カテゴリー「芸能・芸術」の702件の記事

2018/06/20

【舞台】もっと斜面を!『斜面』小野寺修二×首藤康之

 にゃん子が「首藤見たいにゃ〜、見たいにや〜」と鳴くので観に行ってきました。公式サイトはこちらです。

  小野寺と首藤のコラボは、『空白に落ちた男』と『シレンシオ』は観たかな。『ジキルとハイド』は観てない気がします。
 こんかいのタイトルは『斜面』。これはぽん太にはマニアックすぎました……。
 東京芸術劇場は、コンサートホールやプレイハウスは何度も来てるけど、シアターウェストは初めて。ハコの小ささにびっくりする。集客力ないのね……。
 舞台上のセットは、上手の急な斜面と、下手舞台奥のなだらかな斜面からなるミニマルなもの。この「斜面」がどのように使われるんだろう、とワクワクしていたのですが、ちと期待はずれでした。
 なだからな斜面は、ほぼ人物の出入りに使われるだけ。急な斜面は、何度か駆け上がったり下がったり、途中で止まったり、一回人がずり落ちてきたりしたのですが、あんまい有効に使われているとは思えませんでした。

 斜面があることで、どのような新たな動きが人間に生じるか、その身体性みたいなのを見たかったな〜。

 そういう意味では、ぽん太が一番面白かったのは、小野寺が急斜面の上で椅子に座ろうと試みる場面。人間の身体や重心のバランスに関して、新鮮な体験をすることができました。

 とはいえ、いつもながら不可思議な小野寺ワールドを堪能いたしました。

 初めて観た雫境(だけい)さん、 聾の舞踏家とのこと。冒頭のソロや、ギョロ目をむいたときのヤ◯ザみたいなど迫力、良かったです。
 首藤も、ライトを持ってのダンス、短かったけど良かったです。皆が体重を支え合っての動きみたいなのは、バレエの振り付けから取った動きか?王下、藤田のレギュラー陣も活躍。
 小野寺はいつものがらうまいです。お面をかぶった役人みたいなのも、カフカ的な雰囲気がありました。


「斜面」
小野寺修二×首藤康之

東京芸術劇場 シアターウェスト
2018年6月17日

作・演出 小野寺修二
出演 首藤康之、王下貴司、雫境、藤田桃子、小野寺修二

企画 サヤテイ NAPPOS UNITED
主催 NAPPOS UNITED カンパニーデラシネラ

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2018/06/07

【舞踏】若手への転生 『卵を立てることからー卵熱(リ・クリエーション)』山海塾

 ぽん太とにゃん子のお気に入りの山海塾、観に行って参りました。日曜だったせいか席もほどんど埋まってました。山海塾の公演ではお馴染みの「指定席解除」でも、ほとんど詰める余地はなかったですね。世田谷パブリックシアターの公式サイトはこちらです。

 下は、北九州芸術劇場提供の動画です。

 ぽん太が前回『卵熱』を観たのは2009年、東京芸術劇場中ホール。こんかいは「リ・クリエーション」とうたってますが、前回とどこが違うのがちっともわかりません。
 ぽん太にもわかる大きな違いは、天児牛大と蟬丸が出演しないということ。会場に着いてから初めて知りました。
 そういえばどっかのインタビューかなんかで、天児牛大が、「いつまでも同じ舞踏手がやるのではなく、新しい人を入れていく必要がある」みたなことを行ってた気がします。観客としても、おじさんの枯れた肉体もいいですが、若者のピチピチした身体も見たいところ。

 で、見た感じ、新陳代謝は成功しているようで、山海塾の世界を満喫することができました。ヘンテコな動きなのに、西洋のバレエを見ているより親近感を感じるのは、日本人の「身体性」というものか。

 ただ、ぽん太は、天児牛大だけは、他の舞踏手と体の使い方が違うと思ってました。群舞(?)の方は、体をゆらゆらとくねらせて、水中生物のような、あるいは自動機械のような動きであるのに対し、天児はすっくと背筋を伸ばし、武道のような雰囲気があり、なによりも「魂」が宿った人間に見えます。こんかいのソロ(?)(お名前がわかりませんが……)には、そういったところは感じられませんでした。
 また群舞の方も、ときおり「普通」の動きが見られました。蝉丸のようなオーラはまだありませんが、こればかりは年月を積み重ねて獲得するしかないのでしょう。


山海塾
『卵を立てることからー卵熱(リ・クリエーション)』

世田谷パブリックシアター
2018年6月3日

演出・振付・デザイン 天児牛大
音楽 YAS-KAZ、吉川洋一郎
演出助手 蝉丸
舞踏手 竹内晶、市原昭仁、松岡大、石井則仁、百木俊介、岩本大紀

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2018/06/01

【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(3)当時の精神医療

 鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)の拾い読み、今回でラストです。

 今回は、ニジンスキーと当時の精神医療についての拾い読みです。

 ニジンスキーの性的初体験は娼婦が相手であり、彼はその後も娼婦を買うという習慣を捨てませんでした。しかも初体験の相手から淋病を移されたらしい。そのときニジンスキーは18歳ですから、1908年のことか。世界初の抗生物質のペニシリンが発見されたのが1928年ですから、まだろくな治療法もなかった時代で、治すのに苦労したようです。
 性病といえば、ニジンスキーが晩年に精神病になったことと関連して、梅毒にはかからなかったのかという疑問がわいてきます。
 梅毒の原因である梅毒トレポネーマは、1905年シャウディンとホフマンによって発見されました。翌年1906年にはワッセルマンが、梅毒の感染を検出するワッセルマン反応を発明。梅毒は症状も独特ですが、この時点で診断もかなり精度があがりました。梅毒の治療に関しては、1910年にサルバルサンが発明されました。1928年には抗生物質第一号のペニシリンがフレミングにより発見され、1940年代には広く使われるようになりました。
 ということは、ニジンスキーの時代には梅毒は診断も治療も可能だったことになりますから、ニジンスキーが梅毒で精神障害を起こしたという可能性はなさそうですね。


 1917年にサンモリッツに移ったニジンスキーは、初めこそ精神状態が改善したように見えましたが、次第に舞踊に対する関心を失い、かわりにパステルや木炭による抽象画に熱中するようになりました。これらのデッサンとユングのマンダラの関連性を、鈴木晶氏は指摘しております。
 ちなみにユングは、1875年、スイスの生まれ。チューリヒ大学のオイゲン・ブロイラーの元で学んだあと、フロイトに接近し、1911年には国際精神分析協会の初代会長となりました。しかし1914年にはフロイトと決別し、「心理学クラブ」を設立して分析心理学の確立に集中するようになりました。
 フロイトから次第に離れていく1912年から1916年ごろ、ユング自身がかなり精神的に不安定な状況になったのですが、この時彼は自分の深層心理に導かれて、重なり合った円のような図形を書き続けました。また自分以外にも、回復期の患者がしばしば同様な図形を描くことに気づきました。1928年に中国の錬金術の本を読んでマンダラを知るとそれに夢中になり、1929年に『黄金の華の秘密』という本を出版します。ユングにとってマンダラは、集合的無意識の現われとしてたいへん重要な概念になっていきます。
 ユングが直接ニジンスキーを診察したことはなかったようですが、なんかふたりの間にシンクロニシティーを感じますね。


 ニジンスキーが、1919年の「最後の踊り」の日から一ヶ月半にわたって書き記した『手記』は、鈴木晶氏の訳で完全版が出版されております(『ニジンスキーの手記 完全版』(新書館、1998年)。読んでみると、完全に統合失調症の幻覚妄想状態ですな。この本のみちくさはまたの機会に。


 サンモリッツには、リゾート客を相手にしていたフレンケルという内科医がいましたが、若いころチューリヒ大学でオイゲン・ブロイラーの講義を聴いて以来、精神分析に興味を持っていたこともあり、ニジンスキーの主治医となって素人精神分析を施し、またニジンスキーの妻ロモラと不倫関係になっていたらしいです。『手記』の混乱したように見える記述には、フレンケルの影響があるのかもしれません。


