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2018/06/01

【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(3)当時の精神医療

 鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)の拾い読み、今回でラストです。

 今回は、ニジンスキーと当時の精神医療についての拾い読みです。

 ニジンスキーの性的初体験は娼婦が相手であり、彼はその後も娼婦を買うという習慣を捨てませんでした。しかも初体験の相手から淋病を移されたらしい。そのときニジンスキーは18歳ですから、1908年のことか。世界初の抗生物質のペニシリンが発見されたのが1928年ですから、まだろくな治療法もなかった時代で、治すのに苦労したようです。
 性病といえば、ニジンスキーが晩年に精神病になったことと関連して、梅毒にはかからなかったのかという疑問がわいてきます。
 梅毒の原因である梅毒トレポネーマは、1905年シャウディンとホフマンによって発見されました。翌年1906年にはワッセルマンが、梅毒の感染を検出するワッセルマン反応を発明。梅毒は症状も独特ですが、この時点で診断もかなり精度があがりました。梅毒の治療に関しては、1910年にサルバルサンが発明されました。1928年には抗生物質第一号のペニシリンがフレミングにより発見され、1940年代には広く使われるようになりました。
 ということは、ニジンスキーの時代には梅毒は診断も治療も可能だったことになりますから、ニジンスキーが梅毒で精神障害を起こしたという可能性はなさそうですね。


 1917年にサンモリッツに移ったニジンスキーは、初めこそ精神状態が改善したように見えましたが、次第に舞踊に対する関心を失い、かわりにパステルや木炭による抽象画に熱中するようになりました。これらのデッサンとユングのマンダラの関連性を、鈴木晶氏は指摘しております。
 ちなみにユングは、1875年、スイスの生まれ。チューリヒ大学のオイゲン・ブロイラーの元で学んだあと、フロイトに接近し、1911年には国際精神分析協会の初代会長となりました。しかし1914年にはフロイトと決別し、「心理学クラブ」を設立して分析心理学の確立に集中するようになりました。
 フロイトから次第に離れていく1912年から1916年ごろ、ユング自身がかなり精神的に不安定な状況になったのですが、この時彼は自分の深層心理に導かれて、重なり合った円のような図形を書き続けました。また自分以外にも、回復期の患者がしばしば同様な図形を描くことに気づきました。1928年に中国の錬金術の本を読んでマンダラを知るとそれに夢中になり、1929年に『黄金の華の秘密』という本を出版します。ユングにとってマンダラは、集合的無意識の現われとしてたいへん重要な概念になっていきます。
 ユングが直接ニジンスキーを診察したことはなかったようですが、なんかふたりの間にシンクロニシティーを感じますね。


 ニジンスキーが、1919年の「最後の踊り」の日から一ヶ月半にわたって書き記した『手記』は、鈴木晶氏の訳で完全版が出版されております(『ニジンスキーの手記 完全版』(新書館、1998年)。読んでみると、完全に統合失調症の幻覚妄想状態ですな。この本のみちくさはまたの機会に。


 サンモリッツには、リゾート客を相手にしていたフレンケルという内科医がいましたが、若いころチューリヒ大学でオイゲン・ブロイラーの講義を聴いて以来、精神分析に興味を持っていたこともあり、ニジンスキーの主治医となって素人精神分析を施し、またニジンスキーの妻ロモラと不倫関係になっていたらしいです。『手記』の混乱したように見える記述には、フレンケルの影響があるのかもしれません。


 ブロイラーに関しては、ドイツ語のウィキペディアが詳しいです(Eugene Bleuler-Wikipedia)。1857年にチューリヒの近くで出生。チューリヒ大学の医学部を卒業し、精神医学を志す。博士号を取得し、留学などを経て、1884年から1885年頃にチューリヒ大学医学部の精神科病院ブルクヘルツリの医員となり、1886年からライナウの精神科病院の院長、そして1898年にはブルクヘルツリ院長、チューリヒ大学医学部精神科の教授となりました。1900年から1909年まで、ブルクヘルツリにユングが勤務していたことは知られております。
 ということで、フレンケルがブロイラーの講義を聞いたのは1898年以降と推定されますが、それ以前にブロイラーがチューリヒ大学の講義を受け持っていた可能性もあります。
 ブルクヘルツリは現在も、チューリッヒ大学医学部の精神科病院として機能しております(Burghölzli-Wikipedia英語版)。場所はここです(google map 3D写真)。美しい建物ですね。


 1919年3月、ニジンスキーは妻に伴われてブルクヘルツリを訪れ、ブロイラーの診察を受けます。ブロイラーのカルテには次のように書かれていたそうです。

 彼は精神病と診断されることを怖がっていて、私の質問に対して、ほとんど洪水のような言葉で答えるのだが、あまり内容はなく、言い抜けやはぐらかしが見られた。彼は私に、精神病の人をどうやって見分けるのかといったことをしつこく尋ね、自分は妻がどう反応するかを試すために、妻の前では精神病のふりそしているのだ、それで時どきじっと部屋の隅を見つめたりするのだ、と説明した。妄想に関してはいっさい情報を提供するまいと防衛していた。明らかに以前は知能が非常に高かったと思われるが、いまは軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症である。

 このあたりの記述は、アメリカの精神科医オストウォルドの『ヴァーツラフ・ニジンスキー 狂気への跳躍』(Peter Ostwald, Vaslav Nijinsk: A Leap into Maddness, A Lyle Stuart Book, 1991)に基づいているようです。邦訳はありませんが、アマゾンで原書を購入できます。ぽん太も一応購入手続きをしてみましたが、読む元気があるかどうかはわからないです。Ostwaldってどっかで聞いたと思ったら、『グレン・グールド伝―天才の悲劇とエクスタシー』の著者ですね(こちらは邦訳あり)。
 上記の引用の中で、「軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症」という表現に関し、鈴木晶氏はオストウォルドの見解どおり、「躁鬱病である可能性も否定できないが、おそらく統合失調症だろう」という意味にとっています。しかしぽん太には、ちょっと陽気で多弁な状態の統合失調症だったように読めます。このあたりは原書を読んで見ないとなんとも言えないですね。
 ブロイラーは、ニジンスキーの妻ロモラに、環境のよい高級私立病院のベルヴューへの入院をすすめました。また離婚も勧めたそうで、鈴木氏はロモラを「結婚の義務から解放してやるべきだと考えた」と書いておりますが、「ロモラと一緒にいることがニジンスキーにとってよくない」と考えたからかもしれず、ぽん太には判断がつきません。
 ニジンスキーとロモラはホテルに戻りましたが、その晩にホテルでトラブルを起こし、ブルクヘルツリに緊急入院させられました。そして2日後にベルヴューに転院になりました。ブルクヘルツリでの診断は(そしてベルヴューでも)カタトニー(緊張病)だったそうです。オストウォルドは現在ならば「自己愛性人格における統合失調感情障害」と診断されるだろうと書いているそうですが、緊張病の興奮と昏迷と、統合失調感情障害の躁状態とうつ状態は、全然異なるものなので、混同されるとは思えません。もっともぽん太はブロイラーの時代の診断体系には詳しくないので偉そうなことは言えませんが、ここもちょっと疑問に思えるところです。
 というか、書いたばかりのニジンスキーの『手記』を読めば、躁鬱病ではなく統合失調症であることは一目瞭然のはずですが、『手記』はロシア語で書かれておりましたし、ロモラとしては他人の目に触れさせたくないことも書いてありましたから、この時はブロイラーが読む機会はなかったのでしょう。


