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2005年8月の8件の記事

2005/08/30

藤田みどり『アフリカ「発見」』を読むーーやはり日本人も奴隷売買されていた

 『アフリカ「発見」 日本におけるアフリカ像の変遷』(藤田みどり著、岩波書店、2005年)を読んでみました。日本人がアフリカとどのように関わり、どのようなイメージを抱いてきたか、それらは時代のなかでどう変わってきたかが書かれています。
 そもそも黒人が初めて日本に来たのは、ポルトガル人が種子島に漂着してからわずか3年後の1546年だそうです。この黒人はヨーロッパ船の船員か下僕だったと思われます。好奇心の強い日本人は、黒人にかなりの興味をいだいたようで、遠くは百キロも離れたところから見物にきたそうです。
 織田信長は、宣教師の一行が信長に謁見を申し入れたとき、同行の黒人見たさに予定より二日も早く本能寺に招きました。信長は、黒い肌を目の前にしても本物だと信じられず、上半身を裸にしたうえに洗わせて確認し、子どもたちを呼び寄せて見物したそうです。
 ところで以前の記事でぽん太は、ヨーロッパ人が黒人を奴隷売買したのなら、日本人も奴隷売買したのではないかと書きましたが、本書には日本人の奴隷売買のことが書かれています。
 はやくも1550年代には、日本人は奴隷として海外に売り飛ばされていました。インドのゴアではポルトガル人よりも日本人奴隷の方が多かったと言われており、また天正の少年使節も、同胞が海外にあちこちに安値で売りさばかれて使役されているのを見て、憐憫の情を抱いたと証言しています。
 1587年九州に出兵した秀吉は、そこで初めて日本人の奴隷売買の実態を知って激怒します。日本人奴隷は手足に鎖をつけられ、男女を問わず舟底に押し入れられ、さながら地獄のようであったといいます。秀吉は奴隷売買の禁止令を出しますが、以後も奴隷売買は跡をたたなかったようです。
 さて、その後ヨーロッパ諸国に肩を並べようとしていった日本は、ヨーロパ人のアフリカに対する偏見をそのまま受け入れて行ったようです。本書を通じて、アフリカ人に対する日本人独自の視点といったものは特に見られませんでした。また本書では、近代以降の分析が小説や映画を素材にして行われているのが少し物足りなく思いました。政治的・経済的な関わりも含めて論じて欲しかった気がします。

2005/08/28

日本武尊と白鳥御陵

 ぽん太は以前の記事で、武甲山山頂の「白鳥神剣神社」が、日本武尊(やまとたけるのみこと)や草薙の剣に関係しているのではないかと書きました。
 さて先日ぽん太は、草薙の剣を祀っている名古屋の熱田神宮に行ってきたのですが、その近くに白鳥公園というものがあるではないか。これはアヤシイ!
 ぐぐってみるとありました、ありました。白鳥公園のなかにある前方後円墳は白鳥御陵と呼ばれ、まさに日本武尊の御陵であるといわれているそうです。

 しかしであ〜る。『古事記』(三浦佑之訳、文芸春秋、2002年)によると、日本武尊が能煩野(のぼの)で息絶えると、その魂は白鳥となって飛び立ち、河内の国の志幾(しき)に留まったのち、天高く飛び去った。そこで志幾に御陵を造られ、白鳥の御陵と呼ばれるようになった、と書かれています。これは名古屋ではなさそうです。
 また『日本書紀』(宇治谷孟訳、講談社学術文庫、1988年)によれば、能褒野(のぼの:三重県鈴鹿郡)で亡くなった日本武尊はそこに造られた陵に葬られたが、白鳥となって飛び立ち、倭(やまと)の琴弾原(ことひきはら:奈良県御所市富田)に留まったのでそこに陵が造られ、次に河内の古市邑(ふるいちのむら)(大阪府羽曳野市軽里)に留まったのでそこにも陵が造られ、最後に天高く飛んで行った。これら三つの陵は白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼ばれた、と書いてあります。これら三カ所には、現在も白鳥御陵があるようです
 『平家物語』(12巻、杉本圭三郎訳、講談社学術文庫、1991年)の時代になると、日本武尊は「尾張国熱田の辺でついにおなくなりになった」(202ページ)とされ、熱田神宮の信仰が盛んになった影響なのか、死んだ場所が変わっています。

