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2005年5月の8件の記事

2005/05/26

今倉山でヤマシャクヤクに会う

 5月26日、ぽん太は妻のにゃん子と今倉山に登ってきました。今倉山は山梨県都留市、いわゆる道志の山に属します。標高は1470.3メートルです。
 ゆっくり家を出て都留インターチェンジから一般道を走り、道坂隧道入り口の駐車場に車を止めました。10台くらいの駐車スペースがあります。二十六夜山に向かう林道を進んで右側の登山道に入り、パラジマ沢沿いの登山道を登ります。西ヶ原からいったん左に道をとり、展望が見事だという赤岩に寄りました。曇りだったので富士山は見えませんでしたが、御正体山が見事でした。ヤマツツジとトウゴクミツバツツジが満開で、とてもきれいでした。ここで昼食です。メニューはレトルトの釜飯でしたが、途中で摘んだサンショウの葉を散らしたので、とてもおいしかったです。
 いったん道を戻って今倉山に向かいます。樹々の緑がとても美しく、歩いていてとてもたのしい道でした。山頂から南に御正体山に向かう稜線を下り、途中から右に折れて登山口に戻りました。途中に咲いていたヤマシャクヤクは初めて見た花で、白くて大きくて繊細でとてもきれいでした。
ヤマシャクヤク
 帰りは月待ちの湯で入浴。インター近くの酒屋でおいしそうな日本酒を買いました。

 今日見た花:ヤマシャクヤク(初)、マルバアオダモ(初)、ツクバネウツギ(初)、チゴユリ(群落)、スミレの一種、トウゴクミツバツツジ、ヤマツツジ、ツルキンバイ(群落)、クルマバツクバネソウ、ワチガイソウ、マイヅルソウ、ユキザサ、マムシグサ

2005/05/23

『キリマンジャロの雪』のヘミングウェイはアフリカ社会には関心がなかった

 アフリカのみちくさを続けているぽん太は、ヘミングウェイに『キリマンジャロの雪』(『勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪』所収、高見浩訳、新潮文庫、1996年)という短編があることを知り、読んでみることにした。
 ヘミングウェイは『老人と海』をずっと以前に読んだくらいで、『武器よさらば』も『誰がために鐘は鳴る』も読んだことがなく、ヘミングウェイ自身に関しても大海原で釣りをしている作家というイメージしかありませんでした。

 さて『キリマンジャロの雪』ですが、アフリカで病気になった主人公が妻と救援を待つあいだの気持ちの動きを、回想を織り交ぜて描いた作品です。主人公は作家ですが、金目当てに裕福な女性と結婚し、自堕落な生活を送るうちに書くことも忘れてしまいました。社交界の俗悪さにあきあきしながらも、そこから抜け出すこともできなかった自分を、いじいじめそめそと後悔しています。『老人と海』の豪快なイメージとはぜんぜん違って、辛気くさいです。
 解説によれば、当時のヘミングウェイ自身も似たような境遇だったようで、富豪の叔父から多額の財政的援助を受けて生活しつつ、『武器よさらば』に続くヒットが出せないという苦しい状況にいたようです。
 ヘミングェイは1933年から1934年にかけて(叔父の財政的援助を受けて)アフリカを訪れ、狩猟を楽しみました。その間アメーバ赤痢にかかってナイロビに入院した体験が、この短編に生かされているそうです。
 しかしこの小説では「アフリカ」は単なる舞台背景に過ぎず、「アフリカ」そのものが論じられることはありません。ヘミングウェイにはアフリカの社会や政治に関する興味はなかったようです。アフリカに興味を持ってみちくさをしているぽん太には、あまり面白くありませんでした。

 なお、本書に収録された『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』も、サファリの狩猟を舞台にしております。現在のサファリはカメラで動物の写真を撮りに行きますが、当時のサファリはライフルで狩猟にいっていたのですね。