 ブロイラーに関しては、ドイツ語のウィキペディアが詳しいです(Eugene Bleuler-Wikipedia)。1857年にチューリヒの近くで出生。チューリヒ大学の医学部を卒業し、精神医学を志す。博士号を取得し、留学などを経て、1884年から1885年頃にチューリヒ大学医学部の精神科病院ブルクヘルツリの医員となり、1886年からライナウの精神科病院の院長、そして1898年にはブルクヘルツリ院長、チューリヒ大学医学部精神科の教授となりました。1900年から1909年まで、ブルクヘルツリにユングが勤務していたことは知られております。
 ということで、フレンケルがブロイラーの講義を聞いたのは1898年以降と推定されますが、それ以前にブロイラーがチューリヒ大学の講義を受け持っていた可能性もあります。
 ブルクヘルツリは現在も、チューリッヒ大学医学部の精神科病院として機能しております(Burghölzli-Wikipedia英語版)。場所はここです(google map 3D写真)。美しい建物ですね。


 1919年3月、ニジンスキーは妻に伴われてブルクヘルツリを訪れ、ブロイラーの診察を受けます。ブロイラーのカルテには次のように書かれていたそうです。

 彼は精神病と診断されることを怖がっていて、私の質問に対して、ほとんど洪水のような言葉で答えるのだが、あまり内容はなく、言い抜けやはぐらかしが見られた。彼は私に、精神病の人をどうやって見分けるのかといったことをしつこく尋ね、自分は妻がどう反応するかを試すために、妻の前では精神病のふりそしているのだ、それで時どきじっと部屋の隅を見つめたりするのだ、と説明した。妄想に関してはいっさい情報を提供するまいと防衛していた。明らかに以前は知能が非常に高かったと思われるが、いまは軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症である。

 このあたりの記述は、アメリカの精神科医オストウォルドの『ヴァーツラフ・ニジンスキー 狂気への跳躍』(Peter Ostwald, Vaslav Nijinsk: A Leap into Maddness, A Lyle Stuart Book, 1991)に基づいているようです。邦訳はありませんが、アマゾンで原書を購入できます。ぽん太も一応購入手続きをしてみましたが、読む元気があるかどうかはわからないです。Ostwaldってどっかで聞いたと思ったら、『グレン・グールド伝―天才の悲劇とエクスタシー』の著者ですね(こちらは邦訳あり)。
 上記の引用の中で、「軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症」という表現に関し、鈴木晶氏はオストウォルドの見解どおり、「躁鬱病である可能性も否定できないが、おそらく統合失調症だろう」という意味にとっています。しかしぽん太には、ちょっと陽気で多弁な状態の統合失調症だったように読めます。このあたりは原書を読んで見ないとなんとも言えないですね。
 ブロイラーは、ニジンスキーの妻ロモラに、環境のよい高級私立病院のベルヴューへの入院をすすめました。また離婚も勧めたそうで、鈴木氏はロモラを「結婚の義務から解放してやるべきだと考えた」と書いておりますが、「ロモラと一緒にいることがニジンスキーにとってよくない」と考えたからかもしれず、ぽん太には判断がつきません。
 ニジンスキーとロモラはホテルに戻りましたが、その晩にホテルでトラブルを起こし、ブルクヘルツリに緊急入院させられました。そして2日後にベルヴューに転院になりました。ブルクヘルツリでの診断は(そしてベルヴューでも)カタトニー(緊張病)だったそうです。オストウォルドは現在ならば「自己愛性人格における統合失調感情障害」と診断されるだろうと書いているそうですが、緊張病の興奮と昏迷と、統合失調感情障害の躁状態とうつ状態は、全然異なるものなので、混同されるとは思えません。もっともぽん太はブロイラーの時代の診断体系には詳しくないので偉そうなことは言えませんが、ここもちょっと疑問に思えるところです。
 というか、書いたばかりのニジンスキーの『手記』を読めば、躁鬱病ではなく統合失調症であることは一目瞭然のはずですが、『手記』はロシア語で書かれておりましたし、ロモラとしては他人の目に触れさせたくないことも書いてありましたから、この時はブロイラーが読む機会はなかったのでしょう。


 1919年にニジンスキーはベルヴューに入院しました。ベルヴュー(Sanatorium Bellevue )は、ビンスワンガー家が4代にわたって運営した個人精神科病院で、ニジンスキー入院時の院長は、現存在分析の創始者のルートヴィヒ・ビンスヴァンガーでした。もっとも彼が現存在分析を確立したのは1930年代から40年代のことですから、もっとあとの話です。というか、ビンスヴァンガーはちょうどニジンスキーとの関わっている時期に、現存在分析を確立していったことになります。
 ベルヴューは、ルートヴィヒのあと、息子のウォルフガング・ビンスヴァンガーが後を継ぎましたが、財政の事情から1980年に閉院しました。場所はたぶんこの辺ですね(googe map 3D写真)。建物の多くは現在は建て替えられてしまっているようです。
 ビンスヴァンガーは病院のなかで、外部からの客も集めて、ニジンスキーのダンス・リサイタルを開いたそうです。またビンスヴァンガーは、妻との再会が良い効果をもたらすだろうと考え、妻と外泊させたりしました(ブロイラーの考えとはちょっと違うのが面白いですね)。


 その後、ニジンスキーの病状はいろいろと変化し、様々な症状が出たようですが、精神科医からみて統合失調として普通の経過、普通の症状なので、バッサリと省略。


 1920年2月、ロモラはニジンスキーを、ウィーンのシュタインホーフ精神病院に入院させました。
 この病院はウィーンの西部にあり、建築家オットー・ワーグナーの計画に基づいて作られたもので、広大な敷地を擁し60もの建物からなっておりました。現在もオットー・ワーグナー病院として診療を続けているようです。付属施設のひとつであるシュタインホーフ教会は、オットー・ワーグナー自身の設計によるユーゲント・シュティールの建物で、現在でも人気観光スポットとなっております。こちらがgoogle map 3D写真です。
 で、当時この病院の院長だったのがヴァグナー=ヤウレックで、梅毒による進行麻痺に対するマラリア療法を1917年に発明して、1927年にノーベル賞を受賞した人ですね。ほんとにニジンスキーは当時の一流の医師の治療を受けてますよね。


 ウィーン滞在中に、ロモラはフロイトに相談に行ったと書いているそうですが、真偽は不明です。


 その後、1922年か23年ごろ、フランスの高名な医師たちに診てもらったそうですが、具体的な名前はわかりません。


 次はまたまた有名人、深層心理学者、アルフレート・アドラーです。最近は、アドラー心理学を踏まえた『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』などという本が売れてますね。
 ロモラは、1936年に出版されることになる『ニジンスキーの手記』の序文をアドラーに依頼したのだそうです。しかし、出来上がった序文をロモラは気に入らず、今度はユングに依頼しましたが、診察したことがないからと、丁重に断られたそうです。
 スゴイですね。三大深層心理学者コンプリートです。
 で、1934年、ロモラはそのアドラーをつれて、再びベルヴューに入院していたニジンスキーを訪ねます。アドラーはニジンスキーを引き取るつもりでしたが、ニジンスキー本人の同意が得られず、転院はかないませんでした。
 オーストリア生まれの医師アドラーは、フロイトの精神分析学派に加わりますがやがて決別。次第にその名声は世界に知れ渡り、アメリカとヨーロッパで半々過ごしながら、世界各地を飛び回る生活でした。しかしアドラーはユダヤ人だったので、ナチスの台頭により、1935年にアメリカに移住をしております。


