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2006年1月の9件の記事

2006/01/31

【蕎麦】蓼科周辺のスキー帰りには利休庵がおすすめ

P1260050 ぽん太は蓼科周辺のスキー場によく行くのですが、南諏訪インターから降りて白樺湖に至るまで、なかなかおいしい蕎麦屋が見つかりませんでした。こんかいご紹介する利休庵は、白樺湖からちょっと足を伸ばして、エコーバレースキー場の入り口近くにありますが、とってもおいしいお蕎麦屋さんです。
 大門街道沿いの茅葺きの店が目にとまります。内装はロッジ風です。なによりも素材にこだわっているようで、黒板に今日の素材の一覧表が書いてあります。そば粉の産地に始まり、有機栽培の野菜は収穫した農家の地名と名前まで書かれています。もっとも野菜の多くは自家の畑で栽培しているようです。これまた自家製の卵は、お土産に買って帰りましたが、とてもおいしかったです。
 今回食べた十割蕎麦は、蕎麦の香りが豊かで味わい深かったです。そば粉で揚げたという黒天ぷらも、新鮮な素材が生きており、食べきれないくらいの分量でした。
 お店のホームページはこちらです。

2006/01/30

自立支援医療費(精神通院)のドタバタ

 ぽん太が開業している東京都では、1月25日〜26日頃に、患者さんの自宅宛に更新手続きのための書類が一斉に送られたようです。27日は、そのことに関する患者さんからの問い合わせの電話が朝からひっきりなしで、意見書や診断書の依頼も相次ぎ、診療に多大な悪影響がありました。
 ところが問い合わせにお答えしようにも、精神科医であるぽん太の方には、東京都から何の連絡も来ていないのです。東京都からは今月の頭に文書が送られてきました。その文書は、2006年1月8日の記事東京都から医療機関宛に自立支援医療費の案内が来たにアップしてありますが、その「1ページ」には、「18年1月下旬に東京都から本人宛に申請書、お知らせ、診断書又は意見書等を送付します。医療機関にも本人への送付前に関係書類をお送りします」とはっきり書いてあります。それなのに、その後医療機関には何の文書も届いておりません。
 頭に来て東京都の精神保健福祉課に電話したところ、「すみません、今日(27日)発送する予定です」とのことでした。医者に案内をする前に、患者さんに書類を発送してどうするんじゃい。仕方ないから患者さんが持っている書類をコピーさせてもらいました。
 その他にも今回の更新手続きにはいろいろ問題があります。
 生活保護を受けているひとは、「重度かつ継続」かどうかは関係ありませんから、重度かつ継続に関する「意見書」はいらないはずなのに、書類が同封されていました。市の障害者福祉課に問い合わせたところ(こちらも大混乱のようで、なかなか電話がつながりませんでした)、生活保護でも「意見書」は必要であり、料金は福祉から出るはずだとのことでした。おかしいと思いながらも「意見書」を書いて渡したら、後から障害者福祉課から電話がかかってきて、「やっぱり『意見書』はいらない」とのこと。をひをひ、意見書料はどうしてくれるんじゃい。ぽん太の労力と時間を返せ〜!
 それから平成18年1月〜2月で32条の期限が切れるひとで、昨年の12月中に早めに更新手続きをしてあるばあい。そのときに診断書を提出してあるのに、また今回、自立支援医療費への更新のために診断書を要求されています。どういうつもりでしょうか?
 医療機関にとっても、更新のための診断書を、約2ヶ月のあいだに全部書かないといけないことになります。32条で当院に通院していた患者さんの約半分に診断書が必要となります。これは大変な労働量です。
 そもそも今回患者さんに送られた書類は大変複雑で、患者さんのご家族が読んでもよくわからないシロモノです。このようなものを患者さんに直接送りつける心理がわかりません。封を切ってそのまま放置したり、封も切らずに捨ててしまっている患者さんもいると思われます。

