2022/08/13

お引越しのお知らせ

みなさん、いままでご愛読下さりありがとうございました。

2005年1月8日に開始した「ぽん太のみちくさ精神科」ですが、ココログの無料プランの容量がいっぱいになったので、続きはHatena Blogで「ぽん太のよりみち精神科」として新たに書き継ぐことにしました。

下のリンクからワープしてください♪

https://ponta-blog.hatenablog.jp

約17年の間に、ツイッターやファイスブック、YoutubeやTikTokなどの新しいメディアが生まれましたが、ぽん太はブログ一筋。写真と文章の比率が性にあってました。

「ぽん太のみちくさ精神科」は移転せず、このまま公開し続けます。

機会があったらふらっと立ち寄って下さい。

よろしくお願いします。

 

 

2022/05/19

【東京の秘境】京王よみうりランド周辺の秘境を探訪(4) ありがた山、国安神社跡?

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 さて、妙覚寺の左側(南側)の細い道を上がっていきます。この先には「ありがた山」というのがあるはず。ぽん太は予備知識なしです。

 周囲は再開発が進んでいます。道の左手に工事現場の仮囲いに囲まれて、なにやら石塔が見えますが、どこから近づけばいいのかわからないのでとりあえずパス。

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 登っていくと、斜面に階段状に普通の墓地が広がります。

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 さらに登っていくと、あれ? なんじゃこりゃ〜? 突然風景が一変します。古い墓石や石仏が見渡す限りみっちりと並んでいます。

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 途中に井戸があり、二体の薬師如来の石仏が祀られています。

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 え? の、飲み水? ほんまかいな。枯れ葉などが浮かんで濁ってますけど……。ひょっとして、石仏や墓石様のお飲み物かしら?

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 空が見えてきて、稜線が近づいている感じです。ちょ、ちょ待てよ〜。ひょっとしてここって、あの開発地帯に出るんじゃね?

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 やっぱし……。

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 さらに登っていくとなにやらお堂があります。基礎がコンクリートで打たれてますから、そんな古いものではないですね。

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 白雲山鶴林閣ですね。ネットの中には「静林閣」と読んでいるサイトもありますが、二つ上の写真でわかるように屋根の上に鶴の置物があるし、「鶴林閣」が正解だと思います。

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 山頂にかけて、石仏と墓石がさらにみっちりと並んでおり、見ていてちょっとゾワゾワします。墓石に刻まれている字は風化していてよく読めないのですが、大正何年の日付けがありました。そんなに古いものではなさそうですね。

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 最高地点には中心に石造層塔と両側に五輪塔が置かれています。ここがありがた山山頂でしょうか。ああ、あそこに山頂の標識がありますね。なになに?

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 あらら、武蔵国五字ヶ峯 一丁? ありがや山じゃないんだ。何、一丁って。

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 周囲は広大な開発地。ぽん太は麓からはるばる登って山頂に辿り着きましたが、開発地の方から見ると、ちょっとした小山にすぎません。

 
 以前ぽん太が道の方を車で走っていた時、真っ平らな中にちょこんと取り残された、木に覆われ石塔の立つ小山を見て、なんかこれはお堂かお墓があって崩せないんだろ〜な〜と思ったことがあるのですが、それがありがた山だったんですね。

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 反対側の西方向の風景です。手前には巨大な水槽があります。雨水の溜池みたいなものでしょうか。最後は上を塞ぐんでしょうね。その向こう側には、メキシコのピラミッドみたいな土の段丘。なにこれ? 開発地の模型を見てもこんなピラミッドはありませんから、そのうち崩して土砂を利用するんですかね。

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 さて、このありがた山の墓石・石仏群はいったい何なのでしょうか。ぽん太が一番に思い浮かべるのは、上の写真(Wikipediaからライセンスフリーのものです)の、京都の嵯峨野にある化野(あだしの)念仏寺の西院(さい)の河原です。化野は鳥辺山などと並んで、京都では平安時代以来の墓地でした。長い時代に埋没していた無縁仏を掘り出して、安置供養しているのがこの西院の河原です。ということは、ひょっとして稲城のこの辺りも、古来からの墓地だったのでしょうか?