 再び『新書アフリカ史』(宮本正興、松田素二編、講談社現代文庫、1997年)によると、ヘミングウェイは1953年から54年にかけて、2回目のアフリカ旅行をしたそうです。ヘミングウェイのナイロビにおける定宿はニュー・スタンレーという高級ホテルで、いまでもロビーにヘミングウェイの肖像写真が掛けられているそうです(434ページ)。
 20世紀前半のアフリカは、ヨーロッパ諸国の植民地政策に対するさまざまな抵抗が行われた時代だったようです。1910年代にはヨーロッパが布教したキリスト教とは別の独立協会ができるようになりました。教義も異なっていて、アフリカ土着の宗教と混ざったものだったそうですが、宗教活動のかたちをとりながら抵抗や待遇改善を掲げるものも多かったそうです。1919年には、電話交換手のハリー・ヅクが指導する政治結社、東アフリカ協会が結成され、小屋税・人頭税の引き下げや土地の返還を求めました。1930年代の大不況はケニアにも深刻な影響を与え、労働運動が活発化し、ゼネストもうたれたそうです。ヘミングウェイがアフリカを最初に訪れたのはこの頃です。このあと1950年代後半からのアフリカ諸国の独立まではまだ紆余曲折があるようですが、それはまたの機会に。

2005/05/22

ヘーゲル先生の時代のアフリカの状況は?

 ヘーゲル先生のアフリカに対する偏見を聞いてすっかり気持ちが暗くなったぽん太は、「ヘーゲル先生も昔のひとだから仕方がないのかもしれない。さすがの先生も当時のヨーロッパ人のアフリカ観から出られなかったんだろう」と思い直し、当時のアフリカとヨーロッパの関係を調べてみよう」と、ふたたび『新書アフリカ史』(宮本正興、松田素二編、講談社現代新書、1997年)を開くことにしたのである。
 その前に、ヘーゲル先生が生まれたのは1770年です。『歴史哲学講義』は先生の著作ではなく、弟子たちがヘーゲル先生の死後、先生の講義ノートや聴講生のノートをもとに編纂したものです。もとになった先生の「世界史の哲学」の講義は、1822年から23年にかけてを皮切りに計5回行われ、最後は1830年から31年にかけてだったそうです。だからぽん太が会ったのは、60代のヘーゲル先生だったことになります。
 ちなみにこの頃の日本は江戸時代で、外国船がだんだん出没するようになり、1825年には徳川家斉が外国船打払令を出しています。