 更新の事務手続きだけでなく、実施後もいろいろと問題があります。
 これまで32条の患者票は医療機関が管理しておりましたが、今後は患者さんが「医療受給者証」を自己管理して診察の際に提示する形となります。患者さんがしっかり自己管理できるかどうか、あるいはさまざまな変更手続きができるかどうか不安があります。さらに月額負担上限額がある場合は、「月額負担上限額管理票」を所持し、医療機関や薬局でその都度提示して、自己負担分の料金を記入していくことになります。この「月額負担上限管理票」も忘れたりなくしたりする心配があります。
 これまで障害年金を受けていた患者さんは、手帳と32条を同時に更新するばあい、医者の診断書は不要でした。しかし今後は、更新のために医者の診断書が必要となります。その費用の患者さんの負担はばかになりません。
 障害年金を受けていないで、手帳と自立支援医療費を使う場合、手帳の診断書と自立支援医療費の診断書の両方が必要になります。費用の患者さんの負担はばかになりません。
 
 しかし考え直して見れば、これまで医者は、患者票を管理したり、さまざまな手続きのアドバイスや代行をしたりと、医療費の公費補助というお役所の仕事の一部を代行してきた面があります。医者の本来の役目は、診断書を要求されたら書くことだけです。それ以外の部分は、これからは市なり保健所なりでしっかりやっていただこうとぽん太は思っています。患者さんから書類の書き方や制度に関する質問を受けたときは、市役所に問い合わせるようにお伝えしております。今回の32条から自立支援医療費への更新手続きを行えない患者さんが出てくると思われますが、2月下旬ぐらいになったら、「これらの人たちは更新手続きができていませんがどうするつもりですか?」と市に問い合わせる予定です。
 しかし現実として、市の障害者福祉課が手続きの援助や代行を行うという仕事を引き受ける能力がないことは明らかです。現在の制度下では生活支援センターがそういった仕事を引き受けるしかないと思いますが、そのような下準備まったくなしでの今回の制度改正でした。
 ここに見えてきた問題は、意思を表明する力や判断能力が落ちて来た患者さんに代わって、もろもろの手続きや契約を行うという仕事を、どこがやるべきかという問題です。これは「権利擁護」と呼ばれる問題です。「権利擁護」と聞くと「人権擁護」を思い浮かべるかもしれませんが、まったく別のものです。「権利擁護」とは、患者さんに変わって意思を代弁したり、契約や手続きを行うことです。ぽん太は2005年12月22日の記事で権利擁護に付いて書きました(精神障害者の成年後見制度ーー権利擁護がキーワードだ!)。精神障害者の権利擁護はこれから重要になる考え方です。

 さて、このようなむちゃくちゃな制度改正に関して、市役所に文句を言うひとがいますが、市役所は都から言われた通りにやっているだけなので、文句をいっても始まりません。市役所に文句を言う意味があるのは、都の決めたことを市がやっていない場合だけです。同様に都に文句を言う意味があるのは、国(厚労省)が決めたことを都がやっていない場合だけで、今回でいえば、医療機関への案内の発送が遅れたという点です。ということで国(厚労省)に文句を言うのがひとつの方法ですが、国も法律で決められたとおりにやっているだけという面もあります。というわけで、苦情は国(厚労省)と、政党や政治家に言うのが効果があります。最近は厚労省も、各政党や政治家もホームページを持っており、ネットで意見を受け付けているので、簡単に苦情や意見を言うことができて便利です。

2006/01/24

無量寿経を読んでみたが……

 飛行機のなかではお経を読むことに決めているぽん太ですが、こんかいのギリシア旅行では「無量寿経」を読んでみました。無量寿経は、観無量寿経、阿弥陀経とともに浄土三部経と呼ばれ、浄土教の根本経典です。ぽん太が読んだのは『浄土三部経(上)』(中村元等訳注、岩波文庫、1963年)に収録されているもので、サンスクリット語からの直接訳に、漢訳とその読み下し文が付いています。
 日本で信仰されている浄土教には、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗などがあります。基本的には、念仏によって阿弥陀仏の極楽浄土に生まれ変わり成仏するという教義です。その際、自分の努力や修行によるのではなく、衆生を救いたいという阿弥陀仏の力に一切をゆだねるという「他力本願」という考え方が重要になります。浄土真宗では、南無阿弥陀仏という念仏を唱えるだけでで救われると考えます。また浄土真宗の「悪人正機」という考え方は、「善人すら極楽浄土に行けるのだから、悪人が極楽浄土に行けるのは当然である」というもので、すばらしい救いの言葉である一方、ひとつ間違えると危険な思想であることは、ぽん太は以前のブログで書きました(『歎異抄』が知られるようになったのは明治後期「悪人正機」の悪人とは我々のことである『歎異抄』における善悪を超えた境地)。
 ということで、浄土経の根本経典である無量寿経にはどのようなことが書いてあるのだろうかとワクワクしながら読んだのですが……。
 無量寿経のあらすじは、以下の通りです。