 ネットで検索するといくつかの記事が出てくるのですが、残念ながらどれもはっきりしたソースは示されておらず、Wikipediaさえ個人のブログを典拠にしています。ですが、とりあえずネットの情報を総合すると、古くからの墓地だったわけではなく、1939年から1941年頃、本郷・駒込・小石川付近に放置されていた無縁仏を、中山日徳道明師が率いる日徳海の人々が、妙法寺の敷地を借りて作ったもののようです。ぽん太が確認した墓石は大正時代のものでしたが、中には江戸時代のものもあるようです。現在でも手入れが行き届いており、日徳海の人たちが管理を続けているそうです。

 実は化野念仏寺の西院の河原も古いものではなく、明治30年代に宗教奉仕団体・福田海(ふくでんかい)の開祖・中山通幽(なかやまつうゆう)師が、埋没していた埋没していた無縁仏を掘り出して集めて配列し、祀ったものだそうです。

 あれ? 福田海と日徳海、中山通幽と中山日徳、ちょっと似てますね。二つの団体に関連があるのか、それとも日徳海が福田海の活動を参考にしてありがた山を作ったのか、よくわかりません。でもありがた山の方が、斜面に配置されている分、なんか迫力がありますね。

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 開発以前は、ありがた山の山頂から西方向(上の写真のい方向)に尾根が伸びていて、尾根伝いの道を進むと石塔や建物があったそうです。国土地理院の地図にも、西に向かう道と、その先になにやら建物が書かれていますね。

 こちらのサイトの2枚目の写真に、かつてあった4つの石塔(ブログ主は「仏舎利」と書いてますが、仏舎利は仏様の骨そのもののことですから、「仏舎利塔」あるいは「石塔」が正しいですね)の写真があり、奥に小屋が写っています。現在は開発に伴って撤去されたと考えられます。

 ひょっとしてありがた山の山頂にあった石塔はここから移築されたもの? しかし、こちらのサイトこの写真(1975年にテレビ放映された「仮面ライダーストロンガー」)に山頂の石塔が写っているので、これは開発前から元々あったもののようです。ありがた山は特撮ヒーロー物のロケ地としてたびたび使われたようですね。

 開発によってありがた山が消滅するのではないかと心配している方も多いようですが、スカイテラス南山のサイトを見るかぎり、現在以上に山を崩すことはなく、墓石・石仏群は残るように見えます。

 

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 さて、ありがた山から下山。冒頭の写真の石塔の方に向かう道があったので行ってみます。すると空き地に上のような告知がありました。ちょっと意味がとりにくい文章なのですが、「国安神社がかつて山際にあったが、大正年間に穴沢天神社に合祀され、国安神社の跡地は社地(神域?)として受け継がれてきた。しかし今回の開発に社地がかかってしまったので、替わりに与えられた土地を神域とし、そこからかつて国安神社があった方角に向かって神事を行う遥拝所とする」という意味でしょうか。この立札がある空き地が、その土地なのかしら?

 かつてこのあたりにあった国安(くにやす)神社が大正時代に穴沢天神社に合祀されたことは、穴沢天神社の案内板にも書かれていました。いつごろ創建されたものかは『江戸名所図会』にも新編武蔵国風土記稿』にも書かれていませんが、銅製の御神体には応安六年(1373年)の日付が記されていたようです。

 国安神社の位置に関しては、『江戸名所図会』には「威光寺の南五十歩ばかり」と書かれていますが、同書の挿絵には威光寺の東に国安神社が描かれており、矛盾しております。威光寺の「西」なのか、「明覚寺」の南なのかわかりませんが、記載が間違っているようです。上の国土地理院の地図には、立札のある土地あたりに神社の記号が書かれてますね。国土地理院の地図って、いつ頃の情報なんでしょうか。

