【演劇】だいぶ前だけど錬肉工房+龍昇企画の『女中たち』を見た
錬肉工房の岡本章の演出でジャン・ジュネの『女中たち』が上演されると聞いて、見にいってきました(錬肉工房+龍昇企画、2005年8月24日〜8月28日、麻布die pratze)。
ジャン・ジュネ(1910〜1986)は、いわずと知れたフランスの作家で同性愛者フゥ〜!『泥棒日記』などの作品で有名で、サルトルなどにも強い影響を与えました。一方の岡本章(1949-)は演出家にして俳優、たしか明治学院大学の芸術学科の先生もしているはずです。能や舞踏を取り入れた独特の身体表現を追求した演劇は高く評価されています。
これまで岡本の舞台は、「んま」とか「がぁ」とか声とも叫びともつかない断片的な発声からはじまって、それが徐々に音節となり、単語となり、やがて意味を持つ言葉をなしてゆくところから始まるのが普通でした。今回の舞台でもそのつもりで待ち構えていたら、いきなり濃〜い言い回しのセリフから始まったので、ぽん太は不意打ちをくらって度肝を抜かれました。また岡本の脚本は、原作のテクストを一度断片にまで解体し、それらを並べ替えたり反復したりして再構成されている場合が多かったのですが、今回はジュネの脚本がそのまま使われていたようです。
その理由は、おそらくジュネがこの劇に持ち込んだ仕掛けを生かそうとしたからでしょう。テクストの解体と再構成によってプロットを破壊してしまうと、ジュネの目論見がわからなくなってしまいます。
『女中たち』のあらすじは次のようなものです。ぽん太の書棚にあったのは「ジャンジュネ全集4」(新潮社、1968年)に収められた『女中たち』(一羽昌子訳)ですが、『女中たち バルコン ベスト・オブ・ジュネ』(渡辺守章訳、白水社、1995年)の方が手に入りやすいかもしれません。今回の演劇の脚本は渡辺守章訳となっていますから、後者を使ったと思われます。
登場人物は女中の姉妹ソランジュとクレール、そして二人が仕えている奥様です。劇が始まると舞台上には「奥様」と「クレール」がいます。「奥様」は尊大な態度で「クレール」を口汚く罵ります。一方で「クレール」は慇懃な態度をとりつつも「奥様」を心理的に支配しようとします。ところが劇が進むにつれて、「奥様」と思っていたのは実はクレールで、「クレール」は姉のソランジュが演じていたことがわかってきます。姉妹は奥様が留守のあいだに奥様ごっこをしていたのです。現実の奥様は優しく、女中たちは奥様にあこがれを持ちつつも慎み深くかしづかえています。しかしさらにその裏で、姉妹が偽の手紙を書いて旦那様を陥れようとしていることがわかってきます。事の発覚を恐れた二人は奥様を睡眠薬入りのお茶で毒殺しようとして失敗します。最後は再び奥様ごっこのなかで、クレールは「奥様」を演じつつ睡眠薬入りのお茶を飲み干そうとします。
ジュネの時代の一般的な演劇は、俳優が登場人物になり切って迫真の演技をするというものでした。しかしそれはウソで、俳優は登場人物ではありません。俳優と登場人物のあいだには、つねになんらかのズレがあるはずです。ジュネは演劇のなかに奥様ごっこを持ち込むことで、演劇が持つウソくささを告発したのです。
さらにこの告発は、個人というもののウソくささにまで及んでいるのです。あなたはそのように振る舞っているけれど、それは本当にあなた自身なんですか?この問いかけは、「自己と他者」、「自己の複数性」といったきわめて現代的な問題につながっています。
岡本の演出は、四人の男優が役を途中で入れ替えたり、役とは無関係に順番にセリフを言うことによって、ジュネの仕掛けの上にさらにもうひとつ仕掛けを重ねるというものでした。それによって重層性がいっそう強調され、「自己」の問題を浮かび上がらせるのに成功していたように思われます。
ところで訳注によると、『女中たち』はパパン姉妹の犯罪をヒントにして書かれたのだそうです。パパン姉妹の犯罪は、1933年にフランスのルマン(24時間レースで有名ですね)で実際に起きた事件で、女中の姉妹が些細なことをきっかけに、女主人とその娘の目を生きたままえぐり出し、ハンマーでめった打ちにするなどして惨殺したというものです。この事件は社会的なスキャンダルになっただけでなく、思想家やシュールレアリストにも大きな影響を与えました。ジャック・ラカンも「パラノイア性犯罪の動機 パパン姉妹の犯罪」という文章を書いています。だいぶ以前に読んだけど、久々にみちくさしてみようかな、でもあんまり訪ねたくない人だな。
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