 多くの弟子に囲まれたお釈迦様は、次のような教えを説きはじめます。
 とっても昔に、ダルマーカラ(法蔵菩薩)という修行僧がいました。この僧は、すべての人々を救いたいと考え、48(あるいは47)の誓願をたてました。それらは要するに、「すべての人々が信心を起こし、私の国に生まれ変わって救われるのでなかったらば、私は決して最高の正しい覚り(正覚=しょうがく)を覚ることがないように」というものでした。
 で、どうなったかというと、実はその誓願は既にかなっているのであり、ダルマーカラは無量寿仏(阿弥陀仏)という名前で西方の極楽浄土という国にいらっしゃるのです。ということは、すべての人が極楽浄土に生まれ変わって救われることは、もうすでに決まったことになります。
 お釈迦様は極楽浄土がいかに美しくすばらしい世界であるかを語ります。しかし一方で現実世界では、人々は欲にとらわれ醜い争いを続けています。信心を起こして極楽浄土に生まれ変わることを願うよう説きます。
 弟子一同、お釈迦様のありがたい教えを聞いてそれぞれに覚りを得、大喜びしたところで終了。

 なんと。「他力本願」だの「念仏」だの「悪人正機」だのといったことは、ちっとも書かれてないではないか。してみるとこれらの考え方は、法然や親鸞が無量寿経の本質を取り出して創った考え方なのでしょう。
 たとえば「念仏」の根拠は、第18願と呼ばれる誓願のようです。こちらの西本願寺のページによると、第18願は、「阿弥陀仏が『われを信じ、わが名をとなえるものを必ず仏にするぞ』と誓われた願い」であるとされています。この「わが名をとなえる」という部分は、康僧鎧(こうそうがい)の漢訳では「乃至十念」で、これを十回念仏を唱えると解釈しているわけです。しかしサンスクリット語からの直訳では、第18願は次のようになっています。
 「世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、他の諸々の世界にいる生ける者どもが、<この上ない正しい覚り>を得たいという心をおこし、わたくしの名を聞いて、きよく澄んだ心(信ずる心)を以てわたくしを念(おも)いつづけていたとしよう……」(38ページ)。
 ここで「念(おも)う」というのは、「心に思い浮かべる」ということであって、「名前をとなえる」という意味ではありません。では、これは誤読なのでしょうか?ぽん太にはわかりませんが、積極的な読み替えと考えたい気がします。

2006/01/22

【ギリシア旅行】デルフィは精神科医の聖地だ

PC300096 デルフィの遺跡はぽん太が行きたかったところのひとつです。写真はアポロン神殿の全景です。
 フロイトの概念のひとつにオイディプス・コンプレックス(エディプス・コンプレックスともいいます)があります。これは、母親に対して性的欲望を抱き、父親に対して嫉妬と敵意を覚えるというもので、精神分析のキー概念のひとつです。このオイディプス・コンプレックスという考え方が正しいかどうかは議論のあるところですが、フロイトの精神分析が精神医学に大きな影響を与えたことは確かでしょう。
 ではなぜ、母親に性的欲望を抱き父親に嫉妬と敵意を覚えるというコンプレックスが、オイディプス・コンプレックスと呼ばれるかというと、ギリシアのオイディプス王神話に基づいています。フロイトは1897年10月15日付のフリースへの手紙で次のように書いています(ジェフリー・ムセイエフ・マッソン編『フロイト フリースへの手紙1887-1904』誠信書房、2001年、アマゾンへのリンクはこちら)。「僕は母親への惚れ込みと父親への嫉妬を僕の場合にも見つけました。そして今や僕はそれらを、たとえ必ずしもヒステリーにされた子どもの場合ほどに早い時期ではないにしても、早期幼児期の一般的な出来事とみなしています……もしそうなら、悟性が運命という前提に対して唱えるあらゆる異議にもかかわらず、エディプス王の持つ人の心をとらえる力が理解できます……このギリシャの伝説は、誰もがその存在を自分のなかに感じたことがあるので誰もが承認する一つの強制を取り上げます。聴衆の誰もがかつて萌芽的には、そして空想のなかでは、そのようなエディプスだったのです」(284ページ)。
 オイディプス王の伝説は次のようなものです。