 さらに『江戸名所図会』の挿絵を見ると、平地に「社人」(しゃにん。神主、神職など)と書かれた家があり、そこから石段を登った高台に「国安社」と書かれた建物があります。社人の家は、上の立て札があった土地に近い気がします。本殿がそこから南なのか、東なのか、絵からはちょっとわかりません。

 『江戸名所図会』には国安明神の神職は山本氏と書いてありますが、あれ?、確か現在の穴沢天神社の神職も山本さん。どういう関係なのかしら。一族でしょうか。ひょっとしたら、国安神社は穴沢天神社に合祀されましたが、神職は国安神社の山本さんが穴沢神社の神職になったとか。よくわかりません。

 

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 その近くに、最初に見えた石塔がありました。これが国安神社の遥拝所? それともひょっとしたら、ありがた山から移設した石塔か? これまたよくわかりません。このあたりが今後どうなっていくか、見守っていきたいと思います。

2022/05/11

【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(3) 妙覚寺

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 続いて妙覚寺(みょうかくじ)へ。「雲騰山 妙覚禅寺」と書かれていますね。案内板によると、室町時代の終わり頃に足利義晴によって開山されたとのこと。鎌倉の臨済宗大本山建長寺の末寺だそうです。

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 石段を登ってすぐ右に、地蔵菩薩が祀られています。

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 こちらが本堂です。1796年(寛政8年)に再建されたものとのこと。お庭もきれいに整っていて、禅寺らしい凛とした空気が漂います。

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 右手の石段を登ってすぐ、左手に筆塚と不動明王の石仏があります。案内板によると筆塚は、1845年(嘉永7年)に学業指導の功績を称えて筆子代表が建立したものだそうです。当時で寺子屋をやってたのでしょうか?

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 石段の上には観音堂があります。額には(ぽん太には読めませんが)「松荘堂」と書かれております。いつ頃の建物が情報はありませんが、庇がぴんと張り出して、宋風のかっちょいい建物ですね。裏手は崖になっていて、崖下を京王相模原線が走り、はるか北側の風景を展望できます。

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 さらに少し上がるとちょっとした平地があり、板碑、鐘楼、お墓などがあります。

 まずは板碑。案内板によると室町時代中頃の1454年(享徳三年)に建てられたもので、三つの梵字は阿弥陀三尊(阿弥陀、観音、勢至)を現しているそうです。古い物なのに、風化せずにきれいに残ってますね。

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 鐘楼は1908年(明治41年)に再建されたものとのこと。鐘は銘がなく、装飾もシンプルでした。

2022/05/10

【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(2) 威光寺の弁天洞窟(閉鎖中)、陸軍血清馬如来塔

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 さて、次は威光寺です。このお寺が穴沢天神社の別当寺であったことは、穴沢天神社の案内板にありましたし、『江戸名所図会』にも書かれています。神仏習合が行われていた江戸時代以前は、明治以降とは違って神と仏は渾然一体で、神社には別当寺と呼ばれる寺が置かれました。

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 こちらが本堂ですね。古い部分もありますが、ガラス戸はアルミサッシュになってます。

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 で、本堂の右手に回り込むと、洞窟の入り口があります。残念ながら現在は鉄柵で塞がれており、中に入ることはできません。ネット上のブログを検索してみると、「閉鎖」という言葉は2014年以降に現れるので、どうやらその頃に閉鎖されたと思われます。

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 案内板です。これによると洞窟の全長は65mで、広さは約200坪とのこと! 図を見ると、複雑かつ大規模に掘られているんですね。内部には23体の石仏があり、池や井戸、壁に2体の大蛇の彫刻もあるそうです。元々1500年以前前に作られた奥行き10mの横穴があり、それを明治初めに掘り進んで作られたと書いてあります。

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 鉄柵から中を覗くと、手前の方はレンガで固めてあります。ちょっと行くと突き当たりになっていて、なにやら石仏がありますが、これが宇賀神でしょうか? 閉鎖される前に入っておきたかったな〜。再公開を望みます。1982年に制定された新東京百景にもせっかく選ばれてるんですから。ネットで昔のブログを探すと、内部の写真もいろいろと見ることができます。案内図ではわかりませんが、階段もあって立体的になっているみたいです(例えばこちら→日本すきま漫遊記)。

