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2005年12月の7件の記事

2005/12/25

『ギルガメッシュ叙事詩』を読んでみた

 誰です?飯島愛のTバックを想像しているのは。ぽん太が今回取り上げるのは、古代メソポタミアの英雄物語です。
 以前にぽん太はヨーロッパ最古の物語であるホメロスの『イーリアス』を読みました(ホメーロスの『イーリアス』を読むーー登場人物たちの行動には違和感を覚える)。そのとき、では「世界」最古の物語はなんじゃらほいとググってみたら、この『ギルガメッシュ叙事詩』とのことでした。みちくさをしないでそのまま放置していたのですが、先日本屋をぶらついていたら、偶然『ギルガメッシュ叙事詩』の翻訳(矢島文夫訳、ちくま学芸文庫、1998年、アマゾンのリンクはこちら)が目についたので、読んでみました。
 で、世界最古とはいつ頃なのかということですが、主人公のギルガメッシュは紀元前2600年ほど前に実在したシュメールの王だそうで、物語の成立は紀元前2000年ぐらいまで遡れるそうです。その後この物語は、この地を次々に支配したアッシリア人やバビロニア人によってそれぞれの言葉に翻訳され、楔形文字(くさびがたもじ)で粘土板に刻まれました。これらはさらにあちこちに運ばれ、さまざまな言語に翻訳されたそうです。
 物語のあらすじは、たとえばこちらのサイトをどうぞ。現代のRPGにも通じる荒唐無稽で面白いお話です。
 歴史の暗闇のなかにすっかり忘れ去れていたメソポタミア文明が、19世紀以後の発掘によって再発見され、楔形文字が解読されて行く経緯もまたドラマチックです。またイギリス人ジョージ・スミスが『ギルガメッシュ叙事詩』の粘土板のなかに、旧約聖書の「創世記」に書かれているノアの箱船の原型と思われる、大洪水の物語を見つけた話も有名だそうです。
 メソポタミア文明が栄えたチグリス・ユーフラテス川流域は、現在でいえばイラクにあたります。キリスト教原理主義のブッシュが攻撃しているイラクが、旧約聖書の物語の発祥の地であるとは、まさに歴史の皮肉というか、無常を感じざるをえません。

2005/12/22

精神障害の成年後見制度ーー権利擁護がキーワードだ!

