さて、妙覚寺の左側(南側)の細い道を上がっていきます。この先には「ありがた山」というのがあるはず。ぽん太は予備知識なしです。
周囲は再開発が進んでいます。道の左手に工事現場の仮囲いに囲まれて、なにやら石塔が見えますが、どこから近づけばいいのかわからないのでとりあえずパス。
登っていくと、斜面に階段状に普通の墓地が広がります。
さらに登っていくと、あれ? なんじゃこりゃ〜? 突然風景が一変します。古い墓石や石仏が見渡す限りみっちりと並んでいます。
途中に井戸があり、二体の薬師如来の石仏が祀られています。
え? の、飲み水? ほんまかいな。枯れ葉などが浮かんで濁ってますけど……。ひょっとして、石仏や墓石様のお飲み物かしら?
空が見えてきて、稜線が近づいている感じです。ちょ、ちょ待てよ〜。ひょっとしてここって、あの開発地帯に出るんじゃね?
やっぱし……。
さらに登っていくとなにやらお堂があります。基礎がコンクリートで打たれてますから、そんな古いものではないですね。
白雲山鶴林閣ですね。ネットの中には「静林閣」と読んでいるサイトもありますが、二つ上の写真でわかるように屋根の上に鶴の置物があるし、「鶴林閣」が正解だと思います。
山頂にかけて、石仏と墓石がさらにみっちりと並んでおり、見ていてちょっとゾワゾワします。墓石に刻まれている字は風化していてよく読めないのですが、大正何年の日付けがありました。そんなに古いものではなさそうですね。
最高地点には中心に石造層塔と両側に五輪塔が置かれています。ここがありがた山山頂でしょうか。ああ、あそこに山頂の標識がありますね。なになに?
あらら、武蔵国五字ヶ峯 一丁? ありがや山じゃないんだ。何、一丁って。
周囲は広大な開発地。ぽん太は麓からはるばる登って山頂に辿り着きましたが、開発地の方から見ると、ちょっとした小山にすぎません。
以前ぽん太が道の方を車で走っていた時、真っ平らな中にちょこんと取り残された、木に覆われ石塔の立つ小山を見て、なんかこれはお堂かお墓があって崩せないんだろ〜な〜と思ったことがあるのですが、それがありがた山だったんですね。
反対側の西方向の風景です。手前には巨大な水槽があります。雨水の溜池みたいなものでしょうか。最後は上を塞ぐんでしょうね。その向こう側には、メキシコのピラミッドみたいな土の段丘。なにこれ? 開発地の模型を見てもこんなピラミッドはありませんから、そのうち崩して土砂を利用するんですかね。
さて、このありがた山の墓石・石仏群はいったい何なのでしょうか。ぽん太が一番に思い浮かべるのは、上の写真(Wikipediaからライセンスフリーのものです)の、京都の嵯峨野にある化野(あだしの)念仏寺の西院(さい)の河原です。化野は鳥辺山などと並んで、京都では平安時代以来の墓地でした。長い時代に埋没していた無縁仏を掘り出して、安置供養しているのがこの西院の河原です。ということは、ひょっとして稲城のこの辺りも、古来からの墓地だったのでしょうか?