 古くからあったという入口の横穴部分ですが、「横穴式古墳」と書いてあるブログがいっぱいあります。古墳というのは人工的に土を盛ったもので、これは崖に穴を掘ったものですから、「横穴墓」が正しいと思います。誰かが間違えて「古墳」としたものが、コピペで広がっているのですね。ネットでよくある現象です。

 困った時のWikipediaにも弁天洞窟の項目がありますが、ソースがまったく示されていません。また「東京の名湧水57選に選定された」と穴沢天神社と混同した明らかな誤りもあり、残念ながら信用できません。

 色々と探してみたところ、稲城市教育委員会の「弁天洞窟(新東京百景)」文化財ノートNo.45(pdf)が見つかりました。教育委員会の文章ですから、いい加減な情報はないでしょう、たぶん。

 で、それによると、まず先ほど書いた横穴問題ですが、「もともとは古墳時代の横穴墓であったといわれています(考古学者 鳥居龍蔵氏談)」と書かれています。鳥居龍蔵氏は案内板にも名前が出てましたが、人類学者・考古学者・民俗学者で、1870年生まれ1953年死去。国内のみならず広く海外のフィールドワークを行なったそうな。しかし「鳥居龍蔵氏談」の「談」が怪しいです。ちゃんと調査して論文にしたわけではなく、「きみ〜こりゃ古墳時代の横穴墓じゃよ〜」と言ったというぐらいの話かもしれません。だいいち弁天洞窟は1884年に完成しているわけで、そのとき鳥居氏は14歳だったわけですから、氏は拡張工事前の横穴は見てなかったと思われます。

 洞窟が1884年(明治17年)に作られたということは洞窟内の石碑に書かれいるそうで、発願人として笹久保惣兵ヱ・小俣勇造、願主として村人28人の名前が記されているそうです。このうち小俣勇造は、当時矢野口に住んでいた関流和算家で、新たに掘られた洞窟を設計した「といわれている」そうです。

 また洞窟内の石仏は、もともと穴沢天神社の洞窟に祀られていたものが移されたと「考えられ」るとのこと。穴沢天神社の案内板に書かれていた神仏分離令との関係については書かれていませんが、ぽん太にはその可能性は高いように思われます。ただぽん太が気になるのは、前の記事で触れましたが、弁天洞窟内に置かれた石仏が21体もあること。現在の穴沢天神社の洞窟には、これだけの数の石仏を置くスペースはありません。昔は洞窟がもっと広かったのか、あるいは洞窟の周辺に祀られていたのか、よくわかりません。

 また、威光寺には次のような伝説があると書かれています。

威光寺周辺の小峰沢には昔から大蛇が棲んでいるといわれていました。ある夜、村人の一人が、大蛇が現れ弁財天と化すのを夢で見ました。そこで村長ら村人28人が集まって相談し、この洞窟を掘ったところ、中から弁財天を見つけました。化身となった大蛇が弁財天を導き出したのです。この弁財天に大黒天と毘沙門天を加え、三福神として祀ったのが弁天洞窟の始まりとされます。

 村人28人というのは弁天洞窟の願主の28人だと思われます。しかし蛇と大黒天と毘沙門天に関しては、それらの像が穴沢天神社の洞窟に祀られていたと『新編武蔵国風土記』に書いてあったことが思い出されます。この伝説には、威光寺の弁天洞窟の縁起と、穴沢天神社の洞窟の縁起が混ざっているようにぽん太には思えます。

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 さて、境内には、珍しい六角柱型の庚申塔があります。案内板によると、1684年に現地近くの山頂に建立されたものだそうです。

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 その隣の石碑を読んでみると、「陸軍血清馬如来塔」とのこと。なにこれ? 初めて見た。