 ぽん太は、地域に権利擁護センターを設立するための検討委員を仰せつかっております。しかしなにぶん福祉や法律には素人のぽん太、基本的なことを質問したり、とんちんかんな発言をしたりして、ずいぶん恥ずかしい思いをしております。
 権利擁護センターとは、要するに成年後見制度の相談や推進を行う機関のようです。現状では、成年後見制度を利用しようと思っても、どこに相談に行ったらいいかもわからないので、身近に相談窓口を作ろうというわけです。
 成年後見制度とは、精神障害や認知症などで判断能力が不十分になった人に代わって、家庭裁判所が選任した後見人などが財産の管理や契約などを行うという制度です。成年後見制度の詳細については、例えば広島県立総合保健福祉センターのこちらのページをご覧ください。
 成年後見制度というと、禁治産、準禁治産といった言葉が思い浮かびますが、平成12年4月介護保険制度の開始と同時に、成年後見制度は新しく生まれ変わりました。実は介護保険の導入は、福祉の考え方の大きな変化を伴っていたのです。それは「措置」から「契約」へという変化です。これまで福祉というのは、お役所が困っている人にやってあげるもの(措置)でしたが、介護保険は利用者が自らサービスを選択して、契約するのです。でも認知症のお年寄りなど、記憶力が衰えたり判断力が鈍っている場合は、自らの意思で契約することができません。認知症の老人をターゲットにしたリフォーム詐欺などは耳新しいところです。そこで登場するのが成年後見制度なのです。後見人などが本人に代わって、サービスの選択や契約をしてくれるのです。
 さて精神障害の領域では、「親なき後」という大問題があります。地域福祉の推進によって、入院していた精神障害者が地域で生活できるようになったのはいいのですが、障害者の生活を支えて来た両親が高齢化してきているのです。もしも親が倒れたら、残された精神障害者の生活はどうなるのでしょうか。成年後見制度は、こうした問題の解決手段のひとつとして期待されます。
 問題は費用です。例えば法定後見の場合、裁判所申立費用が約1万円、登記費用が訳1万円、申立書作成費用が約8万円必要だそうです。さらに医師の鑑定が必要な場合、鑑定費用が5万円から15万円かかります。これは後見のスタートにかかる費用で、さらに月々後見人に対する報酬として、2万から3万を支払い続けなければなりません。
 な〜んじゃ、そんなら結局成年後見制度は、金持ちだけの制度やないかい!金がない人はどうしたらええんじゃい!とぽん太は思ったのです。
 だいいち精神障害の分野では、成年後見制度と同じことはこれまでもやってきたやん。身寄りがない患者さんも、日常生活は作業所の職員やケースワーカー、市の障害者福祉課や保健所が話し合ってなんとかやってきたし、病気が重くなって入院するときは市区町村同意の制度があったし、それで本人も納得してたやんか。ちゅうことは、これまでうまくいってた人は今まで通りやって、財産がいっぱいあったり、法律上問題が複雑なケースだけ成年後見制度を使うっちゅうことやな。やっぱり成年後見制度は金持ちが対象か。でも、金持ちの財産管理の機関をわざわざ公の制度で作ってええのんか?
 わけのわからなくなったぽん太は、福祉の基本を勉強する必要を感じ、社会福祉士試験の教科書を近くの本屋で買ってきて読んでみました。いや〜、するといろいろと勉強になりました。いちいち書きませんが、医療とは異なる福祉の視点がよくわかりました。医者はホントに井のなかの蛙ですね〜。
 で、大切なのは「権利擁護」という考え方だとわかりました。権利擁護というと、権利を守るという感じで、障害者差別はんた〜いとかいうのを思い浮かべますが、実はなんとadvocateの訳なんだそうです。advocateという言葉をexcite辞書の新英和中辞典第6版(研究社)で引くと、1主唱者、唱道者、2代弁者、と書いてあります(こちらをどうぞ)。つまり本人になり代わって、障害者の声なき声を代弁する者のことです。これまでの福祉は、既成の制度に本人を当てはめようとしてきましたし、障害者自身もそれで仕方ないとあきらめていました。しかし大切なのは、障害者自身が本当は何を必要とし、何を望んでいるのかを代弁し、それに適した制度を選択することであり、なければ新たに作り出すというくらいの覚悟が必要なのです。
 さきほどぽん太は、精神障害者の分野ではこれまで成年後見制度と同じことをやってきたと書きました。しかしそれは大嘘でした。やっていることは一見同じようでも、考え方が根本的に違っていたのです。障害者の立場に立って、障害者自身の必要や要求を実現することよりも、医者や役人の都合で制度に障害者を当てはめてきただけです。これは権利擁護ではありません。これまで福祉に関わって来た人たちの多くは、これまでも自分は障害者の立場に立って活動して来たと言うでしょう。それはその通りかもしれませんが、でも障害者の立場を代弁するひとを一人立てた方がすっきりしますよね、というのが権利擁護の小さくて大きい一歩なのです。精神障害者の思いを本人の立場で代弁し、場合によっては新しい制度や施設を生み出して行くという視点こそ、権利擁護の本質だとぽん太は理解しました。
 東京でもすでにいくつかの成年後見センターが造られています。しかし成年後見は、権利擁護を実現するための制度のひとつにすぎません。ぽん太の関わっている地域が「成年後見」センターではなく、「権利擁護」センターになるように、発言をして行きたいと思っています。

2005/12/21

【映画】「心の杖として鏡として」ーー精神障害者の造形教室のドキュメンタリー

 精神病院で行われている「造形教室」に通う人々を描いたドキュメンタリー映画「心の杖として鏡として」(監督:萩原麿、2005年)(公式ホームページはたぶんこちら)を見て、ぽん太は心から感動いたしました。
 もうだいぶ前ですが2005年9月4日、東京都府中市の府中グリーンプラザでの自主上映会を見てきました。企画した社会福祉事務所ぷしゅけの鳥山克宏氏は(ブログがみつかったけれどちっとも更新していないようです)、日本にはまだ少ない「開業」社会福祉士のおひとりだそうです。成年後見制度の後見人やグループホームの世話人としても活躍なされているそうで、今後のご活躍が期待されます。まず約1時間のこの映画が上映され、後半は造形教室の先生の安彦講平氏の司会で、映画に登場した患者さんたちに対するインタビューや質疑応答が行われました。またロビーでは、自費出版の絵画集などが販売されました。

