内田樹の『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』は「し」と「し」がキーワード
内田樹の『死と身体』を読んで多いに感激し、パソコンの辞書に「樹」(たつる)という人名まで登録したぽん太は、『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社、2004年)をひも解くことにしました。しかし書かれている内容はというと、ぽん太にはちっとも解けないのである。内田自身がまえがきで「レヴィナスが『ほんとうは何を言いたいのか』よく分からない」し、ラカンについては「レヴィナスよりさらに何が言いたいのか分からない」と告白しています。しかし内田は、この「ゴルディオスの結び目」を「アレキサンダーの剣」によって一刀両断しようとせず、わからないものはわからないままに反対に話しを複雑にすることによって、何かがほぐれてくるのではないかといいます。このような内田の考え方は、「西洋的」なものに対する「東洋的」なもの、「知的」なものに対する「身体的」なものと言えるでしょうが、いずれにせよ内田の「武道」の体験に深く根ざしているようにぽん太には思われます。
さて、「他者」を論じるこの本のキーワードは「し」と「し」だとぽん太はタイトルで書きましたが、最初の「し」は「師」です。内田は、「わたし」と「他者」との関係を、「弟子」と「師」の関係になぞらえることができると言います。師は、弟子とはレベルの異なる知を持っています。師は、弟子が知らないことを知っているのではなく、弟子のもつ知とは違うレベルの知を持っているのです。ですから師が弟子を導くということは、師がたんに知識を弟子に教えることではありません。師は、自分が持っている知を弟子が求めるようにしむけます。だから師の言葉は、情報を伝達するものではなく、電話で「もしもし、聞こえていますか」と聞くときのような働きをするものであり、言語学者のローマン・ヤコブソンの用語でいえば交話機能を担うものなのです。レヴィナスがタルムードの師から学んだことは、聖句の解釈の知識ではなく、聖句をどう解釈するかという作法です。またラカンの難解な言葉も、ラカンが「知っている想定される主体」と呼ぶ師が「分析者」である弟子を導く言葉なのです。
ぽん太は武道はやったことがありませんが、仏教は好きで、永平寺に3泊4日で修行に行ったりもしましたから、こうした「師」と「弟子」の関係というのはよくわかります。「禅問答」というものも情報を伝達するものではなく、師と弟子の一対一のやりとりのなかで、弟子をあらたな境地に引きずり上げようとする行為です。また道元は『正法眼蔵』のなかで、自分が仏陀の直系の弟子であることを代々の師の名前を上げて説明していますが、それは決して正当性を誇示しようというものではなく、師が弟子を直接導くことによってしか仏教の真理が伝えられないことを言おうとしているのだと思います。
精神科医を「師」になぞられるのはおこがましいですが、ぽん太が患者さんの考え方や生き方を変えようと一生懸命話しても、患者さんはそれを「理解」してしまい、実際にはちっとも「変わらない」ことがよくあります。これはぽん太が患者さんの「師」の位置を占める技術がまだまだ足りないからでしょう。
さて二つ目の「し」は「死」です。ラカンもレヴィナスも、第二次世界大戦で多くの親族や知人を失っています。特にユダヤ人であるレヴィナスは、フランス兵と見なされて「恵まれた」収容所生活を送っている間に、多くの同胞たちがアウシュビッツで虐殺されたのです。こうした「生きのびた」ことに対する有責性を、ラカンもレヴィナスも背負っているのだと内田は言います。彼らの「他者」の概念の背後には、つねに「死者」がいるのです。
ぽん太は戦後生まれなので、自分自身の心のなかを探しても、このような感情を見つけ出すことができません。しかし内田の指摘は、ぽん太の心に深く響きました。やがてぽん太の大切な家族が亡くなったとき、ぽん太は内田の言うことが少し「わかる」のかもしれません。
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