 「陸軍 馬 血清」で検索してみると、戦時中にガス壊疽菌の血清を作るために、陸軍の命令で千葉県の中山競馬場で500頭の馬が生きたまま血を抜かれて犠牲になったという話が出てきます。稲城でも血清馬の供出が行われたのでしょうか。ひょっとして多摩川の反対側の府中市の東京競馬場? んなことはないですよね。よくわかりませんが、疲れてきたので、きょうのみちくさはこの辺で。

2022/05/09

【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(1) 穴沢天神社

 GW中の2022年5月上旬、読売ランドは家族連れやカップルで大混雑だったそうですが、ぽん太とにゃん子は混雑を避け、以前から気になっていた京王よみうりランド周辺の探索に出掛けてきました。華やかな読売ランドの麓に、このような秘境があったとは驚きでした。

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南山東部地区のまちづくり」(稲城市役所)より

 京王よみうりランドがある丘陵は「南山」と呼ばれ、古くは里山として利用されていましたが、近年は樹木が伸び放題に生い茂った状態でした。しかし現在、南山東部の広範にわたる開発計画が進められています(スカイテラス南山 – 関東平野を見渡す丘の街づくり)。開発の是非については様々な立場から様々な意見があると思いますが、今後周囲の状況が大きく変わる可能性があり、自然が残る今のうちに一度訪れておくのもいいかと思います。

 
(1)穴沢天神社、(2)威光寺、(3)妙覚寺、(4)ありがた山

 京王よみうりランド駅で降りたら、北側のよみうりランド行きゴンドラ駅に向かう人々の流れに背を向け、線路の南側に沿った道を東に向かいます。両側には梨畑が点在します。稲城は、ソフトボールよりおっきな稲城梨で有名で、秋にはあちこちに直売所が設置されます。

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 三沢川にぶつかったところで、橋の手前を右折します。穴沢天神社と書かれた幟が立っています。京王相模原線をくぐって山に近づくと……。

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 石の鳥居があり、その向こうに急な石段が見えます。山が迫り、緑が生い茂り、東京都とは思えない山深さです。

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 「延喜式内 穴澤神社」と書かれています。確かに延喜式神名帳に出ています(→国立国会図書館デジタルコレクション)。延喜式が作られた平安中期から「穴澤天神社」という名前だったのですね。明治4年の近代社格制度では郷社となりました。

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 石段を登って左に行くと少し平地が広がっており、社殿が並んでいます。入り口に案内板があります。

 主祭神は少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)、創立は孝安天皇4年。元禄7年(1694)に社殿を改修し、菅原道真を合祀。8月25日に例大祭があり、神職山本家に伝わる里神楽と獅子舞が奉納される。現在の社殿は昭和61年12月に修復した、とのこと。

 神社の主祭神に関しては、実は明治初頭の神仏分離令以降に割り振られたものが多いので、注意が必要です。1834年に刊行された『江戸名所図会』3巻を見てみると、「『武蔵国風土記』残編に曰く、武蔵国多磨郡 穴沢天神 (…中略…) 祭るところ少名彦神なり」と書かれておりますから、明治維新以前から少彦名神だったことが確認されました。少彦名神は、大国主命が出雲の岬にいたときに、船に乗ってやってきた小さな神様で、大国主命とともに国造りに力をそそぎました。医療・医薬とかかわりが深く、酒や温泉の神でもあります。また一寸法師の原型とも言われています。

 創建の時期ですが、孝安天皇は実在が疑われている天皇ですから、孝安天皇4年に創建というのは言い伝えになります。

 元禄時代に菅原道真を合祀したとのこと。現代では「天神=菅原道真」みたいに思われて、天神社は菅原道真を祀ってるように考えがちですが、日本には古来「天神・地神」といった信仰がありました。のちに菅原道真の死後、その怨霊を恐れた人々が北野の天神祠の傍に霊廟を建て、天満大自在天と呼んで霊を慰めました。こうして天神信仰と、道真の霊を慰める天満宮が結びついていったのです(『日本の神様読み解き事典』)。穴沢天神社の場合、もともとは天神を祀った神社でしたが、江戸時代に「天神社ってくれえだから、道真さまを祀ってね〜とな〜」みたいな感じで、菅原道真が合祀されたんだと思います。