 テーバイの王ライオスは、自らの子供によって殺されるという神託を受けます。そこでライオスは、妻イオカステとの間にできた男児を山のなかに置き去りにするよう命じます。しかしその男児は羊飼いによって拾われてオイディプスと名付けられ、コリントス王の子供として育てられます。成長したオイディプスは、自分が本当にコリントス王の息子かどうか疑いを持ち始めます。オイディプスはそのことで神託を受けようとしますが、下された神託はその答えではなく、「父を殺し、母と交わるであろう」というものでした。コリントス王を実父と信じるオイディプスは、神託の実現を恐れて旅に出ます。ところが旅の途中で出会った老人といさかいになり、オイディプスはこの老人を殺してしまいます。実はこの老人はオイディプスの実の父親のライオス王だったのですが、オイディプスはそのことを知りません。そのころテーバイは、スフィンクスという怪物によって悩まされていました。旅人に謎をかけ、答えられないと食べてしまうのです。その謎とは、有名な「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足、な〜に?」というヤツで、オイディプスが「人間!」と正解を答えるとスフィンクスは自殺してしまいました。こうしてオイディプスは実の母であるイオカステと結婚してテーバイの王となるのですが、二人が実の母子であることはもちろん二人とも知りません。しかしそれ以来テーバイは疫病と不作に苦しめられるようになります。その原因を探る過程で、オイディプスは、神託どおり自分が父を殺し母と交わったことを知ります。真実を知ったオイディプスは、自ら目をつぶして盲目となり、テーバイから追放されるのです。

 オイディプス王の伝説に関しては、ソフォクレスのギリシア悲劇「オイディプス王」が有名です(『ギリシア悲劇2』ちくま文庫、1986年。アマゾンへのリンクはこちら。本書には続編の「コロノスのオイディプス」も入っていてお得です)。テーバイの王であるオイディプスが、真実を知ってテーバイを去るまでが描かれています。
PC300099 さて、オイディプス王の伝説のなかに何回か神託の話が出てきますが、この神託を受けたのが、当時はデルポイと呼ばれていたデルフィのアポロン神殿なのです。ピュティアと呼ばれる女司祭がアポロンの声を聞き、神託を伝えたそうですが、一説にはピュティアがトランス状態で声を発し、それを神官が通訳して神託として伝えたともいわれています。写真はピュティアが神託をおこなった場所であり、神殿の一番奥に位置し、冒頭の写真でいうと右下のあたりになります。
PC300082 デルフィは「世界の臍」と呼ばれて栄えていたそうです。これがその臍で、神殿のなかで見つかったそうです。たしかに「オイディプス王」にも、「大地の臍(ほぞ)より出た神の宣告を」(『ギリシア悲劇2』325ページ)という表現があります。
 『地球の歩き方』によると、オイディプスがライオスを殺した三叉路と言われている場所が、テーベ(昔のテーバイ)からデルフィに行く途中にあるらしいのですが、残念ながらどこだかよくわかりませんでした。

 またデルフィというと、ぽん太はドビュッシーのピアノ曲「デルフィの舞姫」を思い出します。「前奏曲集 第1巻」の第1曲です。ちなみにぽん太は、ミケランジェリの演奏が好きです(ドビュッシー:前奏曲集第1、2)。ドビュッシーは、ルーブル美術館で見た古代ギリシアの彫刻からインスピレーションを得て、この曲を作ったと言われています。この曲は1909年から1910年頃に作曲されたものですが、デルフィがフランス人によって発掘されたのは1896年ですから、「デルフィの舞姫」という題名は当時は新鮮なものだったのでしょう。デルフィで発掘された舞姫の彫刻が本当にルーブル美術館にあったのかどうか、そしてそれをドビュッシーが見たのかどうかは、ちょっと調べてみましたがわかりませんでした。

