『ツァラトゥストラはこう言った』は橋であり、移りゆきである
前回の記事でぽん太は、次のような問いをたてました。
「では、超人とはどんなひとなのでしょうか? そして人間のあるべき姿とは何なのでしょうか? またツァラトゥストラはとはどういう人物なのでしょうか?」
しかし、『ツァラトゥストラはこう言った』(氷上英廣訳、岩波文庫)を読み込んでいったところ、こうした問いのたて方自体が間違っていることに気づきました。まず、「超人」がどういう存在なのかは、ほとんど書かれていません。超人への架け橋となるために人間がどうあるべきか、どうであってはいけないかは書いてありますが、超人とはどういうものかは書かれていないのです。考えてみれば当たり前で、人間へと進化する猿が、人間とはどういうものかを知っているはずはありません。同じように人間が超人を知っているはずはないのです。ニーチェの解説書を読むと、よく「超人とはこういうものだ」と書かれていますが、それはウソであることがわかりました。本書に描かれているのは、超人への架け橋となるために、人間はどうあるべきかということです。
しかも「超人」という概念は、本書の前半で出てくるものの、後半にいくに従って論じられなくなってきます。後半に出て来る「永遠回帰」は、同じ瞬間が永遠に何度も繰り返されるという考え方ですから、そうしたら人間はいつまでたっても超人に進化できないことになり、矛盾していてわけがわかりません。ぽん太は「『歎異抄』における善悪を超えた境地」で、「宗教的な考え方は、家を建てるときの足場のようなものです。足場を使って家を建てるけれども、家が建ってしまえば足場は不要になり、取り壊してしまいます」と書きました。『ツァラトゥストラはこう言った』は宗教書ではありませんが、「超人」という考え方は(そして「永遠回帰」という考え方も)、「足場としての考え方」であると思います。本書は決して論理的、体系的に書かれた本ではありません。思索を進め深化させていく過程を描いた本です。ツァラトゥストラは「人間における偉大なところ、それはかれが橋であって、自己目的ではないということだ。人間において愛さるべきところ、それは、かれが移りゆきであり、没落であるということである」(上19ページ)と言っています。『ツァラトゥストラはこう言った』という本そのものも、橋であって、移りゆきであるとぽん太は思います。
では、「超人」や「永遠回帰」という「足場としての考え方」を用いることで、われわれは何を得られるのでしょうか?
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