 ロモラは何かよい治療がないかと、あちこちの病院や大学を訪れ、手紙を書いたそうですが、インシュリン・ショック療法を選びました。アメリカの医師、マンフレート・ザーケルが始めた治療法で、患者にインシュリンを注射し、一定時間、低血糖の昏睡状態に置くというもので、事故死の可能性も否定できませんでした。
 1937年8月、ロモラはザーケル自身を連れてベルヴューへ乗り込みました。しかし精神病を人間的現象として捉えるビンスヴァンガーはこの治療法を拒否。それでも翌1938年7月、ロモラの強い要望の結果インシュリン・ショック療法が開始されました。
 2ヶ月後、目覚ましい改善が見られた、とロモラとザーゲルは思ったのですが、実際はなんの変化もなく、ビンスヴァンガーはこれ以上インシュリン療法を行うことを禁止。そこで12月、ニジンスキーは、ビンスヴァンガーの親友マックス・ミューラーが院長をつとめるミュンシンゲンの州立病院に転院し、そこでインシュリン療法を続けることになりました。
 ミュンシンゲンの州立病院とはこちらでしょうか(Psychiatriezentrum Münsingen - E
Wikipediaドイツ語版
, google map 3D写真)。マックス・ミューラー(Max Müller)はぽん太は聞いたことありませんが、ドイツ語のWikipediaを見ると、のちにベルン大学の教授になったようです。
 ニジンスキーのインシュリン療法は翌1938年6月まで続けられ、ベルヴューと通算228回施行されましたが、莫大な医療費とは裏腹に、さしたる効果はありませんでした。


 何回か入退院を繰り返したのち、ミュンシンゲン病院に入院していたニジンスキーを、1945年3月12日、看護人がロモラのところに連れてきました。敗走するドイツ兵が、精神病院の患者を全員処刑するように命令したというのです。やがてソ連軍が進駐してくると、そこにロシアの英雄ニジンスキーがいることを知って驚いたそうです。
 ところが、気さくなロシア兵と接するうちに、ニジンスキーの病状がみるみる改善し、感情が戻ってきて、自分から話しかけたりするようになったそうです。
 それを見たロモラは、精神科医の指示があったとはいえ、これまで自分たちがニジンスキーにしてきたことは間違っていたのではないかと思ったそうです。何十年間にわたって行ってきた治療よりも、数週間の粗野なロシア兵の扱いの方が、ニジンスキーの病気にはるかに良い効果を与えた。私たちはニジンスキーを外界から引き離し、独房に閉じ込めきただけだった。このことに関して、いまでも決して自分を許すことはできない。


 1950年4月8日、ニジンスキーは「慢性腎炎による尿毒症」により死去。


 その2年後の1952年、最初の抗精神病薬クロルプロマジンが発見され、以後、精神医療は薬物療法の時代に入ります。それによって精神病患者は、これまでとはまったく異なる良好な経過を辿ることが可能になりました。
しかし上のロモラの告白は、現在であっても、精神障害に関わる者が決して忘れてはいけない真実を含んでいるとぽん太は思います。

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2018/05/31

【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(2)病歴のまとめ

 鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)の拾い読み、今回はニジンスキーの精神障害に関する部分です。


 今回は、ニジンスキーの病歴を、医学レポートの形式でまとめてみました。

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病歴報告書
東京都多摩地区狸の穴1番地
どうぶつ精神科病院
医師:ぽん太


【氏名】ヴァーツラフ・フォミッチ・ニジンスキー(Вацлав Фоми́ч Нижи́нский)
【性別】男性
【生没年月日】1890年3月12日〜1950年4月8日
【診断】統合失調症
【既往歴】帝室舞踊学校時代(1898〜1907)に転倒事故にて4日間の意識不明となり生死をさまよい、2ヶ月間入院(後遺症はなし)。
18歳ごろ淋病。5ヶ月ほどで改善。
【家族歴】兄、妹がいる。兄は幼少時からぼんやりしたが、精神障害を発症して入院歴もあり、第二次対戦中に病院内で自殺。また祖母がうつ病で自殺?。
【生活歴】1889年3月12日にウクライナのキエフで出生。両親はポーランド人のバレエ・ダンサー。幼少期は活発で冒険好きで机に向かうことが苦手など、多動傾向が認められた。また言語コミュニケーションが苦手だった。
 1898年、帝室舞踊学校に入学。舞踊技術は優れていたが、陰湿ないじめに会う。いじめのなかで転倒し、上記のように4日間の意識不明となり生死をさまよう。
 1907年、帝室舞踊学校卒業と同時にマリインスキーバレエ団に入団し、頭角をあらわす。
 1909年、ディアギレフが旗揚げしたバレエ・リュスに加わって大活躍し、振付家としても革新的な振り付けにより高い評価を受ける。この頃、気に入らないことがあると興奮して大声でわめくことがしばしばあった。
 1913年、ハンガリー人の女性と結婚。これが原因となりバレエ・リュスを解雇されたため、1914年、自分の一座を組んで公演を行うがうまくいかず、強いストレスを受ける。
【病歴】この頃から、ちょっとしたことで大声を出し、だだをこねるように転げ回ったり、他人に殴りかかるなどの行動が見られるようになった。その後抑うつ状態となり、不眠、思考力低下、易疲労感、情動不安定、不安・抑うつなどがみられ、稽古もできずに横になっている状態となったが、数ヶ月で軽快。1916年からはバレエ・リュスに復帰し、全米ツアーなどに参加。だがここでも癇癪を起こすことが多かった。また友人の影響でトルストイ主義に心酔し、菜食主義となり、ロシアの農民服を着用し、コール・ド・バレエに主役を踊らせるなどした。
 1917年、スイスのサンモリッツに転居。当初は心身ともに回復したようだったが、1918年にはバレエへの興味を失い、マンダラのような抽象画を描きまくるようになる。精神分析に興味を持つ内科医フレンケルと知り合う。
 1919年1月19日、サンモリッツのホテルにて私的なダンス・リサイタルを開くが、かなり前衛的なもので、途中で第一次大戦についての説教をするなどした。
 この日から2ヶ月間、『手記』の執筆に没頭。絵に対する興味はなくなり自分のデッサンをしまい込む。『手記』は極めて混乱しており、妄想的な内容であった。この頃から言動が誰の目にも「異常」と映るようになり、家に閉じこもったり、家族に暴力を振るうなどしたため、フレンケルはオイゲン・ブロイラーにニジンスキーを紹介した。
 1919年3月5日、チューリッヒのブルクヘルツリ病院でブロイラーの診察を受ける。軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症と判断し、同病院では監禁的処遇しかできないため、クロイツリンゲンにあるベルヴューという私立のサナトリウム(院長がビンスヴァンガー)への入院を勧めた。その日の夜、ホテルで騒ぎを起こし、ブルクヘルツリ病院に強制入院となり、2日後にベルヴューに転院となった(ブルクヘルツリの最終診断はカタトニー(緊張病))。
 ベルヴューでは開放的な環境で治療を受けたが、症状は緊張病性の興奮と昏迷を繰り返し、指を目につっこむといった自傷行為や、幻聴も認められた。
 同年7月、妻が来院し、患者の退院を執拗に要求。退院できる状態ではないことを説明したが納得せず、地元の保健所と相談の上、「サンモリッツに患者のために特別な部屋を用意すること、自殺に使えるものを一切置かないこと、経験ある看護人2名が24時間患者を監視すること、精神科医の監視下に置くこと」という条件のもと、7月29日に退院となった。
 しかし約束が十分守られなかったため、12月3日にベルヴューに強制入院となる。病状はかなり悪化しており、暴力を振るったり、床に排泄するなどした。
 1920年2月、妻の転居に伴いウィーンのシュタインホーフ精神病院に転院。この間、妻がフロイトに相談に行ったというが、真偽は不明。
 1922年、同院を退院し、ブダペストの妻の実家に戻り、その後さらにパリに転居。フランスの高名な医師の診察を受けるが改善はみられず。
 1926年、妻がアメリカに渡ったため、妻の姉と看護人が面倒をみたが、道で他人に危害を加えたり、体を出血するまで引っ掻くなどの自傷行為がみられたため、私立の精神病院に入院。退院後、自宅で劣悪な条件で監置される。
 1929年4月、ベルヴューのスタッフが苦労して移送し、ベルヴューに3度目の入院。病状は進行していて、興奮は見られなかったが、外界への興味を失い、ぼうっと座って過ごすことが多かった。
 1934年、妻がアドラーを伴ってベルヴューを訪問。転院を試みるが、本人の同意が得られずにあきらめる。
 この年と翌年に2回の心臓発作。
 1938年、ザーケル医師が自らベルヴューを訪れ、病院内でインシュリン・ショック療法を行う。2ヶ月間行うが、効果なし。
 同年12月、ベルヴューの院長ビンスヴァンガーがインシュリン・ショック療法を禁じたため、効果を信じる妻の希望でミュンシンゲンの州立病院に転院し、インシュリン・ショック療法を継続。
 1939年、インシュリン・ショック療法を計128回行うが、効果は見られず終了となる。ミュンシンゲン病院を退院。
 1940年、ミンシュンゲン病院に再入院。夏、妻の実家のブダペストに移るが、暴力が手に負えず、1942年に私立のサナトリウムに入院。5月、膀胱炎と痔の治療のためブダペストの公立病院に入院。一度退院したが、再度入院。
 1943年、ウィーンの聖ヨハネ病院に入院。
 1945年3月24日、ドイツ軍から精神病患者を全員処刑するよう命令が下ったため、看護人が機転をきかせて患者を妻の疎開先に連れて行く。
 妻とともにウィーンに転居。
 1947年、ロンドンに転居。1948年、ロンドン郊外に居を構える。
 1950年4月4日、ベッドから起き上がれなくなり、ロンドンの私立クリニックに救急搬送。4月8日に死去(死因、慢性腎炎による尿毒症)。