2006/01/12

リチャード・クロッグ『ギリシャの歴史』と桜井万里子編『ギリシア史』を読む

 正月にギリシア旅行をしてきたぽん太は、以前の記事に書いたように、ギリシアの歴史に疑問を持ったのです。
 すなわち、ギリシアは約400年間オスマントルコに支配され、地理的にはバルカン半島の南端にあり、トルコなどのイスラム圏に接している。それなのにギリシアは西洋諸国に属している。また、長年トルコに支配されていながら、現代のギリシア人の95%はギリシア正教であり、モスクやイスラム建物がない。
 そこでぽん太は近くの本屋にあった、リチャード・クロッグ『ギリシャの歴史』(高久暁訳、創土社、2004年)(アマゾンへのリンクはこちら)を買ってきて読んでみました。残念ながらこの本は18世紀後半以降しか扱っていませんでした。また細かいところはぽん太には理解しきれませんでしたが、それでもとてもおもしろかったです。
 またもう一冊、桜井万里子編『ギリシア史』(山川出版社、2005年)(アマゾンへのリンクはこちら)もネットで購入して読んでみました。こちらは古代から現代に至る通史ですが、前書よりは学術度が高く、やや読みにくいです。

 いくつか興味深かった点を挙げてみたいと思いますが、その前に基本的な年代を確認しておきましょう。
 ギリシアはビザンチン帝国(東ローマ帝国)に属していましたが、オスマントルコがビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを陥落させたのが1453年。その後、ギリシアは基本的にはオスマントルコの領土となります。その後長い年月を経て、ギリシアの民族運動が出現したのが18世紀後半。ギリシアがいつ独立したとするべきかぽん太はよくわからないのですが、1830年のロンドン議定書と考えてよいのでしょうか?

 まずいわゆるギリシア人が、自分たちが古代ギリシア文明の継承者だという自覚を持ったのは、やはり最近のことであって、オスマントルコ時代にはほとんど見られなかったそうです。18世紀後半から19世紀前半にかけて、西洋では古代ギリシャ文明の崇拝熱が高まり、それが外部からギリシアに輸入されたのです。建国間もないアメリカ合衆国では、古代ギリシア語を公用語にしようという動きさえあったそうです(『ギリシャの歴史』5ページ)。当時のフランス在住のギリシア人思想家コライスは、ギリシア人の古代ギリシアへの回帰を説き、ギリシア古典を次々と出版しましたが、そうした本がギリシアに持ち込まれたそうです(『ギリシア史』274ページ)。ギリシアを西洋文明の起源と見なすこのような考え方は今日でも続いており、1980年にイギリスの外相は、ギリシアのEC加盟を擁護して、「今日のヨーロッパの政治・文化があるのはすべて三千年前のギリシャの遺産のおかげだ。ギリシャの加盟はそのギリシャへの恩返しになる」と述べたそうです(『ギリシャの歴史』6ページ)。
 やはりギリシアが「西欧」に属しているのは、ワケアリだったようです。
 とはいえギリシアは、歴史的にさまざまな民族、さまざまな国家が現れたところであり、6世紀から7世紀にかけてスラブ人が侵入・定住したという事実もあり、ホントに現代のギリシア人が古代ギリシア人の末裔なのかという議論もあるそうです(『ギリシア史』167ページ)。

 さて、時代は遡ってオスマントルコによるギリシアの支配ですが、オスマントルコが武力で強引にギリシアを支配したというようなものではなく、一定の権利と自治が与えられていたようです。ビザンチン帝国の末期、ルカス・ノタラス大公は、都にカトリックの大司教の冠がはびこるよりも、トルコ人のターバンがはびこる方がましであると述べたそうです(『ギリシャの歴史』13ページ)。
 『ギリシャの歴史』によると、オスマントルコはミレット制と呼ばれる統治法をとっていたのですが、それは宗教による分割統治であり、その実態はほとんど自治に近かったそうです。ギリシアはオスマントルコ支配下でも、ギリシア正教の信仰やギリシア語の使用が認められました。『ギリシア史』でも、旧ビザンチン帝国の臣民が強制的にムスリム化されたという記録はないと述べていますが、いわゆるミレット制の存在は否定し、ムスリム優位のもとでキリスト教徒の共存が許されるというズィンミー制度によるとしています。といはいえ、不平等に耐えられず、イスラム教に改宗するキリスト教徒も多かったそうです(『ギリシャの歴史』18ページ)。
 さて、ぽん太の疑問のひとつは、なぜギリシアにはモスクやイスラム建築がないのか、ギリシア正教徒がほとんどを占めるのかというものでした。
 いくら自治が認められていたとはいえ、当然ギリシアに住み着くムスリムもいたはずだと思います。オスマントルコ支配下のアテネは、寂れた寒村だったそうなので、たまたまアテネにはイスラム建築がなかっただけで、ほかの都市にはあるのをぽん太が知らないだけなのかもしれません。また独立後ギリシアが、イスラム建築を破壊したという考え方もできますが、そのような記述はどちらの本にも見当たりませんでした。宗教に関しては、ギリシアの国土が確定していく過程で、何度かギリシアとトルコで宗教に基づく強制住民交換が行われたそうなので、それによってギリシア正教以外の人たちが減ったのかもしれません。