 さて『新書アフリカ史』によれば、ヨーロッパと接触する以前のアフリカ伝統社会は、よくいわれているような閉鎖的で停滞した部族社会ではなく、さまざまな部族が移動や交流を行うダイナミックな社会で、数々の民族や王国の興亡がみられたそうです。しかしこうした王国は、ヨーロッパのような中央集権的な統治機構や階級はなく、対等・平等を原則とした緩やかな共同体であったといわれています。
 しかしアフリカは、15世紀末から始まったヨーロッパとの関係においては、弱者あるいは敗者の立場にたたされることになります。その代表例が奴隷貿易です。16世紀にポルトガルやスペインをはじめとする西欧諸国は、アメリカ大陸などでヨーロッパ向けの広大な農園経営を行うようになり、大量の労働力が必要となりました。そこで思いついたのが、アフリカ大陸から奴隷を連れてくることです。たしかにアフリカの伝統社会にも奴隷があり交易の対象となっていました。しかしこうした奴隷は戦争の捕虜や犯罪者の処罰として生じるもので、制度化された固定的身分ではなかったのです。ところが奴隷の需要が増大してくると、こうした自然発生的な奴隷だけでは足りなくなり、意図的に奴隷狩りが行われるようになったのです。それはアフリカ伝統社会を崩壊させる原因のひとつとなりました。
 ぽん太は、奴隷貿易はヨーロッパとアフリカの関係のなかで生じた現象であり、両者に責任があると思います。アフリカ人の野蛮さだけに帰着するのも間違いならば、アフリカ人は被害者でヨーロッパ人がすべて悪いと考えるのも間違いでしょう。
 ところでここまで書いてぽん太はふと思ったのですが、西洋人がアフリカ人を奴隷にしたのだとしたら、アジア人そして日本人も奴隷にしたのではないでしょうか。ぐぐってみるといろいろと出てくるようですが、それは今後の課題としておきましょう。
 さて、18世紀が奴隷貿易の最盛期だそうです。18世紀のヨーロッパといえば自由と平等を求める社会だったはずですが、一方では大勢の奴隷を必要としていたのです。この矛盾を埋め合わせるために、「アフリカ人は野蛮人であり、ヨーロッパ人と同じ人間ではない。だから支配や差別をしてもいいんだ」という理屈が使われたそうです。植物分類学の父と呼ばれるリンネさえも、1735年の『自然の体系』のなかで、人類をホモ・サピエンス(知恵をもつヒト)とホモ・モンストロスス(怪異なヒト)に分け、アフリカ人を後者に分類したそうです。
 しかし19世紀に入ると奴隷貿易は廃止されるようになりました。その理由ですが、ヨーロッパ人が突然人道主義に目覚めたわけではなく、ヨーロッパが資本主義に移行していくなかで、自らの意思で労働力を売る賃金労働者という人間像が生まれてきたことや、アフリカを原料を輸入し商品を売る市場という観点から見るようになってきたことがあげられます。19世紀にスタンレーやリビングストンなどによるアフリカ内陸の探検が行われたのもこうした時代の流れのなかであり、19世紀後半のヨーロッパ諸国によるアフリカの武力征服と分割、20世紀初頭の本格的な植民地化へとつながっていくのです。
 ヘーゲル先生の「世界史の哲学」の講義が行われた19世紀前半は、とっても複雑な時代だったようです。詳しく分析する能力はぽん太にはありませんが、人権への目覚め、法律に基づく自由な社会を求める動きや、植民地主義にいたる資本主義の発展などが入り交じっていた時代だったようです。ヘーゲル先生は自由と平等に基づく市民社会を擁護するのに一生懸命で、アフリカの問題を問い直す余裕はなかったのでしょう。
 ちなみに19世紀に行われたアフリカの武力による征服は、もちろん「侵略」や「支配」という名目で行われたのではなく、野蛮なアフリカに「文明を伝導する」という「善意」に基づくものとされ、キリスト教も大きな役割を果たしました。また20世紀のアフリカ植民地化のときは、「けっきょくアフリカ人は文明を受け入れる能力がないことがわかったので、彼らは未開なままにしておいて、代わりにヨーロッパ人が委任統治する」という「善意」のもとに行われました。
 侵略はつねに「善意」のもとに行われるようです。