2005/08/27

熱田神宮に行ってみたーーなんと草薙の剣を祀る神社だった

 台風が近づいて山に行けないと知ったぽん太とにゃん子は、急遽、愛・地球博に行ってきました。ところが仕組みがよくわかっていなかったため、当日予約を取るのを知らず、人気のパビリオンに入れませんでした。でも冷凍マンモスはなかなかすごかったですし、アフリカ共同館に目立たず陳列してあった、ホモ・サピエンスの頭蓋骨は感動しました。
 また名古屋の前夜泊で生まれて初めて「ひつまぶし」をいただきましたが、おいしゅうございました。ミソカツ、エビフライ、小倉トーストもおいしゅうございました。
 で、熱田神宮に「みちくさ」してきました。
atuta
熱田神宮の公式ホームページによりますと、

【名称】熱田神宮
【鎮座地】愛知県名古屋市熱田神宮1-1-1
【御祭神】熱田大神(あつたのおおかみ)
【相殿】天照大神(あまてらすおおみかみ)
    素盞鳴尊(すさのおのみこと)
    日本武尊(やまとたけるのみこと)
    宮簀媛命(みやすひめのみこと)
    建稲種命(たけいなだねのみこと)
【御由緒】熱田神宮の創始は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の御鎮座に始まります。第12代景行天皇の御代、日本武尊は神剣を名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられました。尊のお妃である宮簀媛命は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました。
 以来伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ国家鎮護の神宮として特別のお取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれてきました(以上、公式ホームページからの抜粋)。
 また、境内で配っていた「熱田神宮について」というパンフレットによると、熱田神宮の建物は戦災ですべて消失し、現在の建物は昭和30年に御遷座したものだそうです。

 さて、まず御祭神の熱田大神ですが、「熱田神宮について」には、「祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代(みたましろ)として、よらせられる天照大神のことであります」と書かれています。
 つまり御祭神は、草薙の剣という「モノ」ではなく、また天照大神そのものでもなく、草薙の剣に「よらされる」天照大神であるところの熱田大神なのです。
 これを理解するには、「神社には神様はいない」ということを知っている必要があります。神社は神様を地上に呼び寄せるための装置なのです。神様はいつもはどこか知りませんが神様の世界にいて、神事があるときには神社に神様を呼んできて儀式を行い、終わるとまた神様の世界にお帰りいただくのです。例えれば、こっくりさんみたいなものですね。で、神様を降臨させるためのアンテナのようなものが必要なのですが、それは森でも山でもいいし、神籬(ひもろぎ:榊の枝から紙をたらしたもの)でもいいわけですが、熱田神宮のばあいはなんと有り難いことに草薙の剣であり、そこに天照大神が降臨するわけで、それを熱田大神と呼ぶわけです。

 相殿に目を向けてみましょう。天照大神と素戔鳴命の兄弟は、言わずと知れた立派な神様ですが、『古事記』(三浦佑之訳、文芸春秋、2002年)によると、素戔鳴命が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したときにしっぽから出てきたのが、のちに草薙の剣と呼ばれるようになった剣であり、その剣は天照大神にあずけられたので、二人は草薙つながりでもあります。
 日本武尊ですが、彼が草薙の剣を携えて東国の征伐に向かった話しも有名で、だまされて野原で焼き殺されそうになったとき、この剣で火を防いだことから草薙の剣と呼ばれるようになり、ついでにその土地は焼津と呼ばれるようになったのですね。
 宮簀媛命(みやすひめのみこと)は尾張の国造(くにのみやっこ)の祖先でしたが、日本武尊の妻となりました。日本武尊は草薙の剣を妻に預けたまま、三重県で死んだのです。
 最後に建稲種命(たけいなだねのみこと)ですが、尾張の連(むらじ)の先祖であり、建稲種命の三人の孫娘が、応神天皇の妻となったとされています(前掲書、229ページ)。