 結局真相はわかりませんでしたが、そろそろ飽きて来たので、この問題に関するみちくさはこの辺にして、巣穴に戻りたいと思います。
 ただ考えてみると、民族、宗教、言語、国家が複雑に入り乱れたバルカン半島の先端で、ギリシアがほとんど単一民族、単一宗教であるということは奇跡だとぽん太は思いました。

2006/01/11

【ギリシア旅行】広場恐怖(Agoraphobia)の広場とは?

 精神医学に広場恐怖という病名があります。広場恐怖の概念は、米国精神医学会の疾病分類であるDSM-IV(ご購入はこちら)と、WHOの分類ICD-10(ご購入はこちら)とでは若干異なっていますが、DSM-IVに従えば、「パニック発作またはパニック様症状が予期しないで、または状況に誘発されて起きたときに、逃げることが困難であるかもしれない(または恥ずかしくなってしまうかもしれない)場所、または助けが得られない場所にいることについての不安」とされています。典型的な状況としては、「家の外に一人でいること、混雑の中にいることまたは列に並んでいること、橋の上にいること、バス、汽車、または自動車で移動していることなど」が挙げられている。
 これを昔読んだとき、ぽん太は思ったのである。「これのどこが広場やねん!」
 「家の外に一人でいる」というのは広場っぽいが、「自動車で移動している」などというのは広場っぽくない。この「広場恐怖」という言葉は、英語のagoraphobiaの訳なのだが、どうせ訳が悪いんだろう。だいいちいまどき「汽車」などと平気で訳すことが、翻訳センスのなさを示している。そう思って、それ以上追求しないで放置していたのである。

 で、こんかいギリシアを旅行したら、そのアゴラagora(ギリシア語のスペルではαγορα)があったのである。

PC290068  これがそのアゴラ(αγορα)です。アテネ市内のオモニア広場の南にあります。見てわかる通り「広場」ではありません。これは「市場」です。年末の買い物客で賑わっていました。バスの車内からの撮影なので、窓ガラスの反射はご容赦ください。ということは、agoraphobiaは市場恐怖か?

 しかしアテネにはほかにもアゴラがあるのです。
PC290063 古代アゴラと呼ばれる、古代ギリシア時代のアゴラで、パルテノン神殿があるアクロポリスの北西に広がります。広場っぽく見えますが、建物が崩れているせいであり、けっしていわゆる広場ではありません。実はここも市場でした。当時買い物は男の仕事だったそうです。しかし古代アゴラは単なる市場ではなく、政治、宗教の中心であり、劇場などの文化施設を備えた情報交換の場であって、ソクラテスやプラトンもここで弁舌を振るっていたのだそうです。つまり古代アゴラは市場、社交場、人混みであり、そう考えるとagoraphobiaの意味としっくりきます。

 実はアテネにはもうひとつアゴラがあります。ローマ時代初期(紀元前1世紀〜紀元後2世紀)の「ローマン・アゴラ」で、アクロポリスの北、古代アゴラの東にあります。1世紀の天文学者アンドロニコスが建てたという風の神の塔もあります。ぽん太も見学したのですが、写真を撮らなかったので、写真を見たい方はこちらをどうぞ。

 こちらのオンライン希英辞典(ギリシア語/英語辞典)でagora、すなわちαγοραを引いてみると、こちらに書かれているように、agoraの意味は「民衆の集会」(assembly of the People)、「集会場」(place of assembly)、市場(market-place)などです。いわゆる「広場」(=広い場所、open space)という意味はありません。