 1919年にニジンスキーはベルヴューに入院しました。ベルヴュー(Sanatorium Bellevue )は、ビンスワンガー家が4代にわたって運営した個人精神科病院で、ニジンスキー入院時の院長は、現存在分析の創始者のルートヴィヒ・ビンスヴァンガーでした。もっとも彼が現存在分析を確立したのは1930年代から40年代のことですから、もっとあとの話です。というか、ビンスヴァンガーはちょうどニジンスキーとの関わっている時期に、現存在分析を確立していったことになります。
 ベルヴューは、ルートヴィヒのあと、息子のウォルフガング・ビンスヴァンガーが後を継ぎましたが、財政の事情から1980年に閉院しました。場所はたぶんこの辺ですね(googe map 3D写真)。建物の多くは現在は建て替えられてしまっているようです。
 ビンスヴァンガーは病院のなかで、外部からの客も集めて、ニジンスキーのダンス・リサイタルを開いたそうです。またビンスヴァンガーは、妻との再会が良い効果をもたらすだろうと考え、妻と外泊させたりしました(ブロイラーの考えとはちょっと違うのが面白いですね)。


 その後、ニジンスキーの病状はいろいろと変化し、様々な症状が出たようですが、精神科医からみて統合失調として普通の経過、普通の症状なので、バッサリと省略。


 1920年2月、ロモラはニジンスキーを、ウィーンのシュタインホーフ精神病院に入院させました。
 この病院はウィーンの西部にあり、建築家オットー・ワーグナーの計画に基づいて作られたもので、広大な敷地を擁し60もの建物からなっておりました。現在もオットー・ワーグナー病院として診療を続けているようです。付属施設のひとつであるシュタインホーフ教会は、オットー・ワーグナー自身の設計によるユーゲント・シュティールの建物で、現在でも人気観光スポットとなっております。こちらがgoogle map 3D写真です。
 で、当時この病院の院長だったのがヴァグナー=ヤウレックで、梅毒による進行麻痺に対するマラリア療法を1917年に発明して、1927年にノーベル賞を受賞した人ですね。ほんとにニジンスキーは当時の一流の医師の治療を受けてますよね。


 ウィーン滞在中に、ロモラはフロイトに相談に行ったと書いているそうですが、真偽は不明です。


 その後、1922年か23年ごろ、フランスの高名な医師たちに診てもらったそうですが、具体的な名前はわかりません。


 次はまたまた有名人、深層心理学者、アルフレート・アドラーです。最近は、アドラー心理学を踏まえた『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』などという本が売れてますね。
 ロモラは、1936年に出版されることになる『ニジンスキーの手記』の序文をアドラーに依頼したのだそうです。しかし、出来上がった序文をロモラは気に入らず、今度はユングに依頼しましたが、診察したことがないからと、丁重に断られたそうです。
 スゴイですね。三大深層心理学者コンプリートです。
 で、1934年、ロモラはそのアドラーをつれて、再びベルヴューに入院していたニジンスキーを訪ねます。アドラーはニジンスキーを引き取るつもりでしたが、ニジンスキー本人の同意が得られず、転院はかないませんでした。
 オーストリア生まれの医師アドラーは、フロイトの精神分析学派に加わりますがやがて決別。次第にその名声は世界に知れ渡り、アメリカとヨーロッパで半々過ごしながら、世界各地を飛び回る生活でした。しかしアドラーはユダヤ人だったので、ナチスの台頭により、1935年にアメリカに移住をしております。


 ロモラは何かよい治療がないかと、あちこちの病院や大学を訪れ、手紙を書いたそうですが、インシュリン・ショック療法を選びました。アメリカの医師、マンフレート・ザーケルが始めた治療法で、患者にインシュリンを注射し、一定時間、低血糖の昏睡状態に置くというもので、事故死の可能性も否定できませんでした。
 1937年8月、ロモラはザーケル自身を連れてベルヴューへ乗り込みました。しかし精神病を人間的現象として捉えるビンスヴァンガーはこの治療法を拒否。それでも翌1938年7月、ロモラの強い要望の結果インシュリン・ショック療法が開始されました。
 2ヶ月後、目覚ましい改善が見られた、とロモラとザーゲルは思ったのですが、実際はなんの変化もなく、ビンスヴァンガーはこれ以上インシュリン療法を行うことを禁止。そこで12月、ニジンスキーは、ビンスヴァンガーの親友マックス・ミューラーが院長をつとめるミュンシンゲンの州立病院に転院し、そこでインシュリン療法を続けることになりました。
 ミュンシンゲンの州立病院とはこちらでしょうか(Psychiatriezentrum Münsingen - E
Wikipediaドイツ語版
, google map 3D写真)。マックス・ミューラー(Max Müller)はぽん太は聞いたことありませんが、ドイツ語のWikipediaを見ると、のちにベルン大学の教授になったようです。
 ニジンスキーのインシュリン療法は翌1938年6月まで続けられ、ベルヴューと通算228回施行されましたが、莫大な医療費とは裏腹に、さしたる効果はありませんでした。


 何回か入退院を繰り返したのち、ミュンシンゲン病院に入院していたニジンスキーを、1945年3月12日、看護人がロモラのところに連れてきました。敗走するドイツ兵が、精神病院の患者を全員処刑するように命令したというのです。やがてソ連軍が進駐してくると、そこにロシアの英雄ニジンスキーがいることを知って驚いたそうです。
 ところが、気さくなロシア兵と接するうちに、ニジンスキーの病状がみるみる改善し、感情が戻ってきて、自分から話しかけたりするようになったそうです。
 それを見たロモラは、精神科医の指示があったとはいえ、これまで自分たちがニジンスキーにしてきたことは間違っていたのではないかと思ったそうです。何十年間にわたって行ってきた治療よりも、数週間の粗野なロシア兵の扱いの方が、ニジンスキーの病気にはるかに良い効果を与えた。私たちはニジンスキーを外界から引き離し、独房に閉じ込めきただけだった。このことに関して、いまでも決して自分を許すことはできない。


 1950年4月8日、ニジンスキーは「慢性腎炎による尿毒症」により死去。


 その2年後の1952年、最初の抗精神病薬クロルプロマジンが発見され、以後、精神医療は薬物療法の時代に入ります。それによって精神病患者は、これまでとはまったく異なる良好な経過を辿ることが可能になりました。
しかし上のロモラの告白は、現在であっても、精神障害に関わる者が決して忘れてはいけない真実を含んでいるとぽん太は思います。

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2018/05/31

【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(2)病歴のまとめ

 鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)の拾い読み、今回はニジンスキーの精神障害に関する部分です。


 今回は、ニジンスキーの病歴を、医学レポートの形式でまとめてみました。

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病歴報告書
東京都多摩地区狸の穴1番地
どうぶつ精神科病院
医師:ぽん太