2005/05/21

ヘーゲル先生、アフリカに対する偏見を語る

前の記事の続き
 ヘーゲル先生のアフリカに対する意見を聞こうと、ぽん太はヘーゲル先生の家(『歴史哲学講義』長谷川宏訳、岩波文庫、1994年)を訪問したのであった。
 ぽん太「で、ヘーゲル先生。アフリカについてはどう思われますか?」
 ヘーゲル先生「……黒人は自然のままの、まったく野蛮で奔放な人間です。かれらを正確にとらえようと思えば、あらゆる畏敬の念や共同体精神や心情的なものをすてさらなければならない。かれらの性格のうちには、人間の心にひびくものがないのです」(160ページ)
 ぽん太「はあはあ、いきなりすごい偏見ですね。なんと答えていいのかわかりません。ヘーゲル先生が黒人の文化が劣っていると考える理由は何ですか?」
 ヘーゲル先生「……文化の段階は宗教のありかたのうちに具体的に見て取ることができる。宗教のありかたとしてまず考えられるのは、人間が自分をこえた力……をどう意識するか、という点です。その力に対しては、人間は弱いもの、おとったもの、ということになるが、宗教のはじまりは、人間をこえたものが存在するという意識にあります。すでにヘロトドスが、黒人は魔術をつかうといっていますが、魔術のうちには共同の信仰の対象としての神は考えられてはいず、むしろ、人間こそが最高の力であり、人間は自然力にたいしてもっぱら命令をくだすものと考えられています。だから、神を精神的に尊敬したり、正義の国を構想したりといったことは、ありえない」(160ページ)
 ぽん太「黒人の宗教を知っているわけではないですが、黒人は自然を畏怖しているような気がします。人間が自然力にもっぱら命令をくだすものだと考えているのは、むしろ近代以降の西洋ではないでしょうか」
 ヘーゲル先生「黒人を考える上で、もう一つ特徴的なのは、奴隷制度です。黒人はヨーロッパ人の奴隷にされ、アメリカ人に売られますが、アフリカ現地での運命のほうがもっと悲惨だといえる。現地には絶対の奴隷制度があって、というのも、奴隷制度の根底は、人間がいまだ自分の自由を意識せず、したがって、価値のない物体におとしめられるところにあるからです。黒人は道徳的感情がまったく希薄で、むしろ全然ないといってよく、両親が子どもを売ったり、反対に子どもが両親を売ったりする」(164ページ)
 ぽん太「奴隷制度があるのは黒人に道徳がないからだ、そしてヨーロッパに売られた故奴隷のほうがアフリカの現地にいるより幸せだ、と先生はいうのですね。ぽん太は奴隷制度は、アフリカと西洋の接触のなかで、人間が商品化されていったように思えます。すべてを黒人の道徳意識のせいにするのは一面的なのでは?」
 ヘーゲル先生「これをもってアフリカに別れを告げ、以後はもう話題にすることはやめにします。アフリカは世界史に属する地域ではなく、運動も発展もみられないからです。……本来の意味でのアフリカは、歴史を欠いた閉鎖的な世界であって、いまだまったく自然のままの精神にとらわれ、世界史の敷居のところにおいておくほかない地域です」(169ページ)
 ぽん太「先生は進歩主義にとらわれていて、発展のない社会の価値がわからないのですね。自分たちの社会を最高と考え、自分たちの見方しか認めないのですね。先生に久々にお会いできたのはうれしかったですが、ちょっとがっかりしました。まあ先生も、昔のひとだからしょうがないのかもしれないけど……」
 ぽん太は暗澹たる気持ちで帰途についたのである。
(続く)

