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2005年9月の4件の記事

2005/09/27

秋を迎えた飯豊山は静かでした

 飯豊山は、この時期になると小屋番も山を降りてしまい、自炊で寝袋を背負って長い行程を歩かなければなりません。膝の調子も良さそうなので、出かけてみることにしました。

【山名】飯豊本山(2105.1m)、大日岳(2128m)
【山域】東北
【日程】2005年9月19日〜21日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】(9/19)雨のち強風、(9/20)曇り、(9/21)晴れ
【コース】(9/19)小白布沢奥の登山口(8:04)…本山小屋(16:14)
(9/20)本山小屋(6:30)…飯豊本山…大日岳(9:28)…切合小屋(15:26)
(9/21)切合小屋(5:30)…登山口(10:45)
【みた花】イイデリンドウ(初)など
【マイカー登山情報】1、川入の民宿に向かう道はところどころ工事が行われており、掲示には1時間に10分しか通行できないと書かれていました。行きの9/19は祭日で休工中でした。帰りは平日で工事が行われていましたが、誘導員の指示に従って待たずに通れました。
2、川入の登山口というと、川入キャンプ場からの道がガイドブックなどに書かれています。しかし左折して橋を渡って川入の民宿街に入らず、小白布沢に沿う未舗装の道をまっすぐ進みます。しばらくはひどい道ですが、途中から片側一車線の立派な舗装路になります。やがて左に入って行く細い道があり、地面に「登山道」とペンキで書いてあります。ここの道路脇にも車を停められますが、細い道をさらに車で入って行くこともできます。悪路ですから各自の車の限界にあわせて、所々にある駐車スペースに車を停めましょう。ここから登ると、川入キャンプ場から登るよりも、行程を1時間以上短縮できます。ただしあくまでも2005年9月時点の情報なので、登山の際は最新情報をご確認ください。

 会津若松のビジネスホテルに前夜泊し、福島のおいしい地酒を堪能したぽん太とにゃん子であったが、当日の雨には愕然としたのであった。川入キャンプ場に車を停めていざ登ろうとしていたとき、たまたまやってきた地元の人に、上記の小白布沢奥からの道を教えてもらい、急きょ登山口を変更した。
 標高が低い登り始めは雨具を着ていると暑くてしょうがなかったので、途中から上半身の雨具を脱いで雨に濡れながら登りました。切合小屋をすぎたころから雨は止みましたが、今度は風が強まり、飛ばされそうになりながら本山小屋に辿り着きました。本山小屋は新しく快適な避難小屋でした。泊まっていたのは20人くらいだったでしょうか、スペース的にはゆったりと寝れましたが、風の音が一晩中ものすごく、小屋が飛ばされるのではないかと気がかりでした。
P9200033 翌日は曇りでしたが、どうやら風はおさまったようです。同宿の人たちは皆下山して行き、ぽん太とにゃん子だけ大日岳に向かいました。飯豊本山から大日岳に向かうなだらかな稜線は草紅葉が始まりかけており、静かな秋の気配でした。
P9200048 時期が遅いので無理かなと思っていましたが、飯豊山固有種のイイデリンドウがみつかりました。かなりいじけていますが、列片(花びらのように見えるもの)と列片のあいだの副片が直立しているのが特徴です。
 大日岳まで往復して、その夜は切合小屋に泊まりました。客はぽん太とにゃん子を入れてわずか4人でした。
P9210075 3日目はようやくいい天気となりましたが、残念ながら下山です。帰りは地蔵岳に寄りました。頂上付近に小さな池塘があり、お地蔵さんが祀ってありました。
 重い荷物を背負っての長旅は大変でしたが、静かな初秋の山を楽しむことができました。

 帰りは近くのいいでのゆで汗を流しました。山都町の温泉センターですが、食堂の十割蕎麦が絶品でした。その夜は大塩裏磐梯温泉米澤屋に泊まりました。内陸にありながら、海水のように塩辛いお湯でした。