【氏名】ヴァーツラフ・フォミッチ・ニジンスキー(Вацлав Фоми́ч Нижи́нский)
【性別】男性
【生没年月日】1890年3月12日〜1950年4月8日
【診断】統合失調症
【既往歴】帝室舞踊学校時代(1898〜1907)に転倒事故にて4日間の意識不明となり生死をさまよい、2ヶ月間入院(後遺症はなし)。
18歳ごろ淋病。5ヶ月ほどで改善。
【家族歴】兄、妹がいる。兄は幼少時からぼんやりしたが、精神障害を発症して入院歴もあり、第二次対戦中に病院内で自殺。また祖母がうつ病で自殺?。
【生活歴】1889年3月12日にウクライナのキエフで出生。両親はポーランド人のバレエ・ダンサー。幼少期は活発で冒険好きで机に向かうことが苦手など、多動傾向が認められた。また言語コミュニケーションが苦手だった。
 1898年、帝室舞踊学校に入学。舞踊技術は優れていたが、陰湿ないじめに会う。いじめのなかで転倒し、上記のように4日間の意識不明となり生死をさまよう。
 1907年、帝室舞踊学校卒業と同時にマリインスキーバレエ団に入団し、頭角をあらわす。
 1909年、ディアギレフが旗揚げしたバレエ・リュスに加わって大活躍し、振付家としても革新的な振り付けにより高い評価を受ける。この頃、気に入らないことがあると興奮して大声でわめくことがしばしばあった。
 1913年、ハンガリー人の女性と結婚。これが原因となりバレエ・リュスを解雇されたため、1914年、自分の一座を組んで公演を行うがうまくいかず、強いストレスを受ける。
【病歴】この頃から、ちょっとしたことで大声を出し、だだをこねるように転げ回ったり、他人に殴りかかるなどの行動が見られるようになった。その後抑うつ状態となり、不眠、思考力低下、易疲労感、情動不安定、不安・抑うつなどがみられ、稽古もできずに横になっている状態となったが、数ヶ月で軽快。1916年からはバレエ・リュスに復帰し、全米ツアーなどに参加。だがここでも癇癪を起こすことが多かった。また友人の影響でトルストイ主義に心酔し、菜食主義となり、ロシアの農民服を着用し、コール・ド・バレエに主役を踊らせるなどした。
 1917年、スイスのサンモリッツに転居。当初は心身ともに回復したようだったが、1918年にはバレエへの興味を失い、マンダラのような抽象画を描きまくるようになる。精神分析に興味を持つ内科医フレンケルと知り合う。
 1919年1月19日、サンモリッツのホテルにて私的なダンス・リサイタルを開くが、かなり前衛的なもので、途中で第一次大戦についての説教をするなどした。
 この日から2ヶ月間、『手記』の執筆に没頭。絵に対する興味はなくなり自分のデッサンをしまい込む。『手記』は極めて混乱しており、妄想的な内容であった。この頃から言動が誰の目にも「異常」と映るようになり、家に閉じこもったり、家族に暴力を振るうなどしたため、フレンケルはオイゲン・ブロイラーにニジンスキーを紹介した。
 1919年3月5日、チューリッヒのブルクヘルツリ病院でブロイラーの診察を受ける。軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症と判断し、同病院では監禁的処遇しかできないため、クロイツリンゲンにあるベルヴューという私立のサナトリウム(院長がビンスヴァンガー)への入院を勧めた。その日の夜、ホテルで騒ぎを起こし、ブルクヘルツリ病院に強制入院となり、2日後にベルヴューに転院となった(ブルクヘルツリの最終診断はカタトニー(緊張病))。
 ベルヴューでは開放的な環境で治療を受けたが、症状は緊張病性の興奮と昏迷を繰り返し、指を目につっこむといった自傷行為や、幻聴も認められた。
 同年7月、妻が来院し、患者の退院を執拗に要求。退院できる状態ではないことを説明したが納得せず、地元の保健所と相談の上、「サンモリッツに患者のために特別な部屋を用意すること、自殺に使えるものを一切置かないこと、経験ある看護人2名が24時間患者を監視すること、精神科医の監視下に置くこと」という条件のもと、7月29日に退院となった。
 しかし約束が十分守られなかったため、12月3日にベルヴューに強制入院となる。病状はかなり悪化しており、暴力を振るったり、床に排泄するなどした。
 1920年2月、妻の転居に伴いウィーンのシュタインホーフ精神病院に転院。この間、妻がフロイトに相談に行ったというが、真偽は不明。
 1922年、同院を退院し、ブダペストの妻の実家に戻り、その後さらにパリに転居。フランスの高名な医師の診察を受けるが改善はみられず。
 1926年、妻がアメリカに渡ったため、妻の姉と看護人が面倒をみたが、道で他人に危害を加えたり、体を出血するまで引っ掻くなどの自傷行為がみられたため、私立の精神病院に入院。退院後、自宅で劣悪な条件で監置される。
 1929年4月、ベルヴューのスタッフが苦労して移送し、ベルヴューに3度目の入院。病状は進行していて、興奮は見られなかったが、外界への興味を失い、ぼうっと座って過ごすことが多かった。
 1934年、妻がアドラーを伴ってベルヴューを訪問。転院を試みるが、本人の同意が得られずにあきらめる。
 この年と翌年に2回の心臓発作。
 1938年、ザーケル医師が自らベルヴューを訪れ、病院内でインシュリン・ショック療法を行う。2ヶ月間行うが、効果なし。
 同年12月、ベルヴューの院長ビンスヴァンガーがインシュリン・ショック療法を禁じたため、効果を信じる妻の希望でミュンシンゲンの州立病院に転院し、インシュリン・ショック療法を継続。
 1939年、インシュリン・ショック療法を計128回行うが、効果は見られず終了となる。ミュンシンゲン病院を退院。
 1940年、ミンシュンゲン病院に再入院。夏、妻の実家のブダペストに移るが、暴力が手に負えず、1942年に私立のサナトリウムに入院。5月、膀胱炎と痔の治療のためブダペストの公立病院に入院。一度退院したが、再度入院。
 1943年、ウィーンの聖ヨハネ病院に入院。
 1945年3月24日、ドイツ軍から精神病患者を全員処刑するよう命令が下ったため、看護人が機転をきかせて患者を妻の疎開先に連れて行く。
 妻とともにウィーンに転居。
 1947年、ロンドンに転居。1948年、ロンドン郊外に居を構える。
 1950年4月4日、ベッドから起き上がれなくなり、ロンドンの私立クリニックに救急搬送。4月8日に死去(死因、慢性腎炎による尿毒症)。

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2015/01/11

【苦情】デイ・ケアに行った日は「通院精神療法」が算定できないなんてオカシイにゃん

 一年の最初のブログを苦情で始めるのもどうかと思いましたが、温泉や観劇の報告じゃなくて本業に関することから始めるのもいいかと思って、投稿することにしました。
 医療を行った場合の医療機関の収入は、「診療報酬点数表」によって定められております。診察をするといくら、処方箋を発行するといくら、精神療法をするといくらというのが、こと細かに決めれているわけです。
 で、精神科の診療報酬に関することで、ぽん太が常々疑問に思っていたことを、今日は書いてみたいと思います。もちろん、「医者の儲けが少なすぎる」みたいないな下賎な文句ではありません。