 結局agoraphobiaは「人の集まる場所恐怖」であり、言ってみれば「人混み恐怖」といった感じでしょうか。

2006/01/08

東京都から医療機関宛に自立支援医療費の案内が来た

 東京都福祉保健局から、ようやく医療機関宛に自立支援医療費の案内が来たので、皆様のためにアップしておきます。ただぽん太はパソコンに詳しくないので、デジカメで撮ったものをpdfファイルに変換したので、読みにくいと思いますがご容赦を。

1ページ2ページ資料1資料2


 資料1に書かれた所得区分や、重度かつ継続の範囲は、ぽん太が2005年12月18日の記事で書いたのと変わっていないようです。

 制度の改正にあたっての手続きに関して、かなり具体的に書かれています。ポイントをあげましょう。
1.32条の有効期限が、平成18年1月〜3月までに切れるひと。
 1月下旬に、本人宛に新様式の申請書が送られてくるので、それを待って更新手続きをするのがいいようです。
2.32条の有効期限が、平成18年4月以降まであるひと。
 1月下旬に、本人宛に申請書などの書類が送られてくるので、それを使って3月までに更新手続きをする必要があります。
3.これまで医療機関が患者票を預かっていましたが、今後は患者さん自身が「医療受給者証」と、場合によっては「月額負担上限額管理票」を携帯し、医療機関や薬局で提示する形になるようです。
4.これまで32条では、住民税非課税者に対して、東京都が独自に5%の補助をしていましたが、4月以降に関しては、住民税非課税世帯について補助を検討中とのことです。詳細は不明です.
5.自立支援医療費の制度は、指定を受けた医療機関、薬局、訪問看護ステーションでしか使えなくなりますが、当面は、現行の32条を利用している機関が「みなし指定医療機関」となり、平成18年4月から19年3月までの間に、本指定の手続きが行われるようです。その際、指定機関となるための条件に関しては、書かれていません。

2006/01/07

【ギリシア旅行】地中海クルーズは、屋形船の宴会の雰囲気だった【トリビア】

P1010139 地中海クルーズといえば……
P1010162青い海に白い雲、地中海の島々の美しい町並み、デッキで楽しむトロピカルカクテルといった、ロマンチックで優雅なイメージを思い浮かべるが……。

 その実態はまるで屋形船の宴会であった(へ〜え、へ〜え)。

 はい、確かにぽん太が体験した地中海クルーズの雰囲気は、屋形船の宴会でした。それはぽん太が撮ってきた以下の写真でも明らかです。
 ちなみにぽん太がこんかいツアーで利用したワン・デイ・クルーズは、ピレウス港→ポロス島→イドラ島→エギナ島→ピレウス港というコースでした。

P1020172 ぎっしり詰め込まれたラウンジは日本人でいっぱいです。
P1020174 マイクを持って現れたのは司会のヨーコさん。「九州を離れて31年!すっかり浦島になりました」。だみ声の名調子で会場を仕切ります。滑稽な語り口にお客さんは大爆笑です。
P1010137 ラウンジでぼーっとくつろいでいるお客さんを見て、ヨーコさんの声がかかります。「あら、みなさん。何しているの?お買い物しなくちゃ。店員さんが暇そうにしてるでしょ。荷物は座席に置いておく。財布は持って行ってちょうだいね〜」。ヨーコさんの煽動で、ハリハリだかフォリフォリだかの免税店に群がる女性陣です。
P1010147 ショータイムには、いきなり掃除婦の仮装をしたおじさんのダンスです。ここは上野の花見の宴会か!静かな海の旅を期待していたぽん太は、混雑と騒音でぐったり疲れきってしまいました。


高橋ぽん実「ちなみにぽん太の妻のにゃん子も、はりはりで時計を買っていました」


P1010154 とはいえ、地中海の島々の風景はまるで雑誌のグラビアのようで、とても美しかったです。今回の船が混んでいたのは、直前の2、3日が荒天で船が欠航していたので、客が集中したせいかもしれません。またクルーズ船によっても雰囲気が違うと思いますので、誤解のないようにお願いいたします。また、道化役に徹するヨーコさんのプロ根性には、ある意味感動したことも付け加えておきます。

2006/01/06

【ギリシア旅行】ギリシアは約400年間トルコだった【トリビア】

PC290048 ぽん太とにゃん子は正月にギリシア旅行をしてきました。
 HISの添乗員付きツアーで、アテネ市内観光(アクロポリスなど)→デルフィ→メテオラ→エーゲ海クルーズ→再びアテネ、というコースで、なかなか楽しかったです。
 今回の旅行で、これまでぽん太が抱いていたギリシアに関する知識やイメージが、いろいろと間違っていたことがわかりました。ギリシアに行ったことがある人や、ギリシアの知識がある人には常識なのでしょうが、ぽん太にとっては衝撃的な事実でした。