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2018/05/30

【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(1)ダンサー編

 ちょっと前のことですが、ぽん太はハンブルク・バレエの来日公演でノイマイヤーの「ニジンスキー」を観て、いたく感激したのでした。

【バレエ】「ニジンスキー」ハンブルク・バレエ2018年日本公演

 しかし、実はぽん太はニジンスキーをあまり知らなかったので、バレエを見ていてよく解らないところがありました。それではというわけで、鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)を読んで勉強してみました。

 バレエ会場でたびたびお見かけする著者の鈴木晶氏は、バレエ研究家であると同時に、精神分析にも造形が深いので、バレエファンの精神科医であるぽん太は、とても面白く読むことができました。特にニジンスキーが精神病になって踊るのをやめてからの部分が興味深かったです。

 いつものように、ぽん太が興味を持ったところの拾い読みです。興味を持った方はぜひご自身でお読みください。

 こんかいはダンサーとしてのニジンスキーについて。病気に関しては、稿を改めます。


 なんとベジャールもニジンスキーを題材にしたバレエを振り付けているそうな。初演は1971年、タイトルは「ニジンスキー・神の道化」、主役はジョルジュ・ドン。第一部(バレエ・リュスのニジンスキー)と第二部(神のニジンスキー)に分かれていて、第一部にはバレエ・リュスの作品の断片が組み込まれ、第二部には彼の狂気と死が描かれていたそうで。ノイマイヤー版と似てますね。
 これを元にベジャールは、1990年に同じタイトルのバレエを発表しました。この作品では、『ニジンスキーの手記』の朗読が大部分を占めていたそうです。またクライマックスでは、ニジンスキー役のドンが赤い布を舞台上に十字架の形に置き、その上に立つそうですが、これもノイマイヤー版と重なりますね〜。
 ということは、ノイマイヤー版「ニジンスキー」はベジャール版を踏まえており、ベジャール版を観ずしてノイマイヤー版を理解することはできないと思われます。でも、ちょと探してみたのですが、DVDは見つかりませんでした。
 しかし、何と、youtubeで見れるじゃyないですか!(https://www.youtube.com/watch?v=ROS-jG0qAXU&list=PLl50gigE6yC4XZF_EzqSXNaKvIeZYFTMv)。でも、両者の比較検討はまたの機会に……。


 さて、ディアギレフのバレエ・リュスの旗揚げに際して、ニジンスキーはマリインスキー劇場を辞めて参加しましたが、他にマリインスキー劇場から駆けつけたダンサーの一人、リディア・ロプコワは、後に経済学者ケインズと結婚したそうです(まあ、どうでもいいけど)。


 ニジンスキーはマリインスキー劇場を辞めるため、わざとタイツの上に半ズボンをはかずにステージに立ち、解雇されたそうです。当時の男性ダンサーは、タイツの上に半ズボンを履くのが普通だったんですネ。


 ドビュッシーの「遊戯」が、ニジンスキーの振付第2作であることも初めて知りました。しかもテーマはテニス。若い娘ふたりがテニスをしていると、その様子を茂みの中から伺っていた若者が登場。くどいたり嫉妬したりの諸々があって、最後は仲良く三人でダンス。作曲を依頼されたドビュッシーは、「そんなバカバカしいものに曲を書く気はない」と断りましたが、ディアギレフが倍の作曲料を提示したところ、作曲を承諾したそうです。振り付けは失われておりましたが、復元版があるそうです。これもYoutubeにあるので(https://www.youtube.com/watch?v=lovGVYNKG_I)、そのうち見てみたいと思います。


 第一次大戦中の1917年、スイスのサンモリッツに移り住んだニジンスキーには、次第に精神病の兆候が現れてきます。
 1919年、ニジンスキーは突然「狂気と戦争」をテーマにした作品を踊るためのリサイタルを開きたいと言い出しました。そこで同年1月19日、サンモリッツのスブレッタ・ハウスという名のホテルの大広間でリサイタルが開かれました。観客が二百人ほど集まりましたが、スキーをしにきたリゾート客だったそうです。これが、ノイマイヤーの「ニジンスキー」の冒頭とエンディングで描かれていたものですね。
 スブレッタ・ハウスというのはここですかね(公式サイト)。現在もあるようです。お城みたいなかっちょいい建物です(google mapの写真)。公式サイトの(こちら)のページにニジンスキーのことが書かれているから、ここで当たりのようです。

