久しぶりに訪ねたヘーゲル先生は、ずいぶんと人柄が丸くなっていた
アフリカのみちくさを続けているぽん太です。
『新書アフリカ史』(宮本正興、松田素二編、講談社現代新書、1997年)に、「こうした(黒人に対する)人種的偏見は、ヘーゲルやスペンサーといった高名な学者の著作によって高邁な科学へとまつりあげられた」(283ページ)と書いてあったのを読んだぽん太は、久々にヘーゲル先生を訪ねてアフリカに対する御意見を聞いてみることにした。思えばぽん太が以前にヘーゲル先生を訪ねたのは、もうすぐ日本にも社会主義革命がおきるとぽん太が信じていたころ、マルクス先生に「オレのいうことを理解したけりゃ、ヘーゲル先生にも会っときな」と言われたからであって、あれからどれほどの年月が過ぎ去ったことだろう? 以前にお会いしたヘーゲル先生は、難解で気位が高く、もったいぶった話し方をし、ぽん太には何を言ってるのかちっともわからなかったし、めちゃくちゃ怖かったのである。
ところが久々に会ったヘーゲル先生は、すっかり年老いているかと思いきや、昔よりも全然若返っていたのである。それもそのはず、昔訪ねたのは武市健人訳の『歴史哲学』(岩波文庫、1971年)であったが、この本はいまでは絶版になっていて、今回訪ねたのはヘーゲルをわかりやすく訳すことにかけては定評のある長谷川宏の新訳『歴史哲学講義』(岩波文庫、1994年)なのである。
ためしに序論の冒頭は、武市訳では、「この講義の対象は哲学的世界史である。いいかえると、われわれは世界史からして、世界史に関するいろんな一般的反省を引き出そうとしたり、また世界史の内容を例として、世界史に関する一般的反省を説こうとしたりしようとするのであるが、この対象はそんな世界史に関する一般的反省ではない。むしろ、それは世界史そのものである」(50ページ)となっております。何がなんだかわかりません。
で、これが長谷川訳になると、「この講義の対象となるのは哲学的な世界史です。つまりここでは、世界の歴史をながめわたして、そこから一般的な反省をひきだしてきたり、歴史上のできごとを例に一般的なものの考え方を解説したりするのではなく、直接に世界史そのものを相手とします」(10ページ)となります。な〜んだ、ごく当たり前のことを言ってるだけやんけ。
翻訳の元になった版が違うせいもあるかもしれないけど、長谷川訳のおかげで、ヘーゲル先生はとてもわかりやすい話し方をする優しくて親しみやすい先生になられたようで、「こんな先生に教わってみたい」とぽん太は思ったのである。
ヘーゲル先生「やあ、ぽん太君。久しぶりだねぇ。精神科医になったんだって? いや、こっちも大学の独立行政法人化とかあってね。昔みたいに教授だからといってふんぞり返っていられなくなったんだよ。生徒が授業を採点する時代だからね」
ぽん太「いや、ボクは今の先生の方が親しみやすくて好きですよ。で、ヘーゲル先生。アフリカについてはどう思われますか?」
(続く)
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