 それは、ある医療機関で精神科ショート・ケア、あるいはデイ・ケアを行うと、同一日に、例え他の医療機関であっても、「精神科専門療法」を算定できないことです。
 これはどこに書いてあるかというと、厚労省のページの「第3 関係法令等」の「 【省令、告示】(それらに関連する通知、事務連絡を含む。) 」の、「(2) 3 診療報酬の算定方法の一部改正に伴う実施上の留意事項について(通知)」の別添1(医科点数表)というpdfファイル(こちら)のI009(3)に、「また、精神科デイ・ケアを算定している患者に対しては、同一日に行う他 の精神科専門療法(他の医療機関で実施するものも含む。)は、別に算定できない。」と書かれています。
 わかりやすい一般サイトのURLをあげれば、例えばこちらのサイトの(3)の終わりの部分ですね。
 ちなみに問題の「(他の医療機関で実施するものも含む。)」という文言は、平成26年4月から加わったものだそうです。

 具体的にいうと、ぽん太のクリニックの外来に通っている患者さんが、うちではデイ・ケアを行ってないので、他の大きな病院のデイ・ケアに通っていたとすると、その同じ日にぽん太の外来を受診した場合、「通院精神療法」を算定できなくなるのです。
 患者さんが外来通院した場合、普通ならば、再診料72点+処方箋料70点+通院精神療法330点=472点=4,720円の収入があるのですが、通院精神療法が算定できない場合は、再診料72点+処方せん料70点+外来管理加算52点=194点=1,940円と、収入が半分近くになってしまいます。同じ診療を行っていて、こんなに収入を下げられてしまっては、経営が成り立ちません。仕方ないので、デイ・ケアに行かない日に当院を受診してもらってますが、頑張って月曜から金曜までデイ・ケアに通っている患者さんは、わざわざ土曜日に当院を受診してもらわなければなりません。患者さんにしてみれば面倒きわまりなく、デイ・ケアの帰りにクリニックに寄って一日ですませ、土日はゆっくりすごしたいところだと思います。

 通院精神療法とは、同じく留意事項通知(こちら)のI002の(1)に書いているように、「精神科を担当する医師(研修医を除く。)が一定の治療計画のもとに危機介入、対人関係の改善、社会適応能力の向上を図るための指示、助言等の働きかけを継続的に行う治療方法をいう。」となっており、いくら患者さんがデイケアに通っているからといって、ぽん太が「じゃ、薬出しておきますから、困ったことや相談したいことがあったら、あとはデイ・ケアで聞いて下さいね」というわけにはいきません。ぽん太が行っている医療行為は、患者さんがデイ・ケアに通っているからといって、減るわけではありません。
 厚労省の考えは、どうせ「あちこちで精神科専門療法を算定するのは医療費のムダ!」ということなんでしょうが、ぽん太にはどうにも納得できません。デイケアと外来が別の医療機関の場合は、外来で「通院精神療法」を算定するのは構わないんじゃないでしょうか?

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2014/10/15

【拾い読み】DSM-5を使う前に読んでおこう。アレン・フランセス『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』

 たまたま気が向いて、アレン・フランセスの『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』(大野裕監修、講談社、2013年)を読んでみました。
 DSMというと、ぽん太はどのバージョンも一緒くたにしてましたが、DSM-IVの作成委員長だった著者が、DSM-5の問題点を批判したのが本書です。最大の論点は、著者が「診断のインフレーション」と呼ぶ、なんでもかんでも精神障害に診断してしまう傾向への警告です。こうしたことは精神科医なら誰でも感じていることで(例えば現在でもすでに何でもかんでもうつ病です)、その裏には製薬会社の営利主義があることなども衆知の事実ですが、自らDSMに関わった人が言っているところに説得力があります。また、うちわを知っている人だからこその証言もあって、面白い本でした。もちろん著者の主張が正しいかどうかもわからないので、本書を読むときも批判的な精神を忘れてはなりません。最近流行の、ドグマチックな精神医学批判の本ではございません。
 さて、興味がある人は自分で読んでいただいて、ぽん太が興味を持ったところの抜き書きです。

 「DSMは正常と精神疾患のあいだに決定的な境界線を引くものであるため、社会にとってきわめて大きな意味を持つものになっており、人々の生活に計り知れない影響を与える幾多の重要な事柄を左右しているーーたとえば、だれが健康でだれが病気だと見なされるのか、どんな治療が提供されるのか、だれがその金を払うのか、だれが障害者手当を受給するのか、だれに精神衛生や学校や職業などに関したサービスを受ける資格があるのか、だれが就職できるのか、養子をもらえるのか、飛行機を操縦できるのか、生命保険に加入できるのか、人殺しは犯罪者なのかそれとも精神異常者なのか、訴訟で損害賠償をどれだけ認めるのかといった事柄であり、ほかにもまだまだたくさんある」(p.17)
 ぽん太が思うに、DSMの分類が、純粋な医学的・科学的なものではなく、アメリカ社会の、アメリカの医療制度のもとでの分類であることは常識でしょう。また精神科医の診断という行為も、常に社会的な側面を持つことを忘れてはなりません。

 フランセスは、DSM-IVの作成にあたって、リスクのあるもの、科学的データによる裏付けがないものをすべて却下しました(その結果、DSM-IVはDSM-IIIRとあまり変わりませんでした)。一方DSM-5は、正常な多くの人を新たな「患者」にしたてる危険性があり、それを製薬会社がいかに利用してやろうかと、手ぐすね引いて待っていると彼は言います。
 そのように用心して作成したDSM-IVでさえも、三つの精神疾患のまやかしの流行を引き起こしました。それは自閉症、ADHD、小児双極性障害だそうです。
 「アメリカ人の成人の5人にひとりが、精神的な問題のために一種類以上の薬を飲んでいる。2010年時点で、全成人の11パーセントが抗うつ薬を服用している。小児の4パーセント近くが精神刺激薬を飲み、ティーンエイジャーの4パーセントが抗うつ薬を服用し、老人ホーム入居者の25パーセントに抗精神病薬が与えられている」(p.20)
 日本の現状はどうなのでしょうか。ここまではひどくないような気がしますが。常々ぽん太思うには、精神的な問題を解決するには、つべこべ言わずに薬を飲めというのに、快楽を得るためには薬を使ってはいけないというのは、筋が通らないですよね。覚せい剤や危険ドラッグの使用が増えるのは、仕方ないことに思えます。