 一般に精神科医が精神障害者の絵画と聞いて思い浮かべるのは、絵画を使った心理検査か、絵画療法か、病跡学です。絵画を使った心理検査には、例えば実のなる木の絵を描く「バウムテスト」や、中井久夫先生考案の「風景構成法」などがあり、絵画によって言葉ではわからない心の内面を明らかにするものです。ちなみにぽん太は大学に入るときにバウムテストをやらされました。当時は何も知らなかったぽん太は、「実のなる木の絵を描け」と書いてあったので、額縁に入った「実のなる木の絵」の絵を描いて出したのですが、いったいどう判定されたのでしょう。
 絵画療法は、絵を描くことを通して患者さんの能力を引き出す治療法です。また病跡学は、精神障害を持つ歴史上の有名人を研究することによって、その人の人生と精神障害との関わりを明らかにするという立派な学問で、絵画の分野ではゴッホやムンクなどがよく研究されています。しかし病跡学と称する研究の多くは、天才に対する病名のレッテル貼りに過ぎません。
 精神科医のぽん太が言うのもなんですが、治療者が一歩上から患者に対して働きかけるという医療の枠組みに留まるかぎり、おもしろいことはできません。造形教室の主催者である安彦氏も『”癒し”としての自己表現』(エイブル・アート・ジャパン、2001年、一般には売ってなさそう。こちらで購入できそうです)のなかで、「しかし、私たちがめざし、試行してきたものは、いわゆる「教育」や「治療」のための、上から与えられ、外から解釈・評価されるような道具・手段としての病がではなく、それぞれが自由に描き、身をもった自己表現の体験を通して、自らを癒し、支えて行く。そのような「営みの場」である」(34ページ)と書き、氏の「造形教室」が医療ではないことを明確に表明しています。

 絵画の領域では、精神障害者の絵画に対してはっきりとした関心が持たれたのは、アール・ブリュットが最初と思われます。日本では「生(き)の芸術」と訳されるこの言葉は、ジャン・デュビュッフェの命名によります。20世紀初頭、シュールレアリストたちは、フロイトの精神分析の影響のもと無意識や深層心理への関心を高めてゆきました。同時期に精神病院においてもハンス・プリンツホルンのように患者の絵画を収集する動きが出てきました。このような流れのなかで、1945年に精神障害者の絵画を「発見」したデュビュッフェは、それをアール・ブリュットと名付けてコレクションと紹介に務めたのです。アメリカではアウトサイダー・アートという名で広まりましたが、フォーク・アートやナイーフ・アート、人種社会のアートが含まれるなど細かい違いもあるようです(参考:クリストフ・ブーランジェ他「アール・ブリュット略史」、2004年軽井沢メルシャン美術館で行われた「突き上げる想像力アール・ブリュット=生の芸術展」のカタログに収録)。
 「障害者の●●」というと、聴覚障害者のバンドにしても、パラリンピンクにしても、障害者にしてはうまい、障害者にしてはすごい、という見方をする人が多いようです。これは素朴といえば素朴ですが、とってもつまらない見方であって、アール・ブリュットはこうした見方を超えています。デュビュッフェは、伝統や既成概念に縛られた自分たちの絵画を突き破る力を、アール・ブリュットに見いだしたのです。けれどアール・ブリュットも、商品として流通する絵画という枠組みから逃れられないという一面があります。安彦氏は講演のなかで「私たちは売れる絵を描こうとは思っていない」とおっしゃっていました。精神障害者の絵画を商品として流通させることは、彼の念頭にはないようです。