 では最初のトリビアです。

 ギリシアといえば、ソクラテスやプラトンなどの哲学者や、数学者ピタゴラス、あるいは民主政治の始まりなど、西欧文明発祥の地として有名ですが……。実はギリシアは、約400年間……トルコだった。(へ〜え、へ〜え)

 はい、確かにギリシアは、約400年間トルコでした。それは、例えばこちらのページに出ています。
 プラトンやアリストテレスで有名な古代ギリシアは、紀元前5世紀に起きたペロポネソス戦争をきっかけに国力が衰え、マケドニアやローマ帝国に支配されました。そして紆余曲折のすえ、1453年に東ローマ帝国がオスマン・トルコに滅ぼされたことに伴って、ギリシアはオスマン・トルコの支配地となりました。トルコによる支配は、1829年に独立が承認されるまで、約400年間続きました。その間ギリシアは、確かにイスラム教のオスマン・トルコの一部でした。

 高橋ぽん実「ちなみに私も、一時トルコに入り浸っておりました」

 トルコ支配下のギリシアは、ギリシア語による教育が禁止され、文化も衰退し、人口も減少して悲惨な状態だったようです。トルコ支配下のギリシアがどんな状態だったのか、みちくさしてみる余地があります。
 地理的に見てもギリシアはバルカン半島の最南端にあり、現代では北側にアルバニア、マケドニア、ブルガリアなど旧社会主義国が広がり、東にはトルコ、地中海を挟んで南にはリビアやエジプトなど、イスラム教国に囲まれています。
 またギリシアの文字のアルファベットは、西欧のいわゆるアルファベットよりも、ロシアで使われているキリル文字に似ています(ギリシア文字は例えばこちら、キリル文字は例えばこちらをどうぞ)。ぽん太は語学は苦手ですが、ギリシア語の発音は、東欧の言葉に似ているような気がしました。また音楽や踊りも東欧と似ています。
PC300101 ギリシアコーヒーです。コーヒーの粉に砂糖を加えて煮て、カップに注ぎ、粉が沈んだところでいただきます。え?それってトルココーヒーじゃないの?(トルココーヒーの作り方は例えばこちら)。確かに作り方は同じようですが、ギリシアではギリシアコーヒーと呼び、間違えてもトルココーヒーと呼んではいけないようです。長い間トルコに支配されていたギリシアには、トルコに対する特別な感情があるようです。で、ひょっとしたらこの感情を、西欧諸国も共有しているのではないでしょうか?
PC300080 デルフィ博物館にあるクーロス像ですが、髪型や表情、片足を踏み出したポーズなど、明らかにエジプト文明の影響を受けています。ちなみにエジプトでは、片足を前に出した彫刻は、その人が生きていることを表します。現在、地球上ではキリスト教国とイスラム教国が対立していますが、このようにギリシア文明もエジプト文明の影響を受けています。また以前の記事で書いたように、旧約聖書のノアの方舟の紀元もメソポタミア文明にありました。だからといってぽん太は、東洋の方が西洋より偉いいと言いたいのではありません。古代においても東洋と西洋の文明の交流があり、互いに影響を受けていたのだから、現代において両者が対立するのは無意味であり、互いに相手の文化を認め、共存していくべきだと言いたいのです。
 現代のギリシアの宗教は、人口の95%以上がギリシア正教だとのことです。ちなみにギリシア正教は東方正教会とも呼ばれ、日本にも主にロシア経由で伝わって、各地に教会があることを以前の記事で書きました。待てよ。長年イスラム教国に支配されていたのなら、その時代にイスラム教に改宗した人が大勢いたはずだけど、その人たちはどうなったのだろうか?また、トルコ時代にイスラム教のモスクがたくさん造られたはずなのに、ぽん太はギリシアでモスクをひとつも見かけませんでした。トルコから独立後に、ギリシア人はモスクをすべて破壊したのでしょうか?だとすると、それもまた歴史と文化の破壊ではないでしょうか。ここもみちくさしてみる必要がありそうです。

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