 「DSM-IVのADHDは慎重に作成されたが、変更の提案による有病率の上昇は15パーセントにとどまるとわれわれは予測していた。データが収集された1990年代はじめの現実を考えれば、これはかなり正確な推定だったと言えよう。われわれは1997年にこの現実が一変するとは予見できなかった。この年、製薬会社がADHDの高価な新薬を売りだし、しかも同時に、親や教師に直接宣伝することが認められたのである。まもなく、ADHDの診断を商品として売るのが、雑誌やテレビや小児科病院のどこでも見られるようになったーー予想外の流行が発生したわけで、ADHDの有病率は3倍になった」(p.86)。
 高価な薬が出ることと、診断が流行していることは確かにリンクしているとぽん太も思います。双極性障害の流行も、ラミクタールの発売と関係しているのではないでしょうか。これまで双極性障害の第一選択薬であったリーマスは、標準使用量1日600mgで62.7円ですが、2008年12月に発売されたラミクタールは1日200mgで547.6円と、ほぼ十倍の価格です。さらに2012年9月にリーマスの添付文書(こちら)が改訂され、わざわざ医薬品医療機器総合機構から「炭酸リチウム投与中の血中濃度測定遵守について」という文書(こちら)まで出されました。これによると、リーマスを服用中の患者さんは、2〜3ヶ月に一度血液検査が事実上義務づけられることになりました。ごていねいに「適切な血清リチウム濃度測定が実施されずに重篤なリチウム中毒に至った症例などは、基本的に医薬品副作用被害救済 制度においても、適正な使用とは認められない症例とされ、救済の支給対象とはなっておりません」という文言もあります。「リチウム中毒を防ぐ」という大義名分はありますが、背後に、有効で安価なリーマスを使いにくくさせようとする何らかの圧力があったのでは、と考えるのは考え過ぎでしょうか。ここらの裏事情を知る立場にぽん太はありません。
 また最近、ベンゾジアゼピン系の抗不安薬、睡眠薬の使用を制限する動きが出ており、これはこれで過剰使用を防ぎ、依存を減らすという大義名分があるのですが、一方で代わりにSSRIや非定型抗精神病薬を売りたいという製薬会社の意図があるのではないか、というのもぽん太の妄想でしょうか?
 また、たとえば風邪薬など薬局で売っている薬はテレビのCMで宣伝することができますが、病院で医者が処方する薬は宣伝することができませんでした。ところがいつの頃からか、薬の名前こそ言わないものの、「〇〇の症状があったら、よく効く薬があるので、病院を受診しましょう。××製薬」というCMが流れるようになりました。これは製薬会社の申し出によって、コマーシャルの基準が変更されたのだと思いますが、これがどこの管轄で、どのように決められ、具体的にどこに明記されているのか、ぽん太はいまだにわかりません。
 ついでに上の引用の「ADHDの診断を商品として売るのが、雑誌やテレビや小児科病院のどこでも見られるようになった」というのは、ADHDの診断チェック表みたいなのが、雑誌やテレビでやってたり、病院に(製薬会社が作った)パンフレットとして置かれていることを言ってるんだと思いますが、原文にあたるのは面倒なのでよくわかりません。

 精神疾患の定義を、統合失調症80・双極性障害10みたいに数値で表すという考え方にかんしては、将来的には主流になるのかもしれないが、現時点では実現不可能と書いてます。

 DSM-IIIに関して。1970年代、精神疾患の診断の不正確さに対する批判が強まりました。ひとつはイギリスとアメリカの国際共同研究で、アメリカとイギリスで診断が大きく異なることが示されました。もうひとつは、正常な人が症状を偽ることで、誤った診断や不適切な治療に誘導できることがわかりました。
 こうしたことで、統一した診断システムを作ることが必要となり、ロバート・スピッツァー(1932 - )がDSM-III(1980年)の責任者に選ばれました。診断のパラダイムシフトをもたらしたDSM-IIIですが、診断基準の作成は科学的なものとは言えませんでした。十人弱の専門家が一室に閉じ込められ、午前中はそれぞれが、科学的データではなく実体験に基づく診断基準を無秩序に主張し合い、昼食が済むとスピッツァーが論点を神業のように整理して草案を作成し、それを疲れて眠気を催した専門家が微調整したそうです。「論争がつづくときは、声のいちばん大きな者、自信に満ちた者、頑固な者、年長の者、ボブ(スピッツァー)に最後に話したものがいつだって有利になった(p.117)そうです。ひどい方法でしたが、当時としては最上の方法で、しかもうまくいったそうです。
 DSM-IIIは病因論を棚上げにしたので生物学的・心理学的・社会的モデルのどれにも利用できるとされましたが、実際は生物学的モデルによくあてはまり、心理学的・社会的側面は軽視される結果をもたらしました。またいわゆる「多軸診断」を導入しましたが、これはほどなく忘れ去られました。
 DSM-IIIが非常に売れて、いわゆるバイブルになってしまったことは、良く知られたとおり。

 DSM-IIIR(1987年)に関しては、著者は「誤りであり、混乱のもとだった」と批判的です。その内容というよりも、DSM-IIIからわずか7年後に改訂をしたことを問題としているようです。DSM-IIIが科学的データの裏付けがある診断基準ではない以上、思いつきで安易に変更すべきではなく、科学的研究が追いついて、基準が確認されたり、変更の必要性が実証されるのを待つべきだったと言います。

 DSM-IV(1994年)の作成委員長に著者はなったわけですが、IIIRからの変更は最小限とし、科学的な必要性が証明されない変更は却下したそうです。また彼は、DSM-IVをバイブルではなく、ガイドブックとしたかったそうで、このことを「序文」に書いておいたそうです。ぽん太はDSMの序文なんて読んだことありませんでした。こんど読んでみたいと思います。
 著者は、当時は予測できなかったけれど、後から振り返ると、過剰診断がおきないようにもっと注意を払うべきだったと書いてます。特にADHDの診断基準をわずかに緩めたこと、双極II型を導入したことを後悔しています。また、「性的倒錯の項目でずさんな表現を使ったために、憲法に違反する精神科病院への強制入院が広く乱用されることになった」と反省していますが、ぽん太には具体的にはわかりません。

 著者は、早期診断のリスクを指摘します。正常だけど「病気になりかけている」人を発掘することで、医産複合体は急速に成長していますが、それによって必要ない人に過剰な医療が行われ、必要としている人に適切な医療が施せていません。
 最近「かくれ〇〇病」や「〇〇病予備軍」といった言葉がマスコミに溢れてます。また最近言われている「統合失調症の早期発見と早期治療」という考え方も、ひとつ間違えば、発病以前の「前駆期」の名のもとに、正常な人たちへの過剰診断・過剰医療が行われる可能性がありそうです。

 過去に流行して、消えてしまった疾患として、彼は「悪魔憑き」と並べて、神経衰弱やヒステリー、多重人格などを挙げてます。たとえば多重人格を、「保険会社が支払いをやめ、疲れたセラピストが現実に目覚めると、多重人格の治療を求める声は激減した」と切って捨ててます。

 現在の流行に関して、ADHDや小児双極性障害、自閉症などをあげて検討しておりますが、この辺は現役の精神科医にとっては周知の事実なので省略。

 DSM-5に関して、高く飛ぼうとしすぎて燃え尽きたイカロスに例えて、3つの点から批判しています。DSM-5は、第一に、神経科学の進歩を土台にもってきて精神科の診断を一新することを目標にしましたが、それは時期尚早で、現実離れした目標でした。第二に、早期発見・予防医学の観点から精神医学の領域を広げようとしましたが、これも行き過ぎた目標でした。第三に、数量化によって診断をもっと正確に下そうとしましたが、臨床現場で使いようのない複雑な多元評価を作っただけでした。

 また著者は、DSM-5の作成の手順についても疑問を呈しています。全体をコントロールするリーダーシップを発揮する人がおらず、作業グループごとに検討の方法や質のばらつきがった、また事前に時間定期な計画を立てなかった。また、文献調査を独立した評価者が行うといった、公平性を保つ手段も講じなかった。

 またフィールドトライアル(診断基準を実際に使ってみて、妥当性を評価すること)に関しても、DSM-IVでは、外部の研究者が方法を評価した上で、アメリカ国立精神保健研究所(NIMH)の資金を得て行われました。しかしDSM-5は、計画は非公開で、NIMHは十分な資金を調達できず、実施機関も短すぎたため、低い信頼性しか得られませんでした。しかもアメリカ精神医学会(APA)は、利益を見込んである2013年の出版予定日を守るため、必要な修正や検証を行わずに、出版してしまったそうです。