2005/09/11

御座山(おぐらやま)ーー変化に富む登山道と展望の山

 台風で風雨が強まって来た9月7日、家が壊れるのではないかという不安に後ろ髪を引かれつつも、温泉に行きたいという思いに薄くなってきた前髪を引かれ、ぽん太とにゃん子は旅立ったのです。行き先は島崎藤村ゆかりの宿、小諸の中棚荘です。
 東京はすごい風でしたが、北上するにつれて次第に収まってきました。まず立ち寄った旧軽井沢は、夏休みも終わったとはいえ、まだまだ観光客で賑わっていました。
 次いで信濃追分の堀辰雄文学記念館でみちくさです。晩年を過ごし息を引き取った家が保存されています。堀辰雄というと、中学か高校のころ『美しい村』とか『風立ちぬ』を読んだだけで、なんか結核で死と隣り合わせの耽美的な小説だったな〜という記憶しかありません。展示を見ていると、堀辰雄や芥川龍之介、室生犀星、萩原朔太郎などは軽井沢で別荘暮らしをして金持ちだったんやな〜、なんや堀辰雄は軽井沢に何軒も別荘を持っとったんかい、こいつら日本が軍国主義に向かう時代に芸術の世界に閉じこもってええ御身分やな、などとひがみと妄想がぽん太の胸に去来したのだった。なんとにゃん子は学生時代に実習で信濃追分を訪れ、堀辰雄の奥さんに会ったことがあるなどという話も聞き、すこし日本文学を読もうという気分になったぽん太であった。

 中棚荘は懐古園の裏手にある、島崎藤村ゆかりの宿です。なかなかようございました。

 さて、翌日は予想通り台風一過の快晴です。そこで展望がいいという御座山に登ることにしました。

【山名】御座山(おぐらやま)(2112.1m)
【山域】上信越国境
【日程】2005年9月8日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】晴れ
【コース】栗生登山口(10:34)…御座山(13:11-13:38)…登山口(15:50)
【みた花】ツルケマン、アオキラン(初)、オオヒナノウスツボ(初)など
【マイカー登山情報】栗生のバス停から林道終点まで、普通の乗用車なら入れます。終点に十数台停まれる駐車スペースあり。ぽん太の車は車高が低いので入りませんでした。

ogurayama 御座山は手軽に登れる山ですが、登山道に変化があって楽しめます。沢沿いの道を行くと滝があり、樹林帯の単調なジグザグ道を登り、ピークに出てようやく山頂かと思うと、その向こうに険しい岩峰の山頂が立ちはだかります。
 そして頂上からの展望。残念ながら雲が出て来てしまいましたが、八ヶ岳が蓼科まで真横から見え、瑞牆、金峰、甲武信などの奥秩父の山、両神山、北には妙義山や浅間、残念ながら北アルプスは雲のなかでした。
aokiran アオキランを初めて見ることができました。山頂付近にはシャクナゲが多く、春にはすばらしい景色になるそうです。

 帰りは南相木温泉滝見の湯に入って帰りました。

2005/09/10

岩菅山ーーこの過剰整備は「やんごとなきお方」が登られたに違いない

 前回の南アルプス縦走で古傷の膝を痛めたぽん太は、3週間ぶりにわさびマヨネーズで有名な岩菅山(いわすげやま)に向かいました。ぽん太もついに登山のあと、筋肉痛ではなく関節痛や腰痛に苦しめられる年齢になってしまいました。

【山名】岩菅山(2295m)、志賀山(2036m)
【山域】志賀高原
【日程】2005年8月31日〜9月1日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】(8/31)晴れ、(9/1)晴れ
【コース】(8/31)底清水近くの登山口(10:30)…岩菅山(13:07-13:48)…登山口(15:43)
(9/1)前山リフト…志賀山…裏志賀山…四十八池…前山リフト
【みた花】(岩菅山)ハナイカリ、シラネキュウセン、ヤマオダマキ、ゴマナ、ミソガワソウ、ダイモンジソウ、ゴゼンタチバナの実など。