 御由緒に関してですが、宮簀媛命のもとに残された草薙の剣がどうなったかは、『古事記』には書かれていません。『日本書紀』(上・下、宇治谷孟訳、講談社学術文庫)には、「初め日本武尊のさしておられた草薙剣は、いまは尾張国年魚市郡(あゆちのこおり)の熱田神宮にある」(上、173ページ)と書かれています。

ところで、草薙の剣は平家が壇ノ浦で滅んだとき海の底に消えたはずですが、それでは熱田神宮に祀られている草薙の剣は何なのか、さらに現代の皇室に三種の神器のひとつとして伝わる草薙の剣は?という疑問が次々と湧いてきますが、今回の「みちくさ」はこの辺にしておきましょう。

2005/08/23

木曽殿山荘の伝説について

 中央アルプスの空木岳の近くに、木曽殿山荘という名前の山小屋があります。とても変わった名前ですが、この山小屋があるところを「木曽殿越」といい、近くの湧き水は「義仲の力水」と呼ばれています。なにやら由緒ありげな名前ですが、ぽん太が以前の記事で書いたように、山小屋の前に立て札があって、正確には覚えていませんが、「木曽義仲が旗揚げをして伊那の豪族の笠原氏を攻めたときに、ここを越えたという伝説がある」というようなことが書いてありました。

 ほ〜お、そんな伝説があるのか、ということで「みちくさ」したくなったぽん太は、まず手元にある『平家物語』((1)〜(12)、杉本圭三郎全訳注、講談社学術文庫)をひもといてみた。しかし出てな〜いのである。
 木曽義仲の名は、巻第四「源氏揃」(げんじぞろえ)に名前があげられ(4巻76ページ、87ページ)、巻第四「通乗之沙汰」(とうじょうのさた)にでも話しのなかでちらりと触れてあります(4巻247ページ)。物語の登場人物として描かれるのは、巻第六「廻文」(めぐらしぶみ)が最初で、簡単に生い立ちが述べられたのち、頼朝の決起に応じて義仲が挙兵した経緯が書かれています。しかし「……信濃国では根井の小弥太、海野の行親を説得すると、背くことなく同意した。これをはじめとして、信濃国の武士たちは、従わないものはなかった」(6巻96ページ)とあっさりと書かれています。

 見つからないとなるとますます気になるもの。次は『吾妻鏡』のチェックです。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の歴史書で、13世紀後期から14世紀初めに書かれたものだそうです。ありがたいことに『吾妻鏡』はネットで見ることができます
 治承4年(1180年)9月7日をコピペいたします。一部略しています。

9月7日 丙辰
 源氏木曽の冠者義仲主は、帯刀先生義賢が二男なり……爰に平家の方人小笠原の平五頼直と云う者有り。今日軍士を相具し木曽を襲わんと擬す。木曽の方人村山の七郎義直並びに栗田寺別当大法師範覺等この事を聞き、当国市原に相逢い、勝負を決す。両方合戦半ばにして日すでに暮れぬ。然るに義直箭窮まり頗る雌伏す。飛脚を木曽の陣に遣わし事の由を告ぐ。仍って木曽大軍を率い競い到るの処、頼直その威勢に怖れ逃亡す。城の四郎長茂に加わらんが為、越後の国に赴くと。

 「笠原」キタ〜〜〜! ん? 「小笠原」?
 そこで漢文ですけれど別のサイトを見てみると、

L01養育之、成人之今、武略禀性、征平氏、可興家之由、有
L02存念。而前武衛、於石橋、已被始合戰之由、逹遠聞、忽
L03相加欲顯素意。爰平家方人、有笠原平五頼直者。今
L04日相具軍士、擬襲木曽。々々方人、村山七郎義直、并
L05栗田寺別當大法師範覺等。聞此事。相逢于當國市
L06原、決勝負、兩方合戰半、日已暮。然義直、箭窮頗雌伏、
L07遣飛脚於木曽之陣、告事由。仍木曽、率大軍、競到之
L08處、頼直、怖其威勢逃亡。爲城四郎長茂、赴越後國〈云云〉