 DSM-5には、診断のインフレーションを引き起こしかねない疾患が多く見られます。小児の「重篤な気分調節不全障害」は、ただの癇癪を病気と診断する危険があります。また老人の「軽度神経認知障害」も、アルツハイマー病の早期発見と早期治療という専門家の無邪気な善意から作られたのでしょうが、多くの人に有害無益な検査や投薬が行われ、結局は医産複合体だけが喜ぶという結果になりかねません。「大食い」が精神病とされ、「成人注意欠陥・多動性障害」は過剰診断の危険性があります。また、死別後の喪が「うつ病」と混同されかねないなどなど。

 著者は大胆にも、製薬会社と麻薬組織を併せて論じております。そして、製薬会社が利益を上げるために行っているマーケティング能力を制限することを求めます。また、精神科医の同業組合であるAPAが、DSMによって精神疾患の診断を独占する状況を批判します。精神疾患の診断は、現在医学的な領域を遥かに越えてしまっています。とはいえその任を担うのにふさわしい組織も、今のところ見当たりません。

 もう飽きてきたので、この辺でやめておくことにします。アレン・フランスセスの基本的なスタンスとしては、精神疾患の診断は医療の領域を越えて大きな影響力を持つようになっていて、しかも製薬会社に代表される医産複合体が利益を拡大するために、過剰診断が行われる危険性が高い(診断のインフレーション)。そのためDSMは、過剰診断が行われにくいものにしておく必要があるが、DSM-5は質の確保をおろそかにしたうえ、拡大解釈されやすい新たな疾患を盛り込んでしまった……ということになりましょうか。
 冒頭に書いたように、これはあくまでもアレン・フランセスの考えてあって、これが正しいのかどうかわかりませんが、これからDSM-5を使って行くうえで、これらの点に注意を払って行く必要があるのは確かでしょう。

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2014/09/30

【臨床】抗うつ剤の副作用のプロファイル比較

自分の覚え書きのための記事です。

抗コ胃腸鎮静眠焦性機低血体重CYP阻害Pgp阻害
フルボキサミン++++++強(1AC,2C19)
パロキセチン+++-++++-+強(2D6)
セルトラリン-++-++++--弱中(2D6)
エスシタロプラム-++-++++--
ミルナシプラン-++-++++--
デュロキセチン-++-+++--中(2D6)
ミルタザピン--++--+++
トラゾドン-+++-++++
ミアンセリン+-++--++
アミトリプチリン+++-+++-+++++++強(2C19)

抗コ:抗コリン作用、胃腸:胃腸症状、鎮静:過鎮静、眠焦:不眠焦燥、性機:性機能障害、低血:低血圧、体重:体重増加
(吉田、渡邊:ミルタザピンのすべて:先端医学社:54-59, 2012)

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2012/02/13

【珍百景】レトロでシュールな東京都の児童育成手当障害認定診断書

12021201 先日ぽん太は、「児童育成手当障害認定診断書」という書類を書いたのですが、この書類がなかなかユニークだったのでご報告したいと思います。
 福祉に暗いぽん太は、「児童育成手当」という制度も初耳でした。調べてみると、東京都が行っている制度で、基本的には父または母が死亡や離婚などでいない場合に支給される手当のようですが、父または母が重度の障害を持つ場合にも支給されるようです。詳しくは例えばこちらの東京の福祉オールガイドをご覧下さい。
 まず表題ですが、児童「扶養」手当障害認定診断書というのが、手書きで児童「育成」手当に訂正されております。そしてその後にさりげなく、「精神及び脳疾患用」と書かれています。脳疾患……レトロです。
 氏名、住所、病名などは普通ですが、(11)の「現在まで受けた特殊療法等」というところがすごいです。

1 特殊薬物療法 2 インシュリン療法 3 痙攣療法 4 持続睡眠療法 5 熱療法 6 駆梅療法 7 精神療法 8 作業療法 9 その他
 う〜ん、すばらしい。インシュリン療法や持続睡眠療法、やったことがありません。熱療法ってなんでしょう。梅毒のマラリア療法かなんかでしょうか。駆梅療法とともに、時代を感じさせます。薬物療法に「特殊」がついているあたりも、精神病の薬物がまだ珍しかった時代のものなんでしょうね。「ロボトミー手術」がないだけましか。
 続いて「現在の状態像」のところの「21 性的異常行動」。
1 サディズム 2 マゾヒズム 3 フェティシズム 4 その他
 ……丸を付けたくなります。これらが精神障害の症状だったんでしょうかね〜。
 次に「23 問題行動」というところ。
1 殺人 2 傷害 3 暴行 4 脅迫 5 自殺企図 6 自傷 7 破衣 8 不潔 9 放火 10 弄火 11 器物破損 12 窃盗 13 盗癖 14 ぶじょく 15 強盗 16 恐かつ 17 無銭飲食 18 無賃乗車等 19 はいかい 20 家宅侵入 21 性的異常 22 風俗犯的行動 23 無断離院 24 その他
 障害の重さを認定する診断書に、犯罪が列挙されているというあたりに、昔の人権感覚が伺われます。しかもそのなかの「破衣」「ぶじょく」「無銭飲食」「無賃乗車等」「無断離院」などという項目があり、なぜわざわざこれらなのか、よくわかりません。「風俗犯的行動」という言葉も、無知なるぽん太は知らなかったのですが、Yahoo!辞書によると、「狭義では、猥褻(わいせつ)罪など、性道徳に反する犯罪。広義では、賭博罪などの社会の善良な風俗に反する罪を含む。風俗犯罪」とのこと。
 ちなみにぽん太がこの診断書を書いたのは、数十年前ではなく、数ヶ月前です。
 この診断書、日々書類の山と格闘している精神科医にとって、一服の清涼剤となっていいですけど、もし東京都の担当者がこのブログを目にとめたら、早々に書式を変更することをおすすめします。

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2011/01/25

【拾い読み】共感覚に基づく驚異的な記憶力 ルリヤ『偉大な記憶力の物語』

 A.R.ルリヤの『偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活』(天野清訳、岩波書店、2010年、岩波現代文庫)を読んでみました。
 ルリヤ(Алексндр Ромнович Лрия、1902年 – 1977年) はソ連の神経心理学者・発達心理学者として有名です。日本語のWikipediaには項目がないようですが、英語版Wikipediaには出ています。それによれば彼はユダヤ人で、差別的な待遇を受けたこともあるようです。ちょっと面白かったのは、カザン州立大学の学生だった頃(1921年卒業)、彼はカザン精神分析協会を設立し、フロイトと手紙のやり取りをしていたのだそうです。へ〜え、ということで、エレンベルガーの『無意識の発見 下 — 力動精神医学発達史』(木村敏、中井久夫監訳、弘文堂、1980年)を読んでみたら、しっかり出てました。「ロシアのすぐれた心理学者アレクサンドル・ルリヤ(Алексндр Лрия)は、精神分析を熱烈に支持する著書と論文を発表し、精神分析を『一元的心理学体系』で、『真のマルクス主義心理学を構成するための基本的な唯物論的原理』であると考えた」(502ページ)。これは1925年の『心理学とマルクシズム』に掲載された「一元論的心理学体系としての精神分析学」という論文だそうです。
 ルリヤを含む20世紀初頭のロシアと、精神分析との関係については、国分充「20世紀初めのロシアにおける精神分析の運命 ─覚え書─」東京学芸大学紀要1部門 56 pp . 309 ~320, 2005(https://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/2085/1/03878910_56_24.pdf)、国分 充・牛山 道雄「ロシア精神分析運動とヴィゴツキー学派 ──ルリヤのZeitschrift 誌の活動報告──」東京学芸大学紀要 総合教育科学系 57 pp.199~215,2006(https://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/1467/1/18804306_57_20.pdf)という面白そうな論文がネット上に見つかりましたが、みちくさは別の機会にいたしましょう。
 