 気合いを入れて朝6時に東京を出発したが、登山開始は10時30分である。一ノ瀬スキー場から県道471号線を少し北に進んだところにある登山口から登り始めました。hanaikariしばらくは水路沿いの道です。山はすっかり秋の装いです。ハナイカリが咲いています。ありふれた花ですが、イカリのような形が変わっています。
kaidan しばらくして沢から離れて登山道に入ります。すると延々と続く階段が目に入ります。階段が必要なほど急な道には思えません。明らかに過剰整備です。きっと、さる「やんごとなきお方」がこの道を登ったに違いありません。さるやんごとなきお方は登山がご趣味ですが、この方が登る山は事前に登山道が完璧に整備されるという噂を聞いたことがあります。階段というのは歩幅が合わないとかえって歩きにくい、だいいちこれは一種の自然破壊ではないか、などと思いながらぽん太とにゃん子は、ノッキリから山頂に向かう最後の登りにかかりました。すると……
 なんと、やんごとなきお方ご本人の登場です。山頂から降りていらっしゃいました。恐る恐る「写真をお撮りしてもいいですか?」と聞くと、にっこりと笑ってポーズをとって下さいました。そして狭い登山道ですから、目の前をすれ違って行かれました。数日前にニュースで志賀高原でご静養をなさるとお聞きしておりましたが、お目にかかれるとは思っても見ませんでした。そのとき撮った写真の掲載は畏れ多いので控えさせていただきます。奥様がご一緒でなかったのが、精神科医のぽん太には、おいたわしく思われました。さて岩菅山山頂には、秩父宮殿下の登山記念碑がありました。iwasugeさるやんごとなきお方はかなりの御健脚のようなので、このぐらいの坂道は大丈夫なはずです。この登山道の整備は秩父宮殿下のために行われたものかもしれません。
 あとで思ったのですが、ぽん太が熱田神宮を訪ねたときに疑問に思ってブログに書いた、壇ノ浦の戦いで海の底に沈んだはずの草薙の剣の件、聞いてみれば良かったです。
 岩菅山は遠目には円錐形の美しいピークで、登山道もシラビソの樹林帯を登っていくのですが、山頂付近は意外に岩が多く、岩菅山という名前がついたことが納得できます。

 その夜は、奥山田温泉満山荘に泊まりました。お湯が最高、料理が最高、館主のおじさんが最高の宿です。

 翌日は軟弱に前山リフトを登り、志賀山、裏志賀山、四十八池を巡りました。池や湿原が点在し、とても美しい風景でしたが、昨日と違って人が多かったです。二年前の4月、ぽん太とにゃん子はテレマークスキーをはいて前山スキー場から四十八池まで往復したのですが、帰りににゃん子が転倒して足のじん帯を延ばしたという因縁の地です。今回は怪我なく無事に行って来れました。

 帰りは志賀高原のさる有名な温泉ホテルで入浴しようと思いましたが、入り口にいた従業員に「全館貸し切りです」と断られました。この時期に全館貸し切り?ひょっとしたら、さるやんごとなきお方はここにお泊まりだったのかもしれません。

 けっきょく五色の湯旅館でお風呂に入りました。五色に変化するというお湯といい、開放的な露天風呂といい、ひなびた内湯といい、最高でした。

2005/09/05

ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』を読むーーなんとピラミッドは幻聴の命令で造られた!?