ネットで検索するといくつかの記事が出てくるのですが、残念ながらどれもはっきりしたソースは示されておらず、Wikipediaさえ個人のブログを典拠にしています。ですが、とりあえずネットの情報を総合すると、古くからの墓地だったわけではなく、1939年から1941年頃、本郷・駒込・小石川付近に放置されていた無縁仏を、中山日徳道明師が率いる日徳海の人々が、妙法寺の敷地を借りて作ったもののようです。ぽん太が確認した墓石は大正時代のものでしたが、中には江戸時代のものもあるようです。現在でも手入れが行き届いており、日徳海の人たちが管理を続けているそうです。
実は化野念仏寺の西院の河原も古いものではなく、明治30年代に宗教奉仕団体・福田海(ふくでんかい)の開祖・中山通幽(なかやまつうゆう)師が、埋没していた埋没していた無縁仏を掘り出して集めて配列し、祀ったものだそうです。
あれ? 福田海と日徳海、中山通幽と中山日徳、ちょっと似てますね。二つの団体に関連があるのか、それとも日徳海が福田海の活動を参考にしてありがた山を作ったのか、よくわかりません。でもありがた山の方が、斜面に配置されている分、なんか迫力がありますね。
開発以前は、ありがた山の山頂から西方向(上の写真のい方向)に尾根が伸びていて、尾根伝いの道を進むと石塔や建物があったそうです。国土地理院の地図にも、西に向かう道と、その先になにやら建物が書かれていますね。
こちらのサイトの2枚目の写真に、かつてあった4つの石塔(ブログ主は「仏舎利」と書いてますが、仏舎利は仏様の骨そのもののことですから、「仏舎利塔」あるいは「石塔」が正しいですね)の写真があり、奥に小屋が写っています。現在は開発に伴って撤去されたと考えられます。
ひょっとしてありがた山の山頂にあった石塔はここから移築されたもの? しかし、こちらのサイトのこの写真(1975年にテレビ放映された「仮面ライダーストロンガー」)に山頂の石塔が写っているので、これは開発前から元々あったもののようです。ありがた山は特撮ヒーロー物のロケ地としてたびたび使われたようですね。
開発によってありがた山が消滅するのではないかと心配している方も多いようですが、スカイテラス南山のサイトを見るかぎり、現在以上に山を崩すことはなく、墓石・石仏群は残るように見えます。
さて、ありがた山から下山。冒頭の写真の石塔の方に向かう道があったので行ってみます。すると空き地に上のような告知がありました。ちょっと意味がとりにくい文章なのですが、「国安神社がかつて山際にあったが、大正年間に穴沢天神社に合祀され、国安神社の跡地は社地(神域?)として受け継がれてきた。しかし今回の開発に社地がかかってしまったので、替わりに与えられた土地を神域とし、そこからかつて国安神社があった方角に向かって神事を行う遥拝所とする」という意味でしょうか。この立札がある空き地が、その土地なのかしら?
かつてこのあたりにあった国安(くにやす)神社が大正時代に穴沢天神社に合祀されたことは、穴沢天神社の案内板にも書かれていました。いつごろ創建されたものかは『江戸名所図会』にも『新編武蔵国風土記稿』にも書かれていませんが、銅製の御神体には応安六年(1373年)の日付が記されていたようです。
国安神社の位置に関しては、『江戸名所図会』には「威光寺の南五十歩ばかり」と書かれていますが、同書の挿絵には威光寺の東に国安神社が描かれており、矛盾しております。威光寺の「西」なのか、「明覚寺」の南なのかわかりませんが、記載が間違っているようです。上の国土地理院の地図には、立札のある土地あたりに神社の記号が書かれてますね。国土地理院の地図って、いつ頃の情報なんでしょうか。
さらに『江戸名所図会』の挿絵を見ると、平地に「社人」(しゃにん。神主、神職など)と書かれた家があり、そこから石段を登った高台に「国安社」と書かれた建物があります。社人の家は、上の立て札があった土地に近い気がします。本殿がそこから南なのか、東なのか、絵からはちょっとわかりません。
『江戸名所図会』には国安明神の神職は山本氏と書いてありますが、あれ?、確か現在の穴沢天神社の神職も山本さん。どういう関係なのかしら。一族でしょうか。ひょっとしたら、国安神社は穴沢天神社に合祀されましたが、神職は国安神社の山本さんが穴沢神社の神職になったとか。よくわかりません。
その近くに、最初に見えた石塔がありました。これが国安神社の遥拝所? それともひょっとしたら、ありがた山から移設した石塔か? これまたよくわかりません。このあたりが今後どうなっていくか、見守っていきたいと思います。
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