 穴沢天神社にはもうひとつ案内板があるのですが、写真を撮り忘れたので、「御朱印神社メモ」というサイトこちらの写真をご参照ください。

 この案内板から得られる新たな情報としては、大正時代の1918年、さらに国安神社の大己貴命(おおあなむちのみこと)(=大国主命)が合祀されたこと、現在の洞窟が2代目であること、内部に安置されていた石仏は明治4年の神仏分離の際に別当寺だった威光寺に移されたことです。

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 正面が本殿ですね。深い森に囲まれてます。左のテントの上に見えている庇が神楽殿です。

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 本殿は、案内板によると、江戸時代前期(17世紀前期)の建立だそうです。一間社流造ですが、千木・鰹木を戴き、千鳥破風・軒唐破風を持つ立派な建物です。

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 手水舎の水盤に花が浮かべてあるのは、ぽん太は初めて見ました。あとで調べてみると「花手水」(はなちょうず)というそうで、コロナ禍で手や口を清める行為が行われなくなり、柄杓も撤去されたため、使われなくなった水盤に花を浮かべるのが流行っているそうです。

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 神社を出て鳥居を出てすぐの右手の急坂(弁天坂)を下ると、弁天社があります。写真の中央あたりに湧水があり、右手に鳥居が見えますね。この湧水は「東京の名湧水57選」に入っていて、大きなポリタンクを持った人たちが次々と水を汲みにきておりました。「水質検査をしてますが、飲む前に煮沸してください」の但し書きありましたが、ちょっと飲んでみるととても美味しかったです。

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 右の鳥居の向こうには、新しそうな弁天様の石仏が祀られております。琵琶を引く二臂の像ですが、麗しの美女ではなく、ちょっと古風なお顔立ちですね。

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 弁天様の向かって左には二つの洞窟があります。中は真っ暗。足元は水っぽく、飛石から踏み外すと茶色い泥に足がずぶっと入ります。懐中電灯を持参するか、携帯のライトで照らすなどして入りましょう。長さは両方とも4〜5mくらいで短いです。。途中で左右がつながっております。

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 右の洞窟の突き当たりは、壁龕があるだけ。写真は左側の洞窟で、石の祠のようなものがありました。上からも水がぽたぽた垂れてくるので早々に退散。

 案内板にはこの洞窟は2代目と書いてありましたが、『江戸名所図会』(1834)に既に昔の洞窟は崩れたと書かれているので、2代目が掘られたのは1834年以前ということになります。また同署には、洞窟の入り口が一つで中が二つに分かれており、様々な神仏の石像があると書いてあります。現在は入り口が2つですから、昔の入口部分は崩落したため除去したのかもしれません。後で威光寺のところで書きますが、この洞窟の中にはかなりたくさんの石像が収められていたはずで、現在の洞窟の規模からするとちょっと腑に落ちない気がします。

 同じ頃に出版された『新編武蔵国風土記稿』(1830)には、洞窟の正面に白蛇があり、穴の入り口に大黒天と毘沙門天の像があると書いてあります。ということは、弁財天が祀られ弁天社と呼ばれるようになったのは、もっと後なのでしょうか。しかしここで思い出されるのが「三面大黒天」。三面大黒天とは、大黒天が毘沙門天、弁財天と合体した像で、日本では最澄が比叡山延暦寺に祀ったのが最初で、秀吉が生涯拝んだことでも知られています。ぽん太は三面大黒天の信仰や歴史については不案内なのですが、ひょっとしたらこの洞窟の「中」には弁財天が祀られ、入り口の大黒天、毘沙門天像とともに、三面大黒天ユニットを形成していたのかもしれません。ただこのユニット、大黒天と弁財天がセンターを交換したりするものなのでしょうか。

 なお威光寺の記事で書く予定ですが、明治初頭には既に弁財天が祀られていたようです。

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