 実際のリサイタルの様子について、本書にはけっこう詳しく描かれています。ちょっと長いけど引用させていただきます。

 広間の照明が暗くなり、友人のピアニストがピアノの前にすわると、観衆の前にニジンスキーが姿をあらわした。黒い縁のついた白い絹のパジャマのような衣装をつけ、ベルトはせず、白いサンダルをはいていた。
 バレエでは、黒いパジャマ風の上下の上に、白い帯状の布をガウンのようにまとってました。足は裸足だったきがするけど。
彼はピアノに近づいて、何かショパンかシューマンの曲を弾いてくれと頼んだ。だが、曲が始まると、彼は椅子をステージの中央にもってきて、それに腰かけ、手足を少しもうごかすことなく、じっと観衆のほうを見つめていた。(……)我慢できなくなった妻が近寄って、「『レ・シルフィード」か何か、みんなのよく知っている曲を踊って下さい」と頼むと、ニジンスキーは「邪魔をするな!」と怒鳴りつけた。だが、ピアニストがショパンのプレリュードを弾き始めると、その曲に合わせて、ゆっくりと両腕を前方に持ち上げた。指先は上を向き、掌は外向きに、つまり観客の方に向けられていた。次いで彼はその両腕を頭の上まであげ、そしてふいに、関節がばらばらになったかのように、両腕をだらりと垂らした。
 バレでは、ピアノが音を出さぬまま、ニジンスキーは椅子に座り続けていて、妻が声をかけるために近づこうとすると、それを制するように立ち上がり、白い布を取ってピアノの方に歩いていきます。そしてピアノのショパンの前奏曲第20番にあわせて、踊り始めました。しかし本に書かれているような動作はありませんでした。
 彼自身は、そうした腕の動きによって大事なメッセージを観客に伝えることができた、と満足していたが、観客席の間にはざわめきの波が広がり、何人かは席を立った。それを見たニジンスキーはますます緊張したが、ふと、観客を楽しませてやらなければと考え、コミックな踊りを見せた。観客席は和み、ちらほら笑い声も聞こえた。
 バレエでも最初の踊りの後、まばらな拍手がありました。そして再び立ち尽くすニジンスキーに妻が声をかけると、ニジンスキーはこっけいな踊りをはじめ、観客が笑い声をあげておりました。この踊りの途中に、ニジンスキーのレパートリーの様々な登場人物が侵入してきて、狂気の世界へとなだれ込んでゆきました。
だが、またもやふいに彼の気分は変化し、陰鬱で真剣な表情になったかと思うと、白と黒の長い布を一本ずつ床一面に敷き、大きな十字架を作り、その十字架の頂点にあたる所に、十字架にかかったキリストのように両手を広げて直立し、つたないフランス語で、終わったばかりの大戦について、そして大戦で失われた無数の生命について説教を始めた。
 布で十字架を作るシーンはバレエのラストにありますが、これは実話だったんですね。
 さて、ニジンスキーは説教を終えると、「これから戦争の踊りを踊ります。あなたがたが阻止できなかった戦争。あなたがたに責任があるあの戦争の踊りです」と言って、踊りはじめ、やがてあの伝説的な跳躍を見せた。踊りはどんどん激しくなり、彼の凄まじい形相に観客は震え上がり、金縛りにかかったように彼の踊りを凝視していた。ニジンスキーは疲れ果てるまで踊り続けた。これがニジンスキーの「最後の踊り」であった。
 この戦争についての説教、踊りの部分を膨らませて、ノイマイヤーのバレエが作られているのですね。バレエ全体が、ホテルで踊っているニジンスキーの記憶と妄想の世界なのかもしれません。


 ニジンスキーの長女キラは、作曲家・指揮者のイーゴリ・マルケヴィチと結婚したんだそうな。マルケヴィチは一時期ディアギレフの愛人だったこともあるらしいです。

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2018/05/29

【オペラ】(ネタバレ注意)ワーグナーのひ孫がベートーヴェンを破壊!「フィデリオ」新国立劇場

 ★本日の記事にはネタバレがありますので、観劇前の方はご注意ください。

 読み替え演出で何かと物議を醸しているカタリーナ・ワーグナー演出の「フィデリオ」。期待と不安、いや、不安と期待を抱きながら観に行ってきました。

 で、結果はやっぱり×。
 納得できないというか、軽い憤りまで感じました。他のお客さんに関しても、ぽん太は4階席で観てたのですが、数人からブーイングがあがり、またマチネだったにもかかわらず早々に席を立つ人が多かったようです。

 ぽん太は決して読み替え演出が嫌いなわけではありません。ペーター・コンヴィチュニーなども、一時は日本でもよく上演されていましたが、「サロメ」で屍姦の同性愛を舞台上で演じて以来、日本出入り禁止になったのかすっかりご無沙汰しているのを、寂しく思っているひとりなのです。
 コンヴィチュニーの演出は、たしかに奇を衒ってる部分はありますが、楽譜を徹底的に読み込んでその中からアイディアを引き出してくると、どこかのインタビューで言ってました。例えば「サロメ」でヨカナーンが地下から出てくる場面は、たったそれだけなのシーンに実に見事な音楽が作られているので、それに匹敵する演出(サロメのカニバリズム)にしたといいます。

 一方、カタリーナ・ワーグナーの「フィデリオ」はどうでしょうか。フロレスタンとレオノーレが死んで、変装したピツァロが生き残るという読み替えに従えば、ラストの囚人や民衆たちの合唱は、人類愛を歌い上げる歓喜の歌ではなく、騙されてぬかよろこびをしている愚かな人々の歌ということになります。ワーグナーはベートーヴェンの音楽の中に、そうした「愚かさ」を聴き取ったのでしょうか。それとも指揮者がラストの合唱をわざと「愚かに」演奏すべきなのでしょうか。
 たしかにヴェートーヴェンの人間愛は、ちょっとストレートすぎて気恥ずかしく感じる部分もあるのですが、それがベートーヴェンの良さなのであって、それを聞くために我々はオペラやコンサートに足を運ぶわけです。モリカケやらアメフトやらで汚い嘘が横行してる世相の中、馬鹿正直かもしれないけど、まっすぐな愛と心からの歓喜を聴きたいわけです。でもワーグナーは、そういうベートーヴェンの人間性そのものを否定していると、ぽん太には感じられました。

 冒頭の序曲の間に、舞台上のひな壇に敷物をしいたり造化を生けたりするのですが、靴音もうるさいし、序曲に集中できません。こういう演出をしたワーグナーの目的は、観客が序曲を聞くのを邪魔しようというのか、それとも「こんな序曲、真剣に聴く価値ないでしょう」と言いたいのか。

 で、それで、ワーグナーが替わりに持ち出したラストに創造性があるのならいいのですが、牢獄に閉じ込められたフロレスタンとレオノーレが、死につつも愛を確かめあうというものでは、「アイーダ」や「トスカ」、バレエの「白鳥の湖」の焼き直しです。ひいては「トリスタンとイゾルデ」の愛の死ですから、結局はひいお爺ちゃんの遺産の利用かい、と突っ込みたくなります。

 その他、細かい突っ込みどころはいろいろありますが、遠慮しておきたいと思います。


 演奏は、飯守泰次郎指揮の東京交響楽団。なかなか良かった気がします。聞き慣れた「レオノーレ序曲」第3番でいうと、飯守さんにしては早めのテンポで、ドラマティックで若々しい演奏でした。でも、その時に舞台で行われているのがアレですからね。
 今期で芸術監督を辞する飯守さん。オーソドックスな演出の方が好きそうな気がします。最後の指揮だったのにちょっとがっかりしているのではとなどと、少々心配になりました。恒例の解説動画もこんかいはなかったし……。

 歌手陣もなかなかのできで、特にフロレスタンのステファン・グールドが素晴らしく、第2幕の最初のGott!の咆哮が圧巻。会場全体が緊迫感に包まれました。
 いつもながら新国立劇場合唱団もお見事で、囚人の合唱や、ラストの民衆の歓喜の歌など、(目をつぶって聴いていると)とても良かったです。

新国立劇場 開場20周年記念特別公演
オペラ「フィデリオ」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

2018年5月24日
新国立劇場 オペラパレス

特設サイト

作曲:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
台本:ヨーゼフ・フォン・ゾンライトナー、シュテファン・フォン・ブロイニング、ゲオルク・フリードリヒ・トライチュケ
指揮:飯守泰次郎
演出:カタリーナ・ワーグナー

キャスト
ドン・フェルナンド:黒田博
ドン・ピツァロ:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
フロレスタン:ステファン・グールド
レオノーレ:リカルダ・メルベート
ロッコ:妻屋秀和
マルツェリーネ:石橋栄実
ジャキーノ:鈴木准
囚人1:片寄純也
囚人2:大沼徹

管弦楽:東京交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団

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2018/05/17

【文楽】『本朝廿四孝』のストーリーが分からニャイ!!2018年5月国立劇場第一部

 玉助襲名披露の5月文楽は、口上のある第一部を観劇。

 口上は、例によって面白おかしい裏話などが披露されました。玉男さんの時と比べると、ちょっと人数が少なく、時間も短めで、太夫さんや三味線さんのご挨拶はありませんでした。
 あと、咲甫太夫がいつのまにか織太夫という名前に変わっていてびっくり。調べて見ると、今年の1月に大阪の国立文楽劇場で襲名されたようです。東京では何の襲名披露もないものなんですね。