 ちゃんと「笠原」になっているようです。きっとサイトの作者の誤植でしょう。
 古文が苦手なぽん太には訳せませんが、「平家方の笠原平五頼直というものがいて、木曽を襲おうとして市原で戦った。なんだかんだあって木曽が大群を率いて押し寄せてきたため、怖じ気づいて逃げ、越後の城四郎長茂軍に合流しようとした」ということだと思います。「市原」というのが現在のどこなのかよくわかりませんが、木曽谷から峠を越えて伊那谷に攻め込んだとは書いてありません。

 もうネットではわからんということで、図書館で『新定 源平盛衰記 3巻』(水原一考定、新人物往来社)を借りて読んでみました。『源平盛衰記』は、平家物語をもとに鎌倉中・末期に成立したと考えられている物語です。
 ところが『源平盛衰記』にも、『平家物語』と同様に、市原の戦いすら書かれておりません。しかし笠原頼直の名は、横田河原の合戦において、義仲軍と戦う武将のひとりとして出てきます。横田河原の合戦とは、越後の城四郎長茂(ながもち)が義仲を討とうとして横田河原(現在の長野市篠ノ井横田)に陣を進め、依田城(現在の丸子町御嶽堂)にいた義仲がこれを迎え撃って勝利した合戦です。さきほど述べた『吾妻鏡』からのつながりだと、市原の戦いで敗れて逃げた笠原頼直が越後の城四郎長茂と合流し、再び義仲と戦ったことになるはずです。ところが『吾妻鏡』で笠原頼直は、「頼直は今年で53歳になり、これまで26回の戦をしてまいりましたが、いまだに不覚をとったことはありません」(ぽん太訳、前掲書296ページ)などと言っており、市原の戦いで義仲に破れたことなどなかったことになっております。

 さらに小説ではありますが、『旭のぼるー木曽義仲の生涯』(塩川治子著、河出書房新社、1997年)、『木曽義仲』(山田智彦著、NHK出版社、1999年)を見ても、市原の戦いのことは書かれているけれど、峠を越えて伊那谷に攻め込んだとは書かれていません。

 ということで、けっきょく木曽殿山荘の伝説のソースはわかりませんでした。今回のぽん太の「みちくさ」はまったくの無駄骨でしたが、『吾妻鏡』だの『源平盛衰記』だの、普通なら絶対読むはずもない本に接する機会ができただけでもよかったとしましょう。

2005/08/21

南アルプス南部縦走(荒川岳、赤石岳、聖岳)

 今年の夏休みは、南アルプスに行ってきました。
 8月8日、清水インターで高速を降り、カーナビの言うとおりに国道362号線を通って大井川鉄道の千頭(せんず)駅に出る道を使ったのですが、この峠道も、井川湖まで抜ける道も、細くて走りにくいことこのうえありません。あとで東海フォレストの送迎バスの運転手さんに聞いたら、静岡市内から安倍川に沿って北上し、富士見峠を経て接岨峡に至る道が、バスも通れる広い道だということです。詳しくはこちらのロードマップをご覧ください。
 さて、これからの長い縦走を前にして「風呂の入り納め」ということで、赤石温泉白樺荘に立ち寄りました。ぽん太好みの鄙びたすばらしい温泉でした。
フシグロセンノウ 畑薙第一ダムの駐車場に車を停め、無料送迎バスで椹島に入ります。椹島ロッジは少年院のような立派な建物で(冗談です)、個室になっていて快適でした。ロッジの周囲は、アジサイや、フシグロセンノウのオレンジの花や、シナノナデシコが咲いていました。

