山神社がありますが、それらの総本山が白山ひめ神社です。
 白山ひめ神社の御祭神は、白山ひめ大神(しらやまひめのおおかみ)(=菊理媛神(くくりひめのかみ))、伊弉諾神(いざなぎのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)だそうです。
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)は、言わずと知れた、いまだ固まらぬ地上を矛でかき回して日本列島を造ったご夫婦の神様です。もともとは兄と妹ですが、結婚して夫婦となり、たくさんの神様をお産みになりました。
 で、菊理媛神(くくりひめのかみ)ですが、実は『古事記』には出てこず、『日本書紀』に登場する神様です。伊弉諾神(いざなぎのかみ)が、死んでしまった伊弉冉神(いざなみのかみ)に会いに黄泉の国に行くという有名なエピソードがあります。『日本書紀』には、何通りかのヴァージョンが記されているのですが、わかりやすくまとめると……
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)は黄泉の国で伊弉冉神(いざなみのかみ)に会い、話しをします。しかし「わたしの姿を見ないで下さい」という伊弉冉神(いざなみのかみ)の言いつけを破り、火を灯して彼女の姿を見てしまいます。すると彼女の体には無数のウジがわき、なんとも醜い姿だったのです。驚いた伊弉諾神(いざなぎのかみ)はあわてて逃げ出しますが、伊弉冉神(いざなみのかみ)は「見〜た〜な〜」と追いかけてきます。泉平坂(よもつひらさか)でとうとう追いつかれ、言葉をかわすのですが、ここで菊理媛神(くくりひめのかみ)が出てきます。
 「このとき菊理媛神(くくりひめのかみ)が申し上げられることがあった。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)はこれをお聞きになり、ほめられた」(『日本書紀〈上〉 』宇治谷孟訳、講談社学術文庫、1988年)。
 菊理媛神(くくりひめのかみ)が何と言ったのか書かれておらず、不思議な文章です。
 ちなみに『日本書紀』はテキスト化されており、たとえばこちらの埋れ木というサイトから、原文と読み下し文をダウンロードできます。巻1の18ページに菊理媛神が出てきます。
 川口謙二の『日本の神様読み解き事典』(柏書房、1999年)によれば、伊弉冉神(いざなみのかみ)と泉平坂(よもつひらさか)で言い争いになった伊弉諾神(いざなぎのかみ)は、菊理媛神(くくりひめのかみ)の助言によって無事に黄泉の国を脱出することができたと『日本書紀』に書いてあるのだそうですが、どこをどう読めばそういう意味になるのかぽん太にはよくわかりません。しかし一般的には、言い争いの間に立って、それぞれの言葉を伝え、双方の主張を聞いて助言をしたとされているようです。
 菊理媛神(くくりひめのかみ)がどうして白山ひめ大神(しらやまひめのおおかみ)と同一視されるのかは、よくわかりません。
 さて、明治時代に神仏分離が行われる以前は神仏習合があたりまえだったわけですが、再び白山ひめ神社のホームページを見てみると、白山のピークのうち御前峰には白山ひめ大神の本地仏として十一面観音菩薩が、大汝峰には大汝命と阿弥陀如来が、別山には大山祇命(おおやまずみのみこと)と聖観世音菩薩が祀られていたそうです。