 さて本書は、驚異的な記憶力を持つひとりの人物について書かれています。その記憶力たるや、50のランダムな数字が書かれた表を3分ほどで覚えてしまい、それを数十秒で再現することができたそうです。その記憶は数ヶ月たっても完全に保たれており、記憶の再生にかかる時間は、記憶直後に再生した場合とほとんど変わりませんでした。それどころか彼は、一度覚えたことは決して忘れることがなく、時間とともに記憶が薄れてくるということもありません。数ヶ月どころか10年経っても20年経っても、完全に思い出すことができたそうです。
 彼は単に記憶力がいいというだけでなく、実は「共感覚」の持ち主であって、それが記憶力と関連していたのです。普通は感覚は、五感というように、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の5つに別れており、それらが混じり合うことはありません。「共感覚」とは、音を聞くと形や色が見えたり、形や色を見ると匂いがしたりする現象です。
 彼は、言葉や数字を見たときに生じる形やイメージを、風景の中に配列することによって、言葉や記号を記憶しました。そしてそれを思い出す時は、風景の中に配置されている「もの」を読み取っていくだけでよかったのです。と、書いても分かりにくいと思いますが、例えば「緑の」という言葉を聞くと、色のついた緑色のツボがあらわれ、「赤い」という語を聞くと、似合った赤い服を着た人が現れる。そうしたツボや人を、見慣れた通り沿いに配置していくのだそうです。思い出す時はその通りの風景を再現し、置かれている物を読み取っていくのだそうです(よけいわからないですか?あとは自分で読んで下され)。
 こうした共感覚に裏付けられた記憶は、彼の思考や人格にさまざまな影響を与えており、そこらの記述が、この本の面白さであります。普通の人なら忘れているような、1歳以前の記憶が残っていたりします。また、言葉によって浮かぶイメージが思考の邪魔をすることもあり、言葉の意味と、言葉から生じるイメージがずれていると、その言葉がうまく使えなかったりするそうです。また、「誰々が一本の木によりかかっていた」という文章を読むと、森の中で男が菩提樹によりかかっている風景が浮かんできますが、次の文章が「彼はショーウィンドウを覗き込んだ」だったりすると、今度は街の中の風景に、一から作り直さないといけないという苦労もあったそうです。

 いや〜、記憶力の弱いぽん太はうらやましい限りです。ぽん太がブログを書いているのも、「あのバレエ誰が踊ってたっけ」とか、忘れそうなことを記録しておく意味もあり、自分の記憶をグーグルで検索できるのでとっても重宝しております。便利な世の中になったものですね。
 本書に書かれている人の場合は極端な例ですが、ものごとの捉え方は人によってさまざまなんだな〜と、改めて思いました。他人も自分と同じように、感じたり考えたりしていると思うと、大間違いということですね。
 共感覚といえば、有名な精神医学者の中井久夫先生も共感覚があったことはよく知られており、そのことは例えば『私の日本語雑記』(中井久夫著、岩波書店、2010年)にも書かれております。「私には共通感覚があって、語の記憶は色彩と結びついている。これは記憶の助けにもなるが、『色合わせ』がよくないと、その部分は異質なものとして放り出したくなる。……ただ、色として認識されるのは十八歳ごろに覚えたギリシャ文字までであって、大学に入ってからのロシア文字は全体として黒っぽく、ハングルは白っぽい。」氏は「共通感覚」という言葉を使われておりますが、文脈から「共感覚」のことでしょう。また氏は、本の背表紙を見ると内容が頭に浮かんできて苦しいので、背表紙を向こう側にして本箱に入れておく、とどこかで書いていた気がします。著作から推察するに、氏も卓越した記憶力をお持ちなようで、微分的認知と積分的認知という図式は、「かすかな予兆、徴候的なものが、時間とともにやがて積分的な知識となっていく」という氏の時間体験に基づいていると思われます。ぽん太のように予測力も記憶力もない者にとっては、未来の出来事は突然目の前に現れて行く手を妨げ、過去に遠ざかるとともにやがて記憶が薄れたり混乱したりして、ぐちょぐちょになっていきます。ぽん太は自分の記憶を信じておりません。
 ぽん太の患者さんで、共感覚の持ち主にはお目にかかったことがありませんが、共感覚の有無をわざわざ聞いたりすることはないので、実は隠れているかもしれません。記憶力に関しては、統合失調症の患者さんで、前回血液検査をした日とか、数年前にある薬を初めて投与した年月日とかを、正確に記憶している人が2〜3人います。でも、その患者さんの記憶力一般についてチェックしたことはありません。記憶力とは若干異なりますが、統合失調症の妄想型で家に閉じこもっている患者さんに、息抜きは何をしているのか尋ねたところ、頭のなかで敵味方それぞれ100隻くらいの戦艦を思い浮かべ、それらを(頭の中で)戦わせて遊んでいる、と答えた人がおりました。

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2011/01/22

【拾い読み】読むべきか読まざるべきか アーネスト・ジョーンズ『ハムレットとオイディプス』

 アーネスト・ジョーンズの『ハムレットとオイディプス』(栗原裕訳、大修館書店、1988年)を読みました。Ernest Jones, Hamlet and Oedipus (London: Victor Gollancz Ltd.,1949)の全訳。精神分析的なハムレット論の古典ですが、恥ずかしながらぽん太は今回初めて読みました。
 フロイト自身は、『夢判断』の「第五章、夢の素材と夢の源泉」において『ハムレット』に言及しております。いわく、「ハムレットが、父を殺して母をめとった叔父を殺すことができないのは、ハムレット自身の抑圧された幼年期願望を、叔父が体現しているからである。シェイクスピアは、父の死の直後に『ハムレット』を書いた。従って『ハムレット』は、シェイクスピア自身の父に対する心理が反映されている」。ジョーンズの本書は、このフロイトのハムレット解釈を、幅広い文献にあたったうえで解説・詳述したものといえましょう。第7章のハムレット伝承と神話との関係について論じた部分は、ジョーンズのオリジナルと言えるのかもしりません。
 何事につき感化されやすいぽん太は、こういう本を読むと、「なるほど、その通りだな〜」という気になってしまいます。ジョーンズの解釈を検討して問題点を見いだすなどという作業は、ちょっとする元気と能力がありません。
 精神分析によるハムレット論は、ラカンの『セミネールVI』(1958年 - 1959年)も有名です。残念ながらこのセミネールは、邦訳はもとよりSeuil社のフランス語版も出版されていませんが、雑誌「Ornicar?」にハムレット論の部分のみ掲載されたことがあります。海賊版ならば、例えばこちらのサイト(http://gaogoa.free.fr/SeminaireS.htm)で読むことができます。
 精神分析以外のハムレット論としては、政治学者カール・シュミットの『ハムレットもしくはヘカベ 』(1956年)や、デリダの『マルクスの亡霊たち』(1993年)などがあります。
 どれも興味を引きますが、今のところぽん太は、そこまでみちくさする元気と能力はございません。
 ということで、拾い読みにすらなっておりませんが、ぽん太自身の読書メモとしてアップしておきます。あしからず。