 治療のためでもなく、売るためでもなければ、この映画に描かれる人たちはなぜ絵を描き続けているのでしょう。「癒し」という言葉を安彦氏は使いましたが、それは決して最近の癒しブームでいう「猫に癒される〜」といったものではないでしょう。造形教室に集う画家たちは、まさに映画のタイトル通り、杖にすがって歩くように、絵を描くことにすがって、絵を描くことで生きているように思えます。それは悲しみのどん底で歌う歌のようでもあります。
 このようなすばらしい活動が、一般に知られないまま40年近く続いていたというのは驚きですが、少人数の閉鎖的な集団ゆえに、ひとつ間違えると宗教集団のようになってしまう危険もあるように思われました。もちろん彼らがこのような映画を造るということは、閉鎖的にならずに外部と積極的に関わろうとしていることですから、心配はいらないでしょう。

 最後に精神障害者の芸術に関する映画で、ぽん太が面白いと思ったも二つあげておきます。
「すべての些細な事柄」ニコラ・フィリベール監督、1996年、フランス
 フランスの哲学者フェリックス・ガタリが関わっていたことで有名なラ・ボルド病院で、年に一度行われる演劇祭の準備から上演までを描く。その過程で病院のなかでの日常が美しく映し出される。
 参考URL:http://cineaste.jp/l/973.htm
 
「遠足」五十嵐久美子監督、1999年、日本
 ウィーン郊外にある「芸術家の家」の画家たちを日本人監督が捉えたドキュメンタリー。病院から出かけることを「遠足」と呼ぶ彼らは、プラハで行われる展覧会のために長い「遠足」に出かける。
 参考URL:http://www2.gol.com/users/wonder/ensoku.html

2005/12/18

平成18年4月1日から精神科通院医療公費負担制度(32条)が自立支援医療費になります

 このブログのアクセス解析を見ると、自立支援医療費に関する検索からたどり着いた人がけっこう多いようです。ぽん太が自立支援医療費について書いたのはずいぶん昔のことなので、現時点での最新情報をまとめておきましょう。以下は平成17年12月5日に開催された厚労省の社会保障審議会障害者部会(第29回)の資料によるものです。ではQ&A形式で。

Q 精神科通院医療費公費制度(32条)が廃止されると聞きましたが本当ですか?
A はい本当です。平成18年3月31日をもって廃止されます。

Q えっ?では、医療費の補助はなくなるのですか?
A いえ、障害者自立支援法で規定された自立支援医療費に引き継がれます。

Q 32条が廃止されて自立支援医療費になるのですね。それはいつからですか?
A 平成18年4月1日からです。障害者自立支援法は平成17年10月31日に可決成立しました。平成18年4月1日から一部施行されますが、自立支援医療費もそのなかに含まれています。

Q 32条では窓口負担は5%(自治体によっては一定条件を満たすと0%)でしたが、自立支援医療費ではどうなりますか?
A 残念ながら基本的には10%(1割)となります。生活保護世帯ではこれまで通り無料です。一定の収入があり病気が軽い場合は、医療費の補助を使えず通常の健康保険による自己負担(3割〜2割)となる場合もあります。また所得や病気の重さによって月単位の負担額に上限が設けられます。その区分は大変複雑ですが、最新のものは厚労省のホームページのこちらのpdfファイルの4ページ目に書かれています。
 自分の病名と、家族の市町村民税の合計を確認の上、じっくりとご覧下さい。網がかかっている部分が1割負担です。
s1205-7h14

Q 上の項目の自己負担の区分は、これまで言われていたものと同じですか?
A 2つの点で変わっています。まず第1に、「中間所得層」、「一定所得以上」における区分は、これまでの案では所得税額によって行われていましたが、この新たな表では、同一世帯に属する者の市町村民税(所得割)の合計額によって区分されるようになりました。また第2に「重度かつ継続」の範囲ですが、これまでの案では「統合失調症、躁うつ病(狭義)、難治性てんかん」とされていましたが、新しい案では「統合失調症、躁うつ病・うつ病、てんかん、認知症等の脳機能障害、薬物関連障害(依存症等)」と「精神医療に一定上の経験を有する医師が判断した者」とされています。

