中央アルプスの空木岳の近くに、木曽殿山荘という名前の山小屋があります。とても変わった名前ですが、この山小屋があるところを「木曽殿越」といい、近くの湧き水は「義仲の力水」と呼ばれています。なにやら由緒ありげな名前ですが、ぽん太が以前の記事で書いたように、山小屋の前に立て札があって、正確には覚えていませんが、「木曽義仲が旗揚げをして伊那の豪族の笠原氏を攻めたときに、ここを越えたという伝説がある」というようなことが書いてありました。
ほ〜お、そんな伝説があるのか、ということで「みちくさ」したくなったぽん太は、まず手元にある『平家物語』((1)〜(12)、杉本圭三郎全訳注、講談社学術文庫)をひもといてみた。しかし出てな〜いのである。
木曽義仲の名は、巻第四「源氏揃」(げんじぞろえ)に名前があげられ(4巻76ページ、87ページ)、巻第四「通乗之沙汰」(とうじょうのさた)にでも話しのなかでちらりと触れてあります(4巻247ページ)。物語の登場人物として描かれるのは、巻第六「廻文」(めぐらしぶみ)が最初で、簡単に生い立ちが述べられたのち、頼朝の決起に応じて義仲が挙兵した経緯が書かれています。しかし「……信濃国では根井の小弥太、海野の行親を説得すると、背くことなく同意した。これをはじめとして、信濃国の武士たちは、従わないものはなかった」(6巻96ページ)とあっさりと書かれています。
見つからないとなるとますます気になるもの。次は『吾妻鏡』のチェックです。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の歴史書で、13世紀後期から14世紀初めに書かれたものだそうです。ありがたいことに『吾妻鏡』はネットで見ることができます。
治承4年(1180年)9月7日をコピペいたします。一部略しています。
9月7日 丙辰
源氏木曽の冠者義仲主は、帯刀先生義賢が二男なり……爰に平家の方人小笠原の平五頼直と云う者有り。今日軍士を相具し木曽を襲わんと擬す。木曽の方人村山の七郎義直並びに栗田寺別当大法師範覺等この事を聞き、当国市原に相逢い、勝負を決す。両方合戦半ばにして日すでに暮れぬ。然るに義直箭窮まり頗る雌伏す。飛脚を木曽の陣に遣わし事の由を告ぐ。仍って木曽大軍を率い競い到るの処、頼直その威勢に怖れ逃亡す。城の四郎長茂に加わらんが為、越後の国に赴くと。
「笠原」キタ〜〜〜! ん? 「小笠原」?
そこで漢文ですけれど別のサイトを見てみると、
L01養育之、成人之今、武略禀性、征平氏、可興家之由、有
L02存念。而前武衛、於石橋、已被始合戰之由、逹遠聞、忽
L03相加欲顯素意。爰平家方人、有笠原平五頼直者。今
L04日相具軍士、擬襲木曽。々々方人、村山七郎義直、并
L05栗田寺別當大法師範覺等。聞此事。相逢于當國市
L06原、決勝負、兩方合戰半、日已暮。然義直、箭窮頗雌伏、
L07遣飛脚於木曽之陣、告事由。仍木曽、率大軍、競到之
L08處、頼直、怖其威勢逃亡。爲城四郎長茂、赴越後國〈云云〉
ちゃんと「笠原」になっているようです。きっとサイトの作者の誤植でしょう。
古文が苦手なぽん太には訳せませんが、「平家方の笠原平五頼直というものがいて、木曽を襲おうとして市原で戦った。なんだかんだあって木曽が大群を率いて押し寄せてきたため、怖じ気づいて逃げ、越後の城四郎長茂軍に合流しようとした」ということだと思います。「市原」というのが現在のどこなのかよくわかりませんが、木曽谷から峠を越えて伊那谷に攻め込んだとは書いてありません。
もうネットではわからんということで、図書館で『新定 源平盛衰記 3巻』(水原一考定、新人物往来社)を借りて読んでみました。『源平盛衰記』は、平家物語をもとに鎌倉中・末期に成立したと考えられている物語です。
ところが『源平盛衰記』にも、『平家物語』と同様に、市原の戦いすら書かれておりません。しかし笠原頼直の名は、横田河原の合戦において、義仲軍と戦う武将のひとりとして出てきます。横田河原の合戦とは、越後の城四郎長茂(ながもち)が義仲を討とうとして横田河原(現在の長野市篠ノ井横田)に陣を進め、依田城(現在の丸子町御嶽堂)にいた義仲がこれを迎え撃って勝利した合戦です。さきほど述べた『吾妻鏡』からのつながりだと、市原の戦いで敗れて逃げた笠原頼直が越後の城四郎長茂と合流し、再び義仲と戦ったことになるはずです。ところが『吾妻鏡』で笠原頼直は、「頼直は今年で53歳になり、これまで26回の戦をしてまいりましたが、いまだに不覚をとったことはありません」(ぽん太訳、前掲書296ページ)などと言っており、市原の戦いで義仲に破れたことなどなかったことになっております。
さらに小説ではありますが、『旭のぼるー木曽義仲の生涯』(塩川治子著、河出書房新社、1997年)、『木曽義仲』(山田智彦著、NHK出版社、1999年)を見ても、市原の戦いのことは書かれているけれど、峠を越えて伊那谷に攻め込んだとは書かれていません。
ということで、けっきょく木曽殿山荘の伝説のソースはわかりませんでした。今回のぽん太の「みちくさ」はまったくの無駄骨でしたが、『吾妻鏡』だの『源平盛衰記』だの、普通なら絶対読むはずもない本に接する機会ができただけでもよかったとしましょう。
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