【山名】荒川岳(3141m)、赤石岳(3120.1m)、聖岳(3013m)
【山域】南アルプス
【日程】2005年8月9日〜8月12日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】(8/9)晴れ、(8/10)雨、強風、(8/11)快晴、(8/12)雷雨のち曇り
【コース】(8/9)椹島ロッジ(5:35)…千枚小屋(12:30)
(8/10)千枚小屋(4:51)…荒川岳(悪沢岳)(7:05)…赤石岳(12:35)…百間洞山の家(14:55)
(8/11)百間洞山の家(5:11)…聖岳(11:16-13:03)…聖平小屋(14:56)
(8/12)聖平小屋(5:30)…聖平登山口(てっぽうせき橋)(9:59)
【みた花】(8/9)シナノナデシコ、フシグロセンノウ、ソバナ、シャクジョウソウ(初)、ナガバノコウヤボウキ(初)、ハクサンオミナエシ、セリバシオガマ、イチヤクソウ、カニコウモリ、アキノキリンソウ、カイタカラコウ、サラシナショウマ、キタザワブシ、マルバダケブキ、クルマユリ、トモエシオガマ、シナノキンバイ、イブキトラノオ、グンナイフウロ?、ニッコウキスゲ、クロトウヒレン(初)、エゾシオガマ、ハクサンフウロ
(8/10)コゴメグサ、ウサギギク、ミネウスユキソウ、ミヤマオトコヨモギ、ホソバツメクサ、イワツメクサ、タカネビランジ、イワベンケイ、イブキジャコウソウ、ミヤマウイキョウ、チシマギキョウ、キタダケヨモギ(初)、タカネナデシコ、イワインチン(初)、タカネコウリンカ(初)、ミヤママンネングサ、タカネヒゴタイ、ヨツバシオガマ、タカネヤハズハハコ、ハクサンボウフウ、ミヤマシオガマ(初)、ミヤマダイコンソウ、アオノツガザクラ、キバナコマノツメ、ハクサンイチゲ、チシマギキョウ、ミヤマホツツジ、ネバリノギラン(初)、ミソガワソウ
(8/11)ミヤマアケボノソウ、ミヤマシャジン、キオン、イワオトギリ、トウヤクリンドウ、シコタンハコベ(初)、ダイモンジソウ、ミヤマミミナグサ(初)、シコタンソウ(初)、イワギク(初)、マツムシソウ、
(8/12)クガイソウ、ミソガワソウ、ハンゴンソウ、コウモリソウ(初)、モミジガサ(初)、クルマバツクバネソウ、タニジャコウソウ(初)

シャクジョウソウ 初日は千枚小屋までの登りです。急ではないけれども長い道のりです。シャクジョウソウを初めて見ました。ギンリョウソウに似ていますが、やや黄金色で、花のかたちも違います。
 千枚小屋で一泊です。逆回りで縦走してきた登山者の会話から、稜線の花のすばらしさが期待されます。

タカネビランジ2日目、千枚岳への登りで、いきなりタカネビランジが咲き乱れていいました。高山植物ではなくて園芸種かと見まごうばかりの華麗な花です。今回の登山で一番印象に残った花です。
ライチョウ 朝はなんとかもっていた天気がだんだん悪くなってきました。雨が降り出し、おまけによろけるほどの強風です。花の写真を撮るどころではありません。ライチョウ君の一家が現れたのでパチリ。南アルプスにもライチョウはいるんですね。それからみなさん、ライチョウも飛びます!ぽん太はたしかに見ました。
ミヤマシオガマ 赤石避難小屋をすぎたあたりから天気が回復してきて、再び花の撮影開始です。ミヤマシオガマです。ピンクのシオガマはいろいろありますが、花が丸くまとまって咲く、葉がニンジンのように細かく切れ込む、花の上唇がくちばしのように湾曲しているなどの特徴があります。ぽん太は初めて見ました。
ネバリノギラン ネバリノギランです。ぽん太は今回初めて同定したのですが、これまで枯れたチドリかなんかだと思って見逃していた可能性があります。ふと見ると蜂がとまって蜜を吸っていたので、この格好と色合いで立派に咲いている花だとわかりました。触ると花や茎がネバネバします。
トンカツ その夜は「百間洞山の家」に泊まりました。難読漢字ですが、「ひゃっけんぼらやまのいえ」と読むようです。夕食はなんと揚げたてのトンカツです。揚げたてをいただくため、一度に8人ずつ15分間隔で呼ばれます。小屋の規模が小さいのをうまく生かした、すばらしいサービスだと思います。ぽん太は、南アルプスの山小屋は小さくてぼろいという先入観を持っていましたが、どこも新しく立て替えられ、小ささを生かしたアットホームなサービスでした。
 荒川岳、赤石岳周辺の山小屋の多くは、東海フォレストという会社が運営しています。細薙第一ダムから無料の送迎バスを走らせているのもこの会社です。あまり儲かるとも思えない山小屋を運営し、無料バスのサービスもして、経営はなりたっているのでしょうか?東海フォレストは東海パルプという会社の関連会社ですが、南アルプス南部の山林の多くを所有しているようです。南アルプスの地図を見てみると、南アルプス国立公園は山頂や稜線付近に細長く伸びているだけですが、その理由は東海パルプが山林を所有しているからだというウワサをぽん太は聞いたことがありますが、真偽のほどはわかりません。