2005/05/20

久しぶりに訪ねたヘーゲル先生は、ずいぶんと人柄が丸くなっていた

 アフリカのみちくさを続けているぽん太です。
 『新書アフリカ史』(宮本正興、松田素二編、講談社現代新書、1997年)に、「こうした(黒人に対する)人種的偏見は、ヘーゲルやスペンサーといった高名な学者の著作によって高邁な科学へとまつりあげられた」(283ページ)と書いてあったのを読んだぽん太は、久々にヘーゲル先生を訪ねてアフリカに対する御意見を聞いてみることにした。思えばぽん太が以前にヘーゲル先生を訪ねたのは、もうすぐ日本にも社会主義革命がおきるとぽん太が信じていたころ、マルクス先生に「オレのいうことを理解したけりゃ、ヘーゲル先生にも会っときな」と言われたからであって、あれからどれほどの年月が過ぎ去ったことだろう? 以前にお会いしたヘーゲル先生は、難解で気位が高く、もったいぶった話し方をし、ぽん太には何を言ってるのかちっともわからなかったし、めちゃくちゃ怖かったのである。
 ところが久々に会ったヘーゲル先生は、すっかり年老いているかと思いきや、昔よりも全然若返っていたのである。それもそのはず、昔訪ねたのは武市健人訳の『歴史哲学』(岩波文庫、1971年)であったが、この本はいまでは絶版になっていて、今回訪ねたのはヘーゲルをわかりやすく訳すことにかけては定評のある長谷川宏の新訳『歴史哲学講義』(岩波文庫、1994年)なのである。
 ためしに序論の冒頭は、武市訳では、「この講義の対象は哲学的世界史である。いいかえると、われわれは世界史からして、世界史に関するいろんな一般的反省を引き出そうとしたり、また世界史の内容を例として、世界史に関する一般的反省を説こうとしたりしようとするのであるが、この対象はそんな世界史に関する一般的反省ではない。むしろ、それは世界史そのものである」(50ページ)となっております。何がなんだかわかりません。
 で、これが長谷川訳になると、「この講義の対象となるのは哲学的な世界史です。つまりここでは、世界の歴史をながめわたして、そこから一般的な反省をひきだしてきたり、歴史上のできごとを例に一般的なものの考え方を解説したりするのではなく、直接に世界史そのものを相手とします」(10ページ)となります。な〜んだ、ごく当たり前のことを言ってるだけやんけ。
 翻訳の元になった版が違うせいもあるかもしれないけど、長谷川訳のおかげで、ヘーゲル先生はとてもわかりやすい話し方をする優しくて親しみやすい先生になられたようで、「こんな先生に教わってみたい」とぽん太は思ったのである。
 ヘーゲル先生「やあ、ぽん太君。久しぶりだねぇ。精神科医になったんだって? いや、こっちも大学の独立行政法人化とかあってね。昔みたいに教授だからといってふんぞり返っていられなくなったんだよ。生徒が授業を採点する時代だからね」
 ぽん太「いや、ボクは今の先生の方が親しみやすくて好きですよ。で、ヘーゲル先生。アフリカについてはどう思われますか?」
(続く)

2005/05/17

零売(れいばい)という言葉は初めて聞きました

 4月1日から改正薬事法が施行されましたが、そのなかで「処方せん薬」と呼ばれる新しい医薬品分類ができたことは、ぽん太も耳にしておりました。しかし「医療機関には関係なさそうだし、いったいなんだろうな〜」ぐらいの認識でしかありませんでした。
 ところが先日「日経メディカル」の記事「処方せん薬」(2005年5月号、15ページ)を読んで、謎が解けました。
 記事によると「処方せん薬」は、これまでの「要指示薬」に代わるものだそうです。「要指示薬」は処方せんがなくても、医師の口頭の指示があれば薬局で販売することができました。いっぽう「処方せん薬」は、医師の処方せんがないと販売することができません。厚労省はこれまでの「要指示薬」をすべて「処方せん薬」に組み入れ、さらにこれまで「要指示薬」でなかったものも付け加えました。
 で、問題はこのような制度改正を行った理由です。記事を引用してみましょう。
 「今回の制度改正が医師の業務に与える影響は全くない。にもかかわらず、このような改正が行われた背景には、新潟市のある薬局が要指示薬以外の医療用医薬品を処方せんなしに売る分割販売(いわゆる零売(れいばい))を大々的に行い、地元医師会で問題になったことがある。新しい医薬品分類の創設が、零売に対して一定の歯止めをかけようとする動きだとみる向きは多い」。
 ぽん太は「零売」(れいばい)という言葉を初めて聞きました。ちなみに広辞苑にも出ていません。
 そこで「零売」でぐぐってみたところ、たはら整形外科のホームページ内の読売新聞の記事がヒットしました。「医師が使う医薬品、薬局が小売り」というタイトルの平成15年11月11日の記事のコピーのようです。ここには零売について、次のように解説されています。
 「この“法のすき間”を突く形で、一部の薬局・薬店は、要指示薬以外の風邪薬、鎮痛剤などの医療用医薬品を仕入れ、小分けにして販売する『零売』を行ってきた。『零売』という言葉は、明治時代の薬品取扱規則などに使われている言葉。『零』には『半端』の意味があり、小分けして販売することとされる。『零売』の実態は厚労省も把握しておらず、業界関係者は『少なくとも1960年代ごろには零売の店はあったが、ひそかに行われてきたため、一般に知られなかった』と説明する。 ところが、最近になって『零売』を宣伝する店が出てくるようになった」。
 確かに「零」を広辞苑で引くと、「3、はした。あまり。『零墨・零余・零本』」と書かれています。
 しかし気になるのは「零売」でぐぐったときにヒットする北大付属図書館のこのページで、「零売(小売)物価統計年報 康徳4年度/満州国経済部商務司」と書かれています。ということは、中国語で「小売」のことを「零売」というのかしら? 中国語を知らないぽん太にはわかりません。確かに広辞苑で「零」のほかの意味に、「2、きわめて小さいこと。『零細』」というのも書かれています。
 「零売」という言葉が中国語からきたのかどうかはわかりませんが、医薬品業界のルール違反ぎりぎりの商行為を示す業界用語として、こんにちまで生き残った言葉のようです。
 ちなみに今回の改正薬事法によって「零売」がなくなるかどうかは疑問なようで、「薬種商ピックアップニュース」に「薬事法改正以後もなくならない”処方せん医薬品”零売」という記事があり、「新潟市で開局する薬局○○○○○○。零売を堂々とPRして物議を醸し、法改正の端緒になったともいわれる店主の○○○○は、「通知は厚労省の“お願い”だから、私が嫌だと言えばそれまでのこと。従来通りの経営を続ける」と、涼しげな表情で語る」(一部伏せ字にしました)と書いてあります。