Q 批判の多かった「重度かつ継続」の範囲は広がったのですね。
A はい、さらに詳しくは厚労省のこちらの資料をご覧下さい。「重度かつ継続」の範囲は以下のようになっています。
(1)医療保険の多数該当の者
(2)ICD-10における次の分類の者
・F0 症状性を含む器質性精神障害
・F1 精神作用物質使用による精神及び行動の障害
・F2 統合失調症、統合失調症型障害及び妄想性障害
・F3 気分障害
・G40 てんかん
(3)3年以上の精神医療の経験を有する医師により、以下の病状を示す精神障害のため計画的集中的な通院医療(状態の維持、悪化予防のための医療を含む。)を継続的に要すると診断された者として、認定を受けた者
・情動及び行動の障害
・不安及び不穏状態

Q 「世帯」の所得によって医療費が変わりますが、この「世帯」の範囲を見直す問題はどうなりましたか?
A 現在の案で「世帯」の所得となっていることにより、両親や配偶者の収入が多いと医療費の補助が少なくなったり、多くの障害者を抱える家族の負担が大きいなどの問題が指摘されています。パブリックコメントの資料には「自立支援医療の自己負担上限額等を認定する際の基準とする世帯は、同一の医療保険に加入している家族の範囲とすること。※自己負担上限額等を認定する際の基準となる世帯の範囲については特例を設ける」と書かれています。これを信じれば、親子や夫婦であっても保険証が異なれば同一世帯と見なされないことになりますが、そうすると余分な保険料がかかるので、どちらがとくかよ〜く考えないといけません。また「特例」の内容は書かれていません。

Q これまでは2年ごとの更新でしたが、今後は何年ごとですか?
A 1年ごととされています(ただし施行後6ヶ月間においては1年6ヶ月としてもよいとのこと)。

Q これまで32条が使えた医療機関で、今後は32条が使えなくなることはありますか?
A 自立支援医療費が使えるのは自立支援医療機関に限られます。こちらのパブリックコメント募集のページのこちらのpdfファイルには、「精神通院医療に係る指定自立支援医療機関の指定基準は、当該医療機関に精神医療に関して3年以上の実務経験を有する医師が勤務していることとすること」とされています。

Q 1割負担になると、病院に行くといったいどのくらいのお金をとられるのですか?
A ぽん太の診療所の場合、1回の診察で窓口の支払いが500円〜600円となります。薬局での支払いは薬の内容や投与期間によって異なりますが、診察代と薬代をあわせ、1回につきおおよそ1000円から3000円くらいでしょうか?

2005/12/09

多治見の永保寺を見て「ととや」の蕎麦を食べた

 白川郷の帰り、ぽん太とにゃん子は美濃焼を目当てに多治見に寄りました。ついでに国宝があると聞いて、永保寺(えいほうじ)にみちくさしました(地図はこちら、公式ホームページはこちら)。ぽん太とにゃん子は、国宝を通りかかったときは見ることに決めています。ちなみに重要文化財は、そのときの気分で見るかどうか決めています。
 永保寺は1313年に夢窓疎石が開山した禅寺だそうです。 夢窓疎石(1275-1351)は鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した臨済宗のお坊さんで、南禅寺の住持をしたり、恵林寺(山梨県)や天龍寺を開山したことで有名です。また西芳寺(いわゆる苔寺ですね)をはじめ、多くの庭園の設計もしたそうです。
PB250124 永保寺の庭園もさすがにすばらしかったです。断崖あり、滝あり、池あり、橋あり、島あり、川ありという感じで、非常に凝っています。同じ禅寺とはいえ、例えば永平寺の簡素にして凛とした雰囲気とはまったく違います。いったい仏に仕える坊主が何をやっとるんじゃ、という思いも浮かんできます。ちょうど紅葉のまっさかりで、カメラを持った観光客が大勢来ていました。
PB250115 永保寺の国宝のひとつ観音堂です。PB2501141314年に建立されたものだそうです。屋根の四隅がピンと張っているところがカッコいいです。正面玄関などに美しい透かし模様が入っています。
PB250120 国宝の二つ目の開山堂です。こちらは1352年頃に足利尊氏によって建てられたものだそうです。少し奥まったところにあるので、紅葉目当ての観光客はあまり見に来ません。
 どちらも内部は見ることができませんでした。しかし、なんと多治見市公式ホームページには360度バーチャル観光、永保寺というものがあり、建物の内部も見ることができます。面白いのでみんなも遊んでみよう!
 ところで永保寺の山号は虎渓山というそうです。公式ホームページによれば、景色が中国の廬山の虎渓に似ているからだそうです。ところで中国の虎渓ってどこにあって、どんな景色?みちくさしたくなったぽん太は、ぐぐって調べてみました。廬山は中国の江西省九江市にある山で、世界遺産にも指定されているそうです。宗教の聖地でもあり、また多くの文人が訪れて傑作を残したことでも有名だそうで、いかにも夢窓疎石が好みそうです。
 で、虎渓はどこだ?ぐぐってもなかなか見つからないのですが、調べていくうちに虎渓三笑という故事に行き当たりました。廬山の東林寺の僧であった慧遠は、三十年間も寺にこもって修行を続け、虎渓にかかる橋を決して渡ったことはありませんでした。ところがあるとき、訪ねて来た陶淵明、陸修静を見送りに来た慧遠は、楽しい話に夢中になってうっかり橋を渡ってしまいました。遠くで聞こえる虎の声でふとわれに帰った三人は、そのことに気づいて大いに笑ったとのことです。虎渓三笑は画題として好まれ、多くの作品に取り上げられているそうです。
 ということで虎渓は東林寺の近くということになりますが、虎渓の写真はついに見つけられませんでした。永保寺の景色と本当に似ているかどうかわかりません。残念です。