シコタンハコベ 3日目は快晴となりました。聖岳山頂を経て聖平小屋に向かいます。地味な小物系の花をふたつ紹介しましょう。
シコタンソウ シコタンハコベです。花の直径は1センチほどです。赤い雄しべの先がきれいです。
 シコタンソウです。こちらも1センチ程度の花ですが、花びらの赤と黄色の点々がかわいいですね。
マルバダケブキ さて、マルバダケブキの大群落です。向かい側の斜面までぎっしり咲いていました。豪華ですが毒々しさもあり、まるで極楽か地獄か、夢の中のような幻想的な風景でした。
聖平小屋 聖平小屋では、スイカの無料サービスがありました。こちらは静岡市井川観光協会が運営しているようですが、アマゴという魚を売りにしており、夕食には唐揚げ、朝食には甘露煮が出ました。おいしゅうございました。

 最終日は、てっぽうせき橋の聖岳登山口まで、長い長い下りです。朝から雷雨でしたが、途中で雨は上がりました。東海フォレストの無料送迎バスは、椹島方面でしたら途中から乗せてもらえます。バスをひろって椹島まで行き、そこで改めて乗車手続きをして、細薙第一ダムの駐車場に戻りました。
 接岨峡温泉会館で汗を流したのち、寸又峡温泉山湯館で一泊して、帰途につきました。

2005/08/16

空木岳でヒメウスユキソウの大群落見て来たよ

 実は空木岳は2度目のチャレンジである。2年前に木曽駒ヶ岳、空木岳の縦走を試みたものの天気は最悪。雨とガスで視界が悪くて、どんな地形なのかもわからないまま千畳敷カールを登り、どんな山かわからないまま木曽駒ヶ岳山頂を踏み、宝剣山荘で翌日の晴天を願いながら一泊したものの、翌朝はさらに激しい雨となり縦走を断念したのだ。
 しかし今回は大快晴である。下界は猛暑とのことだが、快適な稜線歩きを楽しめた。

【山名】空木岳(2863.7m)
【山域】中央アルプス
【日程】2005年7月20日〜7月21日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】二日とも快晴
【コース】(7/20)駒ヶ岳ロープウェイ千畳敷駅(7:33)…極楽平…木曽殿山荘(14:42)
(7/21)木曽殿山荘(5:47)…空木岳(7:01-7:37)…菅ノ台バスセンター(13:47)
【みた花】(千畳敷カール)コバイケイソウ、イワツメクサ、ミヤマキンバイ、シナノキンバイ、イワカガミ、アオノツガザクラ、チングルマ、ツガザクラ、キバナコマノツメ
 (極楽平〜木曽殿山荘)ハハコヨモギ(初)、ヒメウスユキソウ(コマウスユキソウ)(初)、ホソバツメクサ、タカネシオガマ、チシマギキョウ、ミヤマダイコンソウ、コケモモ、イワウメ、ツマトリソウ、キバナシャクナゲ、マルバナイワヒゲ(初)、シナノオトギリ(初)、ムカゴトラノオ、カラマツソウ、ハクサンイチゲ、ハクサンチドリ、ヒメイチゲ、タカネニガナ、チョウジコメツツジ(初)、ミヤマオトコヨモギ、オオバタケシマラン、イワオオギ、チョウノスケソウ、シナノキンバイ、ヨツバシオガマ、イワベンケイ
 (木曽殿山荘周辺)イブキトラノオ、タカネグンナイフウロ、ホソバトリカブト、ニッコウキスゲ、オタカラコウ、シラネニンジン、エゾシオガマ、トリアシショウマ、タチカメバソウ(初)、バイケイソウ
 (空木岳〜菅ノ台バスセンター)キソチドリ(初)、シラタマノキ(初)、チョウジコメツツジ、ジンヨウイチヤクソウ、セリバシオガマ、ヤナギラン、コバノイチヤクソウ(初)、センジュガンピ、ウツボグサ、コバギボウシ(初)、オカトラノオ(初)、イチヤクソウ