 その襲名披露狂言は『本朝廿四孝』。歌舞伎では「十種香」や「奥庭狐火」が上演されますが、今回は三段目の山本勘助誕生にまつわるストーリーらしく、まったく観たことがありません。とうぜん八重垣姫も登場しない様子。
 あらかじめチラシの「あらすじ」を読んでみたのですが、まったく理解できず。「まあ、実際に見ればわかるだろう」と甘い考えで臨んだのですが、意表をつく物語展開と、「実ハ」の連続で、何がなんだかさっぱりわからず。お客さんでストーリーを理解できた人は2割ぐらいじゃなかったんでしょうか?
 思いがけない人物が出てきて何か言いだすと、「なんじゃ?この展開は」とぽんたの目は点。客席も何だなんだとざわつき、「だははは」と諦めの笑いが起きたりします。「私は実は○○だ〜」とか言って、服装が変わって出てくるのですが、残念なことに文楽は、人間が演じる歌舞伎と違って、頭(かしら)がみな似てます。服装が変わると元は誰だったのかわからないという始末。
 仕方ないからパンフレットでも買おうかとも思いましたが、節約、節約。あとで調べたり考えたりして、ようやく7割くらいは理解できました。

 それでも部分ぶぶんはなかなか良くって、特に「勘助住家の段」で、雪が降りしきる門の外に置き去りにされた我が子の鳴き声を聞いたお種が、閉ざされていた門を最後には打ち破って我が子を抱きしめるシーンは圧巻でした。「凍え死のうが助けてはならない」という夫の言いつけに背き、門に体を打ち付けるお種のに、理性を超えた本能としての母性愛の凄まじさを感じました。

 「二十四孝」は、元々は中国の24人の孝行者のお話で、元の時代以降に成立したとされているそうです。『本朝廿四孝』は、それを踏まえて近松半二らが脚本を書き、明和3年(1766年)に初演された作品です。
 真冬に筍を食べたいと言った母親のために、天に祈りながら雪の中を掘っていたら、雪が溶けて筍がいっぱい出てきたという、呉の孟宗の話は有名で、本日の狂言にも取り入れられてましたネ。「孟宗竹」という名前の由来にもなっているそうです。

 最後は「道行初音旅」。太夫さんと三味線さんが舞台上のひな壇にずらりと並んでました。こういうのもアリなんですね。明るく華やかな狂言でした。勘十郎さんが今回も狐を熱演。なんか真面目な顔でやってるから面白いな〜(当たり前だけど)。歌舞伎と違って逸見藤太(はやみの とうた)が出てきての立ち回りはなし。

平成30年5月文楽公演
2018年5月
東京・国立劇場 小劇場

2018年5月16日観劇

公式サイト

『本朝廿四孝』

桔梗原の段
  口:芳穂太夫
    團吾
  奥:三輪太夫
    團七
五代目吉田玉助襲名披露 口上
景勝下駄の段
    織太夫
    寛治
襲名披露狂言
勘助住家の段
  前:呂太夫
    清介
  後:呂勢太夫
    清治

高坂妻唐織:簑二郎
越名妻入江:一輔
慈悲蔵 実は直江山城之助:玉男
一子峰松:簑悠
高坂弾正:玉輝
越名弾正:文司
女房お種:和生
百姓正五郎:玉路
百姓戸助:和馬
長尾景勝:玉也
勘助の母【勘助住家(前)まで】:勘十郎
横蔵 後に山本勘助:幸助改め 玉助
勘助の母【勘助住家(後)から】:簑助
奴:大ぜい
家来:大ぜい


『義経千本桜』

道行初音旅

静御前:咲太夫
狐忠信:織太夫
 ツ :津國太夫
    南都太夫
    咲寿太夫
    小住太夫
    亘太夫
    碩太夫
  レ:文字栄太夫
    燕三
    宗助
    清志郎
    清馗
    清丈
    友之助
    清公
    清允
    燕二郎

静御前:清十郎
狐忠信:勘十郎

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2018/05/13

【バレエ】ため息つくほどじゃないけど素晴らしい公演でした。『ヌレエフ・ガラ』ウィーン国立バレエ団2018来日公演

 今回のウィーン国立バレエ団の来日公演は、「海賊」はパスして「ヌレエフ・ガラ」だけ鑑賞。
 GWの海外旅行の時差ボケと、鼻風邪とで頭がぼーっとし、時おり意識消失していたので偉そうなことは言えませんが、感動!というほどではないけど、演目も渋くてよく練られていて、なかなか良い公演だったと思います。
 ヌレエフというとパリ・オペラ座を思い浮かべるけど、亡命後の1964年にウィーン国立バレエ団で自ら振り付けた『白鳥の湖』を踊ったのをきっかけにウィーンを活躍の場とし、のちにはオーストリア国籍を取得。ヌレエフ/ウィーン国立バレエ団の『白鳥』の動画は、こちら(Youtube)で全幕見ることができますヨ!

 今回のガラは、演目がたくさんで初めて見るものも多かったので、あんまり記憶してませんが、備忘録として感想を書き留めておきます。お目汚しご容赦ください。

 『Opus 25』。ショパンのエチュードのピアノ生演奏で、振り付けのエノ・ペチが自ら踊ります。ピアニストの椅子の端っこに腰掛けたりして、ちょっと雰囲気があってよかったです。

 『ヨゼフの伝説』より。30代の若きノイマイヤー振り付けの作品。旧約聖書の物語がオリジナル。今回演じられたのは、ポティファルの妻がヨゼフを誘惑するシーンか?ふんどし一丁みたいな衣裳が衝撃的。しかも最後は何と男性が裸に!?その瞬間、にゃん子がオペラグラスを手にしたのをぽん太は見逃さなかった。

 『ソロ』というタイトルですが、三人の男性の踊り。ちょっとコミカルです。木本全優くん、なかなかいい体してますね。踊りも良かったです。

 『ベール・ギュント』。若い恋人たちのラブラブな踊り。雰囲気はありましたが、バレエらしい動きはあんまりなかった気がします。

 さておまちかね、ルグリ先生がツィンバルと大人の雰囲気たっぷりに『ランデヴー』を踊りました。これ、前にもどこかで見たな。音楽は有名なシャンソン『枯葉』……というのは実は不正確な言い方で、もともとジョゼフ・コズマがこのバレエのために1945年に作った曲。翌年ジャック・プレヴェールが詞を加え、マルセル・カルネの映画「夜の門」の挿入歌として使われたものがヒットし、 『枯葉』というシャンソンの名曲として知られるようになりました。この『ランデヴー』の方がオリジナルというわけです。これ、豆知識な。
 ルグリ先生、まだまだ踊れますね。こういう雰囲気を一瞬で作り出す技は見事としか言いようがありません。

 『シーニュ 白鳥』。もしも白鳥がジャンキーだったら……なんて設定のわけないよね。六本木の路地裏の瀕死の白鳥か?映像が使われたりして、衣装の羽もなんか変。子役の少年の動きもバレエらしくありません。なんかぽん太は好きくない。

 『コンチェルト』。マクミラン振り付けの美しい抽象バレエ。ってゆーか、ショスタコーヴィチががこんな叙情的な曲を書いてたとはしらなんだ。ラフマニノフかと思ったぜい。ピアノ協奏曲第2番ってくらいだから初期の作品かと思ったら、1957年、51歳の作ですね。先日のノイマイヤーの「ニジンスキー」で使われてた交響曲第11番の前年。ショスタコーヴィチも芸域が広いんですね。ぽん太はそっちに食いつきました。

 『赤のジゼル』は、ロシアの偉大なバレリーナで、のちに精神を病んだオリガ・スペシフツェワの一生に基づいた作品。ヨーロッパでは忘れ去られていた『ジゼル』をヨーロッパに伝えたことでも知られています。だから「赤の(ロシアの)ジゼル」なんでしょうね。スタイリッシュな踊りと衣裳で良かったです。あごひげをたくわえたウラジーミル・シショフの雰囲気がぴったりでした。