PB250187 お昼に「ととや」で蕎麦をいただきました(公式ホームページはこちら、地図はこちら)。PB250131「とと」という字は一文字で「魚魚」という字ですが、パソコンで出ません。PB250133林のなかを少し進んだところにある落ち着いた大人の雰囲気の蕎麦屋で、美濃焼の器も美しく、お蕎麦もおいしかったです。

2005/12/05

ED12(ムサシノモデル、HOゲージ)を作ってみた

 ムサシノモデルのED12(HOゲージ)が完成いたしました。
 買ったのはいつだか記憶なし。数年前にハンダ付けまで終えて放置してあったのを、こんかい色を塗って仕上げました。ブレーキロッドが台車と一体のダイカスト製だったので、真鍮線で作り直しました。また、独特の形の砂まき管を付け加えました。
PC040004 ED12はスイスのブラウン・ボーベリ社(Brown Boveri)から輸入された電気機関車です。形態は異彩を放っており、細くしぼった運転室、長いひさし、ひさしにちょこんとつり下がったヘッドライト、大きな車輪、屋根上に担いだ2本の大きなエアータンクなどが特徴です。
 車輪が大きい理由ですが、久保敏他『電気機関車展望1』(交友社、1986年、絶版?)によると、通常は片側にある主電動機(モーター)の歯車が、ED12では両側に取り付けられているのだそうです。そのため主電動機の長さが短くなる分、直径が大きくなってしまいます。その大きい主電動機を納めるため、車輪の直径を大きくせざるをえないのだそうです。同書に収められた土田宗一の真横から撮った写真を見ると、車輪と車輪のあいだに主電動機が見えますが、ムサシノモデルのキットはこのシルエットもモデル化してあります。
PC040017 1924年の東海道線の電化にむけて各国より電気機関車がサンプル的に輸入されましたが、この電気機関車もそのひとつだそうです。1923年(大正12年)にブラウン・ボーベリ社で1020形として製造されたものを、2両輸入しました。
 ED12-1は1936年2月10日、国府津で西尾克三郎が撮った写真が前掲書に収められており、これが今回作ったムサシノモデルの模型のプロトタイプとなっています。側面に交互に並んでいた窓とベンチレーターが窓に改造され、両端は当初と異なる形のベンチレーターがはめ込まれています。1948年11月に廃車となって西武鉄道に払い下げられ、E51として長く使われたのち、1976年に動輪のスポークにひびが入ったため廃車になっています。
 ED12-2は1949年3月に廃車となって同じく西武鉄道に払い下げられてE52となりました。1986年まで現役で活躍しましたが廃車となり、その後は横瀬駅で保存されています。
 色は当初は黒で、しばらくして濃い茶色になったそうですが、その年代はわかりません。特異な形態の真黒い電気機関車もおもしろそうだったので、ぽん太は黒く塗ってみました(写真では茶色っぽく写っていますが)。