03sinano 前回登った木曽駒ヶ岳はパスして、ロープウェイ千畳敷駅から直接極楽平へ向かった。千畳敷カールの盟主としてそびえる宝剣岳にも登りたかったが、今回は時間の関係であきらめた。シナノキンバイをはじめさまざまな花が美しく咲いていました。
01himeusu 稜線の極楽平に出ると、ありましたありました、ヒメウスユキソウ(別名コマウスユキソウ)とハハコヨモギの大群落です。どちらもぽん太は初めてです。02hahakoヒメウスユキソウはとても小さくて、ホソバツメクサと見間違いそうになるほどの、かわいい花です。
04kisodono 木曽殿山荘というのは変わった名前だが、木曽義仲が旗揚げをして伊那の豪族の笠原氏を攻めたときにここを越えたという伝説から来たと、カンバンに記されていました。それゆえこの地を「木曽殿越」といい、近くの水場を「木曽義仲の力水」と呼ぶそうです。この伝説に関して、ぽん太はちょっと「みちくさ」したい気になりましたが、また日を改めて書くことにしましょう。
 木曽殿山荘から水場にかけては、見事なお花畑でした。

 翌朝はいきなり急登で空木岳山頂を目指します。360度の大展望を楽しんだあとは、菅ノ台バスセンターまで6時間の長い下りが待っています。05sentoバスとロープウェイで登った道のりを、歩いて下るのですからたいへんです。頂上直下は、不思議なかたちの巨岩がごろごろしていました。この岩などは、「千と千尋の神隠し」に出て来そうな気がします。
06kisoti キソチドリを見つけました。ランの一種の清楚な花です。花を上から見ると、カエルが飛び跳ねているように見えます。
07tyouji チョウジコメツツジです。小さな筒形の花が咲いています。