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2011/01/10

【拾い読み】「エス」はフロイトだけのものではない 互盛央『エスの系譜』

 「エス」といえば言わずと知れたフロイトの精神分析に措ける重要な概念です。「エス」という言葉はフロイトのオリジナルではなく、ゲオルク・グロデックの着想を借りたものでした。しかしフロイトは、グロデックの着想のもとにはニーチェがあると主張することによってグロデックの独創性を否定したため、オリジナリティを主張するグロデックとのあいだに対立が生じたことは有名です。
 しかし「エスが考える」(Es denkt)という表現を使ったのは彼らだけではありません。その表現を辿っていくと、シェリング、ハイネ、フォイエルバッハ、マッハ、ジェイムズ、シュタイナー、ヴィトゲンシュタインといった名立たる思想家が連なっており、その源流にはゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクという人物がいます。彼らが「エスが考える」という言葉をどのような意味で使ったのかを考察することによって、脈々と連なる「エスの系譜」を浮かび上がらせたのが本書です。
 著者は、リヒテンベルクから始まってフォイエルバッハ・ニーチェ・フロイトへと続く第一の系譜と、そこから枝分かれした、フィヒテ・シェリング・ビスマルクに通じる第二の系譜があるといいます。前者は、デカルトの「我思う、故に我あり」以降の近代的な自我の概念を問い直すものですが、後者は「我」の変わりに「自然」や「人種」、「国民」を持ち込み、ナチスにもつながっていくものです。
 実に多くの人物が論じられており、読み物としても面白いですが、総論的になった分、個々の人物の掘り下げが物足りない気がします。おのおのの人物が、「エスが考える」という表現をたまたま使っただけなのか、それともその人の思想の中心的な概念なのか、いまいちよくわかりません。そのせいか、多くの思想家が取り上げられている割には、いまひとつ同時代の思想の全体像が浮かび上がってこないようにも思えます。著者は一見博学であるように思えますが、ひょっとしたら検索サイトで「es denkt」を検索して引っかかった文章を調べていったのではないか、という気もします。また、残念ながらラカンについてはほとんど論じられておりません。
 それにしても「エス」という考え方が、フロイトとグロテックの間でオリジナル争いをするようなものではなく、同時代的にさまざまな人が用いていた概念であることがよくわかりませいた。
 エスに関しては、最近始まったばかりの財津理のブログ(財津理の思想研究 ドゥルーズ/ラカン/ハイデガー)において、本職の「哲学屋」による綿密な読解が今後展開されそうな気配で、ぽん太はとっても楽しみにしております。

 以下は例によって、ぽん太が興味を持ったところの抜き書きです。
 フロイトは、グロデックがエスの概念をニーチェから持ってきたと言いながら、具体的にどこでニーチェがエスに言及したかを挙げておりませんが、例えば『善悪の彼岸』のなかで、「主語『私』は述語『考える』の前提である、と述べるのは事態の捏造である。それが考える[Es denkt]。」と書いているようです。
 「エスが考える」という言葉の源流と言える、ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクという人物の名は、ぽん太は初めて聞きました。Wikipediaを見てみると、リヒテンベルク(Georg Christoph Lichtenberg、1742年 - 1799年)はドイツの物理学者、風刺家だそうです。一流の物理学者として尊敬を集め、ゲーテやカントなど多くの著名人と親交があったそうです。また、樹木状の放電パターンを示す「リヒテンベルク図形」という言葉に、名を留めているそうです。さまざまなリヒテンベルク図形の美しい写真はこちらをどうぞ。リヒテンベルクは、彼が「控え帳」(Sudelbücher)と読んだノートに(互の訳では「雑記帳」)、学生時代から死の直前までメモを書き続けました。そのノートは彼の死後に発見されて出版されましたが、その本は大変な話題となって多くの人に読まれ、さまざまな思想家に影響を与えたそうです。邦訳は平凡社ライブラリーで出版されていたようです(『リヒテンベルク先生の控え帖 』、池内紀訳、平凡社、1996年)。で、その『控え帳』のなかに、「私が考える[ich denke]と言ってはならず、稲妻が走る[es blitzt]と言うのと同じように、それが考える[es denkt]と言わねばならない」という言葉が書かれているそうです。
互盛央『エスの系譜  沈黙の西洋思想史』講談社、2010年。

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2010/12/30

【精神医療】教職員の休職、校長がなんと1年半後までの診断書を要求

 教職員5458人、心の病で休職=17年連続増、過去最多-文科省(時事通信:2010/12/24-17:09)という記事が出ていました。教職員の方々のストレスの増大は、大変なことと思います。しかしぽん太は、以前に以下のような体験をしたので、ご報告しておきたいと思います。

 何年も前のことですが、公立高校の先生が受診なさいました。精神的な原因により、教員としての仕事をすることができないとのことでした。診察すると確かに精神疾患に該当し、現状では勤務が不可能で、休職もやむを得ない状態でした。ところが、その方が受診したのは11月だったのですが、翌々年の3月まで働けないという診断書を書いて欲しいと言うのです。「翌年」の3月ではありません。「翌々年」の3月(約一年半後)です。普通、精神疾患の診断書というのは、1ヶ月とか2ヶ月、長くても3ヶ月が普通です。医学的にも翌々年の3月(約1年半後です)までの病状は予測できないので、そんなに長期間の診断書を書くことはできないことをお伝えしましたが、代わりの教員を採用するために「翌々年」の3月までの診断書が必要で、校長からも指示されたとのことでした。そこでぽん太は直接校長先生に電話をかけたのですが、校長先生のおっしゃるにも、手続き上必要なので、どうしてもそのような診断書を出して欲しいとのことでした。どうすべきかぽん太は悩みましたが、公立高校の校長先生がそうおっしゃるのなら、理屈は通らないけど手続き上必要なのだろうと、診断書をお出しすることにしました。

 まさかというか、やっぱりというか、その先生はその後当院を受診することはありませんでした。

 公立高校の独自の制度があるのでしょうが、その業界内の制度で、周囲を振り回さないで欲しいです。精神疾患の1年半後の病状を予測しろという制度は、科学的におかしいのではないでしょうか。身内の特異な制度に従うように医師に要求するのではなく、自分の制度を、一般常識や科学に合致するように変更して欲しいものです。

 1年後、その先生が再び受診なさいました。また1年半後までの休職の診断書を書いて欲しいとのご希望でした。ぽん太が今度はお断りしたことは言うまでもありません。

 今年の最後がグチみたいな記事で申し訳ありません。ぽん太はこの休みは南フランスに行ってきます。戻ってきたらご報告もうしあげます。みなさん、よいお年を!

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