2005/05/16

アフリカをみちくさすることにした

 ジャンボ〜。みなさんお元気ですか?
 え? ジャンボって何だって? スワヒリ語で「こんにちは」という意味です。
 ぽん太はゴールデンウィークにアフリカのケニアに野生動物を見に行ってきました。ライオンやキリン、サイ、チータ、ゾウなどを間近で見てきました。それに関してはホームページでそのうち公開する予定ですが、ぽん太はこの旅行をきっかけにアフリカに興味がわいてきました。というか、自分にアフリカの知識がほとんどないことに気がついたのです。ケニアがどこにあるかも、こんかい初めて知りました。
 しかし、それもそのはず。ぽん太が高校時代に使った世界史の教科書を見てみると、アフリカが出てくるのは、15世紀末にヴァスコ・ダ・ガマがヨーロッパから喜望峰を迂回してカルカッタに行ったこと、19世紀半ばから後半にイギリスのリヴィングストンやスタンレーが「暗黒の世界」とされていたアフリカ大陸内部を探検したこと、19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパ諸国によるアフリカの分割、そして第二次世界大戦後の諸国の独立など、数カ所に限られます。これはわれわれが学んでいる歴史が、西洋中心に作られているからです。アフリカには古くから人が暮らしていたにもかかわらず、それはかつては「未知」の大陸であって、ヨーロッパ人によって「発見」されたものなのです。子供のころから叩き込まれている西洋中心史観を改めていく努力が、われわれには必要なのだと思います。
 で、手始めに、近くの本屋で売っていた『新書アフリカ史』(宮本正興、松田素二編、講談社現代新書、1997年)を読んでみました。複数の執筆者がそれぞれの専門の立場からアフリカ史を照らし出した本で、アフリカ初心者のぽん太には詳しすぎましたが、アフリカを勉強していくうえでいくつかのヒントを得ることができました。
 アフリカの言語の多くには文字がなかった。確かにスワヒリ語の文字もアルファベットが使われていました。このことがアフリカが遅れた世界であると考えられてきた原因のひとつです。文字がなかったため、歴史的な資料がほとんどないのです。そこでアフリカの歴史を研究するには、口頭伝承や遺物などを用いる必要がありますが、これらは「正統的」な歴史学では資料価値が劣るとされています。アフリカの歴史を研究するには、これまでの歴史研究の方法を変えていく必要があるそうです。
 またアフリカではさまざまな人々が周辺社会と活発な交流をしてきたにもかかわらず、西洋社会のような国家や階級制度を持たないという理由で、「未開社会」というレッテルを貼られて歴史の外に置かれてきました。
 アウストラロピテクスや初期のホモ・サピエンスの遺跡がアフリカで発見されていたことをぽん太はこの本で思い出しました。アフリカが人類発祥の地であるというのは有力な説です。この本には書かれていませんが、ミトコンドリアDNAの解析で、現代人の祖先はアフリカの一人の女性に遡ることができるという話を聞いたことがありますが、正確にはどういうことで、どういう根拠でそういえるのか、そのうちみちくさしてみたいと思います。
 奴隷貿易に関して。アフリカから奴隷として「輸出」された人々は、18世紀だけで560万人と超えると言われているそうです。当時のイギリスでは「女流婦人が黒人少年を愛玩用の子猫と同じように『飼育』することも珍しいことではなかった」(280ページ)そうです。
 人種的偏見について。啓蒙時代の哲学者もアフリカ=野蛮という考えから自由でなかったらしく、モンテスキューですら『法の精神』において、「きわめて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない」と書いているそうです。フランスの植民地政策の推進者であったジュール・フェリーは1885年の演説で、武力によってアフリカを植民地化する理由について、「なぜなら優等人種には一つの義務があるからです。すなわち劣等人種を文明化するという義務です」(323ページ)と語ったそうです。つまり植民地化は、劣ったアフリカ人に優れたヨーロッパの文明を伝えてあげるという「親切」だというわけです。こうした考え方は、日本がアジア諸国を侵略したときの言い訳や、アメリカがアフガンやイラクで行ったことを正当化する論理とどこか似ています。
 