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蔵王の刈田岳山頂にある刈田嶺神社について

刈田嶺神社 ぽん太とにゃん子は蔵王のお釜を見にいったのですが、あいにくガスっていて見えませんでした。せっかくなので、レストハウスから徒歩五分の刈田岳山頂を制覇してきました。
 刈田岳の山頂には神社がありますが、刈田嶺神社(かったみねじんじゃ)という名前だそうですが、公式ホームページはないみたいで、ぐぐってみてもよく御由緒がわかりません。
 こちらのJTBのページは、観光案内のページですが、天之水分神(あまのみくまりのかみ)と国之水分神(くにのみくまりのかみ)を御祭神とし、明治5年に水分神社(みくまりじんじゃ)という名になり、明治8年に刈田嶺神社と称するようになったとされています。
 天之水分神(あまのみくまりのかみ)は「あめのみくまりのかみ」とも呼ばれるようです。伊邪那岐神(いざなぎのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)からは多くの子供が生まれましたが、そのなかの大綿津見神(おおわたつみのかみ)、速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)の三人の神様は、海(わたつみ)の神とされています。速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)の兄妹が結婚して、水に縁がある8人の神様が生まれました。天之水分神(あめのみくまりのかみ)と国之水分神(くにのみくまりのかみ)はその中の二人です。「水分」という言葉から分かるように、山の分水嶺を意味し、田の灌漑を司る神様でもあります。まさに分水嶺である蔵王にふさわしい神様です。「天之」と「国之」が、それぞれ天与の水(雨)と地与の水(川)を意味するという説もありますが、定かではありません。

 こちらの蔵王町観光協会のページには、蔵王の東麓の遠刈田(とおがった)にある刈田嶺神社が紹介されています。それによると、蔵王の山頂にある刈田嶺神社が冬の間移される里宮がここだそうです。安永風土記には「蔵王権現御旅宮」と書かれており、御祭神は同じく天之水分神と国之水分神で、明治5年に水分神社(みくまりじんじゃ)と改められ、明治8年に刈田嶺神社と称するようになったと書かれています。なおネットの情報では、ここ遠刈田の刈田嶺神社にはラブリーな狛犬がいるようです。ぽん太は以前の記事で軽井沢の熊野神社の狛犬をご報告したことがあります(妙義神社、湯の平温泉松泉閣、熊野皇大神社(2006/05/02))が、それに勝るとも劣らないユニークな形をしているようで、行ってみればよかったです。

 さて、蔵王町にはさらに別の刈田嶺神社があるようです。こちらのページに紹介されています。ここは、刈田岳山頂の刈田嶺神社とは関係なさそうです。またの名を白鳥大明神ともいうそうで、日本武尊(やまとたけるのみこと)が御祭神だそうです。日本武尊と白鳥の関係ついては、以前の記事日本武尊と白鳥御陵(2005/08/28))で書きました。

 ところで蔵王というと、ぽん太は蔵王権現を思い浮かべます。不動明王が片足をあげたような姿をしております。写真は、たとえばこちらの奈良国立博物館のページをご覧下さい。蔵王権現のおおもとは、奈良の吉野にある金峯山寺(きんぷせんじ)です。こちらが金峯山寺の公式ホームページです。役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山で修行をしたときに感得したのが蔵王権現だそうです。蔵王という山の名前は、蔵王権現を祀る神社が山麓にあったことからついたとのことです。
 しかし、上でリンクしたホームページによれば、刈田岳山頂の刈田嶺神社の御祭神に、蔵王権現が入っていませんでした。ホームページによっては蔵王権現を御祭神に入れているものもありますが、個人のホームページなので、エビデンスははっきりしません。蔵王権現は神仏習合のもとで生まれた神様で、それは金峯山寺というお寺が本源であることからもわかります。そもそも神様の姿は見えないものであり、神様の像というのは本来はありえないものです。明治時代に神仏分離が行われた結果、刈田嶺神社の御祭神から、神仏習合の神である蔵王権現が外されたという可能性もあるかもしれません。
 ぽん太が刈田岳山頂の刈田嶺神社にお参りしたとき、当然なかに蔵王権現の像があると思っていたのですが、のぞいてみたら普通の神社のように鏡がおいてあるだけだったので、ちょっと意外に思ったことを付け加えておきます。

【参考文献】
(1)川口謙二編『日本の神様読み解き事典』柏書房、1999年。
(2)三浦佑之訳注『口語訳古事記 完全版』文藝春秋、2002年。

 

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そういえばビューヒナーの『レンツ』はドゥルーズ、ガタリの『アンチ・オイディプス』に出てたな

 ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』(岩淵達治訳、岩波文庫、2006年)を読んで、あまりのおもしろさにみちくさを続けているぽん太です。
 ビューヒナーのレンツといえば、ドゥルーズ、ガタリの『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症』で言及されていたのを思い出して、読み返してみました。『アンチ・オイディプス』はフロイトやラカンの精神分析を批判した本です。精神分析は無意識を家族主義的なオイディプス構造に押し込めようとするものであるとし、精神分析が扱う神経症に対して、分裂病を無意識の新たなモデルとします(「精神分裂病」は現在は「統合失調症」という呼び名に変わっていますが、ここでは邦訳の訳語に従うことにします)。思えば今を去ること20年前、フロイトを批判したケシカラン本があると伝え聞いて、仲間うちで『アンチ・オイディプス』の英訳を手に入れて読書会をしたものです。1986年に河出書房新社から市倉宏祐の邦訳が出るとさっそく購入し、わからないながら何回も読み返しました。その頃はインターネットなどなかった時代だったので、ビューヒナーのレンツと言われても調べようがありませんでした。ホントに便利な時代になったものです。

 ドゥルーズとガタリはこの大著のほとんど冒頭で、『レンツ』に一段落を割いています(邦訳上巻16〜17ページ)。「<それ>はいたるところで機能している」という有名な書き出しに続いて、無意識は互いに連結して働く機械であり、流れを発生させたり切断したりする機能を持つというワケのわからぬ主張がなされます。シュレーバーに軽く触れたあと、「精神分析家のソファに横たわる神経症患者よりも、ずっとよいモデルである」として「分裂病者の散歩」が取り上げられます。その例として挙げられるのが、「ビュヒナーによって再構成されたレンツの散歩」と、ベケットの作品の人物です。牧師のもとにいるレンツは、オイディプス化の圧力にさらされていて、自分を神との関係や父母との関係において、社会的に位置づけようとします。しかし山の中、雪の中を散歩しているレンツは、神もなく、父母もなく、ただ自然の中におり、さらには自然もなく、人間もなく、互いに連結し合うもろもろの生産する機械だけがあるといいます。
 ちなみに「精神分析家のソファ」というのは誤訳とまでは言いませんが不正確な訳で、精神分析のときに患者さんが横たわる「寝椅子」のことですネ。たとえばこちらのロンドンのフロイト博物館のサイトに、フロイト自身が実際に使った寝椅子の写真があります。これはけっして「ソファ」ではありません。
 次にレンツに言及されるのは、第二章、第五節です(邦訳上巻165ページ)。R・D・レインが分裂症を一種の旅と考えたのは有名ですが、ドゥルーズ、ガタリは、この旅とは、器官なき身体の上を主体が駆け巡りもろもろの生成変化や移動や置換を遂げることだといいます。そしてこの旅の一例としてレンツの散歩が挙げられています。
 続いて第二章、第九節。ここでは文学について論じられています。文学が既成の秩序のなかで無害なものとして消費されるとき、文学は限りなくオイディプス的なものであると著者たちはいいます。神経症的な葛藤や悩みは文学として受け入れられますが、分裂症的なものは否定され排除されます。「アルトーに対してブルドン、レンツに対してゲーテ、ヘルダーリンに対してシラー、こういう人物たちが常に存在して、文学を超自我化し、私たちにこう語る。用心せよ。やりすぎるな。『如才なさを欠いては』ならない。ウェルテルはいいが、レンツはだめだ!」(邦訳上巻257ページ)。ここでレンツは、同時代に活躍した文豪ゲーテと対比されています。もっともゲーテも躁うつ病だったという説があるので、100%まっとうでオイディプス的だったとは言えないかもしれませんが、確かにレンツに比べれば、ゲーテは良識的でバランスを崩すことなく、当時の社会秩序に収まっていたといえるでしょう。ちなみにゲーテは『詩と真実』のなかでレンツについて書いていますが、それはまた別の機会にみちくさいたしましょう。
 さて、『アンチ・オイディプス』で最後にレンツに言及されるのは、第四章、第二節です。「分子的無意識」と題されたこの節では、分子的なものとモル的なものという重要な対立概念が論じられます。機械論と生気論の伝統的な対立は、モル的な領域における見せかけの対立であって、分子的な領域ではそのような対立は散逸し、ただ欲望する機械だけがあるのです。さらにドゥルーズとガタリは、「性愛」の問題に論を進めます。精神分析の考え方では、性愛は家族のレベルにしか存在せず、社会的なものになるには昇華される必要があります。しかしドゥルーズとガタリは、性愛は、モル的な領域では社会に直接備給されうるものであり、また分子的な領域では欲望機械そのものであるといいます。このような考え方に基づいて、ラカンのファルス中心主義を批判し、去勢とは人間レベル・モル的レベルで性愛を「表象」するための根拠にすぎず、言わば一種の信仰なのだといいます。この節は重要かつ難解でよくわかりませんが、レンツに関しては、軽く言及されているだけです。「愛と、その力とその絶望について私たちに語るのは、ソファの上に横たわった神経症患者なのではない。それは分裂者の無言の散歩であり、山々や星々におけるレンツの歩みであり、器官なき身体の上の強度における不動の旅なのである」(邦訳下巻145ページ)。