 ピラミッドはエジプト人が神の声の幻聴に従って造ったものである。こんな珍説を主張するジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳、紀伊國屋書店、2005)は、よくある「トンデモ本」の類いに思えるかもしれません。ところが、プリンストン大学心理学教授である著者が博学を駆使して描き出す、ホメロスの叙事詩『イーリアス』の分析から最新の大脳生理学にまでわたる、邦訳にして600ページを越える意識の壮大な物語は、読むものを圧倒する力があります。

 

 本書の驚くべき主張は次のようなものです。すなわち、人間が意識を持つようになったのはせいぜい紀元前1000年頃である。では、それ以前の人間の精神構造はどうだったかというと、彼らが神の声と見なしていた「幻聴」の命令に従って行動する「二分心」(bicameral mind)であった。

 精神科医のぽん太には、「幻聴」は統合失調症などの症状としておなじみです。誰もいないのに聞こえる幻の声ですが、その内容は命令であったり嘲りであったりすることが多く、しばしば患者さんの思考や行動を支配する力を持ちます。幻聴に従って東京から横浜までさまよい歩いて行った患者さんもいましたし、幻聴の命令で自殺しようとした患者さんさえいます。しかしこのような「病的な」幻聴は、意識を持つようになった人間における二分心の名残なのであって、本来の二分心における幻聴は、われわれの「意識」と同じように、日々の生活や社会の形成のために役立っていたのです。彼らは意識を使って自ら判断し行動する代わりに、「神の声」と見なした幻聴の命じるままに行動していました。意識なしで行動することなど不可能に思えますが、よくよく振り返ってみれば、例えばいまぽん太はパソコンでこの文章を書いていますが、文章を作ったりキーボードを打ったりするのはほとんど無意識的に行っており、意識していることといえば時々「本の感想をブログにしよう」と思うぐらいです。だから確かに意識の代わりに幻聴が「本の感想をブログにしろ」とささやいていれば、意識がなくてもブログを書くくらいはできそうです。あ、「意識」を「知覚」や「思考」や「動作」と混同しないてくださいね。

 で、「二分心」が崩壊して人類が「意識」を持つようになったのは、たかだか紀元前1000年頃だとジェインズは言います。訳者あとがきによると、あるときジェインズは心と体の関係を問う「心身問題」の歴史を文献的に遡っていました。するとソクラテス以前の時代でこの問題への言及が消え始め、紀元前1000年頃に成立した『イーリアス』においては完全に消え去ってしまったのです。その理由を考えているうちに、この時代に意識が成立したと考えると、さまざまなことに筋道が通ることに気づいたそうです。『イーリアス』に描かれた英雄たちには主観がなく、彼らはただただ神の命令に従って行動するだけです。神の命令が矛盾していたり間違っていたり、道徳に反していたりしても、彼らはまったく気にすることもなければ悩むこともありません。ジェインズによれば、『イーリアス』に出てくる神は、現代の神のような抽象的な存在ではなく、はっきり聞こえる幻聴の声そのものだったことになります。

 ジェインズの言うことがホントだとしたら「意識」の歴史はわずか3000年くらいしかないんですね。ぽん太は、人類ははるか以前から意識を持っていたものだと思い込んでいました。ピラミッドを造った人たちが考えていたことは現代人が考えていることと大して違わないだろうと考えていました。意識の歴史がそんな浅いのなら、まだまだ人間の意識は変化しうるんだと思って、ぽん太は妙に安心しました。

 ぽん太がこの本の仮説を信じるのかどうかですって?信じもしませんが、否定もしません。こうした仮説は正しいのか間違っているのかが重要なのではありません。こうした仮説の意義は、これまで当たり前だと思っていたことが疑わしくなったり、これまでわからなかったことが理解できたり、これまで無関係だと思っていたことがつながってくることです。ぽん太はフロイトや心理学の本を読んで、意識や無意識に関しては熟知しているつもりでしたが、この本のおかげでこれまで積み上げて来た知識がガラガラと崩れてしまいました。意識とは何かを一から考え直してみたいと思っています。また統合失調症の患者さんは人をだましたり嘘をつくのが苦手な場合が多いのですが、二分心には意識がないことを考えれば、とてもしっくりきます。

 ところで本書がアメリカで刊行されたのは30年以上も前の1976年とのこと。こんな面白い本の存在をこれまで知らなかったとは不覚でした。

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