2005/05/07

吾妻ひでお『うつうつひでお日記』を読む

 吾妻ひでおの『失踪日記』を読んで、むかし好きだった吾妻先生がアル中で精神病院に入院していたことを知ったぽん太は、流れ流れて精神科医となった自分と吾妻先生のあいだになにやら不思議な縁というかめぐりあわせを感じたのであった。
 そこでネットで検索したところ、あずまひでお公式HPを発見。『うつうつひでお日記』(産直あづまマガジン増刊、2004年、アズママガジン社)をすかさず購入することにしたのである(なお2005年5月7日現在は品切れで、5月15日頃重版の予定だそうです)。
 注文のメールを送ると、申し込み方法と宛先がメールで指示されるので、そこに手紙を出します。なにやらあやしい取り引きをしている気分ですが、決して違法ではありません。待つこと数日、封筒で雑誌が送られてきました。うきうきしながら封を切ると、なかからタバコ臭い空気が。「おお、これこそあじまセンセの家の淀んだ空気じゃ!」と、ぽん太は妙に感動したのである。
 2004年7月7日から9月1日までの絵日記が書かれています。あじまセンセが書いているように、この日記の特徴は「事件無し、波乱無し、貧乏、神経症、冷やしラーメン、そば、本屋、図書館」(3ページ)で、「ただの引きこもりの読書感想文」(46ページ)です。センセはかなりエネルギーが低下しているようで、あまり仕事をしないでよく寝ています。でも読書量はすごい!不安やうつもあるようで、「夕方から落ち込み無力感に襲われる」(7ページ)とか、「歩いている途中、不安の渦がやってきて巻き込まれる」とか、「昼過ぎからなんか暗い気持がやってきた。急いで安定剤を飲む。暗いやつは突然来るので油断できない」などという文章が見受けられます。でも全体の雰囲気は暗くはなくて、ぼちぼちたんたんちょっぴりユーモラスです。
 『失踪日記』がかなり評判のようなので、あじまセンセに仕事が殺到して忙しくなりすぎないか、ぽん太は心配です。あじまセンセ、無理しないで今の調子でほどほどにね。ときどき産直あつまマガジン買いますから。
 しかしネットによる結びつきってすごいですよね。有名なあじまセンセの個人的な雑誌を、縁もゆかりもないぽん太が簡単に手に入れられるんですからね。昔だったら考えられません。
 かわゆい女の子のイラストも多数載っています。ちなみにぽん太はロリコンではありませんのでよろしく。

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