 『ストラヴィンスキー・ムーヴメンツ』は、オシャレなモダンバレエですが、「でんぐり紙」(あの七夕飾りで畳んであるのをぐるっと広げると蜂の巣状のぼんぼりになるやつ)みたいな衣裳が面白かったです。飛行機用の枕みたいなのもありました。

 さてルグリ先生が再び登場。ツィンバルとノイマイヤーの『シルヴィア』。素朴な女性を素朴な男性が追いかけてきて、純朴な愛を確かめ合うみたいな踊り。これのどこがシルヴィアなんだい。ぽん太には皆わかりません。ルグリ先生もよかったですが、リアブコでも見てみたくなりました。

 いよいよ最後は≪ヌレエフ・セレブレーション≫。ヌレエフの振り付けで「くるみ割り人形」、「ライモンダ」、「白鳥の湖」から、全11作品の大盤振る舞い。
 ぽん太は年は食ってるけれどバレエファン歴は浅いので、ヌレエフは同時代的には観ていませんから、たいした感慨はありませんでした。でも舞台の背景に飾られたヌレエフの写真が、ちょっとエキセントリックな彼の一般的なイメージとは違って、とっても優しそうな笑顔を浮かべた晩年の写真であるのを見て、ルグリはどういういう気持ちでこの写真を選んだんだろうかなどと考えていたら、ちょっとじわっときました。
 ぽん太から見たヌレエフの振り付けの印象は、「地味なのに難しそう」。「くるみ割り人形」のバジリオくん、なんかフラフラしてました。せっかく橋本清香さんが頑張ってるのにpout
 ラストの「「黒鳥のパ・ド・ドゥ」では、木本全優くんが王子様。リュドミラ・コノヴァロワは、2回転入れて頑張ってました。やっぱりコンテより古典の方が盛り上がるね。
 ミーハーのぽん太の感想でした。

「ヌレエフ・ガラ」
5/10(木)14:00
Bunkamura オーチャードホール

公式サイト

芸術監督:マニュエル・ルグリ


『ワルツ・ファンタジー』
振付:ジョージ・バランシン
音楽:M.グリンカ(「ワルツ・ファンタジー」)
ナターシャ・マイヤー、ヤコブ・フェイフェルリック
エレーナ・ボッターロ、アデーレ・フィオッキ、ズヴェヴァ・ガルジューロ、マディソン・ヤン

『Opus 25』
振付・コンセプト・照明:エノ・ペチ
音楽:F.ショパン(「エチュード」作品25-7)
ピアノ演奏:イゴール・ザプラヴディン
マリア・ヤコヴレワ、エノ・ペチ

『ヨゼフの伝説』より
振付・演出・照明コンセプト:ジョン・ノイマイヤー
音楽:R.シュトラウス(「ヨゼフの伝説」作品25-7)
ヨゼフ:デニス・チェリェヴィチコ
ポティファルの妻:ケテヴァン・パパヴァ

『ソロ』
振付:ハンス・ファン・マーネン
音楽:J.S.バッハ(「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」BWV 1002<クーラントードゥーブル>)
衣装・装置ケソ・デッカー
照明:ヨープ・カボルト
木本全優、リハルド・サボー、ジェロー・ウィリック

『ペール・ギュント』より
振付・台本・照明:エドワード・クルーグ
音楽:エドヴァルド・グリーグ(「ピアノ協奏曲第1番」作品16 第2楽章:アダージョ)
衣裳:レオ・キュラス
アリーチェ・フィレンツェ、ヤコブ・ファイフェルリック

『ランデヴー』より
振付:ローラン・プティ
振付指導:ルイジ・ボニーノ
音楽:ジョゼフ・コズマ(「ランデヴー」)
衣裳:メイヨー
イリーナ・ツィンバル、マニュエル・ルグリ

『マーマレーション』より
振付:エドワード・リアン
音楽:エツィオ・ボッソ(「ヴァイオリン協奏曲第1番」

ニーナ・ポラコワ、イオアンナ・アヴラアム、アリーチェ・フィレンツェ、ニキーシャ・フォゴ、ズヴェヴァ・ガルジューロ、ガラ・ヨヴァノヴィチ、 アニータ・マノロヴァ、スーザン・オパーマン
ロマン・ラツィック、ヤコブ・フェイフェルリック、ミハイル・ソスノフスキ、レオナルド・バジリオ、フランチェスコ・コスタ、ジェロー・ウィリック、イゴール・ミロシュ、トリスタン・リーデル、ジョルト・トゥルック

『シーニュ 白鳥』
振付:ダニエル・プロイエット
音楽:オルガ・ヴォイチェホヴスカ(「シーニュ」)
衣裳:スティーネ・シェーグレン
照明:クリスティン・ブレータル
映像:ヤニブ・コーエン
ケテヴァン・パパヴァ
川西凛空(Kバレエスクール)

『コンチェルト』より
振付:ケネス・マクミラン
音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィチ(「ピアノ協奏曲第2番」作品102第2楽章:アンダンテ)
衣裳・装置:デボラ・マクミラン
照明:ジョン・B・リード
リュドミラ・コノヴァロワ、ロマン・ラツィック
エレーナ・ボッターロ、アニータ・マノロヴァ、芝本梨花子
リハルド・サボー、ドゥミトゥル・タラン、アンドレイ・テテリン

『赤のジゼル』より
振付・照明:ボリス・エイフマン
音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(「マンフレッド交響曲」作品58)
衣裳:ヴァチェスラフ・オークネク
オルガ・エシナ、ウラジーミル・シショフ

『ストラヴィンスキー・ムーヴメンツ』より
振付:アンドラーシュ・ルカーチ
音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー(「プルチネッラ組曲」(1949年版)<セレナータ>、「5本の指で」<ラルゲット>、「ミューズを率いるアポロ」<アポテオース>)
衣裳製作:モニカ・ヘルヴァルト
照明:アッティラ・ザボー
アリーチェ・フィレンツェ、木本全優
イオアンナ・アヴラアム、ジェームス・ステフェンス、
ニキーシャ・フォゴ、アレクサンドル・トカチェンコ
ズヴェヴァ・ガルジューロ、アルネ・ヴァンデルヴェルデ
ジェロー・ウィリック

『シルヴィア』より
振付:ジョン・ノイマイヤー
音楽:レオ・ドリーブ(「シルヴィア」)
衣裳:ヤニス・ココス
イリーナ・ツィンバル、マニュエル・ルグリ

≪ヌレエフ・セレブレーション≫
振付:ルドルフ・ヌレエフ (マリウス・プティパとレフ・イワーノフに基づく) 
構成:マニュエル・ルグリ
音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー、アレクサンドル・グラズノフ
衣裳:ルイザ・スピナテッリ、ニコラス・ジョージアディス
衣裳アシスタント(スピナテッリ):モニア・トルチア

 『くるみ割り人形』
 第2幕“パ・ド・ドゥ”
 橋本清香、レオナルド・バジリオ

 『ライモンダ』
 第3幕より”ヘンリエットのヴァリエーション”
 ナターシャ・マイヤー

 第3幕より”4人の騎士の踊り”
 スコット・マッケンジー、トリスタン・リーデル、ドゥミトゥル・タラン、アルネ・ヴァンデルヴェルデ、ジェロー・ウィリック

 第3幕より”クレメンスのヴァリエーション”
 ニキーシャ・フォゴ、アニータ・マノロヴァ、芝本梨花子

 第2幕より”アブデラーマンのヴァリエーション”
 ミハイル・ソスノフスキ

 第2幕より”サラセン人の踊り”
 ズヴェヴァ・ガルジューロ、フランチェスコ・コスタ

 第2幕より”ライモンダのヴァリエーション”
 ニーナ・ポラコワ

 『白鳥の湖』
 第1幕より”パ・ド・サンク(コーダ)”
 ヤコブ・フェイフェルリック、イオアンナ・アヴラアム、アリーチェ・フィレンツェ、
 スコット・マッケンジー、リハルド・サボー