 ということで、ドゥルーズとガタリにとってレンツは、神経症と分裂症という対立概念において、分裂症の好例として扱われているようです。ビューヒナーが描いたレンツの旅は、親と子、自分と他人、内部と外部などの通常わたしたちが従っている区別が溶けてなくなって、周囲と自分とが共鳴し一体となった状態を示しており、器官なき身体や欲望機械のアレンジメントに関係づけられます。またレンツ自身もゲーテと対比されて、社会的規範のうちに留まらない作家として扱われていました。

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【南イタリア旅行】カプリ島とベンヤミン

 ぽん太とにゃん子がのんびり観光を楽しんだカプリ島ですが(「【南イタリア旅行】カプリ島・青の洞窟、ソレント」2007/01/12)、この島は、ヴァルター・ベンヤミンが、彼に非常に大きな影響を与えた女性アーシャ・ラーツィスに出会った場所であるということが、三原弟平の『ベンヤミンと女たち』(青土社、2003年)に書いてありました。第5章のあたりです。ベンヤミン(1892〜1940)は超有名なドイツの思想家ですが、ぽん太の狸脳では、ベンヤミンの思想とその価値がちっともわかりません。そこで、「え?ベンヤミン君もカプリ島に行ったことあるの?ぽん太も行ったよ〜。なんだ、仲間じゃん」ということで、ベンヤミンと少しでもお近づきになろうというのが、今回のぽん太の魂胆です。
 ベンヤミンの思想は、ユダヤ神秘主義とマルクス主義が結びついた、とっても難解なものですが、ベンヤミンがマルクス主義に関心を持つきっかけは、他ならぬアーシャとの出会いだったのです。アーシャ・ラーツィスは1891年にラトビアで生まれました。ギムナジウムを卒業したアーシャは、ペテルブルグの精神神経医学研究所に入学しました。「精神神経学研究所」と聞くと、精神科医の端くれであるぽん太の興味がかき立てられますが、彼女は医者になるつもりだったのではなく、当時この研究所は女性にも門戸を開いていて、ここで2年間一般教養を学ぶと、どの大学のどの学部にも進むことができたのだそうです。
 この研究所の所長はヴラディーミル・ベーフテレフという神経学者・精神医学者だそうです。ぽん太には初耳の名前ですが、ググってもあまり情報が出てきません。本書には「彼は条件反射の研究を行い、『反射学』の名のもとに人間行動学をうち立て、その立場から人間の社会生活の面にも研究領域を広げていった。また児童教育にも深い関心を有していたという。彼の講義にはマヤコフスキーも顔を出していたそうだ……」(150ページ)と書かれています。ぽん太はこれを読んで、ヴィゴツキーを思い浮かべました。ベーフテレフは1857年に生まれ1927年に死去、ヴィゴツキーは1896年に生まれ1934年に死去していますから、ベーフテレフが約40歳年上だったものの、同時代に活躍していたように思われます。ぽん太の書庫にあったヴィゴツキーの『心理学の危機』(明治図書、1987)をめくってみると、「行動の心理学の問題とし