ED121
 1923年、1020として新製
 1928年、ED121に形式変更
 1948年11月、廃車
 1950年、西武鉄道E51となる
 1976年、廃車

ED122
 1923年、1021として新製
 1928年、ED122に形式変更
 1949年3月、廃車
 1950年、西武鉄道E52となる
 1986年、廃車となり、横瀬に保存

参考リンク
http://jnr.site.ne.jp/weekly/htm/e52.htm2001年10月8日に横瀬で撮影したE52のカラー写真。
http://www.hobidas.com/blog/rail/photo/archives/2005/12/ed12.html1969年4月25日に所沢で撮ったE52の白黒写真。
http://hokuso.com/meiki/html-meiki-el-02.html1976年1月、石神井公園駅で撮影したE52の白黒写真。

2005/12/04

白川郷の合掌造りは秘密の火薬工場だった

 11月下旬、世界遺産の白川郷に出かけてきました。ぽん太は生まれて初めての訪問です。

 まず高山の北西にある古川(地図はこちら)に行きました。約400年の歴史がある古い城下町で、白壁土蔵街などが有名です。高山よりこじんまりしていますが、その分落ち着いた雰囲気です。

PB230004
道ばたでおばさんが赤かぶ切っていました。

PB230008
 蓬莱で有名な渡辺酒造です。紺の暖簾が美しいです。

PB230009
 後藤酒店です。なんだかとてもマニアックです。

PB230019
 いよいよ白川郷です。生まれて初めて見た合掌造りの家屋はとても美しく、風格がありました。ただ祝日だったせいか、観光客が多いのには閉口しました。

PB240066
 夜は合掌造りの宿孫右エ門に泊まりました。部屋にはテレビも冷蔵庫もなければ、窓ガラスもありません(障子と縁側の向こうに雨戸があるだけ)が、歴史を感じさせるすばらしい宿でした。風呂などは新しく改築されていて、気持ちのいい檜の浴槽です。

PB230063
広間には囲炉裏があり、家の当主が代々火を守っています。食事は囲炉裏を囲んでいただきます。豪華ではありませんが、とても美味しい山の幸のごちそうでした。

夕食後には当主が村の歴史を語ってくれました。若い頃は茅葺き屋根を葺く職人をやっていたそうで、貴重な建物を守るためにいろいろな苦労をなされたそうです。朴訥ながらも自信と誇りに満ちた語り口は、とても心にしみました。ぽん太はこれまで温泉に泊まることが多かったのですが、温泉から離れると、またいろいろといい宿があるんだな、と思いました。

PB230037
 ところで白川郷や五箇山は、山間部の狭い谷間にあり、冬には豪雪のため完全に周囲から遮断されるという厳しい自然環境にありながら、なぜこのような豊かな建築物を造ることができたのかという疑問が湧いてきます。

PB240063
 調べてみるとこの地方では和紙の生産や養蚕が盛んだったことがわかりますが、さらに注目される産物は「塩硝」です(たとえばこのPDFファイルを参照して下さい)。塩硝とは硝酸カリウム(KNO3)のことで、黒色火薬の主原料となる重要な化学物質であり、江戸時代の慶長年間から加賀藩の管理のもとに製造されてきたそうです。

PB240048
 白川郷・五箇荘の立地は、秘密保持に最適だったのかもしれません。

PB240055
 塩硝を作るには、まず乾燥した麻・よもぎ・タバコなどの干し草を蚕や牛の糞とともに土に混ぜて硝酸バクテリアによって醗酵させるのだそうですが、これが数年もかかる工程だったそうです。この作業が床下に掘った穴の中で行われたことが、この地方に合掌造りにのような広い家屋ができるようになった原因のひとつだそうです。

Pb240071
 展望台から見渡した合掌造りの街並みです。世界に誇れる美しい景観だとぽん太は思いました。

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