 第1幕より”王子のヴァリエーション”
 デニス・チェリェヴィチコ

 第3幕より”スペインの踊り”
 ガラ・ヨヴァノヴィチ、アライヤ・ロジャーズ=ママン、アレクサンドル・トカチェンコ、アンドレイ・テテリン

 第3幕より”黒鳥のパ・ド・ドゥ(コーダ)”
 リュドミラ・コノヴァロワ、木本全優

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2018/04/26

【歌舞伎】悪もまた美しい「絵本合法衢」2018年4月歌舞伎座夜の部

 仁左衛門が一世一代と銘打っての「絵本合法衢」、観て参りました。いや〜素晴らしかったです。これで最後なんてもったいない!まだまだできそう……というのは客の身勝手な意見で、実はいろいろと大変なんでしょうね。
 仁左衛門は、一時声が出にくそうな時もありましたが、こんかいはとてもよく出てました。特に冒頭で編み笠をかぶった大学之助の声は野太くて迫力があり、最初ほかの役者さんかと思うくらいでした。

 こんかいの「絵本合法衢」は歌舞伎座初上演ですが、ぽん太はすでに国立劇場で2回見てます。ということで細かい感想は省略。
 特に最初に観たのは2011年3月でした。そう、東日本大震災が起きたときです。3月公演としてこの狂言がかけられていたのですが、震災が起きて、途中で打ち切りになりました。ぽん太は震災が起こる前に見ることができたのですが、以来ぽん太のなかでは、仁左衛門演じる悪のイメージと、圧倒的な強さで破壊をもたらした震災のイメージが、重なりあっています。こんかいも、大学之助・太平次によって人々があっけなく次々と死んていくのを見て、じんわりと涙が出てきました。

 「崇高さ」さえ感じる大学之助の巨悪、そしてちょっと可愛らしくさえあるちんぴらの立場の太平次、仁左衛門の演技はこんかいも完璧でした。
 それから時蔵もいいですね。あのカマボコ小屋に住まわせたら、右に出る役者はいません。
 錦之助、孝太郎の田代屋与兵衛・お亀夫婦は、育ちの良い町人らしさと正義感がありました。坂東亀蔵、梅丸の孫七・お米夫婦も若々しかったです。吉弥、彌十郎、團蔵などがしっかりした演技。

 この狂言の題名の由来であり、大詰めの舞台となっているのが、大阪は天王寺の近くにある「合邦辻閻魔堂」であり、そこで実際にあった仇討ち事件がこの狂言の題材になっていることは、以前の記事で書きました(《【歌舞伎】仁左衛門の崇高な悪 国立劇場「絵本合法衢」》)。また実際に合邦辻閻魔堂を訪れた時の記事はこちら(《【大阪の歌舞伎ゆかりの地を訪ねて】合邦辻閻魔堂、四天王寺、野崎観音など》)。
 
 合邦辻閻魔堂に関しては、こちらのサイト(続・竹林の愚人)に簡単な歴史が書かれております。下の方に、『摂津名所図会』に描かれた「合法辻」の画像がありますが、柱と屋根だけの東屋の下に、大きめ(座った状態で人間の身長より少し低いくらい)の閻魔様が祀られているようです。この閻魔様、今回の舞台の閻魔様と似てますね。参考にしたのかもしれません。『摂津名所図会』の刊行は1796年(寛政8年)~1798年(寛政10年)。鶴屋南北の「絵本合法衢」の初演が文化7年(1810年)ですから、南北のころの閻魔堂は、この画像とほぼ同じだったことでしょう。
 

 

四月大歌舞伎

歌舞伎座
平成30年4月25日

公式サイト

夜の部

  四世鶴屋南北 作
  奈河彰輔 補綴・演出
  片岡仁左衛門 監修
通し狂言
絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)

  立場の太平次
  片岡仁左衛門一世一代にて相勤め申し候

  序 幕  第一場 多賀家水門口の場
       第二場 多賀領鷹野の場
       第三場 多賀家陣屋の場
  二幕目  第一場 四条河原の場
       第二場 今出川道具屋の場
       第三場 妙覚寺裏手の場
  三幕目  第一場 和州倉狩峠の場
       第二場 倉狩峠一つ家の場
       第三場 倉狩峠古宮の場
       第四場 元の一つ家の場
  大 詰  第一場 合法庵室の場
       第二場 閻魔堂の場

左枝大学之助/立場の太平次  仁左衛門
田代屋与兵衛  錦之助
田代屋娘お亀  孝太郎
孫七  坂東亀蔵
太平次女房お道  吉弥
お米  梅丸
番頭伝三  松之助
升法印  由次郎
関口多九郎  権十郎
田代屋後家おりよ  萬次郎
高橋瀬左衛門/高橋弥十郎  彌十郎
佐五右衛門  團蔵
うんざりお松/弥十郎妻皐月  時蔵

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2018/04/18

【オペラ】尻上がりに良くなった「アイーダ」新国立劇場

 新国立劇場開場20周年を飾るにふさわしい壮大なオペラ。新国立のプロダクションは、奇をてらわない重厚で壮大なセットが見ものです。

 ところが開始早々、ラダメス役のナジミディン・マヴリャーノフが歌う「清きアイーダ」が?の出来。声量もないし、声質もさだまらず、音程も不安定。対するアイーダのイム・セギョンは声量こそ圧倒的ですが、叫び声のようなちょっと耳障りな声質。重唱では一人だけ前にでちゃってます。こりゃもう新国立劇場合唱団のコーラスをメインに聞くしかないかな、という感じでした。
 しかし、マヴリャーノフもセギョンも尻上がりに良くなっていき、マヴァリャーノフは声量もある程度でてきて伸びやかな声を聞かせてくれましたし、セギョンも声量をちょっと抑えめにしてバランスもよくなり、心のこもった繊細な声を披露してくれました。最後の「さらばこの世よ涙の谷よ」はとても感動いたしました。
 ひょっとしたら初日だったのかなと思いましたが、ぽん太が聴いたのは2日目だったようです。

 最初のおぼつかない状態を救ったのがアムネリスのエカテリーナ・セメンチュク。とても安定した見事な歌声で、ちょっと声量はないけど、さすがベテラン。巧みな表現力で舞台を引き締めてくれました。

 アモナズロの上江隼人が外人勢に引けを取らない迫力ある歌声で、満足できました。ランフィスが妻屋秀和。新国立合唱団はいつもながらの素晴らしい合唱で、スケールの大きい舞台を支えてくれました。

 パオロ・カリニャーニ指揮の東京フィルハーモニー交響楽団は、キレのあるダイナミックな演奏だった気がします。バレエも楽しかったです。

 終わってみれば大満足。凱旋の場面も素晴らしかったし、久々に舞台全体が動く新国立の装置を見ることもできましたhappy01。今回はお金をかけましたね。やっぱり「アイーダ」はいいな、と思える舞台でした。


新国立劇場 開場20周年記念特別公演
オペラ「アイーダ」/ジュゼッペ・ヴェルディ

新国立劇場・オペラパレス
2018年4月8日

公式サイト

指揮:パオロ・カリニャーニ
演出・美術・衣裳:フランコ・ゼッフィレッリ
照明:奥畑康夫
振付:石井清子

アイーダ:イム・セギョン
ラダメス:ナジミディン・マヴリャーノフ
アムネリス:エカテリーナ・セメンチュク
アモナズロ:上江隼人
ランフィス:妻屋秀和
エジプト国王:久保田真澄
伝令:村上敏明
巫女:小林由佳

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

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