 下山後は露天こぶしの湯で汗をながしました。まあまあ普通の立ち寄り湯でしたが、その近くにあって偶然入った丸富の蕎麦は絶品でした。

2005/08/05

『法華経』を読む(2)ーー誰でも仏になれる

 『法華経』(上・中・下、坂本幸男・岩本裕訳注、岩波文庫)を読み進めましょう。さて、法華経で繰り返し語られる大切な教えは、ひとことで言えば「誰でも仏になれる」ということです。
 でも正直に言うと、現代の仏教解釈から入門したぽん太には、この教えは当たり前に感じられます。「誰でも仏になれる」ことを強調していることのほうが不思議に感じられました。この教えを強調しているということは、『法華経』が、小乗仏教から大乗仏教に移行した初期に書かれたお経であることを示していると思われました。
 そこで仏教の歴史を調べてみました。仏陀がいつごろの人かについては諸説がありますが、だいたい紀元前5世紀頃と言われています。仏陀の死後、信者の集団は教義の解釈によってさまざまに分裂しました。彼らの一部は、出家して僧となり厳しい修行することによって自分自身が救われることを目指すようになり、その教義は思弁的・哲学的なものになっていきました(上座部仏教)。彼らは、自分たちが仏陀と同じような完全な悟りを得られるとは考えていませんでした。修行によってある程度の悟りには到達できるが、その境地は仏陀には及ばないと考えていたのです。ところがこうした考え方に反対する動きが高まってきました。在家信者を中心に、自分が悟るだけではなく他人を救うことを目的とし、誰もが成仏できるという考え方に基づく仏教が展開したのです。彼らは、自分たちの教えを大乗仏教(すぐれた乗り物)と呼び、上座部仏教を小乗仏教(劣った乗り物)と呼びました。この大乗仏教の教えに基づいて1世紀から3世紀頃に創られたのが、『法華経』や『般若経』『維摩経』『華厳経』『無量寿経』などの初期大乗経典です。あ、お経は仏陀自身が書いたものではなく、後世のひとが編纂したものだという点はいいですよね。
 『法華経』で仏陀が説法している時期が、仏陀の生涯のどのあたりに位置づけられているのかぽん太はわからないのですが、すでに多くの弟子を引き連れ、さまざまな教えを説いて来ているようです。このときはじめて仏陀は、「誰でも仏になれる」という全く新しい教えを説いたわけです。ということは、これまで仏陀は小乗の教えを説いて来て、弟子たちはそれを信じて修行をしてきたことになります。「誰でも仏になれる」と聞いた弟子たちは、「おひおひ、いままで言ってたこととちがうじゃん」と、びっくり仰天したことでしょう。長年仏陀に従って修行をして来たシャーリ=プトラは、この新しい教えを聞いて踊りあがって悦んだと書かれています(上、135ページ)。またこの教えを聞いた天子たちは、「ヴァーナラーシーにおいて、偉大な勇士よ、あなたは五蘊(ごうん)の生起と滅亡とを説かれた。かの地で最初に回された教えを、指導者よ、あなたはこことで再び回された」(上、157ページ)と、この説法が仏陀の最初の説法に匹敵するものだと言って讃えています。
 では仏陀は、これまで嘘をついて弟子たちをだましていたのでしょうか。いえ、それは「方便」だったのです。「方便」というと、現在では「うそも方便」ということわざのように、便宜的に用いる都合のよい手段のように使われています。しかしもともとの仏教用語では、相手のレベルに応じて教えを説くことを言います。つまり相手のレベルが低いばあい、いきなり「誰でも仏になれる」という真の教えを説いても理解できないので、まず真実ではないがわかりやすい小乗の教えを説いたのです。そして相手のレベルが十分高まったところで、本当の教えを説くのです。
 「譬喩品 第三」では、有名な「火宅の譬喩」によって、大乗の教えこそが本当の教えであることが説かれますが、どの解説書にも書いてあるのでぽん太は省略いたします。

2005/08/04

虫除け剤の安全性

 虫除け剤に関して、次のような記事が出ていました。

厚労省、虫よけ剤の安全性検討(共同通信)
 蚊などに刺されないよう皮膚にスプレーしたり塗ったりする虫よけ剤について、厚生労働省は4日までに、子供に使用した場合の安全性や、適切な使用方法・量の表示の必要性などを検討することを決めた。15日に専門家らによる検討会を開く。国民生活センターは6月、安全で有効な使用方法の表示や子供での安全性評価をすべきだと、厚労省や業界に要望した。
[共同通信社:2005年08月04日 07時20分]

 ぽん太は以前のブログで、虫除け剤のディートについて書きました。ディートはアメリカ軍が1946年に開発したもので、現在でも兵士の虫除けとして使われていますが、湾岸戦争症候群の原因物質のひとつではないかと疑われています。
 HOTWIRED JAPANに、ちょっと古い2003年のものですが、効果と安全性を備えた新しい虫よけ成分を発見という記事があります。ディートに変わる新しい虫除け物質SS220が開発されたことの紹介ですが、ディートの問題点や危険性についても書かれています。
 長期に繰り返し使用すると、子供ではけいれんや昏睡、大人では精神の混乱やイライラ、不眠が現れたそうです。2002年に発表された論文では、ディートを長いあいだ頻繁に投与したネズミに、脳細胞の破壊と行動変化が認められたといいます。こうした症状は、湾岸戦争症候群と似ているそうです。
 米国小児科学会は、子供にはディートの含有量が10%以下のものを使うよう奨励しています。カナダ保健省はディートの含有率を30%に制限したそうです。
 現在米軍で使用している虫除け剤にはディートが33%含まれているそうですが、1990年代前半に使用していたものには75%も含まれていたそうです。その結果、虫除け剤を使いたがらない兵士が増えてきたとも書かれています。

 今後地球温暖化で気温が上がると、日本でも蚊が媒介するウエストナイル熱などの熱帯病が増加する可能性があり、虫除けが必需品になるかもしれません。

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