医王寺と松尾芭蕉
前回のブログで、松尾芭蕉が飯坂温泉に泊まった話を書きましたが、その日の昼に芭蕉一行が訪れていたのが医王寺です。
医王寺は飯坂温泉のやや南にあります。公式ホームページはなさそうですが、福島交通株式会社のこちらのページが比較的詳しいようです。
で、この医王寺がなぜ有名なのかというと、佐藤継信・忠信兄弟の墓があるからです。
で、彼らは誰かというと、藤原秀衡のもとにいた源義経が旗揚げをし、鎌倉の頼朝のもとに向かったとき、秀衡の命で義経に付き従った兄弟です。彼らは目覚ましい活躍で義経を支えましたが、結局は二人とも討ち死にしてしまいます。ほら、昨年の大河ドラマにも出てきましたよね。
松尾芭蕉は「おくのほそ道」のなかで「またかたはらの古寺に一家の石碑を残す」(『おくのほそ道』角川文庫、1967年、25ページ)と書いていますが、この「古寺」が医王寺です。さらに「寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀・弁慶が笈(おい)をとどめて什物とす」と書き、「笈も太刀も五月に飾れ紙幟(かみのぼり)」という句を残しています。ちなみに笈とは、山伏が旅をするときに背負う箱です。たとえばこちらのサイトに笈の写真と解説があります。
『おくのほそ道』に書かれた笈は、医王寺の宝物館にあり、いまでも実際に見ることができます。ところがこの笈は弁慶のものではなく義経のものだそうです。そして太刀はなく、代わりに弁慶が写経したお大般若経があります。実際にあったのは義経の笈・弁慶の写経なのですが、それを芭蕉が義経の太刀・弁慶の笈としたのは、間違えたのではなくフィクションでしょう。笈と太刀を五月の節句の飾り物として晴れ晴れしく飾り、その武勇を伝えよ、という発句に見事につながって行くのです。そしてこの句のあとに、前回のブログで引用した「五月朔日(ついたち)のことなり。その夜、飯塚に泊まる」という文が来ます。本当は5月2日のことだったのですが、歯切れよく5月1日と言い切ったのも、間違えたわけではなく、文章に勇ましさと爽快感を与えるためでしょう。
ところで義経と弁慶といえば、先日、勧進帳で有名な安宅の関をみちくさしてきました。その話はまたあらためて書くことにしましょう。
最近のコメント